三国志
以前にも夏侯淵の息子たちの生年を考えたことがあったが、今回は真面目に歴史書を紐解いていく。
ちなみに前回の時には「190年代後半〜240年代半ば」としている。
正直もうこの時点でそこまで間違ってないように見えるが、具体的に詰めていく。
まず、夏侯淵の息子の中で唯一享年・没年がはっきりしている夏侯栄の生年が207年。
故に夏侯威の生年のリミットも207年になるので、享年49を当てはめると没年のリミットは255年となる。
夏侯威の最終役職は兗州刺史なので、この時期の前後の兗州刺史がはっきりすれば、おのずから夏侯威の就任時期がわかってくるというもの。
魏建国以降に兗州刺史になっている記載があるのは以下の通り。
裴潜:沛国相(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→散騎常侍(220以降)
王淩:散騎常侍(220以降)→兗州刺史(222年在任)→青州刺史(225頃?)
王昶:洛陽典農都尉(220以降)→兗州刺史(228以前)→徐州刺史(240以降)
桓範:都督青徐諸軍事(228以降)→兗州刺史(時期不明)→大司農(240以降)
令狐愚:大将軍長史(240以降)→兗州刺史(248以前)→死亡(249年)
黄華:不明→兗州刺史(251年在任)→死亡(253年)
劉昶:不明→兗州刺史(253年?)→不明(※)
李翼:不明→兗州刺史(253以降〜254)→死亡(254年)
艾:汝南太守(不明)→兗州刺史(254〜255)→長水校尉(255年)
※劉昶は諸々の記述を合わせると王戎が弱冠(20歳)の時に兗州刺史だから253年が該当するのだが、かなり怪しい。
夏侯威:荊州刺史?(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→死亡(時期不明・49歳)
こうやって見ると、あまりにも入りそうな場所が少ない。
桓範-令狐愚間(240〜248)、令狐愚-黄華間(249〜251)ぐらいしか入る隙間がない気がする。
桓範-令狐愚間なら荊州刺史は胡質の後任・孫礼の前任、兗州刺史は桓範の後任・令狐愚の前任。
令狐愚-黄華間なら荊州刺史は孫礼の後任・李勝(王基)の前任、兗州刺史は令狐愚の後任・黄華の前任。
桓範-令狐愚間だとして、胡質が荊州を離れるのはおそらく241年。
孫礼はよくわからないが曹爽誅殺(249年)までに荊州刺史→冀州牧→1年謹慎→并州刺史なので少なくとも240年代半ばぐらいには荊州刺史になってそう。
桓範もよくわからないが同時期に冀州牧の打診をされてるらしく、病気でそれを断ったがために孫礼がなったとしたら夏侯威が入る隙間がなくなる。
夏侯威が荊州刺史→入朝→兗州刺史の可能性は無論あるけど。
つまり、夏侯威が荊州刺史から入朝して孫礼が後任になる。
その後に桓範が冀州牧の打診をされるも拒否して仮病で籠もったので兗州刺史を解任して大司農として中央に召還。
それで兗州刺史には夏侯威が就いて、冀州牧には孫礼が就いたみたいな流れ。
こっちの場合、240年代半ばまでしか夏侯威の没年は絞り込むことが出来ない。
矛盾もあるのでこの流れの信憑性は皆無。
令狐愚-黄華間だと荊州刺史は240年代半ばから。
後任の李勝は248年の冬に司馬懿に荊州刺史就任の報告をしているが、荊州に赴く前に翌249年1月に誅殺されている。
それを考えると、李勝への引き継ぎができなかったことから夏侯威が引き続き荊州刺史を務めたことになるか。
そして、249年の11月頃に令狐愚が病死したのでその後任として兗州刺史になり、荊州刺史は王基が務めた。
251年には黄華が兗州刺史になっているので、249〜251の間に死亡したということになる。
どっちの方が整合性があるかというと、後者かなあという印象。
前者は荊州→入朝→兗州になる可能性が非常に高いので入朝の事実がない以上、疑わしい。
前者の矛盾については孫礼が冀州牧になった時に統治者がすでに二度変わっているという記述があるので、呂昭→誰か→孫礼という図式になる。
桓範就任時は誰かの部分に入りそうなのでそこに孫礼がスライドするのは少しおかしくなる。
ということで、夏侯威の没年は250年前後になるので享年からすると202前後が生年かな。
三男の夏侯称まではおそらく生年180年代だと思うから、夏侯淵は少なくとも10数年ぐらいは子供を作らなかったことになるな。
ちなみに前回の時には「190年代後半〜240年代半ば」としている。
正直もうこの時点でそこまで間違ってないように見えるが、具体的に詰めていく。
まず、夏侯淵の息子の中で唯一享年・没年がはっきりしている夏侯栄の生年が207年。
故に夏侯威の生年のリミットも207年になるので、享年49を当てはめると没年のリミットは255年となる。
夏侯威の最終役職は兗州刺史なので、この時期の前後の兗州刺史がはっきりすれば、おのずから夏侯威の就任時期がわかってくるというもの。
魏建国以降に兗州刺史になっている記載があるのは以下の通り。
裴潜:沛国相(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→散騎常侍(220以降)
王淩:散騎常侍(220以降)→兗州刺史(222年在任)→青州刺史(225頃?)
王昶:洛陽典農都尉(220以降)→兗州刺史(228以前)→徐州刺史(240以降)
桓範:都督青徐諸軍事(228以降)→兗州刺史(時期不明)→大司農(240以降)
令狐愚:大将軍長史(240以降)→兗州刺史(248以前)→死亡(249年)
黄華:不明→兗州刺史(251年在任)→死亡(253年)
劉昶:不明→兗州刺史(253年?)→不明(※)
李翼:不明→兗州刺史(253以降〜254)→死亡(254年)
艾:汝南太守(不明)→兗州刺史(254〜255)→長水校尉(255年)
※劉昶は諸々の記述を合わせると王戎が弱冠(20歳)の時に兗州刺史だから253年が該当するのだが、かなり怪しい。
夏侯威:荊州刺史?(時期不明)→兗州刺史(時期不明)→死亡(時期不明・49歳)
こうやって見ると、あまりにも入りそうな場所が少ない。
桓範-令狐愚間(240〜248)、令狐愚-黄華間(249〜251)ぐらいしか入る隙間がない気がする。
桓範-令狐愚間なら荊州刺史は胡質の後任・孫礼の前任、兗州刺史は桓範の後任・令狐愚の前任。
令狐愚-黄華間なら荊州刺史は孫礼の後任・李勝(王基)の前任、兗州刺史は令狐愚の後任・黄華の前任。
桓範-令狐愚間だとして、胡質が荊州を離れるのはおそらく241年。
孫礼はよくわからないが曹爽誅殺(249年)までに荊州刺史→冀州牧→1年謹慎→并州刺史なので少なくとも240年代半ばぐらいには荊州刺史になってそう。
桓範もよくわからないが同時期に冀州牧の打診をされてるらしく、病気でそれを断ったがために孫礼がなったとしたら夏侯威が入る隙間がなくなる。
夏侯威が荊州刺史→入朝→兗州刺史の可能性は無論あるけど。
つまり、夏侯威が荊州刺史から入朝して孫礼が後任になる。
その後に桓範が冀州牧の打診をされるも拒否して仮病で籠もったので兗州刺史を解任して大司農として中央に召還。
それで兗州刺史には夏侯威が就いて、冀州牧には孫礼が就いたみたいな流れ。
こっちの場合、240年代半ばまでしか夏侯威の没年は絞り込むことが出来ない。
矛盾もあるのでこの流れの信憑性は皆無。
令狐愚-黄華間だと荊州刺史は240年代半ばから。
後任の李勝は248年の冬に司馬懿に荊州刺史就任の報告をしているが、荊州に赴く前に翌249年1月に誅殺されている。
それを考えると、李勝への引き継ぎができなかったことから夏侯威が引き続き荊州刺史を務めたことになるか。
そして、249年の11月頃に令狐愚が病死したのでその後任として兗州刺史になり、荊州刺史は王基が務めた。
251年には黄華が兗州刺史になっているので、249〜251の間に死亡したということになる。
どっちの方が整合性があるかというと、後者かなあという印象。
前者は荊州→入朝→兗州になる可能性が非常に高いので入朝の事実がない以上、疑わしい。
前者の矛盾については孫礼が冀州牧になった時に統治者がすでに二度変わっているという記述があるので、呂昭→誰か→孫礼という図式になる。
桓範就任時は誰かの部分に入りそうなのでそこに孫礼がスライドするのは少しおかしくなる。
ということで、夏侯威の没年は250年前後になるので享年からすると202前後が生年かな。
三男の夏侯称まではおそらく生年180年代だと思うから、夏侯淵は少なくとも10数年ぐらいは子供を作らなかったことになるな。
最近注目してる武将シリーズ。
今回は私が最も注目している司馬駿の配下になったこともある劉宝。
個人的に色々組み立てて作っているいわば推測を含む。
・概要
劉宝、字は道真。
本籍は山陽(高平)郡高平県。
山東省鄒城市にて発見された劉宝墓誌によると永康二年(301)正月二十九日と刻まれているため、この前後に亡くなった可能性が高い。
父もしくは先祖に太祝令の劉奥、兄弟に著作郎の劉斌、甥に驃騎長史の劉綏がいる(世説新語より)
ちなみに「劉沈、字は道真」という人物が晋書列伝にあるため、「劉道真」だと被る危険性がある。
そちらは「燕(薊)の劉道真」なので、「高平の劉道真」ならこちらで確定する。
・官歴
時期は一切不明なので、箇条書きにしてそこから推測を重ねていく。
中書郎、河内太守、御史中丞、太子中庶子、吏部郎、安北将軍(漢書敘例より)
従事中郎、吏部郎(世説新語より)
司馬(三国志諸葛亮伝注蜀記より)
安北将軍(隋書経籍志より)
侍中・使持節・安北大将軍・領護烏丸校尉・都督幽并州諸軍事・関内侯(劉宝墓誌より)
とりあえず、ここから推測できる内容を書いていく。
276年以前:不明
276年前後:徒刑となるが、司馬駿に助けられて従事中郎となる(世説新語・徳行22)
279年頃:司馬となる(三国志諸葛亮伝注蜀記)
283年〜太康(289)末まで:中書郎→河内太守→御史中丞(世説新語・簡傲5、漢書敘例)
永熙初(290):太子中庶子(漢書敘例)
301年まで:吏部郎→安北将軍(世説新語・任誕17、漢書敘例、劉宝墓誌)
墓誌にある安北将軍、都督幽并州諸軍事というのは色々なんか不自然な気はするが、後で書けたら書く。
まずはどうして上記のような話になったのか書いていく。
とりあえず、時期的にはっきりしてそうなのはまず従事中郎。
なんらかの罪で懲役になっていた劉宝を司馬駿が五百疋の布によって釈放させ自らの従事中郎としたので周囲はこれを美談とした、というのが世説新語の徳行22。
晋書職官志には従事中郎を配下にできるのは「諸公及開府位從公加兵者」とある。
司馬駿がいずれの時期にそれに該当するようになったのかというと咸寧二年(276)十月の征西大将軍に昇進及び開府した時となる。
つまり、劉宝が司馬駿に助け出されたのは276年以降のこととなる。
次いで三国志諸葛亮伝注蜀記にある「司馬である高平の劉宝」という記述。
司馬も従事中郎と同じく征西大将軍府の役職。
これは推測だが、諸葛亮について語るような機会があるとすれば、それは諸葛亮の軍制を学んだ馬隆が樹機能退治に出かけた時、つまり咸寧五年(279)のいずれかの時期ではないだろうか。
それで283年に司馬駿が亡くなるまで司馬だったとして、その後は漢書敘例の順番に沿っていくことになるが、太康末に陸機、陸雲兄弟が洛陽に来た際、張華に挨拶すべき人間を聞いたら真っ先に劉宝の名を挙げた(しかし、奇人だったので陸機たちは訪ねたのを後悔した)という話が世説新語の簡傲5にある。
太康末の時点では洛陽に滞在しているような官職。
つまり、少なくともその時には河内太守ではない。
さらに、皇帝が代替わりしたタイミングでガッツリ皇太子制度が整備されていて、劉宝もそれに関わっているとするなら290年時点で太子中庶子になっているということになる。
おそらく漢書駁議を編纂したのも帝から皇太子に漢書の講義をするように命じられたこの頃。
そこから吏部郎、安北将軍と歴任して死亡。
気になるのはそれまでの歴任に対して安北将軍があまりにも高位だということ。
漢書敘例にも隋書経籍志にも劉宝墓誌にも載っている以上、最終官職が安北将軍なのは疑いようがない。
ただ、安北将軍+都督というのはどう考えても二品なのだが、それまでの劉宝の官は高くて四品だから急な昇進に違和感を覚える。
無理やり納得するなら「漢書駁議」の効果か、もしくは張華に気に入られていたからだろうか。
幽州諸軍事の前任は劉弘だが、こちらは明確に張華に目をかけられて監幽州諸軍事になったとある。
元々張華自体も都督幽州諸軍事だった経歴があるので、おそらく北方人事への影響力は強い。
世説新語の簡傲5にしても張華が劉宝を重く見ていたのは間違いない。
ただ、幽州諸軍事の前任、後任に当たる劉弘と王浚の記述もまた厄介。
前任の劉弘は太宰長史から監幽州諸軍事への転任のため、太宰司馬亮が死んだ291年以降に着任。
しかし、次の記述が303年の荊州で張昌が乱を起こしたからその対応で荊州刺史になったという文。
290年代後半には劉宝が都督幽并州諸軍事になってなければ変だが、その辺の記述はまるでない。
後任の王浚も300年3月に皇太子を殺害した後に青州刺史を経て幽州諸軍事になっているので随分と忙しない。
記述の順番的に矛盾はないが、301年正月頃に幽州に着任してその2ヶ月後には司馬冏挙兵に対して中立を保つように行動していたわけだから、領地の把握が相当に上手かったということになる。
・人物について
散見される記述を見るに目的遂行能力は高いが、協調性がない変人というのが第一印象。
若い頃に豚を1.5頭ほど老婆に食べさせてもらったので後にその老婆の子供を取り立てたが、お礼に来た老婆を「もう報いるものがない」と追い返す話(世説新語・任誕17)
喪中に訪ねてきた陸機兄弟へ酒を入れるための江東の瓜(葫蘆)の種をねだってドン引きさせた話(世説新語・簡傲5)
老婆をバカにしたら逆にやり込められる話(詩話総亀・37譏誚門引き因話録)
婢女と致すために土下座し、明くる日に他人にそのやり方を自慢する話(芸文類聚・巻35人部・淫)
奇行エピソードのオンパレードと言っていい。
その一方で「劉宝文集」「歷代史書考異」「漢書駁議」などを次々に書き上げた文人であり、「中国文学家大辞典」にもその名前があるとか。
そして官歴からも分かるように司馬駿の下で司馬を務めたり、安北大将軍として北方の守りに就いていた以上、武の方面でも卓越した才能を持っていたということだろう。
・まとめ
文武両道の奇人。それが劉宝の実態だろう。
司馬駿や張華と主に仲が良いが、江東の文人や庶民を馬鹿にするような気質もある。
その一方で目的を果たすためなら婢女にすら土下座することも躊躇わない。
晋書に列伝こそないが、その存在感は色濃い。
どうにも創作物映えしそうな人物像ではあるな。
日本の戦国時代で言うところの前田慶次のような風格を感じる。
それを召し抱えた司馬駿も単なる優等生って感じには見えなくなってきそうだ。
今回は私が最も注目している司馬駿の配下になったこともある劉宝。
個人的に色々組み立てて作っているいわば推測を含む。
・概要
劉宝、字は道真。
本籍は山陽(高平)郡高平県。
山東省鄒城市にて発見された劉宝墓誌によると永康二年(301)正月二十九日と刻まれているため、この前後に亡くなった可能性が高い。
父もしくは先祖に太祝令の劉奥、兄弟に著作郎の劉斌、甥に驃騎長史の劉綏がいる(世説新語より)
ちなみに「劉沈、字は道真」という人物が晋書列伝にあるため、「劉道真」だと被る危険性がある。
そちらは「燕(薊)の劉道真」なので、「高平の劉道真」ならこちらで確定する。
・官歴
時期は一切不明なので、箇条書きにしてそこから推測を重ねていく。
中書郎、河内太守、御史中丞、太子中庶子、吏部郎、安北将軍(漢書敘例より)
従事中郎、吏部郎(世説新語より)
司馬(三国志諸葛亮伝注蜀記より)
安北将軍(隋書経籍志より)
侍中・使持節・安北大将軍・領護烏丸校尉・都督幽并州諸軍事・関内侯(劉宝墓誌より)
とりあえず、ここから推測できる内容を書いていく。
276年以前:不明
276年前後:徒刑となるが、司馬駿に助けられて従事中郎となる(世説新語・徳行22)
279年頃:司馬となる(三国志諸葛亮伝注蜀記)
283年〜太康(289)末まで:中書郎→河内太守→御史中丞(世説新語・簡傲5、漢書敘例)
永熙初(290):太子中庶子(漢書敘例)
301年まで:吏部郎→安北将軍(世説新語・任誕17、漢書敘例、劉宝墓誌)
墓誌にある安北将軍、都督幽并州諸軍事というのは色々なんか不自然な気はするが、後で書けたら書く。
まずはどうして上記のような話になったのか書いていく。
とりあえず、時期的にはっきりしてそうなのはまず従事中郎。
なんらかの罪で懲役になっていた劉宝を司馬駿が五百疋の布によって釈放させ自らの従事中郎としたので周囲はこれを美談とした、というのが世説新語の徳行22。
晋書職官志には従事中郎を配下にできるのは「諸公及開府位從公加兵者」とある。
司馬駿がいずれの時期にそれに該当するようになったのかというと咸寧二年(276)十月の征西大将軍に昇進及び開府した時となる。
つまり、劉宝が司馬駿に助け出されたのは276年以降のこととなる。
次いで三国志諸葛亮伝注蜀記にある「司馬である高平の劉宝」という記述。
司馬も従事中郎と同じく征西大将軍府の役職。
これは推測だが、諸葛亮について語るような機会があるとすれば、それは諸葛亮の軍制を学んだ馬隆が樹機能退治に出かけた時、つまり咸寧五年(279)のいずれかの時期ではないだろうか。
それで283年に司馬駿が亡くなるまで司馬だったとして、その後は漢書敘例の順番に沿っていくことになるが、太康末に陸機、陸雲兄弟が洛陽に来た際、張華に挨拶すべき人間を聞いたら真っ先に劉宝の名を挙げた(しかし、奇人だったので陸機たちは訪ねたのを後悔した)という話が世説新語の簡傲5にある。
太康末の時点では洛陽に滞在しているような官職。
つまり、少なくともその時には河内太守ではない。
さらに、皇帝が代替わりしたタイミングでガッツリ皇太子制度が整備されていて、劉宝もそれに関わっているとするなら290年時点で太子中庶子になっているということになる。
おそらく漢書駁議を編纂したのも帝から皇太子に漢書の講義をするように命じられたこの頃。
そこから吏部郎、安北将軍と歴任して死亡。
気になるのはそれまでの歴任に対して安北将軍があまりにも高位だということ。
漢書敘例にも隋書経籍志にも劉宝墓誌にも載っている以上、最終官職が安北将軍なのは疑いようがない。
ただ、安北将軍+都督というのはどう考えても二品なのだが、それまでの劉宝の官は高くて四品だから急な昇進に違和感を覚える。
無理やり納得するなら「漢書駁議」の効果か、もしくは張華に気に入られていたからだろうか。
幽州諸軍事の前任は劉弘だが、こちらは明確に張華に目をかけられて監幽州諸軍事になったとある。
元々張華自体も都督幽州諸軍事だった経歴があるので、おそらく北方人事への影響力は強い。
世説新語の簡傲5にしても張華が劉宝を重く見ていたのは間違いない。
ただ、幽州諸軍事の前任、後任に当たる劉弘と王浚の記述もまた厄介。
前任の劉弘は太宰長史から監幽州諸軍事への転任のため、太宰司馬亮が死んだ291年以降に着任。
しかし、次の記述が303年の荊州で張昌が乱を起こしたからその対応で荊州刺史になったという文。
290年代後半には劉宝が都督幽并州諸軍事になってなければ変だが、その辺の記述はまるでない。
後任の王浚も300年3月に皇太子を殺害した後に青州刺史を経て幽州諸軍事になっているので随分と忙しない。
記述の順番的に矛盾はないが、301年正月頃に幽州に着任してその2ヶ月後には司馬冏挙兵に対して中立を保つように行動していたわけだから、領地の把握が相当に上手かったということになる。
・人物について
散見される記述を見るに目的遂行能力は高いが、協調性がない変人というのが第一印象。
若い頃に豚を1.5頭ほど老婆に食べさせてもらったので後にその老婆の子供を取り立てたが、お礼に来た老婆を「もう報いるものがない」と追い返す話(世説新語・任誕17)
喪中に訪ねてきた陸機兄弟へ酒を入れるための江東の瓜(葫蘆)の種をねだってドン引きさせた話(世説新語・簡傲5)
老婆をバカにしたら逆にやり込められる話(詩話総亀・37譏誚門引き因話録)
婢女と致すために土下座し、明くる日に他人にそのやり方を自慢する話(芸文類聚・巻35人部・淫)
奇行エピソードのオンパレードと言っていい。
その一方で「劉宝文集」「歷代史書考異」「漢書駁議」などを次々に書き上げた文人であり、「中国文学家大辞典」にもその名前があるとか。
そして官歴からも分かるように司馬駿の下で司馬を務めたり、安北大将軍として北方の守りに就いていた以上、武の方面でも卓越した才能を持っていたということだろう。
・まとめ
文武両道の奇人。それが劉宝の実態だろう。
司馬駿や張華と主に仲が良いが、江東の文人や庶民を馬鹿にするような気質もある。
その一方で目的を果たすためなら婢女にすら土下座することも躊躇わない。
晋書に列伝こそないが、その存在感は色濃い。
どうにも創作物映えしそうな人物像ではあるな。
日本の戦国時代で言うところの前田慶次のような風格を感じる。
それを召し抱えた司馬駿も単なる優等生って感じには見えなくなってきそうだ。
最近注目してる武将シリーズ。
今回は西晋の外戚、楊珧・文琚について書いていく。
例によって個人的な推測を多く含む。
・概要
楊珧、字は文琚。
本籍は弘農郡華陰県。
いわゆる弘農楊氏出身。
兄に楊駿、弟に楊済がいる。
永平元(291)年、賈南風一派との政争に敗れて捕まり、東安公・司馬繇の命令で処刑された。
・官歴(※推測含む)
275以前:給事黄門侍郎(職官志より)
275(咸寧元年):太子藥(武帝紀・職官志・辟雍碑より)、給事中・光禄大夫(職官志・辟雍碑より)
280(太康元年):太子藥、衛将軍 ※時期は推測
282(太康三年):太子少傅(荀勗伝・王渾伝・職官志より)、衛将軍(王渾伝より)
286(太康七年):辞職(楊珧伝より) ※時期は推測
289(太康十年):尚書令(楊珧伝より)
290(永煕元年):衛将軍(楊珧伝・恵帝紀より)
291(永平元年):処刑(楊珧伝・恵帝紀より)
・内容詳細
楊珧の官位については自分の伝の他に皇帝の紀と職官志で大部分をフォローできる。
特に職官志による楊珧の記述は太子関連の官についていたことがわかる唯一の記述場所。
何故か楊珧伝にはそのことが全く書かれていないのは、なんらかの不都合があったからかもしれない。
武帝紀には咸寧元年六月戊申に太子藥を設立したことが書かれている。
そして、職官志には「咸寧元年、給事黄門侍郎の楊珧が藥となった」とあるので、設立と同時に楊珧が就任したことがわかり、楊珧の前職が給事黄門侍郎だったということも分かる。
同じく職官志に「太子藥の楊珧が給事中・光禄大夫を加えられた」とある。
その時期が「泰始中」と書かれているが、太子藥ならば咸寧元年以降なのは上述から間違いない。
洛陽にて発掘された咸寧四年建立の「辟雍碑」には「藥給事中光禄大夫関内侯珧」とされているので、少なくとも咸寧四(278)年までには給事中・光禄大夫を加えられたことが分かる。
そして、職官志によれば宮事(この場合は東宮、太子関連)の一切を取り仕切り、当時の太子太傅(司馬攸)や太子少傅(山濤)には属官が置かれなかった(つまり名誉職化)
これは司馬炎によって外戚の楊珧に東宮を一括管理させることで太子の立場の強化を図ったものと思われる。
翌年にあたる咸寧二(276)年には賈充が新設された太子太保となるが、賈充は賈充で太子とも司馬攸とも縁戚という非常に微妙な状況にあった。
司馬炎からしたら太子派にならないなら潰すぞという意味を込めて兵権まで剥奪しているから表立って司馬攸派にはなりえない存在で、太子関連を一任した楊珧とも親しい。
このあたりは完全に太子派の強化を狙った人事であると言えるだろう。
咸寧三(277)年、一族諸王の領地が目まぐるしく変わった。
これは太子派である楊珧と中書監・荀勗による共謀で、司馬一族の領地のルールを細かく整備した上で洛陽にいる司馬一族の大半を領国へと赴任させた。
洛陽の暮らしを満喫していた皇族の中には洛陽を去るのを嘆いて泣く者までいたという。
後々司馬攸を排斥するための目論見なのは言うまでもない。
また、地方官を務める司馬亮兄弟は赴任先と領国を極めて近くに設定された。
咸寧五(279)年十二月、馬隆が樹機能の乱を鎮圧したが、報賞担当官は出立前に先んじて爵位を与えているので再度の報賞はいかがなものかと難色を示した。
この時、楊珧は先んじて爵位を与えたのは強兵を集めるためであり、馬隆が勝利して西に安寧を得たことに報いないのは朝廷への信頼が揺らぐと反論し、馬隆とその兵士たちへの恩賞を認めさせた。
咸寧六(280)年三月、孫呉を降伏させたことにより改元し、太康元年となった。
これにより孫呉の降将として優遇されていた驃騎将軍の孫秀が伏波将軍、車騎将軍の孫楷が度遼将軍に降格した。
その代わりに扶風王・征西大将軍の司馬駿が驃騎将軍、臨晋侯・鎮軍将軍の楊駿が車騎将軍に昇格した。
楊珧が衛将軍になりうるとしたら同時期のこのタイミングが一番妥当と思われる。
太子藥は兼官として本官が衛将軍になったと考えるべきか。
光禄大夫が三品、非持節の衛将軍が二品なので順当な昇進と言えるだろう。
ただ、楊珧自身は兄の楊駿が車騎将軍という高官にまで来たので自分はもう中枢にいるべきではないと思ってこの時期に一旦官位の返上を申し出ている。
司馬炎としてはこのタイミングで楊珧がいなくなるのは痛手であるので当然却下された。
太康三(282)年、太尉賈充と司徒李胤が死亡し、年末には司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事として領国に向かわせる人事が発表された。
これに対して中書監の荀勗は「空いた保傅に楊珧を就任させ、司徒には山濤か衛瓘が妥当」と発言。
征東大将軍・都督揚州諸軍事の王渾は「司馬攸を地方に出すぐらいなら司馬亮を出すべき。個人的には司馬亮と司馬攸と楊珧が保傅と地位を等しくして互いに監視し合えば良いと思う」と上書した。
荀勗は太子派、王渾は司馬攸派の立ち位置だったが、いずれも楊珧を保傅とすることに疑いを持たなかった。
太子藥としての長年の実績もあったのだろうが、司馬一族の宗師である司馬亮、司馬一族きっての名声を持つ司馬攸と並ぶことを許されるぐらいには楊珧の名望は高かったということだろう。
ちなみに当の楊珧は完全な司馬攸排斥派として活動していたため中護軍の羊らから恨みを買っていたが、先手を打って讒言して羊らを左遷させた。
羊は憤死に近い形でまもなく病死した。
人事としては司馬亮が太尉・太子太傅、山濤が司徒、衛瓘が司空・尚書令となり、楊珧は山濤の後任として太子少傅となった。
死亡した賈充の太子太保の後任は兄の楊駿が就くことになり、楊一族の権勢はいよいよ増してきた。
ちなみに太子藥はこの段階で廃止され、太子太傅などに属官が再び置かれるようになった。
このことから楊珧が東宮を支配するための便宜上の官職であったのは言うまでもない。
職官志上だと賈充や司馬攸の頃に楊珧が太子少傅になって上記二行のような措置がなされたように書かれているが、それだと荀勗が「太子太傅が空いたので楊珧に東宮の補佐をさせよう」などと言うわけがない。
職官志には時期の誤認がしばしば見られるので、そこは無視するものとする。
太康七(286)年の正月、数年ほど続く異常気象に困り果てた司馬炎は「なんでもいいから原因でありそうなものを述べよ」と詔を下した。
右軍督の趙休が「現在楊氏に三人の高官がいるため、天文に異常が現れたのだと思い、陛下を心配しております」と上書した。
前年(285)に楊珧の弟である楊済が鎮南将軍・都督荊州諸軍事という地方司令官に任命され、正しく楊氏三人が高官にある状態だった。
趙休の上書の内容を伝え聞いた楊珧は身の危険を感じ、辞職を願い出た。
当時の三公である司馬亮たちが同じように辞職を願い出て却下されたのに対し、楊珧の辞職の申し出は受け入れられた。
司馬炎にも楊氏三人が高官にある状況が気にかかったのかもしれない。
いずれにしても楊駿伝には太煕元(290)年の段階で「前衛将軍楊珧の故府」という表現がなされているので、そこまでには辞職していることは明白。
太康十(289)年十一月、尚書令の荀勗が死亡。
そして、楊珧伝の「尚書令・衛将軍を歴任した」が真実なのであれば、この期間しか就ける可能性がない。
何故ならば初回の衛将軍期間が278〜286の間ぐらいになるが、衛瓘が確実に尚書令の期間とモロ被りしているからだ。
278時点の楊珧の官職が衛将軍でないのは上述してあるので、初回の衛将軍の前に尚書令になっていることはありえない。
つまり、前尚書令の荀勗が死んだ太康十(289)年十一月から、次に尚書令となることが明記されている華廙が就任したと思われる永煕元(290)年四月のおおよそ半年程度が楊珧が尚書令となりうる唯一の機会と言える。
その後、八月に衛将軍だった弟の楊済が太子太保に移った後、後任として再び衛将軍となった。
永平元(291)年三月、賈南風一派のクーデターによって捕らえられると、以前に外戚の専横を憂えた上書を出した事実を持って赦免を願い出るが、東安公・司馬繇は裁判に私情を持ち込む人物であったためにその言葉を聞かれることはなく処刑された。
・まとめ
以上のことから、楊珧は早い時期から司馬炎の意を汲んで太子の立場を強化する役目を負った懐刀のような存在だった。
楊珧自身は同族の隆盛に伴って引退をしばしば考えたりするものの、司馬攸が死ぬまで一切それを聞かれなかったぐらいには太子派としての影響力があった。
楊珧自身の伝に太子関連のことが一切書かれていないのは楊駿だけを悪者にしたかったのか、楊珧に司馬攸死亡の責を負わせるのを躊躇ったのか、はたまた他の理由なのかはわからない。
だが、ここまでを見る限りだと司馬攸を排斥して憤死のような形で死なせた最大の要因はどう見ても楊珧だろう。
ただ、司馬攸もあそこで死んだ辺り、西晋を救える才能があったかどうかは疑問が残るので、楊珧が西晋を滅亡に追いやった最大の要因とまでは飛躍しないと思う。
それに、改元のルールすらまともに把握していない兄の楊駿と比べると、領国のルールの制定に携わったり、一族の滅亡を予期したり匈奴の劉淵を警戒する先見の明があったり、人望があったりと有能エピソードは事欠かない。
楊駿さえいなければ粛清の憂き目に遭うことはなかったことを考えれば惜しい人物には違いないだろう。
今回は西晋の外戚、楊珧・文琚について書いていく。
例によって個人的な推測を多く含む。
・概要
楊珧、字は文琚。
本籍は弘農郡華陰県。
いわゆる弘農楊氏出身。
兄に楊駿、弟に楊済がいる。
永平元(291)年、賈南風一派との政争に敗れて捕まり、東安公・司馬繇の命令で処刑された。
・官歴(※推測含む)
275以前:給事黄門侍郎(職官志より)
275(咸寧元年):太子藥(武帝紀・職官志・辟雍碑より)、給事中・光禄大夫(職官志・辟雍碑より)
280(太康元年):太子藥、衛将軍 ※時期は推測
282(太康三年):太子少傅(荀勗伝・王渾伝・職官志より)、衛将軍(王渾伝より)
286(太康七年):辞職(楊珧伝より) ※時期は推測
289(太康十年):尚書令(楊珧伝より)
290(永煕元年):衛将軍(楊珧伝・恵帝紀より)
291(永平元年):処刑(楊珧伝・恵帝紀より)
・内容詳細
楊珧の官位については自分の伝の他に皇帝の紀と職官志で大部分をフォローできる。
特に職官志による楊珧の記述は太子関連の官についていたことがわかる唯一の記述場所。
何故か楊珧伝にはそのことが全く書かれていないのは、なんらかの不都合があったからかもしれない。
武帝紀には咸寧元年六月戊申に太子藥を設立したことが書かれている。
そして、職官志には「咸寧元年、給事黄門侍郎の楊珧が藥となった」とあるので、設立と同時に楊珧が就任したことがわかり、楊珧の前職が給事黄門侍郎だったということも分かる。
同じく職官志に「太子藥の楊珧が給事中・光禄大夫を加えられた」とある。
その時期が「泰始中」と書かれているが、太子藥ならば咸寧元年以降なのは上述から間違いない。
洛陽にて発掘された咸寧四年建立の「辟雍碑」には「藥給事中光禄大夫関内侯珧」とされているので、少なくとも咸寧四(278)年までには給事中・光禄大夫を加えられたことが分かる。
そして、職官志によれば宮事(この場合は東宮、太子関連)の一切を取り仕切り、当時の太子太傅(司馬攸)や太子少傅(山濤)には属官が置かれなかった(つまり名誉職化)
これは司馬炎によって外戚の楊珧に東宮を一括管理させることで太子の立場の強化を図ったものと思われる。
翌年にあたる咸寧二(276)年には賈充が新設された太子太保となるが、賈充は賈充で太子とも司馬攸とも縁戚という非常に微妙な状況にあった。
司馬炎からしたら太子派にならないなら潰すぞという意味を込めて兵権まで剥奪しているから表立って司馬攸派にはなりえない存在で、太子関連を一任した楊珧とも親しい。
このあたりは完全に太子派の強化を狙った人事であると言えるだろう。
咸寧三(277)年、一族諸王の領地が目まぐるしく変わった。
これは太子派である楊珧と中書監・荀勗による共謀で、司馬一族の領地のルールを細かく整備した上で洛陽にいる司馬一族の大半を領国へと赴任させた。
洛陽の暮らしを満喫していた皇族の中には洛陽を去るのを嘆いて泣く者までいたという。
後々司馬攸を排斥するための目論見なのは言うまでもない。
また、地方官を務める司馬亮兄弟は赴任先と領国を極めて近くに設定された。
咸寧五(279)年十二月、馬隆が樹機能の乱を鎮圧したが、報賞担当官は出立前に先んじて爵位を与えているので再度の報賞はいかがなものかと難色を示した。
この時、楊珧は先んじて爵位を与えたのは強兵を集めるためであり、馬隆が勝利して西に安寧を得たことに報いないのは朝廷への信頼が揺らぐと反論し、馬隆とその兵士たちへの恩賞を認めさせた。
咸寧六(280)年三月、孫呉を降伏させたことにより改元し、太康元年となった。
これにより孫呉の降将として優遇されていた驃騎将軍の孫秀が伏波将軍、車騎将軍の孫楷が度遼将軍に降格した。
その代わりに扶風王・征西大将軍の司馬駿が驃騎将軍、臨晋侯・鎮軍将軍の楊駿が車騎将軍に昇格した。
楊珧が衛将軍になりうるとしたら同時期のこのタイミングが一番妥当と思われる。
太子藥は兼官として本官が衛将軍になったと考えるべきか。
光禄大夫が三品、非持節の衛将軍が二品なので順当な昇進と言えるだろう。
ただ、楊珧自身は兄の楊駿が車騎将軍という高官にまで来たので自分はもう中枢にいるべきではないと思ってこの時期に一旦官位の返上を申し出ている。
司馬炎としてはこのタイミングで楊珧がいなくなるのは痛手であるので当然却下された。
太康三(282)年、太尉賈充と司徒李胤が死亡し、年末には司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事として領国に向かわせる人事が発表された。
これに対して中書監の荀勗は「空いた保傅に楊珧を就任させ、司徒には山濤か衛瓘が妥当」と発言。
征東大将軍・都督揚州諸軍事の王渾は「司馬攸を地方に出すぐらいなら司馬亮を出すべき。個人的には司馬亮と司馬攸と楊珧が保傅と地位を等しくして互いに監視し合えば良いと思う」と上書した。
荀勗は太子派、王渾は司馬攸派の立ち位置だったが、いずれも楊珧を保傅とすることに疑いを持たなかった。
太子藥としての長年の実績もあったのだろうが、司馬一族の宗師である司馬亮、司馬一族きっての名声を持つ司馬攸と並ぶことを許されるぐらいには楊珧の名望は高かったということだろう。
ちなみに当の楊珧は完全な司馬攸排斥派として活動していたため中護軍の羊らから恨みを買っていたが、先手を打って讒言して羊らを左遷させた。
羊は憤死に近い形でまもなく病死した。
人事としては司馬亮が太尉・太子太傅、山濤が司徒、衛瓘が司空・尚書令となり、楊珧は山濤の後任として太子少傅となった。
死亡した賈充の太子太保の後任は兄の楊駿が就くことになり、楊一族の権勢はいよいよ増してきた。
ちなみに太子藥はこの段階で廃止され、太子太傅などに属官が再び置かれるようになった。
このことから楊珧が東宮を支配するための便宜上の官職であったのは言うまでもない。
職官志上だと賈充や司馬攸の頃に楊珧が太子少傅になって上記二行のような措置がなされたように書かれているが、それだと荀勗が「太子太傅が空いたので楊珧に東宮の補佐をさせよう」などと言うわけがない。
職官志には時期の誤認がしばしば見られるので、そこは無視するものとする。
太康七(286)年の正月、数年ほど続く異常気象に困り果てた司馬炎は「なんでもいいから原因でありそうなものを述べよ」と詔を下した。
右軍督の趙休が「現在楊氏に三人の高官がいるため、天文に異常が現れたのだと思い、陛下を心配しております」と上書した。
前年(285)に楊珧の弟である楊済が鎮南将軍・都督荊州諸軍事という地方司令官に任命され、正しく楊氏三人が高官にある状態だった。
趙休の上書の内容を伝え聞いた楊珧は身の危険を感じ、辞職を願い出た。
当時の三公である司馬亮たちが同じように辞職を願い出て却下されたのに対し、楊珧の辞職の申し出は受け入れられた。
司馬炎にも楊氏三人が高官にある状況が気にかかったのかもしれない。
いずれにしても楊駿伝には太煕元(290)年の段階で「前衛将軍楊珧の故府」という表現がなされているので、そこまでには辞職していることは明白。
太康十(289)年十一月、尚書令の荀勗が死亡。
そして、楊珧伝の「尚書令・衛将軍を歴任した」が真実なのであれば、この期間しか就ける可能性がない。
何故ならば初回の衛将軍期間が278〜286の間ぐらいになるが、衛瓘が確実に尚書令の期間とモロ被りしているからだ。
278時点の楊珧の官職が衛将軍でないのは上述してあるので、初回の衛将軍の前に尚書令になっていることはありえない。
つまり、前尚書令の荀勗が死んだ太康十(289)年十一月から、次に尚書令となることが明記されている華廙が就任したと思われる永煕元(290)年四月のおおよそ半年程度が楊珧が尚書令となりうる唯一の機会と言える。
その後、八月に衛将軍だった弟の楊済が太子太保に移った後、後任として再び衛将軍となった。
永平元(291)年三月、賈南風一派のクーデターによって捕らえられると、以前に外戚の専横を憂えた上書を出した事実を持って赦免を願い出るが、東安公・司馬繇は裁判に私情を持ち込む人物であったためにその言葉を聞かれることはなく処刑された。
・まとめ
以上のことから、楊珧は早い時期から司馬炎の意を汲んで太子の立場を強化する役目を負った懐刀のような存在だった。
楊珧自身は同族の隆盛に伴って引退をしばしば考えたりするものの、司馬攸が死ぬまで一切それを聞かれなかったぐらいには太子派としての影響力があった。
楊珧自身の伝に太子関連のことが一切書かれていないのは楊駿だけを悪者にしたかったのか、楊珧に司馬攸死亡の責を負わせるのを躊躇ったのか、はたまた他の理由なのかはわからない。
だが、ここまでを見る限りだと司馬攸を排斥して憤死のような形で死なせた最大の要因はどう見ても楊珧だろう。
ただ、司馬攸もあそこで死んだ辺り、西晋を救える才能があったかどうかは疑問が残るので、楊珧が西晋を滅亡に追いやった最大の要因とまでは飛躍しないと思う。
それに、改元のルールすらまともに把握していない兄の楊駿と比べると、領国のルールの制定に携わったり、一族の滅亡を予期したり匈奴の劉淵を警戒する先見の明があったり、人望があったりと有能エピソードは事欠かない。
楊駿さえいなければ粛清の憂き目に遭うことはなかったことを考えれば惜しい人物には違いないだろう。
最近なんとなく注目しているマイナー将軍、胡済・偉度について記事を書こうと思う。
胡済は蜀において列伝は立てられていないし、季漢輔臣賛の時には存命だからマジで情報が少ない。
各列伝にある情報を組み立てるしかない。
なので、これから書く内容は全て個人の感想として見てもらいたい。
・概要
胡済、字は偉度。
本籍は荊州義陽郡。弟に胡傅がいる。
董和伝による諸葛亮の述懐だと先に董和、後に胡済と共に仕事をしたとある。
董和の最終役職は掌軍中郎将、左将軍大司馬府事なので、劉備が大司馬になった219年前後に亡くなったと思われる。
それ以降の諸葛亮の主簿というのは丞相主簿ということだろう。
諸葛亮によると「胡済が従事した時には度々諫止の言葉があった」らしい。
どういう内容かは知らないが、諸葛亮はその言葉を聞くことはなかったがずっと仲が良かったとのこと。
丞相主簿として真面目に働いたためにその功績を讃えられたようだ。
諸葛亮死後(234年以降)は中典軍、成陽亭侯となった。
費禕が尚書令の時(235〜243)には費禕や董允と宴会をするほど仲が良かったようだ。
それから248年までに中監軍、前将軍に出世した。
256年、段谷の戦いの時には鎮西大将軍として姜維軍の別働隊として動いたが、作戦は失敗した。
姜維伝には「胡済が約束を破って姜維と合流できなかった」ために負けたとあるが、その割には処罰を受けた様子はない。
258年、姜維は漢中の防衛方針を変更し、督漢中の胡済を漢寿に下がらせてより広範囲に対応するようにした。
また、この頃かこれ以降に仮節、領兗州刺史、右驃騎将軍となった。
蜀滅亡の時には一切名前が出てこない事からそれまでには死亡したと思われる。
・胡済の評価
特に目立った功績は挙げていないが、少なくとも末期の蜀軍では最上位の武官だったと思われる。
その最大の証拠は胡済が督漢中になっていること(※)
督漢中とは記述を統合すると蜀軍の指導者が不在時の漢中の防衛指揮官であり、歴代では魏延、呉懿、王平という名実ともに当時の最上位の武官が就いていた蜀漢武官のエリート職である。
考えてみれば魏との最前線で防衛を司る人間なのだから最上位以外の武官を置くわけがない。
そう言う意味で胡済は末期蜀軍では最上位クラスの将軍と言えるのである。
おそらく張翼や廖化よりも上。
張翼や廖化が姜維に反抗的だから胡済が選ばれた説もなくはないが、張翼と廖化は攻撃に転じるのに反対なだけだからさすがに督漢中という防衛職に難色を示すとは思えない。
実際、蜀滅亡時には姜維と張翼・廖化は全く仲違いすることなく防衛に努めている。
それと、胡済で特徴的なのは諸葛亮から評価されていることもさることながら、費禕・姜維という対立派閥のどちらとも友好を保っていることにある。
前半の時期には諸葛亮や費禕、董允といった文官と慣れ親しむ事が多かったが、いつの間にか姜維の副将として北伐に臨んでいる。
姜維からしたら元々北伐反対派の費禕と仲が良かった人間なんだから警戒してもおかしくないはずだが、256年までの姜維の北伐でよっぽどの功績を立てたのかもしれない。
なんにせよ、蜀の建国から滅亡寸前までの40年程度を戦い抜いた貴重な人材だと言えるだろう。
※胡済が督漢中になった時期
華陽国志だと王平の死の直後(248年)になっている。
同時に驃騎将軍になっているらしい。
前将軍から驃騎将軍になるのは李厳という前例があるのでわからなくもないが、前述の通り督漢中というのは指導者不在時の防衛指揮官である。
王平が死んでから費禕があからさまに漢中に出てきているので、この時期に胡済が督漢中になっているとは思えない。
胡済が督漢中になれるのは費禕が成都に還った251年の夏から冬までと、姜維が成都に還った258年から262年のどちらかしかありえない。
胡済が本文で督漢中として名前が出るのは258年以降しかない。
よって、胡済が督漢中になったのは258年からだろう。
ちなみに、251年の費禕が成都に還った半年間の間に費禕が仲のいい胡済を督漢中に任命した可能性もなくはない。
その時に鎮西大将軍になっていて、258年に右驃騎将軍になったというのもまあまあしっくり来る。
・胡済の年齢
わからないが、史実の廖化の役職が前将軍関羽の主簿がスタートで、261年の頃に70を越えているとあるのでおおよそ史実の廖化と同じ程度だとは思われる。
・胡済に列伝がない理由
わからん。呉懿に列伝がないのだから他の誰に列伝がなくてもおかしくはないのが蜀なのである。
それでも胡済に関しては張翼、廖化と昇進時期が同じであり、なおかつその上に位置しそうな存在なのだからあってもおかしくはない。
よっぽど資料がなかったか、列伝を立てる必要性がなかったか、それとも列伝を立てるのに何か支障があったということだろうか。
胡済は蜀において列伝は立てられていないし、季漢輔臣賛の時には存命だからマジで情報が少ない。
各列伝にある情報を組み立てるしかない。
なので、これから書く内容は全て個人の感想として見てもらいたい。
・概要
胡済、字は偉度。
本籍は荊州義陽郡。弟に胡傅がいる。
董和伝による諸葛亮の述懐だと先に董和、後に胡済と共に仕事をしたとある。
董和の最終役職は掌軍中郎将、左将軍大司馬府事なので、劉備が大司馬になった219年前後に亡くなったと思われる。
それ以降の諸葛亮の主簿というのは丞相主簿ということだろう。
諸葛亮によると「胡済が従事した時には度々諫止の言葉があった」らしい。
どういう内容かは知らないが、諸葛亮はその言葉を聞くことはなかったがずっと仲が良かったとのこと。
丞相主簿として真面目に働いたためにその功績を讃えられたようだ。
諸葛亮死後(234年以降)は中典軍、成陽亭侯となった。
費禕が尚書令の時(235〜243)には費禕や董允と宴会をするほど仲が良かったようだ。
それから248年までに中監軍、前将軍に出世した。
256年、段谷の戦いの時には鎮西大将軍として姜維軍の別働隊として動いたが、作戦は失敗した。
姜維伝には「胡済が約束を破って姜維と合流できなかった」ために負けたとあるが、その割には処罰を受けた様子はない。
258年、姜維は漢中の防衛方針を変更し、督漢中の胡済を漢寿に下がらせてより広範囲に対応するようにした。
また、この頃かこれ以降に仮節、領兗州刺史、右驃騎将軍となった。
蜀滅亡の時には一切名前が出てこない事からそれまでには死亡したと思われる。
・胡済の評価
特に目立った功績は挙げていないが、少なくとも末期の蜀軍では最上位の武官だったと思われる。
その最大の証拠は胡済が督漢中になっていること(※)
督漢中とは記述を統合すると蜀軍の指導者が不在時の漢中の防衛指揮官であり、歴代では魏延、呉懿、王平という名実ともに当時の最上位の武官が就いていた蜀漢武官のエリート職である。
考えてみれば魏との最前線で防衛を司る人間なのだから最上位以外の武官を置くわけがない。
そう言う意味で胡済は末期蜀軍では最上位クラスの将軍と言えるのである。
おそらく張翼や廖化よりも上。
張翼や廖化が姜維に反抗的だから胡済が選ばれた説もなくはないが、張翼と廖化は攻撃に転じるのに反対なだけだからさすがに督漢中という防衛職に難色を示すとは思えない。
実際、蜀滅亡時には姜維と張翼・廖化は全く仲違いすることなく防衛に努めている。
それと、胡済で特徴的なのは諸葛亮から評価されていることもさることながら、費禕・姜維という対立派閥のどちらとも友好を保っていることにある。
前半の時期には諸葛亮や費禕、董允といった文官と慣れ親しむ事が多かったが、いつの間にか姜維の副将として北伐に臨んでいる。
姜維からしたら元々北伐反対派の費禕と仲が良かった人間なんだから警戒してもおかしくないはずだが、256年までの姜維の北伐でよっぽどの功績を立てたのかもしれない。
なんにせよ、蜀の建国から滅亡寸前までの40年程度を戦い抜いた貴重な人材だと言えるだろう。
※胡済が督漢中になった時期
華陽国志だと王平の死の直後(248年)になっている。
同時に驃騎将軍になっているらしい。
前将軍から驃騎将軍になるのは李厳という前例があるのでわからなくもないが、前述の通り督漢中というのは指導者不在時の防衛指揮官である。
王平が死んでから費禕があからさまに漢中に出てきているので、この時期に胡済が督漢中になっているとは思えない。
胡済が督漢中になれるのは費禕が成都に還った251年の夏から冬までと、姜維が成都に還った258年から262年のどちらかしかありえない。
胡済が本文で督漢中として名前が出るのは258年以降しかない。
よって、胡済が督漢中になったのは258年からだろう。
ちなみに、251年の費禕が成都に還った半年間の間に費禕が仲のいい胡済を督漢中に任命した可能性もなくはない。
その時に鎮西大将軍になっていて、258年に右驃騎将軍になったというのもまあまあしっくり来る。
・胡済の年齢
わからないが、史実の廖化の役職が前将軍関羽の主簿がスタートで、261年の頃に70を越えているとあるのでおおよそ史実の廖化と同じ程度だとは思われる。
・胡済に列伝がない理由
わからん。呉懿に列伝がないのだから他の誰に列伝がなくてもおかしくはないのが蜀なのである。
それでも胡済に関しては張翼、廖化と昇進時期が同じであり、なおかつその上に位置しそうな存在なのだからあってもおかしくはない。
よっぽど資料がなかったか、列伝を立てる必要性がなかったか、それとも列伝を立てるのに何か支障があったということだろうか。
またちょっと視点を変えた記事。
今回は比較的安定していて序列がわかりやすい司馬炎期で見る親族の序列。
晋書武帝紀には大きく3回ほど親族を王にしたり転封してるタイミングがある。
それが建国直後の265年、大きく位置替えする277年、司馬炎死亡直前の289年の3回。
その記述の際、より重要な人物ほど前に記述される傾向にある。
これは親族に限らず役職などもそう。
それらを統合した結果、親族の序列は以下のようになっている。
1.司馬懿の兄弟(司馬孚など)
2.司馬昭の兄弟(司馬亮など)
3.司馬炎の兄弟(司馬攸など)
4.司馬昭の従兄弟(司馬望など)
5.司馬炎の又従兄弟(司馬洪など)
6.司馬衷の兄弟(司馬柬など)
7.司馬衷の子(司馬遹など)
8.司馬衷の甥(司馬儀など)
9.司馬衷の従兄弟(司馬冏など)
10.司馬炎の従兄弟(司馬羕など)
司馬炎の従兄弟だけ異様に序列が低いような気がする。
下の世代の司馬衷の従兄弟より下だし。
これを参考にしつつ、300年までの司馬一族の先に要職になった順で列記していく。
()内は上の序列の数字。
1.司馬孚(1)
2.司馬望(4)
3.司馬攸(3)
4.司馬亮(2)※八王
5.司馬伷(2)
6.司馬駿(2)
-ここまで司馬炎期-
-ここから司馬衷期-
7.司馬泰(4)
8.司馬晃(4)
9.司馬柬(6)
10.司馬肜(2)
11.司馬倫(2)※八王
12.司馬瑋(6)※八王
13.司馬允(6)
14.司馬顒(5)※八王
15.司馬穎(6)※八王
これを見る限りだと序列より高めなのが司馬望・司馬攸・司馬柬あたり。
序列より低めなのが司馬肜と司馬倫あたりだろうか。
司馬望は元々司馬師よりも年上で、魏の時代から重鎮だった古強者なのでこの位置も妥当。
司馬攸は才能を愛され司馬師の跡を継いだ人物だからこれも妥当。
司馬柬は司馬衷の唯一の同母弟なので、他の兄弟よりも扱いが良いのは当然。
司馬肜と司馬倫はそもそも他の兄弟に比べるとかなり年が若い。
上の兄である司馬駿が232年生まれだが、この二人はおそらくそれよりかなり後だろう。
司馬肜と司馬倫が亭侯になったのは250年だが、上の兄弟は全員240年前後に亭侯になっている。
240年前後では生まれてないか生まれて間もないぐらいだったと思われる。
司馬晃は明らかにそれより早く生まれており宗師となった司馬泰はそれよりも上だろうから、この辺は単純に年齢で序列が決まってる感がある。
で、肝心の八王に関してだが、他の記事でも書いた通り現状5人しか要職に入ってきていない。
司馬乂は通常なら司馬顒前後の位置に相当するが、同母兄の司馬瑋の誅殺に連座して不遇。
司馬冏は親族序列9番目なので出てくるはずもない。
司馬冏伝にも自分の扱いの悪さを恨んでいたみたいな記述があるぐらいに扱いは悪かったようだ。
司馬越は親族序列5番目なので出てきてもおかしくなさそうな気はするが、父親が死んだのが299年ということもあってまだ出てきてはいない。
この時代は父親が生きていたら息子が要職に就くのはほぼない。
司馬孚・司馬望親子が同時に要職に就いているようにも見えるが、司馬望は司馬朗の養子でその家督を継いでいるので親子でも別の扱いといえる。
まとめると、
・司馬一族の台頭してくる順番は親族の序列に関係している
・親族序列から上下する場合は年齢・能力・血縁関係が影響している
・父親が生きている場合、その息子が要職に就くことはない
こんな感じになるんじゃないだろうか。
今回は比較的安定していて序列がわかりやすい司馬炎期で見る親族の序列。
晋書武帝紀には大きく3回ほど親族を王にしたり転封してるタイミングがある。
それが建国直後の265年、大きく位置替えする277年、司馬炎死亡直前の289年の3回。
その記述の際、より重要な人物ほど前に記述される傾向にある。
これは親族に限らず役職などもそう。
それらを統合した結果、親族の序列は以下のようになっている。
1.司馬懿の兄弟(司馬孚など)
2.司馬昭の兄弟(司馬亮など)
3.司馬炎の兄弟(司馬攸など)
4.司馬昭の従兄弟(司馬望など)
5.司馬炎の又従兄弟(司馬洪など)
6.司馬衷の兄弟(司馬柬など)
7.司馬衷の子(司馬遹など)
8.司馬衷の甥(司馬儀など)
9.司馬衷の従兄弟(司馬冏など)
10.司馬炎の従兄弟(司馬羕など)
司馬炎の従兄弟だけ異様に序列が低いような気がする。
下の世代の司馬衷の従兄弟より下だし。
これを参考にしつつ、300年までの司馬一族の先に要職になった順で列記していく。
()内は上の序列の数字。
1.司馬孚(1)
2.司馬望(4)
3.司馬攸(3)
4.司馬亮(2)※八王
5.司馬伷(2)
6.司馬駿(2)
-ここまで司馬炎期-
-ここから司馬衷期-
7.司馬泰(4)
8.司馬晃(4)
9.司馬柬(6)
10.司馬肜(2)
11.司馬倫(2)※八王
12.司馬瑋(6)※八王
13.司馬允(6)
14.司馬顒(5)※八王
15.司馬穎(6)※八王
これを見る限りだと序列より高めなのが司馬望・司馬攸・司馬柬あたり。
序列より低めなのが司馬肜と司馬倫あたりだろうか。
司馬望は元々司馬師よりも年上で、魏の時代から重鎮だった古強者なのでこの位置も妥当。
司馬攸は才能を愛され司馬師の跡を継いだ人物だからこれも妥当。
司馬柬は司馬衷の唯一の同母弟なので、他の兄弟よりも扱いが良いのは当然。
司馬肜と司馬倫はそもそも他の兄弟に比べるとかなり年が若い。
上の兄である司馬駿が232年生まれだが、この二人はおそらくそれよりかなり後だろう。
司馬肜と司馬倫が亭侯になったのは250年だが、上の兄弟は全員240年前後に亭侯になっている。
240年前後では生まれてないか生まれて間もないぐらいだったと思われる。
司馬晃は明らかにそれより早く生まれており宗師となった司馬泰はそれよりも上だろうから、この辺は単純に年齢で序列が決まってる感がある。
で、肝心の八王に関してだが、他の記事でも書いた通り現状5人しか要職に入ってきていない。
司馬乂は通常なら司馬顒前後の位置に相当するが、同母兄の司馬瑋の誅殺に連座して不遇。
司馬冏は親族序列9番目なので出てくるはずもない。
司馬冏伝にも自分の扱いの悪さを恨んでいたみたいな記述があるぐらいに扱いは悪かったようだ。
司馬越は親族序列5番目なので出てきてもおかしくなさそうな気はするが、父親が死んだのが299年ということもあってまだ出てきてはいない。
この時代は父親が生きていたら息子が要職に就くのはほぼない。
司馬孚・司馬望親子が同時に要職に就いているようにも見えるが、司馬望は司馬朗の養子でその家督を継いでいるので親子でも別の扱いといえる。
まとめると、
・司馬一族の台頭してくる順番は親族の序列に関係している
・親族序列から上下する場合は年齢・能力・血縁関係が影響している
・父親が生きている場合、その息子が要職に就くことはない
こんな感じになるんじゃないだろうか。
西晋要職調査の第三回。
今回は初代皇帝司馬炎の死から賈南風が死ぬ直前まで。
つまり290〜300年の半ばまで。
ついに八王の乱に突入し、要職付きも入り乱れることに。
あんまり見るところが多いので抜けてたり間違ってるところがある可能性大。
司馬亮(〜291):上公(289〜291)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)、上公(299〜300)
司馬倫(〜301):一品(291〜300)
司馬晃(〜296):二品(283〜294)、三公(294〜296)
司馬泰(〜299):三公(290〜299)
司馬柬(〜291):一品(290〜291)、上公(291〜291)
司馬瑋(〜291):二品(289〜291)
司馬允(〜300):二品(289〜300)
司馬穎(〜306):二品(299〜300)
司馬楙(〜311):二品(291〜291)
司馬顒(〜306):二品(299〜300)
-司馬亮(司馬懿の三男)
大司馬(上公)で司馬炎の死を迎え、楊駿一派の粛清を期に太宰(上公)へ転任。
しかし、賈南風と謀った司馬瑋によって死亡。
八王最初の犠牲者となる。
-司馬肜(司馬懿の八男)
司馬炎死亡前に征東将軍(二品)まで昇進。
司馬炎が死亡すると司馬柬が中央に戻ってきたため、代わりに征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば中央でごたごたが起きて帰還し、衛将軍(二品)となる。
かと思えば後任で西に赴任していた司馬倫が統治に失敗して異民族が反乱したため、再び征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば私怨で味方の武将を見殺しにしたため中央に召還される。
司馬肜伝によれば、このタイミングで大将軍(上公)になっている。
中央と西方の移動が目まぐるしい。
-司馬倫(司馬懿の九男)
司馬炎の死後、征東将軍(二品)になった後すぐに征西大将軍、開府儀同三司(一品)となり、司馬肜の後任として西方に赴任。
無能だったので統治に失敗して中央に召還されて車騎将軍となる。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬炎死後に中央に戻って車騎将軍(二品)となる。
そこから尚書令を経由して司空(三公)となる。
-司馬泰(司馬馗の次男)
病気になって鎮東将軍を辞していたが、司馬炎死後に司空(三公)となる。
そこから石鑑死後に後任として太尉(三公)に転任。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死後に中央に戻って驃騎将軍、開府儀同三司(一品)となり、それから大将軍(上公)に昇進するもそれから半年ほどで死亡。
恵帝の同母弟だけに他とは扱いに差があって優遇されていたが、まさかの30にして死亡。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後、中央に戻り楊駿一派粛清に功績があって衛将軍(二品)に昇進。
そのすぐ後に賈南風らに謀られて死亡。
-司馬允(司馬炎の十男)
前回から引き続き、鎮東大将軍(二品)として揚州に赴任。
299年に中央に戻る(おそらく司馬晃や司馬泰が死んだため)
中央に戻るが、特に役職に変化なし。
-司馬穎(司馬炎の十九男)
中央にいたが、外戚の賈謐と不仲になり、平北将軍(三品)として鄴に駐屯(司馬顒の後任)
それから鎮北大将軍(二品)に昇進。
司馬穎の伝には車騎将軍になったという記述があるが、皇弟筆頭の司馬允よりも先にその手の将軍位に就くとは思い難くまた平北将軍として地方に出されていることもあって信頼性に欠ける。
-司馬楙(司馬望の四男)
楊駿粛清後、撫軍大将軍(二品)になるが、元々は楊駿一派であり死罪だったところを仲の良い司馬繇が勝手に助命したので、司馬亮によって司馬繇共々役職を剥奪され国に押し込められた。
-司馬顒(司馬瓌の長男)
290年代に北方の守りに就いていたが、299年に司馬肜の後任で鎮西将軍(二品)として西方の守りに就く。
ちなみに司馬瓌は司馬孚の六男なので、司馬孚の孫にあたる。
・都督諸軍事視点
司馬肜(〜302):関中・雍・涼諸軍事(291〜291、296〜299)
司馬倫(〜301):徐・兗州諸軍事(291〜291)、関中・雍・涼諸軍事(291〜296)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事(290〜291)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(290〜291)
司馬允(〜300):揚州諸軍事(290〜299)
司馬顒(〜306):関中・雍・涼諸軍事(299〜300)
※司馬穎も299年に鎮北大将軍なので北方の諸軍事の可能性大
-司馬肜(司馬懿の八男)
おおよそ司馬柬の後任。
中央がバタバタしてるためコロコロ役職が変わる。
後に司馬倫の失政で西方に戻るが、性格が悪辣なので司馬顒に代わった。
-司馬倫(司馬懿の九男)
一旦東方の守りに就くが、司馬肜の代わりに西方へ。
しかし反乱を招いたので中央に戻される。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎が死ぬと中央に戻る。
中央に戻るなら何のために西方に向かわせたのかという感じだが、本人はちゃんと理解していて地方に戻りたがったが司馬亮がそれを止めた。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後ほどなくして中央に戻る。
司馬亮は性格を危ぶんで遠くに送ろうとしたが、司馬柬は引き止めたのにこっちはそれでは上手くいくはずもない。
-司馬允(司馬炎の十男)
289年に大きな軍権を握った三人の中で唯一中央に戻らず地方に残る。
といっても司馬晃や司馬泰が死んだので299年には中央へ戻る。
-司馬顒(司馬瓌の長男)
北方の守りをしていたが、司馬肜の代わりに西方の守りを担う。
司馬顒伝によると、関中・雍・涼諸軍事は皇帝に近い血筋の人間しかなれない慣習だが、賢いので特別に就任できたとのこと。
ここまで就任してきたのは司馬亮、司馬駿、司馬泰、司馬柬、司馬肜、司馬倫、司馬顒の七人。
司馬懿の子が四人、恵帝の同母弟が一人は血筋が近い。
ただ、司馬泰は司馬馗の子で別段皇帝と血が近いわけでもないのでこれも能力によって選出されたと言うべきか。
・まとめ(概要)
八王の乱がついに勃発。
司馬炎死後、まもなくして外戚(武帝)の楊駿一派が粛清される。
次いで権力者となった司馬一族の宗師・司馬亮も皇弟のうち二番目に年長の司馬瑋と争う羽目になり、共倒れとなった。
その影には外戚(恵帝)の賈南風らの姿があり、これから10年ほど賈一族の専横が続く。
司馬一族視点としては一族の最年長となり宗師にもなった司馬泰、ほぼ同扱いの司馬晃、恵帝同母弟の司馬柬が中央で高官となる。
司馬柬はさっさと死んでしまったため、司馬亮の弟・司馬肜も中央入り。
地方にはこれまた司馬亮の弟の司馬倫や皇弟最年長となった司馬允などがいる。
その後、司馬肜と司馬倫が交代したり、司馬泰と司馬晃が相次いで死亡したことで司馬允も中央入り。
地方には皇弟の司馬穎や司馬孚の孫の司馬顒などが出てくる。
・まとめ(司馬一族の勢力図)
この時点で八王のうち、5人の名前が出てきた。
じゃあ他はどうしているということで、ついでに司馬一族の勢力図について考える。
司馬一族で権力を持つのはざっと見た感じだと
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
・司馬懿の兄弟の家の年長者(その中でも司馬孚家、司馬馗家が主流)
これらがほぼ全て。
司馬昭の息子(司馬炎の兄弟)はどうした?と思えるが、それらは300年時点ではおそらく子孫を残して全員死んでいる。
上記を踏まえた上で290〜300における各勢力の動向を見ていく。
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
司馬亮(司馬懿の三男):八王。291年に司馬瑋・賈南風らによって殺害
司馬肜(司馬懿の八男):西方と中央を行ったり来たりして最終的に中央高官になる
司馬倫(司馬懿の九男):八王。西方に派遣されるも失敗して中央に召還
・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
司馬柬(司馬炎の三男):291年に病死
司馬瑋(司馬炎の九男):八王。291年に賈南風らによって殺害
司馬允(司馬炎の十男):揚州に赴任していたが、299年に中央に戻る
司馬演(司馬炎の十一男):不治の病でいつ死んだかも不明
司馬乂(司馬炎の十七男):八王。司馬瑋の同母弟なので降格されて領国行き
司馬穎(司馬炎の十九男):八王。北方で大きな軍権を持つ
司馬晏(司馬炎の二十三男):司馬允の同母弟で司馬允に協力する
司馬熾(司馬炎の二十五男):後の懐帝。権力争いに興味なし
・司馬朗家
司馬威(司馬洪の長男):家督。中央で官職に就く
司馬楙(司馬望の四男):最年長。楊駿派だったため役職を剥奪されて領国行き
・司馬孚家
司馬晃(司馬孚の五男):家督兼最年長。296年に病死
司馬顒(司馬瓌の長男):八王。最年長。西方の要職で大きな軍権を持つ
・司馬馗家
司馬植(司馬権の長男):家督。司馬允の代わりに揚州へ行く予定だが中央で渋っている
司馬泰(司馬馗の次男):最年長。299年に病死
司馬越(司馬泰の長男):八王。おそらく中央に存在?
・その他
司馬冏(司馬攸の三〜四男):八王。司馬攸家の家督。中央で官職に就く
この辺りが権力争いに大きく関わってきそうな一族たち。
・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬亮(司馬懿の三男)
司馬孚に次いで一族の模範(宗師)にまでなった一族最年長。
死亡直前の291年時点では一族で圧倒的な高みにあった。
人格面でも大きな問題は見られない。
問題は軍政共に無能だったこと。
高位にありながらそれ相応の能力を持たなかったがために身を滅ぼす羽目になった。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬懿直系以外の一族では司馬泰と並んで最年長組で、能力もあった。
その立ち振舞いは模範にするべきとされるほど称賛された。
直系皇族を支える上では人格面、能力面共に不足を感じない良い人物だと言えるだろう。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最年長組、というか最年長。
人格面でも称賛され、司馬亮に次いで宗師となった。
司馬泰と司馬晃がいればもう少しはマシな事になったんだろうが、逆に言うといなくなったから酷いことになったとも言える。
-司馬柬(司馬炎の三男)
恵帝の同母弟という極めて重要な立場で、司馬炎が地方に自分たちを送り込んだ目的も理解していた。
早死しなければ西方統治に戻って次の乱ぐらいの時に活躍できただろうから惜しまれる人物ではある。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
性格が果断で鋭いというのは要約すると口より先に手が出るタイプと言うことだろう。
司馬炎の息子たちで最も初期に大権を得た三人の中で唯一人格に問題を抱えており、賈南風らにそれを突かれた形。
同母弟の司馬乂もかなりの強情さをしているから血筋なんだろうか。
上に逆らい下に施すという点では関羽に似た所がある。
知性が不足した関羽だとするとこの結果はさもありなんと言ったところか。
今回は初代皇帝司馬炎の死から賈南風が死ぬ直前まで。
つまり290〜300年の半ばまで。
ついに八王の乱に突入し、要職付きも入り乱れることに。
あんまり見るところが多いので抜けてたり間違ってるところがある可能性大。
司馬亮(〜291):上公(289〜291)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)、上公(299〜300)
司馬倫(〜301):一品(291〜300)
司馬晃(〜296):二品(283〜294)、三公(294〜296)
司馬泰(〜299):三公(290〜299)
司馬柬(〜291):一品(290〜291)、上公(291〜291)
司馬瑋(〜291):二品(289〜291)
司馬允(〜300):二品(289〜300)
司馬穎(〜306):二品(299〜300)
司馬楙(〜311):二品(291〜291)
司馬顒(〜306):二品(299〜300)
-司馬亮(司馬懿の三男)
大司馬(上公)で司馬炎の死を迎え、楊駿一派の粛清を期に太宰(上公)へ転任。
しかし、賈南風と謀った司馬瑋によって死亡。
八王最初の犠牲者となる。
-司馬肜(司馬懿の八男)
司馬炎死亡前に征東将軍(二品)まで昇進。
司馬炎が死亡すると司馬柬が中央に戻ってきたため、代わりに征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば中央でごたごたが起きて帰還し、衛将軍(二品)となる。
かと思えば後任で西に赴任していた司馬倫が統治に失敗して異民族が反乱したため、再び征西大将軍(二品)として西に赴任。
かと思えば私怨で味方の武将を見殺しにしたため中央に召還される。
司馬肜伝によれば、このタイミングで大将軍(上公)になっている。
中央と西方の移動が目まぐるしい。
-司馬倫(司馬懿の九男)
司馬炎の死後、征東将軍(二品)になった後すぐに征西大将軍、開府儀同三司(一品)となり、司馬肜の後任として西方に赴任。
無能だったので統治に失敗して中央に召還されて車騎将軍となる。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬炎死後に中央に戻って車騎将軍(二品)となる。
そこから尚書令を経由して司空(三公)となる。
-司馬泰(司馬馗の次男)
病気になって鎮東将軍を辞していたが、司馬炎死後に司空(三公)となる。
そこから石鑑死後に後任として太尉(三公)に転任。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死後に中央に戻って驃騎将軍、開府儀同三司(一品)となり、それから大将軍(上公)に昇進するもそれから半年ほどで死亡。
恵帝の同母弟だけに他とは扱いに差があって優遇されていたが、まさかの30にして死亡。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後、中央に戻り楊駿一派粛清に功績があって衛将軍(二品)に昇進。
そのすぐ後に賈南風らに謀られて死亡。
-司馬允(司馬炎の十男)
前回から引き続き、鎮東大将軍(二品)として揚州に赴任。
299年に中央に戻る(おそらく司馬晃や司馬泰が死んだため)
中央に戻るが、特に役職に変化なし。
-司馬穎(司馬炎の十九男)
中央にいたが、外戚の賈謐と不仲になり、平北将軍(三品)として鄴に駐屯(司馬顒の後任)
それから鎮北大将軍(二品)に昇進。
司馬穎の伝には車騎将軍になったという記述があるが、皇弟筆頭の司馬允よりも先にその手の将軍位に就くとは思い難くまた平北将軍として地方に出されていることもあって信頼性に欠ける。
-司馬楙(司馬望の四男)
楊駿粛清後、撫軍大将軍(二品)になるが、元々は楊駿一派であり死罪だったところを仲の良い司馬繇が勝手に助命したので、司馬亮によって司馬繇共々役職を剥奪され国に押し込められた。
-司馬顒(司馬瓌の長男)
290年代に北方の守りに就いていたが、299年に司馬肜の後任で鎮西将軍(二品)として西方の守りに就く。
ちなみに司馬瓌は司馬孚の六男なので、司馬孚の孫にあたる。
・都督諸軍事視点
司馬肜(〜302):関中・雍・涼諸軍事(291〜291、296〜299)
司馬倫(〜301):徐・兗州諸軍事(291〜291)、関中・雍・涼諸軍事(291〜296)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事(290〜291)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(290〜291)
司馬允(〜300):揚州諸軍事(290〜299)
司馬顒(〜306):関中・雍・涼諸軍事(299〜300)
※司馬穎も299年に鎮北大将軍なので北方の諸軍事の可能性大
-司馬肜(司馬懿の八男)
おおよそ司馬柬の後任。
中央がバタバタしてるためコロコロ役職が変わる。
後に司馬倫の失政で西方に戻るが、性格が悪辣なので司馬顒に代わった。
-司馬倫(司馬懿の九男)
一旦東方の守りに就くが、司馬肜の代わりに西方へ。
しかし反乱を招いたので中央に戻される。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎が死ぬと中央に戻る。
中央に戻るなら何のために西方に向かわせたのかという感じだが、本人はちゃんと理解していて地方に戻りたがったが司馬亮がそれを止めた。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死後ほどなくして中央に戻る。
司馬亮は性格を危ぶんで遠くに送ろうとしたが、司馬柬は引き止めたのにこっちはそれでは上手くいくはずもない。
-司馬允(司馬炎の十男)
289年に大きな軍権を握った三人の中で唯一中央に戻らず地方に残る。
といっても司馬晃や司馬泰が死んだので299年には中央へ戻る。
-司馬顒(司馬瓌の長男)
北方の守りをしていたが、司馬肜の代わりに西方の守りを担う。
司馬顒伝によると、関中・雍・涼諸軍事は皇帝に近い血筋の人間しかなれない慣習だが、賢いので特別に就任できたとのこと。
ここまで就任してきたのは司馬亮、司馬駿、司馬泰、司馬柬、司馬肜、司馬倫、司馬顒の七人。
司馬懿の子が四人、恵帝の同母弟が一人は血筋が近い。
ただ、司馬泰は司馬馗の子で別段皇帝と血が近いわけでもないのでこれも能力によって選出されたと言うべきか。
・まとめ(概要)
八王の乱がついに勃発。
司馬炎死後、まもなくして外戚(武帝)の楊駿一派が粛清される。
次いで権力者となった司馬一族の宗師・司馬亮も皇弟のうち二番目に年長の司馬瑋と争う羽目になり、共倒れとなった。
その影には外戚(恵帝)の賈南風らの姿があり、これから10年ほど賈一族の専横が続く。
司馬一族視点としては一族の最年長となり宗師にもなった司馬泰、ほぼ同扱いの司馬晃、恵帝同母弟の司馬柬が中央で高官となる。
司馬柬はさっさと死んでしまったため、司馬亮の弟・司馬肜も中央入り。
地方にはこれまた司馬亮の弟の司馬倫や皇弟最年長となった司馬允などがいる。
その後、司馬肜と司馬倫が交代したり、司馬泰と司馬晃が相次いで死亡したことで司馬允も中央入り。
地方には皇弟の司馬穎や司馬孚の孫の司馬顒などが出てくる。
・まとめ(司馬一族の勢力図)
この時点で八王のうち、5人の名前が出てきた。
じゃあ他はどうしているということで、ついでに司馬一族の勢力図について考える。
司馬一族で権力を持つのはざっと見た感じだと
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
・司馬懿の兄弟の家の年長者(その中でも司馬孚家、司馬馗家が主流)
これらがほぼ全て。
司馬昭の息子(司馬炎の兄弟)はどうした?と思えるが、それらは300年時点ではおそらく子孫を残して全員死んでいる。
上記を踏まえた上で290〜300における各勢力の動向を見ていく。
・司馬懿の息子(司馬昭の兄弟)
司馬亮(司馬懿の三男):八王。291年に司馬瑋・賈南風らによって殺害
司馬肜(司馬懿の八男):西方と中央を行ったり来たりして最終的に中央高官になる
司馬倫(司馬懿の九男):八王。西方に派遣されるも失敗して中央に召還
・司馬炎の息子(司馬衷の兄弟)
司馬柬(司馬炎の三男):291年に病死
司馬瑋(司馬炎の九男):八王。291年に賈南風らによって殺害
司馬允(司馬炎の十男):揚州に赴任していたが、299年に中央に戻る
司馬演(司馬炎の十一男):不治の病でいつ死んだかも不明
司馬乂(司馬炎の十七男):八王。司馬瑋の同母弟なので降格されて領国行き
司馬穎(司馬炎の十九男):八王。北方で大きな軍権を持つ
司馬晏(司馬炎の二十三男):司馬允の同母弟で司馬允に協力する
司馬熾(司馬炎の二十五男):後の懐帝。権力争いに興味なし
・司馬朗家
司馬威(司馬洪の長男):家督。中央で官職に就く
司馬楙(司馬望の四男):最年長。楊駿派だったため役職を剥奪されて領国行き
・司馬孚家
司馬晃(司馬孚の五男):家督兼最年長。296年に病死
司馬顒(司馬瓌の長男):八王。最年長。西方の要職で大きな軍権を持つ
・司馬馗家
司馬植(司馬権の長男):家督。司馬允の代わりに揚州へ行く予定だが中央で渋っている
司馬泰(司馬馗の次男):最年長。299年に病死
司馬越(司馬泰の長男):八王。おそらく中央に存在?
・その他
司馬冏(司馬攸の三〜四男):八王。司馬攸家の家督。中央で官職に就く
この辺りが権力争いに大きく関わってきそうな一族たち。
・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬亮(司馬懿の三男)
司馬孚に次いで一族の模範(宗師)にまでなった一族最年長。
死亡直前の291年時点では一族で圧倒的な高みにあった。
人格面でも大きな問題は見られない。
問題は軍政共に無能だったこと。
高位にありながらそれ相応の能力を持たなかったがために身を滅ぼす羽目になった。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬懿直系以外の一族では司馬泰と並んで最年長組で、能力もあった。
その立ち振舞いは模範にするべきとされるほど称賛された。
直系皇族を支える上では人格面、能力面共に不足を感じない良い人物だと言えるだろう。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最年長組、というか最年長。
人格面でも称賛され、司馬亮に次いで宗師となった。
司馬泰と司馬晃がいればもう少しはマシな事になったんだろうが、逆に言うといなくなったから酷いことになったとも言える。
-司馬柬(司馬炎の三男)
恵帝の同母弟という極めて重要な立場で、司馬炎が地方に自分たちを送り込んだ目的も理解していた。
早死しなければ西方統治に戻って次の乱ぐらいの時に活躍できただろうから惜しまれる人物ではある。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
性格が果断で鋭いというのは要約すると口より先に手が出るタイプと言うことだろう。
司馬炎の息子たちで最も初期に大権を得た三人の中で唯一人格に問題を抱えており、賈南風らにそれを突かれた形。
同母弟の司馬乂もかなりの強情さをしているから血筋なんだろうか。
上に逆らい下に施すという点では関羽に似た所がある。
知性が不足した関羽だとするとこの結果はさもありなんと言ったところか。
司馬一族の要職網羅、時間が経ったものの第二回。
今回は西晋の中華統一から初代皇帝司馬炎の死まで。
つまり280〜290の期間の話。
・品秩視点(今回より二品以上のみ記載)
司馬攸(〜283):三公(276〜282)、上公(282〜283)
司馬亮(〜291):一品(277〜282)、三公(282〜289)、上公(289〜290)
司馬伷(〜283):一品(277〜283)
司馬駿(〜286):一品(276〜286)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)
司馬晃(〜296):二品(283〜290)
司馬泰(〜299):二品(286〜290)
司馬柬(〜291):二品(289〜290)
司馬瑋(〜291):二品(289〜290)
司馬允(〜300):二品(289〜290)
前回の時期に比べると一品以上にたどり着いている人物が少ない。
これは司馬一族の役割が変化しているというのが大きいか。
前回登場していた人物たちは魏の末期に一族で要職を専有するために大官となっているのが多く、西晋になってからもそれが継続した形。
それらが軒並み死亡していって新たな世代が出てきたのが今回の期間。
新たな世代は中央での要職というよりは地方で軍権を握るようになっている。
これは前王朝の魏の失敗を踏まえた上での措置だろうが、それが後々とんでもないことになっていく。
-司馬攸(司馬昭の次男)
司空(三公)を務めた後、大司馬(上公)として外地に出されようとしたところで悶死。
八王の乱の端緒となった。
-司馬亮(司馬懿の三男)
統一以後、太尉(三公)としてしばらく務めた後、大司馬(上公)となる。
前回から引き続き生存している唯一の人物。
官職の面でも一族でずば抜けており、司馬孚についで一族の取りまとめ役(宗師)となった。
-司馬伷(司馬懿の四男)
282年に大将軍になっているが、晋書職官志によると司馬伷の大将軍は三公より下とされている。
これは司馬孚が太尉の時の大将軍(司馬師)が初回で、今回は兄の司馬亮が太尉なので同じ扱いになっていると推測される。
よってここの大将軍は上公ではなく一品扱い。
-司馬駿(司馬懿の七男)
統一以前の驃騎将軍を続けてそのまま死亡。
-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に平東将軍(二品)になる。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任で鎮東将軍(二品)として任地に赴いた。
ただ、289年頃に司馬允が鎮東将軍になっているっぽいのでその時期から司馬炎がなくなるまでの役職が不明。
司馬允が平東将軍だったとかで司馬炎死後に鎮東将軍になった可能性もある。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任で鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。
司馬晃と同じく鎮西将軍が司馬柬と被っているが、こちらは病気で都に帰った記述があるので司馬柬と交代でも無理がない。
ちなみに司馬馗は司馬懿や司馬孚の弟。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。なお八王。
平南将軍(二品)として任地に赴き、鎮南将軍(二品)に転じた。
-司馬允(司馬炎の十男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮東将軍(二品)として任地に赴いたようだが、司馬晃と被るので司馬瑋と同じく平東将軍(二品)とかから始まったのかもしれない。
・都督諸軍事視点
司馬伷(〜283):徐・青州諸軍事(280〜283)
司馬駿(〜286):関中・雍・涼諸軍事(270〜286)
司馬肜(〜302):監豫州諸軍事(280年代〜290)
司馬輔(〜283):監并州諸軍事(277〜283)
司馬晃(〜296):徐・青州諸軍事(283〜290)
司馬泰(〜299):関中・雍・涼諸軍事(286〜289?)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事?(289〜290)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(289〜290)
司馬允(〜300):揚・江州諸軍事(289〜290)
-司馬伷(司馬懿の四男)
呉平定後に青州諸軍事も同時に担当。
-司馬駿(司馬懿の七男)
前回から変わらず三地域の諸軍事を担当。
-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に監豫州諸軍事となる。
生年は不明だが、上の兄弟から結構年齢が離れていると思われる。
-司馬輔(司馬孚の三男)
官位としては三品が上限で監并州諸軍事になっている。
上の司馬望が205年生まれだからその時期には相当な年齢になってる。
もうちょっと生きてればもうちょっと高みには行けたのかもしれないが寿命だろう。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任として徐・青州諸軍事となる。
司馬懿の直系以外では最も高い位置にいるのではないだろうか。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任として関中・雍・涼諸軍事となる。
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最高位で、後に司馬亮の代わりに宗師となることから司馬亮以外の最年長と推測される。
-司馬柬(司馬炎の三男)
武帝期最後の大異動である289年に秦王となった。
諸軍事になったとかの記載はないが、秦王であるのなら司馬泰の後任で関中・雍・涼諸軍事だろう。
関中・雍・涼諸軍事は司馬一族でも最も頼りになる人間が就く最重要職だが、恵帝の同母弟かつそれなりの才能を持っていたので当てられたのではないだろうか。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬柬と同じく289年に楚王兼荊州諸軍事となった。
-司馬允(司馬炎の十男)
司馬柬と同じく289年に淮南王兼揚・江州諸軍事となった。
・まとめ
前回登場した中からは司馬亮以外が死亡。
司馬亮は地方から中央に戻るが孤軍奮闘状態で、どちらかというと外戚の楊駿の一族の権勢のほうが勝っている。
地方でまず台頭してきたのは司馬孚一族の司馬晃と司馬馗一族の司馬泰。
これらはおそらく前回の司馬孚・司馬望のような司馬懿直系以外での最年長組。
司馬伷と司馬駿の後任としても問題なく働いているからまずまずの能力はあったと言えるだろう。
そして少なくなった司馬懿の息子たちからは司馬肜も出てくる。
他の兄弟からするとあまり要職には就いておらず、能力的にはあまり評価されてないとも言えるか。
司馬炎晩年には次代の司馬衷を補佐させるために司馬炎の息子のうち上から三人の司馬柬、司馬瑋、司馬允が地方に赴任。
それぞれ地方で大きな軍勢を率いることになり、この時点では問題にならないが後々酷いことになっていく。
・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬攸(司馬昭の次男)
司馬炎の実弟にして司馬師の後継者。
司馬一族の西晋までの成り立ちのおかげで複雑なことになっており、司馬炎からはかなり警戒されていた。
領国に行くように指示されたせいで病死。享年38。
晋書では至るところで「司馬攸が生きていればなあ」みたいなことが書かれていて、かなりその能力を期待されていたようだ。
ただ、領国に行けと言われて患うような精神の不安定さで本当に西晋を救えたのか?と思わないでもない。
まだ30代だしだったら一旦領国に退いて情勢を見極めよう、みたいな強かさがないのではこの後の外戚との戦いで生き残れるとも思えない。
-司馬伷(司馬懿の四男)
主に対呉戦で能力を発揮した司馬一族。
その関係でコーエーの三國志シリーズにも出てくる数少ない人物。
司馬伷が出るなら司馬駿ぐらい出てもええやんって思わなくもない。
呉平定の功績がある皇族にも関わらず驕らなかったので人物的な評価も良い。
-司馬駿(司馬懿の七男)
コーエーの三國志シリーズには出てこないので結構マイナーだが、この時期ではおそらく司馬一族最強。
武力、政治力、人格全て文句なしの超人で、外敵に困った時は司馬駿を派遣すれば大体なんとかなる。
司馬攸の帰国に反対した唯一の人物で、それが叶わなかったので病気になって286年に死亡。
司馬攸の死に連鎖したようなものだから本当にこの判断は駄目だった。
-司馬輔(司馬孚の三男)
司馬孚死後の司馬孚一族の年長者。
283年に中央入りして284年に死亡。
順当に出世はしていたが、上り詰めるよりも先に寿命が来た感じ。
司馬輔死後は司馬晃が司馬孚一族の最年長となる。
というか、司馬孚の息子で生きてるのが司馬晃だけになった。
今回は西晋の中華統一から初代皇帝司馬炎の死まで。
つまり280〜290の期間の話。
・品秩視点(今回より二品以上のみ記載)
司馬攸(〜283):三公(276〜282)、上公(282〜283)
司馬亮(〜291):一品(277〜282)、三公(282〜289)、上公(289〜290)
司馬伷(〜283):一品(277〜283)
司馬駿(〜286):一品(276〜286)
司馬肜(〜302):二品(280年代〜299)
司馬晃(〜296):二品(283〜290)
司馬泰(〜299):二品(286〜290)
司馬柬(〜291):二品(289〜290)
司馬瑋(〜291):二品(289〜290)
司馬允(〜300):二品(289〜290)
前回の時期に比べると一品以上にたどり着いている人物が少ない。
これは司馬一族の役割が変化しているというのが大きいか。
前回登場していた人物たちは魏の末期に一族で要職を専有するために大官となっているのが多く、西晋になってからもそれが継続した形。
それらが軒並み死亡していって新たな世代が出てきたのが今回の期間。
新たな世代は中央での要職というよりは地方で軍権を握るようになっている。
これは前王朝の魏の失敗を踏まえた上での措置だろうが、それが後々とんでもないことになっていく。
-司馬攸(司馬昭の次男)
司空(三公)を務めた後、大司馬(上公)として外地に出されようとしたところで悶死。
八王の乱の端緒となった。
-司馬亮(司馬懿の三男)
統一以後、太尉(三公)としてしばらく務めた後、大司馬(上公)となる。
前回から引き続き生存している唯一の人物。
官職の面でも一族でずば抜けており、司馬孚についで一族の取りまとめ役(宗師)となった。
-司馬伷(司馬懿の四男)
282年に大将軍になっているが、晋書職官志によると司馬伷の大将軍は三公より下とされている。
これは司馬孚が太尉の時の大将軍(司馬師)が初回で、今回は兄の司馬亮が太尉なので同じ扱いになっていると推測される。
よってここの大将軍は上公ではなく一品扱い。
-司馬駿(司馬懿の七男)
統一以前の驃騎将軍を続けてそのまま死亡。
-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に平東将軍(二品)になる。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任で鎮東将軍(二品)として任地に赴いた。
ただ、289年頃に司馬允が鎮東将軍になっているっぽいのでその時期から司馬炎がなくなるまでの役職が不明。
司馬允が平東将軍だったとかで司馬炎死後に鎮東将軍になった可能性もある。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任で鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。
司馬晃と同じく鎮西将軍が司馬柬と被っているが、こちらは病気で都に帰った記述があるので司馬柬と交代でも無理がない。
ちなみに司馬馗は司馬懿や司馬孚の弟。
-司馬柬(司馬炎の三男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮西将軍(二品)として任地に赴いた。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。なお八王。
平南将軍(二品)として任地に赴き、鎮南将軍(二品)に転じた。
-司馬允(司馬炎の十男)
司馬炎死亡前の一族補強枠。
鎮東将軍(二品)として任地に赴いたようだが、司馬晃と被るので司馬瑋と同じく平東将軍(二品)とかから始まったのかもしれない。
・都督諸軍事視点
司馬伷(〜283):徐・青州諸軍事(280〜283)
司馬駿(〜286):関中・雍・涼諸軍事(270〜286)
司馬肜(〜302):監豫州諸軍事(280年代〜290)
司馬輔(〜283):監并州諸軍事(277〜283)
司馬晃(〜296):徐・青州諸軍事(283〜290)
司馬泰(〜299):関中・雍・涼諸軍事(286〜289?)
司馬柬(〜291):関中・雍・涼諸軍事?(289〜290)
司馬瑋(〜291):荊州諸軍事(289〜290)
司馬允(〜300):揚・江州諸軍事(289〜290)
-司馬伷(司馬懿の四男)
呉平定後に青州諸軍事も同時に担当。
-司馬駿(司馬懿の七男)
前回から変わらず三地域の諸軍事を担当。
-司馬肜(司馬懿の八男)
280年代に監豫州諸軍事となる。
生年は不明だが、上の兄弟から結構年齢が離れていると思われる。
-司馬輔(司馬孚の三男)
官位としては三品が上限で監并州諸軍事になっている。
上の司馬望が205年生まれだからその時期には相当な年齢になってる。
もうちょっと生きてればもうちょっと高みには行けたのかもしれないが寿命だろう。
-司馬晃(司馬孚の五男)
司馬伷の後任として徐・青州諸軍事となる。
司馬懿の直系以外では最も高い位置にいるのではないだろうか。
-司馬泰(司馬馗の次男)
司馬駿の後任として関中・雍・涼諸軍事となる。
司馬晃と同じく司馬懿直系以外の最高位で、後に司馬亮の代わりに宗師となることから司馬亮以外の最年長と推測される。
-司馬柬(司馬炎の三男)
武帝期最後の大異動である289年に秦王となった。
諸軍事になったとかの記載はないが、秦王であるのなら司馬泰の後任で関中・雍・涼諸軍事だろう。
関中・雍・涼諸軍事は司馬一族でも最も頼りになる人間が就く最重要職だが、恵帝の同母弟かつそれなりの才能を持っていたので当てられたのではないだろうか。
-司馬瑋(司馬炎の九男)
司馬柬と同じく289年に楚王兼荊州諸軍事となった。
-司馬允(司馬炎の十男)
司馬柬と同じく289年に淮南王兼揚・江州諸軍事となった。
・まとめ
前回登場した中からは司馬亮以外が死亡。
司馬亮は地方から中央に戻るが孤軍奮闘状態で、どちらかというと外戚の楊駿の一族の権勢のほうが勝っている。
地方でまず台頭してきたのは司馬孚一族の司馬晃と司馬馗一族の司馬泰。
これらはおそらく前回の司馬孚・司馬望のような司馬懿直系以外での最年長組。
司馬伷と司馬駿の後任としても問題なく働いているからまずまずの能力はあったと言えるだろう。
そして少なくなった司馬懿の息子たちからは司馬肜も出てくる。
他の兄弟からするとあまり要職には就いておらず、能力的にはあまり評価されてないとも言えるか。
司馬炎晩年には次代の司馬衷を補佐させるために司馬炎の息子のうち上から三人の司馬柬、司馬瑋、司馬允が地方に赴任。
それぞれ地方で大きな軍勢を率いることになり、この時点では問題にならないが後々酷いことになっていく。
・この時期に亡くなった主要人物の評
-司馬攸(司馬昭の次男)
司馬炎の実弟にして司馬師の後継者。
司馬一族の西晋までの成り立ちのおかげで複雑なことになっており、司馬炎からはかなり警戒されていた。
領国に行くように指示されたせいで病死。享年38。
晋書では至るところで「司馬攸が生きていればなあ」みたいなことが書かれていて、かなりその能力を期待されていたようだ。
ただ、領国に行けと言われて患うような精神の不安定さで本当に西晋を救えたのか?と思わないでもない。
まだ30代だしだったら一旦領国に退いて情勢を見極めよう、みたいな強かさがないのではこの後の外戚との戦いで生き残れるとも思えない。
-司馬伷(司馬懿の四男)
主に対呉戦で能力を発揮した司馬一族。
その関係でコーエーの三國志シリーズにも出てくる数少ない人物。
司馬伷が出るなら司馬駿ぐらい出てもええやんって思わなくもない。
呉平定の功績がある皇族にも関わらず驕らなかったので人物的な評価も良い。
-司馬駿(司馬懿の七男)
コーエーの三國志シリーズには出てこないので結構マイナーだが、この時期ではおそらく司馬一族最強。
武力、政治力、人格全て文句なしの超人で、外敵に困った時は司馬駿を派遣すれば大体なんとかなる。
司馬攸の帰国に反対した唯一の人物で、それが叶わなかったので病気になって286年に死亡。
司馬攸の死に連鎖したようなものだから本当にこの判断は駄目だった。
-司馬輔(司馬孚の三男)
司馬孚死後の司馬孚一族の年長者。
283年に中央入りして284年に死亡。
順当に出世はしていたが、上り詰めるよりも先に寿命が来た感じ。
司馬輔死後は司馬晃が司馬孚一族の最年長となる。
というか、司馬孚の息子で生きてるのが司馬晃だけになった。
・前回のあらすじ3行
同盟切れ直後の電撃戦によって曹操の拠点の半分を落とす。
東では曹操、袁紹、透華による都市争奪戦が繰り広げられる。
一息つく中、透華よりさらなる曹操領攻撃の打診を受けた。
続きを読む
同盟切れ直後の電撃戦によって曹操の拠点の半分を落とす。
東では曹操、袁紹、透華による都市争奪戦が繰り広げられる。
一息つく中、透華よりさらなる曹操領攻撃の打診を受けた。
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