2007年07月31日

プラネテス セカイ系と非セカイ系の狭間で

関東では今朝方、『コードギアス 反逆のルルーシュ』が放映されましたが、その谷口悟朗&大河内一楼コンビによる『プラネテス』についての原稿です。『グレートメカニック』に掲載したものです。STAGE24&25放映記念、というわけではないですが、アップします。
なお、原作の幸村誠による新作『ヴィンランド・サガ』は、また作者の違った側面(共通点も多いですが)が見られる内容で、これまた興味深いのですが、それはまた別の機会にでも。


(タイトル)
セカイ系と非セカイ系の狭間で


(本文)
 『プラネテス』は、軌道上に浮遊するデブリ(ゴミ)回収を仕事とする主人公ハチマキを中心に、宇宙に魅入られた人々を描いた作品だ。原作は週刊「モーニング」に掲載された幸村誠による同名マンガ。アニメ版は、03年10月よりNHK衛星で放送。どちらもSFファンが選ぶ星雲賞に選ばれている。

 アニメ化にあたっては、主要な舞台の一つとしてテクノーラ社という宇宙産業関係の大企業を設定。主人公ハチマキが所属するデブリ回収チームも、デブリ課として同社の一員となる、原作と違った設定が与えられた。このアレンジに伴って、デブリ課の課長や、事業部長のドルフ、ハチマキの同僚として管制課のクレア、航宙課のチェンシンなどのオリジナルキャラクターが新たに配された。また、全26話という長丁場を構成するため、随所にオリジナルのエピソードも追加されて、『プラネテス』の世界の“解像度”をあげ、“広さ”を感じさせることになった。

 このように取り上げると、未見の読者の中には、「良作」(この言葉の持つ“主体の不在”と“体温の低さ”はどうにも違和感を禁じ得ない)と思う人も多いだろう。だがアニメ版『プラネテス』には、そうした「良作」というありきたりな言葉で収まりきらない部分が多い。というのもアニメ版『プラネテス』のアレンジは――奇妙な言い回しになるが――原作から離れることで、むしろ原作の本質へと接近してるところが最大の特徴だからだ。そして当然ながらこの原作の“離れ方”が、原作とアニメ版の違いを浮き彫りにしているところでもある。この差異と共通点の振幅の中にアニメ版『プラネテス』を味わうポイントがある。

 では、原作とアニメ版ではどこが違うか。

 先に紹介として書いた「会社もの」へのアレンジは、むしろ本質的な変更の結果、表層に浮かび上がったものに過ぎない。原作とアニメ版で最も違う部分はひとことでいうと、作品が持っているベクトルの向きだ。

 原作のベクトルは、ある一定の時点から急激に登場人物のインナースペースへと向きはじめる。具体的にいうとPHASE.5「IGNITION―点火―」における、ハチマキのオルター・エゴ(分身)の登場、それを引き継ぐ形でPHASE.12「夜の猫」より登場する猫のイメージが、ハチマキの物語をインナースペースへと引きずり込む。そしてハチマキのインナースペースと対になる形で、新人タナベが「捨て子で、ある歳まで一切言葉を持たなかった」というエピソードが、やはり猫を象徴に描かれる。またPHASE.9「サキノハカという黒い花 後編」における宮沢賢治の詩「サキノハカといふ黒い花といっしょに」の引用も、当初の手触り感覚ある宇宙ものからの雰囲気の変化を大きく印象づける。

 加えていうならば後半でページを割いて描かれる、木星往還船の開発責任者ロックスミスや、デブリ回収チームのリーダー、フィーをメインに据えたエピソードも、それぞれの登場人物の心のひだへと分け入っていくような内容になっている。
 おそらく原作は、最初からラストを想定して描き始められたものではない。PHASE.1「屑星の空」1が読み切りとして発表された後、おそらくはその好評を受けて、不定期連載されたものだろう。PHASE.1ではハチマキはまだ狂言回しにすぎないし、PHASE.2「地球外少女」までは髪の毛がベタでなく白で(PHASE.3からベタになる)、外見そのものも傍役的である。こうした過程から想像されるのは、おそらく作者は、一編一編物語を紡ぎながら、その過程を通じて、物語のテーマを発見していったであろうということだ。

 原作はさまざまな試練でハチマキを試しながら最終的には、宇宙(ルビ:スペース)とは自らのインナースペースをすべて含んだものであるという、一種の悟りともいえる境地へと到達する。そして宇宙の中にあるすべてのものは関わり合っていて、その相互作用こそ「愛」というべきものだと結論する。それを象徴するのが、木星に到達したハチマキが、地球へ送るメッセージの中にある「愛し合うことだけがどうしても辞められない」という言葉である。

 こうして改めて振り返ってみると、原作は非常に「純粋」な作品であることがわかる。人とは何か? 宇宙とはなにか? 文明や戦争に意味はあるのか? そして愛とは? そんな疑問にひとつひとつ誠実に向かい合っている。

 この「純粋さ」は、セカイ系の作品群と――まま重なるというわけではないが――一脈通じるところがある。

 セカイ系とは、90年代後半以降に登場したある作品群の傾向をとらえた言葉だ。広くは「キミとボクしかいない身の回りの状況と、それとリンクした世界の一大事しか存在しない世界観」が特徴といわれている。具体的には(当時はまだその言葉は存在しなかったが)『新世紀エヴァンゲリオン』をその嚆矢とし、代表的な作品としては『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』がよく挙げられる。ただし、もとの定義がかなりあやふやなので、それぞれの作品ごとにニュアンスはかなり異なっている。

 原作の『プラネテス』は、通常「セカイ系」では手薄とされる社会の状況も、かなり描かれている。しかしそれでも、「セカイ系」的ニュアンスを感じるのは、登場人物たちが「宇宙」や「愛」や「戦争(あるいは平和)」といった個人では考えようもない大きなテーマについて正面から深く思考し、そして自分なりに“納得”する結論へと到達するからだ。

 つまりインナースペースで繰り広げられる葛藤を「純粋」に突き詰めた結果、価値観の変容が起こり、彼らにとって「世界」が変容するからだ。原作のカタルシスは「世界」がインナースペースの働きの結果、変容しうる「セカイ」として立ち上がるところにこそあるといってもいい。

 唯一のリアリストとして描かれているロックスミスもまた、例外ではない。「神が愛だというのなら、我々もまた神になるべきだ。さもなくば……我々人間はこれから先も永久に……真の愛を知らないままだ」と語り、彼の動機も、自己を純粋に研ぎ澄ましていた結果立ち現れるであろう世界の変容にあることが示されている。

 つまり、私とセカイの相互作用こそ原作の核にあるもので、そこが原作と「セカイ系」が非常に接近している点でもある。

 これに対して、アニメ版のアプローチはまったく違う切り口で原作を切るところからスタートしている。アニメ版は決して、世界=セカイをその核にはしない。

 ちょっと神秘的な雰囲気を持った新人タナベは、頭でっかちな理想主義者ではあるがごく普通の女子として設定し直されている。ハチマキの心理的葛藤を描くために、アルター・エゴは登場するが、セカイの象徴としてのネコは登場しない(ただし、テロリストが通信中に使う画像の中に登場はする)。まして宮沢賢治の引用などもない。

 原作からそれらの要素を引き算した上で、アニメ版に加えられたのは「社会」である。「社会」とはつまり、それぞれの価値観を持った他人の集合体であり、セカイ系の世界観(不思議な言葉だ)の中には存在しない領域である。かつていくつかの作品とともにアニメ版『プラネテス』を「非セカイ系」の作品と呼んだことがあるのだが、その理由は、セカイ系では手薄になる「社会」というものを作中で表現しようと積極的に描き出そうとしていたからだ。

 テクノーラ社という設定は、そういう社会を具体的に描き出すための場所として非常にうまく機能していた。自分とまったく価値観の違う相手と、顔をつきあわせながらそれでも仕事をしなくてはならない場所として、会社という存在はまさに社会の縮図といえる。上司や会社の上層部だけではなく、ドラマには大きくかかわらないものの要所要所で登場するハチマキの同期たちの存在も、会社という場所の広がりを印象づけた。

 さらにアニメ版では1話完結のエピソードが多く入る部分を利用して、テクノーラ社以外のゲストキャラクターたちにもそれぞれの価値観や人生を与え、それを描いている。それもまた「社会」の存在を印象づける。

 たとえばPhase5「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。月へ向かうルナフェリーの中でハチマキやタナベたちと乗り合わせた乗客たちが繰り広げるややドタバタ色のあるエピソードだ。そこでは、借金を理由に心中を覚悟した親子連れ、タナベの財布をするスリ、それにあやしげな映画(AV)撮影クルーなどが登場し、折に触れてそれぞれの理屈で人生を語る。彼らは、「愛」を信条とするタナベと対照になることでお互いのキャラクターを強調し合う。

 これだけ取り出せば普通のエピソードなのだが、実は彼らの登場はこのエピソードだけに留まらないのだ。中でも少女シアとその両親は折に触れてその後が点描され、借金のカタに農園で働かされる姿や、そこを逃げ出す様子、一家でホットドックスタンドをやっている様子が描かれている。また最終回では、スリや映画(AV)撮影クルーが、別のエピソードのキャラクターたちとさりげなく接点を持っている様子がさりげなく挿入されている。

 こうした描写を重ねることで、本編はあくまでもハチマキとタナベにカメラが寄り添っているから「主人公」であるが、それぞれの人生においてはそれぞれが「主人公」なのであるという感覚が浮かび上がってくる。

 こうした感覚はセカイ系にはなかなかない。

 そしてそれぞれの人生を交錯させていく手法が見事に結実するのが、最終回のノノとハキムの出会いだ。

 ノノは、月面で生まれたルナリアンで、一度も地球に降りたことがない。一方、ハキムは大国中心の宇宙開発利権から取り残された弱小国の出身で、木星往還船の破壊などを実行しようとしたテロリストである。

 ハキムはこの前のエピソードでは、木星往還船に対するテロの最中にハチマキと決闘し、生死不明のままとなっていた。そういうキャラクターを最終回で再び出してきたという点だけでまず、作り手はハキムの価値観もまた否定しがたいと考えていることがうかがえる。

 そしてその上でハキムを「国境」というものを理解できないノノと出会わせたのだ。

 ハッチから漏れる光で明暗のコントラストがくっきりとついた月面。影の部分に立つハキムと光の部分に立つノノ。二人の間には消すことのない線が存在する。その線が存在するにもかかわらず、ノノとハキムは関わりあってしまう。そして、ハキムの中に生まれる幾ばくかの混乱。この出会いがどういう意味を持ったのか作品はあえて描かないが、それが一層、人と人が出会ってしまうことが人生であるという意味が際だっている。

 PHASE25「惑い人」(このサブタイトルは、プラネテスという言葉の意味の一つである)でハチマキは、人と人がかかわりあっていてそのつながりそのものが「宇宙」なのだと実感する。これは原作でもほぼ同様のエピソードとして登場しているが、アニメ版はノノとハキムのエピソードに代表されるように、「人と人のかかわりの総体」というものをシリーズを通じて描いているのである。

 つまり、アニメ版が原作になかった社会という要素を全面的に取り入れたことは、一見原作から離れたように見えながら、「この世に宇宙の一部じゃないものなんてないのか/オレですらつながっていて/それではじめて宇宙なのか」という原作の中核に位置するセリフを実感を持って指し示すためのアプローチだったわけだ。

 ここで原作の持っていた「セカイ系」的要素と、アニメ版が立脚する「非セカイ系」的要素がコインの裏表のようにピタリとはまるのである。そこにアニメ版の魅力がある。

 セカイ系というのは、言ってしまえば学生の世界観だ。たとえば劇作家の平田オリザは著書の中で、学生たちは「知らない人と会う」という経験に乏しいと指摘しているが、つまりそれは「キミとボク」と「(TVから伝えられる)世界の大問題」しかないということにほかならない。だが多くの社会人はそうではない。キミとボク以外の、もっと多くの他人が存在することを意識しながら生きている。セカイ系がしばしば批判されるポイントもそこにある。

 アニメ版『プラネテス』がアニメの枠を超えて、広く多くの人を刺激しうる作品になっているのは、そういう社会人の視線から見た感覚がちゃんと盛り込まれた上で、セカイ系が射程にとらえているようなスケールの大きな叙情、詩でしか語ることのできないような大切なことが、そっと差し出されているからなのだ。




personap21 at 09:14│TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加 仕事 | 書籍

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