2011年05月25日

映画アマデウスの音楽構成

 前回のMozartのピアノ協奏曲23番の中でも若干触れたが、映画AMADEUSには、音楽構成や、楽曲分析とその描写シーンなど、考えさせられるものが数多く含まれており、将にPerforming Monkeyでは到達できない、欧米文化の巨大な壁のようなものを強く感じさせられる映画になっている。

 原作の戯曲はLiverpool生まれのユダヤ系英国人Peter Shafferの作であるが、そもそもはプーシキンの短い戯曲「Mozart and Salieri」に触発されたものといわれている。
 この戯曲を、18世紀の香りを今に残す古都Pragueを当時のViennaに仕立てて映像を作りだしたのが、Czech生まれの米国人Milos Formanである。
 そして、映画のシナリオにあわせ、Mozartの作品を絶妙に配置したのが、英国人でAcademy of St. Martin in the fieldsのNeville Marrinerである。


 話の要旨は、凡人Salieriが神の与えし不公平さに復讐するため、神の子・天才Mozartに、Mozart自身の死のためのRequiem(死者のためのミサ曲)の作曲を、代理人を使って、極秘に委嘱し、その神の子の手になるRequiemを、あたかも凡人Salieriが作曲したものとして、神の子の葬送に使用し、世間の喝采を受け、凡人が後世に名の残る天才の誉れを騙しとるということで、神の不公平さに復讐するという話で、結構込み入った作り話である。


 そして、この作り話に、実在感や臨場感を与えているのが、絶え間なく流れてくるMozartの音楽である。その音楽構成にはかなりな構築が読み取れるし、また、かなり高度な作品分析も示されているのである。


 
<音楽構成>


 この映画のストーリーはSalieriの自殺未遂の場面で始まるのだが、幕開けの雪の中に置かれた馬車の短いシーンには、この映画を貫く、厳格な父LeopoldのLeading Motive(示導動機)として、歌劇ドンジョバンニ序曲の冒頭のCommendatoreのLeading Motiveが使用されている。


 お話は背景音楽なしで、Salieriの自殺未遂の場面に移り、背景音楽が復活するのは、Salieriを担架に乗せて精神病院に担ぎこむ場面からで、交響曲25番の第1楽章のドラマティックなリズムに合わせて運び込まれてゆくのである。


 そして、話はいきなり飛ぶが、映画の最後の場面は、収容されている精神病院と思しき施設の中を、神との試合に勝ったと一人勝手に思っている凡人のチャンピオンSalieriが、満足の表情で車椅子に乗って、周りの精神病患者と思しき人達に対し、”I absolve you.(許そう)"と得意げに語りかけながらwaterclosetに押されて行くという、なんとも、チグハグで、若干滑稽な場面なのであるが、この場面を、神々しく、あたかも、天上に満ち満ちている至福の時であるかのように聴覚に訴えているのが、「妙なる楽の音」、ピアノ協奏曲20番の第2楽章、通称”Romanze”なのである。


 Salieriが神に対する復讐のシナリオを思い付くのは、映画の中では後半で、Salieriが歌劇ドンジョバンニを見ていた時のことで、死後も父Leopoldが息子Wolfgangを支配しているという構造に気がつくのである。そして、そのことを巧みに利用し、父のイメージの仮面をかぶった代理人を使って、Mozartに極秘にRequiemの作曲を委嘱しに行くのであるが、この鬼気迫る場面をドラマティックに演出しているのは、同じピアノ協奏曲20番の第1楽章である。

 そして委嘱の前金を受け取るシーンから、音楽は、将に今、委嘱を受けたところのRequiemのイントロイトゥス(入祭唱 )が流れ出し、使者が帰ってゆくこところを2階から見るシーンまでの間続くのであるが、これは、「自分を死に至らしむ」階段の扉を自ら開いてしまったという悲劇のイントロイトゥスであることを印象つけており、これ以降、ストーリーは「死者のためのミサ」の式次第に従って展開することになるのである。


 Beethovenの交響曲第5番と第6番はかなり性格の異なる曲であるが、作曲は同時並行的に行われたとされている。映画アマデウスに於いても、「死に至る作曲」は並行に近い形で進められたという設定である。重く暗い宗教曲Requiemと対比に使われたのが歌劇「魔笛」や民衆劇場でのドタバタ劇である。「魔笛」はViennaの民衆劇場の興業主で俳優兼歌手のEmanuel Schikanederが、自分が書いた台本をもとにした歌劇の作曲をMozartに依頼したもので、軽やかな曲の多いオペラである。

 映画では、イントロトゥスの後は、Schikaneder一座のドタバタ劇で騒いだあと、父の肖像画を前にRequiemの作曲に没頭するシーンではDies irae (ディエス・イレ、怒りの日)が響く。
 その後、作曲に飽きたところでは魔笛の序曲に乗って、はじめは静かに、しかし直後に、軽快なリズムに移ってドタバタ調に移り、次は父のLeading Motiveとともに、仮面をかぶったRequiemの委嘱者代理があらわれる。
 そして、妻のコンスタンツェツとの深刻な口論の場面は、RequiemのRex Trementae(レックス・トレメンテ、恐るべき御稜威の王 )が鳴り響く。
 コンスタンツェが居眠りをした間に、そーっと脱出し、深夜の酒場で遊びほうける場面は魔笛の様々なメロディがながれ、そして朝帰りするところは、再び Rex Trementaeに戻る、といったように、基調のRequiemとオブリガードの魔笛が交互に絡み合いながら、Requiemの式次第は終末に向かって進んでゆくのである。

 映画では、魔笛の初演が終わり、Salieriのヘルプで徹夜で作曲に取り掛かるのはRequiemの式次第でRex Trementaeの次に来るConfutatus(コンフタテゥス、呪われし者)である。そしてConfutatusの作曲が終わり、Mozartが死に、葬送の場面になると、音楽は式次第ではConfuratusの次に現れるLacrimosa(ラクリモサ、涙の日)に移り、これにてMozartの話は終了となるのである。

 そして、Salieriはこれらのことを神父に告白し、「天上の妙なる楽の音」、Mozartのピアノ協奏曲20番の第2楽章にすべてが溶融してゆき、映画はあたかも至福であるかのような終末に到るのである。

 つまり、この映画音楽は、この復讐劇と厳父を象徴する歌劇ドンジョバンニ序曲のMotiveで幕開けし、そのMotiveの影に追われながら進行してゆき、そのドンジョバンニの歌劇を見ながら、復讐のシナリオに思い到り、ピアノ協奏曲20番の第1楽章に乗って、復讐のシナリオを開始し、Requiemの式次第に従って、魔笛などのオブリガードで脚色されながら、神の子を死へ向かわしめ、神の子は自らのLacrimosaで悲しい葬送を迎えるのである。
 神の子を追い詰めた凡人のチャンピオンSalieriは、復讐のシナリオ開始の緊張感を演出したピアノ協奏曲20番の第1楽章と対をなす、第2楽章の「天上の妙なる楽の音」にのって、精神病患者で満ち溢れた精神病院の廊下を、至福の天上の響きに包まれながら、車椅子に乗せられて送られてゆき、映画は、あたかも、すべてが「妙なる楽の音」に溶融し、すべてが許されるように終わってゆくといった、玄人筋をもうならせる、極めてSophisticatedな音楽構成で出来上がっているのである。


 これをやってのけたNeville Marrierの音楽構築力は、見事、というほかない。Mozartの作品に対する広範で高度な知識と感性に加え、相当なシナリオ構成力も必要とされているわけで、Mozartの全作品の中から的確に曲を選別し、このように配置構成する構築力は、とても、Performing Monkeyには出来ないもので、文化と歴史の厚い壁のようなものを感じるのである。


  

Posted by petaflops at 22:18Comments(0)TrackBack(0) 時々の話題 

2011年05月09日

内田光子とホロヴィッツのモーツァルト・ピアノ協奏曲23番

内田光子とホロヴィッツのモーツアルト・ピアノ協奏曲23番



 今年(2011年)の2月13日に米グラミー賞の発表があり、内田光子がクリーブランド管弦楽団とレコーディングしたモーツアルトのピアノ協奏曲23番と24番のCDが、最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞を受賞したというニュースがあった。
 この23番の協奏曲は、20年ほど前に、Horowitzがグラミー賞を受賞した曲という廻り合わせがあり、ご存知の方も多いと思う。


 モーツアルトは27のピアノ協奏曲を作曲しているが、20番台のピアノ協奏曲はどれも素晴らしい曲ばかりで、ピーター・シェーファー原作、ミロス・フォアマン監督の映画アマデウスのなかでも、それらの中から3つの楽章が、それぞれ結構長く使われているので、ご記憶の方も多いと思う。音楽監督はAcademy of St. Martin-in-the-FieldsのNeville Marrinerである。

 一番印象的なのは、フィナーレのシーンで使われていたピアノ協奏曲20番の第2楽章”Romanza"であろう。モーツァルトのピアノ協奏曲の第2楽章は全般的に緩やかで印象的なメロディのものが多く、”Romanza"と同じような雰囲気の曲には21番の”Andante”や24番の第2楽章などがあり、最後のシーンの背景音楽として”Romanza"を置き換えても、さほど不自然さを感じさせないような曲である。
 そのほかには、映画の中頃で国王臨席のもと、野外で演奏される開放的でリズミカルな楽曲は22番の第3楽章である。更には、仮面をかぶったサリエリの代理人がレクイエムの作曲を委嘱に行く、暗く重い場面は、前述の20番D-minorの第1楽章で、切迫感の激しい楽曲で、モーツアルト作品中では、珍しい部類に属する。
 
 残念ながら今回の話題の23番は映画アマデウスには、どの楽章も使用されていない。第1楽章はA-MajorのMozartらしい明るく透明度の高い曲、2楽章は、対照的に、Sicilianoの寂しげなリズムにのった曲、そして第3楽章のRondは快活で躍動的な曲である。そしてこの協奏曲は、Horowitzが録音風景を映像に残していたことで話題になっていたのである。

 映画アマデウスが話題になったのは1985-86年ごろで、その2-3年後の 1988年12月16日にNHK総合で、「ホロヴィッツ・モーツアルトを弾く」という題名でこの23番のピアノ協奏曲が放映されたのである。
 この映像は1987年のドイツ・グラモフォンのCD 作成の録音風景で、指揮はマリア・ジュリーニ、オケはミラノ・スカラ座管弦楽団、そしてこのCDは1989年度の米グラミー賞を受賞しているのである。
 指揮のジュリーニとオケを指名したのはホロヴィッツとの事である。ジュリーニはともかくとして、スカラ座のオケという選択はいささか奇妙な印象がするが、Horowitzの我がままをすんなり聞いてくれるのは、この手の人達なのかも知れないし、或いはジュリーニとの関係なのかも知れない。

 この映像が注目されたのは、なんと言ってもショパン弾きで、スクリャービン、ラフマニノフなどを得意としていた幻の名手ホロヴィッツが、モーツアルトを弾くという意外さで、筆者も注目して放映を見たことを記憶している。そもそもHorowitzの録音のいいレコードやCDの数は少なく、ましてや映像の数は少ないので、この録音風景は極めて貴重なもので、注目を集めたわけである。
 Horowitzが亡くなったのは1989年となっているので、この放映の翌年ということになり、彼は1903年生まれだったそうなので、享年86、録音時の1987年は84歳であったということになる。映像を見るかぎり、年齢にしてはかなりしっかり弾けていた様に思う。


<HorowitzのMozart>


 映像には、楽章の合間に、がらがら声のへんな英語で、ぶら下りの音楽記者から雑談形式のインタビューを受けたり、周りに減らず口を叩いたりしているシーンが含まれていて面白かったが、その中で、筆者にとって、極めて印象的だったのは、ある記者の「Mozartを弾くのはどうか?」といった類の質問に対し、「I like Chopin, Chopin likes Mozart」(then, I like Morzart)という三段論法を展開し、笑いながら記者を煙に巻いていた事である。

 ChopinがMozartを敬愛していたのかどうかは知らないが、Chopinは自己の葬儀にMozartのレクイエムを演奏してほしいといったらしく、実際に彼の葬儀では、彼自身の幾つかの曲のほかにMozartのレクイエムが演奏されたとなっている。
 この葬式の事から、「Chopin likes Mozart.」と結論付けるのは若干行き過ぎで、せいぜい片目をつぶって「Chopin likes Requiem by Mozart.」程度のことであろう。まあ、言葉遊びの好きな19世紀調の面白いおじいさんである。


 筆者が驚いたのは、単純な言葉遊びとしてではなく、その言葉遊びとHorowitzの実際の演奏との間の微妙な関係についてなのである。端的に言うと、Horowitzは、Mozartの23番のピアノ協奏曲を、ショパンのピアノ曲を弾くように弾いていたからである。 つまり、「I like Chopin. Chopin likes Mozart.」「Then, I play Mozart like Chopin.」と弾いているように聞こえるのである。 

 Horowitzの23番の協奏曲は、Mozartの端正な美人画を、ダイナミックレンジが極めて大きく、輪郭がデフォルメされ、全体のプロポーションも不気味な、写楽の役者絵のように書き換えたようなものに感じられ、非常に複雑な印象が強いのである。

 Horowitzは、意識的にそうしているのか、或いは長年の訓練の結果自然とそうなってしまうのかは定かでないが、極めて左手が強く、左手の音量が大きくなるため、聞き手は左手の中低音に意識がむいてしまい、デフォルメ感が強くなり、結果として、Mozartの中からChopinの匂いがプンプン漂ってくるような演奏になっているのである。

  彼の技術はChopinのような19世紀のダイナミックレンジの大きな曲を弾くには必須の技術かもしれないが、Mozartのような18世紀後半の曲には邪魔な技術に聞こえる。
 19世紀的楽曲を練習しすぎると、18世紀の楽曲を弾く時も自然と19世紀的になってしまうのではないかと思うし、弾く技術の問題だけでなく、感性としても19世紀的なものを求めるようになってしまうのではないかと思う。
 Wagnerを聞き過ぎるとMozartやBeethovenがセセッコマシク聞こえてきて、聞けなくなるとか、Chopinを聞きすぎるとMozartが聞けなくなる、といったような経験である。 或いは、Jazzピアノをやると、クラシックに戻ってもJazzなまりが抜けないとか、例は結構あるように思う。

 録音風景の話に戻ると、第一楽章の提示部のオケのテンポは信じられないくらい速く、ピアノに移るとオケのときほどではないが、それでも結構な速さで、スケールなどでは近接音が若干混濁気味で、透明感がなくなっている部分があり、また、長いスケールになると途中に拍頭のアクセントが入ってしまっていたりで、所謂「保守的Mozart聞き」からすると、なんとも疲れる演奏ということになるのである。



 Horowitzが来日したとき、吉田秀和が朝日の音楽時評に「ひび割れた骨董品」とか書いていたのを読んだ記憶があるが、この録音風景のMozartはそれ程までにはひどくはないが、齢八十過ぎても自然にハッタリをかませてしまうという、19世紀の香りを漂わせる、最後の演奏家であったことは間違いないし、40、50代の頃のChopinなどの響きを直接聞いてみたかったと思うのは筆者だけではあるまい。



<Dame UchidaのMozart>


 これに対し、22年後の今年、同じ23番のピアノ協奏曲で同じグラミー賞を受けた内田の演奏は、ダイナミックレンジを押さえ、1音1音の響きが緊張感のある、粒のそろった、同質の響きで、しかも早いパッセージにおいても、それぞれの音か区別できるような透明度の高いクリスタルで完成度高い演奏であり、テンポも抑え気味で、「保守的Mozart聞き」のお耳には極めて心地良く響く演奏なのである。


 細かい演奏技術的に言えば、Mozartの曲は、弾くだけでなら子供でも弾ける曲かもしれないが、どっこい、ステージ演奏では、演奏家の基礎能力が、直接的に現れてしまう、怖い曲で、逆に、聴衆が演奏家の技術力を採点するには最適な曲なのである。

 内田のMozartは、スケールやアルペジオ、分散和音、などといった基礎演奏技術の完成度の高さ、バランスのよさに加えて、トリラーやバッテリーといった装飾演奏技術もデコボコのない均一な響きを長時間保続可能という体力があり、要するに、どのようなフレーズにおいても、1音1音「バラつき偏差」の極めて小さい、クリスタル度の高い演奏ということで、聞いていて、特異点のような突起感のない、連続微分可能な、流れるようなスムーズな演奏ということなのである。

 加えて、各フレーズの「入」と「出」が類稀なデリケートさで演奏されており、フレーズ内の均一性とあいまって、所謂、品のよい、完成度の高さを示しているのである。
 Mozartの作品演奏に於いては、昔から、彼のフォルテはメッゾ・フォルテで、と語り継がれているが、内田のフレージングは、将に、この伝統を守り、かつ、発展させたもので、フレーズの「入」のフォルテは、微妙に遅れた、やわらかい、メッゾフォルテで、しかも、その音を響かせるための瞬時の「間」をとったかのような見事な発音である。これは驚くべき演奏技術で、内田の類稀な感性の表れなのであろう。 同じようにフレーズの「出」も、「入」に劣らないくらいデリケートで神経の行き届いた音をやわらかく響かせ、違和感無く自然に終わってゆくのである。

 或いは、長いトリラーやバッテリーに於いても、ばらつき偏差が殆どない、上質な絹織物のような、滑らかで突起感皆無の、自然な響きを、長時間保続演奏できるという基礎体力レベルの充実が、曲全体の完成度をさらに引き上げているのである。

 こうした点は、Horowitzの雑駁さに比較すると一目(耳)両全で、こうした基礎力の完成度の高い演奏は、Mozart作品を通して見ると、ほかには、PolliniやArgerichの演奏から感じ取れる共通の響きではないかと思う。 しかし残念ながら、彼らと同世代の、AshkenazyとかBarenboimらは指揮に転向したこともあってか、練習不足で、ピアニストとしての彼らのMozartのピアノ協奏曲の演奏は、Horowitzとは別の意味で雑駁であり、ピアニストであることを維持することの難しさを示している。


 基礎技術を包含した音楽全体としての内田のMozartの特徴は「没個性という類稀な個性」ということなのだろうと思う。1音1音を「弾く」というレベルを通り越し、1音1音を「聞き手に届ける」というレベルで、楽譜に忠実に正確に「弾く=届ける」ことを実行すると、自然とそれ自体が偉大な個性になるということなのだろうと思う。

 これはある種、再現芸術における、クールなピアノ・テクノクラートとでも表現すべき個性で、基礎技術の完成度が、一流といわれる人達の中でも、抜きん出て高い人達が自然と手にする個性で、日頃の努力の賜物としか言い様がなく、内田のほかにはPolliniやArgerichの演奏からも、この手の響きを感じとれるのである。
 テンポのとり方も、内田やPolliniは、Horowitzに比べると、ゆったりめで、1音1音を正確に聴衆に届けるために必要なテンポということなのかもしてない。

 彼らの演奏は、特段、19世紀的ヴィルティオーソの系譜に属する人達のような派手な個性的Performanceなど何もない、一見普通の演奏であるが、1フレーズ聴いただけで、1音1音の輝きが数珠のように聞こえてくる品格のある演奏なのである。多分こうした響きは、昔は要求されていなかった響きで、過去数百年で我々が初めて聞くことが出来るようになった響きなのではないかと思っている。



 巷にはMozart弾きというピアニストの分類があり、歴代、Clara Haskil、Walter Gieseking、Lili Kraus、Ingrid Haebler等々著名なピアニストの名があがってくるが、残された彼らの録音を聞いてみると、録音に問題があることは承知の上で、彼らも結構粗雑なところがあり、多分、内田のMozartの完成度は、歴代Mozart弾きの中でも群を抜いているように感じられる。


 19世紀は雑駁な世紀であり、20世紀も前半は戦争の世紀で粗雑な時代であったが、後半に至り、世界経済発展に伴う、社会の余裕度が、演奏技術の精密度を著しく進展させ、それまでにない「響き」を演奏技術を通して可能にしているわけで、いぶし銀のような贅沢を味わっている気がしている。 今日の我々は、多分、昔の人たちは聞いたことのないような、完成度の高い響きを聞くことが出来るという贅沢と、その反面として、19世紀的属人的個性の喪失という失望を味わっているのであろう。

  
Posted by petaflops at 09:53Comments(0)TrackBack(0) 時々の話題