2011年04月11日

日本語版Wikipediaのコンピュータ関連語は問題が多い

 前回のJane Smileyの「Atanasoff伝」に関連し、今日の世の中はAtanasoffのABCをどの様に考えているのだろうかと思い、普段はあまり見ることの無いWikipediaを見てみた。(「ABC コンピュータ」で検索)


<「Computing Device」と「Computer」は別物>

 最初に驚いたのは、この項の日本語版の始まりが、
・「アタナソフ&ベリー・コンピュータ(Atanasoff-Berry Computer)は、世界最初のデジタル電子計算機(コンピュータ)」
となっていることで、「冗談がきついな」と思いながら英語版にSwitchすると
・「The Atanasoff–Berry Computer (ABC) was the first electronic digital computing device.」
となっており、英語版で「computing device」と書いてあるものを、わざわざ日本語版では「コンピュータ」と変更しているのである。 

 Computing Deviceというのは、手回し式の卓上計算機とか、パンチカード・システムなどのような、プログラムできない計算装置のことを指し、一方、プログラム可能なcomputerのことは「General Purpose Computer(汎用コンピュータ)」などと呼び、簡略的に、Computerと呼んでいるのである。
 英語版Wikipedeiaに於いては、「Computing Device」と「Computer」は明確に区別して使っており、「ABC」に関しては、参考に示すように、関連の項目内での使用を含めて「Computing Device」で統一され、「Computer」などとは呼んでいないのである。
 ところが、日本語版に於いては、英語版で「Computing Device」と記述されているものを、「コンピュータ」に変えているわけで、困った事である。


<根拠のない捏造記述は大問題>

 この項の日本語版の記述は、構成的にも、英語版にある小見出しが取り払われ、内容的にも英語版の「つまみ食い」的翻訳のような感じで、英語版とは違うもののように感じる。

 そして更に内容的に問題だと思うのは、日本語版の後ろのほうに、
・ 「歴史家は今ではアタナソフ&ベリー・コンピュータが世界初のコンピュータであると言っている。」
といった断定が挿入されているが、英語版には全くこのような文章は見当たらないのである。

 敢えて、英語版の中で対応しそうな部分を探すと、「特許論争」という小見出しのセクションに以下のような記述があるのである。

Campbell-Kelly and Aspray conclude:
  The extent to which Mauchly drew on Atanasoff's ideas remains unknown, and the evidence is massive and conflicting. The ABC was quite modest technology, and it was not fully implemented. At the very least we can infer that Mauchly saw the potential significance of the ABC and that this may have led him to propose a similar, electronic solution.

 (参考訳) 「MauchlyがAtanasoffのアイディアをどの程度引き出したのかは未だに不明である、証拠は山ほどあって相互に矛盾している。ABCは極普通の大きさのテクノロジであり、(機能も)完全実現されてはいない。我々が最小限推定できることは、MauchlyはABCの潜在的重要性を理解し、そのことが、彼をして似たような電子的ソリューションの提案に導いたのであろう、といったことである。」

 つまり、米国の著名なコンピュータ史家であるCampbell-KellyやAsprayは「ABCが世界初のコンピュータである」などとは全く言っていないし、逆に、「(機能も)完全実現されてはいない」と否定的な表現をしているのである。

 となると、日本語版のいう「歴史家」が何処の誰なのかはぜひとも明確にしてほしいものであり、明確に出来なければ捏造表現ということになるのであろう。

 「ABC」は技術的観点からは明らかに「Computing Device」という事であり、国際常識的にも英語版Wikipediaで記述されているように「Computing Device」ということで、「computer」とは言わないというのが常識である。

 まあ、技術的観点を無視して、ABCが「最初のコンピュータである」と主張するのは、米国での法制度遵守の観点から連邦地裁の判決を遵守せざるを得ない法律家の類とか、地元IowaのAtanasoff崇拝者、といった一部の人達で、そのほかに付け加えるなら、日本語版Wikipediaの記述を鵜呑みにした人達、あるいは、周回遅れで、Mollenhoff などのIowa Patriotsの著作を読み、技術的検証ができないため、それを真に受ける、技術判断のできない人達、などであろう。

 

<「日本の常識=世界の非常識」への道>
 
 要するに、「ABCコンピュータ」に関する日本語版Wikipediaは、罪作りな記述で、根拠の明示もなく、敢えて英語版と異なる記述を行っており、その事が、日本語読者を、世界の常識とはかけ離れた、可笑しな誤理解に導くわけで、困ったものとしか言いようがないのである。
 
 こうした、英語版とは異なる構成・記述をとる日本語版Wikipediaの項目の唯我独尊的誤り問題は、今回の「ABC」に限らず、「Computer」「Supercomputer」などといった共通項目でも見られるし、日本語版だけにある「スーパーコンピュータ技術史」とか「スーパーコンピュータ産業史」といったような項目にも見られるもので、日本語版Wikipediaを信じた人達は、「日本の常識=世界の非常識」に陥っている可能性が大であることを指摘しておきたい。

 IT関連語に関して英語版の記述は、完璧ではないが、英語を母国語とする、米国、カナダ、イギリス、オーストラリアなど、IT先進国の人達による「淘汰」を経て来た記述であり、出典、参考文献等もかなりあり、それなりに重みのある記述なのである。
 英語版に不都合があるのなら、英語版の修正を求めるべきで、日本語版のみに独自で勝手な記述をする事は、Wikipedia設立の精神に反すると思うのである。

    
    
    
<参考: 関連項目の中での「ABC Computer」>

-「Computer」の項

・英語版
「The Atanasoff–Berry Computer (ABC) was among the first electronic digital binary computing devices.」
・日本語版
「1942年 ジョン・アタナソフとクリフォード・ベリーが電子素子を使って演算処理をする世界初の機械 ABCを作成」

 
-「ENIAC」の項

・英語版
「The American Atanasoff–Berry Computer (ABC) (shown working in summer 1941) was the first electronic computing device.」
・日本語版
「例えば1939年に試作機が完成、稼働した「アタナソフ&ベリー・コンピュータ」を世界最初のコンピュータとする考え方が今では主流である。1973年10月19日のミネアポリス連邦地方裁判所の判決[1]は、ジョン・アタナソフとベリーが1939-1942年の間に、アイオワ州立大学において、最初の電子式デジタルコンピュータ(the first electronic digital computer)を作ったと明確に述べている。」

 

  

Posted by petaflops at 12:02Comments(0)TrackBack(0) 時々の話題 | 業界

2011年04月09日

Jane Smiley著  The man who invented the computer

The man who invented the computer:The biography of John Atanasoff, Digital Pioneer. By Jane Smiley, Oct. 2010, Doubleday.

 小説家でありノンフィクション作家でもあるJane Smileyが昨年10月に出版した上記の本に関連し、今年の1月に彼女はComputer History MuseumのJohn Hollarと対談を行っており、最近、偶然に、そのVideoを目にし、思わず、その1時間半ほどの対談を最後まで見てしまった。
 Smileyは1992年に「Pulitzer Prize for Fiction」を受賞した作家。技術系に関しては門外漢で「Binary Computationがどんなものかくらいは知ってるが、それ以上を知りたいとは思わない」などとシャーシャーと答えていて、なんとも憎めないおばさんである。

 この本はDoubledayの「American Inventors」とか言うシリーズのなかの1冊で、本来は、1970年にノーベル平和賞を受賞した「Norman Borlang」の伝記を書くことになっていたが、興味が無く、編集者に「誰がコンピュータを発明したのか知っているか?」と聞いたところ、「知らない」とのことだったので、この内容に決まり、題名は出版社がつけたと語っている。

 本の題名にAtanasoffの名前を見るのは久しぶりである。Smileyがしゃべっていた内容は「先刻承知」のことではあったが、このおばさんが「見てきたように」、Zuse、Turing、Tomy Flowers、von Neumann、Goldstine、Mauchly、EckertとかColossas、Z4、ENIACとかの話をするのを聞いていると、それはそれでなんとも面白い感じではあった。

 彼女の意図は「誰が最初か」といったようなことではなく、「まるで別々の映画館で上映されている、イギリスでのColosus、ドイツでのZuse、アメリカでのvon Neumann、Atanasoffなどといった4つの映画を見ているようで、その登場人物のCharacterが大変面白かった」といった主旨の発言をしており、技術的内容というより、小説家視点での人間観察に主眼がある本だと思うと、なんとなく肩肘張った議論をしても無駄なように思えてくる。


<AtanasoffのABC>

 AtanasoffのABCは29元連立1次方程式を解くための道具として考えられたもので、当時の計算機械としてのIBMのパンチカード・システムの改良を狙ったものである。
 29元連立1次方程式を、Gaussの消去法で解こうというもので、今日のHPC的にはLinpack計算を目標にしていたといってよい。
 システム的には、前後2行の係数をパンチカードから読み込み、DRUMメモリにいれ、その2行から変数を1つ消去する、という部分のみが機械化された部分で、消去した結果はパンチカードに出力し、次の変数消去の入力に使用する、といったもので、このオペレーションを繰り返すことで連立方程式を解いてゆくものである。
 自動化されたのは2行の係数引き算の処理部分で、次の行のオペレーションのためのSetupは人手で行うのである。

 これを今日的汎用コンピュータというのか、という素朴な疑問は、極めて健康な反応で、「Computer」ではなく、せいぜい英語版Wikipediaが採用している「Computing Device」といった表現が適切なのではないかと思えるのである。
 
 演算速度的にも、確かに論理演算回路には真空管を使ってはいたが、タイミングや制御系はreleyを使用していたり、係数用のMemoryは、交流周波数に同期して回転するDRUMにCapaciterをデータ長(50bit?)分だけ源氏車にように差し、それを並列方向に30パラメタ分だけ広げたもので、1回転で1データ分読出せるもので、読出し速度は、余り記憶が定かではないが、1回転1秒1データであったように記憶している。 
 従って、演算速度は、論理演算処理の部分は真空管の速度であるが、メモリの読出し等々は機械式で、演算全体としての速度は機械式ということになり、完全作動したとしても、当時の最新のパンチカード・システムより遅かったのではないかと思う。

 電子回路技術的には、Atanasoffは、既に1919年頃に発明されていたFlip-Flop回路を知らなかったようで、クロックの生成やパルス同期、Flip-Flopメモリの構成など、電子回路の基本を身につけておらず、内部制御に必要なCounterやBuffer、Register類を電子的には構成できず、超低速なDRUMメモリやReleyのご厄介になったわけで、電子式回路技術としては極めて不完全なものといえるのである。

 これに対し、ENIACは、Flip-Flopを基本にして、クロック生成や同期、Flip-Flopメモリを使った、Counter,Buffer,Registerなどと、完全に電子回路のみで基本システムが構成されており、電子回路の速度ですべての演算が行われており、電子技術的にはABCとは桁違いに完成された技術と評価できるものである。
 また、プログラマブルなENIACの、アーキテクチャを含む構成は、単機能なABCとは全く異なり、基本的に比較の対象にはならない。

 Arthe BurksはABCのことを「First Electronic Computer」、ENIACのことは「First Electronic General Purpose Computer」と呼んで、Computerの定義をかなり低く設定し、「General Purpose」で定義を高くすることで、連邦地裁の政治的判決と専門家の間の技術的常識の両方のメンツを立てている。
 しかし、一般人にとっては、「Computer」と「General Purpose Computer」が違うものなどというのは、日常用語上「紛らわしい」ことで、やはり、ABCは「Computing Device」程度のものと表現するのが実体にも即していて妥当であろう。


<ENIAC Patent 裁判>

 ENIACのPatent申請書は200ページ越える大著で、「ENIAC Patent」裁判は、単純にEngineering factに黒白をつけた裁判というより、大企業の金銭的思惑が重層的に渦巻いていた複雑な裁判で、そのPatent破りに持ち出されたのが、忘却の彼方にあったAtanasoffのABCであったわけである。
 訴えたのはPatentを保持していたSperryで、特許侵害と特許料の支払いを求め、Honeywellを訴えたもので、訴状はワシントンの連邦地裁に提出された。ところがHoneywellは逆にSperryを独禁法違反でミネソタのミネアポリスで逆提訴し、裁判所の受理発効時間からミネアポリスの連邦地裁で裁判が行われることになった。IBMが訴えられなかったのはIBMとSperryはcross license契約を結んでいたからである。
 
 率直なところ、田舎の連邦地裁が取扱うには荷が重すぎる内容の裁判で、勢い、Engineering factの追及より、証人の顔色を読む人間系の裁判のような展開になり、Maucklyに焦点を当てた人間系の裁判は、現実の技術的側面は捨象され、Patent申請時期が遅すぎたことなども理由となり、結局Sperryは敗訴したのであるが、当時から専門家の間では「間違い判決」というのが一般的評価であった。
 そして、この裁判には巨額の金が使われ、控訴審では更なる資金が必要になるのに、勝訴による金銭的見返りは少ないと判断したSperryは、控訴を断念、その結果、この地方裁判所の判決が国の判決として確定してしまい、米国においては「法的にはABCが最初のコンピュータ」という事になっているわけである。
 従って、米国では「法的な最初のコンピュータ」と「技術的学問的最初のコンピュータ」の2つが存在するということで、「ENIACが最初のコンピュータ」などと言うと、ABC側から「法的に訴えられかねない」といったヘンテコな状況になってしまっているのである。


<Iowa Patriot>

 しかし、判決後も一般的には「ENIACが最初のコンピュータ」というのが世の中の大勢で、このことに我慢が出来ない、IowaのPatriotが、判決と人間観察視点をテコに、強烈なAtanasoff支持の本を出版する事になるのである。
 それが1980年のClark Mollenhoffの「Fogotton Farther of the computer」(邦訳「エニアック神話の崩れた日」)である。MollenhoffはPulitzer賞受賞のバリバリのIowaのジャーナリストであり、徹底的にMauckly証言の矛盾を叩いている。

 逆に、ENIACを支持する側からの本の代表は、WSJ紙のScott McCartneyの「ENIAC: The Triumphs and Tragedies of the World's First Computer」である。彼はWSJが暗示するように人間系より企業系で、Eniac裁判をHoneywell vs Sperryの企業間闘争と見ており、さらに、ENIAC後継のEDVACにおいてEckertとMaucklyは「von Neumannに発明者としての名誉を盗まれた」といった論点を展開しているのである。

 小説家のSmileyが何故Mollenhoffの2番煎じのAtanasoffなのか理解出来なかったが、実は彼女はUniversity of IowaでPh.Dを得た人で、更にはAtanasoffがABCを作成したIow State Univ.で長いこと教鞭をとっている事を知るに及んで、瞬時にすべて納得できた。田舎Iowaの「おらが郷土の大先輩」のために一肌脱いだということなのであろう。

 今回のSmileyの著作には新しい発見・発掘があるといったわけではなく、逆に、かなりの数の事実認識の間違いが指摘されており、芳しい評価を得ているとは思えない。
 対談の最後の方で、Hollarに促されSmileyは自著の最後の方に書いている部分を朗読しているが、その中で、von NeumannはScott McCartneyからは「泥棒」呼ばわりされ、逆にNormann Macraeなどからは「visionary」などといわれているが、「von Neumannには、彼自身は誰がコンピュータの発明者だと考えているのかを聞いてみたい」という辺りは、結構witに富んだ人の様に思えるが、本書に関する限り、Iowa Patriotの変形ということなのであろうと思う。

 

  
Posted by petaflops at 15:58Comments(0)TrackBack(0) 時々の話題 | 業界