2010徒歩の旅

2012年03月30日

人生はエゴライフ

14日目には名古屋の熱田神宮まで戻ってきていた
考えることはエゴばかりっていうか
エゴによって考えがシーソーみたいに
ギッコンバッコン上がって下がって定まらない

この先歩き続ける気持ちもエゴならば軽くやめてしまうのもエゴ
エゴってやつがボクを苦しめる

もう何も考えないで歩くことなどできないのか?
邪念だ 煩悩だ ちくしょうぅぅぅ‥‥何で歩いている‥‥ん?

答えを探しているんだろ‥‥

何の答えだ?

何の答えって きみ‥‥夢を見たじゃないか
あの夢が伊勢神宮へ導いたんだぞ

あぁ‥‥でも電車でもよかったんじゃないかな

何言ってんだバカ 夢の中で歩いてたじゃん
結構リアルな夢だったじゃんよ

確かに‥‥まるでずっと昔からそうしていたような気がしたな
でもそれもボクのエゴかもな‥‥

そりゃ確かにエゴかもしれないよ
夢のお告げや解釈は昔から巫女の役目と決まってんだ
巫女ってのはシャマンだよ 言ったら呪術者だ
選ばれし神からのメッセージを
受け取れる純真無垢な心を維持するため
完全に隔絶されていた世界で
名前も戸籍も持たされなかった神秘の使いだ(多分)
そんな巫女を差し置いて
勝手に解釈したのは間違いの始まりだったかもな

何かあると思ったんだよ 途中で終わった
夢の続きが見れるんじゃないかって思ったんだ‥‥神様が伊勢神宮まで行ったら
なんかくれるように思ったんだ‥‥ご褒美的な‥‥

名古屋についたボクは この先木曽路に向けて北上しながらも
名古屋駅辺りで もう憂鬱でたまらなかった
風が強かったし この先もっと寒くなる山の中へ
向かうのだと思うと足が進まない
東海道を歩こうかと思っても 格好つけるボクの中の別のボクが
どうせなら険しい道を行こうぜと囁くし
また違う飽きっぽいボクが東海道はもう飽きたよとブチブチ言ってる

気がつくと一人の男に電話をかけていた
友である朋祐はキッパリ止めちゃいなさいと優しくボクの背中を押してくれた

ありがと うん やめたかったのボクも
何で歩いているのかもうわかったしね
なんで歩きたくないのかもうわかったし
全く素直って言うのが一番近道を歩くんだなぁ
と今回は思い知らされた

素直になるために それはつまり心と体を真っ直ぐにするために
2011年もボクは歩かなければならないのだろうかなんて
名古屋から乗り込んだバスの中で思った

景色は瞬く間に過ぎていき 歩いてきた道のりは夕日の中で輝きながら
やがて闇に包まれた

かつて修行によってエゴを消し去った
ブッダの最後を知っているだろうか
彼の人生80年の最後を締めくくった毒入りの料理の話を‥‥

ブッダはそれが毒入りだったということを知って食べ死んだのだ
毒を盛ったのは ジュンダという鍛冶屋の青年で
出家していなかったがブッダをとても尊敬し 歓待の準備をしていた
自分の住む村にやってくるという話を聞いて家に招き食事をふるまおうと準備していた
できる限りの最高のもてなしをしようと張り切ったのだが
あやまって毒キノコを料理してしまったのだ

激しい腹痛に見舞われながら ブッダは落ち着いて
一番弟子のアーナンダにいった

ううぅぅっ‥‥きっと誰かが言い出すだろう
ジュンダは毒料理を食べさせた
徳のない悪党だと しかしそれは間違いであるぞ
私はジュンダの料理を最後の供養として逝くのであるから
第一にこの生涯のさとりを大成させ
第二に大般涅槃に至らせてくれたのである
この供養は 私が受けた供養の中でも
最も重要なものである ジュンダは大いなる徳を積み
偉大な尊者となるべき偉業を成し遂げたのだ
ジュンダを恨んではならないぞ と

ジュンダのしたことは起こるべくして起こり
ありがたく受け取るべきものだとブッダは弟子を諭した

‥‥まいった

エゴがなくなると死なんか悲しいというより
うれしい新たな世界への旅立ちになっちゃう
いくら起きる全ての現象をありがたく受け取るなんて考えても
ボクには到底到達不可能な世界だ 殺してくれてありがとうっていうんだから

歩くのをやめると電話口で伝えると 朋祐は
それが仏の御心によって動かされるものならば
すべては非常にスムーズに運ぶでしょうといった

全くそうだ 今回はここで終わるけど
いつか神仏がそれを成し遂げてくれるのなら
その時が来るまで歩き続ける 何度だって何度だって
始まりも終わりも好きに決めることができる
誰もが自由にそれぞれの始まりと終わりを決めていい
ボクは せっかく現れたこの転校生のようなエゴと
できるだけ仲良くこれから
付き合っていこうと思う
エゴと向き合うことこそが エゴを消し去る第一歩なんだね

ありがとうブッダ ありがとう神様 ありがとう朋祐

というわけで ボクが転んだ理が 分ってもらえただろうか 
ボクはすでに来年に向けて 新しいトレッキングシューズを買って
それは膝を痛めない底厚のもので 撥水性に富んで足元を守り
今度こそ完全制覇を成し遂げるために履き鳴らそうと 全くエゴまみれな思念で
動いて転んだというわけだ

でも一方では 転んで膝を摺り
鼻血を出し 痛みの中で痛がっている自分と
それを離れてみながら楽しんでいる自分もいる
これはきっと‥‥どちらかといえば
エゴを操縦するボクであり それは今回の体験によってもたらされた
新しいボクの一部であるといえるのではないだろうか(超ポジティブ)

あるいは 依然としてボクを邪魔する神の計らいが こんな酷い怪我を負わせたのか
‥‥なんて思う内は まだまだエゴまみれだ


おわり


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2012年03月28日

カエルちゃんもアメンボちゃんもみんな一緒

2011年4月10日5:15に起床して野宿した公園を後にする
夜露で寝袋は濡れていた ボクは東海道有松宿付近にいた

74歳になるおじいちゃんが 朝の散歩中なのか向こうから歩いてきて
ボクを呼び止める 興味津々で 立ち話をしているとどうやら
おじいちゃん 人生の最後を飾る大仕事をしたいらしい

その大仕事っていうのが ボクみたく歩くことのようだ 
あんまり勧められないけど
どんなふうにしてここまで来たか一通り話して聞かせると
大変だなぁとしみじみしていた

その後桶狭間古戦場跡地にて
今川義元の墓前に立ち 手を合わせる
9:30AM名古屋の熱田神宮到着遡ること1時間前 国道のど真ん中で
渡りきれなかった一匹の猫がつぶれて屍となっていた
車の往来が途絶えるとカラスがついばみにやってくる
自然に足が止まり 弔いたい衝動に駆られる
どうしたことか あの猫を弔えるのは自分しかいないと思いながらも
見つめるだけで それをせずに再び歩き出したことが
1年後の今もほろ苦い記憶となって焼き付いている

14:00愛知県弥富市まできた ここはもう愛知の端っこで 
木曽川を越えたら三重県に変わる
コンビニの前で休憩 朝から何も食べず
ここまで来たのは珍しく足の動きが良かったからだ
こういう時は休まず歩き続けるに限る
右足の小指に大きな豆ができていたが
潰してしまうとバランスが取れたのか 却って歩きやすくなった
でも無理すると必ず反動が返ってくる だから休憩

16:45三重県桑名市長島町に入った
ここは国道1号日本橋起点より378.3㌔の地点で
今日はここまでで約33キロ歩いたことになる
あと2時間も歩けば目標の40キロだ
40キロっていったらフルマラソンの距離だから
人間が一回に移動する限界の距離だろうと勝手に思っていた

40㌔に近づくころ 不思議な感覚が‥‥
体が軽い 何も感じない 背中のパックも 足の重たさも
呼吸もしているのかよくわからない ボクは浮いている?みたいで
自分の体から自分が少し離れてしまっていたと思った

ウォーキングハイではないぞ あれはハイになってテンションも
上がって楽しくなる 何より地に足がついてるもの

今までとは違う新しい世界へ突入か
自分が自分の体から離れてるんだもの
それにしちゃやけに冷静だ

なんだか自分の背中を見ているような所にいる
体という形ある容器から抜け出したら
ボクは意外や意外 シャボン玉のように丸くて
肉体を包んでいるかのように膨らんでいたのだ

一句できた 整いました って感じでその時の気分がこれだ

ああそうか 
歩いているという行為から
離れてしまったんだなぁ
どこにも向かっていない
ボクはもう歩いていない
…タロットカードの愚者のよう

息も乱れず全く神懸かった速さのなかで
さては誰かが俺を操ってるなという気持ちの中にいた

次第にボクの体は繁華街を抜け
暗い夜の道を進んで田んぼの畦道の
横で沢山の虫の 泣き声やら
蛙の合唱を横手に聴いていますと
その音がなんとも美しく響いてくる

見上げた空がどうしようもなく美しい
 カセイのせかいって素敵な世界だ

それはもう音を聴いているというよりも
音の中で響き合って
見ているというよりも
互いから発せられる波動の共振を
心が視覚化しているようだった
そして間違いなく その瞬間のボクは
ボクの肉体にいないことを知り
肉体という境界が取り外されていることを知ったのだった

だとするとボクの肉体を動かしているのは誰?
ボクはどこにいる

時計を見ると2時間が過ぎていて
最後は足に重さがのしかかって
自分の体に戻って重力で地面に倒された
よし ただいま

ボクはその瞬間エゴというものが
なんなのかわかった気がしたよ
なぜなら あのわずかな時間のボクは
自力で歩く行為から離れていたからだ

エゴが消えると‥‥想像するだけで
えぇぇ本当かなぁって思うけど
自分の意志とは関係ない所で生かされ歩かされ 動かされ
言葉を喋らされるようになっていくのではと思うな 
突然怒り出したり 笑い出したりするようになるかもしれない
雨が降り 火山が噴火し 地震が起こるように
他人には予測できない人間になってしまうのか

ブッダもそんな絡みづらい人になってしまったというのか‥‥
だとしたらかなり面倒くさい奴だな

あの時膨らんだ意識は 肉体をはみ出し
ボクの住む世界の星や 風や 
カエルの声や 夜の暗さを包み込んでいた
そこに境界も隔たりもなかった

ボクは星であり 風であり カエルの声であり 夜であったのだ
それは空の世界だ

今回のこの旅はボク自身のエゴに始まりエゴに終わるのだ
伊勢神宮参拝の完全制覇は
目論んだ醜いエゴによって成し得ないものとなる
そしてこのエゴを消せない限り ボクの巡礼は完結しない
そう確信した

ということは‥‥エゴが消せるまで一生続くのか 

この不思議な体験から以降
どれだけ歩いても面白くない もう終わっていたんだね

とりあえず伊勢神宮にはついたけどどういう訳か前年と同じ酷い嵐だ
そして寒い 絶対に嫌われていると思った
走り過ぎる車に 水しぶきを浴びせられるのもうんざりだった
トラックなんかバケツの水を頭からかけられるほどの量になる
文句や不満の全部がエゴによるものだと
わかっているから余計につらい
分っていてもそれが正直な気持ちなのだ
歩きたくないのに歩いているのも
分っているボクは酷く落ち込んでいた

どうしたら無の境地で歩けるのだろう‥‥何も望まず 何も期待せず 
全てを受け入れ 全てを浄化する方法はどこにあるのだろう
一足踏むごとに邪念が モグラたたきのモグラみたく 顔を覗かせ
ボクはいちいちハンマーで殴りつけなきゃなんない
そりゃもう疲れる作業だった


つづく


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photon_5d at 00:16|PermalinkComments(0)

2012年03月27日

非日常からの招待状

エゴが消えると 何事にも捕らわれることのない
自由自在な境地に入る
対象に捕らわれず 感情に捕らわれず
感覚にとらわれない境地とはどんな世界だろう‥‥

エゴっていう親近感の湧かない転校生に近づいて
話しかけることになったのは 2回目の挑戦となる伊勢神宮への道を歩いて 
10日目が終わりかける辺りだった
10日も過酷な環境に人間を放り込むと思考や肉体に変化が起こる

心には輝きというものがある 輝きは神だと誰かがいってな‥‥

それでボクは心っていうのを丁度丸い水晶の珠だと見立ててみたい
怪しい占い師が すごい形相で覗き込むようなあれだ

曇りも穢れも傷一つない水晶の珠なら取り込んだ光も 対象物も
ありのままの美しさで映し出してくれるだろう
神道的なら天照大御神の光で 仏教的なら阿弥陀如来の
尽きることない光明の 注ぎ込む場所が心だから
心は 神の光を取りこむ場所かもしれない
心が曇っていたり穢れていると
雲に隠れた太陽みたいになる
晴天と 曇天では見える世界の違いは明らかだ
ゆえに人間の目っていうのは心に影響されていて
高田順次くらいいい加減なもんだ

ボクなんて目の前にあるものを見つけられず
部屋中探し回ることが最近ある(おじいちゃんみたく)
探し疲れて 最後に目の前にあったのを見つけた時の
あの驚きと虚しさ‥‥相当いい加減なボクだからこの日記も真剣に読むだけ
損するかもしれないぞ そして文句や反論は一切受け付けないぞ
だけどやっぱりちゃんと読んでほしいの

要するに ほんとに物を見ているのは眼ではなく心だ
その心は磨き次第で本来の輝きを取り込めるから
ピカピカならば 物をあるがままに映して見せるのだどっかで聞いたな‥‥

そうだ エゴだ エゴを取り払うと
世界を本来のありのままの姿で見せてくれるというあれだ
つまり仏教的には悟りに至る
悟りってのは実はそんなにすごい事でもないのだ
(いや すごい
物を正しく見ることができるだけの事なんだ

多分人類の歴史の中で ブッダが悟りを開くもっと昔の
有史以前のある時人間はみんな
悟りきっていた時代があったんじゃないかって考えることがある

スターウォーズの ジェダイマスターみたいのが当たり前だった頃
人はフォースを使って 巨大な石を積み上げたり遠くの誰かとテレパシーで会話してた‥‥

話がぶっ飛んだけどあったね間違いなく

でも人間は いつからか心を曇らせるようになった
言い換えればエゴという汚れを心という水晶の珠に付着させた
それで天気はいつも曇り時々雨で いつしか悟りは
とても難しいわけのわからないものになっていった

歩いていると実にバリエーション豊富な自分が姿を現す
考えてみれば 歩く以外やることがない地味な行為だ
一言も口を開かない日もあり
歩くフォームに神経を集中して終わる日もある
やけに気分が高揚して 踊りだしたり
歌い続ける時もある ボロボロ泣き出したり
怒りで理性をコントロールできなくなったり大変だ
国道なんかは交通量が多いから声を張り上げるのは問題ない
泣いたって 笑ったって 怒ったってそんなに目立たない
踊りだすのは人がいない所でやるけど
もしそんなボクを見かけても
決して通報なんかせず見て見ぬふりをしてくれ

何しろ非日常的な世界が展開する
今まで気にもしていなかったところの
知らず知らず抑えていた感情が 湧水のように溢れ出し
ボクの心に張り付いていた汚れが剥がれ落ちる気持ちだ

第1回目の時は割とそういうのが多くて
知らない自分に出会うことができて楽しかったもんだ

だけど2回目は体に耐性ができたのか10日目まで酷く苦しい歩きだった
原因のわからない難病と闘っているようだった

エゴっていうのは自分の部屋のように
ほっておけば埃が積もり
ごみが増えるように 定期的な掃除が必要なのだ
その掃除方法はたまに気が付く プチ悟りによって祓われる
ブッダのような悟りの境地に到達すると
もう掃除なんかいらない
エゴは輝く心の光で焼き尽くされてしまうからだ


つづく

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photon_5d at 19:04|PermalinkComments(0)

2012年03月25日

愚者が歩くグシャグシャの道

全部手にすることと 全部手放すことにさして大きな差はないと思う

天国には何でも 望むもの全てが手に入ると誰かが言ってた
一切の苦しみも悩みもなくそこは神に祝福された者だけが集う場所なのだと‥‥

その天国に行けるのは 聖書によると貧しい人たちと言ってる
なんだよ貧しいって 

神も天国も地獄も そんなものは富める一部の人間の
想像によって作り出された架空の世界だと考える人には
面白くもなんともない話だけど
とりあえず聖書は史上最高の売上部数を誇る本であると同時に
2000年近く 語り継がれてきたそれだけで十分敬意を表すべきだ

例え書かれていることが全部フィクションだとしても
捻じ曲げられ 改ざんされていたとしても
ボク達とボク達の先輩 先祖祖先の方々が時に体を張って
その身を挺して命にかえて守ってきた所もありそうじゃないか

そこにはすごい事が少しくらいは
書いてあるに違いないんじゃないだろうか そう考えて話を進めよう

貧しい人っていうのは言い方悪いけど要するにバカだと思う
でもバカっていうのはいい言葉だ
ボクは意外とこのバカが嫌いじゃない
世の中手に負えないバカ野郎っていう奴らが
ボクの人生にはたびたび登場する
多分ボク(バカ)が引き寄せているような気もする

バカを多く見てきたボクが言う
バカは後先の事なんて考える余裕がない 
バカは善悪の区別がつけられない
バカは何も持たない バカはどんなに傷ついても人が好きだ
きっとさびしがりなんだ

タロットカードに描かれるナンバー0の愚者をご存じだろうか
こいつはのつくバカだ
もう自分がどこに向かって歩いているのか気にしていない状態で
不気味なくらいいつもニコニコしてる
ヤクザもつい道をあけてしまうほどだ
持ち物っていったら小さな風呂敷に
何やら荷物のような何かをくるんで携帯しているが
多分その中身は道で見つけた小石や花とかそんなものだろう

そしてこのナンバーもなにやら意味深だ
ゼロを人類史上一番先に発見したのはインド人らしいのだが
このゼロは決して何もないという意味じゃなさそうだ
ゼロはこの世とあの世をつなぐ扉かもしれないぞ

何もなかったらゼロの概念もない
ゼロというマークも存在しないし
誰もゼロに気が付かないはずだ
ゼロの事なんて真剣に考えるのは
博士とか学者とかその道のプロに任せないと
頭が変になるから気を付けろ

タロットの愚者だって最初から愚者だったわけじゃない
考えて考えた 考えすぎて最後はバカになっちゃったのだ

仏教に他力本願という力があるが
愚者もそこに行きついたような気がする
およそバカになっちゃった奴らはみんな
最後の最後にはどうにもならない
えらく強大なパワーに気が付くのだ
自分のちっぽけさや 生きようとすることの傲慢さに

これとは反対の言葉で自力がある
自力本願などという言葉もあるがあくまで俗語であり
仏教的に言うとこの言葉は存在しないようだ 
なぜなら仏教とは仏の教えに帰依(従う)
することを絶対としているから
有無を言わさず 問答無用の世界なのだ
自力で仏の教えを理解することなど言語道断

だけども もちろん何事も初めは自分で行動しなければならない
やるだけやって悩んで苦しんで
それで意外と人生うまくいって 大きな会社を興してみたり
莫大な財産を得てもう何にもしなくても遊んで暮らせる人もいる
そんな人達はみんな自力でやってのけたと思うのだ

そんなのもいいね お城のようなおうちに住んで
移動は自家用ジェット機で 最高級品を世界中から取り寄せ
何不自由なく暮らす‥‥めでたしめでたしだ

そこまでいかなくても 夢に向かって努力して
実現できるならそれは幸せなことだ
そうあるべきだし そう願う
誰だって欲しいものがある 努力するだけの価値があるものが
この世界には一杯ある

だけど全員そういかないのがこの世の不条理
もう生まれた時からどんなに頑張ろうとも
どうにもならない環境や境遇がある
何もお金持ちになろうと願う人間ばかりじゃない
ただ愛する人と一緒にいたい 家族と暮らしたい
生まれた街を平和にしたいなどなどあってみんな頑張る

頑張るけどどうにもならない事なんて沢山だ そして悩み苦しむ
そのうち死んじゃおうなんて考える
こんなに思い通りにいかないなんてどうかしてる
周りはみんな幸せそうだ 努力して夢を達成させているのに
どうして自分だけこうもうまくいかないのだ?
何か悪いことしましたか??

はいっストップ

ここです まさにここ ここが運命の分かれ道
人生どん底にたどり着いた人間が
最後につぶやく言葉です 一生懸命頑張ってきたけどもう限界

疲れちゃっそしてもう何にもなくなった

そこは何にもなくなった人間が 何だかわからないけど
どうにもならない不思議な力を感じ取ることができる地点です

心の貧しい人間は幸いだとイエスは言った
自分の人生がどうしてうまくいかないのか全く理解できないでいるからだ

だが人間持ち物がなくなってくると
最後の最後に何が残っているか見えてくる

愚者っていうのはそういう境地に達した人間だ
そこまでいくともう怖いもんなしだ
東京スカイツリーのてっぺんで
でんぐり返ししちゃうくらいバカになる それでもしも

さぁそこから飛び出しなさい
私がこの手で受け止めるから何も心配することはない

なんて 天からの声を聞こうものなら
ためらうことなく1秒以内に飛び落ちるだろう
それが愚者であり どん底のその底で見つけた裂け目と
その向こうの光だ

彼はもう満たされている たとえ持ち物が風呂敷包み1つで
中にあるのが片っ方の靴下だけだとしても 彼の背中を後押しする
大いなる神秘を感じていることだろう
こいつは信仰心だ 人間の仏性ともいう

不平等と思っていた昔の自分は消え
愚者は 天国の扉を見つける
真っ直ぐな道を歩くことができるのだ

冒頭の全部手にすることと 全部手放すことに
さして大きな差はないと 思うといったのはこういうことだ

だが利口な人間 自力でやってのけたと思っている人間は
天国の扉をくぐることが難しい
ラクダが針の穴を通るくらい難しいんだそうだ(って絶対無理じゃん)

結局自力を過信する人間は エゴもプライドも高く強い
だから どうにもならない絶対的な力に気付けない
いや気付いてはいるのだけど
いつか大洪水や 地殻大変動 隕石落下の天変地異が
起きるまでは地上のトップで居座り続け
起きなくても地上の資源を食い潰すまで贅沢に囲まれて
世界を不平等にして人間社会に格差を作り 自分を冨に
他人を貧に縛り付けていざとなったら専用ロケットで地球脱出なんて
ことも準備して暮しているのだろう

それがいいのか悪いのか ボクは批判するつもりはない
だってもしもボクが彼らのような世界に生まれて
豊かで贅沢に囲まれた人生なら それを
何の疑いもなく受け入れるだろうから

結局人は運命を受け入れて生きるだけなのだ

人それぞれ暮らす世界があって一つの大地があって
一つの空があって空気があって水がある
地球が汚れなければ ボク達は美味しい空気を吸って
美味しい水を飲んで 美味しい食べ物にありつける
それはとても大事なことだと思う

おわり

 
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photon_5d at 23:22|PermalinkComments(0)

2012年03月21日

録音再生して聞く自分の声

この世界は辛く苦しい生きるってどういうことなんだろう‥‥
朝起きて ご飯を食べて 仕事に出かける
出会う人とあいさつし 語らい 冗談を言い時々文句を言ったり
お風呂に入って テレビを見て 友達に電話し雑誌をめくり 欲しいものに目をつける
髪型を変えようか 新しい服を買おうかどこか旅行にでも行こうか 温泉もいい
なにか新しいことを始めてみるのもいい
チェンジだ 人は変われるんだ‥‥
そんな風に思いを巡らし布団にもぐる

目をつぶって夢を見て朝が来る
そんな毎日を繰り返し ある時自分の行動を振り返って
書き出してみるとなんか空しい
このまま年を取って死んじゃうとなると なお虚しい
不定期的に頭の中に吹く一陣の風は ササっと吹き抜ける空っ風だ

生きてこの世界にいる間に ボクが本当にやりたい事ってなんだ?
ボクはそのためにここにやってきたんじゃないのか?
眠る時間も 食べる時間も惜しいくらい夢中になれることが
どこかでボクを待っている‥‥

本当のボクが望んでいる事‥‥誰かおしえて

煩悩について仏教はこんな風に説いている
教えてくれたのはボクの師匠であり
弟子でもあり 友でもある沙門の朋祐さんだ

沙門とは出家して仏門に入った僧侶 人生を修行に捧げる彼とは
まだ若かりし頃 インドで出会った
多分本当はもっと昔から知っていたんだと思う
その朋祐さんがいう所によると 仏教
すなわち仏の教えはエゴが生み出す煩悩で
苦しむボク達を救うためのものであり
救えないとするなら仏教なんて何の意味もないというものだった

しかしボクには彼の言うことがよく理解できなかった
だってもしも仏教が衆生(煩悩の中のボク達)を救おうとしているなら
それこそエゴではないだろうか
という風にボクは考えるからだ

そりゃ余計なお世話というものだ
ボクを救いたいっていえいえ結構です
間に合ってますから

あなたの苦しみを取り除いてあげましょう
なんて言い出すと
もう完全にエゴってるということやろ
一見ありがたいと思える親切も優しさも
エゴになるのだから難解だ

善いことを沢山やって天国を目指そうなんて志もエゴだ
そんなんじゃ天国の扉は開かない
仏教は結果に執着しない行為が大切だと教える
勝つために手段を選ばないなんてのは相当なエゴイストだね
勝ったり 成功したり 受かったり 繁盛したりなんて
大変いい感じで 名誉も富も信用も得るような雰囲気だけど
実際本当に幸せかどうかはその人にしかわからない‥‥

そんな彼ら物質社会の成功を羨ましく思い
彼らのようになりたいと願うボクの心に執着が生まれたら
そのエゴで ボクの幸せが逃げていく
世の中そんなにうまくは行かない
上手く行かないことを上手く行かせようとして
無理すればするほど 苦しみが生まれ
自分自身のエゴが浮き上がってくる

ボクの第二回伊勢神宮への道は
このエゴによって史上空前の苦しみに苛まれた
初日から憂鬱だった 天気もそうだ 寒さもそうだ
まるで神が空の上でボクを見て
お腹を抱えて指差して笑っているような屈辱感さえ味わっていた
寒さの中で身を屈めて小動物のように怯えながら
野宿する自分が惨めで哀れだ

やっと眠ったと思ったら雨が降り出し
服も寝袋もビショビショで 暖かい場所を探して
24時間営業のファストフード店や
ファミリーレストランに飛び込んでも
寝ないでくれと起こされる
心なしか 店内の暖房もボクを追い出すためなのか
下がって寒くなったりする

こんな資本主義社会じゃ 仕方のない事なのかもしれないけど
世間は金のない人間 風呂にも入らない人間には大そうな扱いだ
‥‥ボクは完全にはみ出し者さ

いいさいいのさ そんなことは慣れっこだ
こちとら少年時代からはみ出し者だ

なんて不貞腐れも 自分で自分を苦める悪い心の作用だ
全く ボクの中のエゴが どんどん現れてくる
‥‥伊勢神宮の神様によって


つづく


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