最近注目してる武将シリーズ。
今回は西晋の外戚、楊珧・文琚について書いていく。
例によって個人的な推測を多く含む。
・概要
楊珧、字は文琚。
本籍は弘農郡華陰県。
いわゆる弘農楊氏出身。
兄に楊駿、弟に楊済がいる。
永平元(291)年、賈南風一派との政争に敗れて捕まり、東安公・司馬繇の命令で処刑された。
・官歴(※推測含む)
275以前:給事黄門侍郎(職官志より)
275(咸寧元年):太子藥(武帝紀・職官志・辟雍碑より)、給事中・光禄大夫(職官志・辟雍碑より)
280(太康元年):太子藥、衛将軍 ※時期は推測
282(太康三年):太子少傅(荀勗伝・王渾伝・職官志より)、衛将軍(王渾伝より)
286(太康七年):辞職(楊珧伝より) ※時期は推測
289(太康十年):尚書令(楊珧伝より)
290(永煕元年):衛将軍(楊珧伝・恵帝紀より)
291(永平元年):処刑(楊珧伝・恵帝紀より)
・内容詳細
楊珧の官位については自分の伝の他に皇帝の紀と職官志で大部分をフォローできる。
特に職官志による楊珧の記述は太子関連の官についていたことがわかる唯一の記述場所。
何故か楊珧伝にはそのことが全く書かれていないのは、なんらかの不都合があったからかもしれない。
武帝紀には咸寧元年六月戊申に太子藥を設立したことが書かれている。
そして、職官志には「咸寧元年、給事黄門侍郎の楊珧が藥となった」とあるので、設立と同時に楊珧が就任したことがわかり、楊珧の前職が給事黄門侍郎だったということも分かる。
同じく職官志に「太子藥の楊珧が給事中・光禄大夫を加えられた」とある。
その時期が「泰始中」と書かれているが、太子藥ならば咸寧元年以降なのは上述から間違いない。
洛陽にて発掘された咸寧四年建立の「辟雍碑」には「藥給事中光禄大夫関内侯珧」とされているので、少なくとも咸寧四(278)年までには給事中・光禄大夫を加えられたことが分かる。
そして、職官志によれば宮事(この場合は東宮、太子関連)の一切を取り仕切り、当時の太子太傅(司馬攸)や太子少傅(山濤)には属官が置かれなかった(つまり名誉職化)
これは司馬炎によって外戚の楊珧に東宮を一括管理させることで太子の立場の強化を図ったものと思われる。
翌年にあたる咸寧二(276)年には賈充が新設された太子太保となるが、賈充は賈充で太子とも司馬攸とも縁戚という非常に微妙な状況にあった。
司馬炎からしたら太子派にならないなら潰すぞという意味を込めて兵権まで剥奪しているから表立って司馬攸派にはなりえない存在で、太子関連を一任した楊珧とも親しい。
このあたりは完全に太子派の強化を狙った人事であると言えるだろう。
咸寧三(277)年、一族諸王の領地が目まぐるしく変わった。
これは太子派である楊珧と中書監・荀勗による共謀で、司馬一族の領地のルールを細かく整備した上で洛陽にいる司馬一族の大半を領国へと赴任させた。
洛陽の暮らしを満喫していた皇族の中には洛陽を去るのを嘆いて泣く者までいたという。
後々司馬攸を排斥するための目論見なのは言うまでもない。
また、地方官を務める司馬亮兄弟は赴任先と領国を極めて近くに設定された。
咸寧五(279)年十二月、馬隆が樹機能の乱を鎮圧したが、報賞担当官は出立前に先んじて爵位を与えているので再度の報賞はいかがなものかと難色を示した。
この時、楊珧は先んじて爵位を与えたのは強兵を集めるためであり、馬隆が勝利して西に安寧を得たことに報いないのは朝廷への信頼が揺らぐと反論し、馬隆とその兵士たちへの恩賞を認めさせた。
咸寧六(280)年三月、孫呉を降伏させたことにより改元し、太康元年となった。
これにより孫呉の降将として優遇されていた驃騎将軍の孫秀が伏波将軍、車騎将軍の孫楷が度遼将軍に降格した。
その代わりに扶風王・征西大将軍の司馬駿が驃騎将軍、臨晋侯・鎮軍将軍の楊駿が車騎将軍に昇格した。
楊珧が衛将軍になりうるとしたら同時期のこのタイミングが一番妥当と思われる。
太子藥は兼官として本官が衛将軍になったと考えるべきか。
光禄大夫が三品、非持節の衛将軍が二品なので順当な昇進と言えるだろう。
ただ、楊珧自身は兄の楊駿が車騎将軍という高官にまで来たので自分はもう中枢にいるべきではないと思ってこの時期に一旦官位の返上を申し出ている。
司馬炎としてはこのタイミングで楊珧がいなくなるのは痛手であるので当然却下された。
太康三(282)年、太尉賈充と司徒李胤が死亡し、年末には司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事として領国に向かわせる人事が発表された。
これに対して中書監の荀勗は「空いた保傅に楊珧を就任させ、司徒には山濤か衛瓘が妥当」と発言。
征東大将軍・都督揚州諸軍事の王渾は「司馬攸を地方に出すぐらいなら司馬亮を出すべき。個人的には司馬亮と司馬攸と楊珧が保傅と地位を等しくして互いに監視し合えば良いと思う」と上書した。
荀勗は太子派、王渾は司馬攸派の立ち位置だったが、いずれも楊珧を保傅とすることに疑いを持たなかった。
太子藥としての長年の実績もあったのだろうが、司馬一族の宗師である司馬亮、司馬一族きっての名声を持つ司馬攸と並ぶことを許されるぐらいには楊珧の名望は高かったということだろう。
ちなみに当の楊珧は完全な司馬攸排斥派として活動していたため中護軍の羊らから恨みを買っていたが、先手を打って讒言して羊らを左遷させた。
羊は憤死に近い形でまもなく病死した。
人事としては司馬亮が太尉・太子太傅、山濤が司徒、衛瓘が司空・尚書令となり、楊珧は山濤の後任として太子少傅となった。
死亡した賈充の太子太保の後任は兄の楊駿が就くことになり、楊一族の権勢はいよいよ増してきた。
ちなみに太子藥はこの段階で廃止され、太子太傅などに属官が再び置かれるようになった。
このことから楊珧が東宮を支配するための便宜上の官職であったのは言うまでもない。
職官志上だと賈充や司馬攸の頃に楊珧が太子少傅になって上記二行のような措置がなされたように書かれているが、それだと荀勗が「太子太傅が空いたので楊珧に東宮の補佐をさせよう」などと言うわけがない。
職官志には時期の誤認がしばしば見られるので、そこは無視するものとする。
太康七(286)年の正月、数年ほど続く異常気象に困り果てた司馬炎は「なんでもいいから原因でありそうなものを述べよ」と詔を下した。
右軍督の趙休が「現在楊氏に三人の高官がいるため、天文に異常が現れたのだと思い、陛下を心配しております」と上書した。
前年(285)に楊珧の弟である楊済が鎮南将軍・都督荊州諸軍事という地方司令官に任命され、正しく楊氏三人が高官にある状態だった。
趙休の上書の内容を伝え聞いた楊珧は身の危険を感じ、辞職を願い出た。
当時の三公である司馬亮たちが同じように辞職を願い出て却下されたのに対し、楊珧の辞職の申し出は受け入れられた。
司馬炎にも楊氏三人が高官にある状況が気にかかったのかもしれない。
いずれにしても楊駿伝には太煕元(290)年の段階で「前衛将軍楊珧の故府」という表現がなされているので、そこまでには辞職していることは明白。
太康十(289)年十一月、尚書令の荀勗が死亡。
そして、楊珧伝の「尚書令・衛将軍を歴任した」が真実なのであれば、この期間しか就ける可能性がない。
何故ならば初回の衛将軍期間が278〜286の間ぐらいになるが、衛瓘が確実に尚書令の期間とモロ被りしているからだ。
278時点の楊珧の官職が衛将軍でないのは上述してあるので、初回の衛将軍の前に尚書令になっていることはありえない。
つまり、前尚書令の荀勗が死んだ太康十(289)年十一月から、次に尚書令となることが明記されている華廙が就任したと思われる永煕元(290)年四月のおおよそ半年程度が楊珧が尚書令となりうる唯一の機会と言える。
その後、八月に衛将軍だった弟の楊済が太子太保に移った後、後任として再び衛将軍となった。
永平元(291)年三月、賈南風一派のクーデターによって捕らえられると、以前に外戚の専横を憂えた上書を出した事実を持って赦免を願い出るが、東安公・司馬繇は裁判に私情を持ち込む人物であったためにその言葉を聞かれることはなく処刑された。
・まとめ
以上のことから、楊珧は早い時期から司馬炎の意を汲んで太子の立場を強化する役目を負った懐刀のような存在だった。
楊珧自身は同族の隆盛に伴って引退をしばしば考えたりするものの、司馬攸が死ぬまで一切それを聞かれなかったぐらいには太子派としての影響力があった。
楊珧自身の伝に太子関連のことが一切書かれていないのは楊駿だけを悪者にしたかったのか、楊珧に司馬攸死亡の責を負わせるのを躊躇ったのか、はたまた他の理由なのかはわからない。
だが、ここまでを見る限りだと司馬攸を排斥して憤死のような形で死なせた最大の要因はどう見ても楊珧だろう。
ただ、司馬攸もあそこで死んだ辺り、西晋を救える才能があったかどうかは疑問が残るので、楊珧が西晋を滅亡に追いやった最大の要因とまでは飛躍しないと思う。
それに、改元のルールすらまともに把握していない兄の楊駿と比べると、領国のルールの制定に携わったり、一族の滅亡を予期したり匈奴の劉淵を警戒する先見の明があったり、人望があったりと有能エピソードは事欠かない。
楊駿さえいなければ粛清の憂き目に遭うことはなかったことを考えれば惜しい人物には違いないだろう。
今回は西晋の外戚、楊珧・文琚について書いていく。
例によって個人的な推測を多く含む。
・概要
楊珧、字は文琚。
本籍は弘農郡華陰県。
いわゆる弘農楊氏出身。
兄に楊駿、弟に楊済がいる。
永平元(291)年、賈南風一派との政争に敗れて捕まり、東安公・司馬繇の命令で処刑された。
・官歴(※推測含む)
275以前:給事黄門侍郎(職官志より)
275(咸寧元年):太子藥(武帝紀・職官志・辟雍碑より)、給事中・光禄大夫(職官志・辟雍碑より)
280(太康元年):太子藥、衛将軍 ※時期は推測
282(太康三年):太子少傅(荀勗伝・王渾伝・職官志より)、衛将軍(王渾伝より)
286(太康七年):辞職(楊珧伝より) ※時期は推測
289(太康十年):尚書令(楊珧伝より)
290(永煕元年):衛将軍(楊珧伝・恵帝紀より)
291(永平元年):処刑(楊珧伝・恵帝紀より)
・内容詳細
楊珧の官位については自分の伝の他に皇帝の紀と職官志で大部分をフォローできる。
特に職官志による楊珧の記述は太子関連の官についていたことがわかる唯一の記述場所。
何故か楊珧伝にはそのことが全く書かれていないのは、なんらかの不都合があったからかもしれない。
武帝紀には咸寧元年六月戊申に太子藥を設立したことが書かれている。
そして、職官志には「咸寧元年、給事黄門侍郎の楊珧が藥となった」とあるので、設立と同時に楊珧が就任したことがわかり、楊珧の前職が給事黄門侍郎だったということも分かる。
同じく職官志に「太子藥の楊珧が給事中・光禄大夫を加えられた」とある。
その時期が「泰始中」と書かれているが、太子藥ならば咸寧元年以降なのは上述から間違いない。
洛陽にて発掘された咸寧四年建立の「辟雍碑」には「藥給事中光禄大夫関内侯珧」とされているので、少なくとも咸寧四(278)年までには給事中・光禄大夫を加えられたことが分かる。
そして、職官志によれば宮事(この場合は東宮、太子関連)の一切を取り仕切り、当時の太子太傅(司馬攸)や太子少傅(山濤)には属官が置かれなかった(つまり名誉職化)
これは司馬炎によって外戚の楊珧に東宮を一括管理させることで太子の立場の強化を図ったものと思われる。
翌年にあたる咸寧二(276)年には賈充が新設された太子太保となるが、賈充は賈充で太子とも司馬攸とも縁戚という非常に微妙な状況にあった。
司馬炎からしたら太子派にならないなら潰すぞという意味を込めて兵権まで剥奪しているから表立って司馬攸派にはなりえない存在で、太子関連を一任した楊珧とも親しい。
このあたりは完全に太子派の強化を狙った人事であると言えるだろう。
咸寧三(277)年、一族諸王の領地が目まぐるしく変わった。
これは太子派である楊珧と中書監・荀勗による共謀で、司馬一族の領地のルールを細かく整備した上で洛陽にいる司馬一族の大半を領国へと赴任させた。
洛陽の暮らしを満喫していた皇族の中には洛陽を去るのを嘆いて泣く者までいたという。
後々司馬攸を排斥するための目論見なのは言うまでもない。
また、地方官を務める司馬亮兄弟は赴任先と領国を極めて近くに設定された。
咸寧五(279)年十二月、馬隆が樹機能の乱を鎮圧したが、報賞担当官は出立前に先んじて爵位を与えているので再度の報賞はいかがなものかと難色を示した。
この時、楊珧は先んじて爵位を与えたのは強兵を集めるためであり、馬隆が勝利して西に安寧を得たことに報いないのは朝廷への信頼が揺らぐと反論し、馬隆とその兵士たちへの恩賞を認めさせた。
咸寧六(280)年三月、孫呉を降伏させたことにより改元し、太康元年となった。
これにより孫呉の降将として優遇されていた驃騎将軍の孫秀が伏波将軍、車騎将軍の孫楷が度遼将軍に降格した。
その代わりに扶風王・征西大将軍の司馬駿が驃騎将軍、臨晋侯・鎮軍将軍の楊駿が車騎将軍に昇格した。
楊珧が衛将軍になりうるとしたら同時期のこのタイミングが一番妥当と思われる。
太子藥は兼官として本官が衛将軍になったと考えるべきか。
光禄大夫が三品、非持節の衛将軍が二品なので順当な昇進と言えるだろう。
ただ、楊珧自身は兄の楊駿が車騎将軍という高官にまで来たので自分はもう中枢にいるべきではないと思ってこの時期に一旦官位の返上を申し出ている。
司馬炎としてはこのタイミングで楊珧がいなくなるのは痛手であるので当然却下された。
太康三(282)年、太尉賈充と司徒李胤が死亡し、年末には司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事として領国に向かわせる人事が発表された。
これに対して中書監の荀勗は「空いた保傅に楊珧を就任させ、司徒には山濤か衛瓘が妥当」と発言。
征東大将軍・都督揚州諸軍事の王渾は「司馬攸を地方に出すぐらいなら司馬亮を出すべき。個人的には司馬亮と司馬攸と楊珧が保傅と地位を等しくして互いに監視し合えば良いと思う」と上書した。
荀勗は太子派、王渾は司馬攸派の立ち位置だったが、いずれも楊珧を保傅とすることに疑いを持たなかった。
太子藥としての長年の実績もあったのだろうが、司馬一族の宗師である司馬亮、司馬一族きっての名声を持つ司馬攸と並ぶことを許されるぐらいには楊珧の名望は高かったということだろう。
ちなみに当の楊珧は完全な司馬攸排斥派として活動していたため中護軍の羊らから恨みを買っていたが、先手を打って讒言して羊らを左遷させた。
羊は憤死に近い形でまもなく病死した。
人事としては司馬亮が太尉・太子太傅、山濤が司徒、衛瓘が司空・尚書令となり、楊珧は山濤の後任として太子少傅となった。
死亡した賈充の太子太保の後任は兄の楊駿が就くことになり、楊一族の権勢はいよいよ増してきた。
ちなみに太子藥はこの段階で廃止され、太子太傅などに属官が再び置かれるようになった。
このことから楊珧が東宮を支配するための便宜上の官職であったのは言うまでもない。
職官志上だと賈充や司馬攸の頃に楊珧が太子少傅になって上記二行のような措置がなされたように書かれているが、それだと荀勗が「太子太傅が空いたので楊珧に東宮の補佐をさせよう」などと言うわけがない。
職官志には時期の誤認がしばしば見られるので、そこは無視するものとする。
太康七(286)年の正月、数年ほど続く異常気象に困り果てた司馬炎は「なんでもいいから原因でありそうなものを述べよ」と詔を下した。
右軍督の趙休が「現在楊氏に三人の高官がいるため、天文に異常が現れたのだと思い、陛下を心配しております」と上書した。
前年(285)に楊珧の弟である楊済が鎮南将軍・都督荊州諸軍事という地方司令官に任命され、正しく楊氏三人が高官にある状態だった。
趙休の上書の内容を伝え聞いた楊珧は身の危険を感じ、辞職を願い出た。
当時の三公である司馬亮たちが同じように辞職を願い出て却下されたのに対し、楊珧の辞職の申し出は受け入れられた。
司馬炎にも楊氏三人が高官にある状況が気にかかったのかもしれない。
いずれにしても楊駿伝には太煕元(290)年の段階で「前衛将軍楊珧の故府」という表現がなされているので、そこまでには辞職していることは明白。
太康十(289)年十一月、尚書令の荀勗が死亡。
そして、楊珧伝の「尚書令・衛将軍を歴任した」が真実なのであれば、この期間しか就ける可能性がない。
何故ならば初回の衛将軍期間が278〜286の間ぐらいになるが、衛瓘が確実に尚書令の期間とモロ被りしているからだ。
278時点の楊珧の官職が衛将軍でないのは上述してあるので、初回の衛将軍の前に尚書令になっていることはありえない。
つまり、前尚書令の荀勗が死んだ太康十(289)年十一月から、次に尚書令となることが明記されている華廙が就任したと思われる永煕元(290)年四月のおおよそ半年程度が楊珧が尚書令となりうる唯一の機会と言える。
その後、八月に衛将軍だった弟の楊済が太子太保に移った後、後任として再び衛将軍となった。
永平元(291)年三月、賈南風一派のクーデターによって捕らえられると、以前に外戚の専横を憂えた上書を出した事実を持って赦免を願い出るが、東安公・司馬繇は裁判に私情を持ち込む人物であったためにその言葉を聞かれることはなく処刑された。
・まとめ
以上のことから、楊珧は早い時期から司馬炎の意を汲んで太子の立場を強化する役目を負った懐刀のような存在だった。
楊珧自身は同族の隆盛に伴って引退をしばしば考えたりするものの、司馬攸が死ぬまで一切それを聞かれなかったぐらいには太子派としての影響力があった。
楊珧自身の伝に太子関連のことが一切書かれていないのは楊駿だけを悪者にしたかったのか、楊珧に司馬攸死亡の責を負わせるのを躊躇ったのか、はたまた他の理由なのかはわからない。
だが、ここまでを見る限りだと司馬攸を排斥して憤死のような形で死なせた最大の要因はどう見ても楊珧だろう。
ただ、司馬攸もあそこで死んだ辺り、西晋を救える才能があったかどうかは疑問が残るので、楊珧が西晋を滅亡に追いやった最大の要因とまでは飛躍しないと思う。
それに、改元のルールすらまともに把握していない兄の楊駿と比べると、領国のルールの制定に携わったり、一族の滅亡を予期したり匈奴の劉淵を警戒する先見の明があったり、人望があったりと有能エピソードは事欠かない。
楊駿さえいなければ粛清の憂き目に遭うことはなかったことを考えれば惜しい人物には違いないだろう。