以前にも夏侯淵の息子たちの生年を考えたことがあったが、今回は真面目に歴史書を紐解いていく。
ちなみに前回の時には「190年代後半〜240年代半ば」としている。
正直もうこの時点でそこまで間違ってないように見えるが、具体的に詰めていく。
まず、夏侯淵の息子の中で唯一享年・没年がはっきりしている夏侯栄の生年が207年。
故に夏侯威の生年のリミットも207年になるので、享年49を当てはめると没年のリミットは255年となる。
夏侯威の最終役職は兗州刺史なので、この時期の前後の兗州刺史がはっきりすれば、おのずから夏侯威の就任時期がわかってくるというもの。
魏建国以降に兗州刺史になっている記載があるのは以下の通り。
裴潜:沛国相(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→散騎常侍(220以降)
王淩:散騎常侍(220以降)→兗州刺史(222年在任)→青州刺史(225頃?)
王昶:洛陽典農都尉(220以降)→兗州刺史(228以前)→徐州刺史(240以降)
桓範:都督青徐諸軍事(228以降)→兗州刺史(時期不明)→大司農(240以降)
令狐愚:大将軍長史(240以降)→兗州刺史(248以前)→死亡(249年)
黄華:不明→兗州刺史(251年在任)→死亡(253年)
劉昶:不明→兗州刺史(253年?)→不明(※)
李翼:不明→兗州刺史(253以降〜254)→死亡(254年)
艾:汝南太守(不明)→兗州刺史(254〜255)→長水校尉(255年)
※劉昶は諸々の記述を合わせると王戎が弱冠(20歳)の時に兗州刺史だから253年が該当するのだが、かなり怪しい。
夏侯威:荊州刺史?(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→死亡(時期不明・49歳)
こうやって見ると、あまりにも入りそうな場所が少ない。
桓範-令狐愚間(240〜248)、令狐愚-黄華間(249〜251)ぐらいしか入る隙間がない気がする。
桓範-令狐愚間なら荊州刺史は胡質の後任・孫礼の前任、兗州刺史は桓範の後任・令狐愚の前任。
令狐愚-黄華間なら荊州刺史は孫礼の後任・李勝(王基)の前任、兗州刺史は令狐愚の後任・黄華の前任。
桓範-令狐愚間だとして、胡質が荊州を離れるのはおそらく241年。
孫礼はよくわからないが曹爽誅殺(249年)までに荊州刺史→冀州牧→1年謹慎→并州刺史なので少なくとも240年代半ばぐらいには荊州刺史になってそう。
桓範もよくわからないが同時期に冀州牧の打診をされてるらしく、病気でそれを断ったがために孫礼がなったとしたら夏侯威が入る隙間がなくなる。
夏侯威が荊州刺史→入朝→兗州刺史の可能性は無論あるけど。
つまり、夏侯威が荊州刺史から入朝して孫礼が後任になる。
その後に桓範が冀州牧の打診をされるも拒否して仮病で籠もったので兗州刺史を解任して大司農として中央に召還。
それで兗州刺史には夏侯威が就いて、冀州牧には孫礼が就いたみたいな流れ。
こっちの場合、240年代半ばまでしか夏侯威の没年は絞り込むことが出来ない。
矛盾もあるのでこの流れの信憑性は皆無。
令狐愚-黄華間だと荊州刺史は240年代半ばから。
後任の李勝は248年の冬に司馬懿に荊州刺史就任の報告をしているが、荊州に赴く前に翌249年1月に誅殺されている。
それを考えると、李勝への引き継ぎができなかったことから夏侯威が引き続き荊州刺史を務めたことになるか。
そして、249年の11月頃に令狐愚が病死したのでその後任として兗州刺史になり、荊州刺史は王基が務めた。
251年には黄華が兗州刺史になっているので、249〜251の間に死亡したということになる。
どっちの方が整合性があるかというと、後者かなあという印象。
前者は荊州→入朝→兗州になる可能性が非常に高いので入朝の事実がない以上、疑わしい。
前者の矛盾については孫礼が冀州牧になった時に統治者がすでに二度変わっているという記述があるので、呂昭→誰か→孫礼という図式になる。
桓範就任時は誰かの部分に入りそうなのでそこに孫礼がスライドするのは少しおかしくなる。
ということで、夏侯威の没年は250年前後になるので享年からすると202前後が生年かな。
三男の夏侯称まではおそらく生年180年代だと思うから、夏侯淵は少なくとも10数年ぐらいは子供を作らなかったことになるな。
ちなみに前回の時には「190年代後半〜240年代半ば」としている。
正直もうこの時点でそこまで間違ってないように見えるが、具体的に詰めていく。
まず、夏侯淵の息子の中で唯一享年・没年がはっきりしている夏侯栄の生年が207年。
故に夏侯威の生年のリミットも207年になるので、享年49を当てはめると没年のリミットは255年となる。
夏侯威の最終役職は兗州刺史なので、この時期の前後の兗州刺史がはっきりすれば、おのずから夏侯威の就任時期がわかってくるというもの。
魏建国以降に兗州刺史になっている記載があるのは以下の通り。
裴潜:沛国相(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→散騎常侍(220以降)
王淩:散騎常侍(220以降)→兗州刺史(222年在任)→青州刺史(225頃?)
王昶:洛陽典農都尉(220以降)→兗州刺史(228以前)→徐州刺史(240以降)
桓範:都督青徐諸軍事(228以降)→兗州刺史(時期不明)→大司農(240以降)
令狐愚:大将軍長史(240以降)→兗州刺史(248以前)→死亡(249年)
黄華:不明→兗州刺史(251年在任)→死亡(253年)
劉昶:不明→兗州刺史(253年?)→不明(※)
李翼:不明→兗州刺史(253以降〜254)→死亡(254年)
艾:汝南太守(不明)→兗州刺史(254〜255)→長水校尉(255年)
※劉昶は諸々の記述を合わせると王戎が弱冠(20歳)の時に兗州刺史だから253年が該当するのだが、かなり怪しい。
夏侯威:荊州刺史?(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→死亡(時期不明・49歳)
こうやって見ると、あまりにも入りそうな場所が少ない。
桓範-令狐愚間(240〜248)、令狐愚-黄華間(249〜251)ぐらいしか入る隙間がない気がする。
桓範-令狐愚間なら荊州刺史は胡質の後任・孫礼の前任、兗州刺史は桓範の後任・令狐愚の前任。
令狐愚-黄華間なら荊州刺史は孫礼の後任・李勝(王基)の前任、兗州刺史は令狐愚の後任・黄華の前任。
桓範-令狐愚間だとして、胡質が荊州を離れるのはおそらく241年。
孫礼はよくわからないが曹爽誅殺(249年)までに荊州刺史→冀州牧→1年謹慎→并州刺史なので少なくとも240年代半ばぐらいには荊州刺史になってそう。
桓範もよくわからないが同時期に冀州牧の打診をされてるらしく、病気でそれを断ったがために孫礼がなったとしたら夏侯威が入る隙間がなくなる。
夏侯威が荊州刺史→入朝→兗州刺史の可能性は無論あるけど。
つまり、夏侯威が荊州刺史から入朝して孫礼が後任になる。
その後に桓範が冀州牧の打診をされるも拒否して仮病で籠もったので兗州刺史を解任して大司農として中央に召還。
それで兗州刺史には夏侯威が就いて、冀州牧には孫礼が就いたみたいな流れ。
こっちの場合、240年代半ばまでしか夏侯威の没年は絞り込むことが出来ない。
矛盾もあるのでこの流れの信憑性は皆無。
令狐愚-黄華間だと荊州刺史は240年代半ばから。
後任の李勝は248年の冬に司馬懿に荊州刺史就任の報告をしているが、荊州に赴く前に翌249年1月に誅殺されている。
それを考えると、李勝への引き継ぎができなかったことから夏侯威が引き続き荊州刺史を務めたことになるか。
そして、249年の11月頃に令狐愚が病死したのでその後任として兗州刺史になり、荊州刺史は王基が務めた。
251年には黄華が兗州刺史になっているので、249〜251の間に死亡したということになる。
どっちの方が整合性があるかというと、後者かなあという印象。
前者は荊州→入朝→兗州になる可能性が非常に高いので入朝の事実がない以上、疑わしい。
前者の矛盾については孫礼が冀州牧になった時に統治者がすでに二度変わっているという記述があるので、呂昭→誰か→孫礼という図式になる。
桓範就任時は誰かの部分に入りそうなのでそこに孫礼がスライドするのは少しおかしくなる。
ということで、夏侯威の没年は250年前後になるので享年からすると202前後が生年かな。
三男の夏侯称まではおそらく生年180年代だと思うから、夏侯淵は少なくとも10数年ぐらいは子供を作らなかったことになるな。