刑法(刑事司法)の耐え難い状況

シュペー『刑事裁判官への警告』を読む〔31〕

宮本教授希望を育てる闘い

(その3)

 

宮本 弘典関東学院大学 法学部教授)

 

ニホンの刑事裁判は、権威主義国家の自白裁判のモードを脱却しえていない。それは構造的に冤罪誤判を生出す裁判のモードである。政治支配や道徳原理に抵抗し反逆する「非国民」を裁くため、非常時の例外犯罪に対する特別な手続として、思想的総力戦体制下で再編された刑事裁判、そのような圧政下の権威主義的裁判が、現在のニホンの刑事裁判にそのまま引継がれ強化されている。そもそもニホンの刑事裁判は、自由主義国家や民主主義国家において実践されるべき裁判の態をなしていないのだ。だからこそ、迎賓館・横田事件の歴史そのものが、司法のスキャンダルとして問題ともされないわけである。

戦後一貫して、私たちがこういう刑事裁判の在り方を許してきたのは、決定的にはファシズム暴力に対する反省の欠如に起因する。ファシズムの理念ないし極致は、治者と被支配大衆という被治者の(意思の)一体化に求められる。そうであれば、戦前ファシズムの酷さを言い募るほどに、それはファシズムの完成度の高さを意味することになり、私たちがファシズムの被害者であると同時に、その加担者.・当事者でもあったことを意味する。そうした民衆・大衆の責任の自覚の下に、日本国憲法を闘いの手段として自由と民主主義を実現しようとするとき、果たして現在のような刑事裁判を許すことがありえたろうか。筆者が、「日本の刑事裁判の戦後はまだ始まっていない」というのは、刑事司法において、ファシズム体制との訣別を改革の契機とすることができていないからである。

つづく