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このブログは何をやっても中途半端な管理人が色々ぶちまけるブログです。 興味があるという奇特な方は是非ともご覧になってください。
ブログ整理完了。

歴史

これだからにわかは

今日はジェイソン無双当日ですね(挨拶
思うに、海外は物理的に殺してくるようなのが多いですが、日本は呪いとか精神的に殺してくるようなのが多いですよね。
そういう土壌というか、文化があるんでしょうね。

さて、記事紹介。
今どきの女子たちが萌えちゃう、一番人気の戦国武将は誰?

・・・タイトルで分かるよね。
まぁ、好きな武将って事だからとやかくは言わないけどさ。
政宗や幸村が好きな腐女子って本当ににわかだなって思う。
いやね、政宗が好きな理由として「いち早く海外に目を向ける先見の明」とか「野望ありきの生き様」とか挙げるならいいんだけどさぁ。
幸村は最期の漢らしい特攻があるから何ともいえないけど。

それにしても、家康の過ぎたるものである本多忠勝が0%て。
戦において傷を負ったことが無いという猛者だというに。
その他で気になったのは斎藤道三とか小早川秀秋とか。
こいつら好きになるようなスイーツ(笑)っているんだな。びっくり。
斎藤道三とか宇喜多直家が好きな女子はちょっと面白いな。
松永久秀好きとは友達になってみたい。

ただ、黒田孝高とか蒲生氏郷が出ないとかありえん(笑)
こいつらがいない戦国に価値なんてなさすぐるでしょう?
有名武将しか挙げられないスイーツ(笑)がにわかなのは確定的に明らか。
可児才蔵とか佐竹義重とかも挙げるべきだろ・・・jk・・・。

では、この辺でノシ

野望高く持つべし・黒田如水

その時歴史は動いたの如水編を見てちと涙腺が緩みました^^;
やはり戦国時代に如水ほど私の趣味に合う人物はいない。
三国志では姜維だが。
共通するのはどちらも途方もない野望を抱きつつ失敗してる所か。
そんな訳で、神速で歴史カテゴリ「黒田如水」を書くことにする。

黒田孝高(1546−1604)
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路にて生まれる。
永禄10年(1567年)ころに家督を継ぎ、櫛橋伊定の娘を正室に迎え、姫路城代となった。
天正元年(1573年)、播磨と小寺氏は畿内の織田家と山陰・山陽の毛利家に挟まれる。
そして天正3年(1575年)、毛利臣従に傾く家臣を尻目に織田臣従を説き、織田につく事になる。
天正6年(1578年)、三木城主の別所長治や摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こす。
このとき、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、交渉はうまくいかず逆に捕縛されて有岡城の土牢に押し込められた。
1年後、有岡城は落城し、孝高は救出されたが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となった。
そのため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うこととなった。

天正8年(1580年)には「姫路城は播州統治の適地である」として自らの居城を秀吉に提供し、自らは飾東郡の国府山城に移った。
天正9年(1581年)、因幡鳥取城を兵糧攻めに追い込んで落城させた。
天正10年(1582年)、毛利氏の名将・清水宗治が守る備中高松城攻めにおいて、巨大な堤防を築いて城を水攻めに追い込む。
ところがこの高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり、信長が横死した。
信長の死を知った孝高は秀吉に対して、「御運が開かれる機会が参りましたな」という大胆不敵な進言を行なったと言われている。
そして、毛利輝元との和睦を取りまとめて中国大返しを行なったのも、全て孝高の進言によるものであったと言われている。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加する。
天正13年(1585年)には四国征伐に参加した。
このとき、孝高は敵将・長宗我部元親の策略を見抜いて、次々と敵城を陥落させていった。
天正14年(1586年)には従五位下、勘解由次官に叙任する。
天正15年(1587年)、秀吉の九州征伐では毛利氏、宇喜多氏などの軍勢の戦目付を勤め、戦勝に貢献している。
そのため戦後、豊前中津において12万5000石を与えられた。
天正17年(1589年)、家督を嫡男の黒田長政に譲って隠居し、如水軒と号した。
しかしその後も秀吉の側近として仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、北条氏の小田原城に入って北条氏政・北条氏直父子を説得し、小田原城を無血開城させるという功績を立てた。
文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参加するが、文禄2年(1593年)に五奉行の石田三成との間に確執を生じ、秀吉の怒りを買ったために、如水円清と号して出家・引退した。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去した。如水は秀吉の死後、同年12月に上洛し、伏見屋敷に居住したという。

慶長5年(1600年)、五大老の徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東上すると、三成らが西軍を率いて挙兵し関ヶ原の戦いが起こった。
嫡男・長政は家康の養女を正室として迎えていたことから、黒田軍の主力を率いて東軍に与し、関ヶ原本戦で東軍として戦い、武功を挙げた。
それに対して如水は、九州で東軍として挙兵した。ところが兵力の大半は長政が率いて上方に出兵している。
そのため如水は領内の百姓などに支度金を与えて、兵としたのである。
その結果、1万人ほどの百姓による促成軍団が結成された。
如水はその兵力で9月9日(10月15日)、豊後に侵攻する。
如水は9月13日(10月19日)、石垣原において大友義統軍と衝突した。
黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
その後も如水は、西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、佐伯城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としてゆく。
この際の如水の行動は、九州を統一し、その兵力をもって上洛し、家康と決戦を挑んで天下を我が物にしようとの野望であったともいわれている。
関ヶ原後、長政は家康から勲功第一として筑前名島(福岡)52万3000石を与えられた。
そのため、如水も中津城から福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく、隠居生活を送った。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。享年59。

〜如水の関ヶ原裏計画〜
東西諸勢力が集結した関ヶ原の決戦が長期化すると見た如水は、東西両軍が対峙しているうちに空白地となった九州の占領計画を立てる。
すなわち、加藤清正を引き込んでの九州諸勢力の平定である。
史実上、決起した9月9日からわずか2ヶ月で島津以外の各勢力を撃破している。
そして九州を平定した暁には、山陰道を登って元領地たる播州を拠点に京や大坂を席巻、疲弊した関ヶ原の勝利者を新鋭たる自分の軍勢で叩き、最終的な勝利者になろうとする計画であった。
この計画が実行されていれば、さしもの家康ですら戦い抜けるか微妙な所である。

〜管理人・感想〜
やはり歴史において「if」の要素を持つ人物はそれだけで人気となりえる。
歴史にifは禁物というが、禁物な故に考えてしまうのが人間というもの。
それ故に黒田如水の夢の第三勢力計画は燃えるものがある。
コーエーは是非とも黒田如水のこの野望を達成できるようなゲームを作って欲しい。
というか、無双に「二兵衛」こと竹中半兵衛と黒田官兵衛出してくれと。
それぞれ諸葛亮・司馬懿風味になりそうではあるが^^;
それにしても、ブログを開設した当時と比べると格段に戦国時代の知識が深まっているように思える。
やはり三戦は混ざりやすいもので。
では、この辺でノシ

西軍

「もう終わりか。弱い敵将だった」
by石田三成・戦国無双2

敵味方の強さバランスを除いては無双でも傑作の呼び声高い戦国無双2から。
私はやはり三成・幸村・兼続の3人の「義」の生き方がどうしようもなく好きですね。
三成なんかは最初、人を物としか思ってないような考えだったのが最後には共にある仲間に変わってるから驚きです。
私も生き方は三成に感じるものがあるだけに、ちょっと感情移入してしまう次第。

今回はそんな三成の率いる西軍についてでも語ろうかな、と。
では、続きから。続きを読む

寝落ち

「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

・・・すんません、寝落ちして更新できませんでした。
昨日、飯食ってちょっと横になってたらいつの間にか2時になってまして^^;
そのまま寝ました。
結構、疲れが溜まってたんですかね。
で、上は昔聞いたなぁ、と思って調べたら見つけたもの。
不如帰よろしく、三成と家康も同じようなものがありますね。
島左近清興と本多平八郎忠勝がそれぞれ人物として挙げられてますね。
戦国を詠ったものは多いですけど、不如帰とかこれとか、あとは天下餅ですか。
「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食ふは徳川」
ですけど。

何故いきなり戦国かというと、昼の書店で「名将 佐竹義宣」を読んでいるからですが。
まだ関ヶ原前ですが、ウィキペディアを見たら結局煮え切らない事になってますね。
・・・本当に家康が一番味方にしたかったと言えるのかよ。
今の所、上杉が挙兵、三成が後ろから挟撃、佐竹が腹背を突くとかいう事になってますが・・・何とも。
こうなったら太閤垢悩潅櫃了屬魏未燭靴討澆襪。
目指せ常陸100万石大名。
と、その前に更新作業入りますかね。
では、この辺でノシ


名将 佐竹義宣

世界の偉人天才編

見てましたね。
実は放映前に書こうとしたんですけど、諸事情によりこの時間に。

結果ですが、
1位:アインシュタイン
2位:レオナルド・ダ・ヴィンチ
3位:エジソン
4位:諸葛亮
あたりは覚えてますね。

あとは信長が確か8位。
他にはライト兄弟・モーツァルト・ベートーベン・アイルトン=セナあたりでしたかね>ベスト10
個人的にはダ・ヴィンチが1位でエジソン2位だと思ってましたが、アインシュタインを忘れてましたね・・・。
それにしても諸葛亮が4位なのにはかなり驚きました。
信長ですら8位、曹操なんて90位ですよ?www
日本の孔明こと竹中半兵衛もさほどでは無かったですし。
やはり戦国時代でも知名度が高い人物は多少しかいないことの証明ですね。
それと、沖田総司が坂本竜馬のすぐ後ろにつけてたのはイメージ重視過ぎる気はしましたね。
それを考えると土方の低さに泣けます。
にしても、スポーツ選手が入ってると「何で入ってるの?」感が拭えないですね。
やはり根本的に受け付けないようです。

で、次は「歴史を変えた英雄編」だそうです。
こう言うからには武将重視なのは間違いないですね。
1位候補は世界を席巻したチンギスハン・アレクサンドロス・シーザー・ナポレオンとか。
日本人人気で信長・竜馬あたりかね。
個人的には秀吉や劉備も英雄には当てはまると思うが。
さて、どうなることやら。
では、この辺でノシ

蒼古なる雷

「天の風琴が奏で流れ落ちるその旋律、凄惨にして蒼古なる雷。ブルーティッシュボルト!!」
by・ヴァルキリープロファイル

ブルーティッシュボルトで敵を殲滅せん!!
とまぁ、管理人の近衛@フラッシュマジシャンです。

そういえば、9PKで趙雲の涯角槍を作ってみました。
武力+5で奮闘がつくのは青龍・蛇矛と同じ。
とはいえ、趙雲の場合、奮闘も持ってないのでかなりの強さになってます。
武力も100越して最強の部類に。
まぁ、州丕砲任蜀軍最強だからな。

そんな訳で、今日は蜀軍についてでも。
長くなりそうなので続きから。続きを読む

人物評・長宗我部元親

久々にやってきたこのカテゴリ。
87%この人物でできていると言うならば紹介せざるを得ないかと。
で、例の如くウィキペディアから引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA

最近は太閤垢笋蘋鏐駝義个里△譴發△辰瞳觜淑かるようになってきました。
略歴も立花宗茂と違って書いていきましょうか。
長宗我部元親(1539−1599)
土佐の人。長宗我部21代当主。
国親の嫡男。子に信親・盛親などがいる。
幼少の頃は色白で軟弱な性格から「姫若子」と呼ばれる。
だが、やがて才覚を表して「土佐の出来人」と呼ばれる。
22歳、長浜で初陣し、その数ヵ月後には家督を相続。
本山・安芸・津野などを次々と滅ぼし、1575年に渡川で一条兼定を破って土佐を統一した。
その後は四国統一に目を向け、織田信長と同盟。
四国の諸国は畿内の動きなどに翻弄され疲弊していたために、着々と勢力を延ばしていった。
信長はその動きを良しとせずに1582年に盟約を破棄するが、本能寺で横死。
その後は秀吉と対抗しつつ中富川にて十河存保を破る。
1585年には四国をほぼ統一するも直後に秀吉の四国征伐を受ける。
対抗するも敗戦を重ねて降伏。結局、土佐一国に戻されてしまう。
1586年、秀吉の命で信親と共に九州に進軍。大友の救援に向かう。
だが、戸次川において仙石秀久の無謀強行により敗北。
嫡男・信親が戦死するなど多大な被害を被った。
嫡男死亡による家督継承問題で4男の盛親を指名したために騒動がおきる。
1588年、居城を大高坂城に移す。
1590年、小田原に水軍を率いて参陣。
1591年、居城を浦戸城に移す。
1592年、朝鮮出兵に従軍。
1596年、サン=フェリペ号が領内に入り、キリスト教禁止のきっかけとなる。
その後、長宗我部元親百箇条を制定。
1599年、秀吉死後の騒動の中で死去。

とまぁ、こんな略歴です。
これはあれですね。仙石秀久の罪は重いと。
というか、やっぱり地方の武将ってのはかなり不利だったんでしょうね。
島津といい伊達といい長宗我部といい。
それ以前に関東の今川・武田・北条・上杉の諸侯ですら京に到達できなかったのですから、織田信長の凄さが分かると言うものです。
結局は京を制す事が出来た信長や秀吉が勝利を収め、関東で大きく力を蓄えた家康が最終的にのし上がったと。
結局は地方にとらわれていた諸侯より、全国を見た信長らが台頭するのは必然だったと。
それにしても、関ヶ原なんて1日で終わるなんてとんでもない東西大合戦だったんでしょうね。
ってか、その後の長宗我部を見るにしてもつくづく味方運がないですね。
ま、これも歴史を彩る上での運命だったと言う事でしょうか。
では、今回はこの辺で失礼しますね。

蜀滅亡の考察その1

帰ってきました。
今、かなり雷が鳴ってます。
雷怯子ではありませんが、雷は慣れないものですね・・・。

で、今回から歴史カテゴリ新シリーズ。
その名も「蜀滅亡の考察」シリーズであります。
ま、玄人的ではなく概略を掴んで初心者に分かりやすい書き方ができればいいなぁ、とか思います。
・・・地名とか人名とかは別にしてですけどね^^;
では、第一回、逝きますか。続きを読む

人物評・張翼

さて、今日は張翼の出番。
ゲーム中では王平と同じく第二線武将の感がある彼。
ともかく行ってみましょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E7%BF%BC

張翼(?−264)
字は伯恭。犍為郡武陽の人。
祖先を前漢三傑の一人、張良といわれる。
代々、漢の要職を歴任する名門だった。
劉備が益州を平定した時、召しだされて書佐となった。
建安の末年(建安期間は196〜219)に孝廉に推挙されて江陽県長となった(前後関係不明瞭)
その後は涪陵県令、梓潼太守、広漢・蜀郡太守などを歴任していった。

231年、諸葛亮にその性格を買われて綏南中郎将(所謂南蛮への抑えか)に任じられた。
だが、元からの厳格の法治主義で異民族を抑えたために劉冑の叛乱を引き起こした。
張翼がそれの迎撃のために準備をしていると、中央から召還の命令が下された。
職務がまっとう出来なかった為であろう。
しかし、張翼は「私に蛮族懐柔ができぬからと言って討伐の準備を捨ててまで謝罪に行こうとは思わない」と言って軍事の準備を続けた。
この為に後任の馬忠は劉冑の叛乱を抑えることが出来た。
諸葛亮はこの一連の流れを聞いて改めて張翼を評価したと言う。

諸葛亮が北伐に入ると、張翼は前軍都督に任じられ、扶風太守となった。
諸葛亮が陣没すると、前領軍に移り、劉冑討伐の功績により関内侯に封じられる。
238年、中央で尚書を務めた。
その後、督建威・仮節を加えられ、 征西将軍・都亭侯となった。
255年春、衛将軍姜維が夏に3度目となる狄道出兵を提案した。
これは前年254年に姜維が狄道から出て多少の成果を挙げられた為であった。
これに、張翼はただ一人「何度も軍事行動を起こしては民が疲弊するだけだ」として反対したが、出陣が決定された。
この時、鎮南大将軍に任じられた。
姜維らは洮水に出でて魏の雍州刺史・王経を相手に大勝した。
姜維がこの大勝のために深入りしようとしたが、張翼は「せっかくの大勝に傷がつく。蛇足である」と諫めたが聞き入られなかった。
かくして、姜維らはさらに侵攻するも魏の征西将軍・陳泰の前に大敗を喫した。
この敗戦を機に姜維は張翼を疎んじるようになったが、能力を認めていたため引き連れていた。
張翼もまた快く思っていなかったが、自らの性格ゆえに渋々従っていた。

259年、左車騎将軍に昇任し冀州刺史となった。
263年、魏の侵攻に対して廖化・董厥と共に前線へ救援に向かった。
途中で姜維らと合流して剣閣を死守したが、別働隊・艾によって蜀が降伏したことを知って鍾会に帰順した。
その後、鍾会や姜維と共に成都へ向かう。
264年、鍾会の乱に巻き込まれて魏の兵士に斬られた。

とまぁ、こんな経歴の持ち主。
蜀の晩年三将の一人、張翼です。
・・・ちなみに他は姜維と廖化ですね。
根っからの厳格主義と言うことで、あまり人望は得られなかったかもしれませんね。
また、姜維とも晩年は不仲になったようで。
それも、おたがいが国の事を思ったゆえの事だとは思いますが。
魏に帰順した後は和解したと信じたい。

しかし、冒頭の方の劉備に召しだされたのと孝廉に推挙された所の前後が分かりません。
吉川三国志では劉璋に仕えていたみたいですが、正史でも仕えていたんですかね^^;
2つのサイトを参考にしていたのですが、1つには劉璋の名前すらなかったですね。
劉璋に仕えた時に孝廉、その後に劉備に仕えて書佐になったのならつじつまが合いますが、何故かどちらも孝廉のほうが後。
どういう事なんだ?
私には分かりかねます。
ま、報われない蜀将シリーズ2人目でした。
では、この辺で。

人物評・王平

そろそろね・・・あれだよ。
歴史カテゴリ充実させろと(随分前から)言われかねなかったのでそろそろ1本やりますか。
今回は蜀軍第2グループの頭とも言うべき王平で。
例のごとくウィキペディアからひっぱってきますか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%B9%B3

王平(?−248)
字は子均。巴西郡宕渠県の人。
母方の姓を何氏といい、何平と称していた時期もある。
初め魏の配下として登場する。
219年、魏と劉備軍の漢中攻防戦において徐晃と仲違いして劉備軍に降った。
以後、牙門将軍として蜀に仕える。
228年、丞相・諸葛亮の第一次北伐に際してこれに従軍する。
諸葛亮は弟子の馬謖を主将、王平を副将として要衝の街亭を守らせた。
主将の馬謖が山上に陣を敷く事に反対するが、容れられなかった。
結果、魏の張郃の前に大敗して敗走。
だが、王平はその部下千人ほどを整然として率いて張郃に伏兵あると思わせて退却させた。
その後、残存兵をまとめたため全滅に至ることはなかった。
この功によって主将の馬謖は処刑されるも王平は討寇将軍に進んだ。
諸葛亮死後には後典軍、安漢将軍と昇進を続けて、呉懿の副将として漢中に留まった。
この時、漢中太守も務める。
237年には呉懿に代わって漢中の総指揮官も務める。
243年、王平は鎮北将軍に昇進した。
244年、魏の曹爽が十万を率いて漢中に攻めてきた時、漢中には三万の兵しかいなかった。
諸将は退いて迎撃すべきだ、とするも王平は興勢山に武将を篭らせて自らは遊撃する作戦を取った。
援軍を見越しての作戦であり、費禕の援軍が駆けつけてきた時に曹爽の軍勢は退却した。
248年、病没して子の王訓が跡を継いだ。

〜王平の性格・才能〜
王平は陣中で育ったため、文字を十ほどしか知らなかった。
しかし、「史記」や「漢書」を人に読ませて後に論ずると本質から外れる事はなかった。
法律や規律を守り、冗談の類は一切言わず、一日中きちんと座っていたため武将と言う感じがしなかった。
欠点は疑い深く軽はずみがある所だった。

功績では東の芝・南の馬忠と共に称される。
また、蜀の大将軍について「先に王・句(王平・句扶)あり、後に張・廖(張翼・廖化)あり」と言われていた。

とまぁ、これで書き終わりです。
蜀、虐げられし名将シリーズその1(笑)
実際、諸葛亮死後の蜀陣営では軍略才能トップクラスは間違いないですね。
漢中を任される辺りがそれを物語っています。
生年は分かりませんが219年に20〜30だったとしたら248年には約50〜60くらいでしょうか。
この時代ではこのくらいが妥当な所ですね・・・。
むしろ、廖化などの80前後まで生きた武将が凄いというかなんというか。
だが、姜維が軍権を握る時に生きていたらどうだっただろうか・・・。
王平の方に軍部はつくような気もしますが。
ともかく王平は演義のような地味武将ではなくて、諸葛亮死後の対魏戦線の司令官クラスの人間であったと。
やはり、低評価が目立ちますからね。
王平・張嶷・馬忠・芝・張翼・廖化・李厳あたりはもうちっとプラス補正があっても良いのではないかと思う。
ま、演義路線では仕方ないです罠。
では、この辺にしますか。
次は多分、張翼かな?
それでは〜ノシ

人物評・朱儁

では、皇甫嵩の相方と言うべき人の人物評。
後漢末期の二傑と言ったらこの方たちでFAでしょう。
では、例のリンク。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%84%81
ウィキペディアより引用。
では、行きましょう。

朱儁(?〜195)
字は公偉。会稽郡の人。
若い頃より智勇に優れた。
はじめ尹端の主簿となったのち、徐珪から孝廉に推挙されて蘭陵県令となる。
178年に反乱の起きたので交趾刺史となって梁龍を斬って乱を平定した。
これにより千五百戸の都亭侯に封じられ、諫議大夫となった。

184年、黄巾の乱が起きると右中郎将に任命され、左中郎将・皇甫嵩と共に討伐に当たった。
潁川において賊将・波才と戦って大敗したため、皇甫嵩と共に長社において篭城した。
そして皇甫嵩の策に乗っ取って夜陰にまぎれて火で攻めて大勝した。
大勝を収めて勢いに乗った朱儁らは汝南・陳国に向かって陽灌の波才、西華の彭脱を共に破った。
さらには東郡に向かって倉亭の卜巳を破った。
この際に西郷侯、鎮賊中郎将に任ぜられた。

皇甫嵩が盧植・董卓の後を継いで冀州に向かったため、朱儁は手勢を率いて南陽の宛城を包囲した。
南陽太守・秦頡と合流しても物量的に不利だったためにはじめ補給線を断って膠着した。
が、朝廷で司令官更迭のいざこざを伝え聞いたので、一転して攻略に取り掛かった。
一戦して頭目・趙弘を討ったが黄巾は韓忠を立てて抵抗を続けたので、二方面から攻める作戦により落城させた。
その後も孫夏を討つなどして乱を平定させた。
その功績によりに右車騎将軍、光禄太夫、銭塘侯に封じられ、食邑五千を与えられた。

一旦、母の喪に服して職を辞任したが、再び召されて将作大匠、少府、太僕と歴任した。
黒山賊の張燕が洛陽を脅かすと河内太守となって賊を撃退した。
そのために光禄太夫に任命され、城門校尉、河南尹に転任した。
董卓が専横するようになると、それに対抗した。また遷都にも反対した。
董卓らが長安に遷都すると朱儁は洛陽にて連合軍に内応を約束するが、董卓の勢いを避けて荊州に出奔した。

後に兵を率いて洛陽から董卓討伐軍を起こすも李カクと郭椶頬匹れた。
李カクらが長安を支配すると、賈詡の策で召し出され太僕となった。
193年、太尉となった。194年には驃騎将軍となった。
李カクらが互いに争うようになると大司農となって和睦を図るも郭椶某夕舛砲気譴燭燭瓩吠飴爐靴拭

相変わらず長くなりました^^
後漢末期ナンバー2の朱儁です。
皇甫嵩に比べれば劣りますが、皇甫嵩よりは朝廷に対する忠誠心が大きかったような感じです。
とりあえずは連合軍に内応したり董卓の討伐をしてみたりと色々やってます。
最後には朝廷の為に奔走するも甲斐なく終わります。
その後に曹操軍で庇護された献帝を見たらどう思うんでしょうかね・・・。
では、これにて皇甫嵩・朱儁らの後漢タッグの人物評は終わりですかね。
また夜にでも会いましょう(・∀・)ノシ

人物評・皇甫嵩

今日、人物評二回目。
なぜかといえば、急にこの人物をやりたいと思ったから。
その人物とはタイトルにあるとおり皇甫義真その人。
まぁ、説明は後にして例のリンク。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%94%AB%E5%B5%A9
では、一気に参りましょうか。

皇甫嵩(?〜195)
字は義真。安定郡の人。
はじめ郎中、覇陵・臨汾の令となるが、父の喪の為に官を去る。
霊帝在位年間(167〜189)に召されて議郎、北地太守となる。

184年、黄巾の乱時に左中郎将となって黄巾討伐の将軍となる。
その時に党錮の禁を解くように進言し、霊帝もそれに従った。
討伐に当たって最初に右中郎将・朱儁と共に潁川に向かった。
長社において黄巾の賊に包囲されるが、火計によってこれを破った。
その後は勢いに乗じて潁川・汝南・陳国・東郡などを転戦して何れも勝利した。
北中朗将・盧植らが罷免されると翻ってその敵に当たる。
広宗に至って張梁と戦い、夜襲にてこれを討った。
また病死した張角の棺を暴いてその首を取った。
さらに曲陽に布陣した張宝を攻めてこれを討った。
これによって黄巾の乱は平定した。

皇甫嵩は乱を平定した功績で左車騎将軍、冀州牧、槐里侯に封ぜられ、八千戸の食邑を与えられた。
その前後に冀州信都令の閻忠が皇甫嵩の力を以って漢王朝に取って代わるべしと韓信の故事を使ってまで謀反を勧めた。
皇甫嵩は「朝廷に忠節を願うのみであって謀反を起こす気はない」と言って拒絶した。
閻忠は謀反を勧めたのが露見するのを恐れて逃亡したと言う。

西方の辺章の反乱の討伐に従事するも中常侍に讒言され、左車騎将軍と食邑六千戸を取り上げれられて都郷侯に封じられた。
その後、賊の王国が陳倉を攻撃してきたため、これを討伐する。
その際に共に向かった董卓の提案とことごとく真逆の戦法で勝利したために董卓に恨まれた。
董卓が太師になった際に皇甫嵩が頭を下げなかったので董卓が催促すると謝罪したと言う。
董卓殺害後は征西将軍、車騎将軍、大尉に登りつめたが直後の195年に病没。
驃騎将軍の印綬を贈られた。

とまぁ、こんな感じで。
ちょっと長くなったな^^
黄巾の乱において一度も敗北しなかった将軍である。
この時点においては名声・実力共に当代髄一の将軍だったろう。
まさしく英雄と言うにふさわしき人物である。
が、晩年になると董卓勢力の元で少し安穏としてしまった感がある。

最終的評価としては忠節なる将軍としては他の追随を許さないが、野望があるかないか、という点では全く曹操などに及ばないだろう。
もし彼が野望を持ち、諸侯を従えていたら後に三国時代という時代は来なかったかもしれないと思う。
いや、本当に曹操に勝るとも劣らないくらいなのにもったいない事です。
しかし戦友の朱儁も同じ年に死んでしまうとは奇妙な間柄ですね。
これからもっと皇甫嵩らにも光が当たるようになってほしいですね^^
まぁ、三国志の「黄巾の乱」シナリオでいきなり皇甫嵩とかが最強の能力だったら黄巾軍でやる気しないけどねw

人物評・陳到

おkおk、久々の人物評行きますか。
今日は劉備軍初期という事で陳到。
例の通り、引用。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%88%B0
では、まとめて解説。

陳到(175〜?)
字は叔至。汝南郡の人。
孫乾と同時期(豫州刺史時代)に劉備軍に参加し、趙雲に次いで忠義・武勇を誇る人物とされる。
これほどの人物でありながら、演義には登場しない。
劉備が皇帝になると征西将軍・永安都督・亭侯に封じられた。
北伐時には李厳の配下として永安に駐留した。
楊戯の書いた「季漢輔臣賛」の辞には「征南将軍(趙雲)は重厚、征西将軍(陳到)は忠誠、当時の選り抜きの兵士を指揮し、猛将として勲功をあげた」とある。

とまぁ、これほどの事しか書けませんが(汗)

こうして見ると、没年は不明ですけど北伐年間には死亡したのではないでしょうか。
理由としては李厳が左遷された時に役目を李豊が継いだ事。
陳到が生きてれば、陳到が継いだのではないかと。
まぁ、憶測でしかありませんし、継いだのが李厳の子ですから妥当ではありますからね・・・。

しかし・・・趙雲に継ぐような人物なのにゲームではかなり微妙な能力の彼。
正史準拠が良いと思いますけど、そうすると曹操軍も強くなっちゃいますね^^;
三国志11はいいゲームにしてくださいよ、コーエーさん!!

追加。何か知らないけど、陳到で調べてみると三国志大戦が大量に出てくる。
三国志大戦の陳到はそんなに使えるんでしょうかね^^;

人物評・廖化

テンションが高いせいか、更新速度がおかしいw
よっしゃ、血が滾ってきたぜー!!
茅ヶ崎行ってきたぜー、じゃないのであしからず。

今日は廖化。廖淳。廖元倹。マイフェイバリットが一人。
こいつをやらずに誰をやる!!と思いついたのでいきなり次回予告廖化の人物評。
例の通りに廖化は↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E5%8C%96
・・・何だかウィキペディアともあろうものが情報が少ないな。
という事で、補足しながら説明しますか。
妄想・こじ付けも含まれてますので注意してくださいw
特に年齢の謎の所は完璧に妄想ですので、ご注意くださいwww

廖化(?〜264)
元の名は淳。字は元倹。襄陽郡の人。
演義では黄巾賊として登場し、関羽に従いながら蜀の武将として活躍する。
麦城で包囲された時は援軍を求めて包囲を突破するが、援軍を調達できなかった。
「吉川三国志」では司馬懿をあと一歩まで追い詰めるほどの働きを見せた。
蜀滅亡後の264年に死亡した。

代わって正史。
関羽の主簿として劉備軍に入る。大体、劉備が入蜀する前後だと予想される。
関羽が呉に捕まった時には呉に投降するも、死を偽って蜀に走った。
途中で劉備の呉遠征軍と出くわし、別督として夷陵の戦いに参加する。
この前後に廖化と名前を変えたのではないか、と言われている。
劉備死後は蜀の元で丞相参軍、右車騎将軍などに就いた。
官位は張翼と同等で宗預よりも上だった。
また姜維の北伐には難色を示し、艾の能力を正しく評価していた。
263年に蜀が滅亡すると、降伏。
鍾会の反乱をも生き延びるが洛陽へ連行される途中で病没した。

〜廖化の年齢の謎〜
演義の廖化は黄巾賊という所から始まっている。
演義の内容から見るに演義では165〜170年が生年と考えるのが妥当である。
だが、すると没年は264年であるので90台まで生きたことになる。
三国志修覆匹任錬横僑廓時に94歳とある。
演義に従った結果であろう。

一方、正史を見ると黄巾賊だったという記述はない。
それどころかいきなり関羽の主簿として始まる。
この頃、おそらく215年前後と思われるので演義準拠だとすでに40台後半である。
演義の黄忠には及ばないものの若かった20年間をどう暮らしてきたのだろうか。

この違和感を解消する史料が正史にはあった。
廖化の伝が付されている宗預伝である。
『我々は歳七十を越えて身に余る位階を受けているというのにどうして年下に媚び諂いに行かなければならないのだ』
これは景耀元年、つまり258年の記述である。
「七十を越えて」とある。
宗預自体も生年ははっきりしないがこう言うからには258年時には70台なのだろう。
これを見るに、多少廖化の方が年齢が上であるかもしれないが70台、最高でも80ちょっとすぎくらいにはなると予想される。
逆算してみると生年は180〜185くらいと言うのが妥当だろうか。
主簿であった時代では25〜30歳くらいで大体良い感じではないだろうか。
180年生まれだとしても死亡時には83歳。これなら異常なほどの高齢ではないだろう。
官位が同等の張翼も建安(196〜219)の末年に孝廉に推挙された、という事は190年前後くらいと予想、つまり廖化・張翼・宗預はかなり近い年齢なんじゃないだろうか。

ちなみに三国志擦任廖化の生年は修茲蠅困辰噺紊任△襦
ゲームによって生年が変わる廖化は何を思っているのかは本人にしか分からない事だろう。
以上で、廖化に対する考察を終わりにする。

続いて感想。
私としては黄巾の頃から戦ってた方が盛り上がりますけどねぇ。
羅貫中もそれを狙ったんじゃないか、と。
何はともあれ、第二線級の実力はあります。
マイフェイバリット・廖化の年齢の考察はこれからも諸所で行われていく事でしょう。
では、この辺で人物評を終わりにしますね。

人物評・孟宗

そろそろ二回目と行きますか。
今回の人物評も三国志醜粁本の疑問からである。
何故に孟宗なる人物の義理が最高の15なのかと言う所から。

さてさて、困った事にはウィキペディアに孟宗の記述がないという事。
彼は三国時代末期、しかも呉の武将でありますから知名度が全くないという有様。
で、今こそ我が力の見せ所だろう、と。
見事に編纂して内容をまとめてみたいと思う。

孟宗(?〜271)
字は恭武。江夏郡の人。
孟宗と名乗っていたが呉軍4代皇帝・孫元宗(孫晧)と字が重なってしまったため、孟仁と改める。
孟宗の母は賢母である。
はじめ朱拠の元で小役人をやっており、孟宗が自分の不甲斐なさで雨漏りがするような兵舎にいる事を嘆くと、孟宗の母は「ひたすら仕事に励むべきであって何を嘆く事がありますか」と励ましたと言う。
また、孟宗自身も孝行息子として知られる。
呉県の県令になった時に季節の物が手に入ったならば、まず母の元へ送り先に食べる事はなかったという。
孟宗で一番有名なエピソードは「孟宗竹」である。
先述の孟宗の母が病気にかかった時、その母が「筍を食べたい」と言ったらしい。
だが、その季節は冬でありとても筍など手に入りようがなかった。
それでも孟宗は母の為に竹林に入って探し続けていると何と筍が雪の中に生えてきた。
孟宗はそれを掘り返して母に食べさせる事ができたと言う。
世の人はそれを聞いてその竹を孟宗竹と呼ぶようになった。
237年、母が死亡すると喪に服する事を禁止する法令を破って喪に服した。
本来、この法令を破った場合は死刑であった。
孟宗は葬儀が終わった後に都へ出頭したが、陸遜や顧雍らのとりなしによって罪一等を減じられたと言う。
その後は、特に失脚することもなく孫権から孫晧までの4代に仕えて司空にまで登りつめた。
国家の行く末を案じながら271年に死去した。

これにてまとめは終わり。
最終的な評を論ずると、三国時代でもずば抜けるほどの孝行息子であったと言う事。
そこら辺が義理の高い理由だろう。
政治関連の記述ではなくそちらのエピソードが目立つと言う事は、表舞台ではそこまで活躍しなかったと言う事かな?
とはいえ、司空にまで就いたあたりは他の武将よりは優れていると言う事であろうか。
それが示す事は末期の呉にはそこまで活躍した武将自体が少なかったと言う事か。
まぁ、孫晧に諫言した者は処刑か追放が常であったから、仕方ないと言えば仕方ないか。
結局、蜀も滅びて1対1になってしまった状況で呉が勝利する事はありえなかったのだろう。

まぁ、こんな所で人物評糸冬。
さすがにヤフーで資料をかき集めるのは苦労しましたw
見る人が見れば参考元がどこか分かるかもしれませんが、文章自体は独自に作ったつもり。
では、また夜に日記の時にでも会いましょう(゚Д゚)ノシ

人物評・田豫

何つーか、その・・・あれです!!
グーグルで検索に掛かるようになってました!!
うっひょーう、これは大事件だぜ!
とはいえ、このブログ名自体が普通検索しないような名前。
普通はここにたどり着かない罠。
ちなみにヤフーではまだでした。残念。

という訳で、テンション上がったついでにネタ。
人物評・田豫。
またまたこちら参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%B1%AB
今や恒例のウィキペディアからの引用。
しかし、前に書いた奴のも直リンに直した方がいいですかね。
今思えば、あまり直リンはよろしくないような気もしてきた・・・。
・・・まぁ、いいか。

で、人物評。
詳しくない人はコーエーの三国志の攻略本を見て絶対気になるはず。
むしろ、私も当初気になっていました。
何故か劉備と田豫なる人物の相性が同じだと言うことを!!
ちなみに田豫は三国志辞書にも登録されてないほどのマイナーぶりを発揮する武将である。
実は適当ではなく相性が同じなのには意味があった。
田豫はコーエーのゲームでは魏でしか登場しない武将だが、実は最初は劉備に仕えていた。
では、まとめていこうと思う。

田豫{?〜?(享年82)}
字は国譲。漁陽郡の人。
はじめ劉備に仕えてその公平清廉な人柄で信任を得る。
が、母が病に臥したために故郷に引き上げた。
その後、公孫瓚を経て最終的に曹操に仕える。
豫州の郡太守となり、善政を敷く。
北方の鮮卑・匈奴の対応にも活躍した。
金銭は常に国庫に寄付したために窮乏したが、その生活を大変評価される。
晩年は司馬懿にも才能を評価されたと言う。

と、こんな歴史の持ち主。
地味ではあるが、大変優れた才能の持ち主だと言える。
田豫がそのまま劉備についていれば、どうなっただろうか・・・。
場所は違えど活躍することは間違いないと思う。
劉備と接点を持ちながら縁がなかった名将というと田豫・陳登とこの2人が双璧をなすのではないか、と思う次第である。
・・・そういえば、太史慈とも面識があるんだったか。
陳羣も最初は劉備に仕えてたし。
諸国を回ってるから色々な武将と会ってる劉備たち。
当に演義などの物語で主役になる資質は十分だったと言う事ですね。

と言う所で、今回の人物評はおしまいです。
何だか途中から劉備に変わってますけどw
ちなみにこの田豫ネタは当時の清流派でやってもらいたいな〜とか思ってたんですけどね・・・。
まさか、自分で扱うことになるとはwww
では、また夜にでもご覧下され(・∀・)ノシ

人物評・趙雲

どうも・・・ついさっき起きました(´-ω-`)ネムヒ
休みに入って2日で夜行性になる私。
・・・ある意味凄いかも。
そういえば、ブログのデザインでディープインパクトがあったんですよ。
なんとなく心が引かれる今日この頃。
まぁ、そうころころデザインなんて変えられません罠。
では、そろそろ真面目企画行きますか。
タイトル通り三国志から我がフェイバリットの1人、常山の趙子龍でも。
例のごとくウィキペディアから参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%9B%B2

今回は自分でまとめることも出来そうですかね。
趙雲(?〜229)
劉備軍の武将。演義では五虎将軍の1人。
最終的に鎮東将軍。諡は順平侯。
誠実にして厳格。また欠点が見当たらない貴重な武将。
公孫瓚→袁紹と渡って最後には劉備に参じた。
208年、長坂にて劉禅と甘夫人を守護した。
また荊州平定に参加し桂陽太守に任ぜられる。
213年、諸葛亮の入蜀第二陣に従って蜀に入る。のち蜀平定。
221年、劉備に呉の討伐を中止するように諫めるが聞き入れられず。
227年以降は諸葛亮の北伐に参加している。
229年、病没し、長子の趙統が跡を継いだ。

まぁ、正史にしてみればこれくらいしか記述がないんですけどね。
今さらながらに羅貫中はよく演義をまとめて作ったものだと感心しますね。
武人としての派手さで言えば、関羽や張飛の方が幾分か上ですが、私はやっぱり趙雲ですね。
何せ欠点が記述されていないとか、相当に高水準でまとまってますよね。
五虎将の中では最後まで生きていたこともあって格好良いですね。
しかし正史とはいえ、袁紹の下に来た劉備に馳せ参じるなんて普通じゃ出来ませんよ。あの状況下で。
正に「事実は小説より奇なり」という所でしょうか。

で、何故私が趙雲を好きか、とか興味ないだろうとは思いますが書きます。
私としては
・高水準(完璧)
・受け継がれる志(例:諸葛亮→姜維、ソクラテス→プラトン→アリストテレス)
・最後の○○(例:最後の五虎将・趙雲)
の3つのどれかに該当してればかなり興味がいきますね。
だから陸抗とかも好きだし曹操も好きだし孫家三代も好きなんですよね。
・・・孫権とそれ以降はあんまりですけど。

まぁ、こんな所ですかね。
久々に真面目なのをやると勝手が分からないw
では、今回は失礼します(・∀・)ノシ
面倒なんでここに追記。続きを読む

人物評・伊藤博文

どうも、牛めし食べて(`・ω・´)シャキーンな管理人・近衛です。
今回は時間もたっぷりあるし、日記以外のネタを書く好機です。
で、今回取り扱うのはタイトルにあるように伊藤博文。
真面目なネタをそろそろ導入せねば、と思い
丁度テストも明治時代だったので時宜にかなっているだろうとの考えです。
では、例の通りウィキペディアから伊藤博文↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

詳しくないですけど簡単に説明していきますか。
伊藤博文(1841〜1909)
博文の前の名前は俊輔。初代内閣総理大臣。
松下村塾で高杉晋作らと共に学び、その高杉に従う。
年齢的に言っても、高杉晋作・木戸孝允らの後輩に当たるだろうか。
長州藩において尊王攘夷運動を展開し、ついに徳川幕府を打倒。
この時はまだあまり有名ではなかった。
明治政府において要職を歴任、岩倉・大久保派に属していたため、
大久保死後に内務卿を継承する。
その後、憲法制定の為にヨーロッパ(特にドイツ)に学び、
絶対君主制の大日本帝国憲法の制定に携わる。
85年に内閣制度が創設、初代内閣総理大臣となる。
また、1900年に立憲政友会総裁となる。
日露対立には不戦論を展開、日露協商を提唱する。日英同盟には反対派であった。
その後に元老となる。
晩年においては初代韓国総監に就任するが、韓国併合には反対であった。
そして09年10月、安重根によって暗殺された。享年68歳。

まぁ、人によっては評価が分かれる人物だと思います。
ともあれ、明治政府では一番働いたのではなかろうか。
しかし政府の意見がことごとく自分の反対側にあるとは何とも皮肉なものです。
もし暗殺されていなかったとしたら韓国併合は遅くなっていたでしょうか。
唯一、韓国併合については意見が同じです。
というのも、後の世の人間の意見ですからあてにはなりませんが・・・。
こっちの方が良かった、という考えでの意見の一致ですからね。

そういえば、彼は女好きらしいですね。
ウィキペディアの方に今の人間には特に為にもならない事が載っております。
む〜・・・いまいちこの時代の人間では評価のノリが悪い。
結果的には欧米列強にも屈さずに良くやったのではないかと。
後の世界大戦を見たらどんな考えを抱くのか、とかの興味はあるんですけどね〜。
こんな所で、伊藤博文についての評価終了!
なれない時代の人だときついですな〜。
やはり、三国時代が一番性にあってるのかも(´・ω・`)

人物評・立花宗茂

少しは真面目なネタも扱わないと呆れられると思うので、
未だに未知の領域たる戦国から人物評。
今日のチョイスは立花宗茂。
高橋紹運の実子にして「雷神」立花道雪の養子。
また、その娘・闇千代の夫。
まさに戦国のサラブレッド。
詳しくは↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82

というか、私もこれを見ての人物評ですから(・∀・;)
幼少の頃から判断力に優れた人物のようですね。
名将の子として育ったせいか、非常に優秀すぎます。
こんなに欠点が見当たらない将もほとんどいないでしょう。
三国志で言えば、陸遜レベルに相当するんじゃないかってくらいです。

他人からの呼ばれ方についてまとめてみる。
ちょっと分かりやすいように改変。
「義を専ら一に、忠誠無二の者」(大友宗麟)
「その忠義・剛勇、鎮西一」(豊臣秀吉)
「九州の逸物」(豊臣秀吉)
「東に本多忠勝、西に立花宗茂」(豊臣秀吉)
「立花の3千は他家の1万」(小早川隆景)
「日本第一の勇将」(加藤清正)
本当に皆さん、褒めまくり。

軍法について語っているのも噛み砕いて書いてみる。
「特別な軍法はいらない。ひいきせず、慈悲を与え、法を守れば
 皆力戦して功を立ててくれるのだ」
「大将がただ采配を取っても従う者はいない。
 下の者を子の如く、また上の者を親の如く思えば下知せずとも動いてくれる」
・・・こんな考えの方はそうそうおりますまい。
また、親の仇だった島津に対しての態度も堂々たるものです。
「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とは武士としての尊厳からの言葉でしょう。

以上から立花宗茂は戦国の武士の代表としても良い位の逸材である事が伺えます。
これほどの逸材である割にはあまり名が売れてないのが残念ですね。
戦国は中央の君主ばかりが目立ってしまいますからね・・・。
とまぁ、これにて今回の人物評は糸冬...〆(・∀・ )と!
如水プレイで佐賀城とか任せたままだなぁ。
姫路に入ったことだし、オールスターでも結成してみようかな?
じゃ、また会いましょう(・∀・)ノシ

今日は姜維の命日。

早速、初日から色々書いていきたいと思います。
最初に言った割には日記じゃない内容になります。

で、今日は私の誕生日でもあるんですけど、
他にも特別な日でもあります。
タイトルにもある通り、今日は姜維の命日。

姜維を知らない人は↓参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD


上を参照していただければ詳しく分かるますが、
見るのが面倒という方用にちょっとまとめます。
姜維(202年〜264年)
三国時代末期の蜀漢の将軍。字は伯約。
最終的には大将軍まで登りつめた人。
249年から北伐をし続けて蜀疲弊の要因を作ったといわれる。
263年蜀滅亡後、鍾会をそそのかして魏に反乱するも失敗、殺害された。
『三国志演義』では趙雲の武、諸葛亮の智を持つ万能将軍として登場。
諸葛亮の後継者として描かれている。

とまぁ、こんな経歴の持ち主です。
かなり有名でかの『真・三国無双』シリーズにも皆勤してるので
記憶にある方も多くいるでしょう。
ちなみに管理人は三国時代の将で彼が一番好きですね。
判官びいきといえばそれまでですけど、いつまでも諦めない姿勢は感服します。
姜維の死んだ日に生まれた者としては彼の不屈の闘志を是非見習いたい。
いや、失敗する所まで真似したくないですけどね(・ω・`)
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