カチンコ福祉考/つれづれ老々介護日誌風に

 10年前に、その頃、流行し始めた「ブログ」にミーハー的な関心から乗ってしまったのがきっかけだった。当時から、唯一の趣味である映画鑑賞(DVDなども含む)の素人評論のブログだったはずだったけど、7年前に脳梗塞で倒れて要介護老人になった母の「介護日誌」のようにもなってしまった。  介護離職のようなことも体験し、現在はNPO法人のボランティ爺いとなり、本格的な「老々介護」になって5年が経つ。最近では映画のことはあまり書けず(それなりに見ているが)、むしろ政治向きのことに発言する機会が増えた。だから、いつまでも、匿名でこうした発言を続けるのは必ずしもフェアではないと思えるので、そんな「ネトウヨ」みたいな真似をしたくないから、セルフ・イントロダクションを付け加える。障害者福祉の仕事に長年従事し、大学でも福祉職の養成に関わった経験がある当年68才の「団塊」爺い。神戸市の生まれだが、埼玉県民歴はとうに40年を超え、約20年前からは、父の死後、埼玉県西部の田舎町にやってきた母と二人暮らし。名前は佐藤進という。最近の自慢は二人の孫(浪人生、高校生)が、ブーム前から部活にラグビーを選んだということ。

August 2011

民主党代表選について母は語る

 菅総理がついに退陣し、民主党の代表選を経て新しい内閣ができることになった。菅氏はほぼ団塊世代であり、ノンセクト(おそらく)ながら学生運動にも多少なりともかかわっていた。その意味では我々の世代にはある種の親和性があり、なおかつ世襲政治家でもないことで、それなりの期待もあったのだが・・・。仙石氏もそうだが、彼らにはある種の胡散臭さ、それはあの時代の学生運動にあった多数派工作のための党派間の主導権争いが生んだ駆け引きや策略をめぐらすことに溺れる傾向だが、を感じることが多かった。小沢一郎をめぐるさまざまな取り引きにそれは如実に示されているように思えた。菅氏は市民運動家上がりを標榜し、人々はそのことに期待感を持っていたが、多くの場合、運動家は市民(大衆)を操作しようとすることはあっても信頼などしない。しかも、「できる」と見える政治家の本性は扇動家であることが多い。。
 これからも残念ながら、民主党政権の混迷はますます深まることになるだろう。何しろ、すべての候補者が「小沢詣で」をするのだから。どう転ぶかわからないが、小沢氏が推す候補が勝てば単なる傀儡だし、非小沢系が勝てば党内抗争は止むところがないであろう。
 そんな今朝、我が母のご託宣があった。デイからの迎えを待ちながら居間でテレビを見ていたが、代表戦に出る人の顔写真を並べてニュース解説している画面に「ああ、また選挙かいな。けど、この人ら総理大臣になられへんわ!」という。わかったようでわからないことをいうのは珍しくないが、「あのなぁ、この中から誰かが総理大臣になることは決まってるんやで」というと、「なんでや?誰もアカンで。」ときっぱり。昨日は新聞の一面にある小沢一郎の写真を見ながら「私、この人嫌いや、何でいつまでもウロウロしてはるんや。」といっていたが、その流れからというと、5人の候補者がいずれも小沢氏との距離と取り方を悩んでいるのを見て「みんなアカンで。」発言につながったかと思うとなかなか鋭い。世論の一端である。
 ただ、私の「この選挙に勝った人が次に首相になるねん。」という話には、頑固に「なんでや?みんなアカン人やのに・・」と納得しない。面倒くさいので、「はい、はい」と打ち切ったが、これはマスコミ(テレビ)のネガティブキャンペーンの結果というべきか。何しろ、ニュースと天気予報は毎日欠かさず見ているから。それにしても、老い先短い老婆にまで政治的アパシーを感じさせるなんて、「母さん、この国はどこへ行くんでしょうね?」と昔はやったフレーズをもじってみたくなる。

月曜日は休息日

 先週の土曜日は月に一度の通院で、デイサービスはお休みし、昨日は日曜日で連休となる。当然ながら2日間全6食の支度をしなければならない。もちろん、後片付けも洗濯もそしてゴミの整理も・・。加えて、つまらなそうに所在なさげにしている母の機嫌も多少とってやらねばならない。かくして、週末の2日を過ごすと少しぐったりした気分で今日は1日中ゴロゴロと読書三昧で過ごしてしまった。こういう日は勤めていた頃もしょっちゅうあった訳なのに、やはり日々の緊張感がないせいか以前よりも苦痛に感じてしまう。
 それに加えて昨夜から読み始めた本も悪かったかもしれない。津村節子の「紅梅」を読んでいた。彼女の夫の吉村昭は好きな作家のひとりだが、その吉村がガンでなくなったのはもう5年前のことである。その最期の看取りの日々をつづった作品である。妻はやっとそれを書くことができるようになったようだ。吉村は、中心静脈栄養のチューブやポートを自ら引き抜き「もういい」といって死んでいったという。親兄弟を奪い去ったガンを恐れあるいはそれは死への恐怖だったかもしれないが、用心に用心を重ねていたのに舌ガンという思わぬところから発症し、加えて膵ガンがさらに発見されて約2年の闘病の過程が妻の目から見て描かれている作品である。
 退職以後、時間があるのを幸いにたくさん読んだ本の中で、とりわけ感銘を受けたというものではないが、しかし、死にゆく我が身を見つめてくれる人がいるということは、いかにも「死にがい」があるという思いがした。吉村のように死ねるのは羨ましい。
 この夫婦は互いに著名な文学者として活躍してきた。夫は妻の作品をあえて殆ど読まなかったようだが、妻は夫の作品を尊敬を持って見ていた。そして、読者にさえわかるおそらくは夫の誠実で精密な仕事ぶりそのままの人となりを深く愛していたようだ。吉村のどの作品も執念にも似た圧倒的に丹念な取材に裏付けられた時代と事実を背景の中に登場人物を配し、語らせることによって創作でありながらリアリティを担保している。一言で言えば男らしく骨太なのだ。二人は大学の文芸サークルで知り合い、同人誌で腕を磨いていた。作家としては妻の方が先に世に出たが、それでも妻はきっと夫の才能を信じていたのだろう。物書き同士が夫婦でいることは地獄ともいうそうだが、そうして共に生きた50年を経ての別れの日々が綴られていた。
 ひるがえって、私はどうだろう。後何年かわからないが、今、ゆるやかな看取りの日々を過ごしていることは確かだ。仮りに母本人がいうように後3-4年としても、その後はすぐに自分の心配をしなくてはいけない年だ。つまり何があってもおかしくないという年頃になるという意味で。
 自分はどんな死に方ができるのかと考えると、それが想像もつかないだけに少し気弱になる。2日全6食の介護と、たまたま読んだ本の中身ぐらいで・・と思うと情けないが。明日は、仕事に出かける。気分も変わるだろう。

 

お盆がすぎて

 酷暑が戻ってきて、じりじりと照りつける太陽に焼かれる毎日である。にもかかわらず、母はお盆の最中も、日曜日を除いて毎日デイサービスに出かけ元気いっぱいである。デイの方も、年末年始の5日間をのぞくと、日曜日だけが休みで連日営業してくれる。この「くれる」を何気なく表現をすることで、デイサービスが介護をする側にとってありがたいものであるということを改めて感じる。大雑把に言うと、デイサービスが「好き」という高齢者は多数派ではないようだ。ましてやうちの母のように「大好き」というのは、デイの職員からも「珍しい」といわれている。しかし、職員も悪い気がしないらしく、母は結構人気者らしくて「可愛がられて」いるようだ。
 都会のデイサービスでは日曜営業は当たり前というような話も聞く。いずれ、デイサービスならぬナイトサービスとか、かつてのベビーホテルのように、ショートステイに似せた「バビ(バ)−ホテル」のようなものも登場するかもしれない。つまりは、「預かってほしい」と思う家族がいて、そう思われる高齢者がいるということだ。子育て支援の不足が少子化現象の大きな要因であったように、介護支援の不足が高齢社会の深刻さを増すことになる。
  「福祉の不足こそが不景気の原因」と指摘してきた識者は少なくない。かのスウェーデンは保育と介護の徹底した社会化によって、女性の労働を支えるとともに、この分野の雇用を創出し、結果として高度経済成長を推し進めることに成功した。30年も40年も前のことである。我が国のこれから増え続ける要介護高齢者の介護支援の不足は、女性だけでなく、たとえば私のような中高年男性も家庭に引き留められる。そのために国民の所得は増えないし消費も冷えたままとなろう。「貧しい福祉と不況」の連鎖が起きるのである。
 そんなことを感じながら過ごした今年のお盆だが、簡素ながら普段よりは豪華に仏壇にお供えを飾り、寺にも出かけ施餓鬼の卒塔婆をもらってきて、単身赴任先から帰った娘婿もまじえ娘一家4人がやってきて賑やかに食事をして、16日は、デイサービスを休みたくないという母のために、朝一番で墓に一緒に行きお参りをしてからデイまで送り届けてやった。母は年に数回(元旦、お彼岸、お盆など)の墓参をとても大切なものと感じているようで、たとえ、納骨されている配偶者のことはあまり思い出せなくても、「お墓参りしたら、気持ちええわ、気ぃがすっきりするわぁ」と必ずいう。加えて、世間もお盆休みだろうからと、この間は、ヘルパーも頼まず、朝夕の食事づくりに私も頑張ったわけで、だれも褒めてくれないけれど、忙しかった自分をちょっとエライと思っている。

久しぶりの都心での会議で・・ちょっと燃えた?

 昨日は、久しぶりに都心での会議に参加した。退職とともにいろいろなところからも手を退いたが、昨日の会議は数年前に参画した「教科書」の改訂版つくりということで、編集委員のひとりとしてお呼びがあったという次第である。タイトルは「障害者福祉論」だが、この数年めまぐるしく制度が変わり、この先もどこに行きつこうとしているか不透明な障害福祉施策である。だから、改訂作業も見通しがつきにくいので議論も弾まない。
 本格的な少子高齢社会を目前に、遅ればせとはいえ、この10年余の間に福祉制度は大きな変革の時期を経てきた。介護保険の実施を象徴とする「社会福祉基礎構造改革」と呼ばれる,この改革は建物でいえば「基礎」も「構造」も換えるというのだから、制度を全く別のものに建てかえるということが目指されるべきであった。
 介護を要する高齢者や障害のある人たちの選択による福祉サービスの提供という考え方は、確かに従来の制度から見れば180度の転換である。「福祉」がようやく個人の権利として認知されたといってよい。
 そのためには、財源を含めて福祉あるいは社会保障全般を位置づけ直す大胆な財源措置が必要だった。その一つとして、新たな社会保険としての介護保険が導入されたが、障害者施策は乗り遅れてしまった。そのボタンの掛け違いが今日の混乱の原因である。そして、その途上に実現した「政権交代」による民主党政権の無責任なポピュリズムがますます混乱に拍車をかけた。障害者自立支援法の訴訟問題での長妻厚生労働大臣(当時)の安易な屈服はこの10年間の模索を反故にしてしまったといってよい。今日、社会保障の財源担保のために消費税率アップが議論の俎上にあるが、これしかないとわかっていながら、そこに踏み込めないのも、福祉を含む社会保障の諸制度への展望を明らかにすることができず、結果として国民の信頼が希薄なためであろう。
 政府は「障がい者総合福祉法」を目指すというが、その検討を進める委員会での議論の主導権を握る団体や人々は、ひとり障害者施策だけは他の社会保障の諸分野に関わる議論より優越的に扱われるべきだと固く信じているようで、まさに「百家争鳴、言いたい放題」の議論をしているようにみえる。「障害者のことは障害者に任せろ」というのが論拠らしいが・・。しかし、実態は既得権益に固執するどころかさらにそれを独占的に拡大しようとしているとしかみえない。かくして、障害福祉の未来像は混沌とするばかりである。もちろん「政治主導」の片鱗すら与党民主党は見せないし、厚労省もしらばっくれたままだ。
 思えば、2年前の政権交代劇の時は、母の在宅介護を始めて間もない頃だった。新しい政権に期待もあった。
あれから2年余、それでも自民党よりはまし・・・のはずと我慢し続けているが。
 久しぶりに、国会議事堂が見えるようなところで会議に出たので、興奮しているのかもしれない。これも、私なりの「現役復帰」である。
 

携帯をなくして思ったいくつかのこと・・ 

 一昨日、免許の更新に行った。64才の誕生日を先月末に迎えていた。新しくできた免許証を5年前のそれと見比べてみると、もちろん、どっちもじじい顔であることに替わりはないが、少し痩せたうえに髪も一段薄くなり本当に「老人」のように見え、ちょっとがっかりである。それに打ちのめされたわけでもないだろうが、帰りの車の中で、携帯電話がないことに気がついた。免許センターの駐車場でマナーモードを解除したのを覚えているが、どこでなくした皆目見当がつかない。帰り道、ちょっと買い物をするためにホームセンターとコンビニに寄った。その際の車の乗り降りの時にでも落としたか、あるいはうっかりロックをしなかったかもしれない車の助手席にでも置きっぱなしにして「盗まれたか」とも。
 いずれにしても、ないものはないのでドコモショップに駆け込む。保証の契約があったので、5000円あまりの費用で同じ機種が手元にきて約2日ぶりに復活した。この春、退職した際に、気分を変えようと、流行りのスマートフォンに換えたばかりだった。それにしても、「携帯がない、どこを探してもない!」と気がついたときは真っ青という気分だった。「どうしよう?」という種類の不安に襲われたのは久しぶりのことだった。実はたいしたことはないはずなのに、すっかり携帯電話が体の一部のような感覚になっていることに気がついた。携帯を持つようになって、20年弱にはなるが、さほどのヘビーユーザーでもないのに・・。ただ、多くの友人や知人の連絡先のデータバンクになっているのは確かで、なくすと連絡が取れなくなる人も少なくない。(こちらは、春まで使っていた携帯があるので、そこからデータを転送し事なきを得た。)
 ドコモショップは銀行のように番号を札をとって、案内を待つシステムである。10ほどある窓口は満員で、まさに老若男女のお客で「ごった返して」ている。この人たちも携帯が手元にないとわかると、パニックになるのだろうか。携帯はあっという間に世界をそしてその生活文化を席巻し、社会経済構造にも大きなインパクトを与えた。
 私のようなじじいでさえ、たかだか携帯が手元にないというだけで慌てふためく。訳のわからない新手のウイルスにとりつかれたようなものかもしれない。そして、こんな便利なものはもう手放せないだろう。携帯がもたらした文化の変化を決して好ましいと思っていないし、必要以上の氾濫を苦々しく感じていても・・・。
 実は、震災後の原発問題を巡る議論でも、私の中にはそういう躊躇があった。原発の作り出す電気を承知で享受してきたのだから、今更、声高に反対を言いつのるのは憚られという意識だ。さらに言えば、経済成長依存による社会政策にも反対の立場でありながら、実際にその恩恵を被ってきたことも認めざるを得ず、いざとなるとニヒルになってしまう。自分の生き方そのものから出発する「文明論」が必要なのだろうが。

昴☆共生社会研究所の事務所開設準備

 研究所の事務所にあてるために、法人が経営するクリニックが倉庫に使っている建物の整理をした。13年前にオープンした診療所が建つ敷地には、古い納屋のような家屋があった。診療所が手狭になったので、その建物の内装をしかえて子どもたちのリハビリ用スペースとして使っていたが、耐震性に問題ありということで昨年から古いカルテやリハ用具等の倉庫にしていた。
 我が研究所はその志の高さにふさわしく、その大地震にとても耐えそうにない倉庫を半分使って「命懸け」で仕事をすることになる。それでも、片づけると結構な広さも確保できた。今週中には、事務用の机や椅子も納入され、PC環境も整い、そろそろと動き出す。
 今日の片づけには手の空いている若い職員たちが手伝いに来てくれた(正確に言うと駆り出した)ので、お礼にファミレスで昼食をおごる。彼らと話していると、心が弾むのだ。伝えたいことや託したいことがたくさんあるように思える。私の話はどうしてもお説教臭くなるが、それでも彼らは目をそらさず聞いてくれるのでうれしい。そう思うと、いかにも、この4ヶ月は死んだふりをしていたなぁと反省する。しかし、いきなり起きあがって走ると心臓にも悪いので、徐々にである。
 一昨日、母に「あのなぁ、ちょっと仕事しようと思ってるんや。」といったら、「そうしぃ、そうしぃ、何にもせんで家におったら呆けてしまうで。頑張りやぁ!」と激励された。「あんたに言われたくない・・。」と小さく返しておいた。
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