2008年02月25日

デザインされた作品、『新世紀エヴァンゲリオン』

 久しぶりに古い原稿をアップします。これまでと同じように「グレートメカニック」の連載で書いた原稿で、題材は『新世紀エヴァンゲリオン』です。改めて振り返るので、できるだけベーシックなことを書こうと思って書いたものです。その前に書いた『CONTINUE』の全話解説が、わりと物語寄りになってしまったので、その反省も込めて書いていますね。あと編集のこと(セリフの後ろにコマをあまり残さないで編集しているために、セリフのニュアンスが過剰にならず、クールな雰囲気になる)が触れられればよかったのですが。

最新日記(7月4日付エントリ)にちょっとフォローを入れました。制作スケジュールの件です。


(タイトル)
デザインされた作品、『新世紀エヴァンゲリオン』

(本文)
 『新世紀エヴァンゲリオン』は95年10月4日よりテレビ東京で放送を開始し、96年3月27日に終了。その後、ラスト2話分に相当するエピソードをリメイクした劇場版が97年夏に公開され完結した。多くの人の記憶にある通り『エヴァ』は熱狂的なブームを生み、一つの社会現象にまで拡大した。
 そのブームの中『エヴァ』はさんざん語られた。いわゆる「『エヴァ』の謎」と呼ばれるような設定の読み解き、あるいは「『エヴァ』のさまざまな要素を現実と対応させた状況論、あるいは精神分析的作家論等々、さまざまな『エヴァ』論が溢れた。
 だが、そのような狂騒も既に過去となってほぼ10年。今改めて『エヴァ』の映像と向かい合った時に何が見えてくるか。それが、当時、初見で『エヴァ』に触れた時のショックの源泉でもあるはずだ。

 今改めて『エヴァ』を再見して、強く印象に残る点。それは一言でいうと「デザインされた作品である」という点だ。

 通常、デザインというと、パッケージ等の意匠や構成について指す場合が多い。また、『エヴァ』はその点においても、シャープな印象のデザインワークで、そのほかのアニメとは一線を画した印象があるのだが、ここでいうデザインとはもうちょっと本来の語義に近い意味においてである。
 デザインの語源は「計画を記号に表す」という意味のラテン語designareであるという。つまりデザインとは、あるプロジェクトを行うにあたって、思考・概念のレベルでマスタープランを立案し、それをプロジェクトの様々な状態に応じて表現していく、ということである。『エヴァ』はそのような意味で、徹底的にデザインされており、それがそのまま『エヴァ』という作品の様式になっていた。

 『エヴァ』のデザインの基本ルールを端的に言い表すと「集中と拡散」である。『エヴァ』は作品を構成する情報を「集中」させるか、「拡散」させるかを巧みに選択して、映像のメリハリを産み出しているのである。

 「集中と拡散」がもっとも明確なのは、作画であろう。
 『エヴァ』は各話平均3500枚という作画枚数の枠が決まっていた。作画枚数3500枚という数字は、最近のアニメーションでは平均的な数字である。そのため枚数のかかるエピソードには枚数を投入し、そうではないエピソードでは枚数を抑制する、という工夫がとられている。
 たとえば第壱話「使徒、襲来」、第弐話「見知らぬ、天井」はアクションが多いが、第参話「鳴らない、電話」、第四話「雨、逃げ出した後」ではアクションは抑えめのエピソードが配置されている。第伍話「レイ、心のむこうに」、第六話「決戦、第3新東京市」も使徒ラミエル戦で派手に見えるが、決して枚数がかかるようなアクションではない(だから、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の使徒ラミエルが3DCGで表現され、枚数の
 一方で第七話以降はアクションエピソードが続く構成で、第八話「アスカ、来日」、第九話「瞬間、心、重ねて」などは、枚数がかなりかかっている。
 作画の「集中と拡散」は、話数の間だけではない。『エヴァ』は、止め絵で済ませるカットはできる限り止め絵で見せられるように絵コンテ段階からコントロールをされている。

 かといってなんでも止め絵にしているわけではない。止め絵(場合によっては口パクだけは動くこともあるが)は、原則、緊張感を持続させるべきところに印象的に配されている。
 止め絵で印象的なのは、なんといっても碇ゲンドウであろう。司令部で顔の前に手を組むあのポーズをとったままゲンドウは微動だにしない。しかも、口も隠れていること少なくなく、セリフがあっても口パクすら動かない。また冬月副司令もそのうしろに静かに立っているだけだ。

 このほか印象的な止め絵を生かした演出としては第弐拾参話「涙」のアスカとレイがエレベーターに乗り合わせたカット、第弐拾四話「最後のシ者」でエヴァンゲリオン初号機が渚カヲルを掴んだカットの二つが挙げられる。
 アスカとレイのカットは、約40秒も絵が動かず、それが二人の間にあるよそよししい雰囲気を伝えている。そのラストにアスカが鼻をすすり上げるというアクション(DVD版。TV版は瞬きをする演技だった)が入ることも、それまでの静止の印象を逆に強めている。
 一方、初号機がカヲルを掴んでいるカットはアスカとレイのカットと違い、劇伴としてベートーベンの第9交響曲「合唱」が大音量で流れている。その映像のテンションの高さは、そのまま、自分を裏切った友達を手にかけるかどうかを苦悩する主人公シンジのテンションの高さでもある。

 映画監督・黒沢清は自著『映画はおそろしい』の中で、映画に求められるものの一つに予算のかかる「視覚的スペクタクル」を挙げ、その上で「抜群のセンスのある画面」はその代替になりうる、と語っている。
 『エヴァ』の作画における「集中と拡散」は、まさに「視覚的スペクタクル」と「センスのある画面」を制作状況にあわせて使い分けているというわけである。
 作画の「集中と拡散」というのは、しばしば制作上のマネジメントの問題として捉えられがちだ。だが以上のように、『エヴァ』の場合は、そうした制作上の理由が、物語を語っていくことと不可分な、一つの様式にまで昇華され、物語の進行と一体化しているところに魅力があるのである。

 『エヴァ』における「集中と拡散」はもちろん作画に限ったことではない。美術や小物などの描き込みや、音楽の使い方においても「集中と拡散」のルールは採用されている。
 美術などの描き込みについては、作画と同様にメリハリが重視されている。
 第壱話冒頭で出てくる国連軍の戦闘機などは、表面に特効によって汚れなどが描き込まれ、作画レベルでの描き込みに加えさらに精緻な印象を与えるよう作り込まれている。これは、信号機や電柱などについても同様で、これらもある種の偏愛を込めて、その細部まで細かく描かれている。またビールやジュースなどのパッケージもかなり細かく描き込まれている。

 だが、では美術や小物全般がすべてその水準で描かれているかというと決してそうではない。全体を見渡せばTVシリーズとして平均的な水準の描き込みのカットが多い。
 実は、ポイントポイントで高い密度に描き込まれたものを見せると、全体もまたそれぐらいの密度で描き込まれていると観客は錯覚しがちなのである。最小限の労力で最大限の効果。『エヴァ』が描き込みされた映像であるという印象は、こうした「集中と拡散」の産物なのである。

 もちろん制作上の理由だけで「集中と拡散」が行われているわけではないのは美術も作画と同様だ。暗闇とスポットライトのみで表現されるゼーレのメンバーのいる空間。あるいは、各キャラクターがしばしば収監されるネルフマークの描かれた暗い部屋。これらは、情報密をそのほかのカットと明らかに変えることで、ドラマ的にも特殊な空間であることを表現しているのである。

 一方、劇伴の使い方で「集中と拡散」の手法を強く印象づけるのは第拾四話「ゼーレ、魂の座」と第弐拾四話「最後のシ者」。
 第拾四話は、いわゆる総集編で、Aパートは、これまでの映像を使いながら使徒との戦闘を振り返るという内容である。この時に劇伴がいっさい流れないのである。
 そもそも劇伴の果たす最大の役割は、観客の感情の誘導である。登場人物の心理状態にそってつけられた劇伴は、言外にその感情を伝え観客の感情移入を促すし、緊張感などシチュエーションの雰囲気を伝える劇伴は観客に、効果音などとは別種の臨場感を与える。

 第拾四話Aパートの場合、ゲンドウがゼーレのメンバーにこれまでの経緯を報告するというシチュエーションである。ゲンドウは1クール目を見た限り、何を考えているか今ひとつ不明なキャラクターである。対するゼーレのメンバーはさらに正体不明で、後には人間の姿ですら出てこなくなってしまうような非人間的存在である。
 そんなメンバーが会議をやっている以上、そこに人間的な感情は存在しない。それがそのまま劇伴の不在となって表現されているのである。

 逆に第弐拾四話は、全編にわかって前述のベートーベンの第9交響曲しか流れない、という徹底した使われ方である。カヲルとシンジの初対面の時に、カヲルがこの合唱の旋律を口ずさんでいたことからもわかるように、この友愛についての合唱は、二人のテーマでもある。
 圧巻はBパートの戦闘シーン。カヲルがセントラルドグマを進みアダムの下へと向かう時に、第9交響曲の合唱パートが7分間途切れなく流れるのである。そしてその7分間のラストが先述の止め絵のカットとなる。
 この一連のシーンでは、人間の声が持つ生々しさとクラシックの荘厳さは、そのままシンジとカヲルのドラマと、それによって引き起こされるに至った初号機の戦闘にそのまま対応している。
 もちろん通常の劇伴をはめ込むことでも、シンジとカヲルのドラマ、そして二人の感情が交錯する戦闘を表現することはできただろう。だが、それを1曲――しかも有名なクラシック曲――に絞り込むことで、作品の持っている振れ幅が狭くなり、映像が一つのスタイルを獲得することにつながった。
 劇伴だけでなく、音響面にまで目を広げると第九話「瞬間、心、重ねて」のような例もある。ラストの初号機と弐号機がシンクロする戦闘シーン。このシーンは当初、戦闘に合わせたシンジとアスカの叫び声なども収録されていたという。しかし、最終的には二人の声はカット。SE(効果音)もつけず、純粋に劇伴と絵だけで構成されている。
 結果、この戦闘シーンは、音声とSEを引き算することによって、戦闘シーンを舞踏のように見せる、という狙いが一層明確に示されることになった。これもまた「集中と拡散」の一つの在り方である。

 アニメというのは、フレームの中を作り込んでいく作業である。また、セル画(調)のキャラクターは、実写などにくらべて圧倒的に情報量が少ないという特性を持っている。

 このようなメディアの特性を最大限生かすための戦略こそ「集中と拡散」なのである。現実をフレームで切り取る実写は、現実がさまざまな情報で満ちあふれているが故に、それをコントロールすることは非常に難しい。「集中と拡散」を操ることによって、物語を効率的に語ってみせるのはアニメならではの(ほぼ)特権的な手法なのである。

 『エヴァ』がこのような手法で作られていた以上、第弐拾五話「終わる世界」、第弐拾六話「世界の中心でアイを叫んだけもの」が、いわゆる「実験的」ともいわれるような、自由なスタイルでの映像になったのは当然の帰結であった。ラスト2話では、映像表現に留まらず、物語のレベルから「集中と拡散」が当てはめられ、さらに映像的には「拡散」を突き詰め、どこまでミニマムな手法で、「アニメ」としての表現が可能かを試しているのである。

 このように考えると『エヴァ』は、そのさじ加減は違えども、シリーズの最初から一貫して、一つのスタイルのもとに制作されてきたことがわかる。このスタイルの存在こそ『エヴァ』が、デザインされた作品という印象を与える最大の理由であり、初見の観客にとって大きなインパクトを与えることになった理由の一つである。
 この点について意識をとめながらTVシリーズを再見し、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』に足を運べば、さらなる発見があるはずだ。


personap21 at 03:30│TrackBack(0)このエントリーをはてなブックマークに追加

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