2006年12月24日

「赤ちゃん」と「クリスマス」

こちらはムック「東京ゴッドファーザーズ・エンジェルブック」(宝島社)用に書いたものです。


「赤ちゃん」と「クリスマス」――『東京ゴッドファーザーズ』に欠かせないもの

『東京ゴッドファーザーズ』には欠かせない要素が二つある。それが「赤ちゃん」と「クリスマス」だ。どうしてこの二つが欠かせないのか。過去の映画作品などを参考にしながら考える。


 まず最初に断言してしまおう。
 『東京ゴッドファーザーズ』は、「赤ちゃん映画」であり「クリスマス映画」なのだ。

 「赤ちゃん映画」に「クリスマス映画」だって? そんなジャンルは聞いたことがない、と思う人もいるかもしれない。でも「赤ちゃん」と「クリスマス」という二つは間違いなく『東京ゴッドファーザーズ』にとって、欠かせない要素だ。そして「赤ちゃん」や「クリスマス」を欠かせない要素として持っている映画は、まだほかにもある。そこで、そのほかの映画を参考にしつつ、「赤ちゃん」と「クリスマス」の二つを通じて、『東京ゴッドファーザーズ』について考えてみようと思う。

 まず「赤ちゃん映画」について。

 そもそもどういう映画が「赤ちゃん映画」と呼ぶことができるのだろうか。
 まず一番肝心なのが、「重要な役柄として赤ちゃんが出てくること」だ。これを当たり前、というなかれ。これは結構重要なポイントなのだ。ここで「赤ちゃん」を強調するのは、「赤ちゃん」と「子供」は違うということをはっきりさせたいからだ。世の中には、ませた口をきく子供とオトナの交流を描いた、そういうタイプの映画もたくさんある。そういう映画と「赤ちゃん映画」は確かにちょっと見ると似ていないこともない。でも「赤ちゃん映画」は、そういう子供の出る映画とは決定的に違う部分がある。

 そもそも赤ちゃんは、しゃべることができない。ろくに歩くこともできない。ミルクとオムツをあてがってもらわないといけない。ところが、このなんにもできなさ故に、赤ちゃんは、映画の中で重要な役割を演じることができるのだ。この逆説が「赤ちゃん映画」の特徴の一つになる。「ませた口をきく」ということでキャラを立たせている子供とはキャラクターが持っている方向性が全く違うのだ。

 また第二のポイントは、赤ちゃんの面倒を見ることになる人物に関する点だ。「赤ちゃん映画」には赤ちゃんだけでなく、赤ちゃんの面倒を見る人が登場する。多くの「赤ちゃん映画」ではこの役割を、赤ちゃんとは縁もゆかりもない赤の他人に割り振っている場合が非常に多いのだ。親代わりを演じる赤の他人と、なにもできない赤ちゃんの組み合わせ。彼らは何かの偶然で出会い、驚いたり、途方に暮れたりしながら、やがてまるで家族のような情愛で結ばれていく。この「疑似家族性」もまた、「赤ちゃん映画」のポイントである。

 では、どんな映画が「赤ちゃん映画」なのだろうか、具体的に挙げてみることにする。
 『赤ちゃんに乾杯!』(85)は、独身貴族の男三人組の元に赤ちゃんが置き去りにされたことから始まる物語。男たちは馴れない育児に悪戦苦闘しながら、赤ちゃんと新しい関係を結んでいく。このフランス映画は『スリーメン&ベビー』(87)としてハリウッドでリメイクもされた。
 もちろんハリウッド映画にも「赤ちゃん映画」は多い。
 『ベイビーズ・デイアウト 赤ちゃんのお出かけ』(94)の主役は身代金目的のために誘拐された生後11カ月の赤ちゃん。マンションの一室に閉じこめたはずが、ひょんなはずみで赤ちゃんが逃げ出してしまい、三人組の犯人達は、実の親もかくやという熱心さで、赤ちゃんを追いかけるハメになる。未婚の母とタクシーの運転手の縁結び役を赤ちゃんが演じる『ベイビー・トーク』(89)や、バリバリのキャリアウーマンが死んだいとこから相続した“財産”がなんと赤ちゃんだったという『赤ちゃんはトップレディがお好き』(87)なども「赤ちゃん映画」と呼んでいいだろう。

 ここで忘れていけないのは、『東京ゴッドファーザーズ』の発想の原点でもある『三人の名付親』(48)だ。

 銀行を襲った三人組の男が、砂漠の中で瀕死の妊婦から出産した赤ん坊を託される。3人の男は、妊婦が持っていた聖書を心の支えに、妊婦が住んでいたニュー・エルサレムに赤ん坊を連れて行くことを決意する、。保安官に追われながらの逃避行は厳しく困難の果てに二人は死ぬが、最後に残った男はついにニュー・イエルサレムに到着する。男は銀行強盗の罪で逮捕されるが、裁判ではその赤ん坊を自分の子供として育てたいという男の意志が認められ、温情的な判決が下される。

 これらの作品はいずれも、先ほども書いた通り、何もできない赤ちゃんを中心とした疑似家族の物語という切り口で、ひとくくりにできると思う。

 そこで『東京ゴッドファーザーズ』を見てみると、こうした「赤ちゃん映画」の系譜にぴったりと合致していることが分かる。まず中心に、何もできない生後間もない清子がいる。そしてその周囲に、父親役のギンちゃん、母親役のハナちゃん、それに娘役のミユキがいる。互いに縁もゆかりもない三人だが、清子を中心にすることで、疑似家族の絆が結ばれていく。3人が“家族”であるということが、端的に表れているのは、ミユキの夢のシーンだ。そこではハナちゃんが彼女の実の母親に、ギンちゃんが父親の姿にオーバーラップして描かれている。これは家族と折り合いの悪かったミユキにとって、より信頼できる父親的存在、母親的存在がギンちゃんとハナちゃんだったということなのだろう。

 もちろん『東京ゴッドファーザーズ』は、「赤ちゃん映画」の定石をなぞっているだけで終わっている作品ではない。清子は、ホームレス三人組を疑似家族の絆で結び合わせただけでなく、それ以上の働きを見せている。ホームレス三人組は、清子のおかげで、自分がまだ戻れる場所をちゃんと持っている、ということを思い出すのだ。

 3人は路上生活を始めるにあたって、家族や家族同然の人を全て捨て去った。そんなものとはもう一生縁がないものと決めて、それからの人生を生きてきた。でも、そんなことはなかったのだ。清子の存在によって、それが明らかになる。彼らがいつ戻っても受け入れてくれる、そんな人はまだいるのだ。ギンちゃんは偶然にも娘と再会し、ハナちゃんは清子のために、久しく会っていなかった恩人の“お母さん”の力を借りる決意をする。ミユキもまた、思わぬところで家出の際に刃物で傷つけてしまった父と対面することになる。こうして清子は、なくなったはずの過去の人間関係もまた、静かに回復していく。

 赤ちゃんは何もできない。でも何もできないはずの赤ちゃんが、ただそこにいるだけで、不思議な波紋が広がるように、古い絆が蘇り、新しい絆が生まれていく。「赤ちゃん映画」の魅力は、そんな奇跡が生まれていくところにあるのだと思う。

           *

 ではもう一つの「クリスマス映画」はどうだろうか。

 これはクドクド説明するよりも、次に引用する一文をまず読んでもらいたい。『素晴らしき哉、人生!』(46)について書かれた文章だ。この映画のストーリーは、クリスマスの夜に人生に絶望し自殺をしようとした主人公を見習い天使が救い、「彼が存在しなかったもう一つの世界」を見せて人生の価値を伝えるという内容だ。この文章には「クリスマス映画」の魅力が、凝縮されている。
「わたしはかねがねこの映画に感嘆していた。なんというか、普通の映画の規格をはずれた『すごさ』を感じるのである。特にラストの三十分。このめちゃくちゃなフィナーレは、まったくすごい。演出とか演技とか映像とかいったものを超えた何かがある。
 あれはいったい何なのだろう? とずっと不思議に思っていたのだが(略)あれは、クリスマスの祖先たる太古の祭りの熱狂なのだ。時間と次元の混乱。クリスマス・プレゼントというとてつもない無償の贈り物。古い秩序の崩壊と新しい人生の誕生。『素晴らしき哉、人生!』は、死と再生の祝祭に捧げられた寓話なのである。」(「太古の祭り」瀬戸川猛資、『夢想の研究』所収)

 この文章に書かれている通り、「クリスマス映画」は単にクリスマスが登場するだけでは、ダメなのだ。そこには「めちゃくちゃ」と言うしかない熱狂状態が必要なのだ。そして、ここで「クリスマス」と呼ばれている熱狂は、それは何もキリスト教だけのこと、12月24日、25日の二日間のことを指すわけではない。

 「太古の祭り」によると、クリスマスはそもそも太古の冬至の祭りに源流を持っている。そこでは厳しい冬の終わりと、春の到来をにぎやかに祝うものだった。この太古の冬至の祭りの存在はもちろん、西欧社会に限ったものではない。「太古の祭り」の中でも引用されている、丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』では、そうした太古の祭りの要素が、歌舞伎の「忠臣蔵」に刷り込まれていると考えている。確かに「忠臣蔵」もまた、師走の大騒動の物語だ。

 つまりここで言う「クリスマス映画」の“クリスマス”とは、冬至の祭りの末裔であり、年末の一年が終わっていく寂寥感と新年への期待の中で繰り広げられる「にぎやかなお祭りごと」それ全体なのだ。そういう意味では除夜の鐘も初詣も、大きな意味で“クリスマス”の一部と考えてしまっていいだろう。

 翻って『東京ゴッドファーザーズ』を見てみよう。物語はクリスマスに始まり新年に終わるのだが、実は瀬戸川の一文が当てはまる部分が多く、びっくりさせられる。中でも「特にラストの三十分。このめちゃくちゃなフィナーレは、まったくすごい」という部分は、本当にそっくりあてはまっている。『東京ゴッドファーザーズ』のクライマックスはまさに一種の狂騒状態となって進行していくのだ。

 映画を観ていない人のためにあまり詳しくは書けないが、逃げる女がいて、追う3人組がいる。カーチェイスあり、ギンちゃんの「アクション映画顔負け」(ハナちゃん)のアクションあり、ビルの高所からの大ジャンプあり。そして、こうした熱狂の果てに、静かな新生の朝がやってくる。その澄んだ朝日は人の心を浄化し、観客を幸福な気持ちにさせてくれる。

 「クリスマス・プレゼントというとてつもない無償の贈り物」=清子の登場から始まった『東京ゴッドファーザーズ』は、「新しい人生の誕生」を匂わせて締めくくられる。これが「クリスマス映画」としての『東京ゴッドファーザーズ』なのだ。

 ところで「赤ちゃん映画」と「クリスマス映画」の間にも無視できない関係がある。聖書に詳しい人はピンとくるだろう。今回のホームレス三人組といい、『三人の名付親』といい、赤ちゃんの面倒を見る人物たちが三人組の場合が多いのだ。というのも、この3人という人数は、イエスが生まれた時に、星の輝きからそれを知り、祝福に訪れた東方の三博士にちなんでいるのだ。だから『三人の名付親』で、最後に残ったジョン・ウェインが赤ちゃんとともにニュー・エルサレムに到着した時、「メリー・クリスマス」と挨拶するのは、決して単なる挨拶ではないのだ。


 今敏監督はプレスシートにこう書いている。

「これら科学の論理兵器によって異界へと押しやられた『奇跡と偶然』を健全に回復しようというのが本作の試みです」。

 既に書いた通り『東京ゴッドファーザーズ』の持つ物語の構造は、と「赤ちゃん」と「クリスマス」に深く結びついている。この二つがあるからこそ、普段の生活の中では「思い過ごし」や「非科学的」と退けられてしまう、「偶然」と「奇跡」が、まるで当たり前のことのように日常生活の中へと導き入れられたのではないだろうか。
 『東京ゴッドファーザーズ』は、そんな映画なのだ。

          *

 以下は「赤ちゃん」「クリスマス」というキーワードからはどうしてもこぼれてしまういくつかの注目点を補足。
 まず筆頭に上がるのがキャラクターの描き方だ。『東京ゴッドファーザーズ』の登場人物、特に3人組は、非常に表情が豊かだ。喜怒哀楽、文字通り百面相のように表情が変わる。造型そのものは比較的写実的だが、その表情の変化は極めてマンガ的に大胆に崩している。こうした表情の変化は、もはや顔によるアクション映画といってもいいほどだ。それを、江守徹、梅垣義明、岡本綾の三人の演技が、より人間くさく膨らめている。

 キャストについては、サブキャラクターの配役の妙にも注目したい『巨人の星』の星一徹で知られる加藤精三、ジャッキー・チェンでお馴染みの石丸博也、『カウボーイビバップ』のスパイクほか幅広い芸風を持つ山寺宏一など、実力派のキャストが要所要所に登場して映画を締めている。いずれも、普通に考える適材適所とは微妙に違えながらも、キャストの力によってばっちり各キャラクターの個性を表現しているところが見事だ。

 また前2作との方向性の違いも興味深い。

 『東京ゴッドファーザーズ』は、今敏監督の第3作目にあたる。第一回監督作は『パーフェクトブルー』(97)。アイドルを主人公に、サイコサスペンスを展開した。劇中劇の出来事と、現実が入り交じり、主人公の現実感が曖昧になっていくさまに、アニメーションでなければ描けない怖さがあった。続く『千年女優』(02)は、回想と現実、それに映画の中の出来事がシームレスにつながり入り乱れながら、引退した大女優の人生が語られていくというという、これまたアニメーションでなければできないような、非常にトリッキーな構成の内容だった。

 前2作では「虚構」と「現実」を重ね合わせたり、連想でつないだりという技法が目をひいたが、今回はどう考えても現実にはありえない偶然の連続を、ご都合主義に見せず、説得力を持って見せていく部分に工夫が凝らされている。例えば、清子を見つけた直後に、3人が歩いているとペンキが落ちてきたり、スクーターにひかれそうになる場面があるが、どちらも大事にはならない。こうした小さな偶然のシーンをもっともらしくいくつか積み上げていくことで、偶然の連続が物語を進行させる、この作品のルールを観客にそれとなく示しているのである。「虚」と「実」の混交ではなく、「虚」と「実」の間を縫うように進んでいくのが『東京ゴッドファーザーズ』の演出なのだ。

 最後にトリビアを一つ。今監督による映画はすべてラストシーンが病院である。故意か、偶然かはわからないけれど。

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personap21 at 02:09│TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加

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