※本原稿は、(特活)開発教育協会発行「開発教育」62号(2015年)に掲載された論文である。

============

2015年までに世界の「極端な貧困」を半減することを謳う「ミレニアム開発目標」(MDGs) の達成期限まで1年有余を残すのみとなった2014年。MDGsのシナリオによれば、本来、世界は、目標に沿って途上国の貧困を削減し、より豊かな世界に向けた次のステップに歩みを進められるはずだった。ところが、この年に私たちが目にしたのは、そんなシナリオとは全く対極的な二つのできごとであった。一つが、シエラレオネ、リベリア、ギニアの3か国を舞台とするエボラ・ウイルス病(エボラ出血熱) の史上最大の流行、もう一つが、内戦のシリアとイラクをまたぐ「イスラミック・ステイト」(アッダウラ・アル=イスラーミーヤ、以下「IS」)の登場である。

 前者があぶりだしたのは、MDGs達成を目指して世界中で続けられてきたはずの保健システム強化の努力に、大きなエアポケットが空いていたという事実であった。このエアポケットの存在には、歴史的な必然があった。シエラレオネとリベリアはその形成の起源を奴隷制に発する、サハラ以南アフリカの中でも特異な国家である。結果として、この2か国は他国とは異なる種類の断裂を社会に抱え、これが90-2000年代に爆発することで、想像を絶する苛烈な内戦を経験する。両国がエボラに襲われたのは、破壊からの復興努力のさなかのことであった。一方ギニアは、旧仏領アフリカで唯一、宗主国フランスの軛を断って1958年に独立した、これまた特異な歴史を持つ。同国はそれ故にフランスによる孤立化にさらされ、開発から取り残された。こうした歴史に根差した保健システムの裂け目がどれだけ深いものであったかは、感染拡大が始まった2013年12月から、エボラ・ウイルス病の流行が最初に国際的に警告されるまでに3か月を要し、その間、感染拡大が完全に放置されていたことを見ても明らかである。

 では、後者、すなわちISの登場があぶりだした問題は何か。2014年6月にイラク第2の都市モースルを陥落させシリアとイラクにまたがる広域支配を実現したISは、ヤズィード教徒 など宗教的・民族的少数派の虐殺や残虐行為、女性の隔離・抑圧・迫害、外国人の誘拐・殺害など、極端な排他性・残虐性を特徴とし、国際的にもこれが喧伝されてきた。日本では、2015年1月、ISによる湯川遥菜さん、後藤健二さんの拉致拘禁、それに続く虐殺が集中的に報道され、現代に登場した凶暴かつ野蛮な犯罪集団というイメージが定着した。

 排他性と残虐性、女性や宗教的・民族的少数派の抑圧と迫害はISの際立った特徴であり、私たちは同時代に生きる者として、ISの行為を許容するわけにはいかない。しかし、ISはこの世界に突然、単独で登場した「怪物」ではない。ISがシリア中東部からイラク中北部まで相当の面積と数百万人の人口を継続的に支配し、多国籍軍の空爆や、各種勢力との地上戦にもかかわらず勢力を拡大し、さらに世界から多くの人々を参集させているのは、ISの存在にそれ相応の歴史的・物理的そして思想的な根拠が存在するからである。

 ドイツの詩人エンツェンスベルガーが喝破した通り 、テロリスト集団の組織は、それが打倒しようとする国家権力や警察組織と、鏡で写したように似たものとなる。ならば私たちに必要なのは、MDGs達成1年前に「忽然と」登場したかに見えるISのありさまについて、これを私たちと何の関係もないものとして切り捨てることではなく、むしろISの全貌を凝視することである。その醜悪さの中に、「貧困をなくす」という理想主義の旗を掲げる現代の国際社会の<実像>が映しこまれているかもしれないからである。

1.「対テロ戦争」と「アラブの春」の帰結としてのIS

 ISの形成と成長の歴史を見たとき、私たちは、そこには二つの直接の源泉があることに気付く。まずは、2001年の「米国同時多発テロ」に端を発するグローバルな「対テロ戦争」、もう一つが、2011年にチュニジアで始まり、今世紀において最も苛烈な内戦の一つであるシリアの内戦へと導かれたいわゆる「アラブの春」、中東・北アフリカ革命である。
 
1)一つ目の源泉、「対テロ戦争」

 まず一つ目の源泉たる「対テロ戦争」について見ていこう。2001年9月11日に起こされた米国同時多発テロは、アフガン戦争を経て、米国を中心とするいわゆる「国際社会」と、ウサマ・ビン=ラーディンとアル=カーイダに象徴される、スンナ派イスラームの復古主義(サラフィー主義) 武装勢力との間の戦争へと発展し、これはアフガン戦争を経て、中東からサハラ以南アフリカや東南アジア島嶼部などに向けた「対テロ戦争」の世界化という経路をたどる。

 一方、米国が2003年に開始したイラク戦争は、対テロ戦争の延長として開始された。しかし、打倒の対象とされたイラクのサッダーム・フセイン政権は、いわば世俗主義、アラブ民族主義の鬼っ子といえる存在であり、イスラーム法による統治を掲げるサラフィー主義武装勢力とは水と油の関係にあった。イラク戦争は、対アル=カーイダ戦争とは全く文脈の異なるものだったのである。米国はわずか2か月でイラク全土を占領、フセイン政権は放逐されたが、その後の占領統治は迷走した。占領統治を担った連合軍暫定当局(CPA)はフセイン政権の屋台骨をなしたイラク・バース党(アラブ復興社会主義党)勢力を戦後イラク体制から放逐し、その後のイラク政府は、人口で60%の多数派を占めるシーア派住民の存在を根拠に、シーア派の政治・軍事勢力によって握られることになった。特にフセイン政権打倒後のイラク政府の治安機関は、フセイン政権と対立していたシーア派イスラーム主義国家、イラン・イスラーム共和国 からの支援を受けたイラク・イスラーム革命最高評議会(SCIRI)とその軍事部門であるバドル軍団(Badr Brigade)によって握られ、これらはフセイン政権の中核をなしていた中部スンナ派地域を舞台に激しいバース党残党狩りを行った。ちなみに、イラクでは、スンナ派は人口の20%を占め、クルド人とともに少数派を構成する。ポスト・サッダームのイラク政府によるバース党残党狩り、スンナ派勢力狩りは徹底しており、逮捕・監禁、拷問、司法手続きなしの投獄や超法規的処刑などが頻繁に行われた。アムネスティなど国際的な人権NGOは、再三にわたって法的手続きの無視や人権侵害に警告を発するレポートを発表している。ここに、イラク政府やシーア派武装勢力の民兵などを中心とするシーア派勢力と、旧バース党の残党やスンナ派武装勢力のいわゆる「宗派間闘争」が激化することとなる。

 ISはこの時点で、ヨルダン人の活動家アル=ムスアブ・アッ=ザルカーウィーらにより「タウヒードとジハード機構」として誕生する。後述するが、この組織名に含まれている「タウヒード」(存在の一化、神の唯一性)という用語は、ここでは特にシーア派に対する排他主義を強調する意味を持つ用語として使われている。ザルカーウィーらは、組織名に「タウヒード」を掲げ、2005年には対シーア派全面戦争を宣言するなど、シーア派に対する徹底した排他主義を掲げることで、シーア派政府と治安機関によるスンナ派への集中的な攻撃に反感を持つイラク中部のスンナ派住民や旧バース党勢力などを糾合し、スンナ派勢力による反攻の実現を目指したのである。逆にいえば、イラク政府と治安機関によるスンナ派弾圧は、もともと世俗主義で、とくにサラフィー主義などとは水と油であったはずのバース党勢力と、スンナ派のイスラーム復古主義勢力の中でも最も極端な立場をとるISとを「反シーア派」で結合させるうえで死活的な役割を果たしたと考えられる。

 なお、一言触れておきたいのは、イラク政府の徹底した旧バース党勢力・スンナ派勢力への弾圧の遂行について、日本も一定の直接的責任を免れないということである。日本は2004年、イラクの警察力強化という旗印の下、イラク内務省に対して警察車両1100台を無償資金協力により供与し、これら車両は全国に配備された。イラク暫定政権の確立により、バドル軍団の総司令官が内務大臣に就任、イラク内務省はSCIRI・バドル軍団によって掌握された。日本が供与した警察車両は当然、内務省による旧バース党・スンナ派政治勢力に対する弾圧に活用されたと考えられる。ISの誕生と成長は、これらスンナ派への攻撃への反動として生じたものであり、日本はそこに直接的な責任の一端を有するのである。

2)もう一つの源泉、「アラブの春」=中東・北アフリカ革命

 ISのもう一つの源泉は、いわゆる「アラブの春」、中東・北アフリカ革命である。2010年末、チュニジア中部の都市シディ・ブージドで起きた露天商の青年モハメド・ブアジジの焼身決起は、瞬く間に同国を長年支配した権威主義的なベン=アリー政権の打倒へとつながり、さらにリビア、エジプト、バハレーン、イエメンなどへと広がり、強固な支配体制を誇っていたはずの北アフリカ・中東の独裁・権威主義政権を次々と崩壊の渦に巻き込んだ。この事態を想定していなかった「国際社会」は、これをアラブ諸国の民主化・経済的自由化に結び付けようとし、この動きを「アラブの春」と名付けた。しかし、権威主義政権の崩壊は、いわゆる世俗的・欧米的な民主化勢力のみを元気づけるわけではない。抑圧がなくなれば、これまで徹底的に抑圧されていた様々な政治・宗教勢力がすべて活性化し、ともすれば諸勢力の争闘戦という、いわば「地獄の蓋」を開けることになる。特に、これら権威主義政権の多くは、60-70年代に政権を握った世俗派のアラブ民族主義者の末裔であり、これらの政権は世俗的な民主派だけでなく、どちらかといえば、イスラーム主義勢力を潜在的な最大の脅威として認識し、最も苛烈な弾圧をくわえていたのである。結果として、権威主義政権の打倒によって、スンナ派のイスラーム主義勢力、特にその中でも極端な復古主義的立場に立つサラフィー主義者などの勢力が息を吹き返すことになった。

 「アラブの春」が、終わりの見えない内戦という最悪の形態へと導かれたのがシリアである。シリアを長期にわたって支配してきたアサド父子政権下では、世俗的なアラブ民族主義を掲げるシリア・バース党のもと、中所得国として教育や保健・医療などは一定整備されていたものの、政治的自由は極端に制限され、特にスンナ派のイスラーム復古主義諸勢力は徹底的に弾圧され、虐殺の対象にもなった。1982年には、「ムスリム同胞団」の牙城であった中部の都市ハマーが焦土作戦によって壊滅し、数万人が殺害されたとされる。

 「アラブの春」とその後を見て容易に理解できるのは、独裁・権威主義政権の基盤が強固で、そこで行われた弾圧が苛烈であればあるほど、いったん政権が崩壊、もしくは内戦に突入した時の混乱と打撃の程度は深刻になる、ということである。カッザーフィー政権 崩壊後のリビア、そしてバッシャール・アル=アサド政権と反体制勢力の間で、21世紀最悪の内戦が続くシリアはその典型である。米国と西側「国際社会」は、イスラエルを脅かし、レバノンでヒズボッラーなど反体制勢力を支援するシリアを崩壊させ、自らに都合のよい政権を作る好機とみて、「世俗的な穏健派」の勢力を政治的・軍事的に支援するという戦略をとった。そもそもアサド政権は、冷戦時代には「東側」に軸足を置いてきた世俗派民族主義政権であり、人脈的にも、イスラームとしては異端派に位置づけられ、人口の面でも少数派のアラウィー派 を中心に構成されている。これに対し、イスラーム教の多数派であるスンナ派の中でも極端な復古主義を掲げるワッハーブ派の本家サウディ・アラビアや、湾岸諸国、トルコなどは、アサド政権の打倒を優先し、スンナ派のイスラーム復古主義勢力を含めた反体制派に大々的な支援を行った。結果として反体制側で勢力を伸ばしたのは、実体のない「民主的世俗派」ではなく、アル=ヌスラ戦線など、サラフィー主義的なスンナ派イスラーム主義勢力であった。

 おりしもイラクでは、「イラク聖戦アル=カーイダ組織」と名称変更をしたISの前身、「タウヒードとジハード機構」が、米軍によるファッルージャ包囲殲滅戦以降、スンナ派住民の支持も失い孤立したうえ、2006年、指導者であったザルカーウィーが米軍に殺害され、弱体化した。その後指導者となったアブー=バクル・アル=バグダーディーは、2013年、シリアのアル=ヌスラ戦線との合併を宣言。「イラクとレヴァントのイスラーム国」と組織名称を変更、2014年には軍事力を大幅に拡大し、まず中部のスンナ派勢力の拠点都市であるラマディーとファッルージャを掌握、6月にはイラク第2の都市モースルを陥落させ、シリア中部の都市ラッカを首都とし、シリアとイラクの旧来の国境線を無効化して、相当の面積と人口を持つ「イスラーム国」(アッダウラ・アル=イスラーミーヤ)を「建国」したのである。

 ISは米国を中心とする「国際社会」が2000年以降遂行してきた「対テロ戦争」とそれに続くいわゆる「宗派間闘争」と、中東のパワー・ポリティクスの中で堅固に存在してきたシリアの凶暴な権威主義政権を揺るがした「アラブの春」を源泉として生まれ、成長した。それは中空から生まれたものではない。報道されているISの特徴たる、例を見ない排他主義と暴力性、残虐性は、ISが生まれ育った環境、即ち、ポスト・イラク戦争下のイラクおよび内戦化のシリアにおいて遍く存在した排他主義と暴力性、残虐性がISに反映し、ISという組織の中で抽出・培養され、煮詰められたものだということができる。

2.「多様性の墓場」としてのIS

1)ISの最大の特徴:「排他主義」と暴力

 ISがイラク北部の都市モースルを陥落させ、さらに北部へと侵攻してクルド人自治地域の首都アルビールへと迫った2014年8月、米国のオバマ大統領はISへの限定的空爆を表明した。その主要な理由の一つが、ISがイラク北部に在住する宗教的少数派、特にヤズィード教徒に対するジェノサイドを決行する危険が高まっている、ということであった。オバマ大統領は演説で次のように述べた。「ISIL はヤズィード教徒全体をシステマティックに根絶することを呼号しており、これはジェノサイドを構成しうる。罪のない家族が恐ろしい選択に直面している:(潜伏中の)山岳を下りて虐殺されるか、そこにとどまって渇きと飢えによってゆっくりと死んでいくか。(中略)我々には虐殺を防ぐ能力があり、そしてアメリカ合衆国は、こうしたことに盲目ではいられない。私たちは注意深く、責任をもって、ジェノサイドにつながる行為を防ぐために行動する。」実際、このとき、ヤズィード教徒はISによる暴力にさらされ、喧伝されたほど大規模ではなくても虐殺や奴隷化、性暴力といった人道的犯罪行為が記録されている。

 冷戦後の国際社会の価値観は、少なくとも建前としては、経済的自由を筆頭に、政治的・宗教的な自由を保障し、各種の少数派にも平等に公的な生存空間を認めている。その基盤は、公権力の世俗主義的中立である。イスラーム主義は、イスラームという特定の宗教・思想・世界解釈に基づく法体系であるイスラーム法(シャリーア)に基づく統治を掲げるものであり、世俗主義的中立という価値観と根底的に対立する。その中でも、「対テロ戦争」や「アラブの春」以降、イスラーム世界において政治的な力を強めつつあるイスラーム復古主義=サラフィー主義者のグループは、イスラーム世界全体の初期イスラームへの回帰を旗印に、極めて排他主義的で厳格なイスラーム律法主義に基づく国家統治を掲げている。ISはその極北に位置すると考えてよい。ISがこのような考え方に基づき、自らの信ずるイスラーム法以外のあらゆる価値観に対して排他主義を掲げるのはなぜなのか。

2)「タウヒード」概念の変質:シーア派への排他主義の理論的正当化

 前章で、ISの前身となった組織は「タウヒードとジハード機構」という名称を掲げており、この場合の「タウヒード」は、シーア派政府による他勢力弾圧が跋扈するイラクという政治的・軍事的文脈において、特にシーア派に対する排他主義を強調するための用語として使われていると述べた。

 「神の唯一性」という神性論として出発した「タウヒード」は、イスラーム哲学の発展の中で「存在論」へと拡張され、すべての存在は神に由来するという「存在の一性」を意味する概念へと発展した。すべてのものが神の被造物として「一つ」であるという「タウヒード」の考え方は、イスラームの世界観の根幹をなすものである。これは一方では、あらゆるものに神の徴を認める汎神論的な存在論へと導かれ、イスラーム神秘主義(スーフィズム)へと発展したり、北アフリカ地域などでは、伝統的な呪物崇拝をはじめとする地域の民間信仰をイスラームに取り込んだりして、地域をイスラーム化していくうえで重要な役割を果たしもした。つまり「タウヒード」は、いわばイスラームの多様性を担保する概念となったのである。ところが、18世紀に出現し20世紀初頭のサウディ・アラビア建国に大きな役割を果たしたワッハーブ派は、イスラーム建国初期の正統カリフ時代への「復古」を掲げる中で、「タウヒード」について「神の唯一性」を排他的な形で根拠づける用語として再定義した。ワッハーブ派は、この「タウヒード」を、聖者崇拝や呪物崇拝、スーフィズムの一派などを多神崇拝として厳しく退ける根拠として活用し、実際に聖廟や呪物等を徹底的に破壊し、スーフィーを迫害するなどした。ワッハーブ派の政治思想の文脈において、「タウヒード」は排他思想を根拠づける概念へと変化させられたのである。

 この考え方から、イスラームの少数派であるシーア派はどう見えるだろうか。シーア派というのは、基本的に、「正統カリフ時代」の第4代カリフで、ムハンマドから直接秘儀を授かったとされるアリーを重視し、アリーの家系がイスラーム世界を統治すべきとする考え方である。スンナ派の中でも厳格主義の立場をとるワッハーブ派や、これに近いサラフィー主義復古主義者たちからみれば、「アリー」という存在を極度に重視するシーア派の立場は、「神の唯一性」からの逸脱とみなしうる。「タウヒード」がシーア派への排他主義を強調する表現となるのは、このような理由による。
 前章に述べた通り、フセイン政権崩壊後のイラクで、庇護者フセインを失ったイラク中部のスンナ派の人々が直面したのは、何よりも、人口では多数派のシーア派主導政権が米軍と連携して行った、徹底したバース党およびスンナ派原理主義者狩りに対する恐怖であった。この状況下において当地で活動していたヨルダン人活動家ザルカーウィーがとったのは、「タウヒードとジハード機構」という名称を使い、「タウヒード」という用語にワッハーブ派的な排他主義の意味をかぶせて、シーア派に対する排他主義を打ち出し、軍事的能力の高いバース党の残党勢力を含むスンナ派の大同団結を作り出し、「宗派間闘争」を演出することであった。

 この意味において、彼らの排他主義は、この場合のイラクのシーア派主導政権のように、自らを排除しようと襲い掛かってくる対抗的な排他主義の暴力に対して、別の「正義」を掲げ、主体を固め反撃するために形成されたものに他ならない。実は、この力学は、イラク・シリアにとどまらない。ソマリアのイスラーム武装勢力アル=シャバーブ、ナイジェリアのボコ・ハラム、アルジェリアの武装イスラーム集団(GIA)など、イスラーム世界のスンナ派内戦勢力は判で押したようにサラフィー主義的な排他主義の衣をまとうのはなぜか。それは、自らを排除しようとする「敵」の排他主義に対抗し、諸勢力を糾合して反攻を実現するために、排他主義を極端なまでに純粋培養するからである。イラク・シリアをはじめ、これらの地域では、政治変動のたびに「力には力を」の対応が行われた。それらの対応の背後には必ず、「国際社会」の影が存在した。「力には力を」の対応は、中長期的に、排他主義を極限にまで高め、地域の内部対立を極端なまでに顕在化することによって、当該社会全体を崩壊に追い込んでいくのである。

3.「植民地主義」の清算としてのIS

 ISは2014年6月にイラク第2の都市モースルを制圧し、イラク中部から北部にかけての一定地域を支配したうえで、6月29日、指導者のアブー=バクル・アル=バグダーディーがモースルで演説し、イスラーム世界にカリフ制を復興すること、自らがカリフ「イブラーヒーム」であること、「イラクとレヴァントのイスラーム国」という名称を変更し、地名を削除して「イスラーム国」(アッダウラ・アル=イスラーミーヤ)とすること、すべてのイスラーム教徒は「イスラーム国」の版図に結集すべきことを示した。その後、ISはインターネットを活用した巧みなメディア戦略により、自らの存在感を世界中に誇示し、ISには欧米を含め各国から多くの人々が参加するに至った。

 ISはイスラーム初期の正統カリフ時代への「復古」を掲げるサラフィー主義の極北に位置する組織である。そうである以上、この「カリフ」は、たとえば1916年まで存在していたオスマン・トルコ朝の「スルタン=カリフ」制のカリフなど、単に政治上の権力を持つ「カリフ」ではなく、端的に「正統カリフ時代」におけるカリフ、イスラーム世界全体を導くカリフとしての意味を持つ。自らをイスラーム世界の歴史的に正統な指導者と宣言することにより、ISはイスラーム世界に現存する主権国家体制や教学体制すべてに対するオルタナティブとして自らを位置づけたわけである。

 もう一つ重要なのは、ISがシリアとイラクにまたがって自らの領土を設置し、第1次大戦中に英仏露によってむすばれたオスマン帝国分割と中東の植民地化のための秘密協定である「サイクス・ピコ協定」をベースに設定されたシリアとイラクの国境線を無効化したことである。実際、ISは「サイクス・ピコの終焉」(The End of Sykes-Picot)というメッセージビデオ を発表し、同協定に由来するシリア・イラクの国境線を無効化したこと、今後もイスラーム世界を分割する国境線を打破し、一つの家、一つの国家を構築することを宣言した。

 このビデオは欧米主導の国際秩序に対する挑戦として英語で作成されたため、欧米でも大きな反響を呼び、多くの論者が論考をまとめている。アラブ世界では50-70年代にかけて、エジプトのナセルが設置した「アラブ連合」をはじめ、政権を握ったアラブ民族主義者たちが様々な形で、サイクス・ピコ協定と欧米列強がそれに基づいて決定した国境線と分断を克服しし、「アラブの統一」を目指すイニシアティブを構築しようとした。しかし、これらは結局、国家利権の論理によっていずれも水泡に帰した。ISが内戦や外国の占領という悲劇の続くシリア・イラクで、一部とはいえ、サイクス・ピコ協定に由来する国境線を実際に無効化したことが、アラブ、イスラームの人々に与えたインパクトの大きさは想像に難くない。

 ISによるカリフ制樹立宣言とサイクス・ピコ協定の無効化は、期せずして、現代の中東・イスラーム世界を規定してきた主権国家体制が欧米列強の植民地支配に根を持つこと、また、サウディ・アラビアや湾岸王制諸国、ナセルのエジプトやカッザーフィーのリビアをはじめとする世俗派アラブ民族主義国家のいずれもが、植民地主義に由来する既存の主権国家体制を超える、自立したアラブ・イスラーム世界をある程度構想はできても、それを実現に移せずに腐朽していったことを明るみに出した。2000年以降の国際社会がかかげるMDGsのような開発主義も、その最も良質な部分が内包する「貧困をなくす」リベラリズムも、結局のところ、既存の主権国家体制を前提とするものであり、それを大きく乗り越え、新たなパラダイムを作り出す展望を示しえていない。ISの復古主義はここにつけ込み、アラブ・イスラーム世界の人々の疎外された心をつかんだ。ISにいったん魅了されてしまえば、彼らの凄まじい暴力性・残虐性もすなわち「強力な実行力」として解釈されてしまうのである。

4.「グローバル民主主義」とその疎外の帰結としてのIS

 ISは現代イスラーム世界の腐朽した主権国家体制に対して、正統カリフ時代の「カリフ制」とその下での一つのイスラーム国家というオルタナティブを対置した。しかし、その「オルタナティブ」においてISが構築しようとしている「国家のかたち」といえば、最も偏狭なイスラーム法解釈と、それに基づく法執行の暴力的な適用、というものであり、中近世までのイスラーム世界が有していた諸民族・諸宗教の並存はおろか、シーア派諸派をはじめ、これまでイスラーム文明を形作ってきたイスラームの多様性すら否定するものとなっている。これはISに限らない。ターリバーンのアフガニスタン、アル=シャバーブのソマリア、ボコ・ハラムのナイジェリア北東部をはじめ、スンナ派イスラーム復古主義=サラフィー主義によるオルタナティブはすべて、同じ陥穽に陥り、最終的には崩壊へと導かれている。結論は決まっている。ISはその排他主義と偏狭な復古主義を克服しない限り、現代世界はおろかイスラーム世界のオルタナティブを未来に向けて開くことはできない。しかし、その排他主義と復古主義こそがISのアイデンティティの核である以上、ISはそれを捨てることはできない。結果、たとえ対外戦争で敗北しなくても、ISはやがて自壊せざるをえないのである。

 このような道筋はすでに見えている。これはイスラーム世界の多くの人々にとっても同じである。ところが、世界の多くの地域から、いまだに数多くの人々がISを支援するためにIS支配領域に参集している。それはイスラーム教徒にとどまらず、欧米などからは非イスラーム教徒の若者たちすらISに参加するといった現象が生じているのである。これはなぜなのか。逆に、現代の「国際社会」が掲げる開発主義と「貧困をなくす」という理想主義は、なぜ彼らの精神にこだましないのか。

 実のところ、これはそれほど難しい話ではない。「グローバリズムの恩恵が不均等に配分されている」ことを問題化した2000年の「ミレニアム宣言」の精神に基づく形で制定されたはずのMDGsが課題としたのは、何の根拠もなく「1日1ドル以下」と設定されたいわゆる「極端な貧困」の半減と、基礎教育、母子保健や感染症対策の普及など、基礎的社会サービスの充実であった。80-90年代の構造調整政策 の失敗で基礎社会サービス自体が崩壊していたサハラ以南アフリカと異なり、イスラーム世界において人々が直面していた問題は、増え続ける青少年の失業、若者が自らの人生において明るい展望を描き得ないことに対する不満であり、また、権威主義体制の下での政治的・思想的・宗教的自由の剥奪、および特権層と被支配層の格差の拡大、そして、自らの人生や自らの社会のあり方を、自ら決めることができないという「疎外の問題」であった。

 実際のところ、MDGsも、また、その実施における思想枠組みを提供する「権利ベース・アプローチ」 も、とくにイスラーム世界において人々が直面するこうした問題への処方箋にはならなかった。MDGsは人々の下からの権利やコミュニティのボトム・アップを促し、それによって経済社会のあり方を変革することに意味があったが、実際にはそのような展開が見られたのはごく一部にすぎなかった。2015年の現在から振り返れば、MDGsに基づくアプローチは概ね、社会変革ではなく恩恵主義的なアプローチに終始し、「救う者」、すなわち先進国政府、国連機関、2国間援助機関、大手国際NGOと、「救われる者」、すなわち途上国において現実に生き、死んでいく人々の主客関係の固定化をますます促進する結果となった。

 「権利ベース・アプローチ」も、そこで取り上げられる「権利」の選択は、概して、いわゆる「国際社会」や上記「救う者」の恣意に委ねられるのみだったと言いうる。「先住民の権利」と「ジェンダー平等」を例外として、人々が自らの望む社会・文化の中で平穏に生きる権利は、「権利ベース・アプローチ」における主要課題とはならなかった。「言語」の問題一つとってみれば、これは一目瞭然であろう。MDGsは表向き「多様性」を称揚し、「少数言語の保護」も国際社会における一つのアジェンダとはなった。しかし、実際のところといえば、冷戦後、「少数言語の保護」は「研究」の領域に隔離されるのみで、国際経済と国際政治の論理の中では、英語の特権的地位が固まり、国連公用語を含め、他言語の地位は大きく低下した。ことに、国連、世界銀行、IMF(国際通貨基金)、OECD(経済協力開発機構)その他の機構が主導する、途上国開発を巡る国際政治の文脈においては、もはや英語以外の言語空間はほぼ存在しなくなったといっても過言ではない。このことにより、MDGsの15年間において、イスラーム世界を含む途上国の貧困問題は、英語を自在に操れる先進国・途上国エリートの独壇場となった。国際社会は、貧困のない社会、アカウンタビリティ、多元的民主主義をうたいながら、まさにその「言語」を巡る政治において、貧困と疎外に現実に直面する圧倒的多数の人々を、その解決に向けた道筋から締め出してしまったのである。

 ISの登場は、グローバルな貧困と疎外の問題の解決の道を開くといいつつ、その道を閉じてしまった国際社会に対する、疎外された側からの究極的な回答である。NGOを含む「国際社会」は、ISの閉鎖性、排他主義と暴力性に、自らの閉鎖性と排他主義の写し絵をこそ見るべきなのである。そして、自らが作り出した圧倒的多数の人々の「疎外」に対する、新たな包摂の道を作り出していく努力を、本来、今すぐにでも始めなければならないはずなのである。

5.ISを鏡として:SDGs時代に向けた新たな対話の必要性

 最後に、私たち先進国の市民社会がISをどのようにとらえるべきか、前章までの展開を踏まえて簡潔に述べる。

 2011年、エジプト・カイロのタハリール広場で展開された情景に、先進国のリベラルな市民社会は小躍りした。民主主義や透明性といった課題と直接関係のない、たとえば保健分野に取り組む国際NGOまでもが、タハリール広場の写真をホームページにアップした 。そこには大きな錯視があった。エジプト、ひいてはアラブ・イスラーム世界が有する独自の歴史性や文脈を度外視して、そこに集まる人々とリベラルな自己とを同一化させてしまったのである。私たちがまずすべきことは、タハリール広場の群衆と自らを同一化することではなく、むしろ、「アラブの春」の字義どおりの意味での「火元」となった、チュニジア中部の都市シディ・ブージドに集うごく一般的な露天商であったモハメド・ブアジジの焼身決起の炎を、自らに向けられたものとして受け止めることであっただろう。

 それはISについても同じことである。同時代に生きる者として、私たちはISの排他主義と残虐性を容認することはできない。私たちはISに対抗して、イスラーム世界において自由と多様性を掲げる人々やその政治勢力との連帯を強化し、排他主義や残虐性を克服する取り組みを進める必要がある。その一方で、私たちはISの排他主義と残虐性に、現在の「国際社会」の写し絵をも見出さざるを得ない。途上国の開発に関わる市民社会はもはや、こうした「国際社会」の外部にいるわけではなく、積極的に「国際社会」のシステムを支えている存在である。

 MDGsは2015年で終わり、「持続可能な開発目標」(SDGs) の時代が待ち構えている。実際のところ、SDGsは、問題をいわゆる「極端な貧困」や「必須社会サービス」に限定しているわけではない。人口が増え続ける中東・アフリカ地域の若者の雇用、国内外の格差の解消、民主主義と開かれた社会の実現、持続可能な消費と生産といったアジェンダが、17のゴール、169のターゲットの中にちりばめられている。開発のパラダイムが、環境や経済活動といった課題を含みこむ形で大きく広がり、変化するのである。

 私たち市民社会は、MDGsからSDGsへのパラダイム変化を、市民社会の「復権」のチャンスとして受け止める必要がある。市民社会は、MDGs時代において、えてして「国際社会」の内部に身を置き、「救う者」と「救われる者」の主客関係の強化と「救われる者」としての人々の疎外を強化する役割を期せずして果たしてきた。SDGsの時代に、私たちは同じような関係を続けるわけにはいかない。疎外する側として特権の飴をなめるのでなく、「救う者」「救われる者」の二項対立を解消し、疎外から新たな包摂への道を開くことが、SDGs時代の市民社会にとって最も重要なことである。それこそが、ISの排他主義と残虐性と対決し、これを克服するための道となるはずである。

<注釈>

1. 2015年までの世界の貧困の半減と基礎教育・保健サービス拡大、ジェンダー平等など8つのゴールに基づき社会開発を進める国際目標。2000年の「ミレニアム宣言」をベースに2001年に制定、途上国開発の主軸として機能してきた。
2.「エボラ・ウイルス病」(Ebola Virus Disease: EVD)エボラ・ウイルスによる疾病は日本では「感染症予防・医療法」の規定に従い、「エボラ出血熱」(英語ではEbola Haemorrrhagic Fever)と呼ばれているが、実際には出血を伴う症状が出現することはあまり多くないことから、世界保健機関(WHO)は「エボラ・ウイルス病」(EVD)という表現を使っている。本稿でもこの用語を使用する。
http://www.47news.jp/47topics/e/254499.php(2015年9月8日確認)から引用。
3. ヤズィード教徒:イラクのニネヴェ州の一部などに居住する宗教的少数派。一神教で孔雀天使「メレク・タウス」Melek Tausを信仰する。
4. H.M.エンツェンスベルガー著、野村修訳「政治と犯罪=国家犯罪をめぐる八つの詩論」(晶文社、1966)所収「裏切りの理論のために」(p.432-433)
5. これらの勢力は、スンナ派の中でも、イスラーム世界を初期イスラーム(正統カリフ時代)に回帰させ、イスラーム法に基づく統治を実現することを目指して武装闘争を行っている。「イスラームの祖」(サラフ)への帰還を目指すことから、思想的には「サラフィー主義者」と呼ばれる。なお、サラフィストの中でも、政治活動にまい進したり武装闘争を行ったりするグループは人数的には少数派である。
6. イランは中世のサファヴィー朝以来、シーア派(12イマーム派)イスラームが宗教的主流派である。1979年のイラン革命によってパフレヴィー帝政が打倒されて以降、イランはホメイニー師の支配下で「ヴェラーヤテ・ファキーフ」(イスラーム法学者による統治)体制が敷かれ、シーア派のイスラーム主義国家となり、世俗的なアラブ民族主義政権であったイラクのフセイン政権と対立、イラン・イラク戦争(1980-88年)へと発展した。
7. カッザーフィー政権:リビアで1969年、エジプトのナセルに影響された若手将校ムアンマル・アル=カッザーフィー(一般に「カダフィ」)らによる革命で樹立された政権。その後、カッザーフィーは「人民が自らを統治する直接民主主義体制」をめざすと称し、その著書「緑の書」に記された政治思想に基づく特殊な独裁体制を築いた。2011年、東部の主要都市ベンガジでイスラーム主義者らによって始まった反乱をきっかけに同国は内乱に陥り、NATOの反乱勢力支援によりカッザーフィー政権は打倒、カッザーフィーは惨殺。その後、リビアは諸勢力の群雄割拠状態が続く。
8. アラウィー派:シリアの西部山岳地帯を中心に在住するイスラーム教の一宗派であるが、正統カリフ時代四代目のカリフ、アリーの神格化や「三位一体」思想、精霊信仰など、イスラームの主流とは異なった特殊な教義を持つ。アリーを重視することについてはシーア派と共通するが、教義は本来のシーア派とは全く異なっている。
9. ISIL:「イラクとレヴァントのイスラーム国」(Islamic State in Iraq and Levant)。ISの旧称。ISは2014年6月にカリフ制にもとづく「イスラーム国」を建国し上記名称を「Islamic State (IS)」に変更したが、米国はこの名称変更を認めず、現在もISILという表記を使っている。これは、ISによる「イスラーム国」の樹立宣言の正統性を認めないという趣旨を含む。
http://thepage.jp/detail/20150219-00000008-wordleaf(2015年9月8日確認)から引用。
End of Sykes Picot (YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=i357G1HuFcI (2015年8月1日現在接続確認)
10. 80年代に途上国の債務巨大化や経済停滞に対して国際通貨基金(IMF)、世界銀行がとった政策。緊縮財政の強制と民営化を強制、社会開発が滞り、特にアフリカでは貧困化と分断が進み、多くの国々が内戦に陥った。2000年ころからIMF・世銀は「貧困削減戦略」に移行。
11. 貧困や欠乏などを、「権利の剥奪された状態」として定義し、人々を「権利保有者」、政府などを「義務履行者」として、社会開発を「権利の回復」のプロセスとして位置づけて進めようという考え方。国連の多くの機関やNGO、市民社会組織が開発に関する基本的な考え方として採用。
12. たとえば、「保健にアクセスする権利」を掲げ、保健サービスへのアクセスの拡大を訴える世界的な市民社会のキャンペーン「Article 25」は、2014年の国連総会に向けて、ウェブサイトにタハリール広場の写真を大きく掲げた。(2015年7月現在は取り外されている)
13. 2016年から2030年までの、世界の開発・環境問題などに関する総合的な目標。2015年9月の第70回国連総会で採択。MDGsと「持続可能な開発」のプロセスを統合し目標化。2030年までに貧困を解消し「持続可能な世界」への移行の道筋をつけることを二つの柱とする。