2009年03月14日

いまさらながら「DECODE02」第7話の件で恐縮です。

■もとになる原稿を書いたのも遅かったんですが、それを遂行する時間がなくて今になってしまいました。まあ周回遅れはもはなはだしいですが。で、話題にするのは『鉄腕バーディーDECODE02』第7話の件です。それはさておき『DECODE02』って『ミュンヘン』だったんですね。それがわかると、前作より確かに野心作と思ったり。

■世間では「作画崩壊だ」「いや、演出がOKしたのだから、そこを考えるべき」みたいな牧歌的な意見が踊っているわけですが、なんか大事なことを見落としてるんじゃないかなぁと思うわけです。(とりあえずここでは、ホントにスケジュールの悪さとかで、画面が体をなさなくなったものは除外して考えてます。あくまでも今回のようなケースについて)

■まず意識しなくちゃならないのは、、現場というか業界の中に「今みたいに作画監督・総作画監督で、絵柄をぎっちりそろえていく方法はもう限界じゃないか」って思っている人が少なからずいるということ。アニメで絵をそろえていく方向に、閉塞感が生まれてるんですね。

■これは言うまでもなく、アニメの根幹に関わる問題なわけです。当然ながら、絵というのは生理的なものだから、似せようと思っても、描く人によって必ず差が出るわけです。別にクリエイティビティを発揮しようとかそんな大げさなものではない範囲であっても。ましてアニメーターという画業につこうと思うような人であれば、基本、自分のスタイルというのを多かれ少なかれ持ってしまっているし、それはひょいひょい消せるものでもない。そういうブレ幅込みで技量を発揮するのが、アニメーターという存在だし、それを前提としているのがアニメという産業というわけ。

■だから90年代以降に出てきた「底上げ系」とでもいうべき、とりあえず絵をできるだけ統一しようという方向性は、「似せようとする努力」と「結果出てしまった差を消す努力」というダブルの圧力を産んでいる。また、予算の余裕のない作品ほど、作画にリソースが避けないからこそ、似せることを保険として活用することになるわけで。

■この圧力は、スタッフの本来持っているポテンシャルをかなり減じてしまうことになる。似せようとすることで描くスピードが遅くなってしまうとか、もっといろいろできる人がひたすら表情を直すことだけにその人の力が使われるとか。これは現場で、本来のその人たちの力を知っている人からすると、もったいない、という気持ちになるだろう。

■しかも、どこまで統一すればいいかといえば、おそらく究極的には「版権と同じ絵が動く」というところまで止まらないことになってしまう。当然ながら、そんなスケジュールもマンパワーもないから、この「ハイレベルな状態で絵を統一したい」という方向性は、そもそも血を吐きながら続ける哀しいマラソンでしかない、という未来予想がたつ。

■このあたりに、絵を統一していこうという流れにたいする閉塞感が生まれる理由があるわけです。

■閉塞感がある、ということは、結果、それに対するカウンターが生まれることになる。絵柄の差をなくすことで現場が窮屈になっているなら、できるだけ差を広くとろう、という考え方。たとえば作画崩壊とはまったくいわれていないが、、あるビッグタイトルは、最近のビッグタイトルには珍しく総作画監督を置いていない(なにかわかる?)。これもまた各話の作画監督の差を作品の味にしようというカウンターの一つといえる。

■で、その差をもっと大きくとったのが、今回の『DECODE02』第7話だったというわけだ。作画の暴走とか、演出がコントロールしきれていないんじゃないか、とかいうレベルの話を超えて、第7話は、制作現場がアニメをどういうスタンスで作りたいと思っているかという、所信表明みたいなものと受け取るべきだと思う。

■当たり前だけれど、ものをつくるというのは共同作業で、例えば完成した画面の意味や責任を作画と演出に分けて考えるというのは難しい。だから、肯定否定どちらでもいいけど絵だけを問題にする“作画オタク”に対して、それは演出の問題、というのもまた、「今の日本が悪いのは戦後教育だ!」並に、そこまで話をアバウトにすればそれはそれで正論ですけどね、としかいいようのない話だったりするわけで。

■第7話の絵コンテは森田宏幸、演出は堤雄一郎。クレジットをどこまで信じていいかは(監督などの手が入ってもクレジットされないことが多いから)、取材無しでアニメを語るときの最大のネックなわけだけど、ここでは勝手に見た印象から書いてみよう。たとえば、ペラペラ系のアクションで進む背景動画のカットなんかは、おそらくアニメーターにお任せだったんじゃないかなぁ。絵コンテふられた人が、そのカットの原画担当者を知ってそれにあわせて描くというのはあまりなさそうなので。でも逆に言うと、おそらく一番違和感が大きかったのはあのペラペラ系のところで(あれはあれで、ここまで幅があってもOK!という主張を感じるわけですが)、クライマックスのバーディーの大立ち回りなんて、そんなに騒ぐほど違和感の強いレベルでもないと思うのだけれどね。あれはシリーズに1回、ここでしかない表情・芝居なわけだから、比較の仕様がない。

■たとえば「完璧な作品」というところから、減点をするならば、「絵が崩れている」というよりも、カットごとに立体のとらえかたが違うという「アートの形式の違い」を減点対象にする人はいるだろう。同じ事をやるにしてももっとエレガントにやれと思う人もいるかもしれない。それはそれで、作品がある種の姿勢を表明したのだから、それぞれの受け取り方があるだろう。

■そのようなことを踏まえた上で、まず僕の態度としては、今回の所信表明を「擁護」したいと思う。できあがったフィルムもさることながら、僕も、前述のような「絵にあわせていくことでOKになる」閉塞感をなんとか突破できないかなと思っているから。そこに未来があってほしいという希望ともいえる。だからあれぐらい、野蛮であるからこそ、その所信表明に意味があるとも考えてます。もしかすると、こういうことの積み重ねが、「キャラ作画底上げ時代」の次を用意するやもしれないとも思うし。

■要は、あれは作画のスタイルとか演出の方針とかそういうこととは、一つ上のレベルで起きている出来事だってことなんですね。ただでさえ日本ではアニメターが育ちにくくなってるっていう状況なわけですよ。それを振り幅の狭い、窮屈な仕事にしていったら、アニメーターになるべき人がどんどんほかに流れて減ってしまうように思うわけ。そのバランスがうまくとれればなぁと。だからこその「擁護」という言葉を使うわけです。多様な作画が、次世代の作り手or観客となるファンを刺激するといいなぁと。

personap21 at 06:12│TrackBack(1)このエントリーをはてなブックマークに追加

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1. ここは酷いBRTですね  [ 障害報告@webry ]   2009年03月15日 20:00
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