題名の通りだが、なんでこんなこといきなりやるのかと言えば、三國志13PKの姜維北伐における適当な武将配置に不満を覚えてイベント編集で没年253以前の人物を軒並み死亡扱いにしてる時に夏侯威を見かけたから。
そして、13PKの没年は結構いい加減な事に気付いたから。
孫魯班と孫魯育がどっちも没年252ってどうなってんだ。

話を戻すが、演義とかコーエーのゲームにおける夏侯淵の息子は覇・威・恵・和の4人だが、正史によると他にも衡・称・栄の3人がいる。
そもそも夏侯覇の字が仲権、夏侯威の字が季権という時点で、字の命名に伯仲叙季幼を使ってるのは明白。
そりゃ長男と三男が抜けてるのがやすやすと分かる。
なんで演義でいないのかって言うとさっさと死んでたりとか、全く活躍してないからだろうか。
ちなみに息子の順番は衡・覇・称・威・栄・恵・和の順。これは字からも分かる。

で、本題である息子どもの生年について。
13PKでの夏侯覇たちの生没年は以下のようになっている。
夏侯覇:202〜262
夏侯威:204〜253
夏侯恵:206〜242
夏侯和:207〜265

しかし、五男の夏侯栄は13の時、定軍山(219年)で死んだとあり、当時は数え年であるので207〜219が生没年となる。
となるとコーエー設定の六男の夏侯恵と七男の夏侯和の生年はすでに破綻している。
夏侯淵の息子で唯一生没年がはっきりしているのがこの夏侯栄なので、その兄が207以前の生まれ、その弟が207以降の生まれというのがはっきりする。

次に話題にするのが、張飛の妻・夏侯氏。
この夏侯氏が夏侯覇の従妹であることが正史には書かれている。
そして、この夏侯氏は200年の時に13〜14ほどとされているので、生年は187〜188。
従って夏侯覇の生年もそれ以前という事になる。
コーエーの設定とやたら離れてないか?とも思うし、この後黄初年間(220〜226)までなんら官爵や将軍位を得ることがないので怪しいんだが(曹丕が皇帝になってから官爵任命してるだけで、そうでもなきゃ曹真や曹休とかそういうクラスで漢中攻防前後に任命なんだから特になくても問題なさそう)、三男・夏侯称が187年生まれの曹丕と身分を越えた親交があったと記されていることから年齢もそこまで変わらないだろう。
それを考えると夏侯覇が187年以前の生まれというのもある程度納得できる。
また、これは信憑性が薄いことで定評のある魏略の記述だが、兗州・豫州で大乱があった時(おそらく黄巾の乱)、飢饉の中で自分の子を捨てて死んだ弟の娘を活かしたとある。
捨ててるのに夏侯淵死後も生存確定してる長男の夏侯衡なのかどうか微妙だが、少なくともこの時期に一人は子供がいたのならこの後200年代まで子供が全くいないとは考えづらい。

そんな訳で、夏侯衡・夏侯覇・夏侯称の3人に関してはおそらく180年代の生まれだろうと思われる。
魏略の幼子が夏侯衡なら180年代前半、夏侯衡でないなら夏侯覇と合わせて180年代半ば、夏侯称は180年代後半になる。
そこで次の話題が四男・夏侯威の生年。
五男の生年が207年なので夏侯威は180年代後半〜207年までのどこかが生年となる。
また、方技伝によると夏侯威の享年は数え年で49らしい。
70まで生きて天子の後見役になる、というのを真面目に考察するのであれば、この天子というのは司馬炎ではなかろうか。
夏侯威は羊祜を通じて司馬氏とも縁戚関係にある。
265年の晋成立時に70だとすると生年は196年。
まぁ推測としては悪くない位置ではないか?
って、70が寿命だとするならもうちょっと早く晋成立しないとダメだろうから190年代後半って所か。

そして、夏侯威・夏侯恵・夏侯和は太和年間(227〜233)に揃って関内侯になっているので、夏侯栄以降の2人もそこまで遅い時期の生まれではないだろう。

結論。
夏侯衡:180年代前半〜220年代前半?
夏侯覇:180年代半ば〜259年
夏侯称:187年前後〜204年前後
夏侯威:190年代後半〜240年代半ば
夏侯栄:207年〜219年
夏侯恵:208年〜244年
夏侯和:209年〜275年以降

没年についてもちょいと解説入れていく。
・夏侯衡
あまりにも事跡が少ない。
その割には夏侯淵死後まで生きていることはわかってる。
夏侯覇が黄初年間(220〜226)に色々授かってる時に何も沙汰がないし、夏侯覇が戦に登場する230年とかにも何もないから220年代には死亡している可能性が高い。

・夏侯覇
趙雲伝での記述を見る限り、陳祗死後(258年)かつ関羽らが追諡される(260年)前に死んでいることが分かる。
また、259年に廖化と張翼が夏侯覇の就任していた車騎将軍を左右に分けて就任していることから、259年に車騎将軍に就任したまま没したと見るのが一般的。
コーエーの262年は演義に準拠したもの。

・夏侯称
18歳で若くして死んだとあるので、生年を曹丕前後とするなら204年前後になる。
また、夏侯称の死が後半3人を毎年のように誕生させるきっかけになったのではないかとも思う。
夏侯衡が事跡に何も残らないほど冴えない長男で、夏侯称は若死に、夏侯威もまだまだ未知数で夏侯覇ぐらいしかまともに働ける息子がいないという危機感があったからこその血族増やしなんじゃないかと。
さらに言うなら夏侯惇の方の息子もちょっと酷いのもあるし。
そうだとするなら夏侯称は189〜206ぐらいが一番それっぽいかも。

・夏侯威
前述の通り、49で死亡。
まぁ方技伝っていわばオカルトの類だからどこまで信じるべきかって所ではあるが・・・。

・夏侯栄
ここははっきりしてるのでスルー。

・夏侯恵
37で死亡。

・夏侯和
何もかも不明だが、司馬炎が重病になった時も生きている。
司馬炎が重病になったのは統一の5年前の275年なので、死んだのも275年以降。
それ以上のことは分からない。

夏侯淵の息子は短命とかいう意見もあるが、これを見る限り本当に短命なのは夏侯称ぐらいだ。
夏侯衡や夏侯恵もやや短命だろうが、夏侯覇や夏侯和は長命だし、個々によるといったところだろうか。

では、この辺でノシ