(承前)

6.ガイ・ドイリー=ヒューズという男

 戦争への予感が高まる1939年6月15日、「グローリアス」乗組員総員による心からの見送りを受けて、ラムリー・リスター艦長は退任していった。彼は艦隊航空隊の空軍から海軍への移管という難しい時期に艦を大過なくまとめた有能さと穏やかで明朗な人柄で誰からも好かれた男であった。リスターは翌年イタリア海軍を一撃で一時的な壊滅に追い込んだタラント港夜襲を指揮して一躍英雄となり、戦中は空母戦隊の指揮官としてさまざまな戦域で活躍することになる。

 士官たちはリスターの後任の着任を不安な面持ちで待っていた。その男は航空畑の人間ではないためほとんどの士官にはなじみがなく、第一次大戦の英雄、有能だが気難しく仕えがたい男、そのような断片的な評判が漏れ伝わってくるだけであった。リスターが実に仕事のしやすい上司であった分、後任者にその様な評判があることは気がかりな点である。そして残念ながらその不安は最悪の形で的中することになる。
 

 ガイ・ドイリー=ヒューズはもともと評判の悪い男ではなかった。1891年生まれのドイリー=ヒューズは第一次大戦において伝説的な潜水艦乗りであるダンバー=ネイスミスの艦E11の先任将校をつとめ、DSC勲章と線章付きDSO勲章を受ける(これは最高勲章たるヴィクトリア十字章のほんの一歩手前の栄誉である)という華々しいキャリアを持っていた。1つ目のDSOは1915年8月21日、オスマン帝国の首都イスタンブールの目と鼻の先にあるイズミット湾に進入し、夜間単身上陸して鉄道橋を爆破し、警備兵と銃撃戦を繰り広げつつ1マイル沖合の艦まで泳ぎ着いて生還するというコマンドー部隊顔負けの大冒険劇に対して授与されたものである。単なる蛮勇の男というわけではなく、参謀任務や軍官僚としての職務をこなす能力もあり、1925年に33歳の若さで中佐に昇進した時点で、彼の前途が洋々であることに疑いを持つ者はいなかったであろう。しかし彼のその後のキャリアは、左遷というようなレベルではなくとも、その時点までの勢いと比較すると凡庸なものに留まった。その理由は定かではないが、ドイリー=ヒューズの傲岸不遜で必ずしも協調性に優れているとは言えない性格が高級指揮官向きとは言えなかったことが関係しているのかもしれない。1930年代初期には空母「カレイジャス」(「グローリアス」の姉妹艦)の副長や2年間空軍への出向(その間に大佐に昇進、また操縦資格の取得を目指したが年齢と操縦の荒さのため失敗した)など航空関係の職務にかかわったがそののちは再び潜水艦畑に戻り、1936年には地中海で潜水隊司令を経験した。この時期の彼を知るものの評価は「気難しい癇癪持ちだが話は分かる男」というものであったが、「グローリアス」に着任したドイリー=ヒューズからは「話が分かる」という部分がすっかり欠落してしまっていた ※1

 彼がなぜそのように変わってしまったかは誰も知らない。しかしドイリー=ヒューズは着任直後から艦の航空隊将校に強い敵意を持って接した。着任するやいなや彼は「艦隊航空隊の訓練も戦術はまったくなっていない、自分が叩きなおす」と一方的に宣言したのである。そして間もなく行われたソードフィッシュ攻撃機による雷撃訓練の際、ドイリー=ヒューズは教範通りに行われた魚雷の投下距離が遠すぎる、目標まで200ヤードまで近づいて投下しない搭乗員は臆病者だ、と非難し始めた。しかしそんな距離ではそもそも魚雷の弾頭の安全装置が解除されないのである。その指摘にも自説を曲げないドイリー=ヒューズに航空隊の将校たちは唖然としてしまった ※2。航空団司令ウィロビー中佐(のちに護衛空母「アクティビティ」艦長)や作戦将校スレッサー少佐、ソードフィッシュで構成された812スコードロン指揮官ボルト少佐(のち少将、朝鮮戦争に空母「ティーシアス」艦長として参戦)といった士官たちは、ドイリー=ヒューズが自分たちの進言をまるで無視し10年前の知識をもとに繰り出す気まぐれな指示や、危険すぎる訓練計画に振り回されることになった。ウィロビーはのちにドイリー=ヒューズに気づかれないよう危険であったり的外れであったりするそのような命令に修正を加えるのに大変な苦労したと振り返っている ※3。着任3か月後に戦争が始まると、今度はドイリー=ヒューズの空母という艦の持つ脆弱性を顧みない軽率な突進ぶりに乗組員は肝を冷やすことになる。開戦直後にインド洋に派遣されてドイツのポケット戦艦「グラフ・シュペー」の捜索に加わった「グローリアス」をドイリー=ヒューズはまるで戦艦であるかのように乗り回した。主力艦隊とともに行動することを嫌い、わずか駆逐艦1隻をおともにして「狩り」に出撃することを好んだのである。28センチ砲6門を持つ「グラフ・シュペー」に、駆逐艦並みの4.7インチ両用砲しか持たない「グローリアス」が遭遇した場合の結末は火を見るよりも明らかであった。うちの艦長は英雄的な名誉の戦死を遂げてさきの大戦であと一歩のところで取り損ねたヴィクトリア十字章がもらいたいのさ、そんな陰口を囁く乗組員もいたという ※4。また空母は攻撃的兵器だと信じる(それ自体は間違っていない)ドイリー=ヒューズは、艦載機による周辺警戒や対潜哨戒、戦闘機の空中待機といった「防御的措置」を軽蔑していた。特に航空機による対潜哨戒は、自らの(古い)経験をもとに「航空機は潜水艦を沈めたことはないしこれからもあり得ない」ので無駄であると公言していたのである。出撃中は常に十分な数のパトロールを滞空させておこうとするウィロビーの姿勢を、ドイリー=ヒューズは退嬰的だ臆病だと常に罵っていた ※5

 ドイリー=ヒューズの手の付けられない癇癪も次第に極端になっていった。乗組員のほんのちょっとした不手際や自分の意見に対する不同意に対して彼はすぐに怒りを爆発させ、常軌を逸した罵声を浴びせることがたびたびあったという。あるとき航空隊の訓練の成績に満足しなかったドイリー=ヒューズはスコードロン指揮官を「いますぐ縛り首にしてやる」とわめきたてて周囲に必死になだめられた。このような脅しが冗談や行き過ぎたたとえにとられなかったのは、彼が戦争勃発直後から艦内でリボルバー式拳銃を常に携帯して見せびらかし、命令に反したものや無能者は即座に撃ち殺す、と事あるごとに真剣な顔で触れまわっていたためであった ※6。ある若い士官は艦長の不安定な振る舞いに不安を覚え、軍医長ダグラス中佐に艦長の「診察」を要請にいったほどである(ダグラスはその士官を叱りつけて追い返した) ※7

 そんな艦長につきあい続けることにほとほと嫌気がさしていたウィロビー中佐は1940年1月にマルタで退艦して転任していった。後任の航空団司令はつい先日まで航空本部で戦訓調査とドクトリンの改訂にあたっていた海軍航空についての経験が豊富な士官、ジョン・ベンジャミン・ヒース中佐であった。多くの乗組員が今度の司令は艦長をうまく御してくれるのではないか、そんな期待を持っていたが、それはむなしい夢であった。着任早々からヒースはドイリー=ヒューズに手ひどい扱いを受けることになったのである。


7.衝突

 ジョン・ヒースは大変穏やかで人好きのする男だった。航空団の下っ端の中尉や少尉候補生たちですら、ヒースは自分たちにボスとしゃべっているという緊張感を与えずに、それでいて上官として接することができる人だった、と記憶している ※8。そんな人間のできた士官でもドイリー=ヒューズとうまくやっていくことは難しかった。空軍からの転籍組ではない生粋の海軍士官のパイロット出身者としてはじめてスコードロン隊長をつとめるなど長い航空畑一筋のキャリアを持ち、さらに前任の職務のおかげで最新の戦訓を知り尽くしているヒースと、10年前の自らのとぼしい経験と「攻撃精神」に執着するドイリー=ヒューズの意見が衝突するのはある意味当然のことであった。着任してしばらく、ヒースは前任のウィロビーに「あらゆる進言が却下される環境で仕事をするのはあまりに苦しい」と心境を吐露する手紙を送っている。そしてノルウェー戦役の長く厳しい戦況が二人の関係を急速に冷え込ませていった。

 着任から3か月半あまり、すでに職務上最低限のこと以外口も利かない間柄になっていたヒースとドイリー=ヒューズの関係を発火点まで押し上げることになったのは、5月中旬、3回目のノルウェー遠征中の2つの出来事であった。まず5月20日朝、哨戒のため発進しようとしたソードフィッシュのうち数機がエンジン不調を訴え発進が遅延した。航空指揮所に怒鳴り込んできた艦長にヒースは状況を説明しエンジン整備が終わり次第発進を再開する、と告げてなだめた。一度はそれで引き下がったドイリー=ヒューズはしかし、ほんの数分後に引返してくると今度はヒースの説明も聞かず一方的に航空団の怠慢と無能をののしり始めた。その場に居合わせた航海科のブレイクニー予備役少佐の証言ではドイリー=ヒューズの口調と言葉遣いは常軌を逸しており、艦の高級幹部に投げかけるものとしては前代未聞の下品さと攻撃性にあふれて聞くに堪えないものであったという。ヒースは目をつぶって背を向けこの数分間も続いた侮辱に耐えた ※9。そして5月26日ヒースとドイリー=ヒューズの関係を完全に破たんさせ、ヒースの逮捕と軍法会議にいたる事件が発生することになる。

 事の起こりは夜半にナルヴィクの遠征軍司令部から届いた「グローリアス」搭載機にナルヴィク南方のモーシェーン(Mosjoen)のドイツ軍飛行場攻撃を要請する電文であった。この要請は「もし可能であるなら」という控えめな断りがついていたが、航空機輸送や艦隊防空といった「防衛的」な任務に不満を募らせていたドイリー=ヒューズはこの要請に飛びついた。しかしヒースとスレッサー、812スコードロン隊長スティーブンス少佐(ボルト少佐も年頭に転任していた)といった艦の航空団幹部はこの攻撃に乗り気ではなかった。前述のように空軍機輸送のために多くの艦載機をスカパフローに下してきた「グローリアス」には、地上攻撃ができる機体はわずか稼動5機のソードフィッシュしか残っていなかった(遠征軍司令部は「グローリアス」が定数の艦載機、とくに地上攻撃に適したスクアを搭載しているものだと勘違いしていたらしい)。812スコードロンのクルーは魚雷による対艦攻撃のプロではあったが地上目標への攻撃はほとんど訓練を受けていない。さらにモーシェーンは艦の現在位置からはソードフィッシュの行動範囲ぎりぎりの距離にあった。極めつけは最近設置されたばかりの「モーシェーンのドイツ軍飛行場」には偵察がまだ一度も実施されておらず、「モーシェーンの街付近に存在している」ということ以外、その正確な位置も防御態勢もまったく不明のままであったのである。そんな目標に昼間(この時期のノルウェー北部の昼は20時間近く続く)に、わずか5機編隊で攻撃を仕掛けるのは自殺行為である、とヒースたちは反対したがドイリー=ヒューズを翻意させることはできなかった。しかたなくヒースとスレッサーは翌朝、シーグラディエーターの護衛を付けたうえで攻撃目標をより広く指定して、とりあえずモーシェーン付近に爆弾を落として帰ってくるだけの威力偵察に近い性格を持たせた、より無難な攻撃計画をまとめて命令案を起草し、27日昼過ぎにいつもの罵声を浴びつつ艦長の決裁を受けるところまでは持っていくことができた。しかししばらくして航空指揮所で実際の実施の詳細を詰めているヒース、スレッサー、スティーブンスのもとにドイリー=ヒューズがいきなり現れると、ついさっき自分がサインした命令についてまったく自分の指示を満たしていない、とまくし立てはじめた。さらにこのような不十分で及び腰な命令すら起草するのにナルヴィクからの要請から12時間もかかるとはどういうことだ、とヒースを責め、航空団将校は遠征軍司令官と艦長の命令に公然と反抗しサボタージュを行ったのだと決めつけた。茫然とするヒースたちに口を挟ませることなく絶叫するような「大演説」を終えたドイリー=ヒューズはヒースを解任し「敵前における怯懦」の罪で軍法会議に告発すると告げると出ていった ※10

 自室に軟禁されたまま30日早朝にスカパフローに到着したヒースは、彼に全面的に同情する航空団の将校たちに見送られて「浮かぶ牢獄」としても使われていた特設潜水母艦「ダンランス・キャッスル」へと送られ、正式な告発を待つ身となった。そして翌31日あわただしく補給を済ませて、誰がヒースの代わりに航空機の運用に責任を持つのかあいまいにしたままで、「グローリアス」はふたたびノルウェーに向けて出港した。そして二度と戻ってはこなかったのである。どうもこの航海においてドイリー=ヒューズは艦載機の運用を航空団ではなく自ら行っていたようである。そして彼の従来の主張どおり、防御的なパトロールを無駄扱いしていたらしい。クロス空軍中佐やレゴット航空兵曹、マクブライド航空機銃手といった航空関係の生存者はそろって「帰りの航海中ドイリー=ヒューズは一度も艦載機を飛ばさなかった」と証言している ※11。ドイリー=ヒューズはうるさい航空団の将校に口を挟まれることなく自由に自分の主張を実践する機会を得、結果ドイツ艦隊と不意に遭遇してしまう結果を産んだのであった。

 ジョン・ヒース中佐は「グローリアス」の沈没によって宙ぶらりんの状態に置かれた。彼はいまだに正式な告発を受けてはいなかったし、告発者になるはずだった男とその証拠は海の底に沈んでしまった。拘禁の責任者だった「ダンランス・キャッスル」の艦長や艦隊法務官すら圧倒的にヒースに同情的だった(法務官はわざわざヒースを訪ねてドイリー=ヒューズから提出された悪口雑言に満ちた「予備的な」告発状を見せ、「こんなものを真に受けることはできない」と告げた)こともあって、結局1週間後にヒースは釈放されたが名誉を完全に回復できたわけでもなかった。ほとぼりが冷めるまで中央から遠ざけることになり、ヒースはまず西アフリカのフリータウン、続いてジャワへと派遣され、そこで対日戦の開始を迎えてオーストラリアへと脱出した。メルボルンで子供を連れて故郷に帰っていたホープ・スレッサーと偶然再会したヒースは、彼女に自分とスレッサーがまとめた一件書類を託した、これがまわりまわってロスキルのもとに渡ることになる。英国へ戻ったヒースは教育訓練部隊の指揮官として残りの期間を過ごし1945年に大佐で退役し、そのまま最終任地であるサマセット州ヨーヴィルトンに引退、戦後は同地に艦隊航空隊博物館を創設する運動の中心人物のひとりとなった ※12



8.隠蔽

 …これが、スティーヴン・ロスキルがヒースとスレッサー(彼は拘束こそされなかったがノルウェーからの帰還後に一緒に告発される可能性が高かった)が公判に向けて自分たちの主張を整理した文書、それを受けてサマセットに引退していたヒースを訪ねて自ら行った聞き取り、ウィロビーやボルトといった当時を知る者たちとの書簡のやり取りを通じて再構成して見せた最期の日々における「グローリアス」の艦内の状況であった。なぜドイリー=ヒューズが部下の「軍法会議」のためわざわざ本隊より1日早く、単独でノルウェーを出港しようとしたのか、またなぜそのような不要不急の要請が、2万5000人が乗る撤退船団の護衛という重要な任務を放り出すことを意味していたにもかかわらず許可されたのか、という点については要請したドイリー=ヒューズは当然のこと、許可したウェルズも何も語っていないためはっきりとしたことはわからない(ウェルズはノルウェー戦後はシェトランド諸島の防備隊司令官などいくつかの閑職についたのち戦争終結前に退役、戦後はこの決断について何も問われず、何も語ることなく1965年に死去している)。ヒースに対する告発はまだ正式に行われたわけではなかったため、軍法会議の日程はまだ定まってはいなかった。しかし6月6日付の本国艦隊司令長官フォーブスから本国宛の電報に、「「グローリアス」は事前の予定を変更し軍法会議開催のためスカパフローへ向かう」 ※13.という一文があることから、軍法会議については上層部も了解済みの案件であって一日も早く開廷が求められていたことは間違いない。ロスキルはドイリー=ヒューズの短気な性格と、ヒースに対する尋常ではない敵意から考えて、彼の頭の中は一刻も早く軍法会議を開いてヒースを処罰することでいっぱいであったのではないかと推測する。またウェルズは「グローリアス」が空軍機を収容するという最大の任務をすでに果たしており、少ない固有の艦載機では船団護衛にさほど貢献できないと判断して先行を許したのかもしれない。いずれにせよ緊迫する戦況や艦の安全にとってなんの重要性も持たない、いわば個人的な理由によってジェフリー・ティルが「そんな要請はそもそもなされるべきではなかったし、当然許可されるべきでもなかった」 ※14と批判する「単独先行」が要請され、結果として1500名以上の命が無為に失われたのであった。

 「軍法会議を早急に開くため」という先行の理由の隠蔽がどのようにはじまったのかはまったく史料が存在しないため霧の中である。前述のとおり海軍は「グローリアス」沈没にかかわる正式な調査を生存者の聞き取り以外には何も行っていない。ノルウェー・フランスからの撤退とその直後は英国が最も敗北に近づいた時期であり、政界も軍も責任の追及などにかまけている暇はなかったしやるべきでもなかったのである。海軍の「グローリアス」関係ファイルには軍令部次長フィリップス中将が「なぜ「グローリアス」は船団本隊から離れて行動することになったのだ?」と述べた文書が所収されているが、フィリップスの疑問に応えた調査が行われた形跡はない。しかし当時一緒に行動していた「アークロイヤル」やその護衛の駆逐艦の士官たちの間では、「グローリアス」の内紛と軍法会議は士官室の噂話の中心的話題であり、単独先行の理由は公然の秘密に近い扱いであった。1946年にストークスの追及に耐えかねて「公式回答」を出すにあたっての調査の際、海軍上層部はすぐにこの噂にたどり着いたであろう。これをそのまま世に出すわけにはいかない結論にも。そして気の利く誰かが「燃料不足」といういかにも合理的で聴こえの良い、「不可抗力」に見える理由をひねり出したのであろう。こうして個人的諍いや判断ミス、無能と油断などに彩られた「グローリアス」の沈没は、 「戦時にはありがちな不幸な事故」へと塗り替えられて公表されたのであった。「軍法会議」は当時を知る者の間で、根強いが根拠のない噂、として語り継がれるにとどまったのである。ロスキルがそれを歴史の奥底から掘り出すまでは。


9.公表と余波

 集められるだけの証拠を集めたロスキルはその公表までにさらに数年待った。「グローリアス」沈没に関するロスキルの文章は、ドイリー=ヒューズの未亡人マーガレットが死去したのち、1980年6月15日、「サンデー・タイムス」紙上に「HMSグローリアスの強情な艦長」のタイトルで掲載された。それはドイリー=ヒューズのパーソナリティや指揮能力を厳しく批判するとともに、40年にわたって議会に対してすら事実を隠してきた海軍の態度も鋭く糾弾するものであった。ロスキルは歴史家として、そしてなにより海軍軍人として、組織の面子を立てるために嘘をつき続けることに耐えられないと述べたのである。ロスキルの文章は当然大きな反響を呼んだ。一家の伝統を守るかのようにドイリー=ヒューズの娘からは怒りの反論が飛んできたが(「これは海軍史のふりをした悪質な中傷です」) ※15.、英海軍も公式にロスキルの主張を否定した。現在に至るまで英海軍の公式の立場は「「グローリアス」は燃料不足のため先行した」というものであり、ロスキルの証拠はいずれも伝聞や個人の記憶に頼ったまったく「間接的・逸話的」なものにすぎず文書史料に依拠していない単なる憶測であると切り捨てている。しかし「燃料不足」という説明も実は1946年5月のダグデイルの「回答」に唐突に表れたものであってそれを明示する戦時中の文書も存在しないのである。ティム・スレッサーの「「燃料不足」は根拠がないし合理的説明ですらない」という追及に対して海軍歴史部(Naval Historical Branch)は「「燃料不足」とはタンクが空になってしまうことではなく、帰港時に残量が1/3にならないよう予備を残しておくことができなくなることを指している」「「カレイジャス」級空母は燃料タンクの残量が低下するとトップヘビー気味になって安定性が不足する欠点があった」といった「傍証」を挙げて反論しているが、これも別に当時の文書にそのような理由が書かれていたわけではなく、海軍歴史部の職員の憶測にすぎない ※16.。

 いずれも直接的な証拠を欠く中では、あとに続く歴史家たちは海軍歴史部の技術的ディテールで重箱の隅をつつくような「反論」よりも、しっかりと準備されたロスキルの「間接的・逸話的」な証拠のほうが圧倒的であると認めた。コレリ・バーネット( Engage the Enemy More Closely)、ジョン・ウィントン( Carrier Glorious)、ゲイル・ハール( Battle for Norway)といった著者は多少の留保を残しつつもロスキルの説をそのまま採用している ※17。少なくとも海軍の公式説明を真に受ける研究者はまずいなくなったのである。

ロスキルはこの記事を公表して2年半ののち、重荷をおろしたかのように1982年11月に79歳で死去した。

 1999年1月28日、自由民主党のアラン・ベイス下院議員(ベリック=アポン=トゥイード選出)がロスキルやウィントンの著作の成果をもとに、海軍にこれまでの「公式見解」を訂正するつもりはないか、との質問を行ったが国防省と海軍を代表して答弁したスペラー国防政務次官は涼しい顔で公式説明を繰り返すだけであった。その後も英海軍歴史部は折に触れてロスキルの見解を否定するコメントを出し続けているが、ロスキルの主張を覆すような説得力はない ※18



余録1. もう一つの隠蔽 「グローリアス」の緊急電と「デヴォンシャー」

 さて、「燃料不足」という説明の虚偽性についてはロスキル(1980年)とウィントン(1986年)がほぼあきらかにしたわけであるが、その後の調査でさらに浮かび上がってきた海軍の公式説明の虚偽についても触れることにする。それは「グローリアス」が発した「どこにも届かなかった」とされる緊急電に関する謎である。正確には「届かなかった」わけではない。「届いたが雑音と混乱で理解不能だった」とされている。以下がこの問題に関する英海軍の公式説明である。

 「6月8日17時30分ごろ、「グローリアス」の西方約70−80マイル(130-150キロ)を単独で南下中だった巡洋艦「デヴォンシャー」は周波数3700kc/sの弱く、雑音がひどい電文を受信した。その内容は「「グローリアス」より機動部隊指揮官。最緊急電。わが1615時の2PBを(判別不能の数文字) 発信時刻1640」というものであった。無線封止中だった「デヴォンシャー」はこの混乱した自分宛てでもない電文に特にアクションは取らなかった。翌9日9時、前日ドイツ艦隊に臨検を受けた病院船「アトランティス」が「ヴァリアント」と会合しドイツ戦艦2隻の存在を告げると「ヴァリアント」は即座にその事実を全艦隊に警告した。「ヴァリアント」の警告を聞いた「デヴォンシャー」は前日の謎めいた電文の「2PB」が「2隻のポケット戦艦」を指すのではないかと思いいたり、10時31分に無線封止を解除して「グローリアス」が敵艦隊と遭遇した可能性があるむねを通報した。「グローリアス」の発信した電波のうち、英国側に受信されたものは17時30分の1本だけである。」 ※19

 「グローリアス」の無電発信記録については、生存者の一人ブラックウェル電信兵曹長の証言が残っている。ブラックウェルは接敵直後の16時15−20分にドイリー=ヒューズから直接「2隻のポケット戦艦」との接敵報告を発信するよう命令された。使用周波数は「ノルウェー遠征艦隊用」の253kc/sと「高周波」(ブラックウェルは具体的な数字を残していないが恐らく「本国艦隊用」の4740または8290kc/s)。その後受信報告が返ってこないことに不安を覚えた通信士官が、予備の送信機を「ノルウェー遠征軍共用」の3700kc/sに切り替えることを命令しブラックウェルはその作業にあたった。ブラックウェルはそれ以降通信室に戻っていないため16時15分より後の発信状況はわからないとしている。なおブラックウェルはドイツ軍の捕虜となったためこの経緯を英海軍が知ったのは戦後になってからである。 ※20

 実は艦隊用とされた253kcは当日電波状況が非常に悪かったため「アークロイヤル」や船団本隊の艦船は使用せず、「エリア共用」の3700kc/sに切り替えていたのであるが「グローリアス」には通知されていなかったのである。そのためアンテナも送信機も電源もまだ無傷の状態で発信されたこの最初の電文は「誰も聞いていない」周波数に乗せて送られてしまった。そして小出力の予備送信機は正しい周波数(3700kc)に切り替えられたがメインのアンテナが破壊されて以降は到達距離が大幅に短くなり、17時30分の最後の電文だけが辛うじて「デヴォンシャー」に到達した ※21

 しかし16時15分の接敵報告は本当に誰にも届かなかったのであろうか。1997年にティム・スレッサーの制作したテレビドキュメンタリー「軍艦グローリアスの悲劇」がチャンネル4で放送されると、番組を視聴した当時現場にいた人間からそれを覆す証言が次々と得られたのである。「デヴォンシャー」は当時英国へ亡命する国王ホーコン7世をはじめノルウェーの王族と閣僚たち、中央銀行の準備金といった重要な積み荷を乗せて26ノットで単独航行中であった。艦橋直下の電信読取室(Remote Office、重要な電文を艦橋に速報できるよう上部構造物内に設けられた読み取り専任の出張所。艦の電信室自体は船体の奥深くに所在する)で当直にあたっていたスタンリー・ロジャース上等電信兵とトレバー・ジェンキンス電信兵曹は16時20分ごろ、「グローリアス」の電文を受信したことをはっきりと覚えていた。それは公式説明の言うような弱く雑音まみれの混乱した電文ではなく、高強度で明瞭に聞き取れるしっかりしたモールスであり、位置情報も含んでいたとロジャースは証言する。ジェンキンスは鉛筆で書きとった電文をすぐに艦橋のマンスフィールド艦長へ手渡した。ここで第三の証言者が登場する。艦橋の海図台で当直についていたコークヒル少尉候補生である。コークヒルはほかの2人ほど時間についてははっきり覚えてはいないが艦橋が急に騒がしくなり、マンスフィールドとカニンガム中将(第1巡洋艦戦隊司令官)が海図台にやってきたことは確かだと証言する。そして海図に「グローリアス」の位置がプロットされると驚きの声が上がったことも。 「すぐそこではないか!」"That's almost where we are!" ※22

 公式には70−80マイルとされた「グローリアス」と「デヴォンシャー」の距離は近年の再調査で最短30マイルかそれ以下(約55キロ)しかなかったのではないかという疑問も出てきた。やや信頼性は低いが「デヴォンシャー」の見張りが「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」のものと見られるマストを目撃していたとの証言すらある ※23。しかし現存する「デヴォンシャー」の航海日誌には以上のようなことは何も記載されていない。ただし16時25分に30ノットへの増速とジグザグ航走の開始、さらには8インチ主砲塔への砲員の配置が命令されたことはわかる。英海軍の公式説明ではこれは乗員の訓練のためであり、「グローリアス」が会敵したのと同時刻だったのは単なる偶然の一致に過ぎないとされている ※24。しかしスレッサーは傍証として軍令部作戦情報センター(OIC)の1940年6月10日分の戦時日誌に「「グローリアス」から8日1615時に受信したメッセージによると、当該艦は敵艦隊と交戦した可能性が高いとみられる」との記述があることを発見した。16時15分に接敵報告が送られたことは、公式には捕虜生活を終えたブラックウェルが1945年に帰国するまで英海軍は知らなかったことになっているはずである。この記述は「デヴォンシャー」が実際には「グローリアス」の最初の接敵報告を受信しそれを報告していたことを強く示唆するものといえる ※25

 そしてノルウェーの史料を用いたハールはさらに決定的な4人目の証言者を見つけ出した。当時ノルウェー海軍の連絡将校として「デヴォンシャー」に乗り合わせていたシュトルヘイル大尉(のちノルウェー海軍総司令官・中将)は、カニンガム提督がホーコン国王に届いた電文を見せ、「グローリアス」にかまわず英本土へ直行すると告げる現場に立ち会っていた。そしてカニンガムが自分の決定にまったく喜んでいる様子はなかったとも述べている ※26

 証言は具体的であり、ディテールは食い違うものの主要な部分については複数人の証言が一致する。「デヴォンシャー」が公式発表よりもはるかに「グローリアス」の苦境についてよく知っていたことはほぼ疑いがない。もちろん「グローリアス」の救援に赴かない、というカニンガムの決断は「正しい」とはいわずとも合理的であることは確かである。「デヴォンシャー」が運んでいたものは危険にさらすにはあまりに価値が高いものであったし、巡洋艦1隻が救援に駆けつけても戦艦2隻の前には返り討ちにあってむしろ犠牲を増やす結果しかもたらさなかったであろう。またその決断が簡単に下されたわけではなく苦渋の末のものであったことはシュトルヘイルの証言からもうかがえる。しかし翌朝10時まで無線封止を守り続けたこと、そして公的記録を改ざんしてまで「聞かなかったことにする」ことは(後者はカニンガムの責任ではないが)、果たして完全に正当化できる行いであろうか。スレッサーは自分が遺族であるため公平な見方ではないだろうと断りながらではあるが、「グローリアス」の1500人だけではなく、15000人近い兵士の乗る船団が後続していたことを鑑みると、カニンガムの行動をあっさり是認する気にはならないと述べる ※27

 1999年1月28日のベイス議員の質問にもこの電文の問題は取り上げられたが、やはり国防省は従来の説明を繰り返すのみであった。



余録2.『第二次大戦海戦小史』所収の「空母グロリアスの沈没」について

 木俣滋郎氏は昭和30年代から主に海戦史について執筆してきた大ベテランの戦史研究家である。氏の『撃沈戦記』シリーズで第二次大戦の海戦史のイロハを学んだという人も多かろう。『第二次大戦海戦小史』は昭和32年から35年にかけて「海と空」に連載されていた海戦にかかわるエッセイを書籍化したものである。まだ情報の少なかったであろう欧州戦線の海の戦いに関しては貴重な記述が多く、とくに「空母グロリアスの沈没」(261-273ページ)は現在に至るまで(!)「グローリアス」撃沈の経緯を記した日本語の文章としては最も該博なものの地位を占め続けているのである(筆者は雑誌記事までは追えていないので見逃しの可能性はあるが)。しかし残念ながら執筆年代が古いため、生存者の証言を丹念に集めて、不明確だった戦闘の経緯を鮮やかに再現したウィントンのCarrier Gloriousの記述は利用できていない。「空母グロリアスの沈没」はいわばウィントンの決定的仕事以前に流布していた、出どころが不明だったり後世の推測や憶測が混じったバージョンの本海戦の解説をそのまま残しているものなのである。

 「空母グロリアスの沈没」に古くなってしまった記述は数多くあるが、今回はその中から「なぜ「グローリアス」は艦載機を飛ばして周辺警戒を行っていなかったのか」という疑問についてとりあげる。木俣氏はその原因については最終的には「油断・怠慢」によるものとしながら、「グローリアス」の航空作戦を阻害したと思われる要因を2つ挙げ、エクスキューズとしている。それは‥餌犹抉腓里燭瓠屮哀蹇璽螢▲后廚旅匐要員がすっかり消耗・疲弊してしまったため ※28 ⊆容した空軍の戦闘機が飛行甲板をふさいでいたため ※29 の2点である。このエクスキューズは木俣氏のオリジナルではない。初出がどういった性質の史料であるかは調べがつかなかったが、Carrier Glorious以前に出版された「グローリアス」撃沈について触れた書籍にも共通してみられる論点である。たとえばロスキルの公刊戦史War at Sea(1954年)にはじまりマッキンタイア『海戦』(1971年)、ティルのAir Power and the Royal Navy(1979年) ※30といった書籍で、どちらか片方、もしくは両方が必ず触れられている。

 しかしCarrier Gloriousの記述はこの2つの論点を全く否定する。,砲弔い討pp149-151の記述から6月2日からノルウェー沖にあった「グローリアス」はほとんど航空作戦を展開していないことが理解できる。ウィントンは同時期の「アークロイヤル」の艦載機が目まぐるしく拠点・艦隊の防空や地上攻撃に出撃していることと「グローリアス」の不活発さの対比を何度も強調している。6月3日から5日に掛けてはウェルズによって「空軍機収容のめどが立つまで燃料節約と攻撃目標となることを防ぐため沖合で待機」を命ぜられているほどである。結局時たまの戦闘機による周辺パトロールと空軍機誘導のためのソードフィッシュの基地派遣をのぞけば、まともな航空作戦としては6月6日に「アークロイヤル」と共同でハンダレンのディートル将軍の司令部を叩こうとした(悪天候で中止)ときだけにとどまった。「グローリアス」よりはるかに忙しく立ち働いた「アークロイヤル」の艦載機が、さらに撤退船団の帰途の護衛作戦を実施していることを考えれば「航空要員の疲弊」は周辺警戒のために艦載機を飛ばさないことのエクスキューズにはまったくならないことは容易に理解されうるであろう ※31。△砲弔い討呂垢任冒以咾任眇┐譴討い襪、クロス中佐のハリケーンがより大型の「アークロイヤル」ではなく「グローリアス」に着艦することを選んだ理由は、エレベータがより大型でハリケーンを格納庫に収容することが可能だったからである。当然ながら6月8日の時点で空軍のグラディエーター10機とハリケーン8機は「グローリアス」の「格納庫に収容」されていたのである。また固有の艦載機はわずか15機しか搭載していなかったことから、いくら翼の折りたためない陸上機とはいえ、18機が搭載された程度で格納庫の余裕が無くなり航空作戦に支障が出るような影響が出たとは考えられない。現にクロス中佐は格納庫でシーグラディエーター1個小隊(3機)とソードフィッシュ1機が「10分待機」でスタンバイしているのみで、がら空きの飛行甲板に「即時待機」の機体が1機も用意されていないことにびっくりしているのである。ウィントンはこうはっきりと記す「彼(クロス中佐)が記憶しているように、ハリケーンをはじめ空軍機はすべて格納庫の後部セクションに収納されており、格納庫の前部と前部エレベータはまったくクリアな状態であった。したがって空軍機の存在が艦のオペレーションを妨げていた、という後日なされた指摘には何の根拠もないのである。」 ※32

 この「航空要員の疲弊」「空軍機収容の影響」というエクスキューズは、生存者の証言がまだ利用できず、当時の艦の状況が不明確であった中で、すべてを艦長の油断・怠慢・無能に帰結させてしまうという「非合理な」結論を避けるために、間接的な情報から「合理的に推論」されて広まったものなのであろう。しかし事実はその「非合理な結論」こそが沈没の大きな原因であったことを示しているのであった。
 




※1.ドイリー=ヒューズのキャリアについてはWinton, 1989, pp78-81.

※2.Winton,1989,pp78. 812スコードロン中隊長ブキャナン=ダンロップ大尉の回想。ブキャナン=ダンロップは元潜水艦乗りであり「伝説のサブマリナー」の元で働けるという期待に満ちて艦長を迎えただけに失望も深かった、と述べている。

※3.ibid. ウィロビー中佐の回想。 「彼は初日からまるで「俺がお前らに飛ぶことを教えてやる」と言わんばかり態度をとった…」
アーサー・ボルト退役少将は1968年のロスキルへの書簡でドイリー=ヒューズのパーソナリティをこう回想している。 「D-Hはとてつもないうぬぼれ屋で自分が航空戦について無知であることを決して認めず、自分の意見を嫌がらせと罵声で認めさせようとする最悪の男だった。」Barnett, 2001, pp136.に引用。

※4.Winton, 1989,pp88. スカーレット大尉の回想。

※5.アーサー・ボルトの回想。Winton,1989,pp78-79.同じボルトの回想についてはSlessor, 2002,pp193.により長く引用されている。

※6.Winton,1989,pp86.通常艦内で武器を常に携帯しているのは艦内秩序の維持をつかさどる先任衛兵伍長(Master-at-Arms)に限られる。

※7.Winton,1989,pp130.ヒースの回想。

※8.Winton,1989,pp93.レゴット航空兵曹とヒントン少尉候補生の回想。

※9.Winton,1989,pp135.

※10.Winton,1989,pp138-145.なおモーシェーン爆撃は結局行われなかった。ドイリー=ヒューズがなぜヒースを解任してまでこだわった攻撃計画をあっさり放棄したのかはわからない。

※11.これらの証言についてはWinton,1989,pp164-165.およびpp205.

※12.ヒースのその後についてはWinton,1989,pp202-204.艦隊法務官の同情についてはop.cit.,pp145.

※13.この電報については2000年になってはじめて存在が明らかにされた。Haarr,2010,pp330.およびSlessor,2002,pp202.英国下院議事録2000年1月27日分。http://hansard.millbanksystems.com/written_answers/2000/jan/27/hms-glorious
この電報で触れられているのは「目的地の変更」(本来「グローリアス」は母港プリマスへ向かう予定だった)を伝えるものであって、「グローリアス」の単独先行の理由を伝えるものではないことに留意。

※14.Till,1979,pp25.

※15.Winton,1989,pp220-221.ドイリー=ヒューズの娘ブリジッド・リヴィエールの反論は、父を弁護するあまり「部下が無能だった」「マウントバッテン卿は「軍艦1隻よりも大佐を失った方が大きな損失だ」といった」と無神経な言葉を並べて遺族の強い反感を呼んだだけに終わった。

※16.Slessor,2002,pp183.pp188.海軍歴史部はまたタンクの底にたまったオイルスラッジ(不純物)のせいで実際の残量はさらに圧縮される、と示唆しているがスレッサーはそれはあくまで誤差の範囲にとどまるものでしかない、何百トンものスラッジが出るような質の悪い重油を海軍が使用していたとは到底考えられないと述べている。

※17.Barnett,2001,pp136.Haarr,2010,pp330-331.バーネットはドイリー=ヒューズを「傲慢で権威主義的で手の付けられない癇癪持ちという最悪の種類のエドワード朝的海軍士官」と酷評している。

※18.Slessor,2002,pp179-181. 英国下院議事録1999年1月28日分。http://hansard.millbanksystems.com/commons/1999/jan/28/hms-glorious このベイスの質問自体がティム・スレッサーの制作したテレビドキュメンタリーに触発されたものであった。スレッサー自身もこの答弁を傍聴している。

※19.Winton,1989,183-184. Roskill,1954,pp195-196.木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』pp270-271.もこの説明を採用している。

※20.Winton,1989,pp169.およびHaarr,2010,pp345-346.

※21.Haarr,2010,pp346.なお「グナイゼナウ」に配置されていた通信傍受班も「グローリアス」の通信を詳細にモニターしており記録を残しているが16時52分までまったく発信はなかったとしており、これは彼らが253kc/sという「間違った」周波数をモニターしていなかったためではないかと考えられている。傍受班はすでにコークの船団本隊の3700kc/sによる交信を傍受しており、そこにチューニングを合わせていたのである。Slessor,2002,pp211.ドイツ側の傍受についてはベッカー『呪われた海』pp144.またpp383-386.には傍受班による報告書と「グローリアス」の発信した電文のログが掲載されている。「グローリアス」の発信した電文は暗号化されておらずすべて平文であった。

※22.Slessor,2002,pp211-213.ほかにカニンガムの従兵だったスローカム水兵もカニンガムが急に艦橋に呼び出されたことを記憶していた。スレッサーは3人の証言者全員と直接、もしくは書簡のやり取りで経緯を確認している。ただしロジャースもジェンキンスも「グローリアス」の電文がどの周波数で受信されたかについては記憶が定かではないとしている。このとき「デヴォンシャー」が受信した電文は、16時52分に「グナイゼナウ」の傍受班が本国艦隊用波長の8290kc/sで受信したものとほぼ同一の内容であったと思われる。ドイツ側の記録を援用して復元すると「「グローリアス」よりスカパフロー無線局 緊急 わが308度15マイルにポケット戦艦2隻あり 敵針30度 本艦の位置は北緯69度東経04度より154度の方位へ11マイル 受信確認せし場合は本電を繰り返されたし 発信時刻1615」。ロジャースは「グローリアス」の自艦位置は途中までしか打電されておらず(ただしプロットには十分な内容であった)、また発信時刻は欠落していたと記憶している。 ベッカー『呪われた海』pp385.およびSlessor,2002,pp212.

※23.Haarr,2010,pp348.

※24.Slessor,2002,pp215.英国下院議事録1999年1月27日分。スレッサーはこの前後数か月分の「デヴォンシャー」の日誌を確認したものの、接敵中ではない航海時に主砲塔に砲員が配置されるような「訓練」はほかに一度も実施されていなかったという。

※25.Slessor,2002,pp216.「グローリアス」の乗員救助が始まるのが翌11日、生存者が駆逐艦「ヴェテラン」に乗せられてローサイス港に到着したのは6月17日になってからであり、ブラックウェル以外の生存者からの聞き取りによるものでもあり得ない。

※26.Haarr,2010,pp347.シュトルヘイルがノルウェー海軍総司令官に就任した1951年にホーコンと交わした会話を後年回想したもの。ハールはシュトルヘイルの発言が実際にいつなされたものであるかは示していない。

※27.Slessor,2002,pp218-219.

※28.「ノルウェーではドイツが制空権を把握していたから、有力なイギリス軍艦が次々と爆撃される始末で、グロリアスの飛行機搭乗員はもちろん、整備員までもがこの船団護衛のためすっかり疲労してしまっていた。イギリスの航空母艦の搭載機数は、日本やアメリカのそれと比して著しく少ない。だから搭乗員はわずかな休憩時間ののちすぐまた、次の飛行に出発しなければならなかった。」木俣、pp263-264.

※29.「だが反面、この空軍機着艦の成功はグロリアスの艦内に混乱と当惑とを持ち込んだ。翼の折りたためぬ空軍機が飛行甲板の上にノサばっていたのでは、固有の母艦機の発・着艦を著しく阻害するし、新たに乗艦した空軍のパイロットは専門の訓練が欠如しているため、疲労した空母機のパイロットの代わりに索敵や上空直衛の任につく事ができない。」木俣、pp264-265.

※30.Roskill,1954,pp195.、マッキンタイア『海戦』pp61.、Till,1979,pp26.

※31.Winton,pp148-151.帰路の「アークロイヤル」が展開していた航空作戦についてはpp190.

※32.Winton,pp164-165. しかし愉快なことに筆者が所有しているCarrier Gloriousのペーパーバック版(Arrow社版)の表紙イラストでは、砲撃を受ける「グローリアス」の飛行甲板にあきらかにRAF塗装のハリケーンが並んでいる様子が描かれている。それだけこの「飛行甲板をふさいだハリケーン」の伝説は根強く流布していたのであろう。


参考文献
Barnett, Correlli, Engage the Enemy More Closely : The Royal Navy in the Second World War (Penguin, 2001, First Published 1991)
Cross, Kenneth, Straight and Level (Grub Street, 1993)
Haarr, Geirr, The Battle for Norway: April - June 1940 (Seaforth, 2010)
Roskill, Stephen, War at Sea, Vol Defensive, (HMSO,1954)
Slessor,Tim, Ministries of Deception : Cover-ups in Whitehall (Aurum, 2002)
Till,Geoffrey, Air Power and the Royal Navy 1914-1945 (Jane's, 1979)
Winton, John, Carrier Glorious : The Life and Death of an Aircraft Carrier (Arrow, 1989, First Published 1986)
木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』(朝日ソノラマ文庫版航空戦史シリーズ・1986年)
カーユス・ベッカー『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』(フジ出版・1973年)
ドナルド・マッキンタイア『海戦 連合軍対ヒトラー』(早川書房・1983年)