「……それだけ?」
 僕の昨日の話を聞き終えたAは、どこか不満げにそう訊いた。僕は戸惑いながら頷く。
「……それだけ、だけど」

 かぁー! と威勢のいい鴉のような声を出したAは、片手で自らの目を覆うと椅子にもたれて脱力する。
「なさけない! なさけないぞ、C!」
「な、なんで……」

 僕は少し不安になって訊き返した。
 Aは目元から手を離し、身を乗り出して僕に顔を近付ける。僕は身を引いて、椅子の背もたれに背中を密着させた。
「黙って美女を見送るなんて、それが男のやることか! せめて、お美しいですね……とか、あなたの美しさに見とれてしまったようだ……とか、なんか言うことはあっただろ!」
「そんな馬鹿みたいなこと言うの、A君くらいだと思うよ」

 Bがくちを挟んで言った。僕が思っていたことを、また彼が代弁してくれる。
 が、BはAから頭突きを食らっていたので、僕は思ったことを素直にくちに出さなくてよかったとまた安心したのだった。

 Aは僕とBに言う。
「美しい女性を美しいと褒めないのは罪だと思え! 重罪だ! だからお前たちはモテないんだよ!」
「A君だってモテてないじゃん」

 Bは、幼い子供も驚くほどの正直者だった。これで頭さえ悪くなければ、僧侶やら神父やら、潔癖な職業についていたとしてもおかしくはない。だが残念なことに、彼は神や仏に仕えるには少々頭が悪すぎた。

 案の定、BはAに頬をちからいっぱいつねられている。Bの頬の形が変わり、眉尻をさげたBが目に涙をにじませていた。
「とにかく」
 AはBの頬から手を離して僕を見る。Bの頬が真っ赤に染まって痛そうだった。

「その美女の詳細を教えてくれ」
「詳細って……」
「だって、お前のアパートの近くに引っ越してきたんだろ? だったら僕が会うことだってあるかもしれないじゃないか。美女に失礼な言動をとるわけにはいかない。それは男として許されないことだ」

 誇らしげにAは言った。
 彼はとても女性を大切にする。にもかかわらずモテる気配がないのは、その他の面が残念だからに相違ない。難しい問題ではあるが、ただ女性に優しいだけではモテないのである。実際、異性に素っ気ない硬派な男がモテているのを僕達は何度も見てきた。Aは、ああいうのが納得出来ないらしい。

 僕はAの言葉を受けて、昨日の女性を再度頭に思い描く。何度も想起しているので、その美貌はすっかり僕の脳に刻み込まれていた。
 敢えて少しの間を置いて、僕は答える。

「……肌がすごく白くて、綺麗で……」
「うんうん」
「長い黒髪が肌に映えてて……」
「いいねぇ、大和撫子って感じだよ」
 Aはいちいち相槌を入れてくる。僕は続けた。

「スタイルがよくて、細い手足で……」
「抱きしめれば折れそうだね」
「瞳が大きいんだけど、凛とした雰囲気で……」
「美女って感じだねー。たまんないなぁ」

「あ、そういえば泣きボクロがあって……」
「……ん?」
「それが私服なのかわからないけど、浴衣を着てた」
「おい、それってなんか――」

「いらっしゃいませ」

 僕達の話を遮って、店員と思われる浴衣の女性がテーブルにやってきた。
 僕は目の前の女性を見上げて「あ」と目を丸くする。
 相手の女性も「あら」と言って、目を丸くした。

 Aが僕と女性を交互に見やる。そうして僕に視線を止めて、訝しげに訊いた。
「……なぁ、まさか……」
 驚きながらも、僕は首肯する。それから彼女を手で指し示して、Aに告げた。

「……このひとが、今話してた引っ越してきたひと」
 Aが信じられないような顔で女性を見上げる。Bはくちも目も馬鹿みたいに開けて、女性を見た。
 彼女は微笑む。

「はじめまして、菖蒲と申します。まさかこんなところで昨日の方とまた会うなんて。不思議なご縁ですね」
 Bは少し顔を顰めた。
「ごめんなさい。お名前、なんて?」

「あやめ、です」
 彼女は繰り返す。AはBを肘で小突くと、横目で彼を睨んだ。
 それからAは無駄に爽やかな表情を作って、菖蒲に向き直った。

「改めまして、僕はAと申します。C君の友人でして」
 まぁ、と彼女は言って続ける。
「よくお店にいらしてる方ですよね。いつもコーヒーを三杯飲んでお帰りになる……」

 そんなに飲んで帰るのかと、僕は驚いた。
 Aは菖蒲から目線を外さないまま、少し照れたように笑う。作り笑いだ。

「まさか覚えてくださっていたなんて、嬉しいです。僕、この近くに住んでるんですけどね。いいカフェが近辺にあったら嬉しいなぁなんて思っていたときにこの店が出来たものだから、とても嬉しかったんですよ。おまけにコーヒーの味も最高だ。オープン初日に来て、ひとくち飲んだ瞬間からこのお店のコーヒーのファンなんですよ、僕は」

 ぬけぬけとよく言ったものである。
 Bが不思議そうな顔をして、Aに尋ねた。
「あれ? たしかA君、唾吐いて帰ってやろうとか――」

 学習能力がないというのは、かくも悲しい。
 Bはテーブルの下でAに蹴られたかなにかしたのだろう。顔を顰めて黙り込んだ。僕はだんだんこの友人の頭の悪さが憐れに思えてくる。

 菖蒲はAの言葉を聞いて、嬉しそうに笑う。
「そう言っていただけると、きっとマスターも喜びます。……ああ、あちらがこのお店のマスターなんですけど」

 言って、彼女は店の奥を手で指し示した。
 見ると、そこにあるカウンターの奥から髭を生やした中年の男性がこちらを見やって、少し照れたふうな表情をしている。
 それを認めて、Aは微妙な顔をしながらもマスターに会釈をして軽い挨拶をした。

 咳払いをして、Aは改めて僕とBを菖蒲に紹介する。
「彼はC君、それからこっちがB君です」
 僕とBは彼女に頭をさげた。

「……Cです」
「Bです。よろしくお願いしまーす」
 緊張する僕とは裏腹に、Bは笑顔だ。彼の人見知りをしないところが、僕はこういうとき羨ましく感じられる。