「この世はなべて一幕の舞台、人はみな、男も女もただの役者に過ぎぬ。」
シェイクスピア『お気に召すまま』第二幕第七場
All the World's stage, and all the men and women merely players.

※本エントリでは映画「メッセージ」ならびにその原作小説「あなたの人生の物語」の核心に触れます。未視聴・未読の方は閲覧しないことを強く推奨します。
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 「メッセージ」は驚くほど誠実な「あなたの人生の物語」の映像化作品であったように思う。そりゃあいろいろと改変されている部分はあるが、それは「改変しないと、要素を足さないと映画にならない」部分にとどまっていた。さらに、ある指摘から、チャンの原作に込められていたある寓意を、とても巧みな手段で映像に昇華しているのではないかという仮説に至ったのでちょっと書きつけておこう。

 宇宙船の中の、ヘプタポッドと人間が対面する部屋には、透明な仕切り壁が設置されており、その向こう側は薄らぼんやりした白色光に満たされている。これが「映画スクリーンのメタファー」じゃないかという指摘にハッとさせられた。恥ずかしながら北米版のブルーレイで通し2回、さらにシネコンのスクリーンで2回見ても気が付かなかった。なぜハッとしたかというと、ヘプタポッドの世界認識は「この世界はすべて一幕の舞台/映画」と言い換えることもできるからだ。この世界のすべての事象はあらかじめ定められており、自らはその定められた「未来の記憶」を現実化すべく行動する、というヘプタポッドの世界観からすれば、この世界のすべての存在は役者/登場人物なのだ。だからあの対話はすでに決まっている現実を「上演」しているのだ。

 ヘプタポッドはあらかじめすべてを(アボットの死も!)知っており、人間は誰もこれから何が起こるのか知らない。これは「役者」と「観客」の関係に等しい。したがってヘプタポッドと人間の間にはスクリーンが存在する、存在していなければならない。終盤〈殻〉に呼び入れられたルイーズは、なぜかヘプタポッドとすらすら会話できる能力が与えられており、初見の時は「どういうデウスエクスマキナだよ」と思ってしまったのだが不明を恥じざるを得ない。ヘプタポッドの言語を習得しその世界認識を共有するに至ったルイーズは、観客から役者/登場人物に格上げされ「スクリーンの中」に入ることができるようになったのだ。ご丁寧にあのシーンでコステロの話すヘプタポッドBにはレトロ映画風の「字幕」が付いてくる。コステロ側から見たらきっとルイーズの話す英語にヘプタポッドBの「字幕」が付いていたのだろう。この「役者」「観客」のメタファーは、ヘプタポッドが軌道上にとどまり映像投影装置でのみ人間と対話する原作にも共通する。そしてテレビ電話でお話しするだけでは絵にならないので地上に降りてもらった映画版でも「スクリーンからは出てこない」というかたちでそのメタファーは守られている。ここらへんもヴィルヌーヴ監督の誠実さを感じるところ。

 この映画にはもう一つ別の暗喩的な「映画のスクリーン」が存在する。ルイーズの自宅の、湖に面する大きな四角い窓である。「メッセージ」のファーストカット(実はラストシーンなのであるが)はこの窓から見た眺めであり、その後も重要な転換点がこの窓の前で演じられる。ファーストカットからこの映画が一種の枠物語であることを宣言しているわけだ。序盤のルイーズはこれから何が起こるのか知る由もない「観客」のひとりに過ぎないから、この「スクリーン」に映るのはこの世界そのものという「映画」の1シーンとなる。わかりやすいのはウェバー大佐がヘリでルイーズを迎えにくるシーンだろう。「スクリーン」に突如ヘリがあらわれるのはまさしく「映画の1シーン」のような画であり、そしてフラッドライトの光を浴びたルイーズが驚いて目をしばたかせる様子はまるで「スクリーンの灯りに照らし出された観客」のようである。
 そしてルイーズがヘプタポッドBを習得してのちはスクリーンの表裏が反転する。当面の間地球に存在するただ一人の「役者」となったルイーズは、スクリーンの内側からこの世界そのものという「観客席」を見ることになる。ライティングも変化する。暗い部屋からほの明るい外の景色を見るかたち(冒頭のルイーズと母の電話シーンが典型)だったものが、室内にも光があふれるようになる(粘土でヘプタポッドをつくっているハンナと話すシーンなどが典型だ)。ラストシーン、外で湖を眺めているイアンを室内に呼び込むのは、「スクリーンの中」へと招き入れているのだ。台本を共有し、一緒にこの役を演じましょう、と。残念ながら後日あらすじを聞いたイアンはそんな映画は嫌だといって観客に戻ってしまうのであるが。

 あらかじめ定められたものを現実化するヘプタポッド、そして言語習得後のルイーズは、決められたことを演じるだけのつまらない存在なのだろうか。そんなことはない。演劇は脚本だけで決まるものじゃない。演出者と役者の個性によっていくらでも変化する。ヘプタポッドの言語習得によって得られる「未来の記憶」はいわば芝居のト書きのようなものだ。その事実に対して何を表現し何を得るか、それは「演者本人」にかかっているのである。(また、このメタファーをさらに押し進めていくと、町山智浩氏がパンフレットの解説で述べているような「ルイーズはあえてつらい別れの待っている未来を「選択」した」という解釈を成り立たせるのは苦しくなる。ルイーズは「役者」になっただけで「脚本家」や「監督」になったわけではない(もちろん「プロデューサー」でもない!)。役者は台本を勝手に書き換えることはできない。)※1

 さて、この仕掛けは当然のようにもう一枚外側のスクリーンを観ているわれわれを巻き込まずにおかない。ここで原作の「あなたの人生の物語」の「あなた」、そして映画でもルイーズが繰り返し語りかける「あなた」とは誰なのか考えてみよう。もちろん直接的にはそれはこれから生まれるルイーズの娘を指しているのは明白だ。しかし原作の書評ですでに何度か指摘されているのであるが、これはもっと広い意味を持っている可能性がある。「あなたの人生の物語」という作品自体が読書の寓意となっているという指摘は大変興味深い。つまり、ここでは「未来に何が起こるか知っている人生を生きること」と「結末を知っている本を再読すること」が対比されているのだ。結末を知っている本を再読するのは無意味な行為だろうか?そんなことはないだろう、たとえ結末を知っていてもその作品を読んでいるあなたの心に浮かぶ感想は毎回本物なのだ。そして誰かのことを思い出すというのは、お気に入りの本を何度も読み返すようなものである。本を読んでいる間だけ登場人物は生きているように、思い出されるたびにその誰かはその思い出の中で生きている。

この映画を見ている/本を読んでいる「あなた」自身もまた、誰かに見てもらう/読んでもらうのを待っている1本の映画/1冊の本なのだ、ルイーズが繰り返す「あなた」への語りかけはそういった意味が含まれているのかもしれない。 ※2



「デス博士は微笑する。「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も。」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ちあがり、きみの髪をもみくしゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」」
   ジーン・ウルフ
      「デス博士の島その他の物語」



※1 その点に関して監督はあえて「自発的な選択」であると視聴者に誤読させるように撮ったんじゃないか、という疑いを抱いている。ルイーズが明確にあの未来を「選択」したとうかがわせるセリフは一つもないのだ(あるいは未来は「選択可能」であると示すシーケンスもない)。ここにも「役者」と「観客」のメタファーは生きている。われわれはスクリーンの向こう側に行けないから真実はわからないのだ。

※2 実はルイーズのセリフの中にヒントらしきものが隠されている。ボキャブラリーを増やす必要性をウェバーに説くシーンで「この「You」が単数なのか複数形なのか区別する必要がある」と言っているのだが、これはルイーズのモノローグのYouが実は複数形の意味も含んでいるということを示唆しているのかもしれない。

※5月28日追記
「あなたの人生の物語」を読み返してみたところ、ヘプタポッドの世界認識と「演劇」の共通点について,チャンは暗喩どころか直喩で示していることを発見した。やっぱりまずテキストにちゃんと当たるところから始めないといけませんね。以下に該当部分を引用します。

「わたしはふと、"遂行的な"(パフォーマティヴ)の語形変化に"遂行"(パフォーマンス)という語があって、それは、なにが言われるかがわかっている会話をするときの感覚を記述できるものであることを思いだした。いわば、演劇の中で演技をする(パフォーミング)ようなものだ。
「ではあっても、そうすることで、こちらが求めるものを"それら"が与えてくれる可能性は増すのではないかね?」
とウェーバー大佐がたずねた。彼はこの場に台本があることなどまったく気づいてはいないが、その反応は定められた経路にぴたりと一致していた。」