浦壁伸周(うらかべのぶちか)の哲学研究所

浦壁伸周(うらかべのぶちか)の哲学研究所です

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第7セオリー

人は何の為に生きているか?
それを探求する学問が哲学である。 
だが、自分が生きる目的を見つけたと思った次の刹那には
既に分からなくなってしまうのが人生である。
一生、探し続けるしかない。 

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第6セオリー

人間は自己嫌悪する動物である。
他の動物は自己嫌悪に陥らない。
では、自己嫌悪するのは人間らしい行動だと胸を張るべきか?
誇らしい心理活動ではない。
「半年間ブログを更新しなかった。読者に悪いことをした」
自分を責めることで、逆に心理的に楽になっている気がする。
はっきり言うと偽善だ。

そんなことを考えた残暑の夕暮れであった。

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第5セオリー

人間の世界では、愛が語られる。
愛という言葉が時代超えて流れている。
なぜか。
DNAに組み込まれた生殖本能の奴隷としての概念化か。
そうではない。神も愛を語る。
この愛の本質は何か。
なぜかくもそれが世界で語られているか。
人間は、人間の存在の根源的欲求、アイデンティティへの欲求を他者なしに獲得出来ないということに他ならない。
他者を通しての自己のアイデンティティの充足への欲求が、愛を語らせ、人々の膨大なアイデンティティ希求が神の愛もつくり出す。
愛を語ることは、存在interactionalであることを根拠づける本能的言語操作ということに他ならない。
哲学はアイデンティティの在処を示す。

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第4セオリー

では、どの様な哲学で存在を眺めるか。
神の視座とは別に、今ここに存在の根拠を見出す現世肯定の視座がある。
存在は所与であるという視座である。
ここで存在は、他動的な関係性の中に立ち現れる。
如何に存在するかは、如何によりよく生きるかという問いに置換され、人々への貢献の中に、その貢献度の高みの中に拡散される。
即ち、視座を所与に置けば、存在の意味の創造の地平が開かれる。
それは操作可能な世界の構築だ。
それが故に、ここには哲学によって可能性が開かれる希望の地平がある。
例えば、挫折を歓迎しよう。それこそが機会。パラダイムシフトせよ。
というメッセージとして操作可能となる。
つまり、常に希望は哲学の中にある。
では、具体的にどう考えるか。
その時、どこに飛躍するか、対極のパラダイムこそが明日の光の源泉だ。

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第3セオリー

さて、アイデンティティを神の世界に置くということ、自分が世界にはないということは、キリスト教の世界観である。
存在の根拠はこの世にない。神の国にある。
このことがこの神なしの世界を考えるとき、存在の虚無をつくり出す。
ニヒリズムは日本には生まれない。
神の信仰の国に生まれる。
仮に、虚無を認識したとすれば、それは、神の国のウィルスだ。
神の概念が移植されたに過ぎない。
それが故に、神の国キリストを信じる場合、この世で生きる指針は、神の国から発せられる。
ところで、アイデンティティないし存在の意味を問うという哲学は、どこからやって来たか。
自明なことは、この存在の根拠は、神の国にあるという概念が生み出した哲学だ。
それが故に、ここでは存在の意味を問うな。存在の根拠に向かうな。と主張する。
そこは哲学としてのキリストの住居だからだ。
どこから来て、今どこに居て、これからどこへ行くか。
この問は罠だ。
この背後にある哲学的な世界観に気づかなければならない。
この哲学がどこからやって来たか、ここに目を向けよ。
ここが存在の意味論を生み出すエネルギーセンターだ。

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第2セオリー

人間は例外なく、重いアイデンティティ欠乏症に罹っている。
常にアイデンティティを求めて止まない存在。
それこそが、自分が自分であることの証明であり、根拠だ。
誰しも自分の存在を否定されることを許せない。
他者による否定のみならず、自らの存在の根拠が虚無であることを許さない。
それが故に、無意識又は、意識としてのアイデンティティ希求は、存在の虚無への恐れと攻撃に他ならない。
逆に、アイデンティティ充足こそが、存在の虚無を無限の豊穣へ変える魔法となる。
人間は、これを求める哲学的存在に他ならない。
さて、人間の行動原理の深奥にアイデンティティを求めるエネルギーセンターがあるということだが、それは、自己の存在の根拠、即ち、存在の意味を求めるエネルギーだ。
人間は、自分が意味のない存在であることに耐えられない。
仮に、意味がなければ生存の理由がない。
つまり、生きることが出来ない。
存在の意味の問いは、無意識の内の、哲学的な問いである。
あるいは、行動のエネルギーセンターである。
では、この哲学的な問いとは、どのようにして人間を方向づけて来たか。
人間が哲学の歴史の流れとして、2つの方向で問い、哲学し、生き、歴史をつくって来た。
ひとつは、存在の意味があるという哲学。
もうひとつは、存在の意味を問わない、という哲学。
これは、存在を所与して、肯定する哲学。
前者は神を創造し、神にその存在の根拠を置く。
後者は、存在の基盤を「今、ここに」置く。
例えば、ここでは社会的関係性の中に意味を見出す。
interactionalの視座へ飛躍せよ、ということである。

浦壁伸周(うらかべのぶちか)のフィロソフィ第1セオリー

人間は哲学の住人。
生きるとは哲学を生きることであって、それ以外の生はない。
さて、あらゆる生、ないし人生とは、哲学のそれであって、それらの結果は全て哲学の結果である。
よい生、ないし人生の結果を手に入れようとするためには、自らの哲学が如何なるものかを日常を離れ、自らの生の全体を鳥瞰図から眺め、客観化し、縮小化して哲学の俎上に乗せなければならない。
例えば、人生の幸や不幸は哲学が決定者であると自覚することが肝要。
例えば、成功や不成功の根本原因は、決して能力ではない。出生でもない。学歴でもない。運でもない。時代でもない。ということを自らの哲学として受け止めなければならない。
少なくとも、能力を問わない。出生を問わない。学歴を問わない。
姿形を問わない。運を問わない。
唯、只管に、自らの哲学を問え。ということである。
仮に成功を望むのであれば、そのような哲学に立って生きなければならない。
全ての出来事は哲学にのみ根源があり、それが故によりよい生を生きるのであれば、全ての原因が自己の哲学に内在し、全ての可能性が自らの哲学に内在することを受け入れなければならない。
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