歴史的記録は不完全であることを宿命づけられている。個々の人間の行動をすべて記録することは不可能だ。たとえ何らかの革新によって外形的な行動が記録可能になったとしても、その意図までは、当事者が記録に残そうとしない限り残らない。歴史を研究しようとする者は飛び石のように残っている記録を慎重につなぎ合わせて行動と意図を再構成しようと挑む。当事者の述懐や文書に、その行動の意図が説明されている場合そのプロセスは省略できる…とは限らない。個人も組織も等しく、ときに大胆なまでの嘘をつくのだ。その嘘には秘密を守るためであったり、現在の外交関係を損なわないためといった理由でやむを得ずつかれるものもある。が、それと同じくらい、いやより多くは単にある個人や組織自体の面子を守るためにつかれるものである。軍隊はとりわけ威信・面子にこだわる官僚組織であってその例外ではない。何かまずい事態が起こったとき、起こった出来事自体を隠し通すのは戦時であっても困難であるが「なぜそのような事態が起こったのか」については、意思決定に携わった少数の者が口をつぐみ、聴こえの良い別の説明を流布させることができればそれなりの期間嘘をつきとおすことが可能なのだ。…しかしそれも永遠には無理である。記録を残すのは組織だけではない。関わった個人個人も記憶をもとに記録を残すし、戦争であれば敵側もまた出来事を記録する。そこにはかならず「公式」の説明と矛盾するものが出てくるし、訓練を受けた、そして執念深い歴史家はそれを見逃すことはない。
 今回取り上げるのは、実に「くだらない」「つまらない」原因によって引き起こされたある悲劇と、そのくだらない原因を隠蔽するために行われた工作、そして隠蔽によって公刊戦史に真っ赤な嘘を書かされることになった老歴史家が死の間際に放った痛烈な反撃の物語である。
1.連合軍のノルウェー撤退 

 1940年6月、ノルウェーの戦いは終焉を迎えようとしていた。ドイツ軍はノルウェーの国土の大半をすでに支配しており、ノルウェー政府と軍の残余、そして英仏の遠征軍は、わずかに北部の港湾都市ナルヴィクとその周辺を確保するのみであった。局地的には連合軍は優勢を保っており英海軍と空軍の支援を受け続けることができれば相当の期間持久することが可能と見込まれたが、主戦線たるフランスの情勢が悪化する一方であったためノルウェーに拠点を確保しておくことにはそれだけの戦力をつぎ込む価値はなくなりつつあった。ダンケルクで包囲された大陸遠征軍が英本土へ脱出を開始したのと同じ5月下旬に、ノルウェーからの全面撤退が決定されたのであった。およそ25,000人の兵士が乗り込む撤退船団を指揮する英海軍のコーク侯爵のもとにあった戦力は以下のとおりである。 ※1

ノルウェー撤退船団(侯爵コーク元帥)

直接護衛部隊 ジョン・ヴィヴィアン少将
防空巡洋艦「コヴェントリー」(旗艦) 軽巡洋艦「サウサンプトン」 工作艦(元巡洋艦)「ヴィンディクティブ」 駆逐艦10

機動部隊 ライオネル・ウェルズ中将
空母「アークロイヤル」「グローリアス」

間接護衛部隊
戦艦「ヴァリアント」駆逐艦5


 1隻に1000〜2000人の兵士を乗せた主に客船改造の大型兵員輸送船14隻は2波に分かれて英国を目指す。その他の輸送船やタンカーは単独、または少数のグループに分かれて個別に脱出を図ることになっていた。また通常の撤退船団とは別にトロムソ港からノルウェー王室と政府首脳を乗せて重巡洋艦「デヴォンシャー」が単独で英国へ向かった。英海軍の最大の懸念はドイツ海軍の大型艦の動向がつかめないことであった。1940年春の時点ではドイツ海軍のエニグマ暗号は無傷であって解読は不可能であり、またキールやヴィルヘルムスハーフェンといったドイツ海軍根拠地の航空偵察も、この時期にはごくたまにしか実施されず、その行動を推測する材料はごく限られていたのである。それでも断片的な情報からドイツ艦隊の一部が出撃したのではないかとの推測もなされたが確証のあるものではなかったため撤退を指揮するコークにもそれを掩護する本国艦隊司令長官フォーブス大将にも何ら警告は伝達されなかった ※2。英海軍は虚報にも振り回された。6月5日、フェロー諸島付近で英武装商船「プルネラ」が「アイスランド方面へ向かうドイツ艦らしきもの2隻」を見た、と通報したのである。「プルネラ」の通報はひどく曖昧なものであったがフォーブスは無視することもできず手元の戦力からホイットワース中将の巡洋戦艦「レナウン」「レパルス」と軽巡洋艦2隻を差し向けざるを得なかったが結局これは誤報であることが判明した ※3。貴重な戦力である巡洋戦艦2隻はアイスランド周辺を無為にうろつきまわっただけで撤退掩護に何ら貢献することができなかったのであった。また本来、ドイツ艦隊の進出路として警戒が必要なノルウェー海南部やスカゲラーク海峡の偵察・哨戒もまったく不十分であった。信じがたいことであるが、秘密保持を優先するあまり撤退を支援するために密接に協力しなければならない空軍の沿岸航空軍団には、撤退作戦が進行中であることが通知されていなかった ※4。したがって沿岸航空軍団は特にそういった海域の哨戒活動を強化することもなかったのである。英海軍はドイツ艦隊が撤退を妨害できる位置に進出しているのかどうか、あやふやなまま行動を起こさざるを得なかった。

 6隻の輸送船からなる第1波は5隻の駆逐艦の護衛のもと6月7日にナルヴィク北方のハールスタ港を出港し、翌日本国艦隊から派遣されてきた戦艦「ヴァリアント」と合流し、9日は英本土に無事到着することができた。翌8日残りの8隻の輸送船もコークの本隊の護衛のもとハールスタを出た。第1波を本国近くまで送り届けた「ヴァリアント」も押っ取り刀で引返してこれに合流する予定であった。…しかし第2波船団の護衛部隊の中には空母「グローリアス」と駆逐艦「アーデント」「アカスタ」の姿が見えなかった。その3隻はとある理由があって船団に同行せず、7日深夜のうちに先行して英本土へ向かっていたのである。その「理由」がのちのち問題になってくるのであるが…。


2.ドイツ軍の「ユノー」作戦

 英海軍の懸念の通り果たしてドイツの主力艦隊は出撃していたのであった。6月4日夕刻、ヴィルヘルム・マルシャル大将の率いる戦艦「グナイゼナウ」(旗艦)「シャルンホルスト」重巡洋艦「ヒッパー」と駆逐艦4隻はキール軍港を出港してノルウェー北部へと向かった。ただしこれは英軍の撤退を妨害するためではなかった。ドイツ軍はこの時点ではむしろ追い詰められているのは自分たちである、と感じており、まさか英軍が先に撤退するなどとは考えていなかったのである。ナルヴィク周辺では連合軍が優勢でありエドゥアルト・ディートル中将率いるドイツ山岳兵は孤立し苦戦を強いられていた。その救援をヒトラーその人が強く望み、陸軍空軍が増援を送り込む算段を大急ぎで進めている中、海軍も座して傍観しているわけにはいかなかった。海軍は現状投入できる大型艦すべてをもって連合軍の兵站基地であるハールスタ港を攻撃し、連合軍船団と付近の水上艦隊を撃破して制海権を奪回、ディートルを救援することを企図したのであった。

 しかし6月7日夜、ヤンマイエン島の南東海域で偽装タンカー「ディトマルシェン」と会合して補給を済ませたのち、次々と舞い込んでくる連合軍の全面撤退をにおわせる偵察報告を受けたマルシャルは、独断で空振りに終わる可能性が出てきたハールスタ攻撃をあきらめ、ハールスタ西方で空軍の偵察機に捕捉された厳重に護衛された船団(コークの第2波船団であった)に目標を切り替えることにした。もともとマルシャルは作戦目的が不明確なうえ偵察が十分に行われていないフィヨルドに大型艦を突入させねばならないハールスタ港の攻撃には乗り気ではなかったこともこの決断を後押しした。マルシャルの行動を監督する西部方面艦隊司令長官ザールヴェヒター大将は驚いて翻意を即したがマルシャルの決意は固かった。その決断はすぐに報われた。翌8日朝6時、ドイツ艦隊は船団本体から離れてイギリスへ向かっていたノルウェー船籍のタンカー「オイル・パイオニア」と護衛の武装トロール漁船「ジャニパー」を発見してこれを沈めた。さらに2時間後には兵員輸送船「オラマ」(ただしほぼ空荷)も獲物に加わった。ここでマルシャルは「ヒッパー」と駆逐艦4隻を分離させてトロンヘイムへと向かわせることにした。駆逐艦の燃料が心細くなったことと、ディートル救援のために北上中の陸軍部隊の支援という本来の任務にあたらせるためである。戦艦2隻のみになった艦隊は、さらに空軍の偵察報告にあった船団本体を探し求めて北上した。8日15時46分、「シャルンホルスト」の見張所に立っていたジークフリート・ゴス少尉候補生は右舷はるか前方にかすかな煙を認めて艦橋に報告した。旗艦「グナイゼナウ」艦橋でその報告を聞いたマルシャルはこの煙の正体を確かめるべく増速と接近を命じた ※5※6


3.「グローリアス」の沈没

 この煙はコークの本隊から離れて400キロほど先行してスカパフローの英海軍基地へと向かっていた空母「グローリアス」と護衛の駆逐艦2隻のものであった。「グローリアス」は1916年完成の老兵である。バルト海における上陸作戦支援に使用するため、喫水の浅い小ぶりな船体に無理に38センチ砲4門を搭載した「大型軽巡洋艦」として完成したが、第1次大戦後余剰兵力となっていたところ、1924年にその高速振りを見込まれて新しい艦種である航空母艦に改装されることになった。改装工事は足かけ6年にわたる大がかりなものとなり生まれ変わった「グローリアス」は1930年に再就役を果たした。英海軍の財政難からその後近代化改修などは行われず、やや旧式化しつつはあったが最大48機の艦載機を搭載できる「グローリアス」は英海軍にとって貴重な艦隊型空母の一隻であった。しかしノルウェー戦で英海軍の空母艦載機はその非力さをさらけ出した。シーグラディエーター戦闘機やソードフィッシュ攻撃機といった複葉機はドイツ空軍の近代的なBf110などの戦闘機にかなわず、唯一の単葉機であるスクアは優秀な機体ではあったが複座戦闘機と爆撃/偵察機を兼ねるという中途半端なコンセプトのせいで活躍の場が限られた。ノルウェー戦で「グローリアス」が成し遂げた貢献はむしろ航空機輸送艦としてのものであった。翼の折りたたみ機構を持たない複葉機を運用することを考えてきわめて大型のエレベーターを備え付けていた「グローリアス」は同様に翼のたためない空軍の単発小型機を輸送するためにうってつけだったのである。2回の出撃で「グローリアス」は約40機の空軍の戦闘機をノルウェーに送り込むことに成功していた。今回の出撃でも同様の輸送艦としての役割が期待されていた。ただし今回は空軍機を送り込むのではなく、撤退に際してなるべく多くの空軍機を収容することが目的である。そのため艦固有の艦載機は自衛のために必要な9機のシーグラディエーターと6機のソードフィッシュに制限され、格納庫には大きな余裕があった。そして6月8日の時点でその格納庫には18機の空軍戦闘機が無事収容されていた。そのうち8機は、機体を爆破して放棄せよとの命令に背いてアレスティングフックの代わりに後輪に土嚢袋をブレーキとして装着し、誰も試したことのない単葉陸上戦闘機の空母着艦という離れ業をぶっつけ本番で成功させて見せたケネス・"ビング"・クロス中佐率いる空軍第46スコードロンのハリケーン戦闘機であった。8日16時すぐ、ここ数日撤退支援のために出撃し通しで疲労困憊の状態だったクロス中佐とクルーたちは飛行甲板の端で日光浴にいそしみ「客」としての航海を楽しんでいた。しかしうたた寝をしていたクロス中佐は突然のサイレンと艦内放送にたたき起こされた、「総員戦闘配置!」−

 6月8日のノルウェー海は快晴で視程はこの海域にしては例外的なほど良好であった。ゴス候補生がその排煙を発見した時点で両艦隊の距離は約46キロも離れていたのである。早朝に攻撃された「オイル・パイオニア」をはじめとする輸送船は攻撃されたことを報告する間もなく沈められたため、いまだに英海軍は「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」がこの海域で活動中であることに気が付いていなかった。ドイツ空軍機の行動範囲内にもかかわらず「グローリアス」は第4種警戒態勢、すなわち平時の巡航中と同様の態勢しかとっておらず、周辺警戒のための搭載機によるパトロールどころかマスト上に見張り員すら配置していなかった。ノルウェー戦支援のためこの2か月で3度もこの海域を平穏な航海のうちに往復していた「グローリアス」は完全に油断しきっていたのである。「グローリアス」がドイツ艦のシルエットを発見したのはやっとドイツ側に遅れること30分の16時15分、さらにそれを敵と識別したのは16時20分にまでずれ込んだ。「グローリアス」の艦長ガイ・ドイリー=ヒューズ大佐はあわてて増速を命じるとともに接敵報告の緊急電を送らせた。しかし「グローリアス」は燃料節約のため18基のボイラーのうち6基の火を完全に落としており、機関をすぐには全開にできない有様であった。標的を英海軍の空母であると正しく見定めた(ただし当初は「アークロイヤル」であると誤認していた)マルシャルは艦載機に発進される前に距離を詰めることを命じ、16時32分に距離を26キロまで縮めたところで「シャルンホルスト」が初弾を発射した。以降は一方的な戦いであった。16時38分に初めての命中弾がでるとその後も次々と「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」の28センチ砲弾が「グローリアス」に降り注ぎ、飛行甲板は急ぎ魚雷装着と発進準備を進めていた2機のソードフィッシュの機体ごと破壊され、格納庫では航空機用ガソリンと機銃弾に引火して制御不能の火災が発生した。16時58分には艦橋付近への命中弾によりドイリー=ヒューズと艦の幹部の大半は戦死、17時30分過ぎには複数のボイラーも破壊されて「グローリアス」は推進力を失い激しく炎上しながら右舷に大きく傾いて漂流を始めた。

 護衛の駆逐艦「アーデント」「アカスタ」は「グローリアス」を逃がすために献身的な働きを見せた。敵味方識別のためにドイツ艦隊に接近していた「アーデント」は「グナイゼナウ」の副砲の集中砲火を浴びつつも2度の魚雷攻撃を敢行してドイツ艦に回避行動をとらせることに成功したが17時25分ごろに左舷から転覆して沈没した。「グローリアス」と同航する「アカスタ」は効果的な煙幕展開を実行して「グローリアス」の姿を隠し16時58分-17時20分ごろまでドイツ艦隊の砲撃を中止させることができたが、肝心の「グローリアス」が速力を大きく落としている状況では効果は一時的なものにとどまった。それでも「アカスタ」はあきらめることなく煙幕をあちこちに展開してはその陰から飛び出してドイツ艦隊に迫った。17時34分には煙幕の切れ間から巧妙な魚雷攻撃を行い、「シャルンホルスト」の右舷艦尾に一発を命中させた。これによって「シャルンホルスト」では48名が戦死し速度は20ノットまで低下した。両駆逐艦の戦いぶり、とくに「アカスタ」のそれはドイツ側に強い印象を与え、戦闘後に「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」は戦闘旗を半旗として掲揚しその勇敢さをたたえ哀悼の意を表したほどである。しかし「アカスタ」の奮戦もここまでであった。「グローリアス」がほぼ無力化されたことを確認したのち「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」は「アカスタ」に砲火を集中し、18時20分「アカスタ」も沈没した。「グローリアス」もほぼ同時刻に海中に姿を消していた。英艦隊は全滅したのであった ※7

 それでも「アカスタ」の献身は一部報われた。「アカスタ」の攻撃で損傷した「シャルンホルスト」を抱えたまま作戦を続行することはできず、マルシャルは船団本体の攻撃はあきらめてトロンヘイムへと進路をとったのであった。「シャルンホルスト」をトロンヘイムに送りどけたマルシャルは「ヒッパー」を伴ってすぐに撤退船団を求めて再出撃したが、すでにフォーブスの直率する戦艦「ロドニー」巡洋戦艦「レナウン」が掩護に駆けつけていたたため引返さざるをえなくなった。コークの船団本体はドイツ空軍機の散発的な攻撃を「アークロイヤル」搭載のシーグラディエーターによって追い払いつつ、6月10日から11日にかけてスコットランドのグリーノックへ無傷のままたどり着いた。

 海中に取り残された生存者たちの運命は過酷であった。3つの艦から脱出に成功したものはおよそ900人ほどであったと伝えられている。ノルウェー海北部の海水は冷たいものだったがそれでも6月という時期は悪くなかった。前述のとおり天候は例外的に穏やかであったこともあり速やかに救助がなされていればその大半は助かったと考えられる。潜水艦の活動を警戒したドイツ艦隊は救助を行わずに立ち去ったが ※8、接敵と戦闘に関する緊急電は何度も発信されている、おっつけ救援がやってくるはずだ、生存者たちとくに士官たちはそう考えたが待てど暮らせど救助はやってこない。実は「グローリアス」が少なくとも3回発信したはずの緊急電はどこにも届いていなかったのである。2度ほど船団本隊を護衛する「アークロイヤル」が飛ばした索敵機が上空に姿を見せたが必死に手を振る漂流者たちには気が付かないままむなしく飛び去って行った。時間がたつにつれて生存者は浮きにつかまったまま体力を使い果たして次々と絶命していった。英海軍が「グローリアス」沈没を知ったのは翌9日、しかもドイツのラジオ放送における戦果発表によって知るという失態であった。結局11日(沈没の3日後!)に現地を通りかかったノルウェーの貨物船「ボルグント」に救助された37名、ノルウェーの漁船「スヴァールバル供廚暴Δ錣譴5名、ドイツ海軍のHe115水上機に助けられた1名、合計43名のみが命を永らえた。うち41名は「グローリアス」乗組み、「アーデント」と「アカスタ」の生存者はわずかに1名ずつにすぎない。死者は3隻合わせて1519名の多数にのぼった。その中には便乗して英国へ向かっていた英空軍のパイロットたち41名も含まれている ※9。不屈のクロス空軍中佐は第46スコードロンの戦時日誌を後生大事に抱えながらイカダにしがみついて3日間の漂流を耐えぬき生還した。


4.ストークス下院議員の質問と「公式回答」 

 敵の攻撃に対してきわめて脆弱な空母を、敵水上艦が活動しているかもしれない危険な海域を、わずか駆逐艦2隻の護衛のもとに航行させて喪失したことは、控えめに言っても大失態であるといえるが、英海軍はその責任を追及するように動きを見せなかった。英海軍は「ボルグント」が連れ帰った生存者(その他の生存者はドイツの捕虜となった)に対して戦闘状況の簡単な聞き取り調査を行ったのみでそれ以上の調査は行わなかった ※10。しかし誰もがそれだけで済まそうとは考えなかったのであった。同僚に多くの犠牲者を出した艦隊航空隊(FAA)の将校たち、そして乗組員の遺族はには強い不満があった。その不満を代弁したのが自らの選挙区民にも多くの犠牲者が出たリチャード・ストークス下院議員(労働党・イプスウィッチ選出)であった。彼は早くも沈没の2か月後の1940年8月にはこの問題を議会で取り上げている。当初ストークスが突いたのは海軍と空軍の連携の悪さと救助努力の欠如であったが、次第に「そもそもなぜ「グローリアス」は船団に同行せず、貧弱な護衛のもとに単独で先行することになったのか?それは誰の決断であったのか?」という疑問を集中して追及するようになっていった。2波の兵員輸送船団本隊はドイツ空軍機のわずかな空襲をのぞいてまったく脅威を受けることもなく英国にたどり着いているのであるから当然の疑問であるといえよう。戦時中は「そのような情報は軍機に属するため公開できない」の一点張りで跳ね返され続けたストークスの努力は、戦後1946年5月になって報われた。ストークスが海軍に提出した質問状にはじめて公式回答がなされたのである。ジョン・ダグデイル海軍政務次官の名前で出された回答における「グローリアス」の先行の理由は以下の通りであった:

「「グローリアス」は旧式艦であり残念ながら航続距離が「アークロイヤル」などと比べて短かった。したがって6月8日時点における燃料の残量は、船団に同行して護衛のための航空作戦を行いつつ英国本土にたどり着くには十分ではなかった。そのためドイリー=ヒューズ艦長は機動部隊司令官ウェルズ中将に先行してまっすぐ英本土へ向かえるよう要請し、ウェルズはそれを許可した。」 ※11

 しかしこの「燃料不足」という理由については、ストークスや遺族たちどころか、ノルウェー戦当時の海軍大臣だったウィンストン・チャーチルすら満足しなかった。チャーチルは1948年に出版した回顧録の第1巻で「その説明には納得がいかない。「グローリアス」には船団と同行できる十分な燃料があったはずだ。」と述べている ※12。そもそも「グローリアス」は5月31日に燃料を満載してスカパフローを出港したばかりであった。4月と5月の作戦行動では丸2週間無補給で行動したが燃料不足に陥ってはいない。「グローリアス」の航海日誌自体は失われてしまったが、スカパフローから逐一行動を共にしていた「アークロイヤル」の燃料消費量を見ても「グローリアス」は十分余裕をもって船団に同行したうえで帰港できたことはほぼ確実なのだ ※13。そして艦隊航空隊の将校たちの間では、「燃料不足」はあくまて表向きの理由であってこの単独先行にはある「裏の理由」があったのだ、という根強いうわさが流れていた。しかしいまだ戦時の記録文書が非公開である以上、何らかの記録をもとにしていると思われる「公式回答」の壁は厚かった。まして「グローリアス」の士官の生存者はいずれも艦の行動を左右できるような立場にない3人のみで、その意思決定の過程を明らかにすることはもはや不可能であった。1952年に刊行された海軍部内向けの公式戦史 Naval Operations of the Campaign in Norwayにおいても、また1954年に刊行された一般向けの英海軍の公刊戦史War at Seaにもはっきりと記された以上 ※14、「燃料不足」という説明は定着していくものと思われた。…この時点では。


5.ロスキル大佐への手紙

 戦争勃発直前に、戦艦「ウォースパイト」砲術長をつとめていたスティーヴン・ウェントワース・ロスキル中佐に「あなたは将来歴史家になります」などと言った人間がいたとしたら、ロスキルその人に鼻で笑われるか正気を疑われたかもしれない。それだけ彼はデスクワークとも学究とも縁のない海の男であったのだ。1903年生まれのロスキルは砲術の専門家として、ほぼ一貫して海上勤務と砲術学校教官を行き来する海軍生活を送り、戦時中は長くニュージーランド海軍軽巡洋艦「リアンダー」の副長、のち艦長として太平洋で過ごした。コロンバンガラ島沖海戦では魚雷を受けた「リアンダー」のダメージコントロールの指揮を執り沈没から救ったとしてDSC勲章を受章している。長年大砲の発砲音をまぢかで聴き続けたことによる聴力低下のため早期退役を余儀なくされたロスキルのもとに、英海軍の公式戦史執筆という大役の打診がまわってきたのは1949年のことであった。周囲には大変な読書家で知性派として知られてはいたがアカデミズムとは何ら縁を感じていなかったロスキル大佐は、戸惑いながらもその要請を引き受けることにした。ロスキルは以後12年かけて公刊戦史War at Sea(3巻4冊)を書き上げる過程で一流の海軍史家へと成長していくことになる。

 そんなロスキルもWar at Sea執筆時にはすべての事柄を自分が満足いくレベルまで調べきることはできなかった。多くのアシスタントと経験豊富な助言者たちに恵まれてはいても、やはりあの巨大な戦争をそれまで歴史叙述の経験がない人間が記述しようとするのは大変な仕事であった。文書記録や公式発表に多少不審な点があったとしても必ずしも突き詰めて調査するだけの余裕がそのころのロスキルにはなかったのである。「グローリアス」の沈没は重要なイベントではあったがほかにも調査を要する海戦や事件は数多くあった。ロスキルはのちに「燃料不足」という説明に心から納得したわけではなかったが、他の理由を探り出さなければならないと感じたこともなかった、と述べている ※15

 しかし1963年7月、とある女性から届いた手紙がすべてを変えることになる。差出人の名前はミセス・ホープ・スレッサー、「グローリアス」と運命を共にした空母航空団作戦将校ポール・スレッサー少佐の未亡人である。その内容は「あなたの公刊戦史の「グローリアス」沈没のくだりには誤りがある、自分はそれを証明する文書を持っている」というものだった。2年前にWar at Seaを書き終えていたロスキルのもとには同じような手紙が殺到していたし、ロスキルはその大半に真面目に取り合わなかったのであるが、これは全く無視するわけにもいかなそうであった。スレッサー少佐とロスキルは1930年代半ばに中国戦隊の空母「イーグル」で同僚として勤務し親しい間柄であり、ホープ未亡人とも面識はあった ※16。だが夫人と旧交を温めたうえで二言三言曖昧な調査の約束をしてやりすごす、そんな思惑でロンドンでホープと会合を持ったロスキルは、ホープの持参した文書に目を通して驚愕する。スレッサー少佐とその上司、「グローリアス」航空団司令ジョン・ヒース中佐の遺した文書にはロスキルが全く知らなかった「グローリアス」の状況が事細かに記載されていたのである。この文書に書かれていることが真実だとすると、「グローリアス」をめぐる自分の記述はまったく事実と異なるものになる、そう感じたロスキルはこの件をより深く調査することを決意した。だがことは慎重に進めなければならない。War at Seaの第一巻において搭載機によるパトロールを怠り、ボイラーの火まで落としていたドイリー=ヒューズの油断を批判したところ、その兄リチャード・ドイリー=ヒューズ陸軍大佐とマーガレット未亡人から猛烈な抗議の手紙を受け取っていたのだ。スレッサーとヒースの文書に示された不愉快な事態が本当なのであれば、よりドイリー=ヒューズ艦長への批判を強めなければならない。親族からの反撃に耐えるためにはより確固とした証拠が必要になるだろう ※17

 その「証拠」は意外なところから転がり出てきた。ホープ未亡人との会合から10年たった1973年、機密扱いを解除されて公共記録局(PRO)に公開されることになった海軍の「グローリアス」沈没事件関連のファイルを片っ端から読み直していったロスキルは、ある文書の裏面に手書きのメモが書き加えられているのを発見した。メモの書き手は当時空母機動部隊の護衛にあたっていた駆逐艦「ダイアナ」の艦長エドワード・ル・ゲイト少佐である。ル・ゲイトは1940年6月7日深夜、「グローリアス」のドイリー=ヒューズが出発直前に旗艦「アークロイヤル」のウェルズ中将に向けて送った発光信号を目撃しており、艦の信号兵に読み取らせたその内容を記録していたのである。その信号はこのようなものだった−「間もなく開催される軍法会議の準備のため、艦隊より分離してスカパフローへと先行することを許可されたし」 ※18

燃料については何も触れられていない。そのかわりに言及された軍法会議。それが誰が何の罪で裁かれるものであったのか、それを記すためには1940年6月のノルウェーから1年ほど時間をさかのぼらねばならない。

(続)




※1.この北部ノルウェーからの撤退作戦(暗号名「アルファベット」)に関する基礎的な叙述はRoskill,1954, pp193-198.、Barnett,2001,pp133-138., Haarr, 2010, pp302-317.にある。ノルウェーの歴史家ハールのBattle for Norwayはもっともよくディテールを拾っているうえにノルウェー側の史料を利用しているため他の書籍に無い貴重な情報が数多く詰まっている。

※2. 枢軸軍の通信傍受にあたっていた政府暗号学校(GC&CS、通称ブレッチリーパーク)はドイツ海軍の無線通信トラフィック分析の結果、6月4日前後にドイツ海軍の大型艦が複数バルト海からノルウェー方面に向かった、と正しく推測して海軍に警告を伝えた。しかし海軍の情報評価と配付を司る軍令部作戦情報センター(OIC)は「根拠が薄弱だ」としてこの情報を部内にとどめ本国艦隊やノルウェーの前線へは伝達しなかった。Hinsley, 1993, pp25. およびBeesly, 1979, pp39.
なお現在に至るまでの英海軍の公式の見解は、GC&CSの「警告」は「曖昧で非公式な性質」のものであって海軍がこれを取り上げなかったのは当然のこと、というものだが、「繰り返し重大な言葉を使用して公式の警告を伝えた」とするヒンズレーの公刊戦史(彼は警告を海軍に伝えた当事者でもある)の記述(そして1997年のチャンネル4作製のテレビドキュメンタリーにおけるインタビュー)とは大きく食い違うし、警告を受けた側のOICのビーズリーの回想とも微妙とは言い難いニュアンスの差がある。Slessor, 2002, pp203-208.

※3.Roskill, 1954, pp198. さらにこの「2隻のドイツ艦」はいつの間にか「アイスランドにドイツ軍が奇襲上陸した」という風説にまで発展した。Winton, 1989, pp152.

※4.Hinsley, 1993, pp25., Haarr, 2010, pp332., Roskil, 1954, pp198. ただし1940年8月21日の英国下院の審議おいて、労働党のストークス議員の質問にシンクレア空軍大臣は「極秘であったため公式記録には残されていないが沿岸航空軍団司令官には撤退の実施が通知されていた」と答弁しているが多くの歴史家はそれは疑わしいとみている。当時の沿岸航空軍団司令官ボウヒル空軍中将は回想録や聞き書きを残さずに死去(1960年)しているため事実の確認は難しい。 とまれ沿岸航空軍団の実戦部隊は通知を受けておらず事態を全く把握していなかったことは確実である。Winton, 1989, pp209.及び英国下院議事録1940年8月21日分(http://hansard.millbanksystems.com/commons/1940/aug/21/narvik-evacuation-his-majestys-ship)。ストークスの「グローリアス」沈没をめぐる議会活動については後述。

※5.「ユノー作戦」におけるドイツ艦隊の行動についてはベッカー『呪われた海』pp129-151に詳しい。本稿もドイツ側の行動に関する記述は基本的にベッカーに拠った。

※6.本稿で時間を示す場合はすべて英国標準時を採用した。ドイツ海軍はドイツ標準時を使用しているため『呪われた海』に記載された時刻とは+1時間の差がある。

※7.この戦闘に関する最も詳細な記述はWinton,1989,pp164-182.であろう。ウィントンは本書執筆時(1984-85年)に存命であった「グローリアス」生存者のほぼ全員に接触してインタビューを行っている。Haarr,2010,pp329-345.はそれらの先行する成果を統合したうえドイツ側の史料も生かして状況を多面的に描いている。生存者自身による回想としては便乗者として乗り合わせたクロス空軍中佐によるCross, Straight and Levelがあるが、「グローリアス」沈没に関する内容はクロスがそれ以前にウィントンのインタビューに対して語ったものとほとんど同一である。日本語で読める本戦闘に関する記述としてはドイツ側視点のものとして前掲のベッカー『呪われた海』pp142-148がある。英国側視点まで踏まえたものとしては木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』所収 の「グロリアスの沈没」がほぼ唯一のものになるが、残念ながらウィントンの著作や生存者の聞き取り調査記録が公開される前の古い情報のみを参照しており有用性は限られている。「グロリアスの沈没」に見られる誤りについては後述。

※8.ドイツ側は「シャルンホルスト」への魚雷攻撃は「アカスタ」によるものではなく、近くに潜んでいた英潜水艦のものではないかと疑っていた。Winton, 1989,pp181.

※9.生存者の苦闘についてはWinton,1989,pp183-194.に詳しい。生存者と死者数については史料によって異同があるが本稿はWintonに従った。

※10.生存者への聞き取り記録(仰々しい「査問会」Board of Inquiryという名がつけられている)は当初101年間の非公開指定がなされたが遺族や歴史研究者の抗議によって1993年に公開されている。ただしその内容はほとんどウィントンの調査によってすで明らかになっていたものばかりで、公開によって得られた新事実はほぼ皆無であった。Slessor, 2002, pp181-182.

※11.ストークスの活動と海軍の「回答」についてはWinton, 1989, pp208-215を参照。このダグデイルによる「回答」は基礎的な時系列の誤りや「アーデント」と「アカスタ」の取り違え(シャルンホルストに魚雷を命中させたのは「アーデント」ということにされていた)などが含まれた、大変にずさんなものであった。「アカスタ」唯一の生存者としてその勇壮な最期を証言していたカーター上等水兵はこの「回答」によって「武勇伝を捏造した嘘つき」呼ばわりされて全国から熾烈なバッシングを受けることになったが海軍に強く訂正を迫り(ストークスも親身になって協力した)、半年後にやっとのことでダグデイルの謝罪と訂正を勝ち取ることができた。ダグデイルの謝罪(英国下院議事録1947年3月19日分)。なお余談であるがリチャード・ストークスは第1次大戦においてストークス−ブラン式迫撃砲を発明したウィルフレッド・ストークスの甥にあたる。

※12.'This explanation is not convincing.' Churchill, The Gathering Storm, pp589.

※13.「アークロイヤル」の5月31日から6月11日にかけての航海日誌は現存しており、帰港時の燃料残量(≒消費量)もそこに明記されている。「グローリアス」の燃料消費量の推計についてはSlessor, 2002, pp186-188.。またシャルンホルスト級戦艦についてとりあげたWebサイトScharnhorst & Gneisenauの'Operation Juno'のページにも詳しい計算がある。

※14.'because she was short of fuel.' Roskill, 1954, pp195.

※15.Slessor,2002, pp185. ティム・スレッサー(ポール・スレッサー少佐の長男である)自身が生前のロスキルから直接聞かされた話である。ティム・スレッサーは英国のジャーナリスト・TVディレクター。長年父の命を奪った「グローリアス」沈没にかかわる謎を追い続けて1997年にはThe Tragedy of H.M.S. Glorious(軍艦「グローリアス」の悲劇)というドキュメンタリーを制作した。

※16.ibid.当時の「イーグル」艦長は偶然にもノルウェーで機動部隊を指揮していたウェルズであった。

※17.ロスキルとホープ・スレッサーの邂逅の経緯の詳細についてはGough, 2010, pp225-226.およびWinton, 1989, pp218-219.

※18.Winton, 1989, pp156.およびpp220. 1974年にロスキルはル・ゲイトに直接インタビューして経緯を確認している。ル・ゲイトは艦同士の位置関係や信号を読み取らせた兵士の名前といったディテールまで明確に記憶していた。


参考文献
Barnett, Correlli, Engage the Enemy More Closely : The Royal Navy in the Second World War (Penguin, 2001, First Published in 1991)
Beesly, Patrick, Very Special Intelligence : Story of the Admiralty's Operational Intelligence Center 1939-1945 (Hamish Hamilton, 1978)
Churchill, Winston, The Second World War Vol.1: The Gathering Storm, (Penguin, 2005, First Published in 1948)(チャーチル『第二次大戦回顧録』)
Cross, Kenneth, Straight and Level (Grub Street, 1993)
Gough, Barry, Historical Dreadnoughts: Marder and Roskill: Writing and Fighting Naval History (Seaforth, 2010)
Haarr, Geirr, The Battle for Norway: April - June 1940 (Seaforth, 2010)
Hinsley, Harry, British Intelligence in the Second World War : Abridged Edition, (HMSO, 1993)
Roskill, Stephen, War at Sea, Vol Defensive, (HMSO,1954)
Slessor,Tim, Ministries of Deception : Cover-ups in Whitehall (Aurum, 2002)
Winton, John, Carrier Glorious : The Life and Death of an Aircraft Carrier (Arrow, 1989, First Published in 1986)
木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』(朝日ソノラマ文庫版航空戦史シリーズ・1986年)
カーユス・ベッカー『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』(フジ出版・1973年) pp.142-148