A&D 全てが混在するブログ

このブログは何をやっても中途半端な管理人が色々ぶちまけるブログです。 興味があるという奇特な方は是非ともご覧になってください。
ブログ整理完了。

歴史

夏侯威の生年を真面目に考えてみる

以前にも夏侯淵の息子たちの生年を考えたことがあったが、今回は真面目に歴史書を紐解いていく。
ちなみに前回の時には「190年代後半〜240年代半ば」としている。
正直もうこの時点でそこまで間違ってないように見えるが、具体的に詰めていく。

まず、夏侯淵の息子の中で唯一享年・没年がはっきりしている夏侯栄の生年が207年。
故に夏侯威の生年のリミットも207年になるので、享年49を当てはめると没年のリミットは255年となる。
夏侯威の最終役職は兗州刺史なので、この時期の前後の兗州刺史がはっきりすれば、おのずから夏侯威の就任時期がわかってくるというもの。
魏建国以降に兗州刺史になっている記載があるのは以下の通り。
裴潜:沛国相(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→散騎常侍(220以降)
王淩:散騎常侍(220以降)→兗州刺史(222年在任)→青州刺史(225頃?)
王昶:洛陽典農都尉(220以降)→兗州刺史(228以前)→徐州刺史(240以降)
桓範:都督青徐諸軍事(228以降)→兗州刺史(時期不明)→大司農(240以降)
令狐愚:大将軍長史(240以降)→兗州刺史(248以前)→死亡(249年)
黄華:不明→兗州刺史(251年在任)→死亡(253年)
劉昶:不明→兗州刺史(253年?)→不明(※)
李翼:不明→兗州刺史(253以降〜254)→死亡(254年)
艾:汝南太守(不明)→兗州刺史(254〜255)→長水校尉(255年)
※劉昶は諸々の記述を合わせると王戎が弱冠(20歳)の時に兗州刺史だから253年が該当するのだが、かなり怪しい。

夏侯威:荊州刺史?(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→死亡(時期不明・49歳)

こうやって見ると、あまりにも入りそうな場所が少ない。
桓範-令狐愚間(240〜248)、令狐愚-黄華間(249〜251)ぐらいしか入る隙間がない気がする。
桓範-令狐愚間なら荊州刺史は胡質の後任・孫礼の前任、兗州刺史は桓範の後任・令狐愚の前任。
令狐愚-黄華間なら荊州刺史は孫礼の後任・李勝(王基)の前任、兗州刺史は令狐愚の後任・黄華の前任。
桓範-令狐愚間だとして、胡質が荊州を離れるのはおそらく241年。
孫礼はよくわからないが曹爽誅殺(249年)までに荊州刺史→冀州牧→1年謹慎→并州刺史なので少なくとも240年代半ばぐらいには荊州刺史になってそう。
桓範もよくわからないが同時期に冀州牧の打診をされてるらしく、病気でそれを断ったがために孫礼がなったとしたら夏侯威が入る隙間がなくなる。
夏侯威が荊州刺史→入朝→兗州刺史の可能性は無論あるけど。
つまり、夏侯威が荊州刺史から入朝して孫礼が後任になる。
その後に桓範が冀州牧の打診をされるも拒否して仮病で籠もったので兗州刺史を解任して大司農として中央に召還。
それで兗州刺史には夏侯威が就いて、冀州牧には孫礼が就いたみたいな流れ。
こっちの場合、240年代半ばまでしか夏侯威の没年は絞り込むことが出来ない。
矛盾もあるのでこの流れの信憑性は皆無。

令狐愚-黄華間だと荊州刺史は240年代半ばから。
後任の李勝は248年の冬に司馬懿に荊州刺史就任の報告をしているが、荊州に赴く前に翌249年1月に誅殺されている。
それを考えると、李勝への引き継ぎができなかったことから夏侯威が引き続き荊州刺史を務めたことになるか。
そして、249年の11月頃に令狐愚が病死したのでその後任として兗州刺史になり、荊州刺史は王基が務めた。
251年には黄華が兗州刺史になっているので、249〜251の間に死亡したということになる。

どっちの方が整合性があるかというと、後者かなあという印象。
前者は荊州→入朝→兗州になる可能性が非常に高いので入朝の事実がない以上、疑わしい。
前者の矛盾については孫礼が冀州牧になった時に統治者がすでに二度変わっているという記述があるので、呂昭→誰か→孫礼という図式になる。
桓範就任時は誰かの部分に入りそうなのでそこに孫礼がスライドするのは少しおかしくなる。
ということで、夏侯威の没年は250年前後になるので享年からすると202前後が生年かな。
三男の夏侯称まではおそらく生年180年代だと思うから、夏侯淵は少なくとも10数年ぐらいは子供を作らなかったことになるな。

西晋安北将軍・劉宝

最近注目してる武将シリーズ。
今回は私が最も注目している司馬駿の配下になったこともある劉宝。
個人的に色々組み立てて作っているいわば推測を含む。

・概要
劉宝、字は道真。
本籍は山陽(高平)郡高平県。
山東省鄒城市にて発見された劉宝墓誌によると永康二年(301)正月二十九日と刻まれているため、この前後に亡くなった可能性が高い。
父もしくは先祖に太祝令の劉奥、兄弟に著作郎の劉斌、甥に驃騎長史の劉綏がいる(世説新語より)
ちなみに「劉沈、字は道真」という人物が晋書列伝にあるため、「劉道真」だと被る危険性がある。
そちらは「燕(薊)の劉道真」なので、「高平の劉道真」ならこちらで確定する。

・官歴
時期は一切不明なので、箇条書きにしてそこから推測を重ねていく。
中書郎、河内太守、御史中丞、太子中庶子、吏部郎、安北将軍(漢書敘例より)
従事中郎、吏部郎(世説新語より)
司馬(三国志諸葛亮伝注蜀記より)
安北将軍(隋書経籍志より)
侍中・使持節・安北大将軍・領護烏丸校尉・都督幽并州諸軍事・関内侯(劉宝墓誌より)

とりあえず、ここから推測できる内容を書いていく。
276年以前:不明
276年前後:徒刑となるが、司馬駿に助けられて従事中郎となる(世説新語・徳行22)
279年頃:司馬となる(三国志諸葛亮伝注蜀記)
283年〜太康(289)末まで:中書郎→河内太守→御史中丞(世説新語・簡傲5、漢書敘例)
永熙初(290):太子中庶子(漢書敘例)
301年まで:吏部郎→安北将軍(世説新語・任誕17、漢書敘例、劉宝墓誌)

墓誌にある安北将軍、都督幽并州諸軍事というのは色々なんか不自然な気はするが、後で書けたら書く。
まずはどうして上記のような話になったのか書いていく。
とりあえず、時期的にはっきりしてそうなのはまず従事中郎。
なんらかの罪で懲役になっていた劉宝を司馬駿が五百疋の布によって釈放させ自らの従事中郎としたので周囲はこれを美談とした、というのが世説新語の徳行22。
晋書職官志には従事中郎を配下にできるのは「諸公及開府位從公加兵者」とある。
司馬駿がいずれの時期にそれに該当するようになったのかというと咸寧二年(276)十月の征西大将軍に昇進及び開府した時となる。
つまり、劉宝が司馬駿に助け出されたのは276年以降のこととなる。
次いで三国志諸葛亮伝注蜀記にある「司馬である高平の劉宝」という記述。
司馬も従事中郎と同じく征西大将軍府の役職。
これは推測だが、諸葛亮について語るような機会があるとすれば、それは諸葛亮の軍制を学んだ馬隆が樹機能退治に出かけた時、つまり咸寧五年(279)のいずれかの時期ではないだろうか。
それで283年に司馬駿が亡くなるまで司馬だったとして、その後は漢書敘例の順番に沿っていくことになるが、太康末に陸機、陸雲兄弟が洛陽に来た際、張華に挨拶すべき人間を聞いたら真っ先に劉宝の名を挙げた(しかし、奇人だったので陸機たちは訪ねたのを後悔した)という話が世説新語の簡傲5にある。
太康末の時点では洛陽に滞在しているような官職。
つまり、少なくともその時には河内太守ではない。
さらに、皇帝が代替わりしたタイミングでガッツリ皇太子制度が整備されていて、劉宝もそれに関わっているとするなら290年時点で太子中庶子になっているということになる。
おそらく漢書駁議を編纂したのも帝から皇太子に漢書の講義をするように命じられたこの頃。
そこから吏部郎、安北将軍と歴任して死亡。

気になるのはそれまでの歴任に対して安北将軍があまりにも高位だということ。
漢書敘例にも隋書経籍志にも劉宝墓誌にも載っている以上、最終官職が安北将軍なのは疑いようがない。
ただ、安北将軍+都督というのはどう考えても二品なのだが、それまでの劉宝の官は高くて四品だから急な昇進に違和感を覚える。
無理やり納得するなら「漢書駁議」の効果か、もしくは張華に気に入られていたからだろうか。
幽州諸軍事の前任は劉弘だが、こちらは明確に張華に目をかけられて監幽州諸軍事になったとある。
元々張華自体も都督幽州諸軍事だった経歴があるので、おそらく北方人事への影響力は強い。
世説新語の簡傲5にしても張華が劉宝を重く見ていたのは間違いない。
ただ、幽州諸軍事の前任、後任に当たる劉弘と王浚の記述もまた厄介。
前任の劉弘は太宰長史から監幽州諸軍事への転任のため、太宰司馬亮が死んだ291年以降に着任。
しかし、次の記述が303年の荊州で張昌が乱を起こしたからその対応で荊州刺史になったという文。
290年代後半には劉宝が都督幽并州諸軍事になってなければ変だが、その辺の記述はまるでない。
後任の王浚も300年3月に皇太子を殺害した後に青州刺史を経て幽州諸軍事になっているので随分と忙しない。
記述の順番的に矛盾はないが、301年正月頃に幽州に着任してその2ヶ月後には司馬冏挙兵に対して中立を保つように行動していたわけだから、領地の把握が相当に上手かったということになる。

・人物について
散見される記述を見るに目的遂行能力は高いが、協調性がない変人というのが第一印象。
若い頃に豚を1.5頭ほど老婆に食べさせてもらったので後にその老婆の子供を取り立てたが、お礼に来た老婆を「もう報いるものがない」と追い返す話(世説新語・任誕17)
喪中に訪ねてきた陸機兄弟へ酒を入れるための江東の瓜(葫蘆)の種をねだってドン引きさせた話(世説新語・簡傲5)
老婆をバカにしたら逆にやり込められる話(詩話総亀・37譏誚門引き因話録)
婢女と致すために土下座し、明くる日に他人にそのやり方を自慢する話(芸文類聚・巻35人部・淫)
奇行エピソードのオンパレードと言っていい。
その一方で「劉宝文集」「歷代史書考異」「漢書駁議」などを次々に書き上げた文人であり、「中国文学家大辞典」にもその名前があるとか。
そして官歴からも分かるように司馬駿の下で司馬を務めたり、安北大将軍として北方の守りに就いていた以上、武の方面でも卓越した才能を持っていたということだろう。

・まとめ
文武両道の奇人。それが劉宝の実態だろう。
司馬駿や張華と主に仲が良いが、江東の文人や庶民を馬鹿にするような気質もある。
その一方で目的を果たすためなら婢女にすら土下座することも躊躇わない。
晋書に列伝こそないが、その存在感は色濃い。
どうにも創作物映えしそうな人物像ではあるな。
日本の戦国時代で言うところの前田慶次のような風格を感じる。
それを召し抱えた司馬駿も単なる優等生って感じには見えなくなってきそうだ。

西晋外戚・楊珧

最近注目してる武将シリーズ。
今回は西晋の外戚、楊珧・文琚について書いていく。
例によって個人的な推測を多く含む。

・概要
楊珧、字は文琚。
本籍は弘農郡華陰県。
いわゆる弘農楊氏出身。
兄に楊駿、弟に楊済がいる。
永平元(291)年、賈南風一派との政争に敗れて捕まり、東安公・司馬繇の命令で処刑された。

・官歴(※推測含む)
275以前:給事黄門侍郎(職官志より)
275(咸寧元年):太子藥(武帝紀・職官志・辟雍碑より)、給事中・光禄大夫(職官志・辟雍碑より)
280(太康元年):太子藥、衛将軍 ※時期は推測
282(太康三年):太子少傅(荀勗伝・王渾伝・職官志より)、衛将軍(王渾伝より)
286(太康七年):辞職(楊珧伝より) ※時期は推測
289(太康十年):尚書令(楊珧伝より)
290(永煕元年):衛将軍(楊珧伝・恵帝紀より)
291(永平元年):処刑(楊珧伝・恵帝紀より)

・内容詳細
楊珧の官位については自分の伝の他に皇帝の紀と職官志で大部分をフォローできる。
特に職官志による楊珧の記述は太子関連の官についていたことがわかる唯一の記述場所。
何故か楊珧伝にはそのことが全く書かれていないのは、なんらかの不都合があったからかもしれない。

武帝紀には咸寧元年六月戊申に太子藥を設立したことが書かれている。
そして、職官志には「咸寧元年、給事黄門侍郎の楊珧が藥となった」とあるので、設立と同時に楊珧が就任したことがわかり、楊珧の前職が給事黄門侍郎だったということも分かる。
同じく職官志に「太子藥の楊珧が給事中・光禄大夫を加えられた」とある。
その時期が「泰始中」と書かれているが、太子藥ならば咸寧元年以降なのは上述から間違いない。
洛陽にて発掘された咸寧四年建立の「辟雍碑」には「藥給事中光禄大夫関内侯珧」とされているので、少なくとも咸寧四(278)年までには給事中・光禄大夫を加えられたことが分かる。
そして、職官志によれば宮事(この場合は東宮、太子関連)の一切を取り仕切り、当時の太子太傅(司馬攸)や太子少傅(山濤)には属官が置かれなかった(つまり名誉職化)
これは司馬炎によって外戚の楊珧に東宮を一括管理させることで太子の立場の強化を図ったものと思われる。
翌年にあたる咸寧二(276)年には賈充が新設された太子太保となるが、賈充は賈充で太子とも司馬攸とも縁戚という非常に微妙な状況にあった。
司馬炎からしたら太子派にならないなら潰すぞという意味を込めて兵権まで剥奪しているから表立って司馬攸派にはなりえない存在で、太子関連を一任した楊珧とも親しい。
このあたりは完全に太子派の強化を狙った人事であると言えるだろう。

咸寧三(277)年、一族諸王の領地が目まぐるしく変わった。
これは太子派である楊珧と中書監・荀勗による共謀で、司馬一族の領地のルールを細かく整備した上で洛陽にいる司馬一族の大半を領国へと赴任させた。
洛陽の暮らしを満喫していた皇族の中には洛陽を去るのを嘆いて泣く者までいたという。
後々司馬攸を排斥するための目論見なのは言うまでもない。
また、地方官を務める司馬亮兄弟は赴任先と領国を極めて近くに設定された。

咸寧五(279)年十二月、馬隆が樹機能の乱を鎮圧したが、報賞担当官は出立前に先んじて爵位を与えているので再度の報賞はいかがなものかと難色を示した。
この時、楊珧は先んじて爵位を与えたのは強兵を集めるためであり、馬隆が勝利して西に安寧を得たことに報いないのは朝廷への信頼が揺らぐと反論し、馬隆とその兵士たちへの恩賞を認めさせた。

咸寧六(280)年三月、孫呉を降伏させたことにより改元し、太康元年となった。
これにより孫呉の降将として優遇されていた驃騎将軍の孫秀が伏波将軍、車騎将軍の孫楷が度遼将軍に降格した。
その代わりに扶風王・征西大将軍の司馬駿が驃騎将軍、臨晋侯・鎮軍将軍の楊駿が車騎将軍に昇格した。
楊珧が衛将軍になりうるとしたら同時期のこのタイミングが一番妥当と思われる。
太子藥は兼官として本官が衛将軍になったと考えるべきか。
光禄大夫が三品、非持節の衛将軍が二品なので順当な昇進と言えるだろう。
ただ、楊珧自身は兄の楊駿が車騎将軍という高官にまで来たので自分はもう中枢にいるべきではないと思ってこの時期に一旦官位の返上を申し出ている。
司馬炎としてはこのタイミングで楊珧がいなくなるのは痛手であるので当然却下された。

太康三(282)年、太尉賈充と司徒李胤が死亡し、年末には司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事として領国に向かわせる人事が発表された。
これに対して中書監の荀勗は「空いた保傅に楊珧を就任させ、司徒には山濤か衛瓘が妥当」と発言。
征東大将軍・都督揚州諸軍事の王渾は「司馬攸を地方に出すぐらいなら司馬亮を出すべき。個人的には司馬亮と司馬攸と楊珧が保傅と地位を等しくして互いに監視し合えば良いと思う」と上書した。
荀勗は太子派、王渾は司馬攸派の立ち位置だったが、いずれも楊珧を保傅とすることに疑いを持たなかった。
太子藥としての長年の実績もあったのだろうが、司馬一族の宗師である司馬亮、司馬一族きっての名声を持つ司馬攸と並ぶことを許されるぐらいには楊珧の名望は高かったということだろう。
ちなみに当の楊珧は完全な司馬攸排斥派として活動していたため中護軍の羊らから恨みを買っていたが、先手を打って讒言して羊らを左遷させた。
羊は憤死に近い形でまもなく病死した。
人事としては司馬亮が太尉・太子太傅、山濤が司徒、衛瓘が司空・尚書令となり、楊珧は山濤の後任として太子少傅となった。
死亡した賈充の太子太保の後任は兄の楊駿が就くことになり、楊一族の権勢はいよいよ増してきた。
ちなみに太子藥はこの段階で廃止され、太子太傅などに属官が再び置かれるようになった。
このことから楊珧が東宮を支配するための便宜上の官職であったのは言うまでもない。
職官志上だと賈充や司馬攸の頃に楊珧が太子少傅になって上記二行のような措置がなされたように書かれているが、それだと荀勗が「太子太傅が空いたので楊珧に東宮の補佐をさせよう」などと言うわけがない。
職官志には時期の誤認がしばしば見られるので、そこは無視するものとする。

太康七(286)年の正月、数年ほど続く異常気象に困り果てた司馬炎は「なんでもいいから原因でありそうなものを述べよ」と詔を下した。
右軍督の趙休が「現在楊氏に三人の高官がいるため、天文に異常が現れたのだと思い、陛下を心配しております」と上書した。
前年(285)に楊珧の弟である楊済が鎮南将軍・都督荊州諸軍事という地方司令官に任命され、正しく楊氏三人が高官にある状態だった。
趙休の上書の内容を伝え聞いた楊珧は身の危険を感じ、辞職を願い出た。
当時の三公である司馬亮たちが同じように辞職を願い出て却下されたのに対し、楊珧の辞職の申し出は受け入れられた。
司馬炎にも楊氏三人が高官にある状況が気にかかったのかもしれない。
いずれにしても楊駿伝には太煕元(290)年の段階で「前衛将軍楊珧の故府」という表現がなされているので、そこまでには辞職していることは明白。

太康十(289)年十一月、尚書令の荀勗が死亡。
そして、楊珧伝の「尚書令・衛将軍を歴任した」が真実なのであれば、この期間しか就ける可能性がない。
何故ならば初回の衛将軍期間が278〜286の間ぐらいになるが、衛瓘が確実に尚書令の期間とモロ被りしているからだ。
278時点の楊珧の官職が衛将軍でないのは上述してあるので、初回の衛将軍の前に尚書令になっていることはありえない。
つまり、前尚書令の荀勗が死んだ太康十(289)年十一月から、次に尚書令となることが明記されている華廙が就任したと思われる永煕元(290)年四月のおおよそ半年程度が楊珧が尚書令となりうる唯一の機会と言える。
その後、八月に衛将軍だった弟の楊済が太子太保に移った後、後任として再び衛将軍となった。

永平元(291)年三月、賈南風一派のクーデターによって捕らえられると、以前に外戚の専横を憂えた上書を出した事実を持って赦免を願い出るが、東安公・司馬繇は裁判に私情を持ち込む人物であったためにその言葉を聞かれることはなく処刑された。

・まとめ
以上のことから、楊珧は早い時期から司馬炎の意を汲んで太子の立場を強化する役目を負った懐刀のような存在だった。
楊珧自身は同族の隆盛に伴って引退をしばしば考えたりするものの、司馬攸が死ぬまで一切それを聞かれなかったぐらいには太子派としての影響力があった。
楊珧自身の伝に太子関連のことが一切書かれていないのは楊駿だけを悪者にしたかったのか、楊珧に司馬攸死亡の責を負わせるのを躊躇ったのか、はたまた他の理由なのかはわからない。
だが、ここまでを見る限りだと司馬攸を排斥して憤死のような形で死なせた最大の要因はどう見ても楊珧だろう。
ただ、司馬攸もあそこで死んだ辺り、西晋を救える才能があったかどうかは疑問が残るので、楊珧が西晋を滅亡に追いやった最大の要因とまでは飛躍しないと思う。
それに、改元のルールすらまともに把握していない兄の楊駿と比べると、領国のルールの制定に携わったり、一族の滅亡を予期したり匈奴の劉淵を警戒する先見の明があったり、人望があったりと有能エピソードは事欠かない。
楊駿さえいなければ粛清の憂き目に遭うことはなかったことを考えれば惜しい人物には違いないだろう。

西晋の親族序列

またちょっと視点を変えた記事。
今回は比較的安定していて序列がわかりやすい司馬炎期で見る親族の序列。
晋書武帝紀には大きく3回ほど親族を王にしたり転封してるタイミングがある。
それが建国直後の265年、大きく位置替えする277年、司馬炎死亡直前の289年の3回。
その記述の際、より重要な人物ほど前に記述される傾向にある。
これは親族に限らず役職などもそう。
それらを統合した結果、親族の序列は以下のようになっている。
1.司馬懿の兄弟(司馬孚など)
2.司馬昭の兄弟(司馬亮など)
3.司馬炎の兄弟(司馬攸など)
4.司馬昭の従兄弟(司馬望など)
5.司馬炎の又従兄弟(司馬洪など)
6.司馬衷の兄弟(司馬柬など)
7.司馬衷の子(司馬遹など)
8.司馬衷の甥(司馬儀など)
9.司馬衷の従兄弟(司馬冏など)
10.司馬炎の従兄弟(司馬羕など)

司馬炎の従兄弟だけ異様に序列が低いような気がする。
下の世代の司馬衷の従兄弟より下だし。
これを参考にしつつ、300年までの司馬一族の先に要職になった順で列記していく。
()内は上の序列の数字。

1.司馬孚(1)
2.司馬望(4)
3.司馬攸(3)
4.司馬亮(2)※八王
5.司馬伷(2)
6.司馬駿(2)
-ここまで司馬炎期-
-ここから司馬衷期-
7.司馬泰(4)
8.司馬晃(4)
9.司馬柬(6)
10.司馬肜(2)
11.司馬倫(2)※八王
12.司馬瑋(6)※八王
13.司馬允(6)
14.司馬顒(5)※八王
15.司馬穎(6)※八王

これを見る限りだと序列より高めなのが司馬望・司馬攸・司馬柬あたり。
序列より低めなのが司馬肜と司馬倫あたりだろうか。
司馬望は元々司馬師よりも年上で、魏の時代から重鎮だった古強者なのでこの位置も妥当。
司馬攸は才能を愛され司馬師の跡を継いだ人物だからこれも妥当。
司馬柬は司馬衷の唯一の同母弟なので、他の兄弟よりも扱いが良いのは当然。
司馬肜と司馬倫はそもそも他の兄弟に比べるとかなり年が若い。
上の兄である司馬駿が232年生まれだが、この二人はおそらくそれよりかなり後だろう。
司馬肜と司馬倫が亭侯になったのは250年だが、上の兄弟は全員240年前後に亭侯になっている。
240年前後では生まれてないか生まれて間もないぐらいだったと思われる。
司馬晃は明らかにそれより早く生まれており宗師となった司馬泰はそれよりも上だろうから、この辺は単純に年齢で序列が決まってる感がある。

で、肝心の八王に関してだが、他の記事でも書いた通り現状5人しか要職に入ってきていない。
司馬乂は通常なら司馬顒前後の位置に相当するが、同母兄の司馬瑋の誅殺に連座して不遇。
司馬冏は親族序列9番目なので出てくるはずもない。
司馬冏伝にも自分の扱いの悪さを恨んでいたみたいな記述があるぐらいに扱いは悪かったようだ。
司馬越は親族序列5番目なので出てきてもおかしくなさそうな気はするが、父親が死んだのが299年ということもあってまだ出てきてはいない。
この時代は父親が生きていたら息子が要職に就くのはほぼない。
司馬孚・司馬望親子が同時に要職に就いているようにも見えるが、司馬望は司馬朗の養子でその家督を継いでいるので親子でも別の扱いといえる。

まとめると、
・司馬一族の台頭してくる順番は親族の序列に関係している
・親族序列から上下する場合は年齢・能力・血縁関係が影響している
・父親が生きている場合、その息子が要職に就くことはない
こんな感じになるんじゃないだろうか。

西晋における司馬一族の大身・司馬炎崩御〜外戚壊滅編

西晋要職調査の第三回。
今回は初代皇帝司馬炎の死から賈南風が死ぬ直前まで。
つまり290〜300年の半ばまで。
ついに八王の乱に突入し、要職付きも入り乱れることに。
あんまり見るところが多いので抜けてたり間違ってるところがある可能性大。

司馬亮(〜291):上公(289〜291)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)、上公(299〜300)
司馬倫(〜301):一品(291〜300)
司馬晃(〜296):二品(283〜294)、三公(294〜296)
司馬泰(〜299):三公(290〜299)
司馬柬(〜291):一品(290〜291)、上公(291〜291)
司馬瑋(〜291):二品(289〜291)
司馬允(〜300):二品(289〜300)
司馬穎(〜306):二品(299〜300)
司馬楙(〜311):二品(291〜291)
司馬顒(〜306):二品(299〜300)

-司馬亮(司馬懿の三男)
大司馬(上公)で司馬炎の死を迎え、楊駿一派の粛清を期に太宰(上公)へ転任。
しかし、賈南風と謀った司馬瑋によって死亡。
八王最初の犠牲者となる。

-司馬肜(司馬懿の八男)
司馬炎死亡前に征東将軍(二品)まで昇進。
司馬炎が死亡すると司馬柬が中央に戻ってきたため、代わりに征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば中央でごたごたが起きて帰還し、衛将軍(二品)となる。
かと思えば後任で西に赴任していた司馬倫が統治に失敗して異民族が反乱したため、再び征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば私怨で味方の武将を見殺しにしたため中央に召還される。
司馬肜伝によれば、このタイミングで大将軍(上公)になっている。
中央と西方の移動が目まぐるしい。

-司馬倫(司馬懿の九男)
司馬炎の死後、征東将軍(二品)になった後すぐに征西大将軍、開府儀同三司(一品)となり、司馬肜の後任として西方に赴任。
無能だったので統治に失敗して中央に召還されて車騎将軍となる。

-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬炎死後に中央に戻って車騎将軍(二品)となる。
そこから尚書令を経由して司空(三公)となる。

-司馬泰(司馬馗の次男)
病気になって鎮東将軍を辞していたが、司馬炎死後に司空(三公)となる。
そこから石鑑死後に後任として太尉(三公)に転任。

-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死後に中央に戻って驃騎将軍、開府儀同三司(一品)となり、それから大将軍(上公)に昇進するもそれから半年ほどで死亡。
恵帝の同母弟だけに他とは扱いに差があって優遇されていたが、まさかの30にして死亡。

-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後、中央に戻り楊駿一派粛清に功績があって衛将軍(二品)に昇進。
そのすぐ後に賈南風らに謀られて死亡。

-司馬允(司馬炎の十男)
前回から引き続き、鎮東大将軍(二品)として揚州に赴任。
299年に中央に戻る(おそらく司馬晃や司馬泰が死んだため)
中央に戻るが、特に役職に変化なし。

-司馬穎(司馬炎の十九男)
中央にいたが、外戚の賈謐と不仲になり、平北将軍(三品)として鄴に駐屯(司馬顒の後任)
それから鎮北大将軍(二品)に昇進。
司馬穎の伝には車騎将軍になったという記述があるが、皇弟筆頭の司馬允よりも先にその手の将軍位に就くとは思い難くまた平北将軍として地方に出されていることもあって信頼性に欠ける。

-司馬楙(司馬望の四男)
楊駿粛清後、撫軍大将軍(二品)になるが、元々は楊駿一派であり死罪だったところを仲の良い司馬繇が勝手に助命したので、司馬亮によって司馬繇共々役職を剥奪され国に押し込められた。

-司馬顒(司馬瓌の長男)
290年代に北方の守りに就いていたが、299年に司馬肜の後任で鎮西将軍(二品)として西方の守りに就く。
ちなみに司馬瓌は司馬孚の六男なので、司馬孚の孫にあたる。


・都督諸軍事視点
司馬肜(〜302):関中・雍・涼諸軍事(291〜291、296〜299)
司馬倫(〜301):徐・兗州諸軍事(291〜291)、関中・雍・涼諸軍事(291〜296)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事(290〜291)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(290〜291)
司馬允(〜300):揚州諸軍事(290〜299)
司馬顒(〜306):関中・雍・涼諸軍事(299〜300)
※司馬穎も299年に鎮北大将軍なので北方の諸軍事の可能性大


-司馬肜(司馬懿の八男)
おおよそ司馬柬の後任。
中央がバタバタしてるためコロコロ役職が変わる。
後に司馬倫の失政で西方に戻るが、性格が悪辣なので司馬顒に代わった。

-司馬倫(司馬懿の九男)
一旦東方の守りに就くが、司馬肜の代わりに西方へ。
しかし反乱を招いたので中央に戻される。

-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎が死ぬと中央に戻る。
中央に戻るなら何のために西方に向かわせたのかという感じだが、本人はちゃんと理解していて地方に戻りたがったが司馬亮がそれを止めた。

-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後ほどなくして中央に戻る。
司馬亮は性格を危ぶんで遠くに送ろうとしたが、司馬柬は引き止めたのにこっちはそれでは上手くいくはずもない。

-司馬允(司馬炎の十男)
289年に大きな軍権を握った三人の中で唯一中央に戻らず地方に残る。
といっても司馬晃や司馬泰が死んだので299年には中央へ戻る。

-司馬顒(司馬瓌の長男)
北方の守りをしていたが、司馬肜の代わりに西方の守りを担う。
司馬顒伝によると、関中・雍・涼諸軍事は皇帝に近い血筋の人間しかなれない慣習だが、賢いので特別に就任できたとのこと。
ここまで就任してきたのは司馬亮、司馬駿、司馬泰、司馬柬、司馬肜、司馬倫、司馬顒の七人。
司馬懿の子が四人、恵帝の同母弟が一人は血筋が近い。
ただ、司馬泰は司馬馗の子で別段皇帝と血が近いわけでもないのでこれも能力によって選出されたと言うべきか。




・まとめ(概要)
八王の乱がついに勃発。
司馬炎死後、まもなくして外戚(武帝)の楊駿一派が粛清される。
次いで権力者となった司馬一族の宗師・司馬亮も皇弟のうち二番目に年長の司馬瑋と争う羽目になり、共倒れとなった。
その影には外戚(恵帝)の賈南風らの姿があり、これから10年ほど賈一族の専横が続く。
司馬一族視点としては一族の最年長となり宗師にもなった司馬泰、ほぼ同扱いの司馬晃、恵帝同母弟の司馬柬が中央で高官となる。
司馬柬はさっさと死んでしまったため、司馬亮の弟・司馬肜も中央入り。
地方にはこれまた司馬亮の弟の司馬倫や皇弟最年長となった司馬允などがいる。
その後、司馬肜と司馬倫が交代したり、司馬泰と司馬晃が相次いで死亡したことで司馬允も中央入り。
地方には皇弟の司馬穎や司馬孚の孫の司馬顒などが出てくる。

・まとめ(司馬一族の勢力図)
この時点で八王のうち、5人の名前が出てきた。
じゃあ他はどうしているということで、ついでに司馬一族の勢力図について考える。
司馬一族で権力を持つのはざっと見た感じだと
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
・司馬懿の兄弟の家の年長者(その中でも司馬孚家、司馬馗家が主流)
これらがほぼ全て。
司馬昭の息子(司馬炎の兄弟)はどうした?と思えるが、それらは300年時点ではおそらく子孫を残して全員死んでいる。
上記を踏まえた上で290〜300における各勢力の動向を見ていく。
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
司馬亮(司馬懿の三男):八王。291年に司馬瑋・賈南風らによって殺害
司馬肜(司馬懿の八男):西方と中央を行ったり来たりして最終的に中央高官になる
司馬倫(司馬懿の九男):八王。西方に派遣されるも失敗して中央に召還

・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
司馬柬(司馬炎の三男):291年に病死
司馬瑋(司馬炎の九男):八王。291年に賈南風らによって殺害
司馬允(司馬炎の十男):揚州に赴任していたが、299年に中央に戻る
司馬演(司馬炎の十一男):不治の病でいつ死んだかも不明
司馬乂(司馬炎の十七男):八王。司馬瑋の同母弟なので降格されて領国行き
司馬穎(司馬炎の十九男):八王。北方で大きな軍権を持つ
司馬晏(司馬炎の二十三男):司馬允の同母弟で司馬允に協力する
司馬熾(司馬炎の二十五男):後の懐帝。権力争いに興味なし

・司馬朗家
司馬威(司馬洪の長男):家督。中央で官職に就く
司馬楙(司馬望の四男):最年長。楊駿派だったため役職を剥奪されて領国行き

・司馬孚家
司馬晃(司馬孚の五男):家督兼最年長。296年に病死
司馬顒(司馬瓌の長男):八王。最年長。西方の要職で大きな軍権を持つ

・司馬馗家
司馬植(司馬権の長男):家督。司馬允の代わりに揚州へ行く予定だが中央で渋っている
司馬泰(司馬馗の次男):最年長。299年に病死
司馬越(司馬泰の長男):八王。おそらく中央に存在?

・その他
司馬冏(司馬攸の三〜四男):八王。司馬攸家の家督。中央で官職に就く

この辺りが権力争いに大きく関わってきそうな一族たち。

・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬亮(司馬懿の三男)
司馬孚に次いで一族の模範(宗師)にまでなった一族最年長。
死亡直前の291年時点では一族で圧倒的な高みにあった。
人格面でも大きな問題は見られない。
問題は軍政共に無能だったこと。
高位にありながらそれ相応の能力を持たなかったがために身を滅ぼす羽目になった。

-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬懿直系以外の一族では司馬泰と並んで最年長組で、能力もあった。
その立ち振舞いは模範にするべきとされるほど称賛された。
直系皇族を支える上では人格面、能力面共に不足を感じない良い人物だと言えるだろう。

-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最年長組、というか最年長。
人格面でも称賛され、司馬亮に次いで宗師となった。
司馬泰と司馬晃がいればもう少しはマシな事になったんだろうが、逆に言うといなくなったから酷いことになったとも言える。

-司馬柬(司馬炎の三男)
恵帝の同母弟という極めて重要な立場で、司馬炎が地方に自分たちを送り込んだ目的も理解していた。
早死しなければ西方統治に戻って次の乱ぐらいの時に活躍できただろうから惜しまれる人物ではある。

-司馬瑋(司馬炎の九男)
性格が果断で鋭いというのは要約すると口より先に手が出るタイプと言うことだろう。
司馬炎の息子たちで最も初期に大権を得た三人の中で唯一人格に問題を抱えており、賈南風らにそれを突かれた形。
同母弟の司馬乂もかなりの強情さをしているから血筋なんだろうか。
上に逆らい下に施すという点では関羽に似た所がある。
知性が不足した関羽だとするとこの結果はさもありなんと言ったところか。

西晋における司馬一族の大身・統一〜司馬炎崩御編

司馬一族の要職網羅、時間が経ったものの第二回。
今回は西晋の中華統一から初代皇帝司馬炎の死まで。
つまり280〜290の期間の話。

・品秩視点(今回より二品以上のみ記載)
司馬攸(〜283):三公(276〜282)、上公(282〜283)
司馬亮(〜291):一品(277〜282)、三公(282〜289)、上公(289〜290)
司馬伷(〜283):一品(277〜283)
司馬駿(〜286):一品(276〜286)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)
司馬晃(〜296):二品(283〜290)
司馬泰(〜299):二品(286〜290)
司馬柬(〜291):二品(289〜290)
司馬瑋(〜291):二品(289〜290)
司馬允(〜300):二品(289〜290)

前回の時期に比べると一品以上にたどり着いている人物が少ない。
これは司馬一族の役割が変化しているというのが大きいか。
前回登場していた人物たちは魏の末期に一族で要職を専有するために大官となっているのが多く、西晋になってからもそれが継続した形。
それらが軒並み死亡していって新たな世代が出てきたのが今回の期間。
新たな世代は中央での要職というよりは地方で軍権を握るようになっている。
これは前王朝の魏の失敗を踏まえた上での措置だろうが、それが後々とんでもないことになっていく。

-司馬攸(司馬昭の次男)
司空(三公)を務めた後、大司馬(上公)として外地に出されようとしたところで悶死。
八王の乱の端緒となった。

-司馬亮(司馬懿の三男)
統一以後、太尉(三公)としてしばらく務めた後、大司馬(上公)となる。
前回から引き続き生存している唯一の人物。
官職の面でも一族でずば抜けており、司馬孚についで一族の取りまとめ役(宗師)となった。

-司馬伷(司馬懿の四男)
282年に大将軍になっているが、晋書職官志によると司馬伷の大将軍は三公より下とされている。
これは司馬孚が太尉の時の大将軍(司馬師)が初回で、今回は兄の司馬亮が太尉なので同じ扱いになっていると推測される。
よってここの大将軍は上公ではなく一品扱い。

-司馬駿(司馬懿の七男)
統一以前の驃騎将軍を続けてそのまま死亡。

-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に平東将軍(二品)になる。

-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任で鎮東将軍(二品)として任地に赴いた。
ただ、289年頃に司馬允が鎮東将軍になっているっぽいのでその時期から司馬炎がなくなるまでの役職が不明。
司馬允が平東将軍だったとかで司馬炎死後に鎮東将軍になった可能性もある。

-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任で鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。
司馬晃と同じく鎮西将軍が司馬柬と被っているが、こちらは病気で都に帰った記述があるので司馬柬と交代でも無理がない。
ちなみに司馬馗は司馬懿や司馬孚の弟。

-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。

-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。なお八王。
平南将軍(二品)として任地に赴き、鎮南将軍(二品)に転じた。

-司馬允(司馬炎の十男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮東将軍(二品)として任地に赴いたようだが、司馬晃と被るので司馬瑋と同じく平東将軍(二品)とかから始まったのかもしれない。


・都督諸軍事視点
司馬伷(〜283):徐・青州諸軍事(280〜283)
司馬駿(〜286):関中・雍・涼諸軍事(270〜286)
司馬肜(〜302):監豫州諸軍事(280年代〜290)
司馬輔(〜283):監并州諸軍事(277〜283)
司馬晃(〜296):徐・青州諸軍事(283〜290)
司馬泰(〜299):関中・雍・涼諸軍事(286〜289?)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事?(289〜290)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(289〜290)
司馬允(〜300):揚・江州諸軍事(289〜290)

-司馬伷(司馬懿の四男)
呉平定後に青州諸軍事も同時に担当。

-司馬駿(司馬懿の七男)
前回から変わらず三地域の諸軍事を担当。

-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に監豫州諸軍事となる。
生年は不明だが、上の兄弟から結構年齢が離れていると思われる。

-司馬輔(司馬孚の三男)
官位としては三品が上限で監并州諸軍事になっている。
上の司馬望が205年生まれだからその時期には相当な年齢になってる。
もうちょっと生きてればもうちょっと高みには行けたのかもしれないが寿命だろう。

-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任として徐・青州諸軍事となる。
司馬懿の直系以外では最も高い位置にいるのではないだろうか。

-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任として関中・雍・涼諸軍事となる。
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最高位で、後に司馬亮の代わりに宗師となることから司馬亮以外の最年長と推測される。

-司馬柬(司馬炎の三男)
武帝期最後の大異動である289年に秦王となった。
諸軍事になったとかの記載はないが、秦王であるのなら司馬泰の後任で関中・雍・涼諸軍事だろう。
関中・雍・涼諸軍事は司馬一族でも最も頼りになる人間が就く最重要職だが、恵帝の同母弟かつそれなりの才能を持っていたので当てられたのではないだろうか。

-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬柬と同じく289年に楚王兼荊州諸軍事となった。

-司馬允(司馬炎の十男)
司馬柬と同じく289年に淮南王兼揚・江州諸軍事となった。



・まとめ
前回登場した中からは司馬亮以外が死亡。
司馬亮は地方から中央に戻るが孤軍奮闘状態で、どちらかというと外戚の楊駿の一族の権勢のほうが勝っている。
地方でまず台頭してきたのは司馬孚一族の司馬晃と司馬馗一族の司馬泰。
これらはおそらく前回の司馬孚・司馬望のような司馬懿直系以外での最年長組。
司馬伷と司馬駿の後任としても問題なく働いているからまずまずの能力はあったと言えるだろう。
そして少なくなった司馬懿の息子たちからは司馬肜も出てくる。
他の兄弟からするとあまり要職には就いておらず、能力的にはあまり評価されてないとも言えるか。
司馬炎晩年には次代の司馬衷を補佐させるために司馬炎の息子のうち上から三人の司馬柬、司馬瑋、司馬允が地方に赴任。
それぞれ地方で大きな軍勢を率いることになり、この時点では問題にならないが後々酷いことになっていく。


・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬攸(司馬昭の次男)
司馬炎の実弟にして司馬師の後継者。
司馬一族の西晋までの成り立ちのおかげで複雑なことになっており、司馬炎からはかなり警戒されていた。
領国に行くように指示されたせいで病死。享年38。
晋書では至るところで「司馬攸が生きていればなあ」みたいなことが書かれていて、かなりその能力を期待されていたようだ。
ただ、領国に行けと言われて患うような精神の不安定さで本当に西晋を救えたのか?と思わないでもない。
まだ30代だしだったら一旦領国に退いて情勢を見極めよう、みたいな強かさがないのではこの後の外戚との戦いで生き残れるとも思えない。

-司馬伷(司馬懿の四男)
主に対呉戦で能力を発揮した司馬一族。
その関係でコーエーの三國志シリーズにも出てくる数少ない人物。
司馬伷が出るなら司馬駿ぐらい出てもええやんって思わなくもない。
呉平定の功績がある皇族にも関わらず驕らなかったので人物的な評価も良い。

-司馬駿(司馬懿の七男)
コーエーの三國志シリーズには出てこないので結構マイナーだが、この時期ではおそらく司馬一族最強。
武力、政治力、人格全て文句なしの超人で、外敵に困った時は司馬駿を派遣すれば大体なんとかなる。
司馬攸の帰国に反対した唯一の人物で、それが叶わなかったので病気になって286年に死亡。
司馬攸の死に連鎖したようなものだから本当にこの判断は駄目だった。

-司馬輔(司馬孚の三男)
司馬孚死後の司馬孚一族の年長者。
283年に中央入りして284年に死亡。
順当に出世はしていたが、上り詰めるよりも先に寿命が来た感じ。
司馬輔死後は司馬晃が司馬孚一族の最年長となる。
というか、司馬孚の息子で生きてるのが司馬晃だけになった。

西晋における司馬一族の大身・西晋建国〜統一編

前回の記事では各家のそれぞれの詳細をまとめ始めたが、それとは別に西晋の各時期における司馬一族の要職についていた者について網羅していく。
今回は西晋建国から西晋による統一の時期、つまり265〜280の話。

・品秩視点
司馬孚(〜272):上公(265〜272)
司馬望(〜271):三公(265〜268)、上公(268〜271)
司馬攸(〜283):二品(265)、一品(266〜276)、三公(276〜282)
司馬亮(〜291):二品(265〜270)、三品(270〜275)、二品(275〜277)、一品(277〜282)
司馬伷(〜283):三品(265〜269)、二品(269〜277)、一品(277〜283)
司馬駿(〜286):二品(265〜276)、一品(276〜286)

西晋統一までに一品までたどり着いたのは上記6人(だけのはず)。
司馬懿世代ではそもそも生き残ってるのが司馬孚のみで、司馬孚。
司馬師・司馬昭世代では最年長の司馬望と司馬炎から見て叔父の司馬亮、司馬伷、司馬駿。
司馬炎世代では伯父の後継で弟の司馬攸。
司馬孚・司馬望の親子が別格であって、他は司馬懿直系が上位に来ている構図。

-司馬孚(司馬懿の弟)
魏の時代から太傅(上公)で、西晋建国後は太宰(上公)に移った。

-司馬望(司馬孚の次男)
司馬炎が晋王になってすぐに司徒(三公)となり、まもなくして太尉(三公)になり、呉軍撃退の功績で大司馬(上公)に上り詰めた。

-司馬攸(司馬昭の次男)
司馬攸は魏の時代に衛将軍(二品)で、西晋が建国されると衛将軍ではなくなりどんな職に就いていたかは不明。
266年に王沈が亡くなると、その後任として驃騎将軍(二品)になり開府儀同三司(一品)を加えられる。
270年に孫秀が降伏してくると、鎮軍大将軍に移る。
西晋による統一時は司空(三公)になっていた。

-司馬亮(司馬懿の三男)
魏の時代に鎮西将軍(二品)で西晋建国後も継続するが、胡烈戦死の責で平西将軍(三品)に降格。
その後は撫軍将軍(三品)、衛将軍(二品)を経て277年に鎮南大将軍として開府(一品)。
西晋による統一時には撫軍大将軍となっていた。

-司馬伷(司馬懿の四男)
魏の時代に征虜将軍(三品)で西晋建国後は撫軍将軍(三品)となった。
それから鎮東大将軍(二品)となり、277年か280年か282年に開府儀同三司(一品)を加えられた。

-司馬駿(司馬懿の六男)
魏の時代に安東大将軍(二品)で西晋建国後も継続。
司馬亮が降格すると後任として鎮西大将軍(二品)となり、276年に征西大将軍(二品)になると同時に開府儀同三司(一品)を加えられた。


・都督諸軍事視点
司馬孚(〜272):中外諸軍事(265〜272)
司馬望(〜271):大都督諸軍事(268)
司馬亮(〜291):関中・雍・涼諸軍事(265〜270)、豫州諸軍事(277〜278)
司馬伷(〜283):徐州諸軍事(269〜280)
司馬駿(〜286):豫州諸軍事(265〜268)、揚州諸軍事(268)、豫州諸軍事(268〜270)、関中・雍・涼諸軍事(270〜286)

都督諸軍事とは西晋時代における地方指揮官であり、つまり地方で大軍を指揮できる権限を持つ職。
軍事的才能もさることながら裏切らない確信がある人物が適任と言えるだろう。
西晋初代皇帝である司馬炎のときは一族がよくまとまっており、才能ある司馬一族をつけておけば問題ない状況だった。

-司馬孚(司馬懿の弟)
建国から死に至るまで都督中外諸軍事となる。
中外諸軍事は魏の時代からの最高権力者の伝統職のようなもの。
魏の時代では曹真、曹爽、司馬懿、司馬師、司馬昭が就いていることからもそれが明らか。
建国時の司馬一族で最も権威のある司馬孚がこの職に就くというのは妥当と言えるだろう。
司馬孚の後、八王の時代に至るまで中外諸軍事は登場しない。
皇帝がきちんと権力を持っているときには必要ないということだろう。

-司馬望(司馬孚の次男)
建国当時は諸軍事ではないが、中領軍であり司馬孚の補佐みたいな立ち位置と言っていい。
268年、孫呉の侵攻に対して大都督諸軍事となる。
おそらく荊州・揚州を統括する臨時職か。
大司馬石苞が召還された後、そんな職を全うできるのは太尉の司馬望か大将軍の陳騫ぐらいなもの。
その後も孫皓の謎の動きに対応するなど南方対応に回されている。

-司馬亮(司馬懿の三男)
建国当時の関中・雍・涼諸軍事というのは西晋重要職の一つで司馬一族でも皇帝の近親しかなれないと明記されるほどの職。
魏の末期に司馬望が就いてから蜀討伐のために鍾会・艾らが就いた後、司馬亮が全てまとめて兼任することになる。
だが、司馬亮には軍事的才能がなく、胡烈が戦死するに及んで免職となる。
それからしばらく中央にいたが、司馬孚・司馬望親子が相次いで死亡したので一族の最年長となり、宗師として扱われるようになる。
豫州諸軍事として地方軍権持ちに復帰するが、結局中央に戻って中央における司馬一族の筆頭となる。

-司馬伷(司馬懿の四男)
建国して少しの間は中央にいたが、それから徐州諸軍事となる。
青州・徐州・豫州の三州の諸軍事も比較的司馬一族が担当することの多い重要職。
おそらく魏の時代から反乱が続く淮北の監視を踏まえての人事だろうか。
孫呉討伐時も討伐軍の一方面を担った。

-司馬駿(司馬懿の六男)
建国してからひたすら地方で諸軍事を司る。
268年には石苞更迭に伴うワンポイントリリーフとして起用され、降格処分となった司馬亮の後任として関中・雍・涼諸軍事になった。
この点から見ておそらくこの時点の司馬一族で最も軍事的才能を持っていたと思われる。
武帝紀においても(敗北ばかりの司馬亮とは正反対に)度々敵を打ち破った記述がある。


・まとめ
この時期の司馬一族の中心人物は6人。
司馬孚・司馬望の魏の時代から司馬一族を支えた親族親子。
皇弟の司馬攸。
皇叔兼実兄弟の司馬亮・司馬伷・司馬駿。
中央を司馬孚、司馬望、司馬攸が固め、地方を司馬亮、司馬伷、司馬駿が固めるような体制となっていた。
だが、司馬孚、司馬望親子が270年代前半に亡くなり、この後に他大半も280年代半ばに死亡し、この中で唯一能力不足が露呈している司馬亮のみが残ってしまうことが後の禍根に繋がるのだった。


・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬孚(司馬懿の弟)
司馬八達の中では最も長生きどころか子供も孫も先に逝きまくる。
享年93というこの戦乱の時代に一世紀近く生きた超人の一人。
当然のように一族の長老として敬われ、司馬師が大将軍を三公の下に置くような特例措置を取ったり、司馬昭が曹髦の葬儀に関して司馬孚らの意見を通すなど、発言力はかなり高い。
魏の忠臣とは言うが、おそらく司馬氏が取って代わること自体には反対していなかったんだろうな。
司馬氏にも1人はこういう役どころが必要だということで、司馬孚・司馬望らがそれを担う立場にあったんだろう。
西晋建国以降は太宰・中外諸軍事という軍政の頂点となったが、ほぼ親族の取りまとめに終始していた。
司馬炎は100まで教えを乞いたかったとか無茶なことを言うが、仮にあと7年長生きしてもさほど後の趨勢に関わることはなかっただろう。

-司馬望(司馬孚の次男)
司馬孚の実子にして司馬孚の兄である司馬朗の家の家督。
八達世代の一世代下の司馬師・司馬昭世代では最年長。
そして司馬孚ほどではないが長生きした。
魏の時代では父に似て魏寄りだったが、父のように真っ向から司馬師たちに反抗するほどの力はなかった。
それでも西方の指揮官として姜維と渡り合うなど、能力は低くない。
西晋建国以降は中領軍として中央軍を率いたり、孫呉の侵攻には大都督として出陣したりと軍事面のトップとしての働きが目立つ。
魏の時代から自分の采配自体で敵を撃退したことはないが、麾下の将軍たちが敵を撃退しているのを見る限り、夏侯惇のような「将の将」タイプの将軍だったと言える。
271年に死亡し、享年67。
司馬孚に比べると短命だが、この時代としてはよく生きたほうだろう。

曹魏から西晋における司馬一族の調査・司馬朗家編

最近三国時代近辺では八王の乱に興味を持っている。
八王の乱では司馬一族が入り乱れて戦うことになるが、誰がどういう立場で行動していたのかいまいちわからないので、各家の司馬一族がどういう道のりを辿ったのか簡易的に書いていきたいと思う。
とりあえず司馬八達の家ごとに書いていく。
といっても一族が隆盛するのはおおよそ司馬朗家、司馬懿家、司馬孚家なので、その他はまとめて書いていくかもしれない。
では、まず司馬朗家から。
記述期間は司馬一族が曹魏に仕え始めた190年代後半から永嘉の乱で洛陽が陥落する311年まで。

・司馬朗(1)
字は伯達。
生没年は諸説あり、没年217は確定として生年は享年から逆算した171か仕官時の年齢から175前後と見られる。
司馬一族では最も早く曹魏に仕える。
もっぱら地方の県令を歴任し、丞相主簿を経て兗州刺史まで登った。
217年、濡須口の戦いに従軍した際に疫病で死亡。
実子の司馬遺と養子の司馬望が後を継いだ。

・司馬望(1-1)(初代義陽王)
字は子初。
生没年は205〜271。
元々は司馬孚の次男だが、司馬朗の養子となった。
おそらく実子がもう望めないと思って養子を迎え入れたが、その後に実子が生まれたパターン。
251年、司馬懿が王凌を討伐するとそれに従軍した功績として永安亭侯となる。
おそらくこの時点で司馬遺は病床にあるなどで家督の任に耐えられず、一族の長である司馬懿の命によって司馬望が家督を継ぐことになったのではないだろうか。
だからこそ「三国志」「晋書」両方において司馬望は司馬遺からではなく司馬朗から継いだとあるのではないかと推測する。
魏の末期には衛将軍、驃騎将軍、司徒などの高官を歴任。
265年、西晋が誕生すると義陽王となった。
食邑1万戸は司馬懿直系を除くと父の司馬孚に次ぐ多さ。
西晋では太尉や大司馬といった軍事最高職に就き、呉の侵攻にも大都督として対応した。
271年、病死。享年67。諡は成。
ケチで蓄財家だったため、死後に見つかった財産の貯蓄量から批判された。
後継は先に死んだ息子2人を経由して最終的に孫の司馬奇となった。

・司馬奔(1-1-1)
司馬望の長男。司馬望の後継とされたが、司馬望より先に死んだ。
生没年は弟の司馬洪の生年が236年より前なので生年は当然236年より前。
同じく後継とされた弟の司馬整が死後王になっているのに比べ、司馬奔には何もない事から没年は265年より前ではないだろうか。

・司馬奇(1-1-1-1)(2代義陽王、初代棘陽王)
司馬奔の長男。祖父の司馬望に似て強欲で勝手に交易を始めた。
288年、義陽王と司馬望の後継を剥奪され、三縦亭侯となった。
301年、義陽王を継いでいた司馬威が誅殺され、司馬望の後継に復帰し棘陽王となった。
以降不明。

・司馬威(1-1-1-2)(2代河間王→初代章武王、3代義陽王)
字は景曜。
司馬望の次男・司馬洪の長男。
276年に司馬洪の後を継いで河間王となり、277年に章武王に移った。
288年、司馬奇が後継を剥奪されると、司馬望の後継となり義陽王を継いだ。
301年、司馬倫に媚びへつらい恵帝から璽綬を取り上げ、司馬倫敗亡後にそれを恨んだ恵帝の命により処刑された。

・司馬整(1-1-2)(初代随王)
司馬望の三男。司馬奇の次に司馬望の後継とされたが、司馬望より先に死んだ。
死後に義陽国の中の随県を追封された。諡は穆。
生没年は不明だが、上と下が司馬炎との生年順に異なるということは236年付近。
没年は死後王にされていることから265年よりは後。

・司馬邁(1-1-2-1)(2代随王)
司馬整の子。司馬整を継いで随(県)王になる。
288年、同じく義陽国の平林を封地として追加され随(郡)王となった。
以降不明。

・司馬楙(1-1-3)(竟陵王)
字は孔偉。
司馬望の四男。
生年は不明だが、司馬炎から見て従父弟なので、236年よりは後。
265年、西晋が誕生すると東平王となった。
八王の乱では度々敗者側の陣営に属したが、上手く立ち回って処罰を逃れた。
306年、懐帝が立つと竟陵王に移った。
311年、洛陽陥落時に殺害された。

・司馬遺(1-2)
司馬朗の実子。司馬望よりは歳下。
226年、曹叡より昌武亭侯に封じられる。
この点から少なくともこの時点では司馬朗の後継は司馬遺と見做されていたことがわかる。
この後の事績は不明だが、251年に司馬望が列侯されていること、254年の曹芳廃嫡時の昌武亭侯が荀廙となっていることからこの前後に死亡したと思われる。

・司馬洪(1-2-1)(初代河間王)
字は孔業。
司馬望の次男。
生年は不明だが、司馬炎から見て従父兄なので、236年よりは前。
司馬遺の養子となり、後を継いだ。
斉王紀によると昌武亭侯にはなっていないが、264年に五等爵が復活すると襄賁男になっている。
他の親族の例から亭侯相当とは思われるため、斉王紀が間違っているか他のなんらかの亭侯になっていたと思われる。
265年、西晋が誕生すると河間王となった。
276年、病死した。諡は平。
後継は初め長男の司馬威が継いだが、司馬威が義陽王(司馬望)を継ぐ事になったため、次男の司馬混が後継となった。

・司馬混(1-2-1-1)(2代章武王)
司馬洪の次男。
司馬威に代わって司馬洪の後を継いだ。
311年の洛陽陥落以前に死亡している。
洛陽陥落時に司馬混の息子たちは全員囚われ、後に末の子の司馬滔のみが東晋に帰ることが出来た。

-代表者-
家督:朗(〜217)→遺(217〜251?)→望(251?〜271)→奇(271〜288)→威(288〜301)→奇(301〜不明)
補佐筆頭:望(217〜251?)→洪(251?〜276)→楙(276〜311)
※補佐筆頭は家督以外の家の年長とする。


-総括-
司馬朗家と言いつつ、大半は養子の司馬望の一族。
司馬朗の後継周りは若干謎を感じないでもない。
司馬朗の実子の司馬遺が当初後継と見做されていたであろうことは226年という列侯の早さから伺える。
にも関わらず251年には司馬望が列侯され、おそらくこの時点で司馬望が司馬朗の後継だと確約された。
家を繋げるだけであれば、ただ司馬洪に継がせて司馬望は別の家という扱いで良かっただろうに何故かこういう処置をとった。
これは251年というまだ司馬一族が盤石でない中で司馬懿の余命が残り少ないという時勢が関係していたのかもしれない。
最初は兄の血統が司馬師たちの邪魔になるからでは?と考えたが、何もなければ絶えるだけだったことを考えると、司馬朗家という家を潰すのが司馬一族にとって不利だったからと考えるのが妥当だろうか。
司馬望は司馬師世代では最も年長であり能力も低くないので、一族の補佐を務めさせるには適任だった。
故に司馬朗家の家督として改めて定め、司馬一族の一翼を担わせることを狙ったというのが実情か。
もっとも司馬望は曹髦と仲が良かったので司馬師たちとの確執を恐れて西に逃れている。
それでも西の地方軍を押さえていたというのはプラスか。

最終的に父・司馬孚に次いで大身となった司馬望は、当初の計画通りに司馬懿直系の補佐を見事に勤め上げたと評価していいだろう。
宗室伝巻末の賛には登場しないことから、晋書の当時は宗室の中で取り立てて言うこともないと思われていたのかもしれないが。

司馬望以降の子孫たちで八王の乱に直接関わったのは司馬威と司馬楙ぐらい。
とはいえ、どちらも従属するにとどまる程度。
西晋司馬一族の中では最上位に位置する司馬望の子孫でも権力的には従属するに留まることを考えると、司馬懿直系以外で八王に連ねた二人は他の支流と比べるとよっぽど優れていたのだろうと思わされる。

これだからにわかは

今日はジェイソン無双当日ですね(挨拶
思うに、海外は物理的に殺してくるようなのが多いですが、日本は呪いとか精神的に殺してくるようなのが多いですよね。
そういう土壌というか、文化があるんでしょうね。

さて、記事紹介。
今どきの女子たちが萌えちゃう、一番人気の戦国武将は誰?

・・・タイトルで分かるよね。
まぁ、好きな武将って事だからとやかくは言わないけどさ。
政宗や幸村が好きな腐女子って本当ににわかだなって思う。
いやね、政宗が好きな理由として「いち早く海外に目を向ける先見の明」とか「野望ありきの生き様」とか挙げるならいいんだけどさぁ。
幸村は最期の漢らしい特攻があるから何ともいえないけど。

それにしても、家康の過ぎたるものである本多忠勝が0%て。
戦において傷を負ったことが無いという猛者だというに。
その他で気になったのは斎藤道三とか小早川秀秋とか。
こいつら好きになるようなスイーツ(笑)っているんだな。びっくり。
斎藤道三とか宇喜多直家が好きな女子はちょっと面白いな。
松永久秀好きとは友達になってみたい。

ただ、黒田孝高とか蒲生氏郷が出ないとかありえん(笑)
こいつらがいない戦国に価値なんてなさすぐるでしょう?
有名武将しか挙げられないスイーツ(笑)がにわかなのは確定的に明らか。
可児才蔵とか佐竹義重とかも挙げるべきだろ・・・jk・・・。

では、この辺でノシ

野望高く持つべし・黒田如水

その時歴史は動いたの如水編を見てちと涙腺が緩みました^^;
やはり戦国時代に如水ほど私の趣味に合う人物はいない。
三国志では姜維だが。
共通するのはどちらも途方もない野望を抱きつつ失敗してる所か。
そんな訳で、神速で歴史カテゴリ「黒田如水」を書くことにする。

黒田孝高(1546−1604)
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路にて生まれる。
永禄10年(1567年)ころに家督を継ぎ、櫛橋伊定の娘を正室に迎え、姫路城代となった。
天正元年(1573年)、播磨と小寺氏は畿内の織田家と山陰・山陽の毛利家に挟まれる。
そして天正3年(1575年)、毛利臣従に傾く家臣を尻目に織田臣従を説き、織田につく事になる。
天正6年(1578年)、三木城主の別所長治や摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こす。
このとき、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、交渉はうまくいかず逆に捕縛されて有岡城の土牢に押し込められた。
1年後、有岡城は落城し、孝高は救出されたが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となった。
そのため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うこととなった。

天正8年(1580年)には「姫路城は播州統治の適地である」として自らの居城を秀吉に提供し、自らは飾東郡の国府山城に移った。
天正9年(1581年)、因幡鳥取城を兵糧攻めに追い込んで落城させた。
天正10年(1582年)、毛利氏の名将・清水宗治が守る備中高松城攻めにおいて、巨大な堤防を築いて城を水攻めに追い込む。
ところがこの高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり、信長が横死した。
信長の死を知った孝高は秀吉に対して、「御運が開かれる機会が参りましたな」という大胆不敵な進言を行なったと言われている。
そして、毛利輝元との和睦を取りまとめて中国大返しを行なったのも、全て孝高の進言によるものであったと言われている。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加する。
天正13年(1585年)には四国征伐に参加した。
このとき、孝高は敵将・長宗我部元親の策略を見抜いて、次々と敵城を陥落させていった。
天正14年(1586年)には従五位下、勘解由次官に叙任する。
天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐では毛利氏、宇喜多氏などの軍勢の戦目付を勤め、戦勝に貢献している。
そのため戦後、豊前中津において12万5000石を与えられた。
天正17年(1589年)、家督を嫡男の黒田長政に譲って隠居し、如水軒と号した。
しかしその後も秀吉の側近として仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、北条氏の小田原城に入って北条氏政・北条氏直父子を説得し、小田原城を無血開城させるという功績を立てた。
文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参加するが、文禄2年(1593年)に五奉行の石田三成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、如水円清と号して出家・引退した。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去した。如水は秀吉の死後、同年12月に上洛し、伏見屋敷に居住したという。

慶長5年(1600年)、五大老の徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東上すると、三成らが西軍を率いて挙兵し関ヶ原の戦いが起こった。
嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから、黒田軍の主力を率いて東軍に与し、関ヶ原本戦で東軍として戦い、武功を挙げた。
それに対して如水は、九州で東軍として挙兵した。ところが兵力の大半は長政が率いて上方に出兵している。
そのため如水は領内の百姓などに支度金を与えて、兵としたのである。
その結果、1万人ほどの百姓による促成軍団が結成された。
如水はその兵力で9月9日(10月15日)、豊後に侵攻する。
如水は9月13日(10月19日)、石垣原において大友義統軍と衝突した。
黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
その後も如水は、西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、佐伯城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としてゆく。
この際の如水の行動は、九州を統一し、その兵力をもって上洛し、家康と決戦を挑んで天下を我が物にしようとの野望であったともいわれている。
関ヶ原後、長政は家康から勲功第一として筑前名島(福岡)52万3000石を与えられた。
そのため、如水も中津城から福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく、隠居生活を送った。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。享年59。

〜如水の関ヶ原裏計画〜
東西諸勢力が集結した関ヶ原の決戦が長期化すると見た如水は、東西両軍が対峙しているうちに空白地となった九州の占領計画を立てる。
すなわち、加藤清正を引き込んでの九州諸勢力の平定である。
史実上、決起した9月9日からわずか2ヶ月で島津以外の各勢力を撃破している。
そして九州を平定した暁には、山陰道を登って元領地たる播州を拠点に京や大坂を席巻、疲弊した関ヶ原の勝利者を新鋭たる自分の軍勢で叩き、最終的な勝利者になろうとする計画であった。
この計画が実行されていれば、さしもの家康ですら戦い抜けるか微妙な所である。

〜管理人・感想〜
やはり歴史において「if」の要素を持つ人物はそれだけで人気となりえる。
歴史にifは禁物というが、禁物な故に考えてしまうのが人間というもの。
それ故に黒田如水の夢の第三勢力計画は燃えるものがある。
コーエーは是非とも黒田如水のこの野望を達成できるようなゲームを作って欲しい。
というか、無双に「二兵衛」こと竹中半兵衛と黒田官兵衛出してくれと。
それぞれ諸葛亮・司馬懿風味になりそうではあるが^^;
それにしても、ブログを開設した当時と比べると格段に戦国時代の知識が深まっているように思える。
やはり三戦は混ざりやすいもので。
では、この辺でノシ

西軍

「もう終わりか。弱い敵将だった」
by石田三成・戦国無双2

敵味方の強さバランスを除いては無双でも傑作の呼び声高い戦国無双2から。
私はやはり三成・幸村・兼続の3人の「義」の生き方がどうしようもなく好きですね。
三成なんかは最初、人を物としか思ってないような考えだったのが最後には共にある仲間に変わってるから驚きです。
私も生き方は三成に感じるものがあるだけに、ちょっと感情移入してしまう次第。

今回はそんな三成の率いる西軍についてでも語ろうかな、と。
では、続きから。続きを読む

寝落ち

「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

・・・すんません、寝落ちして更新できませんでした。
昨日、飯食ってちょっと横になってたらいつの間にか2時になってまして^^;
そのまま寝ました。
結構、疲れが溜まってたんですかね。
で、上は昔聞いたなぁ、と思って調べたら見つけたもの。
不如帰よろしく、三成と家康も同じようなものがありますね。
島左近清興と本多平八郎忠勝がそれぞれ人物として挙げられてますね。
戦国を詠ったものは多いですけど、不如帰とかこれとか、あとは天下餅ですか。
「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食ふは徳川」
ですけど。

何故いきなり戦国かというと、昼の書店で「名将 佐竹義宣」を読んでいるからですが。
まだ関ヶ原前ですが、ウィキペディアを見たら結局煮え切らない事になってますね。
・・・本当に家康が一番味方にしたかったと言えるのかよ。
今の所、上杉が挙兵、三成が後ろから挟撃、佐竹が腹背を突くとかいう事になってますが・・・何とも。
こうなったら太閤垢悩潅櫃了屬魏未燭靴討澆襪。
目指せ常陸100万石大名。
と、その前に更新作業入りますかね。
では、この辺でノシ


名将 佐竹義宣

世界の偉人天才編

見てましたね。
実は放映前に書こうとしたんですけど、諸事情によりこの時間に。

結果ですが、
1位:アインシュタイン
2位:レオナルド・ダ・ヴィンチ
3位:エジソン
4位:諸葛亮
あたりは覚えてますね。

あとは信長が確か8位。
他にはライト兄弟・モーツァルト・ベートーベン・アイルトン=セナあたりでしたかね>ベスト10
個人的にはダ・ヴィンチが1位でエジソン2位だと思ってましたが、アインシュタインを忘れてましたね・・・。
それにしても諸葛亮が4位なのにはかなり驚きました。
信長ですら8位、曹操なんて90位ですよ?www
日本の孔明こと竹中半兵衛もさほどでは無かったですし。
やはり戦国時代でも知名度が高い人物は多少しかいないことの証明ですね。
それと、沖田総司が坂本竜馬のすぐ後ろにつけてたのはイメージ重視過ぎる気はしましたね。
それを考えると土方の低さに泣けます。
にしても、スポーツ選手が入ってると「何で入ってるの?」感が拭えないですね。
やはり根本的に受け付けないようです。

で、次は「歴史を変えた英雄編」だそうです。
こう言うからには武将重視なのは間違いないですね。
1位候補は世界を席巻したチンギスハン・アレクサンドロス・シーザー・ナポレオンとか。
日本人人気で信長・竜馬あたりかね。
個人的には秀吉や劉備も英雄には当てはまると思うが。
さて、どうなることやら。
では、この辺でノシ

蒼古なる雷

「天の風琴が奏で流れ落ちるその旋律、凄惨にして蒼古なる雷。ブルーティッシュボルト!!」
by・ヴァルキリープロファイル

ブルーティッシュボルトで敵を殲滅せん!!
とまぁ、管理人の近衛@フラッシュマジシャンです。

そういえば、9PKで趙雲の涯角槍を作ってみました。
武力+5で奮闘がつくのは青龍・蛇矛と同じ。
とはいえ、趙雲の場合、奮闘も持ってないのでかなりの強さになってます。
武力も100越して最強の部類に。
まぁ、州丕砲任蜀軍最強だからな。

そんな訳で、今日は蜀軍についてでも。
長くなりそうなので続きから。続きを読む

人物評・長宗我部元親

久々にやってきたこのカテゴリ。
87%この人物でできていると言うならば紹介せざるを得ないかと。
で、例の如くウィキペディアから引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

最近は太閤垢笋蘋鏐駝義个里△譴發△辰瞳觜淑かるようになってきました。
略歴も立花宗茂と違って書いていきましょうか。
長宗我部元親(1539−1599)
土佐の人。長宗我部21代当主。
国親の嫡男。子に信親・盛親などがいる。
幼少の頃は色白で軟弱な性格から「姫若子」と呼ばれる。
だが、やがて才覚を表して「土佐の出来人」と呼ばれる。
22歳、長浜で初陣し、その数ヵ月後には家督を相続。
本山・安芸・津野などを次々と滅ぼし、1575年に渡川で一条兼定を破って土佐を統一した。
その後は四国統一に目を向け、織田信長と同盟。
四国の諸国は畿内の動きなどに翻弄され疲弊していたために、着々と勢力を延ばしていった。
信長はその動きを良しとせずに1582年に盟約を破棄するが、本能寺で横死。
その後は秀吉と対抗しつつ中富川にて十河存保を破る。
1585年には四国をほぼ統一するも直後に秀吉の四国征伐を受ける。
対抗するも敗戦を重ねて降伏。結局、土佐一国に戻されてしまう。
1586年、秀吉の命で信親と共に九州に進軍。大友の救援に向かう。
だが、戸次川において仙石秀久の無謀強行により敗北。
嫡男・信親が戦死するなど多大な被害を被った。
嫡男死亡による家督継承問題で4男の盛親を指名したために騒動がおきる。
1588年、居城を大高坂城に移す。
1590年、小田原に水軍を率いて参陣。
1591年、居城を浦戸城に移す。
1592年、朝鮮出兵に従軍。
1596年、サン=フェリペ号が領内に入り、キリスト教禁止のきっかけとなる。
その後、長宗我部元親百箇条を制定。
1599年、秀吉死後の騒動の中で死去。

とまぁ、こんな略歴です。
これはあれですね。仙石秀久の罪は重いと。
というか、やっぱり地方の武将ってのはかなり不利だったんでしょうね。
島津といい伊達といい長宗我部といい。
それ以前に関東の今川・武田・北条・上杉の諸侯ですら京に到達できなかったのですから、織田信長の凄さが分かると言うものです。
結局は京を制す事が出来た信長や秀吉が勝利を収め、関東で大きく力を蓄えた家康が最終的にのし上がったと。
結局は地方にとらわれていた諸侯より、全国を見た信長らが台頭するのは必然だったと。
それにしても、関ヶ原なんて1日で終わるなんてとんでもない東西大合戦だったんでしょうね。
ってか、その後の長宗我部を見るにしてもつくづく味方運がないですね。
ま、これも歴史を彩る上での運命だったと言う事でしょうか。
では、今回はこの辺で失礼しますね。

蜀滅亡の考察その1

帰ってきました。
今、かなり雷が鳴ってます。
雷怯子ではありませんが、雷は慣れないものですね・・・。

で、今回から歴史カテゴリ新シリーズ。
その名も「蜀滅亡の考察」シリーズであります。
ま、玄人的ではなく概略を掴んで初心者に分かりやすい書き方ができればいいなぁ、とか思います。
・・・地名とか人名とかは別にしてですけどね^^;
では、第一回、逝きますか。続きを読む

人物評・張翼

さて、今日は張翼の出番。
ゲーム中では王平と同じく第二線武将の感がある彼。
ともかく行ってみましょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%BF%BC

張翼(?−264)
字は伯恭。犍為郡武陽の人。
祖先を前漢三傑の一人、張良といわれる。
代々、漢の要職を歴任する名門だった。
劉備が益州を平定した時、召しだされて書佐となった。
建安の末年(建安期間は196〜219)に孝廉に推挙されて江陽県長となった(前後関係不明瞭)
その後は涪陵県令、梓潼太守、広漢・蜀郡太守などを歴任していった。

231年、諸葛亮にその性格を買われて綏南中郎将(所謂南蛮への抑えか)に任じられた。
だが、元からの厳格の法治主義で異民族を抑えたために劉冑の叛乱を引き起こした。
張翼がそれの迎撃のために準備をしていると、中央から召還の命令が下された。
職務がまっとう出来なかった為であろう。
しかし、張翼は「私に蛮族懐柔ができぬからと言って討伐の準備を捨ててまで謝罪に行こうとは思わない」と言って軍事の準備を続けた。
この為に後任の馬忠は劉冑の叛乱を抑えることが出来た。
諸葛亮はこの一連の流れを聞いて改めて張翼を評価したと言う。

諸葛亮が北伐に入ると、張翼は前軍都督に任じられ、扶風太守となった。
諸葛亮が陣没すると、前領軍に移り、劉冑討伐の功績により関内侯に封じられる。
238年、中央で尚書を務めた。
その後、督建威・仮節を加えられ、 征西将軍・都亭侯となった。
255年春、衛将軍姜維が夏に3度目となる狄道出兵を提案した。
これは前年254年に姜維が狄道から出て多少の成果を挙げられた為であった。
これに、張翼はただ一人「何度も軍事行動を起こしては民が疲弊するだけだ」として反対したが、出陣が決定された。
この時、鎮南大将軍に任じられた。
姜維らは洮水に出でて魏の雍州刺史・王経を相手に大勝した。
姜維がこの大勝のために深入りしようとしたが、張翼は「せっかくの大勝に傷がつく。蛇足である」と諫めたが聞き入られなかった。
かくして、姜維らはさらに侵攻するも魏の征西将軍・陳泰の前に大敗を喫した。
この敗戦を機に姜維は張翼を疎んじるようになったが、能力を認めていたため引き連れていた。
張翼もまた快く思っていなかったが、自らの性格ゆえに渋々従っていた。

259年、左車騎将軍に昇任し冀州刺史となった。
263年、魏の侵攻に対して廖化・董厥と共に前線へ救援に向かった。
途中で姜維らと合流して剣閣を死守したが、別働隊・艾によって蜀が降伏したことを知って鍾会に帰順した。
その後、鍾会や姜維と共に成都へ向かう。
264年、鍾会の乱に巻き込まれて魏の兵士に斬られた。

とまぁ、こんな経歴の持ち主。
蜀の晩年三将の一人、張翼です。
・・・ちなみに他は姜維と廖化ですね。
根っからの厳格主義と言うことで、あまり人望は得られなかったかもしれませんね。
また、姜維とも晩年は不仲になったようで。
それも、おたがいが国の事を思ったゆえの事だとは思いますが。
魏に帰順した後は和解したと信じたい。

しかし、冒頭の方の劉備に召しだされたのと孝廉に推挙された所の前後が分かりません。
吉川三国志では劉璋に仕えていたみたいですが、正史でも仕えていたんですかね^^;
2つのサイトを参考にしていたのですが、1つには劉璋の名前すらなかったですね。
劉璋に仕えた時に孝廉、その後に劉備に仕えて書佐になったのならつじつまが合いますが、何故かどちらも孝廉のほうが後。
どういう事なんだ?
私には分かりかねます。
ま、報われない蜀将シリーズ2人目でした。
では、この辺で。

人物評・王平

そろそろね・・・あれだよ。
歴史カテゴリ充実させろと(随分前から)言われかねなかったのでそろそろ1本やりますか。
今回は蜀軍第2グループの頭とも言うべき王平で。
例のごとくウィキペディアからひっぱってきますか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%B9%B3

王平(?−248)
字は子均。巴西郡宕渠県の人。
母方の姓を何氏といい、何平と称していた時期もある。
初め魏の配下として登場する。
219年、魏と劉備軍の漢中攻防戦において徐晃と仲違いして劉備軍に降った。
以後、牙門将軍として蜀に仕える。
228年、丞相・諸葛亮の第一次北伐に際してこれに従軍する。
諸葛亮は弟子の馬謖を主将、王平を副将として要衝の街亭を守らせた。
主将の馬謖が山上に陣を敷く事に反対するが、容れられなかった。
結果、魏の張郃の前に大敗して敗走。
だが、王平はその部下千人ほどを整然として率いて張郃に伏兵あると思わせて退却させた。
その後、残存兵をまとめたため全滅に至ることはなかった。
この功によって主将の馬謖は処刑されるも王平は討寇将軍に進んだ。
諸葛亮死後には後典軍、安漢将軍と昇進を続けて、呉懿の副将として漢中に留まった。
この時、漢中太守も務める。
237年には呉懿に代わって漢中の総指揮官も務める。
243年、王平は鎮北将軍に昇進した。
244年、魏の曹爽が十万を率いて漢中に攻めてきた時、漢中には三万の兵しかいなかった。
諸将は退いて迎撃すべきだ、とするも王平は興勢山に武将を篭らせて自らは遊撃する作戦を取った。
援軍を見越しての作戦であり、費禕の援軍が駆けつけてきた時に曹爽の軍勢は退却した。
248年、病没して子の王訓が跡を継いだ。

〜王平の性格・才能〜
王平は陣中で育ったため、文字を十ほどしか知らなかった。
しかし、「史記」や「漢書」を人に読ませて後に論ずると本質から外れる事はなかった。
法律や規律を守り、冗談の類は一切言わず、一日中きちんと座っていたため武将と言う感じがしなかった。
欠点は疑い深く軽はずみがある所だった。

功績では東の芝・南の馬忠と共に称される。
また、蜀の大将軍について「先に王・句(王平・句扶)あり、後に張・廖(張翼・廖化)あり」と言われていた。

とまぁ、これで書き終わりです。
蜀、虐げられし名将シリーズその1(笑)
実際、諸葛亮死後の蜀陣営では軍略才能トップクラスは間違いないですね。
漢中を任される辺りがそれを物語っています。
生年は分かりませんが219年に20〜30だったとしたら248年には約50〜60くらいでしょうか。
この時代ではこのくらいが妥当な所ですね・・・。
むしろ、廖化などの80前後まで生きた武将が凄いというかなんというか。
だが、姜維が軍権を握る時に生きていたらどうだっただろうか・・・。
王平の方に軍部はつくような気もしますが。
ともかく王平は演義のような地味武将ではなくて、諸葛亮死後の対魏戦線の司令官クラスの人間であったと。
やはり、低評価が目立ちますからね。
王平・張嶷・馬忠・芝・張翼・廖化・李厳あたりはもうちっとプラス補正があっても良いのではないかと思う。
ま、演義路線では仕方ないです罠。
では、この辺にしますか。
次は多分、張翼かな?
それでは〜ノシ

人物評・朱儁

では、皇甫嵩の相方と言うべき人の人物評。
後漢末期の二傑と言ったらこの方たちでFAでしょう。
では、例のリンク。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%84%81
ウィキペディアより引用。
では、行きましょう。

朱儁(?〜195)
字は公偉。会稽郡の人。
若い頃より智勇に優れた。
はじめ尹端の主簿となったのち、徐珪から孝廉に推挙されて蘭陵県令となる。
178年に反乱の起きたので交趾刺史となって梁龍を斬って乱を平定した。
これにより千五百戸の都亭侯に封じられ、諫議大夫となった。

184年、黄巾の乱が起きると右中郎将に任命され、左中郎将・皇甫嵩と共に討伐に当たった。
潁川において賊将・波才と戦って大敗したため、皇甫嵩と共に長社において篭城した。
そして皇甫嵩の策に乗っ取って夜陰にまぎれて火で攻めて大勝した。
大勝を収めて勢いに乗った朱儁らは汝南・陳国に向かって陽灌の波才、西華の彭脱を共に破った。
さらには東郡に向かって倉亭の卜巳を破った。
この際に西郷侯、鎮賊中郎将に任ぜられた。

皇甫嵩が盧植・董卓の後を継いで冀州に向かったため、朱儁は手勢を率いて南陽の宛城を包囲した。
南陽太守・秦頡と合流しても物量的に不利だったためにはじめ補給線を断って膠着した。
が、朝廷で司令官更迭のいざこざを伝え聞いたので、一転して攻略に取り掛かった。
一戦して頭目・趙弘を討ったが黄巾は韓忠を立てて抵抗を続けたので、二方面から攻める作戦により落城させた。
その後も孫夏を討つなどして乱を平定させた。
その功績によりに右車騎将軍、光禄太夫、銭塘侯に封じられ、食邑五千を与えられた。

一旦、母の喪に服して職を辞任したが、再び召されて将作大匠、少府、太僕と歴任した。
黒山賊の張燕が洛陽を脅かすと河内太守となって賊を撃退した。
そのために光禄太夫に任命され、城門校尉、河南尹に転任した。
董卓が専横するようになると、それに対抗した。また遷都にも反対した。
董卓らが長安に遷都すると朱儁は洛陽にて連合軍に内応を約束するが、董卓の勢いを避けて荊州に出奔した。

後に兵を率いて洛陽から董卓討伐軍を起こすも李カクと郭椶頬匹れた。
李カクらが長安を支配すると、賈詡の策で召し出され太僕となった。
193年、太尉となった。194年には驃騎将軍となった。
李カクらが互いに争うようになると大司農となって和睦を図るも郭椶某夕舛砲気譴燭燭瓩吠飴爐靴拭

相変わらず長くなりました^^
後漢末期ナンバー2の朱儁です。
皇甫嵩に比べれば劣りますが、皇甫嵩よりは朝廷に対する忠誠心が大きかったような感じです。
とりあえずは連合軍に内応したり董卓の討伐をしてみたりと色々やってます。
最後には朝廷の為に奔走するも甲斐なく終わります。
その後に曹操軍で庇護された献帝を見たらどう思うんでしょうかね・・・。
では、これにて皇甫嵩・朱儁らの後漢タッグの人物評は終わりですかね。
また夜にでも会いましょう(・∀・)ノシ

人物評・皇甫嵩

今日、人物評二回目。
なぜかといえば、急にこの人物をやりたいと思ったから。
その人物とはタイトルにあるとおり皇甫義真その人。
まぁ、説明は後にして例のリンク。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%94%AB%E5%B5%A9
では、一気に参りましょうか。

皇甫嵩(?〜195)
字は義真。安定郡の人。
はじめ郎中、覇陵・臨汾の令となるが、父の喪の為に官を去る。
霊帝在位年間(167〜189)に召されて議郎、北地太守となる。

184年、黄巾の乱時に左中郎将となって黄巾討伐の将軍となる。
その時に党錮の禁を解くように進言し、霊帝もそれに従った。
討伐に当たって最初に右中郎将・朱儁と共に潁川に向かった。
長社において黄巾の賊に包囲されるが、火計によってこれを破った。
その後は勢いに乗じて潁川・汝南・陳国・東郡などを転戦して何れも勝利した。
北中朗将・盧植らが罷免されると翻ってその敵に当たる。
広宗に至って張梁と戦い、夜襲にてこれを討った。
また病死した張角の棺を暴いてその首を取った。
さらに曲陽に布陣した張宝を攻めてこれを討った。
これによって黄巾の乱は平定した。

皇甫嵩は乱を平定した功績で左車騎将軍、冀州牧、槐里侯に封ぜられ、八千戸の食邑を与えられた。
その前後に冀州信都令の閻忠が皇甫嵩の力を以って漢王朝に取って代わるべしと韓信の故事を使ってまで謀反を勧めた。
皇甫嵩は「朝廷に忠節を願うのみであって謀反を起こす気はない」と言って拒絶した。
閻忠は謀反を勧めたのが露見するのを恐れて逃亡したと言う。

西方の辺章の反乱の討伐に従事するも中常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑六千戸を取り上げれられて都郷侯に封じられた。
その後、賊の王国が陳倉を攻撃してきたため、これを討伐する。
その際に共に向かった董卓の提案とことごとく真逆の戦法で勝利したために董卓に恨まれた。
董卓が太師になった際に皇甫嵩が頭を下げなかったので董卓が催促すると謝罪したと言う。
董卓殺害後は征西将軍、車騎将軍、大尉に登りつめたが直後の195年に病没。
驃騎将軍の印綬を贈られた。

とまぁ、こんな感じで。
ちょっと長くなったな^^
黄巾の乱において一度も敗北しなかった将軍である。
この時点においては名声・実力共に当代髄一の将軍だったろう。
まさしく英雄と言うにふさわしき人物である。
が、晩年になると董卓勢力の元で少し安穏としてしまった感がある。

最終的評価としては忠節なる将軍としては他の追随を許さないが、野望があるかないか、という点では全く曹操などに及ばないだろう。
もし彼が野望を持ち、諸侯を従えていたら後に三国時代という時代は来なかったかもしれないと思う。
いや、本当に曹操に勝るとも劣らないくらいなのにもったいない事です。
しかし戦友の朱儁も同じ年に死んでしまうとは奇妙な間柄ですね。
これからもっと皇甫嵩らにも光が当たるようになってほしいですね^^
まぁ、三国志の「黄巾の乱」シナリオでいきなり皇甫嵩とかが最強の能力だったら黄巾軍でやる気しないけどねw

人物評・陳到

おkおk、久々の人物評行きますか。
今日は劉備軍初期という事で陳到。
例の通り、引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%88%B0
では、まとめて解説。

陳到(175〜?)
字は叔至。汝南郡の人。
孫乾と同時期(豫州刺史時代)に劉備軍に参加し、趙雲に次いで忠義・武勇を誇る人物とされる。
これほどの人物でありながら、演義には登場しない。
劉備が皇帝になると征西将軍・永安都督・亭侯に封じられた。
北伐時には李厳の配下として永安に駐留した。
楊戯の書いた「季漢輔臣賛」の辞には「征南将軍(趙雲)は重厚、征西将軍(陳到)は忠誠、当時の選り抜きの兵士を指揮し、猛将として勲功をあげた」とある。

とまぁ、これほどの事しか書けませんが(汗)

こうして見ると、没年は不明ですけど北伐年間には死亡したのではないでしょうか。
理由としては李厳が左遷された時に役目を李豊が継いだ事。
陳到が生きてれば、陳到が継いだのではないかと。
まぁ、憶測でしかありませんし、継いだのが李厳の子ですから妥当ではありますからね・・・。

しかし・・・趙雲に継ぐような人物なのにゲームではかなり微妙な能力の彼。
正史準拠が良いと思いますけど、そうすると曹操軍も強くなっちゃいますね^^;
三国志11はいいゲームにしてくださいよ、コーエーさん!!

追加。何か知らないけど、陳到で調べてみると三国志大戦が大量に出てくる。
三国志大戦の陳到はそんなに使えるんでしょうかね^^;

人物評・廖化

テンションが高いせいか、更新速度がおかしいw
よっしゃ、血が滾ってきたぜー!!
茅ヶ崎行ってきたぜー、じゃないのであしからず。

今日は廖化。廖淳。廖元倹。マイフェイバリットが一人。
こいつをやらずに誰をやる!!と思いついたのでいきなり次回予告廖化の人物評。
例の通りに廖化は↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E5%8C%96
・・・何だかウィキペディアともあろうものが情報が少ないな。
という事で、補足しながら説明しますか。
妄想・こじ付けも含まれてますので注意してくださいw
特に年齢の謎の所は完璧に妄想ですので、ご注意くださいwww

廖化(?〜264)
元の名は淳。字は元倹。襄陽郡の人。
演義では黄巾賊として登場し、関羽に従いながら蜀の武将として活躍する。
麦城で包囲された時は援軍を求めて包囲を突破するが、援軍を調達できなかった。
「吉川三国志」では司馬懿をあと一歩まで追い詰めるほどの働きを見せた。
蜀滅亡後の264年に死亡した。

代わって正史。
関羽の主簿として劉備軍に入る。大体、劉備が入蜀する前後だと予想される。
関羽が呉に捕まった時には呉に投降するも、死を偽って蜀に走った。
途中で劉備の呉遠征軍と出くわし、別督として夷陵の戦いに参加する。
この前後に廖化と名前を変えたのではないか、と言われている。
劉備死後は蜀の元で丞相参軍、右車騎将軍などに就いた。
官位は張翼と同等で宗預よりも上だった。
また姜維の北伐には難色を示し、艾の能力を正しく評価していた。
263年に蜀が滅亡すると、降伏。
鍾会の反乱をも生き延びるが洛陽へ連行される途中で病没した。

〜廖化の年齢の謎〜
演義の廖化は黄巾賊という所から始まっている。
演義の内容から見るに演義では165〜170年が生年と考えるのが妥当である。
だが、すると没年は264年であるので90台まで生きたことになる。
三国志修覆匹任錬横僑廓時に94歳とある。
演義に従った結果であろう。

一方、正史を見ると黄巾賊だったという記述はない。
それどころかいきなり関羽の主簿として始まる。
この頃、おそらく215年前後と思われるので演義準拠だとすでに40台後半である。
演義の黄忠には及ばないものの若かった20年間をどう暮らしてきたのだろうか。

この違和感を解消する史料が正史にはあった。
廖化の伝が付されている宗預伝である。
『我々は歳七十を越えて身に余る位階を受けているというのにどうして年下に媚び諂いに行かなければならないのだ』
これは景耀元年、つまり258年の記述である。
「七十を越えて」とある。
宗預自体も生年ははっきりしないがこう言うからには258年時には70台なのだろう。
これを見るに、多少廖化の方が年齢が上であるかもしれないが70台、最高でも80ちょっとすぎくらいにはなると予想される。
逆算してみると生年は180〜185くらいと言うのが妥当だろうか。
主簿であった時代では25〜30歳くらいで大体良い感じではないだろうか。
180年生まれだとしても死亡時には83歳。これなら異常なほどの高齢ではないだろう。
官位が同等の張翼も建安(196〜219)の末年に孝廉に推挙された、という事は190年前後くらいと予想、つまり廖化・張翼・宗預はかなり近い年齢なんじゃないだろうか。

ちなみに三国志擦任廖化の生年は修茲蠅困辰噺紊任△襦
ゲームによって生年が変わる廖化は何を思っているのかは本人にしか分からない事だろう。
以上で、廖化に対する考察を終わりにする。

続いて感想。
私としては黄巾の頃から戦ってた方が盛り上がりますけどねぇ。
羅貫中もそれを狙ったんじゃないか、と。
何はともあれ、第二線級の実力はあります。
マイフェイバリット・廖化の年齢の考察はこれからも諸所で行われていく事でしょう。
では、この辺で人物評を終わりにしますね。

人物評・孟宗

そろそろ二回目と行きますか。
今回の人物評も三国志醜粁本の疑問からである。
何故に孟宗なる人物の義理が最高の15なのかと言う所から。

さてさて、困った事にはウィキペディアに孟宗の記述がないという事。
彼は三国時代末期、しかも呉の武将でありますから知名度が全くないという有様。
で、今こそ我が力の見せ所だろう、と。
見事に編纂して内容をまとめてみたいと思う。

孟宗(?〜271)
字は恭武。江夏郡の人。
孟宗と名乗っていたが呉軍4代皇帝・孫元宗(孫晧)と字が重なってしまったため、孟仁と改める。
孟宗の母は賢母である。
はじめ朱拠の元で小役人をやっており、孟宗が自分の不甲斐なさで雨漏りがするような兵舎にいる事を嘆くと、孟宗の母は「ひたすら仕事に励むべきであって何を嘆く事がありますか」と励ましたと言う。
また、孟宗自身も孝行息子として知られる。
呉県の県令になった時に季節の物が手に入ったならば、まず母の元へ送り先に食べる事はなかったという。
孟宗で一番有名なエピソードは「孟宗竹」である。
先述の孟宗の母が病気にかかった時、その母が「筍を食べたい」と言ったらしい。
だが、その季節は冬でありとても筍など手に入りようがなかった。
それでも孟宗は母の為に竹林に入って探し続けていると何と筍が雪の中に生えてきた。
孟宗はそれを掘り返して母に食べさせる事ができたと言う。
世の人はそれを聞いてその竹を孟宗竹と呼ぶようになった。
237年、母が死亡すると喪に服する事を禁止する法令を破って喪に服した。
本来、この法令を破った場合は死刑であった。
孟宗は葬儀が終わった後に都へ出頭したが、陸遜や顧雍らのとりなしによって罪一等を減じられたと言う。
その後は、特に失脚することもなく孫権から孫晧までの4代に仕えて司空にまで登りつめた。
国家の行く末を案じながら271年に死去した。

これにてまとめは終わり。
最終的な評を論ずると、三国時代でもずば抜けるほどの孝行息子であったと言う事。
そこら辺が義理の高い理由だろう。
政治関連の記述ではなくそちらのエピソードが目立つと言う事は、表舞台ではそこまで活躍しなかったと言う事かな?
とはいえ、司空にまで就いたあたりは他の武将よりは優れていると言う事であろうか。
それが示す事は末期の呉にはそこまで活躍した武将自体が少なかったと言う事か。
まぁ、孫晧に諫言した者は処刑か追放が常であったから、仕方ないと言えば仕方ないか。
結局、蜀も滅びて1対1になってしまった状況で呉が勝利する事はありえなかったのだろう。

まぁ、こんな所で人物評糸冬。
さすがにヤフーで資料をかき集めるのは苦労しましたw
見る人が見れば参考元がどこか分かるかもしれませんが、文章自体は独自に作ったつもり。
では、また夜に日記の時にでも会いましょう(゚Д゚)ノシ

人物評・田豫

何つーか、その・・・あれです!!
グーグルで検索に掛かるようになってました!!
うっひょーう、これは大事件だぜ!
とはいえ、このブログ名自体が普通検索しないような名前。
普通はここにたどり着かない罠。
ちなみにヤフーではまだでした。残念。

という訳で、テンション上がったついでにネタ。
人物評・田豫。
またまたこちら参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%B1%AB
今や恒例のウィキペディアからの引用。
しかし、前に書いた奴のも直リンに直した方がいいですかね。
今思えば、あまり直リンはよろしくないような気もしてきた・・・。
・・・まぁ、いいか。

で、人物評。
詳しくない人はコーエーの三国志の攻略本を見て絶対気になるはず。
むしろ、私も当初気になっていました。
何故か劉備と田豫なる人物の相性が同じだと言うことを!!
ちなみに田豫は三国志辞書にも登録されてないほどのマイナーぶりを発揮する武将である。
実は適当ではなく相性が同じなのには意味があった。
田豫はコーエーのゲームでは魏でしか登場しない武将だが、実は最初は劉備に仕えていた。
では、まとめていこうと思う。

田豫{?〜?(享年82)}
字は国譲。漁陽郡の人。
はじめ劉備に仕えてその公平清廉な人柄で信任を得る。
が、母が病に臥したために故郷に引き上げた。
その後、公孫瓚を経て最終的に曹操に仕える。
豫州の郡太守となり、善政を敷く。
北方の鮮卑・匈奴の対応にも活躍した。
金銭は常に国庫に寄付したために窮乏したが、その生活を大変評価される。
晩年は司馬懿にも才能を評価されたと言う。

と、こんな歴史の持ち主。
地味ではあるが、大変優れた才能の持ち主だと言える。
田豫がそのまま劉備についていれば、どうなっただろうか・・・。
場所は違えど活躍することは間違いないと思う。
劉備と接点を持ちながら縁がなかった名将というと田豫・陳登とこの2人が双璧をなすのではないか、と思う次第である。
・・・そういえば、太史慈とも面識があるんだったか。
陳羣も最初は劉備に仕えてたし。
諸国を回ってるから色々な武将と会ってる劉備たち。
当に演義などの物語で主役になる資質は十分だったと言う事ですね。

と言う所で、今回の人物評はおしまいです。
何だか途中から劉備に変わってますけどw
ちなみにこの田豫ネタは当時の清流派でやってもらいたいな〜とか思ってたんですけどね・・・。
まさか、自分で扱うことになるとはwww
では、また夜にでもご覧下され(・∀・)ノシ

人物評・趙雲

どうも・・・ついさっき起きました(´-ω-`)ネムヒ
休みに入って2日で夜行性になる私。
・・・ある意味凄いかも。
そういえば、ブログのデザインでディープインパクトがあったんですよ。
なんとなく心が引かれる今日この頃。
まぁ、そうころころデザインなんて変えられません罠。
では、そろそろ真面目企画行きますか。
タイトル通り三国志から我がフェイバリットの1人、常山の趙子龍でも。
例のごとくウィキペディアから参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2

今回は自分でまとめることも出来そうですかね。
趙雲(?〜229)
劉備軍の武将。演義では五虎将軍の1人。
最終的に鎮東将軍。諡は順平侯。
誠実にして厳格。また欠点が見当たらない貴重な武将。
公孫瓚→袁紹と渡って最後には劉備に参じた。
208年、長坂にて劉禅と甘夫人を守護した。
また荊州平定に参加し桂陽太守に任ぜられる。
213年、諸葛亮の入蜀第二陣に従って蜀に入る。のち蜀平定。
221年、劉備に呉の討伐を中止するように諫めるが聞き入れられず。
227年以降は諸葛亮の北伐に参加している。
229年、病没し、長子の趙統が跡を継いだ。

まぁ、正史にしてみればこれくらいしか記述がないんですけどね。
今さらながらに羅貫中はよく演義をまとめて作ったものだと感心しますね。
武人としての派手さで言えば、関羽や張飛の方が幾分か上ですが、私はやっぱり趙雲ですね。
何せ欠点が記述されていないとか、相当に高水準でまとまってますよね。
五虎将の中では最後まで生きていたこともあって格好良いですね。
しかし正史とはいえ、袁紹の下に来た劉備に馳せ参じるなんて普通じゃ出来ませんよ。あの状況下で。
正に「事実は小説より奇なり」という所でしょうか。

で、何故私が趙雲を好きか、とか興味ないだろうとは思いますが書きます。
私としては
・高水準(完璧)
・受け継がれる志(例:諸葛亮→姜維、ソクラテス→プラトン→アリストテレス)
・最後の○○(例:最後の五虎将・趙雲)
の3つのどれかに該当してればかなり興味がいきますね。
だから陸抗とかも好きだし曹操も好きだし孫家三代も好きなんですよね。
・・・孫権とそれ以降はあんまりですけど。

まぁ、こんな所ですかね。
久々に真面目なのをやると勝手が分からないw
では、今回は失礼します(・∀・)ノシ
面倒なんでここに追記。続きを読む

人物評・伊藤博文

どうも、牛めし食べて(`・ω・´)シャキーンな管理人・近衛です。
今回は時間もたっぷりあるし、日記以外のネタを書く好機です。
で、今回取り扱うのはタイトルにあるように伊藤博文。
真面目なネタをそろそろ導入せねば、と思い
丁度テストも明治時代だったので時宜にかなっているだろうとの考えです。
では、例の通りウィキペディアから伊藤博文↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

詳しくないですけど簡単に説明していきますか。
伊藤博文(1841〜1909)
博文の前の名前は俊輔。初代内閣総理大臣。
松下村塾で高杉晋作らと共に学び、その高杉に従う。
年齢的に言っても、高杉晋作・木戸孝允らの後輩に当たるだろうか。
長州藩において尊王攘夷運動を展開し、ついに徳川幕府を打倒。
この時はまだあまり有名ではなかった。
明治政府において要職を歴任、岩倉・大久保派に属していたため、
大久保死後に内務卿を継承する。
その後、憲法制定の為にヨーロッパ(特にドイツ)に学び、
絶対君主制の大日本帝国憲法の制定に携わる。
85年に内閣制度が創設、初代内閣総理大臣となる。
また、1900年に立憲政友会総裁となる。
日露対立には不戦論を展開、日露協商を提唱する。日英同盟には反対派であった。
その後に元老となる。
晩年においては初代韓国総監に就任するが、韓国併合には反対であった。
そして09年10月、安重根によって暗殺された。享年68歳。

まぁ、人によっては評価が分かれる人物だと思います。
ともあれ、明治政府では一番働いたのではなかろうか。
しかし政府の意見がことごとく自分の反対側にあるとは何とも皮肉なものです。
もし暗殺されていなかったとしたら韓国併合は遅くなっていたでしょうか。
唯一、韓国併合については意見が同じです。
というのも、後の世の人間の意見ですからあてにはなりませんが・・・。
こっちの方が良かった、という考えでの意見の一致ですからね。

そういえば、彼は女好きらしいですね。
ウィキペディアの方に今の人間には特に為にもならない事が載っております。
む〜・・・いまいちこの時代の人間では評価のノリが悪い。
結果的には欧米列強にも屈さずに良くやったのではないかと。
後の世界大戦を見たらどんな考えを抱くのか、とかの興味はあるんですけどね〜。
こんな所で、伊藤博文についての評価終了!
なれない時代の人だときついですな〜。
やはり、三国時代が一番性にあってるのかも(´・ω・`)

人物評・立花宗茂

少しは真面目なネタも扱わないと呆れられると思うので、
未だに未知の領域たる戦国から人物評。
今日のチョイスは立花宗茂。
高橋紹運の実子にして「雷神」立花道雪の養子。
また、その娘・闇千代の夫。
まさに戦国のサラブレッド。
詳しくは↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82

というか、私もこれを見ての人物評ですから(・∀・;)
幼少の頃から判断力に優れた人物のようですね。
名将の子として育ったせいか、非常に優秀すぎます。
こんなに欠点が見当たらない将もほとんどいないでしょう。
三国志で言えば、陸遜レベルに相当するんじゃないかってくらいです。

他人からの呼ばれ方についてまとめてみる。
ちょっと分かりやすいように改変。
「義を専ら一に、忠誠無二の者」(大友宗麟)
「その忠義・剛勇、鎮西一」(豊臣秀吉)
「九州の逸物」(豊臣秀吉)
「東に本多忠勝、西に立花宗茂」(豊臣秀吉)
「立花の3千は他家の1万」(小早川隆景)
「日本第一の勇将」(加藤清正)
本当に皆さん、褒めまくり。

軍法について語っているのも噛み砕いて書いてみる。
「特別な軍法はいらない。ひいきせず、慈悲を与え、法を守れば
 皆力戦して功を立ててくれるのだ」
「大将がただ采配を取っても従う者はいない。
 下の者を子の如く、また上の者を親の如く思えば下知せずとも動いてくれる」
・・・こんな考えの方はそうそうおりますまい。
また、親の仇だった島津に対しての態度も堂々たるものです。
「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とは武士としての尊厳からの言葉でしょう。

以上から立花宗茂は戦国の武士の代表としても良い位の逸材である事が伺えます。
これほどの逸材である割にはあまり名が売れてないのが残念ですね。
戦国は中央の君主ばかりが目立ってしまいますからね・・・。
とまぁ、これにて今回の人物評は糸冬...〆(・∀・ )と!
如水プレイで佐賀城とか任せたままだなぁ。
姫路に入ったことだし、オールスターでも結成してみようかな?
じゃ、また会いましょう(・∀・)ノシ

今日は姜維の命日。

早速、初日から色々書いていきたいと思います。
最初に言った割には日記じゃない内容になります。

で、今日は私の誕生日でもあるんですけど、
他にも特別な日でもあります。
タイトルにもある通り、今日は姜維の命日。

姜維を知らない人は↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD


上を参照していただければ詳しく分かるますが、
見るのが面倒という方用にちょっとまとめます。
姜維(202年〜264年)
三国時代末期の蜀漢の将軍。字は伯約。
最終的には大将軍まで登りつめた人。
249年から北伐をし続けて蜀疲弊の要因を作ったといわれる。
263年蜀滅亡後、鍾会をそそのかして魏に反乱するも失敗、殺害された。
『三国志演義』では趙雲の武、諸葛亮の智を持つ万能将軍として登場。
諸葛亮の後継者として描かれている。

とまぁ、こんな経歴の持ち主です。
かなり有名でかの『真・三国無双』シリーズにも皆勤してるので
記憶にある方も多くいるでしょう。
ちなみに管理人は三国時代の将で彼が一番好きですね。
判官びいきといえばそれまでですけど、いつまでも諦めない姿勢は感服します。
姜維の死んだ日に生まれた者としては彼の不屈の闘志を是非見習いたい。
いや、失敗する所まで真似したくないですけどね(・ω・`)
QRコード
QRコード
Profile

近衛@国士無双

ブログ立ち上げ日に18歳になった管理人・近衛または国士無双という者です。
このブログはまぁ色々適当な事を書きなぐるだけの場所です。
メルアドはphilosopher_konoe@hotmail.co.jp
何か問い合わせあればメール下さい。

Recent Comments
記事検索
Archives
Categories