前回の記事では各家のそれぞれの詳細をまとめ始めたが、それとは別に西晋の各時期における司馬一族の要職についていた者について網羅していく。
今回は西晋建国から西晋による統一の時期、つまり265〜280の話。

・品秩視点
司馬孚(〜272):上公(265〜272)
司馬望(〜271):三公(265〜268)、上公(268〜271)
司馬攸(〜283):二品(265)、一品(266〜276)、三公(276〜282)
司馬亮(〜291):二品(265〜270)、三品(270〜275)、二品(275〜277)、一品(277〜282)
司馬伷(〜283):三品(265〜269)、二品(269〜277)、一品(277〜283)
司馬駿(〜286):二品(265〜276)、一品(276〜286)

西晋統一までに一品までたどり着いたのは上記6人(だけのはず)。
司馬懿世代ではそもそも生き残ってるのが司馬孚のみで、司馬孚。
司馬師・司馬昭世代では最年長の司馬望と司馬炎から見て叔父の司馬亮、司馬伷、司馬駿。
司馬炎世代では伯父の後継で弟の司馬攸。
司馬孚・司馬望の親子が別格であって、他は司馬懿直系が上位に来ている構図。

-司馬孚(司馬懿の弟)
魏の時代から太傅(上公)で、西晋建国後は太宰(上公)に移った。

-司馬望(司馬孚の次男)
司馬炎が晋王になってすぐに司徒(三公)となり、まもなくして太尉(三公)になり、呉軍撃退の功績で大司馬(上公)に上り詰めた。

-司馬攸(司馬昭の次男)
司馬攸は魏の時代に衛将軍(二品)で、西晋が建国されると衛将軍ではなくなりどんな職に就いていたかは不明。
266年に王沈が亡くなると、その後任として驃騎将軍(二品)になり開府儀同三司(一品)を加えられる。
270年に孫秀が降伏してくると、鎮軍大将軍に移る。
西晋による統一時は司空(三公)になっていた。

-司馬亮(司馬懿の三男)
魏の時代に鎮西将軍(二品)で西晋建国後も継続するが、胡烈戦死の責で平西将軍(三品)に降格。
その後は撫軍将軍(三品)、衛将軍(二品)を経て277年に鎮南大将軍として開府(一品)。
西晋による統一時には撫軍大将軍となっていた。

-司馬伷(司馬懿の四男)
魏の時代に征虜将軍(三品)で西晋建国後は撫軍将軍(三品)となった。
それから鎮東大将軍(二品)となり、277年か280年か282年に開府儀同三司(一品)を加えられた。

-司馬駿(司馬懿の六男)
魏の時代に安東大将軍(二品)で西晋建国後も継続。
司馬亮が降格すると後任として鎮西大将軍(二品)となり、276年に征西大将軍(二品)になると同時に開府儀同三司(一品)を加えられた。


・都督諸軍事視点
司馬孚(〜272):中外諸軍事(265〜272)
司馬望(〜271):大都督諸軍事(268)
司馬亮(〜291):関中・雍・涼諸軍事(265〜270)、豫州諸軍事(277〜278)
司馬伷(〜283):徐州諸軍事(269〜280)
司馬駿(〜286):豫州諸軍事(265〜268)、揚州諸軍事(268)、豫州諸軍事(268〜270)、関中・雍・涼諸軍事(270〜286)

都督諸軍事とは西晋時代における地方指揮官であり、つまり地方で大軍を指揮できる権限を持つ職。
軍事的才能もさることながら裏切らない確信がある人物が適任と言えるだろう。
西晋初代皇帝である司馬炎のときは一族がよくまとまっており、才能ある司馬一族をつけておけば問題ない状況だった。

-司馬孚(司馬懿の弟)
建国から死に至るまで都督中外諸軍事となる。
中外諸軍事は魏の時代からの最高権力者の伝統職のようなもの。
魏の時代では曹真、曹爽、司馬懿、司馬師、司馬昭が就いていることからもそれが明らか。
建国時の司馬一族で最も権威のある司馬孚がこの職に就くというのは妥当と言えるだろう。
司馬孚の後、八王の時代に至るまで中外諸軍事は登場しない。
皇帝がきちんと権力を持っているときには必要ないということだろう。

-司馬望(司馬孚の次男)
建国当時は諸軍事ではないが、中領軍であり司馬孚の補佐みたいな立ち位置と言っていい。
268年、孫呉の侵攻に対して大都督諸軍事となる。
おそらく荊州・揚州を統括する臨時職か。
大司馬石苞が召還された後、そんな職を全うできるのは太尉の司馬望か大将軍の陳騫ぐらいなもの。
その後も孫皓の謎の動きに対応するなど南方対応に回されている。

-司馬亮(司馬懿の三男)
建国当時の関中・雍・涼諸軍事というのは西晋重要職の一つで司馬一族でも皇帝の近親しかなれないと明記されるほどの職。
魏の末期に司馬望が就いてから蜀討伐のために鍾会・艾らが就いた後、司馬亮が全てまとめて兼任することになる。
だが、司馬亮には軍事的才能がなく、胡烈が戦死するに及んで免職となる。
それからしばらく中央にいたが、司馬孚・司馬望親子が相次いで死亡したので一族の最年長となり、宗師として扱われるようになる。
豫州諸軍事として地方軍権持ちに復帰するが、結局中央に戻って中央における司馬一族の筆頭となる。

-司馬伷(司馬懿の四男)
建国して少しの間は中央にいたが、それから徐州諸軍事となる。
青州・徐州・豫州の三州の諸軍事も比較的司馬一族が担当することの多い重要職。
おそらく魏の時代から反乱が続く淮北の監視を踏まえての人事だろうか。
孫呉討伐時も討伐軍の一方面を担った。

-司馬駿(司馬懿の六男)
建国してからひたすら地方で諸軍事を司る。
268年には石苞更迭に伴うワンポイントリリーフとして起用され、降格処分となった司馬亮の後任として関中・雍・涼諸軍事になった。
この点から見ておそらくこの時点の司馬一族で最も軍事的才能を持っていたと思われる。
武帝紀においても(敗北ばかりの司馬亮とは正反対に)度々敵を打ち破った記述がある。


・まとめ
この時期の司馬一族の中心人物は6人。
司馬孚・司馬望の魏の時代から司馬一族を支えた親族親子。
皇弟の司馬攸。
皇叔兼実兄弟の司馬亮・司馬伷・司馬駿。
中央を司馬孚、司馬望、司馬攸が固め、地方を司馬亮、司馬伷、司馬駿が固めるような体制となっていた。
だが、司馬孚、司馬望親子が270年代前半に亡くなり、この後に他大半も280年代半ばに死亡し、この中で唯一能力不足が露呈している司馬亮のみが残ってしまうことが後の禍根に繋がるのだった。


・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬孚(司馬懿の弟)
司馬八達の中では最も長生きどころか子供も孫も先に逝きまくる。
享年93というこの戦乱の時代に一世紀近く生きた超人の一人。
当然のように一族の長老として敬われ、司馬師が大将軍を三公の下に置くような特例措置を取ったり、司馬昭が曹髦の葬儀に関して司馬孚らの意見を通すなど、発言力はかなり高い。
魏の忠臣とは言うが、おそらく司馬氏が取って代わること自体には反対していなかったんだろうな。
司馬氏にも1人はこういう役どころが必要だということで、司馬孚・司馬望らがそれを担う立場にあったんだろう。
西晋建国以降は太宰・中外諸軍事という軍政の頂点となったが、ほぼ親族の取りまとめに終始していた。
司馬炎は100まで教えを乞いたかったとか無茶なことを言うが、仮にあと7年長生きしてもさほど後の趨勢に関わることはなかっただろう。

-司馬望(司馬孚の次男)
司馬孚の実子にして司馬孚の兄である司馬朗の家の家督。
八達世代の一世代下の司馬師・司馬昭世代では最年長。
そして司馬孚ほどではないが長生きした。
魏の時代では父に似て魏寄りだったが、父のように真っ向から司馬師たちに反抗するほどの力はなかった。
それでも西方の指揮官として姜維と渡り合うなど、能力は低くない。
西晋建国以降は中領軍として中央軍を率いたり、孫呉の侵攻には大都督として出陣したりと軍事面のトップとしての働きが目立つ。
魏の時代から自分の采配自体で敵を撃退したことはないが、麾下の将軍たちが敵を撃退しているのを見る限り、夏侯惇のような「将の将」タイプの将軍だったと言える。
271年に死亡し、享年67。
司馬孚に比べると短命だが、この時代としてはよく生きたほうだろう。