歩きながら思うこと(日本)
2016年01月29日
イスラエル・・・イセラエル

東京から14日歩き続けて ようやくついた日本の神様だけど ひょっとしたらその神様が 遠く離れた外国の中東のイスラエルという国の イスラエル人が昔っから信じていた神様とおんなじだったなんて可能性が出てきたもんだからこいつは事件だが同時に嬉しいな


伊雑宮から朝熊山山頂の金剛證寺へ続く山道を探してようやく看板を見つけた 結構な田舎なので人もいない
前にも書いたけどボクが外国で友達になったイスラエル人達は 世界を混乱させている排金主義の戦争好きのアシュケナージと呼ばれる人たちでないイスラエル人達で付き合ってみると彼らは自然に優しく人に温かく 世界から白い目で見られようとも自分をしっかり持って 神の教えを信じて生きているんだ
彼らはスハラディーと呼ばれる人たちで国を失い不条理な戦争に巻き込まれて酷い暮らしを強いられ 中東一帯に彼らは散らばっている国境という領地の中で イスラエル国籍を有しているスハラディー達は恵まれているがそうでない人達は 同じスハラディーなのに敵味方に分けられて わけもわからず毎日戦わされているのだ

蜂とまむしに注意っていわれても・・・
ボクの友達もみんな兵士だった



国に残っていれば高給でいい暮らしが出来たろうけど やっぱり自分で自由と平和を選んで旅に出たのだ もしも有事に徴兵される日が来ることになっても やっぱり彼らは知らないどこかの国へ逃げちゃうんだろうな
そんなイスラエルには確かに日本とよく似た文化があるように思う もう忘れちゃったけど日本語とよく似た単語で意味も同じ言葉なんかあった 文字もカタカナみたいだし

演歌なんていうのもあって 意味は分からないけど聴いているとこぶしもあってどこか哀愁を感じる 映画なんかもよくみた ボクの親友だったイスラエル人は年齢が近いというのもあって おっさんだから演歌聴いたり 映画も 日本で言ったら男はつらいよ を彷彿させるコメディーシリーズ映画が好きで 時々見てはひとり馬鹿笑いしてしんみりしていた
ボクも彼のパソコンでよく一緒に見ていたけど 何とも言えないわびさび感があったなぁ

結構な山道
こうなってくると ボクの中ではいよいよイスラエルとニッポンの距離が縮まってくる

遠い昔にイスラエルの失われた士族達が 東へ東へ逃げて我が国ニッポンへとやってきた‥‥
彼らはこの国でイスラエルの文化を イスラエルの神を色濃くしみこませていった‥‥
そしてこの国では今なお 神の民といわれた 本当のイスラエル人達が滅亡へと向かうこの世界を止める最後の救世主なのだ
なんてことはよく言われている話だけどね

ボクのロマンはここで終わらない
これじゃまるで古代ユダヤ人が日本と この国の文化を作っていったみたいじゃないか
むしろ太古の昔 実は日本から人類が散っていったんじゃないかって考えてみるのもありだと思うんだ‥‥

断食していたので喉がカラカラだったが 通りすがったバードウオッチング中のおじさんが温かいお茶をくれた
このおじさんは天の使いに違いない
それは人類としての今の人間のカタチが出来上がるもっと前の話‥‥
カタチっていうのは 物質と物質が合わさったものだ その物質がびっしりと並んで
目で見え感触を確かめる事の出来るものだ
その物質は 分子や 原子や 素粒子 なんて 小さく小さく 分解していくと 本当はブルブルと震動しているものらしい
このブルブルした 目に見えない粒子は この世界と どこか違う次元の世界を行ったり来たり出来るものだという事は もう分かっているという
つまり 人間も物質もスカスカでむしろ半透明くらいの方が 自由に動き回れてあなたの知らない世界を旅することができるという事だ


金剛證寺は伊勢神宮の鬼門の方角から邪悪なものが入り込まない様にと造られた

昔はここまでお参りしなけりゃ伊勢参詣とは言えない程重要な場所だった
思っただけで好きなところに移動し高給黒毛和牛ステーキと思った瞬間目の前には 焼き立てのステーキが出てきて おしゃれなお店の素敵なテーブル席で上質のワインを注がれている

そんなことできても1,000年もしないうちに飽きちゃうだろう‥‥時間の概念もないだろうけど退屈

そんな世界から遠い昔に我が国ニッポンに 次元の壁をすり抜けて遠い遠い所から人類の創造者集団がやってきたんだ‥‥


山頂からの眺め
何でもできちゃうと人間の最終的な宝物って頑張って手にする喜びとか 頑張っても頑張っても失う悲しみとかなんだろう 高次元の彼らはもう十分経験を重ねて魂を洗ったからこそアセンションし ボク達のすぐ近くでいつもボクらの努力 ボクらの愚行 そしてボク達の尊い貴行に興味津々でこのロールプレイングのような地球フィールドで ゲームのように続く毎日が どこかでゲームオーバーにならない様に無事に次元上昇することを願っているに違いない その優秀な子孫で技術者達が日本を世界の中心にしてから相関する世界の各地に散らばって文明を興したとか絶対ない話じゃないと思ってる
つづく
世界の中心でロマンを叫ぶ
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2013年05月01日
レイラインを辿って 3
早朝人もまばらな内宮参道
参道を歩いて赤福本店手前を右に曲がると五十鈴川にかかる橋があるので渡る
五十鈴川=イスズガワ≒イエスズがわ≒ジーザス・キリストの川?
目指すは国道32号 その道をずっと歩けば伊雑宮に行ける事はすでに下調べ済みだ
橋を渡り 暫く歩く 左に曲がって庚申塚のある小道を駆け上ると32号にでた
そこで開店始めるドライブインのおじさんに道を尋ねた
おじさんは確かに32号を歩けば伊雑宮には行けるがココを歩いていくやつはいねぇぞと言った
その理由は道がせまいから そして20㌔くらい離れているから
うん そんなことははなから承知 そしてこの道が最短ルートということもも知っている
車に轢かれるなよと温かい言葉を頂いて歩き出す 目の前はいきなりトンネルだ
車に轢かれる確率の一番高いトンネル
トンネルを抜けたら山道だった
道路わきには大変透き通った
水が流れていた 地図を見るとこの川は
伊勢神宮内宮敷地内を通過して五十鈴川と合流している 水の神様が伊雑宮にお祀りされている
大分歩いたあとで人口湖に出た
そしてくたばった
あのこんもりとしたのがどうやら
伊雑宮ようだ かれこれ5時間くらいは歩いただろう・・・あと少しだ
簡単に着いたとおもいきや本当の地獄はこれからだ
いよいよ中に入る
つづく
内宮外宮伊雑宮とボタンはワンセット
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2012年11月20日
ヒマツブシ
ブログのメインだものな 歩いて伊勢神宮へ
ハイ以来伊勢神宮へ向かう徒歩日記から遠ざかってるもの
何を求めて歩くのか


・・・仮にとんでもないお金持ちで 自家用ジェット機なんか持っていたりしたら
多分伊勢神宮まで歩いて行こうなどとは夢にも思わず もっと豪勢な暇つぶしをして
生きているだろうか・・・
人生は退屈という苦痛からできていて いかに暇潰しができるかにかかっているのだよと
誰かが言ってた 仕事だって 遊びだって所詮は暇つぶしの延長線上にあるという
極論なのかもしれないけれど ボクもそんな気がする 一体どこまで続くのかわからない人生
暇を潰す時間は一瞬か それとも永遠なのかと考える時・・・
つまんないことをグダグダと続けている場合じゃないよ
と教えられているような気がするんだ
つまんない事をグダグダ続けて時間を潰しても
それは苦痛から解放されていることにはならないものな
暇潰しっていうか この苦痛から解放されるには
思いっきり楽しい事を見つけるしかない
或いはもしかしたら 本当は楽しくないと思えることでも
楽しみに変えてしまえる魔法の力を身につけることなのかも
しれないのかなって この頃は思う様にもなった
どっちにしても人生とは 暇潰しになるものを探すためのものでもある
楽しい事を見つけてそこに夢中になる すると楽しくて 気持ちよくて
ニコニコしているうちに人生の終わりがあっという間に来てゴールインできるのだ






完璧と呼ばれる世界の裏側には いつだって不完全と呼ばれる
ドロッとした世界もあるからなのだ
そのドロッとした世界では 当然のごとくドロッとした思考や
アイディアやプランがあふれていてすぐにケチをつけに来る
歩いているとどうしてもつまんない事を考えてしまうのがそうだ
走っていてもつまんない事を考える
つまんない事っていうのは先の事だ
先のことほどつまんない事はないとボクは断言するよ
疲れて呼吸が乱れる(ネガティブになる)と文句ばかり思いついて
あとどのくらい歩くのだろうとか あと何キロ歩いたら休もうとか
時間の事とか 要するに計算することだ
そんなバカみたいなことしているせいで
目の前の自分が全然見えなくなってしまうのだ 全くドロッとした嫌なやつだ

弥富は手乗り文鳥の町らしいが・・・デカっ
2011年の5月3日(火曜日)黄砂の残る弥富を朝の5時に出て 12時間歩いて
23号線をひたすら歩いて ゴールデンウィーク中だから 国道はものすごく渋滞していて
ボクはそんな車を追い抜いたり追い抜かれたりしている

四日市を過ぎた辺りのボク

国道1と伊勢街道との分岐点にある昔からの旅人の喉の渇きを潤す美味しい水汲み場

鈴鹿市へ突入するも 町はずれなので渋滞はまだずっと先
ふと周りを見ると 車から熱い視線を感じる
暇つぶしのターゲットになってしまっているボクは
サファリパークの動物になってしまったような気分だ
暇潰しで始めたこの旅も 東京を出て今日で13日目に突入した
ボクの心は今乱されっぱなしだ 他人の視線や どこまでも続く長く平坦な道や
孤独や寒さや疲れや どうでもいい計算によってだ
生きていて人生が嫌になったり 人間不信に陥ったり
自己嫌悪や 先の見えない不安や
マンネリによる虚無感なんか感じたりしたら それはまさに
13日目のボクのありさまと同じに違いない
そんな時こそ他人の事はさておいて 目の前の自分を見つめ直す時だ
外に目を向けず 内側へ潜り込み 出来なさそうで
出来そうなくらいの難しさにチャレンジする時だ
そういう小難しさが人を夢中にさせるのだ
そんなんだから4回も伊勢神宮まで歩いちゃっているのかもしれないよボクは
歩いたり走ったりしている時なら呼吸の乱れや
足運びや 体の歪みが見えてくる
気持ちばかりが慌てていて体がついてきていないことなんかよくあるある
力が偏って入っている所を緩めてみる
背筋を今一度伸ばしてバレリーナのように
頭上から糸で吊られているような気持ちになってみる
訳もなくニコニコしてみるのもアリだし
所詮全て幻さと冷めてみるのもいいし
もしも足のない人生だったらと想像してみるのいいだろう
追い詰められて慌てふためいて
人生が嫌になって悲嘆に暮れている時っていうのは
試練であってチャンスなんだと思ってみよう
それまでの悪機が極まって 好機との境界線まで来てると言う事なんだから
そしたらそこは 出来なさそうで出来そうなくらいの 小難しい暇つぶしには
もってこいの試練なのだと考えよう この世界で最も難しく
最も簡単なのは自分自身の意識を変えることなのだから 自分自身こそ
退屈な人生のヒマツブシの 宝箱なのかもしれないと
悟ったふりをしてみるのもいいだろう
つづく
ヒマツブシに押してみたら?
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2012年06月07日
神の計らい
ボクが普通の人より強く神様を信じているというか見えないモノを見るシックスセンス
ある事は精神世界からの使者の所で軽く触れたがじゃあ神ってなんだ?
ユダヤ人のバイブル旧約聖書の中で 神はあるという存在になっているが
全くうまい事を言うもんだと感心する
見えないけれどあるその見えないものを一筋に信じろと旧約聖書は説いている
従って神を具象化することは絶対に許されないユダヤ教 偶像崇拝はすなわち神が
何だか全く分っていないということだ
そんな奴は神から酷い天罰を下され 一生どころか永遠に幸せになれないと
ユダヤ教は教えている
神とは 古代ユダヤの時代から現在までとてつもなく恐ろしい存在ということだ
それだけに恐ろしい神を味方につければ どんな困難も乗り越え どんな苦境も克服し
必ず幸せになれるというのがユダヤ人の考え方だ
ユダヤの神の教えをしっかり守っていれば誰一人彼らの進む道を邪魔することが出来ない
そして強く信じるほどに 神の示した真っ直ぐな道の ど真ん中を堂々と歩くことができる
そうして国を持てず 虐げられてきた放浪の民は 神が示した場所に建国し
強く信じる力で邪魔するものを蹴散らしてきた
イスラエル国は 中東のアラブ諸国に囲まれた小さな国だ アラブ諸国って言ったら
みんなイスラエルが国を持つことに少なからず不満を持って過去4度も戦争をしてきた
なぜなら神がイスラエルの民に示した約束の地
(神がイスラエルの民に定住することを許した場所)はイスラム諸国にとっても聖地だ
なんで神はこんなややこしい事をするんだ?
人間同士憎み合って殺し合いさせたいのか?
それともそんな複雑でややこしい難題を持ちかけて
人間同士で解決してみろと試練を与えているのか?
聖地エルサレムはユダヤ教 イスラム教だけじゃないキリスト教の聖地でもある
イエスが磔にあったゴルゴダの丘 聖墳墓教会がありそれぞれが強く強く神を信じている場所で
パワースポットだ そうなるとみんな一歩も引けない状態だ(いやー困った・・・)
ボクはこれについて長年(といっても1年くらい)頭を悩ませていた
結局神を強く信じるということに平和的な解決や譲歩は見いだせないのかということにだ
自分の信じている神を侮辱されたり穢されるということは
自分自身を否定されるということよりも酷い行為だ
彼らは神のために命を捧げる覚悟ができている人間たちなのだから
神を信じるほどに自然と短期で怒りっぽい性格を帯びてくる
とことん突き進んでいるし 中途半端じゃない
よって中途半端な人間を見るとムカッとする しっかりせいやぁやんのかこらぁ
と雄叫びも上がる 昔のボクもそうだった
そういうのって自分では全く自覚がなくて 気が付かないものなんだよね
ボクは神を知らず知らず強く信じるうちにヤクザみたくなっていたんだ・・・
そうやって内側から湧き上がってくるパワーって信じる力なんだ
あの頃のボクは 神の存在を自分の内側と外側の両方から感じていたから
神は自分自身でもあると結論付けたりしていた
今ではそんな力どこに行っちゃったのか・・・
年下の彼女ですら歯向かった後の仕返しが怖くて逆らえない
結局解決策はどこにあるのか???
それを説いたのがキリスト教のイエスだ 彼は本当にこの世界を救う救世主で
神が人間の世界に送り込んだ使者だった だけども人間は
イエスが何をしにこの世に生まれてきたのか全く理解できなかったんだ
ボクはキリスト教信者じゃないけどね イエスの物語を読むと本当にすげぇ
救われちゃったかもって思える
そんな気持ちにさせてくれたのが 遠藤周作の著作 イエスの生涯だった
実に絶妙なタイミングで この本はボクの右手を手繰り寄せて書店の本棚から引き出させたのだ
思い起こせばもう30年前にもなる・・・あの時も この本はボクの右手を手繰り寄せ
書店の本棚から引き出させた
今回の旅の友
当時ボクはまだ中学生で記憶が正しければ なんで日本人が国語を勉強しなきゃならないんだ
というくらい国語の授業も 活字も大嫌いだった よって本なんか読んだこともなければ
感想文も 作文も 大の苦手でそういう類の宿題は いつも気がおかしくなるくらい頭を悩ませた
そんなある日の国語の授業の時 当時の国語を担当していた吉田先生が読書の奨励をしながら
本の選び方について授業中にこう話した
実際本なんて読んでみないと内容なんてわからないもんだ だから本というのは直感がものをいう
頭を空にして 題名と表紙で選べ するとなかなかいい出会いを果たすもんだ・・・
この話を聞いてボクは何故か本を買ってみたくなった
(頭を空にするのは得意だから というより選んでみたくなって本屋に足を運んだ
まず端っこから 赤川次郎も 芥川龍之介もスルーして 石川啄木も井伏鱒二もスルーして
遠藤周作の所で指が止まってこの本だ
中学生でちんちんに毛が生え始めた子供が選ぶ本じゃないぜぇ
って今のボクなら思う でもこれは 紛れもなくボクが初めて自分で選んで
初めて自分で買った本なのだ 全くあの頃のボクに訊けるもんなら訊いてみたいよ
本当に頭が空っぽだったか 或いは中学生のボクなりの目一杯の背伸びと
プライドと 格好つけで選んだのか・・・
こういう本を選んで買ったことで 他人の目にインテリチックに映り
まずは書店のレジのお姉さんに好印象を与え クラスメイトの女子に好印象を与え
学校の先生にも両親にも好印象を与えるオペレーションの一アイテムにして
作戦は成功したんだっけか
残念がらそうはならなかった ボクはこの本を買って開いて
2ページ目をめくることなく断念したからだ
やっぱり中学生のボクにはイエスも ガリラヤも ナザレもベツレヘムも
あまりにかけ離れたピント外れな言葉だった そして本はいつしか姿を消したが
30年後再び本屋で邂逅する
おーい 待ってたよって声が聞こえた そしてボクは30年前に
タイムスリップしたようにあの日の自分を思い出した
ボクはあの日先生に言われるままに 頭を空にしてこの本を選んでいたに違いない
そしてそれは30年後のボクに読ませるため しるしのような記憶を片隅に刻み込ませていたのだ
まさに直感 あの日 神と吉田先生と中学生のボクとイエスの生涯が 現在に通じる
タイムラインを作って30年後のボクに一つの回答を導き出した
ボクはその回答でもって神を説く 今一度神とはなんだと訊いてくれ
神とは愛だ! 全ての生き物を慈しむ優しさだ 決しておっかないものじゃない
恐れる必要はないんだー
救世主だ ローマ帝国の圧政からの解放だと 息巻くよりも イエスはただ貧しい人たち
虐げられた人達 そして病気で苦しんで不衛生な豚小屋みたいな場所で
生活を余儀なくされた人たちの苦しみを 一緒に感じて同じ目線から 苦しみや喜びを
分かち合いたかった そんな優しさが当時には受け入れられず 裏切り者だ 役立たずだ
期待外れだと責められ十字架に磔にされ殺された
磔にされ 脇腹を刺されイエスは神を罵っただろうか 憎しみ恨み悔しんだだろうか
イエスについて布教してきた弟子たちまでも最後はイエスを裏切った
みんなイエスの命と引き換えに免罪になった イエスはそれを全部知っていた
知りながらイエスは命の尽きる最後の最後に神にこういった
神よ 彼ら(弟子たち)を赦してやってください 彼らは何にも知らないのです
こんな人間世界中探したってイエスしかいないだろう
こんな強い人ボクは他に知らない やっぱりあそこ 聖地エルサレムに
世界の三強(ユダヤ イスラム キリスト教)が集まっているのは偶然じゃなくて
絶対に計算し尽くされた神の計らいがあるように思う
つづく
全部フィクションかも知れないけど
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2012年04月09日
ミクロダイナミック
サハラ砂漠のどこかで突風が吹いて
砂漠の民とラクダの大きな瞳に涙が止まらなくなるほどの
砂を巻き上げていったとして

例えばシャンゼリゼ通りのどこかのカフェで
愛を語る恋人同士が 一生破られることのない
誓いのキッスを交わしたとして

或いはアマゾンのジャングルのどこかで激しく
降ったスコールの終わりに目を奪う美しい

大空に掛かったとしても
翌日の0時丁度に全く同じ風が吹くことはないし
同じ大きさの同じ色の 同じ厚さの虹が空に掛かることはないし
同じキッスを同じ恋人同士が交わすことはない
毎日全く同じと思っているならそれは大きな気のせいということだ
ボクが考える神っていうのは絶対に滞らない清純な流れであり
同じものを創らない力だと思っている
その純粋性が創ったこの地球にボクは生きていて歩いていると完璧だと思える瞬間の
足運びも全く同じ動きを繰り返す瞬間は二度とやってこないのだろうなと感じつつ
自分がとんでなく尊いものを創造しているような気持にもなる
歩くというのは何かを創造して ちょっとキープしてその後でぶち壊してまた創造する
ような行為だから神様に近づいた気持にもなって 最後はやっぱり神様っているのだと
感じずにはいられなくなるのだ
まぁ 神様なんて信じようと信じまいとどっちだっていいのだよ
神様を信じていないからダメとか信じているから立派だとかくだらない
神の奇蹟も天罰も思い込み 神という存在は しかし想像を超える純粋性で絶え間なく流れ
創造と破壊を繰り返しているのだろうね
おわり
絶え間なく押せ
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