ボブ・ディランは「レコード会社がロックの作り方を理解したことによってロックは終わった。」(概略)と言ったそうだけど、これはまあ間違いなくそうだと思う。
民衆、若者といった「下から」支持される価値あるものの仕組みが(世俗権力側・体制側に)分かられていないから、創作者たちは「自主的に自由に」やることが出来、体制側もそれを「承認・追認」するしかなかった。
だがそれが“すっかり様式化”して、「形さえ同じようにすれば同じもの」ということになれば、誰でも同じ模造品を作れる。日本でいえばその理由で批判されたのが90年代のビーイング系。当時の自作自演音楽一般よりも巧緻精密に出来ていた。英米のロックにも同じことが起こったということだ。それが、渋谷陽一云うところの“産業ロック”なるものだったかもしれない。ただ、様式模倣だから(プログレハードだからダサい悪いetcという具合には)ジャンル形式は問われないものであるはずだ。仏作って魂入っていなければ、それであろう。
問題は日本(の音楽)だが、「英米で、自由で自主的な音楽(とりあえず、ロックとする)が起こった」として、日本でも、それが必ずや、英米の影響として、“歴史的必然として”当たり前のように起こり得たのか?ということで、実は決してそんなことは無いのである。
「日本のロック(的表現)は(最初から)自由であったのか?」日本では、ロックの模倣自体は学生らによって自主的に行われたかもしれないが、「(その)マーケットが自然発生的・自主的に成立した」訳ではない。
日本でロックは(日劇ウエスタンカーニバル当初の自主性については一定程度認めるがそれはひとまず措いて)、まずベンチャーズ、ビートルズの模倣としての和製音楽ジャンル”GS”として企図されたが、それには既存歌謡芸能資本の操り糸が付いていて、「大人たちが」「商業的打算の発想で」「女子供に受けの良い(疑似的なロックの)マーケット」を作って儲けようと算段したもので、全然自由ではなかった。要するに本質が異なる。(全然自由で無かった点については、加藤和彦がフォーク・クルセダーズ解散後、サディスティック・ミカ・バンド結成までの期間、特に親しく交遊した元フィンガーズ、成毛滋が芸能界から受けた仕打ち、処遇がその好例と言える。ちょっと調べてみるとよい。)
ところが、そんな「(根底の部分で) 本物とは似ても似つかない模造品のマーケット」とは違うところから出て、たちまちのうちに一般リスナーの支持を得、大きな売り上げも達成した音楽があった。これが、加藤和彦のフォーク・クルセダーズであった。1967年末のこと。(リリースとしては概ね1969年まで)
忘れられがちな点について強調しておくと、フォーク・クルセダーズは「秦政明というプロモーターのアート・プロモーションという会社」が企画する関西のフォークコンサートの常連で主力だった。
ところで「関西のフォークムーブメント(の“中の人”)」も、必ずしも一律、一枚岩ではなく、ある程度の多様性がある。後のURC/アート音楽出版の(反体制色を帯びた)高石ともや、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司など「(いわゆる)関西フォーク」と“フォークル”とはやや毛色を異にする。微妙に違う。一方、アリスの前身のロック・キャンディーズや、ハイファイセット、紙ふうせんの前身の赤い鳥、杉田二郎のジローズなども「関西の」「フォーク」であり、フォークルは両派と接点を持ち得る人的音楽的立ち位置にあった。
が、そのせいか、加藤和彦、フォーク・クルセダーズと、URCレコード/アート音楽出版とは「関係のないもの」と(音楽に通じている人たちからも)考えられがちなのだが、関係ないどころか、フォークルメンバーの初期楽曲はみなアート音楽出版の管理楽曲であって、フォークル最初の自主制作アルバム『ハレンチ』には(名目上かもしれないが)秦政明の名前がプロデューサーとしてクレジットされている。フォークルが爆発的に売れたために秦の会社に大金が入ったこと、フォークル二枚目のシングル「イムジン河」が発売中止になったこと、メジャーで売り出しをかけにくい高石ともや、岡林信康etcがアート音楽出版/高石事務所の主力であったことがURCレコード誕生の直接の理由、原因なのだ。(これらを支持する文化人、音楽関係者も少なからずいた)そして加藤和彦、きたやまおさむはURCレコードで”ディレクター”(今でいうプロデュース)業務をやっている。ジャックスの早川義夫などもだ。
やがてフォークルメンバーたちはURCと疎遠になるが、当初は「一体にも近い関係」であった。URCレコードはアートプロモーションの主力三組、高石ともや、フォーク・クルセダーズ、ジャックスと“親和性の高い”、何らかの共通項を持つ歌手、ミュージシャンを世に出したと言ってよい会社だったのである。
自分がいわゆる“はっぴいえんど史観”(はっぴいえんどが日本のロック的表現もろもろすべての元祖という説)を否定するのも、そもそもはっぴいえんどはフォークル、岡林信康、中村とうよう、小倉エージ・・・といったURC周りの人たちがそこにいなければ、おそらくバンドとして存在感を示し得る可能性はかなり薄かったと見ているからなのだ。『ゆでめん』相当の内容のアルバム一枚ならおそらく当時でも他社でリリース出来た可能性はあるものの『風街ろまん』の完成度への到達は到底不可能だったに違いないと考える理由があるのである。そしてURCレコードは、(繰り返しになるが)フォーク・クルセダーズの登場・成功が無ければ設立される可能性がそもそも無かったレコード会社なのである。
実は上記した内容だけでも加藤和彦の影響力をごく小さく限った表現に止めている。様式化された音楽形式としてではない日本のロック(※フォーク含む)が始まり、向こう10数年ほど(80年代のどこかまで)の間、表現者による自主性・自由が、「ある程度まで実現出来た」こと自体がフォーククルセダーズの存在があったことに依拠しているからだ。
※フォーク含む/「そもそも(ロックンロールとは異なる)ロックとは」、ビートルズとボブ・ディランの邂逅に象徴される(アニマルズ、ザ・バーズが早いという説もアリ)中村とうようの考えた概念ニューミュージックのことでもあり、”知的ではない/どちらかといえば当時としては野蛮でエロいダンスミュージック”のロックンロールと、インテリ多数の背景を有するフォークロア/民俗学考現学としてのフォーク(民謡)楽曲収集紹介に発端したフォークとの混交、一体化が端緒となって、ブルースをはじめ様々な音楽ジャンルを続々併呑して形式上の制限を持たない音楽表現となり得た一時期を最盛期とするものだから。逆に「様式が規定する音楽性」に先祖返りしたことによって(産業として聴き手に飽きられるまで無限に再生産が可能な商品となって)、ロックは死んだ(終わった)のだとも思われる。それはロックの中にある「フォークの要素(知的人文要素)」をロック側が否定し出したことに始まろう。
重要なのは、ポピュラー音楽もまた、社会や政治、歴史(現代史)と不可分な関係にあるということ。ジャズ、フォーク、ロックはアメリカの世紀の(アメリカが、世界第一の覇権国家である歴史的過渡的一時期に於ける)文化の爛熟を示す/アメリカの人文的価値観の発揚の一形体だということ。それは特にビリー・ホリデイの「奇妙な果実」ウディ・ガスリーの「我が祖国」などが生まれた1930年代頃から(単にどこにでもある流行歌の枠を超えて)顕著になる。ニーナ・シモン、ボブ・ディラン、サム・クックの代表曲はそれらの後継という面がある。
そして社会に於ける価値とは体制⇔反体制、保守⇔革新、自由主義⇔社会主義のような「単純二項対立の世界」では必ずしもないことを知るのも重要な点。「体制反体制図式化」はただの権力資本資源の奪い合いである。(男女、黒人白人も同じ。) 反体制側が体制にとって代わろうとする下克上(逆も然り)なわけである。これらは共に、現世的世俗的な金や権力の争奪合戦の勝利者たるを最上位の価値とする人間的浅ましさに由来している。だから「様式化された形」だけを真似ても、人文表現としての側面では同じものにはならない点を忘却してはならないのだ。社会的、あるいは表現者の表現の主体としての背景たる思想、スタンス、アティチュードが重要になるのはそのためである。
各時代に於いて文化を先導してきたもの・・・純文学、映画、音楽、以後はお笑い、現在はYouTuberなどネットVJが担うソレ・・・かつてフォーク歌手、ミュージシャンが担ったモノを今はお笑い芸人が担っているのだろうという慧眼を示したのもフォーククルセダーズメンバーきたやまおさむ氏の言であった。
ただこれ以上は別の話になるから、フォーククルセダーズ、加藤和彦の登場は、単なる音楽的才能の登場、音楽の送り手、聴き手のレベルを一定の高みにまで引き上げる牽引役に止まるものではなく、日本に於いて、ある一定期間、音楽のあり方の(文化的)前提、社会的影響力の大きさ深さそのものを大きく変えたとてつもない出来事のきっかけだったというのに止めておきたい。今よりずっと、音楽に関わる人たちが社会に於いて独立的足り得た時代が、あったのだ。
(ちなみにこの独立とは、産業規模、経済効率の大小には比例しない。CDバブル=自由ではない。物みな万事に適正規模というものがあるということだ。日本が先の大戦で負けた一番の理由は「適正規模の戦争を超過したため」に違いなく。)
加藤和彦の音楽キャリアの適正な再評価とは、日本のポピュラー音楽史全体の適正な再評価と同義、その前提と言って過言でないことだが、実際のところそれは(故・高橋幸宏が嘆じたことからわかるように)今やっと端緒についたばかりといった段階なのである。そのくらい、既存の音楽評論、音楽史というものの内容は疑わしいのだ。
民衆、若者といった「下から」支持される価値あるものの仕組みが(世俗権力側・体制側に)分かられていないから、創作者たちは「自主的に自由に」やることが出来、体制側もそれを「承認・追認」するしかなかった。
だがそれが“すっかり様式化”して、「形さえ同じようにすれば同じもの」ということになれば、誰でも同じ模造品を作れる。日本でいえばその理由で批判されたのが90年代のビーイング系。当時の自作自演音楽一般よりも巧緻精密に出来ていた。英米のロックにも同じことが起こったということだ。それが、渋谷陽一云うところの“産業ロック”なるものだったかもしれない。ただ、様式模倣だから(プログレハードだからダサい悪いetcという具合には)ジャンル形式は問われないものであるはずだ。仏作って魂入っていなければ、それであろう。
問題は日本(の音楽)だが、「英米で、自由で自主的な音楽(とりあえず、ロックとする)が起こった」として、日本でも、それが必ずや、英米の影響として、“歴史的必然として”当たり前のように起こり得たのか?ということで、実は決してそんなことは無いのである。
「日本のロック(的表現)は(最初から)自由であったのか?」日本では、ロックの模倣自体は学生らによって自主的に行われたかもしれないが、「(その)マーケットが自然発生的・自主的に成立した」訳ではない。
日本でロックは(日劇ウエスタンカーニバル当初の自主性については一定程度認めるがそれはひとまず措いて)、まずベンチャーズ、ビートルズの模倣としての和製音楽ジャンル”GS”として企図されたが、それには既存歌謡芸能資本の操り糸が付いていて、「大人たちが」「商業的打算の発想で」「女子供に受けの良い(疑似的なロックの)マーケット」を作って儲けようと算段したもので、全然自由ではなかった。要するに本質が異なる。(全然自由で無かった点については、加藤和彦がフォーク・クルセダーズ解散後、サディスティック・ミカ・バンド結成までの期間、特に親しく交遊した元フィンガーズ、成毛滋が芸能界から受けた仕打ち、処遇がその好例と言える。ちょっと調べてみるとよい。)
ところが、そんな「(根底の部分で) 本物とは似ても似つかない模造品のマーケット」とは違うところから出て、たちまちのうちに一般リスナーの支持を得、大きな売り上げも達成した音楽があった。これが、加藤和彦のフォーク・クルセダーズであった。1967年末のこと。(リリースとしては概ね1969年まで)
忘れられがちな点について強調しておくと、フォーク・クルセダーズは「秦政明というプロモーターのアート・プロモーションという会社」が企画する関西のフォークコンサートの常連で主力だった。
ところで「関西のフォークムーブメント(の“中の人”)」も、必ずしも一律、一枚岩ではなく、ある程度の多様性がある。後のURC/アート音楽出版の(反体制色を帯びた)高石ともや、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司など「(いわゆる)関西フォーク」と“フォークル”とはやや毛色を異にする。微妙に違う。一方、アリスの前身のロック・キャンディーズや、ハイファイセット、紙ふうせんの前身の赤い鳥、杉田二郎のジローズなども「関西の」「フォーク」であり、フォークルは両派と接点を持ち得る人的音楽的立ち位置にあった。
が、そのせいか、加藤和彦、フォーク・クルセダーズと、URCレコード/アート音楽出版とは「関係のないもの」と(音楽に通じている人たちからも)考えられがちなのだが、関係ないどころか、フォークルメンバーの初期楽曲はみなアート音楽出版の管理楽曲であって、フォークル最初の自主制作アルバム『ハレンチ』には(名目上かもしれないが)秦政明の名前がプロデューサーとしてクレジットされている。フォークルが爆発的に売れたために秦の会社に大金が入ったこと、フォークル二枚目のシングル「イムジン河」が発売中止になったこと、メジャーで売り出しをかけにくい高石ともや、岡林信康etcがアート音楽出版/高石事務所の主力であったことがURCレコード誕生の直接の理由、原因なのだ。(これらを支持する文化人、音楽関係者も少なからずいた)そして加藤和彦、きたやまおさむはURCレコードで”ディレクター”(今でいうプロデュース)業務をやっている。ジャックスの早川義夫などもだ。
やがてフォークルメンバーたちはURCと疎遠になるが、当初は「一体にも近い関係」であった。URCレコードはアートプロモーションの主力三組、高石ともや、フォーク・クルセダーズ、ジャックスと“親和性の高い”、何らかの共通項を持つ歌手、ミュージシャンを世に出したと言ってよい会社だったのである。
自分がいわゆる“はっぴいえんど史観”(はっぴいえんどが日本のロック的表現もろもろすべての元祖という説)を否定するのも、そもそもはっぴいえんどはフォークル、岡林信康、中村とうよう、小倉エージ・・・といったURC周りの人たちがそこにいなければ、おそらくバンドとして存在感を示し得る可能性はかなり薄かったと見ているからなのだ。『ゆでめん』相当の内容のアルバム一枚ならおそらく当時でも他社でリリース出来た可能性はあるものの『風街ろまん』の完成度への到達は到底不可能だったに違いないと考える理由があるのである。そしてURCレコードは、(繰り返しになるが)フォーク・クルセダーズの登場・成功が無ければ設立される可能性がそもそも無かったレコード会社なのである。
実は上記した内容だけでも加藤和彦の影響力をごく小さく限った表現に止めている。様式化された音楽形式としてではない日本のロック(※フォーク含む)が始まり、向こう10数年ほど(80年代のどこかまで)の間、表現者による自主性・自由が、「ある程度まで実現出来た」こと自体がフォーククルセダーズの存在があったことに依拠しているからだ。
※フォーク含む/「そもそも(ロックンロールとは異なる)ロックとは」、ビートルズとボブ・ディランの邂逅に象徴される(アニマルズ、ザ・バーズが早いという説もアリ)中村とうようの考えた概念ニューミュージックのことでもあり、”知的ではない/どちらかといえば当時としては野蛮でエロいダンスミュージック”のロックンロールと、インテリ多数の背景を有するフォークロア/民俗学考現学としてのフォーク(民謡)楽曲収集紹介に発端したフォークとの混交、一体化が端緒となって、ブルースをはじめ様々な音楽ジャンルを続々併呑して形式上の制限を持たない音楽表現となり得た一時期を最盛期とするものだから。逆に「様式が規定する音楽性」に先祖返りしたことによって(産業として聴き手に飽きられるまで無限に再生産が可能な商品となって)、ロックは死んだ(終わった)のだとも思われる。それはロックの中にある「フォークの要素(知的人文要素)」をロック側が否定し出したことに始まろう。
重要なのは、ポピュラー音楽もまた、社会や政治、歴史(現代史)と不可分な関係にあるということ。ジャズ、フォーク、ロックはアメリカの世紀の(アメリカが、世界第一の覇権国家である歴史的過渡的一時期に於ける)文化の爛熟を示す/アメリカの人文的価値観の発揚の一形体だということ。それは特にビリー・ホリデイの「奇妙な果実」ウディ・ガスリーの「我が祖国」などが生まれた1930年代頃から(単にどこにでもある流行歌の枠を超えて)顕著になる。ニーナ・シモン、ボブ・ディラン、サム・クックの代表曲はそれらの後継という面がある。
そして社会に於ける価値とは体制⇔反体制、保守⇔革新、自由主義⇔社会主義のような「単純二項対立の世界」では必ずしもないことを知るのも重要な点。「体制反体制図式化」はただの権力資本資源の奪い合いである。(男女、黒人白人も同じ。) 反体制側が体制にとって代わろうとする下克上(逆も然り)なわけである。これらは共に、現世的世俗的な金や権力の争奪合戦の勝利者たるを最上位の価値とする人間的浅ましさに由来している。だから「様式化された形」だけを真似ても、人文表現としての側面では同じものにはならない点を忘却してはならないのだ。社会的、あるいは表現者の表現の主体としての背景たる思想、スタンス、アティチュードが重要になるのはそのためである。
各時代に於いて文化を先導してきたもの・・・純文学、映画、音楽、以後はお笑い、現在はYouTuberなどネットVJが担うソレ・・・かつてフォーク歌手、ミュージシャンが担ったモノを今はお笑い芸人が担っているのだろうという慧眼を示したのもフォーククルセダーズメンバーきたやまおさむ氏の言であった。
ただこれ以上は別の話になるから、フォーククルセダーズ、加藤和彦の登場は、単なる音楽的才能の登場、音楽の送り手、聴き手のレベルを一定の高みにまで引き上げる牽引役に止まるものではなく、日本に於いて、ある一定期間、音楽のあり方の(文化的)前提、社会的影響力の大きさ深さそのものを大きく変えたとてつもない出来事のきっかけだったというのに止めておきたい。今よりずっと、音楽に関わる人たちが社会に於いて独立的足り得た時代が、あったのだ。
(ちなみにこの独立とは、産業規模、経済効率の大小には比例しない。CDバブル=自由ではない。物みな万事に適正規模というものがあるということだ。日本が先の大戦で負けた一番の理由は「適正規模の戦争を超過したため」に違いなく。)
加藤和彦の音楽キャリアの適正な再評価とは、日本のポピュラー音楽史全体の適正な再評価と同義、その前提と言って過言でないことだが、実際のところそれは(故・高橋幸宏が嘆じたことからわかるように)今やっと端緒についたばかりといった段階なのである。そのくらい、既存の音楽評論、音楽史というものの内容は疑わしいのだ。