スキッドの開発史をやるやるといいながらまた横道にそれてしまうのだが、今回はHowarth&Law, Battle of the Atlantic 1939-1945,(Naval Inst.Press, 1994)に「ソヴィエトから見た「大西洋の戦い」」という興味深い小論が載っていたので紹介する(31. The Soviet View, N.V.Naumov)。著者はモスクワ大学助教授のニコライ・ナウーモフ(当時)。その主題は大戦中の出来事ではなく「大西洋の戦いは戦後のソ連歴史学界でどのような扱いを受けてきたか」というもの。直接ソ連・東部戦線との連関が薄かったこともあって戦時中はその存在自体がほとんど知られていなかった(「プラウダ」をはじめ新聞記事での言及はあったが散発的なもの)。

 1946-48年ごろに「モルスコイ・スボルニク」(ソ連海軍機関誌)の誌上にいくつかその概略を紹介する記事が出ていたものの、ソ連歴史学の研究において大西洋の戦いに関して本格的に言及されるようになるのは、スターリン批判後に外国の歴史研究の紹介の制限が緩和され、1956-59年にサミュエル・エリオット・モリソンの『大西洋の戦い』『大西洋の勝利』(米公刊戦史)が翻訳出版されて以降のことになる。
 ただしその解釈は「東部戦線こそは第二次大戦の「主戦線」であり、基本的にナチスドイツに対する勝利はソ連が独力で達成したものであり、西側諸国が果たした役割はソ連の勝利に対する補助的なものに過ぎない」とするソ連政府の公式テーゼに従い、「主戦線」にさしたる貢献をもたらさなかった些末な戦線、として取り扱うというものであった。モリソンの『大西洋の勝利』にはわざわざ軍事史家エレメーエフが「この戦いの意義を不合理に誇張しようとする西側歴史家の意図に注意せよ」という序文を寄せている。エレメーエフは最終的に「大西洋の戦いは戦争の帰結に何ら意味のある貢献はなしえていない」と結論付け、西ヨーロッパへの第二戦線の形成が成功したのは海上交通路が確保されたためではなく、ドイツ陸軍の大部分が東部戦線にくぎ付けになっていたためであり、またそのような意義の薄い「大西洋の戦い」に大量のリソースがつぎ込まれたことは戦勝への貢献どころかむしろ無駄遣いである、とまで主張する。またエレメーエフが挙げた海を通じてもたらされた英米の援ソ物資の総量は、ソ連軍が使用した物資のわずか4%である、という数字は現在に至るまで権威のあるものとして引用され続けているという。

 このような「主戦線への貢献が薄い支戦線」という解釈のもっとも極端な例は、1976年の「ソヴィエト軍事事典」の「大西洋の戦い1939-1945」の項目(K.V.ペンジン)にあらわれている。ここではなんと大西洋の戦いの勝利は東部戦線の勝利によってもたらされた、という、主客が転倒しているように見える解釈がなされる。ペンジンは大西洋の戦いの全期間を3つに分類し、1941年6月までの第1期は、ソ連が参戦していなかったためドイツの海空戦力が大西洋での通商破壊に集中できたのでドイツ側有利に進展した時期、1941年7月から1943年3月の第2期は独ソ戦の開始によってドイツの戦力が大西洋から引き揚げたので情勢が連合軍有利に傾く時期、1943年4月以降の第3期はソ連軍の前進によってドイツ軍の戦力が東部に吸い寄せられたため連合軍が決定的に有利となってUボート艦隊を打ち破った時期、と定義されその結果「その遠く離れたその距離にもかかわらず、大西洋の戦いの勝利は東部戦線の情勢に依存していた」という、大西洋の戦いそのものにおける連合軍の努力をほとんど無視する驚くべき結論が導かれてしまう。

 正直に言って正当とは言い難い評価が下される背景として、ナウーモフは「歴史研究に対する共産党の政治的介入・スターリン主義者の歴史解釈の影響の残滓」を挙げており、それも大いに影響があることとして首肯できるものではあるが、筆者はこのような状況を「東側の特殊性」のなかに押し込めて理解してしまうよりは、第2次大戦のような複雑な事象を伝統的な一国史の範疇で扱うことの限界、というより普遍的な問題を考えてみるべきではないかと考える。

 「東部戦線が第2次大戦の「主戦線」であって、主力としてナチスドイツを打倒したのはソ連軍である」という解釈は、たしかに政治的な意図を濃厚に含んだ主張であるのだが、それが広く受け入れられたのはソ連が被った被害や逆に枢軸国に与えた損害から見て、客観的にも十分正当性はある主張であったからだ。そしてその多くがみずからも戦場に立った経歴を持つ当時の歴史研究者たちにとっても、実感をもって納得できる解釈でもあったのであろう。ソ連が海上交通にほとんど依存することなく戦勝を得たこともその重要性の認識を妨げたのかもしれない。また自国と遠く離れた、しかも実態がよく知られていない戦場について、まず自国との関連性や影響という観点からアプローチする、というのも一国の歴史学界の態度としてとくに問題のあるものとはいえない。したがってこのような解釈が生まれたことを、政治的ドグマの押しつけの結果であると単純に結論付けることには慎重でありたい。むしろ他のプレイヤーが抱えていたさまざまに事情を等閑視して、ソ連の戦争指導部の視点のみから、「ナチスドイツの最終的打倒への貢献」という単一の文脈によって、広大で巨大な大戦のすべてを解釈しようとしたとき、そのような問題が生じてくるのではないか。東側には学術研究に対する政治の指導・介入という別の問題があったためにそれが極端な形で表れているとはいえ、どこの国の研究者もまずは自分が生まれ活動している国の視点を無意識のうちに中心に据える傾向を持っているものである。なんらかの戦場や措置、戦術や兵器の「重要性」を「評価」する場合、同じ誤りを犯している研究も少なくないのではないだろうか。

 他国や他の勢力だけではなく、同じ組織の中でも階層や立場によって「視点」は無数に存在する。「一国史ではなくグローバル・ヒストリーの枠組みを意識して」などと力んで述べるほどではなくとも、なにかの評価を述べようとするときはどの視点から見たものであるかについて、常に意識しておく必要があるのだろう。

 ※なお冒頭で述べたとおりナウーモフの小論はソ連解体から間もない1994年に書かれた物であり、すでに20年が経過している。ポストソヴィエト期のロシア国内の歴史研究の状況については筆者は情報を持っていない。現在のロシア国内における大西洋の戦いの受容は全く違ったものになっているかもしれない。