2019年03月26日

これまで関わった作品タイトルリスト(2019年3月版)

先日、クライアントからどんな作品が得意かを尋ねられました。なのでこれまでブックレットやオーディオコメンタリー、パンフレット、公式サイトなどで関わった作品を列挙しました。雑誌やムックなどは省いてあります。以下の作品は順不同で、1行空きのグループにも特に意味はありません。
たいがいのものには対応できると思いますので、お仕事依頼お待ちしております。

『機動戦士ガンダム』
『機動戦士Zガンダム』
『機動戦士ガンダムZZ』
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
『機動戦士ガンダムF91』
『機動戦士Vガンダム』
『∀ガンダム』
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』
『MS IGLOO』シリーズ
『GUNDAM EVOLVE』シリーズ
『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』
『機動戦士ガンダム サンダーボルト』シリーズ

『交響詩篇エウレカセブン』
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』
『エウレカセブンAO』
『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』シリーズ
『亡念のザムド』
『トワノクオン』
『ストレンヂア 無皇刃譚』
『UN-GO』
『UN-GO 因果論』

『コードギアス反逆のルルーシュ』シリーズ
『コードギアス 亡国のアキト』
『プラネテス』
『純潔のマリア』
『ID-0』

『リーンの翼』
『OVERMANキングゲイナー』
『TIGER&BUNNY』
『セイクリッドセブン』
『黒神 THE ANIMATION』
『ガールズ&パンツァー』シリーズ
『転生したらスライムだった件』

『SPEED GRAPHER』
『ドルアーガの塔』
『シャングリラ』
『ペンギン・ハイウェイ』
『さよならの朝に約束の花をかざろう』

『ひるね姫』
『009 RE:CYBORG』
『CYBORG009 Call of Justice』
『ももへの手紙』
『カラフル』
『百日紅』
『翠星のガルガンティア』シリーズ
『攻殻機動隊 新劇場版』
『ガルム・ウォーズ』
『アトム ザ・ビギニング』

『ピンポン THE ANIMATION』
『夜明け告げるルーの歌』
『DEVILMANcrybaby』
『鉄コン筋クリート』
『名探偵ホームズ』
『虐殺器官』
『ハーモニー』
『屍者の帝国』
『GANGSTA.』

『シゴフミ』
『モーレツ宇宙海賊』
『劇場版 モーレツ宇宙海賊 ABYSS OF HYPERSPACE -亜空の深淵-』
『悪の華』
『デス・パレード』
『GANTZ:O』
『ガッチャマンクラウズ』シリーズ

『グレンラガン パラレルワークス2』
『アルモニ』
『リトルウィッチアカデミア』
『新SOS大東京探検隊』
『グスコーブドリの伝記』
『マルドゥック・スクランブル』
『戦闘妖精雪風』
『鉄人28号』(今川版)
『マジンガーZ INFINITY』

『残響のテロル』
『BANANA FISH』
『有頂天家族』
『恋は雨上がりのように』
『ばらかもん』
『えいがのおそ松さん』
『黒執事』
『蛍火の杜へ』
『魔女っ子姉妹のヨヨとネネ』
『GOD EATER』
『ゾイドワイルド』

『千年女優』
『東京ゴッドファーザーズ』
『パプリカ』
『若おかみは小学生』
『この世界の片隅に』

『楽園追放 -Expelled from Paradise-』
『正解するカド』
『ニンジャバットマン』
『GODZILLA』

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2016年08月12日

7月3日、アニメレビュー勉強会in大阪

7月にはアニメレビュー勉強会in大阪ということで、勉強会を大阪で開きました。地元の有志が企画してくださったものです。こちらのお題は『心が叫びたがってるんだ。』。参加者は9人ぐらいでしたが、かなりバラエティに富んだ原稿が届き、その中でトップになったのがこちらの原稿です。こちらも僕の忙しさに取り紛れて、更新遅くなって申し訳ありませんでした。

第1位
こうたろう/想定媒体:『映画秘宝』別冊/EX「青春のアニメ映画読本」
(タイトル)
『心が叫びたがってるんだ。』-廃墟のラブホの一室で、あなたに言いたいことがある-
(本文)
青春って痛恥ずかしい
 「こいつはどう見たって、ラブホの1つや2つ行ってそうな……ラブホ顔じゃねえか!」
 TVアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以降『あの花』)第6話において飛び出した、センセーショナルな台詞である。主人公の引きこもり高校生・宿海仁太(通称:じんたん)が、援交を疑われた幼馴染の同級生・安城鳴子(通称:あなる)をかばうために、彼女を指して発したものだ。しかも、彼は久々に出席した授業中の教室で突然立ち上がり、教師とクラスメイトの注目を一身に浴びながら、震える大声でこれを叫ぶ。あまりにも痛々しく、恥ずかしいシチュエーションである。
 “大人も泣けるアニメ”として社会現象になった『あの花』だが、「ラブホ顔」は多くの視聴者に強烈なインパクトを与えたに違いない。しかし、「とある出来事がきっかけで疎遠になってしまったあなるら幼馴染たちと、高校生になった今、当時の気持ちを思い出しながら再び向かい合う引きこもりのじんたん」という、作品の根幹となる“痛恥ずかしさ”を痛烈に意識させてくれたのもまた、この台詞であったはずだ。
 と、そんな『あの花』の製作陣が再び一堂に会したのが、表題のアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(以降『ここさけ』)である。
開幕ラブホがキーワードに
 『ここさけ』は開始30秒で前作を想起させてくる。冒頭から「お山の上にあるお城」、つまりラブホが登場するのである。直球すぎる。が、『あの花』ファンへのつかみとしてはこれ以上の演出はないだろう。だがもちろん、いきなりのラブホはネタだけでは終わらない。ファンタジー要素が主軸になっている『あの花』に比べ、滑り出しからよりリアルに暗い内面を描いた作品であることを予感させ、かつラブホが本筋に関わる重要な場所であることを明示してくる。
 その「お山の上にあるお城」を眺める幼い女の子が、主人公の成瀬順(以降「順」)である。順はそこから父親が出てくるところを目撃し、それが不義の告げ口になるとは思いもせずに、持ち前のお喋りで母親に話してしまう。結果、両親は離婚。順はお喋りが現状をもたらしたというトラウマから失声症に陥り、“玉子”に閉じこもってしまう。これらが冒頭のラブホからの流れで示されるのである。これには一見はもちろん、「まさかラブホが原因でこんなことになるとは。これからどうなるの」と、『あの花』ファンも身構える。
“青春チョイス”を揺さぶる廃城
 物語は、失声症を抱え“玉子”に閉じこもったまま高校2年生となった順が、「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命されたところから動き始める。同じく任命された、無気力な若者・坂上拓実(以降「拓実」)、夢破れてやさぐれた球児・田崎大樹(以降「大樹」)、まとめ役の優等生女子・仁藤菜月(以降「菜月」)らとともに、出し物のミュージカルに臨む顛末が本作のメインストーリーとなる。その過程で順・拓実・大樹・菜月それぞれが変化していき、そして彼らの人間関係がどうなっていくのかが本作の見どころとなるわけだが、既に廃墟と化した「お山の上にあるお城」は定期的にその影をちらつかせ、彼らを揺さぶる。
 失声症で無口な順だが、その感情は挙動で逐一伝わってくる。表情の動きが、手足の動きが、感情に変化があるたびに大きくなるのだ。そしてそれにいち早く気づき、“玉子”の中から言葉を発する順を知り始めていた拓実は、彼女のトラウマの原因を知る。「山の上にあった……ラブホ?」。
 強面の外見で当たりの強い大樹は、序盤では誰とも相容れず、実行委員にも参加しない。だが、野球部でも居場所を失いつつあると知った帰り道に菜月と交わした会話が、彼が変わっていく起点となる。そのネタ振りに使うのが、既に廃墟となった“山の上の城”なのだ。菜月も、その会話でラブホ=男女関係を意識したことで、中学時代に距離が近づいたことがある拓実への意識を再び強めていく。
 “健全な青春劇”ながら、主要な登場人物はもちろん視聴者に至るまで、心の片隅にラブホの存在を意識させつつ話が進行するのは、恐らく『ここさけ』だけだろう。やましいことは何もないのに、この痛恥ずかしさは何事だろうか。
ベットルームで交わされるのは肉欲だけじゃない
 本作のヤマは「地域ふれあい交流会」……ではなく、やはりというべきか、ラブホで迎えることになる。廃墟のラブホで展開される青春劇。元・愛欲のダブルベットを背景に繰り広げられる会話。痛々しくても、見ているこちらが恥ずかしくなってきても、どうか目を逸らさずに直視してほしい。最後にはきっと、涙が頬を伝っていくはずだ。


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4月30日、アニメレビュー勉強会結果発表

毎月月末に開かれている「オタクの学校」でアニメレビュー勉強会を復活させました。4月30日開催で、試しに1回やりまして、可能なら年内にもう1回ぐらいはできたらな、と。そんな再開勉強会のトップ原稿がこちらでした。お題は『ラブライブ! The School Idol Movie』です。ブログ掲載が遅くなってすみません。


第1位
磯部正義/想定媒体:映画雑誌
(タイトル)
期間限定上演のミュージカル

(本文)
 とつぜん降ってわいた廃校の危機から母校・音ノ木坂学院を救うため「スクールアイドル」としての活動を開始した穂乃果たちμ'sの面々。奮闘のかいあって学校は存続することになり、3年生たちの卒業にともなうμ'sの終わりも近づきつつあった。そんななか、第3回「ラブライブ!」が巨大会場・アキバドームでの開催を検討しているという報が舞い込んでくる……。
 『ラブライブ! The School Idol Movie』(2015年6月13日公開 監督:京極尚彦 制作︰サンライズ)は、TVシリーズ『ラブライブ! School idol project』(1期:2013年1月〜3月、2期:2014年4月〜6月)の後日譚を描いた劇場作品である。大会場での開催を実現させるために協力してほしいとの打診を受けたμ'sメンバーは、「スクールアイドル」キャンペーンのライヴを行うため一路海外へ。言葉も通じない不案内な地に降り立った彼女たちだったが、初めての海外体験はじつにテンポよく推移していく。とりわけその足どりを軽快なものにしているのが、歌唱シーンへの自在な転換が生み出すリズムだろう。
 雨を理由に外出を諦めようとした一同のなかから凛が飛び出すことで始まる"Hello,星を数えて"。みんなで白米を食べに出た帰りに独りはぐれてしまった穂乃果が途方にくれていると流れてくる、女性シンガー(CV.高山みなみ)の歌う"As Time Goes By"。キャンペーンのライヴ映像のおかげで、帰国したらすっかり顔バレしていて身動きがとれなくなった最中、にこたち3年生トリオがノリノリで歌い出す"?←HEARTBEAT"……。大小とりまぜたハプニングやトラブルがそのまま音楽の始まる契機になることで、出来事の継ぎ目がなめらかに溶接されていて、それがこの映画の、びっくりするほどトントン拍子に進んでいくリズム感の、ひとつの源になっている。
   *
 そんなこの映画の軽快なリズムにいったんぐっとブレーキをかける出来事が、「μ'sを続けてほしい」という声の高まりだ。(学院を)「終わらせない」ために活動を開始した彼女たちは、今度は(μ'sを)「終わらせる」ことへの決意で心をひとつにする。そこに共通しているのは、彼女たちがこだわり通したものが「学校/スクール」だったという点だ。「学校」という場所にこだわるからこそ"廃校"させまいと奮闘し、「スクール」アイドルとしての自分たちにこだわるからこそ、彼女たちはμ'sをここで、きっぱりと終わらせようとする。
 「そこにとどまったままではいられない、期間限定の人生の一時期」としての「学校/スクール」。こう書くとまるで「青春」の定義そのもののような、この「期間限定」の時間への情熱によって、この劇場版は、はちきれそうなほどに《青春映画》である。そしてその情熱は、活動終了を伝えた穂乃果たちへのエールを胸に、街を埋め尽くさんばかりに集ったスクールアイドルたちとともに、μ'sが"SUNNY DAY SONG"を歌いはじめるシーンで爆発する。
 「アイドルものだから」というジャンルの約束ごととして歌っているんじゃない、そういうイベントだから段取りとして歌っているのでもない、感極まって思わず歌わずにおれないような気持ちのたかぶりのままに、μ'sも、スクールアイドルたちも、一緒になって踊る家族や街の人たちも歌っている……そう信じることのできる理由が物語にしっかり根をおろしているという点で、この映画はこれ以上なくストレートな《ミュージカル映画》である。
   *
 むせかえるほど《青春映画》で、多幸感に酔いそうなくらい《ミュージカル映画》。「期間限定」にこだわり通したことで、『ラブライブ! The School Idol Movie』はそんな映画になった。
(1577w)


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2016年05月09日

最近のレギュラー(的な)お仕事をまとめました。

最近のレギュラーの仕事などをこちらにまとめておきますね。

連載
インタビュー『声優語』(Febri)
ベテランの役者さんへのロングインタビュー。
コラム『主人公の条件』(Febri)
さまざまな作品の主人公がなぜ主人公たり得ているかを考察。
コラム『アニメもんのSF散歩』(S-Fマガジン)
アニメのSF的な要素とSF小説をいったりきたりする読み物。
コラム『キーワードで斬る!見るべきアニメ100』(アキバ総研
ちょっと意外?なキーワードを手がかりに、最新作から名作まで紹介します。
時評『アニメの門V』(アニメ!アニメ!
なんと2004年から(途中1年の中断をはさみつつ)現在まで続いているアニメ時評。
マンガレビュー『アニメな?マンガ』(コミスン
映像化された小学館のコミックスをレビューする不定期連載。
レビュー『one,two,three(アニメ)』(フリースタイル)
季刊雑誌で四半期に一度、その期の注目アニメを紹介してます。
ニュース『アニビズデータバンク』(アニメビジエンス)
業界誌で四半期毎の注目作を紹介しています。意識としては、直接制作・製作に携わっていない関連企業の人がトレンドを掴めるような紹介です。

配信
『アニメの門チャンネル』
毎月第一金曜日21:30より配信。ニュースとQ&A、そしてゲストなどを招いての特集の三本立てでアニメを語ります。前半は無料で見られますが、後半は会員(月216円、メルマガ2通つき)のみです。
http://ch.nicovideo.jp/animenomon
『藤津+(プラス)』
ディスクプラスのサイト&アプリ(携帯)で見られる作品解説動画。無料登録で見られるようになります。これまで扱ったのは、『ヤマト2199』『ルパン三世』劇場版『ラブライブ!』『心が叫びたがってるんだ。』。
https://disc-plus.com/home

講座
東京・朝日カルチャーセンター新宿教室(第三土曜日18時〜)
静岡・SBS学苑パルシェ校(奇数月最終日曜10:30〜 ※状況に応じて変更あり)
名古屋・栄中日文化センター(年4回開催。詳細はサイトなどでご確認ください)
東京・NHK文化センター青山教室(不定期開催。次回は8月20日)

基本は作品をひとつ取り上げて解説・分析・読解を行う「アニメを読む」という講座です。ジャンル史、アニメ史などを取り扱う時もあります。詳細は各カルチャーセンターの講座から検索・問い合わせをしてください。

講師
東京工芸大学芸術学部アニメーション学科 非常勤講師
アニメーション論Aを担当しています。

このほか雑誌記事、WEB媒体でのインタビュー、Blu-rayのブックレット、パンフレットなどの構成執筆なども手がけています。ご用命あればpersonapのGmailまでご連絡ください。

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2016年04月04日

4月30日、アニメレビュー勉強会を再開します

4月30日(土)に開かれる「オタクの学校」で、3年ぶり?にアニメレビュー勉強会を再開することにしました。まずは1回、簡略化したスタイルで試しにやってみます。

お題は『ラブライブ!The School Idol Movie』です。これのレビューを書いてみて、みんなで合評しようという企画です。

参加申込〆切:4月16日(土)
※申込時点で原稿を添付する必要はありません。
参加手続
・藤津のメアド(personap(●)gmail.com (●)をアットマークに)に以下の内容を記載して送ってください。
・件名に「アニメレビュー勉強会参加希望」と書いてください。
・参加料は男性2000円、女性1000円(これまでの「オタクの学校」と同じになります(当日支払い)。
・メール本文には以下のことを記入してください
1)名前(ハンドル名でも可)
2)緊急時連絡先(携帯電話・携帯メール等)
・会場のスペースの都合上20人までです。


原稿〆切:4月25日(月)
・メールの件名は「アニメレビュー勉強会原稿」でお願いします。
・想定媒体を必ず書くこと。想定媒体についてはFAQを参照のこと。
・タイトルはあってもなくてもいいです。
・文字量は800w〜2000wの範囲で。
・一人で複数原稿書くのもOKです。
・機種依存文字(丸数字等)は使わず、かつテキストファイル(拡張子が.txtのもの)で。わからなければメールの本文欄に文章をダイレクトに貼り付けてください。

4月28日までに匿名でみなさんに全原稿を送りますので、読んで各原稿に10段階&逆(※)の点をつけてください。
※「逆」というのは「これはヒドい」もしくは「これはヒドい(笑)」といった強いインパクトを残した原稿につけられるスペシャルな採点です。


当日:4月30日(土)15:00〜17:00
それぞれの採点情報をまとめ、その点をもとにして互いの原稿について話をしていきます。高得点を得た上位3位の原稿は後日、藤津のブログとメルマガに掲載します。
会場は浅草の模型塾(http://modelkingdom.net/jj_map23.htm)です。


FAQ
1、参加者はどんな人が多いですか?
参加者はアマチュアの方が多いですが、プロやプロ志望の方もいます。

2、レビューというのはどういう原稿でしょうか?
レビューとは、まずは「未見の人に向けたバイヤーズ・ガイド」と理解してください。長文のいわゆる批評・評論(たとえば「ユリイカ」などにのってる原稿)とは異なります。ただこうしたものに明確な線引きは難しく、批評的視点のあるレビューも当然あるわけですので、バイヤーズ・ガイドというの原則程度に受け止めていただければ。ただ、過去の高得点原稿みればわかる通り、その考えはかなり自由です。

第1回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65612845.html
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65612843.html

第2回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65637451.html
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65637450.html

第3回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65652259.html

第4回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65680593.html

第5回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65700316.html

第6回
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65722290.html

第7回の上位3位までの原稿
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/2013-12-02.html

3、ケナし批評的なものはアリでしょうか。
アリです。勉強会の趣旨は、おもしろい原稿を書こう、ですので、「おもしろさ」(とその裏側にある説得性)さえ目標にしていただければ。

4、レビューに書き添える想定媒体というのは?
想定媒体を書き添えるのは、本当にその媒体に載るような原稿を書くというより、レビューを「読んでほしい人」を決めるという意味で理解してください。ですから媒体は「個人ブログ」でも「もしこのアニメ誌にレビュー欄があったら」でも「一般誌・新聞のカルチャー系の欄でアニメが取り上げられるとしたら」でもOKです。媒体だけで意図がつたわりづらければ、想定読者を添えていただいても結構です。
また、これまでの経緯から、あまりに想定読者の想定がアバウトになるため、第5回は「個人ブログ」と「同人誌」は原則ナシです。それでも「個人ブログ」「同人誌」書きたい方は、それなりの覚悟を持ってお願いします。

参考:アニメレビュー勉強会とは
http://togetter.com/li/256911


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2016年01月09日

「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」@2015を考えてみました

1月11日にイベント「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」を語る会」が開かれます。会場はネイキッドロフト@新宿、開場11時30分。詳細:http://www.loft-prj.co.jp/schedule/naked/40331

アニメブロガーさん有志が2010年から行っている「年間の中でおもしろかったTVアニメのエピソードを列挙する」という企画「話数単位で選ぶ、TVアニメ10選」。これの歩みを振り返りつつ、2015年のおもしろかったエピソードを振り返ろう、というようなイベントです。出演がkarimikarimi、新米小僧、tatsu2、西尾西男、まっつね、やし(敬称略)。かなり賑やかで濃くなりそうな出演者で、僕は司会でお手伝いをします。

せっかく参加するんで、僕も僕なりに10選選んで見ました。最後の1本が絞りきれず、9話+次点2話という感じになります。当日は司会なんであまり自分の話をする機会はないと思いますが、理由を説明する機会がありましたら説明します。

・『デス・パレード』第11話「メメント・モリ」
・『アイカツ!』第125話「あこがれの向こう側」
・『すべてがFになる』第十一章
・『俺物語』第11話「俺の海」
・『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第13話「葬送」
・『響け!ユーフォニアム』第12回「わたしのユーフォニアム」
・『血界戦線』第12話「Hello,world!」
・『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』第9話「果てしなき家族の果て」
・『おそ松さん』第3話

※『純潔のマリア』LIBER IX(第九話) CUM GRANO SALIS(一つまみの塩を)
※『ゴッドイーター』第7話『綻び』

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『アニメの門場外乱闘編 総括2015』十大ニュース

2015年12月12日に開いたイベント『アニメの門場外乱闘編 総括2015』@ネイキッドロフトで「アニメ十大ニュース」を決めました。決めたといっても、ライターの小川びいさんと放談して、最後にざっくり順番を決めただけです。年間振り返り放談トークの内容は反映されたりされなかったりなので、話半分ぐらいで読んでみてください。


10、サザエさんよ、永遠に…
キャストの交替が相次ぎました。

9、Netflix上陸
SVODへの流れは加速するのか。

8、4G+K(お待たせしました系)
2015年はいろいろお待たせされるアニメが多かったですね。

7、スリーG(ロボット)
Gのつくあのロボットアニメがたくさん作られました。

6、クラウドファウンディング
盛んに活用されていますが、それぞれの狙いはそれぞれです。

5 西崎さんよ、永遠に…
『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』の驚きは、きっと永遠に生きているでしょう。あなたの胸に 心に 魂の中に。

4、ガンダム展ほか大評判
アニメ系のクリエイティブに注目した美術展で見応えのあるものか相次いで開催されました。

3、『おそ松さん』騒動
まさに騒動としか言いようがありません。

2、サンライズの逆襲2015
昔、アニメージュにそういう特集がありまして、以来サンライズは定期的に「逆襲」してるイメージが。

1、劇場アニメ百花繚乱
いろんな監督がいろんな題材でいろんな映画を作っていることの豊さよ。

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2015年07月16日

「帰ってきたアニメの門」全16回リスト

こちらはその前の「帰ってきたアニメの門」全16回のアーカイブになります。こちらも興味ある方は是非。

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「四代目 アニメの門」全24回リスト


今月で連載が終了した「四代目 アニメの門」の掲載リストです。ご興味ある方は是非読んでみてください。





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2015年03月13日

『かぐや姫の物語』〜たけのこの「ふるさと」

 『ユリイカ 2013年12月号 特集=高畑勲「かぐや姫の物語」の世界』に寄稿した「たけのこの「ふるさと」」という原稿です。〆切りの都合で試写で1回見ただけのわりには、しっかり読めている(後で映画を見直しても、あまり考えに違いがない)原稿だと思います。本日の『かぐや姫の物語』のおともにどうぞ。

たけのこの「ふるさと」

 高畑勲監督は『かぐや姫の物語』の前に一度、かぐや姫を画面に登場させている。
 前作『ホーホケキョとなりの山田くん』での1シーンだ。
 『となりの山田くん』はアヴァンタイトルでキャラクターの紹介を済ませると早々に、父たかしと母まつ子の結婚式から始まる、通称“ボブスレー編”の開幕となる。
 “ボブスレー編”は、いしいひさいちの原作に寄らず、ビジュアルのおもしろさを盛り込むことを主題にした一連のシーンのことだ。ここでまず描かれるのは、山田家がいかにできあがってきたかの過程である。
 ウエディングケーキをボブスレーでさっそうと滑り降りていったたかしとまつ子は、海を乗り越え、キャタピラカーでやがて一面の畑へとさしかかる。畑に植わったキャベツから取り上げられているのは、赤ん坊だ。空を見上げれば、コウノトリも赤ん坊を運んでいる。どちらもヨーロッパの伝承に基づいた描写だが、たかしとまつ子はここでは赤ん坊を授からない。二人はヨーロッパ人ではないからだ。
 二人が子供を授かるのは、川と竹林だ。
 カットが変わり、たかしとまつ子は水墨画で描かれた川を小舟で下っている。すると川上から、大きな桃が流れてくる。たかしが刀で切ると、そこから赤ん坊ののぼるがでてくる。続けて、小舟は水に浸された竹林の中を進み、その中に竹が一つ光っている。その竹を切ってみれば、その中には、妹のの子が十二単にくるまれてほほえんでいる。
 昔話になぞらえて語られる、家族の歴史。親から子供、子供からその子供へと語り継がれてきた昔話は、我々の中に刻み込まれアイデンティティーの一部となっている。

 「ふるさと」とは単なる生まれ育った土地をだけを言うのではない。
 こうした「世代を越えて語り継がれてきた昔話」もまた、人々の中に「ふるさとの光景」として息づいている。
 『かぐや姫の物語』は、ふるさとをめぐる映画だ。もう少し正確にいうなら、それは「ふるさとの喪失」を主題に展開していく映画といえる。

 『かぐや姫の物語』の「今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつゝ、萬づの事に使ひけり。名をば讃岐造麿となむいひける」と原作の冒頭を媼役の宮本信子が読み上げて始まる。
 翁は、成長したタケノコの中から、輝くほど美しい女の子を見つけ、媼とともに育て始める。普通の子供よりも速い速度で成長する女の子は、たけのこと呼ばれ、ほどなく村の子供たちと里山の自然の中を駆け巡るようになる。
 竹から生まれた女の子がどうやって成長したのか、『竹取物語』では、わずか1行足らず、「三カ月くらい経つ頃には人並みほどの背丈になった」と書かれているだけだ。だが、この映画はそこに、山の季節の移り変わりを丁寧に店ながら時間を割いて描いていく。それはたけのこという少女の中に、ふるさとが刻み込まれていく過程を観客に共有してもらうためだ。
 この風景は実はたけのこだけのふるさとではない。この里山は「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが」で始まる、あらゆる昔話の舞台になりうる場所だ。そういう意味で、この風景はたけのこのとってのふるさとであると同時に、昔話を知る人間にとっても広くふるさとなのだ。たけのこが過ごす子供時代は、観客がそこをふるさとだと思い出すための時間でもある。

 だが、この幸せな時間は長くは続かない。
 たけのこに続き、竹の中から金を手に入れた翁は、彼女を立派な姫に育てることこそ、たけのこを遣わされた自分の使命と考えるようになる。そして都に居を構えるため、山の村を後にする。たけのこは、幼なじみの捨丸に別れも言えないまま、都で暮らすことになる。
 この後、たけのこは、高貴な姫としてふさわしい教育を受けさせられ、名前も「なよ竹のかぐや姫」と改められる。そして、一旦は「私らしくいてはダメなのか」と拒否をするものの、最終的には眉を抜き、お歯黒で歯を染めることを受け入れて、表面上は型どおりの姫へと“美しく”変わっていく。ふるさとを捨てさせられたたけのこは、かぐや姫となるため、自分も捨てさせられそうになるのだ。
たけのこのふるさとの喪失だが、興味深い点が二つある。

 一つは、ふるさとの喪失が翁の善意によって起きている点だ。
 翁は、たけのこのことを大切には思っている。だが、それ以上に、自分に遣わされた不思議な女の子を立派な姫へと育てることこそ、自らの役目だと強く信じている。たけのこが自分の娘でないために、翁は「役目」こそがたけのことをつなぐ縁だと考える。それゆえに翁は、さらに“姫の幸せ”を目指して邁進することになる。そこにあるのは『夕鶴』の与ひょうとつうの関係にも通じる、ディスコミュニケーションだ。
 こんな翁を愚かと笑ったり、無神経だと憎むことは難しい。
 翁は、どんぐりまなこで、いつもおたおたおろおろしている。都に普請した邸宅に住んでも、鴨居や長押に烏帽子を引っかけてしまうなど、どうにも貴族風の暮らしが板につかない。たけのこを見つけなければ、善良な竹取として一生を終えたであろう男が、姫のために一生懸命背伸びをしている姿は、よくいって滑稽、あしざまに言えば無様だ。翁もそれを自覚はしている。だから、翁の判断基準はいつも世間になってしまうし、そういう翁の弱さ、成金的な振る舞いは周囲に見透かされてもいる。つまり、翁は憎むことも笑うこともできないぐらい、普通の人なのだ。
 普通の人の善意が、たけのこからふるさとを奪っており、普通の人の善意だからこそ、たけのこはそこになかなか抗いきれない。この翁とたけのこの言葉にならないすれ違いが、この映画の底流に流れている。

 もう一つは、かぐや姫となったたけのこの、心のバランスのとりかただ。
 ふるさとを失い、都で窮屈なルールで縛られた姫を演じているたけのこは、ある方法で、心のバランスをとっていた。
 それは屋敷の一角に媼がつくった畑だ。その片隅にたけのこは小さな庭をつくる。視線を地面すれすれまで降ろすと、眼前に広がるのは、たけのこがたけのこだった時を過ごしたあの里山の風景だ。この小さくて偽物のふるさとに慰められながら、たけのこは都で話題の美しい姫君を演じるのである。
 このようにふるさとを失ったたけのこの物語は進行するのだが、これは決してたけのこだけの物語ではない。ふるさとを既に失い、かりそめのふるさとに慰められているのは、現代人も同じだからだ。

 たけのこ個人の物語であると同時に、それを見ている誰かの物語でもある。たけのこに感情移入して、たけのこの物語を自分のもののように感じるシンパシーではない。たけのこの人生と自分の人生は別物とし受け止めた上で、そこに浮かび上がる普遍的な共通点を自覚させられる。
 それは『かぐや姫の物語』の水彩画を模した映像スタイルだからこそ、強調されたことでもある。
 たとえば植物図鑑では、写真ではなく、絵を使うものも多い。
 写真だとものによっては撮影条件が厳しく、見えにくい写真になってしまいがちである、といった物理的な問題から、絵をセレクトする場合もあるだろう。
 だが、絵にはそれだけにとどまらないメリットがあるように思う。写真はあくまでも撮影されたその植物を指し示している。そこには個体差もまた記録されている。写真は決して、その「種」という抽象的な事象を写真に収めることはできないのだ。
 だが、絵は違う。絵であれば、その個体の平均的な姿、「一般的概念」としてのその種を記すことができる。しかも、図鑑のページを飾るその「一般的概念」は、単なる概念に止まらず、同時に、存在感ある個体でもありつづけている。絵で表現された図像には、そのような二面性が裏表となってぴったりくっつき合っている。
 アニメーション映画の場合もまた図鑑と同様だ。
 役者の肉体や実景(セットであってもそれは物質的に存在している)に縛られる実写映画と異なり、アニメーションは「迫真性を持って表現された存在感ある個体」と「その個体を通じて表現される一般的概念」を同時に表象することができる。
 たけのこの物語がたけのこ固有のものであると同時に、多くの人のものでもあるというのは、この「個体」と「一般的概念」の二重性と同じ意味だ。
 では、どんなアニメも絵である以上、自動的に「個体」と「一般的概念」の二重性のトリコになるかといえばそうではない。

 日本の商業アニメーションは、作り手のバックボーンや取り上げられから「迫真性の獲得」を目標として進化してきた。「迫真性」とはつまり、「(非現実な題材であっても)あたかも本物のように見えるように画面を作る」ということである。
 そこで重要なのが、キャラクターの存在感だ。キャラクターが存在感を持ち、その内面が想像できるのであれば、ドラマに説得力が生まれる。
 では、キャラクターに存在感を与えるにはどうすればいいか。それはキャラクターが行動する舞台をしっかりと作り上げることだ。かくして日本のアニメは、「ちゃんとデザインされた小道具・大道具により、世界観を構築する」「正確なパースを前提にした画面構成による空間感の獲得」といった技術を磨き上げた。これは高畑監督と宮崎駿(場面設定と画面構成を担当)による『アルプスの少女ハイジ』で示された方法論が、アップトゥデートされ現在のアニメを形作っているということでもある。
 かくしてここ20年の間に、「カメラで切り取ったような空間」に「マンガ的記号を継承しつつ、立体感のあるキャラクター」の登場するアニメが(その精度については千差万別にせよ)当たり前に作られるようになった。このスタイルは、いわば「映画的迫真性」を獲得しようとした結果の産物といえる。

 だが『となりの山田くん』で導入され、『かぐや姫の物語』でも追求されているスタイルは、「映画的迫真性」ではない。この2作を貫くのは、先述のアニメの歴史の延長線上にない「絵画的迫真性」の美意識である。
 高畑は、『山田くん』公開直後、プロダクションI.Gで行ったレクチャーで「アルカイズム、クラシシズム、マニエリスム、バロック」という美術の様式の変転をあげ、アニメーションもそのように歩んできているのではないか、と問題を提起している。つまり「映画的迫真性」を軸に進化してきた表現は爛熟しており、その先を考えるのではなく、根源へと帰るところに表現様式の未来があるのではないか、ということだ。その場合、高畑はアニメーションの歴史へと遡るのではなく、さらのそれよりも先行してあった「生き生きとした線による表現」が見られる絵巻物や鳥獣戯画などを参照したのである。

 高畑監督はもとから根源的な問いかけをもって作品に望むタイプの監督だ。商業アニメーションの様式を疑い、更新しようとする試みは『山田くん』以前にもあった。
 たとえば『火垂るの墓』の時点で、高畑は「新しい様式のアニメでやろうかと思ったが、時間がないため通常のセルアニメでやることになった」という趣旨のコメントを残している。この時に、どういう様式が考えられていたかはわからないが、高畑の中ではこのころからセルアニメという様式を問い直す思考があったのは確かなようだ。
 あるいは『おもひでぽろぽろ』。27歳のOLである主人公のタエ子は、頬の筋肉を描く(結果的にほうれい線を描くことになる)ことに挑戦している。これもここが目標点ではなく、日本人の顔の立体感を表現する新しいキャラクターデザインに取り組む」という難題からスタートし、紆余曲折の結果として現時点でできる挑戦として「頬の筋肉を描く」に止まったという経緯の産物だ。

 こうした新しい表現への挑戦の一方で、高畑監督がキャラクターに求めている、一貫した要素がある。
 それは「感じがでている」というものだ。
 高畑勲は、『赤毛のアン』『火垂るの墓』などで組んだアニメーター近藤喜文について「絵のうまい人ならいる。だけどそれを立体的に動かし“感じ”といえるものを出せる人はいなかった」と褒め称えている。
 『となりの山田くん』『かぐや姫の物語』と連続して、演出などを務めているアニメーターの田辺修もまた、近藤とは違う世界でありながら、「感じが出ている絵」を描ける人物である。
 田辺の「感じ」のつかまえ方は、『ギブリーズepisode2』のエピローグや、『どれどれの唄』PVなどの仕事を見るとよくわかる。『ギブリーズepisode2』のエピローグに登場するモブキャラクター、あるいは『どれどれの唄』PVに登場する擬人化されたムシなどは、かなり奇妙きてれつな顔をしていたりするのだが、それでもなおかつ人間くさいのである。こういう田辺のおもしろさは『かぐや姫』では、女童子のデザインなどによく現われている。
 近藤や田辺が描き出すmこの「感じ」というのはおそらく二つにわけられる。一つは「どこかに実在していそうな人間」という「感じ」と、「そのキャラクターらしい個性が描かれている」という「感じ」だ。もちろんこの2種類の「感じ」は、さきほどいった「一般的概念」と「個体」と同じく、裏表の関係にある。

 ところが、先述の「映画的迫真性」を求める画面作りの中では、そのキャラクターがその空間にはっきりと存在することを主張しないといけないので、「そのキャラクターらしい個性が描かれている」ことが重視される。いわゆる“キャラクターが立っている”状態で、この「個体」に重心がかかえればかかるほど、「一般的概念」のほうの“感じ”にはスポットがあたらなくなる。
 しかし「絵画的迫真性」へと舵をきるとどうなるか。ここでは、絵であることが前面に出るので、小道具や大道具デティール感もそれほどではないし、空間感も「カメラで切り取ったような」精密さとは異なる。その時に、迫真性を支えるのは、キャラクターや背景を形作っている輪郭線の存在感になる。
 輪郭線が、観客の中にある人間や風景のイメージを掘り起こし、新鮮なものとして画面に定着された時、観客はそこに「人間/風景ってたしかにこうだよな」と思い「感じが出ているなぁ」と実感する。頼るものが輪郭線の存在感に絞られた結果、「一般的概念」の「感じ」のほうがずっと前面に出ることになる。

 『かぐや姫の物語』で、たけのこの個人の物語であると同時に、普遍的な人生を感じさせる物語でもあるという二重性は、こうした「絵画的迫真性」の産物でもあるのだ。だからこそ『かぐや姫の物語』は、単なるかぐや姫の罪と罰の物語としてでなく、普遍的な人生についての物語として観客に迫ってくることになる。
 では、「遍的な人生についての物語」として『かぐや姫の物語』は何を語っているのか。
 それは「人生は気がつくと失われているものばかりで、不自由なものである。だが、それでも人生は空しいものではない」というものだ。そして「失われている大切なもの」としての象徴として「ふるさと」が設定されているのだ。
 作中で、たけのこは「月の世界にありながら、人間味あふれる地上の世界に憧れたこと」が罪であると語られていた。確かに、たけのこはふるさとで、憧れていた人間味あふれる時間を過ごした。
 そして罰とは「その地上の世界に落とされるということ」だという。どうして地上に落とされることが罰になるかといえば、ふるさとの人間らしい時間を奪われ、都市の中で不自由にも抑圧されて生きることを強いられるからだ。
 しかし、人生は不自由ではあっても、空しくはない。それを前半のふるさとのシーン以外に現しているのが、中盤以降に出てくるふるさとへ帰るシーンだ。ふるさとへ帰るシーンは二つある。
 一つは、「かぐや姫」のお披露目の宴会が三日三晩開かれた最後の夜。自然な自分であることを守りたいたけのこは、十二単を脱ぎ捨てて、ふるさとへと猛烈な勢いで走って行く。ふるさとについたたけのこは、そこが既に自分の知っているふるさとではなくなっていることを知る。
 もう一つは、月の迎えが来る前。そこでたけのこは、幼なじみである捨丸と再会する。既に妻帯し子供もいる捨丸だが、すべてを捨てて逃げようとたけのこに言う。ふたりは、ともに空を飛び、山野を巡る。
 この二つのシーンの共通点は、単にたけのこがふるさとに帰っているだけではない。前者は、たけのこが目を覚ますカットで締めくくられ、後者は捨丸が目を覚ますカットで終わっているという点だ。
 ともに「夢」というには生々しく(夢というのは往々にして生々しいものではあるが)、それだけに、抑圧された都の生活からの脱走も、幼なじみとの再会も実現しなかったのだ、という事実が重くのしかかる。しかし、この夢を通過することでたけのこも、捨丸も気持ちは大きく変化している。

 ここで描かれているのは「人生におけるフィクションの意味」だ。不自由な人生の中で「夢」を見ることには意味がある。フィクションは現実を一切変えないが、自分の心にとっては意味がある。たけのこも捨丸も「夢」を見たからこそ、改めて自分の人生を生きることができるのだ。二度目の夢が、高畑監督的というより、むしろ宮崎監督的とでもいうべき、開放感ある飛行シーンで出来ているというのは象徴的だ。
 そして、子供たちが歌う『わらべ唄』は、この「人生は不自由なものだが、決して空しいものではない」という主題を、さらにその外側からくるむものになっている。
 『わらべ唄』は、水車のようにめぐる季節と命を歌った歌詞でおり、この不自由な人生が水車をまわすようにぐるぐると繰り返されていることを暗示している。
 ここでいう繰り返しは、素朴な輪廻転生論とういうより、『方丈記』が「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と記すのと同じく、瞬間で泡が消えたり生まれたりするような状況を指しての「繰り返し」に近い。
 そして、この『わらべ唄』とそっくりの、たけのこが覚えていた月の唄(『天女の唄』)は、わらべ唄のさらに奥にある事象を歌う。天女の唄は、心が呼び返されること(人が人らしく生きられること)を願い、「私の帰りを待つというなら、すぐに帰ってくるでしょう」と締めくくられる。これはつまり、「罰」としてやがて地上に生まれ落ちるであろう赤ん坊の気持ちを歌っているのだ。
 たけのこが決して特別な人生を歩んでいたわけではない。たけのこの人生は、普通の人の人生を象徴的に象ったものなのだ。

 だから、『わらべ唄』は、これから「巡り」の中で子供が生まれてくるという自然の摂理を歌い、『天女の唄』は、その子供が背負っている「今度は幸せな人生を送れますように」という願いを歌っていることになる。
 こうして「ふるさとの喪失」を軸に展開した、「人生の不自由」を描いた物語は、これから生まれ出る命(ラストシーンの月に浮かぶ赤ん坊!)の願いで、人生を肯定して締めくくられることになる。
 この人生への深い洞察と、表現様式が一体となっているという点で『かぐや姫の物語』は恐るべき作品である。

 
 

personap21 at 13:12|PermalinkTrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加
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