愛梨はぐっと顔を近付けてくる。互いの鼻の頭がぶつかって、少し形を変えた。
 彼女は言い淀んだ末に、いささか声量を抑えて言う。
「その……な……名前で、呼んでほしいんだけど……」

 相手の態度を見れば、恥じらっているのは一目瞭然だった。
 小太郎がまたたいて見返すと、愛梨は上体を起こして両手でばたばたと空を掻き、あわてたふうに付け加える。

「だ、だって、ほら、お互い名字で呼び合うカップルってのも、妙じゃんか。だから、その……」
 顔をそむけた彼女はまた迷った素振りを見せてから顔を小太郎に戻し、いかにも思いきった口調で述べた。
「わ、私も小太郎って呼ぶから、あんたも、その……あ、愛梨って、呼んでよね……!」

 羞恥心を隠すことすら知らない相手の素直な性質が、どうしようもなく可愛らしかった。
 どきどきと速度を速めている自らの心臓を自覚しながら、小太郎は半ば無意識にくちをひらく。

「……さ、笹岡さ――」
「愛梨!」

 単に相手を呼ぼうとした台詞は、彼女によって遮られた。
 愛梨は拗ねたような面持ちで小太郎を睨んでいる。そんな相手の顔を見ているとなんだか笑いが込み上げてきて、小太郎は小さく吹き出した。
 彼女の目付きに、不機嫌な色が加わる。

「な、なんだよ。笑うことないだろ」
「うん、ごめん。なんか可愛くて」
「かわ……っ」

 自分でも驚くほど、さらりと「可愛い」という言葉が唇から零れた。
 しかし愛梨はさらに驚いたようで、赤い面差しで固まったかと思うと、そのままくちを噤んでしまう。そんな相手に対し、小太郎は内心で微笑ましいと感じた。

 数拍を置き、小太郎は彼女を呼ぶ。
「……愛梨」
 呼ばれて彼女はしきりに瞬きを繰り返すと、少しばかり眉尻を下げて恥ずかしそうにした。

 愛梨の眼差しが、ゆるやかに甘くなる。
「……小太郎」
 彼女に名を呼ばれて、小太郎は「うん」と頷いた。抱きついてくる相手の背中に両腕をまわして、抱きしめる。

「小太郎、小太郎……好きだよ、小太郎……」
「うん、僕も。僕も愛梨のこと、好きだよ」

 窓から差し込む夕陽が、室内を橙色に染めていた。
 幼い子供達のはしゃぐ声と鳥の声が折り重なって、微かに響いてくる。
 鼻腔をくすぐるのは、愛梨の香水の匂いだ。
 触れた箇所から伝わる体温に、小太郎は安堵感を得る。

 放課後の彼女からの告白で、急に色々なことが変わってしまったし、初めての出来事が多すぎて、目が回りそうだった。
 心身共に疲労したことは事実だが、それでも胸には相手を愛しく想う気持ちが満ちている。

 心があたたかく、疲れている反面どこか凪いだ心地もあった。
 小太郎は瞼を閉じる。
 ああ、これが――と胸中で独白した。

 これが、誰かを好きになる――と、いうことなのだろうか。