そうしてAは、僕達になんの相談もなしにコーヒーを三杯注文した。
 ブルーの浴衣に白いエプロンを重ねた菖蒲が、笑顔でマスターのところへ帰っていく。
 首を伸ばして去っていく彼女を見ていたBの脇腹を、Aが容赦なく肘で突いた。「うっ」と苦しげな声を漏らしたBが、姿勢を正す。

「……C、どういうことだ」
 先程までの菖蒲に対する爽やかな笑顔はなんだったのか、Aは今にもひとを殺しそうな顔で僕を見て、低い声で訊いた。眉間に寄せられたしわと細められた両目が、危険な職業の人間に見えなくもない。

「……どうって……?」
 僕は少し戦々恐々として訊き返す。Aが舌打ちをした。友人に対する態度とは思えない。
「あの浴衣美人が近所に越してきたって? お前、そんな裏切りがあるか?」
「そ、そんなこと言われても……。僕が引っ越しを頼んだわけじゃないし……」
「言い訳はいいよ、言い訳は。はーぁ、お前のこと、信じてたのになぁ。なぁB、どう思う?」
「見て見てA君、この金魚おっきいよ」

 水槽を上から覗き込むようにして見ていたBの背中を、Aが無言で突き飛ばした。
 Bの頭が水槽に突っ込み、彼はずぶ濡れになりながらもすぐに顔を上げてAを見る。
 信じられないものを見るような表情だった。彼の頭には水草が乗っている。

 が、AはBのほうなど見もしない。
 Bは頭の水草を水槽に戻し、それから「ぷっ」となにかを水槽に向けて吐き出した。金魚だった。
 とりあえず、とAは僕に述べる。

「お前、これ以上抜け駆けしたら許さないからな」
「Aだって、僕らになにも言わずにここに通ってたんだろう?」
「僕は単にコーヒーを飲みにきてただけだよ」
「三杯も? 毎回?」
「三杯もだよ。毎回」

 僕はAほど恋人や女性に執着しているわけではないので、べつにAの発言に怒っているわけではないのだが、あまりにも傍若無人な発言につい反論してしまうのだった。
 Bはまた飽きずに水槽を眺めている。今しがた彼に吐き出された金魚は、どうやら無事なようだった。よかった。

 その日、僕とBはAに付き合わされて、店でコーヒーを三杯も飲むことになってしまった。コーヒーはたしかにおいしかったのだが、さすがに三杯も飲むとそれだけで腹がいっぱいになってしまう。

 Bなんかは砂糖とミルクを大量に入れて飲んでいたため、三杯目は胸焼けを起こしながら飲んでいた。そして譫言のように「水……水が欲しいよ……」と繰り返していた。彼が水槽の水を飲み始めなくてよかったと、僕はひそかに安堵していた。

 カフェは、オープンしてそれほど経っていないにもかかわらず、それなりに流行っているようだった。やはり女性客が多かった。
 男三人の客は僕達しかおらず、そればかりが理由でもないが、僕達はコーヒーを飲み終えるとタイミングを見て店を辞した。

 AとBと別れて自宅への道を歩きながら、僕は今日の菖蒲の笑顔と浴衣姿を思い出し、少しばかりそわそわとした。
 女性に過度な執着しているわけではないが、やはり美女の存在は、僕の心を幾分か軽くする。

 そんな女性が自分の住居のすぐ側に住んでいるのだ。平気な顔をしろというほうが、無理な相談であろう。

***

 三人でカフェを訪れた二日後、僕は自宅で眠っていたところを、インターホンの音で起こされた。
 しつこい呼鈴の音にうんざりとしながら顔を起こし、玄関に向かう。
 ドアの覗き穴から確認してみると、AとBがいた。

 約束はしてなかったはずだが、このふたりは約束があろうがなかろうが基本的には関係がない。約束がなくても来る場合もあるし、約束をしたはずなのに来ない場合もある。
 玄関を開けると、Aが小さく眉を寄せながら言った。

「C君、まだ寝てたの? もう昼だよ」
「寝癖ついてるよー」
 Bが僕に腕を伸ばして、髪を引っ張ってくる。おそらくそこに寝癖があるのだろう。

 僕はBをそのままにして、Aに尋ねた。
「来るって言ってなかったよね?」
「そうだね。言ってなかったと思う」
 あっさりと彼は言う。僕は内心で諦念の息を吐き、重ねて訊いた。

「……なにしにきたの? っていうかバイトは?」
「僕、今日は休みなんだ」
「俺、クビになった」

 Aの返答にあとに、さらりとBが言う。僕は僅かに沈黙してから、彼の言葉を繰り返した。
「……クビになった?」
「うん」
「新しいバイト、決まったばっかりだって言ってなかった?」
「言ったねぇ」

 のんきなBを、Aが指差して言う。
「レジでミスを連発したらしいんだよ。それも金額の大きなミスを」
 ああ――と僕は声を出した。それはなんだか、想像がしやすかった。Bが相変わらず、のんきに言う。

「お客さんにお金いっぱい渡しすぎちゃってね。そんで店長が泣きながら、頼むからやめてくれ……って」
 店長が泣きながら辞職を訴えるなど、相当ではないのか。そんな大きなミスをしたにもかかわらず、彼はここまでのんびりしているのである。僕はその店長に内心で激しく同情した。

 Aに視線を戻して、僕は先程と同じ質問を投げる。
「……で、なにしにきたの?」
「菖蒲さんの自宅の場所を教えてもらおうと思って」
 Aは軽い調子で答える。僕はさすがに眉をひそめた。

「……A、そういうのは……」
「ああ、勘違いしないでほしい」
 僕の言葉を遮って、彼は手を僕に向けて言う。その手を拳にして、Aは力強い口調で述べた。

「あれだけ美しい女性だ。なにかと苦労もあるに違いない。もしなにかあったとき、彼女の自宅を知らなければ僕達はどうすることも出来ないだろう。だから、その万が一のときに備えて、だよ」