いちどプライベートモードで書いたのだが、考え直してネタバレ警告をしたうえで全ユーザに公開することにした。わざわざDMでパスワードを聞いていただいた方には申し訳ないのだが。あといろいろ書き足りなかった部分を追記しました。

 さて、以下のエントリには『天冥の標』の物語の根幹にかかわる重大なネタバレが含まれています。最新刊まで読了していない方はここで引き返すことを強く推奨します。

 
 本体がソフトウェア的な存在であるダダーのノルルスカインは実にその正体がつかみにくい登場人物…いや人物じゃないなとりあえず登場存在とでも呼んでおくか−である。そしてそのつかみにくさは「断章」以外の本篇では決して視点人物、あ、いや視点存在にはならず、他者からの視点でのみその行動が描写されることでより増幅される。変幻自在に憑代を替えてしゃしゃり出てくる、「ノルルスカイン」を名乗って登場する存在が実際は「誰」であるかについては、本人の言葉以外に、その場面にいる人物も、読者にもなにも確認するすべがないのだ。
 ここに叙述トリックを紛れ込ます余地があることについては(『宿怨』)ぐらいから考えてはいた。ひとつには(『羊と猿と百掬の銀河』)の断章で描かれる実に生真面目で愛すべきノルルスカインの姿と、(『メニー・メニー・シープ』)で見せた、どこか冷笑的で享楽的、全身(全存在か?)から胡散臭さを発するトリックスターとしてのノルルスカインに違和感を感じたという理由もある。「断章」のノルルスカインと本編のノルルスカインの同一性を保証してくれるものは何もない。

 さて、同一性が保証されないのは「断章」のノルルスカインと本編のノルルスカインだけに限らない。本編で登場する場面が違う自称「ノルルスカイン」同士にしても同一性は不明である。そして本編には「複数の」ノルルスカインが存在していることを示唆する証拠は多い。たとえばメニーメニーシープの電力の謎である。セレスの核に据えられたドロテアから電力をちょろまかして植民地に供給してくれたのはダダーだということになっている。ところが、その同じダダーがアクリラの優先順位変更命令を素知らぬ顔で実行して「大閉日」を引き起こしたのはなぜなのか。そして一度とだえた天蓋板への電力供給を復活させるには配電室を物理的に奪回しなければならなかったのは?ダダーのノルルスカインが配電網を掌握しているのであればそんな必要ははなっから存在しなかったはずだ。いくらダダーがトリックスターだからといってやっていることに矛盾が多すぎる。競合する複数の「ノルルスカイン」(あるいはノルルスカインを名乗る何者か)が存在すると仮定したほうが合理的に説明できる事象だ。

 じゃあ作者が開示しない限り読者には絶対その区別がつかないのか?そんなことはないはずだ、小川先生は天冥の標においては伏線やヒントをきちんと呈示しており(たとえば靴侶萓鏤のカヨの「作動不良」とか)、そこらへんは読者へのフェアネスを意識されているフシが濃厚にある。だからどこかにヒントは隠されているはずだ、という思いはずっと持っていた。…そしてきのう、宗2のノルルスカイン登場シーンを読んでいるときにハタとインスピレーションが下りてきた。気付いてみれば実に単純な仕掛けだった。しかしほんとうによく考えられた仕掛けである。以下にその検証をお目にかけよう。


 まず下記は察區契こΕ蓮璽C〉文庫版では352ページの「ノルルスカイン」登場シーンである。
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 続いて次劵献礇ぅ▲鵐肇◆璽〉PART機132-133ページにかけての、おなじく「ノルルスカイン」の登場シーンである。
8-1



ハイライト部分を見れば一目瞭然だろう。

人称代名詞の表記が違う!

 表記ゆれの可能性は無論考えた。しかしkindleで全文検索をかけて明確にシーンごとに書き分けがされていることを確認した。ある登場シーンではすべてひらがな表記であり、別のシーンではすべて漢字表記がなされている。そしてこんな派手な表記ゆれを校閲は見逃したりはしないはずだ。

 これはつまり、音だけ聞いている作中人物にはわからないが、読者には「この2つは違う「ノルルスカイン」なんですよ」とさりげなく提示されるという仕掛けになっているのだろう。お見それしました。

 それでは「ぼく」と「僕」、どちらがオリジナルのノルルスカインで、どちらがノルルスカインを騙っている存在なのか。これまた実に巧妙に隠蔽がなされており双方の発言をざっと読んでみた限りでは判別がつかない(一定の推測は立てているが、稿を改めて論ずる)。どちらも真摯にメニー・メニー・シープの人類の行く末を案じているように見える。さかのぼってオリジナルのノルルスカインであることが確定的に明らかである供櫚靴離侫Дドール・ダッシュ、垢痢崔脳蓮廚離離襯襯好インのセリフの人称表記を確認しても謎は解けない。フェオ・ダッシュの一人称の表記はすべてひらがなの「ぼく」である。しかしフェオ・ダッシュは既存のソフトウェアを乗っ取った存在であり、したがって人称表記もAIのひな型になったフェオドール・フィルマン本人の一人称の表記(やっぱりひらがなの「ぼく」)を表面だけまねたものにすぎないと思われ、判別の手がかりとはなりえない。

 そして垢離離襯襯好インの自称は全部 「おれ」 で統一されているのである!いくらミスチフとつるんでいた頃から何千万年も年食ったからと言ってころころ自称を変えないでくれよぅ。またオリジナルの副意識流と思われるアニーは女性なので当然「ぼく」「僕」とは言ってくれない。手がかりにならない。 
 供Ν掘Ν犬痢崔脳蓮廚任魯離襯襯好インはまったく一人称を使用しない。あのやたらと饒舌で奇妙な文体は、視点人物は固定されているのに、かたくなに一人称が出てこない不自然さを糊塗するためのものだったのかもしれない。
 
 手練手管を駆使した憎たらしいまでの寸止めっぷり。肝心なところはさすがにオープンにはしてくれないようだ。

 いちおう以下にどのシーンのノルルスカインがどちらであるかを整理しておこう。
  
 ・機劵瓮法次Ε瓮法次Ε掘璽廖咫‥仂譴垢襯離襯襯好インは全部「僕」表記である。(ただし1か所だけ「私」という一人称を使用しているのだが、ミスの可能性が高いと考える)

 ・此匳姫紂PART1のラスト、救世群に潜入していたが排除された副意識流は「僕」
 ・同PART3で羊を通してメララ・テルッセンと交信していたノルルスカインは「ぼく」

 ・察區契こΕ蓮璽C〉でアイネイアに話しかける存在は「ぼく」。メララが連れてきた羊に潜んでいたのだから当然だけれど。

 ・次劵献礇ぅ▲鵐函Ε◆璽〉PART1、「断章八九」の岸無し川でロードされたアクリラと会話する存在がノルルスカインであるとすれば「僕」のほうである。エレベーターでイサリに話しかけるノルルスカイン、カルミアン型のロボットボディに入り込んでイサリにちょっかいを出すノルルスカイン、およびラゴスの回想シーン(2505年)に登場するノルルスカインはいずれも「僕」

 ・宗劵劵箸任△襯劵箸肇劵箸任覆ぅ劵函PART1、ラストで太陽系艦隊に侵入するノルルスカインも、迎え撃つノルルスカインも「僕」
 ・同PART2、エランカとカドムの会談にフェオドールのボディを通じて参加するのは「僕」

 ・カルミアンと「契約」を結んだ(共意識を通じて会話できる?)のは「ぼく」のほう。
 擦如屬椶」はカルミアンの体のコントロールを奪う、もしくは共意識を通じて命令を出すことができることを見せつけている。ところが「僕」は次1でカルミアン型のロボットボディに蟻酸の放出機構を付けてカルミアンの目を(あるいは鼻を)欺かなければならなかった。「僕」はカルミアンと意思を通わせる(音声以上の)手段を持っていない。
 ・「恋人たち」とお話しできるのは「僕」だけのようだ。
・つまり、カルミアンと「恋人たち」は自分たちが同じ「ノルルスカイン」とコミュニケートしていると思い込んでいるのかもしれない。

 ・「ぼく」は羊の口を借りてしゃべる。此3の描写からすると端末として「羊」がいないところには出られない存在っぽい。羊飼いに電波で話しかけるという迂遠な指示の伝え方もそれを示唆する。

 ・カドムやイサリの前に現れたノルルスカインはすべて「僕」である。彼らは「ぼく」の存在を知らない。


 

 「ぼく」と「僕」は人称の表記だけではなくどうも能力も違うことがわかる。そしてその2つの存在が別々の存在であることの傍証は、自己紹介の違いからも得られる。擦痢屬椶」は自分を副意識流と紹介し、主意識流とは途絶えがちだが連絡があることをにおわせていた。それに対し-1のラゴスの回想シーンで(作中の時系列的には)初登場する「僕」は、自分を「羊の中に潜む孤立ストリーム」だと主張している。両者が同一の存在だとしたら、片方でウソをつく理由が見当たらない。

 なお、わたしは「僕」のほうの中の人がミスチフである可能性(そしてミスチフは必ずしも敵ではない可能性)を強く疑っているが、その根拠についてはまた別の機会に譲る。

 




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