(注)本文章は、稲場雅紀が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関するグローバルな取り組みの経緯(2021年12月まで)について総括的にまとめたものである。
一 「これはアパルトヘイトだ」――アフリカが大陸レベルで表明した怒り
「これはワクチン・アパルトヘイトだ」。二〇二一年九月、一年ぶりに対面とオンラインを織り交ぜて開催された国連総会の壇上で告発したのは、南部アフリカ・ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領だった。世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス感染症(以下「コロナ」)について「パンデミック宣言」を発出してから一年半、先進国では、少なくとも一度以上ワクチンを接種した人の割合は六割以上に到達したのに対し、低所得国ではわずかに三%にとどまっていた(注1)。ナミビアは九〇年代初頭まで、白人政権時代の南アフリカ共和国に占領され、アパルトヘイト(人種隔離体制)を押し付けられていた。ガインゴブ大統領はその経験を交えて、コロナに関する富裕国と貧困国のワクチン・医療格差を告発したのだ。
国連総会でコロナの医療格差を告発したのは、ガインゴブ大統領にとどまらない。チャドのマハマト・イドリス・デビ大統領は「すべての人にワクチンを。世界の人間性の救済はここにかかっている」と発言。アンゴラのジョアン・ローレンコ大統領は「この格差は衝撃というに値する」と述べた。
「皆が安全にならない限り、誰も安全でない」
アフリカの首脳たちが決まって引用したのが、デルタ株の拡大を機に国際舞台に登場したスローガン「皆が安全にならない限り、誰も安全でない」(注2)だ。つまり、富裕国でワクチンによってコロナを抑え込んだとしても、貧困国での際限のない感染が繰り返されるうちに、ワクチンの効かない感染力の強い変異株が生まれ、富裕国を含む世界を席巻してしまう可能性がある。
だからこそ、貧困国を含む全世界でワクチン接種を拡大し、予防、検査、治療を徹底して、感染を抑え込み、新たな変異株の出現を防いでいかなければならない――アフリカ諸国の首脳たちは国連総会で、口をそろえて先進国や製薬企業に「ギャップを埋めろ」と迫ったのである。
実際、11月11日、南部アフリカの内陸国ボツワナを訪問中の外交使節団から検出された新型コロナウイルスに見つかった変異を皮切りに、同様の変異が南アフリカ共和国でも検出され、WHOは26日、この変異株を「オミクロン株」を名付けた。その後数日内に、欧州や米国でもオミクロン株が検出され、同変異株による感染が世界的に広がり始めていることが確認されている。この変異株には、これまでにない多数の変異が確認されており、これまでに開発されたコロナ・ワクチンや検査・治療薬などが効果を持つのかどうかが検証に付されている。このオミクロン株の速いスピードでの世界への伝播は、ワクチン・医療格差により、ウイルス封じ込めが機能しなかったことの結果ということができる。
富裕国と貧困国の間で大きな医療格差が生じる可能性がある、ということは、実際のところ、コロナ危機が始まった二〇二〇年初頭の段階ですでに認識されていた。私たちの世界は、二十数年前に直面したエイズ危機で、医薬品アクセスの格差を放置した結果、アフリカを中心に途上国で数千万人の命が奪われた経験がある。同じ悲劇を繰り返してはならない――コロナ・パンデミックが始まったとき、そのことはすでに指摘されていた。それから二年間、様々な努力はなされた。しかし、先進国を中心とする「ワクチン・ナショナリズム」と、ワクチンを開発したメガ・ファーマ(先進国の巨大製薬企業)の利益優先の販売戦略は、こうした努力を吹き飛ばした。
二〇二一年十一月現在、ワクチンを一回でも打った人の割合は、高所得国では六五%に及んでいるが、低所得国では六・五%。十倍の開きが生じている。格差はワクチンだけではない。検査についても、高所得国では十万人あたり一日五・六回おこなわれているが、低所得国では一日〇・一回で、五百六十倍の格差が生じている(注3)。酸素や治療薬など治療へのアクセスも同様である。
世界はこの「ワクチン・アパルトヘイト」をただ見過ごしているわけではない。ギャップを克服し、「次のパンデミック」の際に、「アパルトヘイト」の歴史を繰り返さないための努力は積み重ねられている。一方で、ワクチンや医薬品を囲い込み、独占と自己利益に固執する動きも、確実に存在する。いま、この瞬間にも繰り広げられている「せめぎあい」の諸相を、以下、紹介していきたい。
二 苦悩する多国間協力――ACTアクセラレーターの直面する現実
1 「コロナ関連製品アクセス促進枠組み」(ACTアクセラレーター)の挑戦
先進国と途上国の医療格差が大きな問題になった二十世紀末のエイズ以降、世界はいくつかのパンデミックの危機にさらされている。大きなものは二〇〇三年のSARSと二〇〇九年の新型インフルエンザ(H1N1)である。これらは今回のコロナのように拡大する可能性があったが、結果的に封じ込めが成功した。その後二〇一三年に西アフリカ三国でエボラ・ウイルス病が拡大し、一万人以上の死者を出した。このエボラの教訓を踏まえ、二〇一六年のG7伊勢志摩サミットの際に、国際保健安全保障の体制が整備された。ただ、この整備の仕方には一点、問題があった。想定されていたのがエボラ・タイプの感染症だったことである。
伊勢志摩サミットを機会に設けられたのは、保健上の緊急事態を検知したら二十四時間以内にWHOに通知するというWHOの「国際保健規則」に関する各国の実施能力強化、通知があった際にWHOが緊急で調査に行く資金を確保する「緊急対応基金」(CFE)、債券を活用して民間資金を集め、さらなる緊急事態のための資金を確保する「パンデミック緊急ファシリティ」(PEFF、現在は閉鎖)であった。これは、必ずしも保健上の緊急事態の検知や通知能力のない後発発展途上国などで生じた急性感染症を、その地域に封じ込めるという発想に基づいている。
しかし今回、中国で発生し、その後急速に世界全体に拡大したコロナに関しては、まったく別の対処の方法が必要であった。そこで設置されたのが、WHOが全体調整役となり、保健に関わる十の国際機関と民間財団が連携して、コロナのワクチン・診断・治療の研究開発からアクセスまで一体でとりくむ画期的なプラットフォーム「ACTアクセラレーター」(コロナ関連製品アクセス促進枠組み)であった。
実際、ACTアクセラレーターが設置されたのは、WHOがコロナに関してパンデミック宣言をおこなった二〇二〇年三月十一日から一カ月ほどしか経過していない四月二十四日である。これは、当時の米国がドナルド・トランプ政権で、多国間協調に背を向けていたことを考えれば、極めて速いスピードであった。
ACTアクセラレーターは、ワクチン、診断、治療の研究開発から供給までをそれぞれ統合的におこなう三つのパートナーシップと、新たな製品を受け止めて各国の保健システムに接合する「保健システム・コネクター」の四つの枠組みで構成され、この設立に積極的に関わった国々の政府と民間財団、市民社会などで構成される「運営評議会」がガバナンスを担うかたちで構成された。コロナにかかわる多国間協力の仕組みが設置されたことで、グローバルな対策も急速に進むことが期待された。
2 ACTアクセラレーターの苦悩――資金不足と供給不足
米国が不在のなかで、ACTアクセラレーターが目指した高いレベルの多国間協力の行く手を阻み続けたのは、資金不足と、先進国や中国・ロシアを含む主要国のワクチン・ナショナリズムや二国間協力優先の姿勢、そしてワクチンを開発したメガ・ファーマの消極姿勢であった。
■資金不足
まず資金不足については、主要先進国をはじめとする旧来の援助国が十分な資金を提供せず、また、ロシア、中国、インドなど巨大な新興経済国がこの枠組みに参加しなかったことが原因である。結局、ACTアクセラレーターが発足してから一年半が経過した二一年九月の段階でも、合計百六十三億ドル(約一兆八千億円)が不足していた。このうち、ワクチンについては「ワクチン・ギャップ」が世界的に問題となり、二一年一月に政権交代した米国バイデン政権の積極姿勢もあって資金不足自体は解消されたが、診断に関しては八十億ドル、治療については二十四億ドル、保健システムについては六十四億ドルの資金不足が続いた(注4)。
結局、この資金不足が解消されないまま、ACTアクセラレーターは二二年九月までの新たな予算を策定せざるを得なかった。先に述べた、富裕国と貧困国の五百倍にも及ぶ検査ギャップや、途上国で続く酸素不足や効果のある治療薬へのアクセス不能の状況は、国際社会がACTアクセラレーターに十分な資金を提供しなかったことが原因の一つをなしている。
■自国優先、二国間協力優先でワクチン抱え込み
各国の自国優先、二国間協力優先の姿勢もACTアクセラレーターの機能不全を生んだ要因である。
ACTアクセラレーターの枠組みのうち、ワクチンの開発と供給を担った「COVAX」は、もともとワクチンのグローバルな共同購入ための二段構えの枠組みとして設計されていた。富裕国や一人当たりGDPが相対的に高い新興国(上位中所得国)は一定の資金を払ってCOVAXに参加して「COVAXファシリティ」を通じて各種のワクチンを購入し、その資金によって、貧困な国々(下位中所得国と低所得国)が「COVAX事前買取制度」(COVAX―AMC)の枠で、各国の人口の二〇―三〇%までワクチンを供与される、という仕組みである。
ところが、もともとACTアクセラレーターによる多国間協力を推進してきた欧州連合や欧州諸国は、二〇年九月のCOVAX発足の直前の段階で二の足を踏んだ。先進国は、資金力にものを言わせて、ワクチンを開発した欧米のメガ・ファーマと直接交渉し、自国民が何度もワクチンを接種できるほどの量のワクチンを抱え込んだ。結果として、中南米や東南アジア、北アフリカなどの比較的経済規模の大きな新興国すら、当初はメガ・ファーマからのワクチン購入の道を閉ざされた。
メガ・ファーマとの交渉に当たった中南米諸国の政府交渉官は、交渉過程は秘密保持契約があるため明かせないとしつつ、メガ・ファーマ側の強硬な交渉姿勢について語っている。一部企業は、ワクチンによる健康被害の免責を求め、さらに、訴訟費用が生じた場合に「政府官庁のビルや軍事基地を担保に差し出せ」と要求したという。交渉官らは、メガ・ファーマの交渉姿勢を「ワクチンを盾に取ったいじめ」だった、と述懐する。
こうした強硬姿勢の結果、メガ・ファーマは空前の利益を上げた。米モデルナ社はワクチンの二一年の年間売上高を百八十億ドル(注5)、米ファイザー社は三百六十億ドル(注6)と見積もっている。
3 デルタ株の感染爆発で破綻した「インド依存」のモデル
これらメガ・ファーマは、一部を除いて、COVAXに対する貢献に後ろ向きだった。積極的に呼応したのは英アストラゼネカ社である。同社のワクチンは新技術であるmRNAワクチンではなく、過去にエボラワクチンで実用化された経緯のある「ウイルスベクターワクチン」である。同社はこれについて、インドにある世界最大のワクチン製造企業であるインド血清研究所(SII=セーラム・インスティチュート・オブ・インディア)との間で自発的なライセンス契約をおこない、SIIがこれを五・五億本製造してCOVAXに納入することとなった。米ノヴァヴァックス社の組み換えタンパクワクチンもSIIがライセンス生産してCOVAXに納入することとなったが、実用化が遅れ、供給に至っていない。
一方、ファイザー社がCOVAXに納入を決めたのは四千万本と相対的にわずかな量にとどまった。また、モデルナ社はワクチン開発に当たって、COVAXで研究開発を主管する機関であるCEPI(感染症対策イノベーション連合)から一定額の資金を受け取っているにもかかわらず、COVAXとの交渉は長引き、結局、二億本の納入を決めたものの、実際の納入は二二年になってからとなった。結局、COVAXのビジネスモデルは、とくに二一年前半においては、「インドで生産されたアストラゼネカ・ワクチンを途上国に供給する」以上のものにならなかった。そして、そこに落とし穴があったのである。
二一年三月、インドで、コロナの大流行が始まった。その原因は、旧来の株に対して感染力が一・五〜二倍強い「デルタ株」であった。感染は幾何級数的に増加し、病院は重症化した患者で埋まり、多くの人々が酸素不足で命を落とすという究極の事態に追い込まれた。この状況は世界に報道され、インド政府はもともと海外向けに製造されていたワクチンの輸出を停止する緊急措置に踏み切った。結果、COVAXへのワクチン納入は止まり、COVAXは圧倒的な供給不足に陥った。本来、COVAXによるワクチン供給が予定されていた多くの国々で、ワクチン供給が途絶したのである。
インドはジェネリック薬産業が集積しており、「貧者の薬局」といわれ、これまでも、途上国向けの安価な医薬品の多くはインドで生産されてきた。本来、多国間協力の枠組みであったCOVAXは、この時点で結局、これまでと同様、インドに依存したワクチン供給モデル以上の枠組みを作り得ず、デルタ株はその脆弱性を容赦なく攻撃したのである。
■先進国と途上国のギャップが深刻に
先進国はCOVAXのこの行き詰まりに対して、米国が主導して五月に第一回のワクチン・サミットを開催、六月二日には日本がホスト国となって「COVAXワクチン・サミット」を開催し、日本政府は通算十億ドルの資金をCOVAXに拠出すること、日本企業JCRファーマがライセンス生産するアストラゼネカ・ワクチン三千万本を途上国に供与することを誓約した。現在までに、富裕国から途上国へのワクチン供与誓約は合計十三億本に上っているが(注7)、貧困国への供与実績はこの十月までに一・五億本にとどまっており、インドからの供給途絶をカバーできる量にはまったく及んでいないのが現実である。
メガ・ファーマの非協力、先進国の「自国優先」と「出し渋り」に、多国間協力の枠組みは苦悩を抱えている。ACTアクセラレーターは八月、中間戦略レビューと新戦略計画・予算の策定をおこない、十月、二〇二二年に向けての新たな戦略計画と予算案を発表した。この戦略計画でACTアクセラレーターは、世界はこの一年半でワクチンや有効な検査・治療法を確保したものの、世界全体への公平な供給に失敗した結果、コロナはこれら新規技術を活用できる富裕国と、アクセスできない貧困国の「二つのトラック」を持つ疾病となった、と分析する。
そのうえで、自らの役割について、「世界全体の公正なアクセス実現」から変更し「先進国と途上国のギャップを埋める」ことに集中する、と再定義した。そのために必要な予算として示されたのは、二〇二二年末までに二百三十四億ドル(約二・五七兆円)である。
三 メガ・ファーマを追い込んだ「知的財産権の免除」――勝ち取られる実質上の前進
1 米国の政策的大転換と中国の「ワクチン覇権」
コロナをめぐるワクチン・医薬品アクセスのもう一つの舞台となったのが世界貿易機関(WTO)である。
■百カ国以上が知的財産権免除提案を支持
二〇年十月二日、コロナのグローバルな収束や今後のパンデミック予防・対策・対応の仕組みの刷新に向けたゲーム・チェンジャーとなりうる提案が、南アフリカ共和国とインド政府から提出された。「コロナの収束まで、ワクチンなどコロナ関連製品に関する『知的財産権の貿易の側面に関する協定』(TRIPs)の一部条項の適用を免除する」。つまり、コロナのワクチンや予防・診断・治療に関する製品について、広範に知的財産権(知財権)を免除するというのである。
この提案は、同時に走るもう一つのとりくみと対になることで、コロナ克服への大きな意義を持つ。つまり、ワクチン等について顕在的・潜在的に製造能力を持つ途上国の企業や研究所などを発掘し、対等な立場で技術移転をおこない、また、WHOがコロナに関わるライセンスの橋渡し役として設置した「コロナ技術アクセス・プール」(C—TAP)などを介して透明性を担保したかたちで製造に関する権利を担保して、東南アジア、北アフリカ、中南米など各地域で生産し、世界の公衆衛生ニーズを埋めていく、というものである。
この画期的な提案は、瞬く間にWTOに加盟する途上国の支持を集めた。後発開発途上国(LDC)グループ、アフリカ・グループなどがグループごと共同提案者となり、また、中南米、大洋州、中東・北アフリカなどの国々も個別に共同提案者になった結果、二一年十月までに六十四カ国が共同提案、百カ国以上が支持を表明するに至ったのである。一方、先進国は当初、この提案に反対の立場をとり続けた。
■米国の政策大転換とその背景
大きな変化があったのは五月である。一九八五年以来三十以上の長きにわたって、共和・民主の政権党のいかんを問わず、知的財産権至上主義政策を撮り続けてきた米国政府が、とくにワクチンに関して、この提案への支持を表明したのである。
なぜ米国はコロナに関して政策の大転換に踏み切ったのか。理由は二つである。一つは、前章で述べたインドのデルタ株大流行と医療崩壊により、COVAXによる世界へのワクチン供給が、少なくとも一時的に大きなダメージを受け、これに対応しなければならなかったこと、もう一つは、中国の存在である。
中国はコロナの震源地となり、その後、早い段階でシノバック・バイオテック社(北京科興生物製品有限公司)とシノファーム社(中国国家医薬集団)がそれぞれコロナの不活化ワクチンを開発し、ロシアが開発したウイルスベクターワクチン「スプートニクV」と軌を一にする形で世界への展開を開始した。欧米のメガ・ファーマが利益追求を優先して先進国に特化した戦略をとり、東南アジア、中南米、中東・北アフリカに対して酷薄な態度をとっている間に、中国は自国のワクチンをこれらの国々に積極的に販売し、さらには、各国の製薬企業に技術供与してライセンス契約をおこない、二十カ国以上で充填・包装や自国生産をおこなうに至ったのである。
結果、中国は二一年十一月までに、実績ベースで十一億本のワクチンを世界に供給している。これは、COVAXの実績の二倍である(注8)。さらに、シノファーム、シノバックのワクチンがWHOの緊急使用許可を得たことから、両ワクチンのCOVAXによる供給が始まり、さらにクローバー・ファーマシューティカルズ(三叶草生物製薬公司)が米ダイナヴァックス社からの技術提供を受けて開発中のワクチンも、実用化された段階でCOVAX経由で途上国に供給されることとなった。つまり、二〇年末から二一年半ばまでの間に、中国ワクチンが、特に所得が相対的に高い新興国のワクチン市場を席巻してしまったのである。
なお、指摘しておかなければならないのは、中国ワクチンの多くは、基本、二国間交渉で、相当の価格で販売される形で供給されており、結果として、一部の友好国を除いて低所得国には十分に届いていないということである。この意味で、中国・ロシアなどが開発した非メガ・ファーマ系ワクチンは、必ずしも貧困国のワクチン・アクセスに関する「回答」とはなりえていない。
このままでは、中所得国以下の国々のワクチン市場は中国に握られ、また、技術移転などのルールについても、事実上、中国によって規定されてしまうことになる――政策的大転換をもたらした米国の焦りはそこにあった。
■従来の医薬品アクセスメカニズムの破綻
これまでの医薬品アクセスのルールは、エイズ治療薬などの例外はあったにせよ、基本、先進国が軍事費を含めた巨大な研究開発費によって基礎研究を進め、それをメガ・ファーマや国策創薬ヴェンチャーが実用化して知的財産権によって独占し、国内向けには膨大な社会保障費や医療費でこれを買い支えるというものであった。
また、途上国向けには、限定的で透明性のない自発的ライセンシングと、一部、「医薬品特許プール」といった公的な枠組みによってインドを中心とするジェネリック製薬企業に門戸を開き、グローバルファンドやGAVIアライアンスなど国際機関による国際公共調達によって供給する、という形でおこなわれてきた。
ところが、今回のコロナによって、このメカニズムは破綻に直面し、インドの医療崩壊によるCOVAXの機能低下が、それを満天下にさらしてしまった。ならば、「知的財産権」に過度に依存しない新しいルールを、公的に作っていかなければならない。そのルール・メイキングを担うのは、中国ではなく、米国でなければならない、というのが、今回の方針転換の意味するところであろう。
2 「知的財産権免除」提案がもたらす「破壊的イノベーション」
実際のところ、WTOでの「知的財産権免除」提案の交渉は一年以上にわたって停滞している。ドイツ、英国、スイスなどわずかな国が反対の姿勢を取り続け、合意が形成できないのがその理由である。日本も米国とともに、知的財産権至上主義の最強硬派を形成してきたが、今回については、米国の政策転換に際して、キャサリン・タイ通商代表と会談した茂木外相が理解を表明し、さらに、日本共産党の井上哲士議員の質問に対して「我が国として待ったをかけるつもりはない」と答弁したことで、公式には「中立」に移行した。しかし、実際の交渉現場での態度は明確ではなく、政策決定にかかわる官僚層も、「知財権がないという状態を想定できない」という立場にとどまっている。
■途上国のワクチン・医療品アクセスに注目すべき変化
しかし、このWTOの土俵で、加盟国の圧倒的多数が、コロナがもたらした新たな事態に、新しいやり方で対応することに賛成していること、米国をはじめ、欧州連合のなかでもイタリア・スペインなどが提案に賛成の意を表し始めたこと、さらに九月になってオーストラリアが提案賛成を表明したことなど、彼我の力関係に大きな変化が生じていることで、途上国でのワクチン・医薬品アクセスにも大きな変化が生じ始めている。
WHOは、メガ・ファーマからの協力を待つことなく、地域での技術移転を促進するために、アフリカで「mRNAワクチン技術移転ハブ」の設立を呼びかけた。これに対して、南アフリカ共和国のワクチン製造企業バイオヴァック社、アフリジェン社の二社が呼応。これに恐れをなした米ファイザーは七月、バイオヴァック社に対して、ファイザー社のワクチンの充填・包装を持ち掛け、さらに、バイオヴァック社が充填・包装したファイザー・ワクチンは他に再輸出せず、アフリカに供給することを内容とする協定を結んだ。WHOのmRNAワクチン・技術移転ハブ構想は、東南アジア、中南米でも進展しつつある。
同じく南アのワクチン製造企業であるアスペン・ファーマシューティカル社は、ライセンス契約により、米ジョンソン&ジョンソン社(J&J)社のウイルスベクターワクチンの製造の最終工程(充填・包装)を担ってきた。もともと、これらのワクチンの九割は欧州に再輸出され、アフリカには一割しか残らない契約であった。これについて、南アのシリル・ラマポーザ大統領とアフリカ連合ワクチン特使のストライブ・マシイワ氏が抗議、結果として、アスペンがアフリカで製造したJ&J社のワクチンはアフリカにとどまり、アフリカ連合の「アフリカ・ワクチン確保タスクチーム」(AVATT)イニシアティブによって四億本のJ&Jワクチンがアフリカに供給されることとなった。
この秋以降、独メルク社が開発した抗コロナウイルス経口薬「モルヌピラビル」と米ファイザーの「パクスロビド」についても、注目すべき変化が生じている。
二社は、「医薬品特許プール」(MPP)とライセンス契約を結び、MPPとサブライセンス契約を結んだインドなどのジェネリック薬企業が安価に途上国向けにこれらの薬を製造・供給できるようにした。このMPPは、開発されたばかりの効果の高い新薬を、途上国のジェネリック薬企業が途上国向けに安価に製造する契約枠組みを透明性のある形で整えるために、フランスを中心とする国際航空券連帯税を財源として設置された機関であり、これまでに多くのエイズ治療薬などが、MPPの仲介を経て、途上国に安価かつ安定的に供給されている。
今回のMPPとのライセンス契約については、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、コロンビアなど、コロナの大被害を受けた中南米の中所得国が除外されるなど、解決されるべき問題を含んでいるが、コロナについて、これまでMPPの活用がなされていなかったことを考えれば、全体としては前進と評価することはできよう。
四 「パンデミックの時代」における新たなルール形成――「共有と協働」への転換は図られるか
二〇二〇年に始まったコロナ・パンデミックは、世界で二億五千万人以上の感染と五百万人以上の犠牲をもたらした。ワクチンや医薬品は開発されたが、これは世界を、新規技術にアクセスできる富裕国と、アクセスが困難なそれ以外の国へと分断した。「誰もが安全になるまで、誰も安全でない」というスローガンが示す現実は、この分断をそのままにしておいては、富裕国も含めて「誰も安全でない」というこの状況を克服することはできないことを明るみに出した。この分断は、知的財産権を軸に、研究開発や製造に関する技術や能力を先進国とその一部企業が独占する現行の制度によって成り立っている。コロナ・パンデミックの克服において、この現行制度の致命的な欠陥が明らかになった以上、ルールは改められなければならない。
特に、コロナ・パンデミックは、生物多様性の喪失という「地球の限界による危機」と、これがもたらす人間と自然の関係の変化によってもたらされた。今後、生物多様性の喪失がさらに進むにつれて、新たな感染症が人類にもたらされる可能性は高くなる。「パンデミックの時代」の幕がコロナによって開けられたのである。そうであれば、ますます、現行の「独占と競争」をベースにした制度から、新たな制度への移行が早期に実現される必要がある。
新たなルール作りへの提案
国際社会はすでにそのことに気付いている。コロナに対するWHOの初動のあり方を検証し、今後のパンデミック予防・対策・対応のあり方を検討するために二〇二〇年五月に設置された「パンデミック対策・対応に関する独立パネル」(IPPPR。議長=ヘレン・クラーク・ニュージーランド元首相、エレン・ジョンソン=サーリーフ・リベリア元大統領)は、今回招来した事態を踏まえて、「研究開発から供給に至るまでのエンド・トゥ・エンドの仕組み」を事前に作っておくことが必要であり、そのなかで「研究開発や製造の技術や能力を一部の先進国が独占しているあり方は早急に変えられなければならない」と喝破した。
同パネルは、国連をベースにした「国際保健脅威評議会」と五十億〜百億ドル規模の「国際保健脅威資金ファシリティ」を設置することを提案。一方、G20は特に資金面に特化した「国際公共財としてのパンデミックへの備えと対応のための資金調達に関するG20ハイレベル独立パネル」(HLIP。議長=ローレンス・サマーズ・元米財務長官、オコンジョ=イウェアラ・元ナイジェリア財務相、ターマン・シャンガムラットナム・シンガポール上級相)を設置し、パンデミック対策・対応のための一兆円規模の「金融仲介基金」(FIF)と、「国際保健脅威評議会」を補完し、同基金を管理するための「国際保健脅威理事会」を、G20の保健相・財務相会議をベースに設置することを提案した。
一方、特にパンデミックに関する初動の在り方等を含め、現行のWHO「国際保健規則」を大幅に変え、様々な要素を盛り込んだ「パンデミック条約」を設置すべき、との提起が、特に欧州を中心に提唱され、WHOも臨時の世界保健総会を開催してこれについて討議することになっている。
「誰もが安全な」システムへの移行へ「アーキテクチャー(構造)の変革」を
同時進行するWTOの知的財産権をめぐる議論を含め、これらの一連の動きは「国際保健アーキテクチャー(構造)の変革」と名づけられているが、この変革に向けた動きは、二一年末から加速し、二二年を通じて討議され、おそらく二三年のG7日本サミットに向けて収斂していくことになるであろう。
私たち人類社会の行く末は、この「アーキテクチャーの変革」のいかんに大きく左右される。知的財産権を軸とする、一部先進国とその企業による「独占と競争」と、中国・ロシアなど一部巨大信仰経済による競合と補完、という現行のシステムは、世界を富裕国と貧困国とに分断し、富裕国の国民を含め、「誰も安全にしない」システムである。
このシステムを抜本的に作り替え、共有と協働をベースとする、感染症に対して「誰もが安全な」システムへと移行できるかが問われている。これを実現する規定力となるのは、南の世界(途上国)と北の世界(先進国)を貫く市民社会の連帯である。
この「連帯」は、すでに数多くの市民社会の潮流によって担われている。途上国の保健・医療アクセスや、開発、人権などに取り組んできた市民社会団体は、昨年来、国境なき医師団やオックスファム、ヒューマン・ライツ・ウォッチなど大きな国際NGOから途上国の現場のコミュニティ団体までが連合して「ピープルズ・ワクチン連合」を設立し、知的財産権保護の免除と医薬品への公正なアクセスを求める世界規模の提言キャンペーンを行っている。また、不公正な貿易ルールの是正や債務問題などに関わってきた米国の「パブリックシチズン」やマレーシアの「第3世界ネットワーク」をはじめとするグループも、貿易関連の世界的キャンペーン「我々の世界は売り物ではない」を筆頭に政策提言を行っている。さらに、米国政府が「知的財産権保護免除」に舵を切ったのと前後して、米国の大手民間財団やそれに支えられた大手のロビーイング・キャンペーン系の団体なども、「知的財産権保護免除」に向けた取り組みを始めつつある。
日本では、昨年11月に、国境なき医師団日本、アフリカ日本協議会、シェア=国際保健協力市民の会、アジア保健研修所など国際保健に取り組む市民社会団体と、アジア太平洋資料センター(PARC)など南の世界の民衆との連帯や貿易の不公正に取り組む市民社会団体が連携して「新型コロナに対する公正な医療アクセスをすべての人に!連絡会」を設置、問題の啓発や、日本政府への政策提言、対話などに取り組んでいる。日本政府は現在のところ、上記のACTアクセラレーター関連国際機関への多国間協力や各国へのワクチン供与や無償資金、円借款などを一定の規模で行いつつも、コロナ・パンデミックや今後のパンデミックの危機の大きさに対応した、知的財産権保護免除など国際ルールや構造の抜本的な変革については、積極的な立場には立っていない。日本政府が世界の市民社会の声に耳を傾け、コロナ危機に象徴される人類の「持続可能性の危機」の現実を直視し、世界の多くの国々や市民とともに変革への道に足を踏み入れることを切に願うものである。
(注1)UNDP「ワクチンの平等性に関する国際ダッシュボード」の二〇二一年九月の数字による。
(注2)英語では「No one is safe until everyone is」。
(注3)FIND(革新的新規診断技術財団)「重症急性呼吸器症候群コロナウイルス二型(SARS-COV-2)検査に関する双方向的トラッカー」
(注4)WHO「ACTアクセラレーター資金コミットメント・トラッカー」によるデータ。
(注5)国境なき医師団プレスリリース「ワクチンで数十億ドルの収入を上げるモデルナ社、しかし技術移転はせず」(二〇二一年十一月四日)
(注6)CNN「ファイザー社、コロナ事業で利益が急増」(二〇二一年十一月二日)
(注7)GAVIワクチンアライアンス「ワクチン供与誓約と実際の供給」(二〇二一年十月二十二日現在)
(注8)ブリッジ・コンサルティング社(北京)「中国コロナワクチン・トラッカー」による数字。
一 「これはアパルトヘイトだ」――アフリカが大陸レベルで表明した怒り
「これはワクチン・アパルトヘイトだ」。二〇二一年九月、一年ぶりに対面とオンラインを織り交ぜて開催された国連総会の壇上で告発したのは、南部アフリカ・ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領だった。世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス感染症(以下「コロナ」)について「パンデミック宣言」を発出してから一年半、先進国では、少なくとも一度以上ワクチンを接種した人の割合は六割以上に到達したのに対し、低所得国ではわずかに三%にとどまっていた(注1)。ナミビアは九〇年代初頭まで、白人政権時代の南アフリカ共和国に占領され、アパルトヘイト(人種隔離体制)を押し付けられていた。ガインゴブ大統領はその経験を交えて、コロナに関する富裕国と貧困国のワクチン・医療格差を告発したのだ。
国連総会でコロナの医療格差を告発したのは、ガインゴブ大統領にとどまらない。チャドのマハマト・イドリス・デビ大統領は「すべての人にワクチンを。世界の人間性の救済はここにかかっている」と発言。アンゴラのジョアン・ローレンコ大統領は「この格差は衝撃というに値する」と述べた。
「皆が安全にならない限り、誰も安全でない」
アフリカの首脳たちが決まって引用したのが、デルタ株の拡大を機に国際舞台に登場したスローガン「皆が安全にならない限り、誰も安全でない」(注2)だ。つまり、富裕国でワクチンによってコロナを抑え込んだとしても、貧困国での際限のない感染が繰り返されるうちに、ワクチンの効かない感染力の強い変異株が生まれ、富裕国を含む世界を席巻してしまう可能性がある。
だからこそ、貧困国を含む全世界でワクチン接種を拡大し、予防、検査、治療を徹底して、感染を抑え込み、新たな変異株の出現を防いでいかなければならない――アフリカ諸国の首脳たちは国連総会で、口をそろえて先進国や製薬企業に「ギャップを埋めろ」と迫ったのである。
実際、11月11日、南部アフリカの内陸国ボツワナを訪問中の外交使節団から検出された新型コロナウイルスに見つかった変異を皮切りに、同様の変異が南アフリカ共和国でも検出され、WHOは26日、この変異株を「オミクロン株」を名付けた。その後数日内に、欧州や米国でもオミクロン株が検出され、同変異株による感染が世界的に広がり始めていることが確認されている。この変異株には、これまでにない多数の変異が確認されており、これまでに開発されたコロナ・ワクチンや検査・治療薬などが効果を持つのかどうかが検証に付されている。このオミクロン株の速いスピードでの世界への伝播は、ワクチン・医療格差により、ウイルス封じ込めが機能しなかったことの結果ということができる。
富裕国と貧困国の間で大きな医療格差が生じる可能性がある、ということは、実際のところ、コロナ危機が始まった二〇二〇年初頭の段階ですでに認識されていた。私たちの世界は、二十数年前に直面したエイズ危機で、医薬品アクセスの格差を放置した結果、アフリカを中心に途上国で数千万人の命が奪われた経験がある。同じ悲劇を繰り返してはならない――コロナ・パンデミックが始まったとき、そのことはすでに指摘されていた。それから二年間、様々な努力はなされた。しかし、先進国を中心とする「ワクチン・ナショナリズム」と、ワクチンを開発したメガ・ファーマ(先進国の巨大製薬企業)の利益優先の販売戦略は、こうした努力を吹き飛ばした。
二〇二一年十一月現在、ワクチンを一回でも打った人の割合は、高所得国では六五%に及んでいるが、低所得国では六・五%。十倍の開きが生じている。格差はワクチンだけではない。検査についても、高所得国では十万人あたり一日五・六回おこなわれているが、低所得国では一日〇・一回で、五百六十倍の格差が生じている(注3)。酸素や治療薬など治療へのアクセスも同様である。
世界はこの「ワクチン・アパルトヘイト」をただ見過ごしているわけではない。ギャップを克服し、「次のパンデミック」の際に、「アパルトヘイト」の歴史を繰り返さないための努力は積み重ねられている。一方で、ワクチンや医薬品を囲い込み、独占と自己利益に固執する動きも、確実に存在する。いま、この瞬間にも繰り広げられている「せめぎあい」の諸相を、以下、紹介していきたい。
二 苦悩する多国間協力――ACTアクセラレーターの直面する現実
1 「コロナ関連製品アクセス促進枠組み」(ACTアクセラレーター)の挑戦
先進国と途上国の医療格差が大きな問題になった二十世紀末のエイズ以降、世界はいくつかのパンデミックの危機にさらされている。大きなものは二〇〇三年のSARSと二〇〇九年の新型インフルエンザ(H1N1)である。これらは今回のコロナのように拡大する可能性があったが、結果的に封じ込めが成功した。その後二〇一三年に西アフリカ三国でエボラ・ウイルス病が拡大し、一万人以上の死者を出した。このエボラの教訓を踏まえ、二〇一六年のG7伊勢志摩サミットの際に、国際保健安全保障の体制が整備された。ただ、この整備の仕方には一点、問題があった。想定されていたのがエボラ・タイプの感染症だったことである。
伊勢志摩サミットを機会に設けられたのは、保健上の緊急事態を検知したら二十四時間以内にWHOに通知するというWHOの「国際保健規則」に関する各国の実施能力強化、通知があった際にWHOが緊急で調査に行く資金を確保する「緊急対応基金」(CFE)、債券を活用して民間資金を集め、さらなる緊急事態のための資金を確保する「パンデミック緊急ファシリティ」(PEFF、現在は閉鎖)であった。これは、必ずしも保健上の緊急事態の検知や通知能力のない後発発展途上国などで生じた急性感染症を、その地域に封じ込めるという発想に基づいている。
しかし今回、中国で発生し、その後急速に世界全体に拡大したコロナに関しては、まったく別の対処の方法が必要であった。そこで設置されたのが、WHOが全体調整役となり、保健に関わる十の国際機関と民間財団が連携して、コロナのワクチン・診断・治療の研究開発からアクセスまで一体でとりくむ画期的なプラットフォーム「ACTアクセラレーター」(コロナ関連製品アクセス促進枠組み)であった。
実際、ACTアクセラレーターが設置されたのは、WHOがコロナに関してパンデミック宣言をおこなった二〇二〇年三月十一日から一カ月ほどしか経過していない四月二十四日である。これは、当時の米国がドナルド・トランプ政権で、多国間協調に背を向けていたことを考えれば、極めて速いスピードであった。
ACTアクセラレーターは、ワクチン、診断、治療の研究開発から供給までをそれぞれ統合的におこなう三つのパートナーシップと、新たな製品を受け止めて各国の保健システムに接合する「保健システム・コネクター」の四つの枠組みで構成され、この設立に積極的に関わった国々の政府と民間財団、市民社会などで構成される「運営評議会」がガバナンスを担うかたちで構成された。コロナにかかわる多国間協力の仕組みが設置されたことで、グローバルな対策も急速に進むことが期待された。
2 ACTアクセラレーターの苦悩――資金不足と供給不足
米国が不在のなかで、ACTアクセラレーターが目指した高いレベルの多国間協力の行く手を阻み続けたのは、資金不足と、先進国や中国・ロシアを含む主要国のワクチン・ナショナリズムや二国間協力優先の姿勢、そしてワクチンを開発したメガ・ファーマの消極姿勢であった。
■資金不足
まず資金不足については、主要先進国をはじめとする旧来の援助国が十分な資金を提供せず、また、ロシア、中国、インドなど巨大な新興経済国がこの枠組みに参加しなかったことが原因である。結局、ACTアクセラレーターが発足してから一年半が経過した二一年九月の段階でも、合計百六十三億ドル(約一兆八千億円)が不足していた。このうち、ワクチンについては「ワクチン・ギャップ」が世界的に問題となり、二一年一月に政権交代した米国バイデン政権の積極姿勢もあって資金不足自体は解消されたが、診断に関しては八十億ドル、治療については二十四億ドル、保健システムについては六十四億ドルの資金不足が続いた(注4)。
結局、この資金不足が解消されないまま、ACTアクセラレーターは二二年九月までの新たな予算を策定せざるを得なかった。先に述べた、富裕国と貧困国の五百倍にも及ぶ検査ギャップや、途上国で続く酸素不足や効果のある治療薬へのアクセス不能の状況は、国際社会がACTアクセラレーターに十分な資金を提供しなかったことが原因の一つをなしている。
■自国優先、二国間協力優先でワクチン抱え込み
各国の自国優先、二国間協力優先の姿勢もACTアクセラレーターの機能不全を生んだ要因である。
ACTアクセラレーターの枠組みのうち、ワクチンの開発と供給を担った「COVAX」は、もともとワクチンのグローバルな共同購入ための二段構えの枠組みとして設計されていた。富裕国や一人当たりGDPが相対的に高い新興国(上位中所得国)は一定の資金を払ってCOVAXに参加して「COVAXファシリティ」を通じて各種のワクチンを購入し、その資金によって、貧困な国々(下位中所得国と低所得国)が「COVAX事前買取制度」(COVAX―AMC)の枠で、各国の人口の二〇―三〇%までワクチンを供与される、という仕組みである。
ところが、もともとACTアクセラレーターによる多国間協力を推進してきた欧州連合や欧州諸国は、二〇年九月のCOVAX発足の直前の段階で二の足を踏んだ。先進国は、資金力にものを言わせて、ワクチンを開発した欧米のメガ・ファーマと直接交渉し、自国民が何度もワクチンを接種できるほどの量のワクチンを抱え込んだ。結果として、中南米や東南アジア、北アフリカなどの比較的経済規模の大きな新興国すら、当初はメガ・ファーマからのワクチン購入の道を閉ざされた。
メガ・ファーマとの交渉に当たった中南米諸国の政府交渉官は、交渉過程は秘密保持契約があるため明かせないとしつつ、メガ・ファーマ側の強硬な交渉姿勢について語っている。一部企業は、ワクチンによる健康被害の免責を求め、さらに、訴訟費用が生じた場合に「政府官庁のビルや軍事基地を担保に差し出せ」と要求したという。交渉官らは、メガ・ファーマの交渉姿勢を「ワクチンを盾に取ったいじめ」だった、と述懐する。
こうした強硬姿勢の結果、メガ・ファーマは空前の利益を上げた。米モデルナ社はワクチンの二一年の年間売上高を百八十億ドル(注5)、米ファイザー社は三百六十億ドル(注6)と見積もっている。
3 デルタ株の感染爆発で破綻した「インド依存」のモデル
これらメガ・ファーマは、一部を除いて、COVAXに対する貢献に後ろ向きだった。積極的に呼応したのは英アストラゼネカ社である。同社のワクチンは新技術であるmRNAワクチンではなく、過去にエボラワクチンで実用化された経緯のある「ウイルスベクターワクチン」である。同社はこれについて、インドにある世界最大のワクチン製造企業であるインド血清研究所(SII=セーラム・インスティチュート・オブ・インディア)との間で自発的なライセンス契約をおこない、SIIがこれを五・五億本製造してCOVAXに納入することとなった。米ノヴァヴァックス社の組み換えタンパクワクチンもSIIがライセンス生産してCOVAXに納入することとなったが、実用化が遅れ、供給に至っていない。
一方、ファイザー社がCOVAXに納入を決めたのは四千万本と相対的にわずかな量にとどまった。また、モデルナ社はワクチン開発に当たって、COVAXで研究開発を主管する機関であるCEPI(感染症対策イノベーション連合)から一定額の資金を受け取っているにもかかわらず、COVAXとの交渉は長引き、結局、二億本の納入を決めたものの、実際の納入は二二年になってからとなった。結局、COVAXのビジネスモデルは、とくに二一年前半においては、「インドで生産されたアストラゼネカ・ワクチンを途上国に供給する」以上のものにならなかった。そして、そこに落とし穴があったのである。
二一年三月、インドで、コロナの大流行が始まった。その原因は、旧来の株に対して感染力が一・五〜二倍強い「デルタ株」であった。感染は幾何級数的に増加し、病院は重症化した患者で埋まり、多くの人々が酸素不足で命を落とすという究極の事態に追い込まれた。この状況は世界に報道され、インド政府はもともと海外向けに製造されていたワクチンの輸出を停止する緊急措置に踏み切った。結果、COVAXへのワクチン納入は止まり、COVAXは圧倒的な供給不足に陥った。本来、COVAXによるワクチン供給が予定されていた多くの国々で、ワクチン供給が途絶したのである。
インドはジェネリック薬産業が集積しており、「貧者の薬局」といわれ、これまでも、途上国向けの安価な医薬品の多くはインドで生産されてきた。本来、多国間協力の枠組みであったCOVAXは、この時点で結局、これまでと同様、インドに依存したワクチン供給モデル以上の枠組みを作り得ず、デルタ株はその脆弱性を容赦なく攻撃したのである。
■先進国と途上国のギャップが深刻に
先進国はCOVAXのこの行き詰まりに対して、米国が主導して五月に第一回のワクチン・サミットを開催、六月二日には日本がホスト国となって「COVAXワクチン・サミット」を開催し、日本政府は通算十億ドルの資金をCOVAXに拠出すること、日本企業JCRファーマがライセンス生産するアストラゼネカ・ワクチン三千万本を途上国に供与することを誓約した。現在までに、富裕国から途上国へのワクチン供与誓約は合計十三億本に上っているが(注7)、貧困国への供与実績はこの十月までに一・五億本にとどまっており、インドからの供給途絶をカバーできる量にはまったく及んでいないのが現実である。
メガ・ファーマの非協力、先進国の「自国優先」と「出し渋り」に、多国間協力の枠組みは苦悩を抱えている。ACTアクセラレーターは八月、中間戦略レビューと新戦略計画・予算の策定をおこない、十月、二〇二二年に向けての新たな戦略計画と予算案を発表した。この戦略計画でACTアクセラレーターは、世界はこの一年半でワクチンや有効な検査・治療法を確保したものの、世界全体への公平な供給に失敗した結果、コロナはこれら新規技術を活用できる富裕国と、アクセスできない貧困国の「二つのトラック」を持つ疾病となった、と分析する。
そのうえで、自らの役割について、「世界全体の公正なアクセス実現」から変更し「先進国と途上国のギャップを埋める」ことに集中する、と再定義した。そのために必要な予算として示されたのは、二〇二二年末までに二百三十四億ドル(約二・五七兆円)である。
三 メガ・ファーマを追い込んだ「知的財産権の免除」――勝ち取られる実質上の前進
1 米国の政策的大転換と中国の「ワクチン覇権」
コロナをめぐるワクチン・医薬品アクセスのもう一つの舞台となったのが世界貿易機関(WTO)である。
■百カ国以上が知的財産権免除提案を支持
二〇年十月二日、コロナのグローバルな収束や今後のパンデミック予防・対策・対応の仕組みの刷新に向けたゲーム・チェンジャーとなりうる提案が、南アフリカ共和国とインド政府から提出された。「コロナの収束まで、ワクチンなどコロナ関連製品に関する『知的財産権の貿易の側面に関する協定』(TRIPs)の一部条項の適用を免除する」。つまり、コロナのワクチンや予防・診断・治療に関する製品について、広範に知的財産権(知財権)を免除するというのである。
この提案は、同時に走るもう一つのとりくみと対になることで、コロナ克服への大きな意義を持つ。つまり、ワクチン等について顕在的・潜在的に製造能力を持つ途上国の企業や研究所などを発掘し、対等な立場で技術移転をおこない、また、WHOがコロナに関わるライセンスの橋渡し役として設置した「コロナ技術アクセス・プール」(C—TAP)などを介して透明性を担保したかたちで製造に関する権利を担保して、東南アジア、北アフリカ、中南米など各地域で生産し、世界の公衆衛生ニーズを埋めていく、というものである。
この画期的な提案は、瞬く間にWTOに加盟する途上国の支持を集めた。後発開発途上国(LDC)グループ、アフリカ・グループなどがグループごと共同提案者となり、また、中南米、大洋州、中東・北アフリカなどの国々も個別に共同提案者になった結果、二一年十月までに六十四カ国が共同提案、百カ国以上が支持を表明するに至ったのである。一方、先進国は当初、この提案に反対の立場をとり続けた。
■米国の政策大転換とその背景
大きな変化があったのは五月である。一九八五年以来三十以上の長きにわたって、共和・民主の政権党のいかんを問わず、知的財産権至上主義政策を撮り続けてきた米国政府が、とくにワクチンに関して、この提案への支持を表明したのである。
なぜ米国はコロナに関して政策の大転換に踏み切ったのか。理由は二つである。一つは、前章で述べたインドのデルタ株大流行と医療崩壊により、COVAXによる世界へのワクチン供給が、少なくとも一時的に大きなダメージを受け、これに対応しなければならなかったこと、もう一つは、中国の存在である。
中国はコロナの震源地となり、その後、早い段階でシノバック・バイオテック社(北京科興生物製品有限公司)とシノファーム社(中国国家医薬集団)がそれぞれコロナの不活化ワクチンを開発し、ロシアが開発したウイルスベクターワクチン「スプートニクV」と軌を一にする形で世界への展開を開始した。欧米のメガ・ファーマが利益追求を優先して先進国に特化した戦略をとり、東南アジア、中南米、中東・北アフリカに対して酷薄な態度をとっている間に、中国は自国のワクチンをこれらの国々に積極的に販売し、さらには、各国の製薬企業に技術供与してライセンス契約をおこない、二十カ国以上で充填・包装や自国生産をおこなうに至ったのである。
結果、中国は二一年十一月までに、実績ベースで十一億本のワクチンを世界に供給している。これは、COVAXの実績の二倍である(注8)。さらに、シノファーム、シノバックのワクチンがWHOの緊急使用許可を得たことから、両ワクチンのCOVAXによる供給が始まり、さらにクローバー・ファーマシューティカルズ(三叶草生物製薬公司)が米ダイナヴァックス社からの技術提供を受けて開発中のワクチンも、実用化された段階でCOVAX経由で途上国に供給されることとなった。つまり、二〇年末から二一年半ばまでの間に、中国ワクチンが、特に所得が相対的に高い新興国のワクチン市場を席巻してしまったのである。
なお、指摘しておかなければならないのは、中国ワクチンの多くは、基本、二国間交渉で、相当の価格で販売される形で供給されており、結果として、一部の友好国を除いて低所得国には十分に届いていないということである。この意味で、中国・ロシアなどが開発した非メガ・ファーマ系ワクチンは、必ずしも貧困国のワクチン・アクセスに関する「回答」とはなりえていない。
このままでは、中所得国以下の国々のワクチン市場は中国に握られ、また、技術移転などのルールについても、事実上、中国によって規定されてしまうことになる――政策的大転換をもたらした米国の焦りはそこにあった。
■従来の医薬品アクセスメカニズムの破綻
これまでの医薬品アクセスのルールは、エイズ治療薬などの例外はあったにせよ、基本、先進国が軍事費を含めた巨大な研究開発費によって基礎研究を進め、それをメガ・ファーマや国策創薬ヴェンチャーが実用化して知的財産権によって独占し、国内向けには膨大な社会保障費や医療費でこれを買い支えるというものであった。
また、途上国向けには、限定的で透明性のない自発的ライセンシングと、一部、「医薬品特許プール」といった公的な枠組みによってインドを中心とするジェネリック製薬企業に門戸を開き、グローバルファンドやGAVIアライアンスなど国際機関による国際公共調達によって供給する、という形でおこなわれてきた。
ところが、今回のコロナによって、このメカニズムは破綻に直面し、インドの医療崩壊によるCOVAXの機能低下が、それを満天下にさらしてしまった。ならば、「知的財産権」に過度に依存しない新しいルールを、公的に作っていかなければならない。そのルール・メイキングを担うのは、中国ではなく、米国でなければならない、というのが、今回の方針転換の意味するところであろう。
2 「知的財産権免除」提案がもたらす「破壊的イノベーション」
実際のところ、WTOでの「知的財産権免除」提案の交渉は一年以上にわたって停滞している。ドイツ、英国、スイスなどわずかな国が反対の姿勢を取り続け、合意が形成できないのがその理由である。日本も米国とともに、知的財産権至上主義の最強硬派を形成してきたが、今回については、米国の政策転換に際して、キャサリン・タイ通商代表と会談した茂木外相が理解を表明し、さらに、日本共産党の井上哲士議員の質問に対して「我が国として待ったをかけるつもりはない」と答弁したことで、公式には「中立」に移行した。しかし、実際の交渉現場での態度は明確ではなく、政策決定にかかわる官僚層も、「知財権がないという状態を想定できない」という立場にとどまっている。
■途上国のワクチン・医療品アクセスに注目すべき変化
しかし、このWTOの土俵で、加盟国の圧倒的多数が、コロナがもたらした新たな事態に、新しいやり方で対応することに賛成していること、米国をはじめ、欧州連合のなかでもイタリア・スペインなどが提案に賛成の意を表し始めたこと、さらに九月になってオーストラリアが提案賛成を表明したことなど、彼我の力関係に大きな変化が生じていることで、途上国でのワクチン・医薬品アクセスにも大きな変化が生じ始めている。
WHOは、メガ・ファーマからの協力を待つことなく、地域での技術移転を促進するために、アフリカで「mRNAワクチン技術移転ハブ」の設立を呼びかけた。これに対して、南アフリカ共和国のワクチン製造企業バイオヴァック社、アフリジェン社の二社が呼応。これに恐れをなした米ファイザーは七月、バイオヴァック社に対して、ファイザー社のワクチンの充填・包装を持ち掛け、さらに、バイオヴァック社が充填・包装したファイザー・ワクチンは他に再輸出せず、アフリカに供給することを内容とする協定を結んだ。WHOのmRNAワクチン・技術移転ハブ構想は、東南アジア、中南米でも進展しつつある。
同じく南アのワクチン製造企業であるアスペン・ファーマシューティカル社は、ライセンス契約により、米ジョンソン&ジョンソン社(J&J)社のウイルスベクターワクチンの製造の最終工程(充填・包装)を担ってきた。もともと、これらのワクチンの九割は欧州に再輸出され、アフリカには一割しか残らない契約であった。これについて、南アのシリル・ラマポーザ大統領とアフリカ連合ワクチン特使のストライブ・マシイワ氏が抗議、結果として、アスペンがアフリカで製造したJ&J社のワクチンはアフリカにとどまり、アフリカ連合の「アフリカ・ワクチン確保タスクチーム」(AVATT)イニシアティブによって四億本のJ&Jワクチンがアフリカに供給されることとなった。
この秋以降、独メルク社が開発した抗コロナウイルス経口薬「モルヌピラビル」と米ファイザーの「パクスロビド」についても、注目すべき変化が生じている。
二社は、「医薬品特許プール」(MPP)とライセンス契約を結び、MPPとサブライセンス契約を結んだインドなどのジェネリック薬企業が安価に途上国向けにこれらの薬を製造・供給できるようにした。このMPPは、開発されたばかりの効果の高い新薬を、途上国のジェネリック薬企業が途上国向けに安価に製造する契約枠組みを透明性のある形で整えるために、フランスを中心とする国際航空券連帯税を財源として設置された機関であり、これまでに多くのエイズ治療薬などが、MPPの仲介を経て、途上国に安価かつ安定的に供給されている。
今回のMPPとのライセンス契約については、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、コロンビアなど、コロナの大被害を受けた中南米の中所得国が除外されるなど、解決されるべき問題を含んでいるが、コロナについて、これまでMPPの活用がなされていなかったことを考えれば、全体としては前進と評価することはできよう。
四 「パンデミックの時代」における新たなルール形成――「共有と協働」への転換は図られるか
二〇二〇年に始まったコロナ・パンデミックは、世界で二億五千万人以上の感染と五百万人以上の犠牲をもたらした。ワクチンや医薬品は開発されたが、これは世界を、新規技術にアクセスできる富裕国と、アクセスが困難なそれ以外の国へと分断した。「誰もが安全になるまで、誰も安全でない」というスローガンが示す現実は、この分断をそのままにしておいては、富裕国も含めて「誰も安全でない」というこの状況を克服することはできないことを明るみに出した。この分断は、知的財産権を軸に、研究開発や製造に関する技術や能力を先進国とその一部企業が独占する現行の制度によって成り立っている。コロナ・パンデミックの克服において、この現行制度の致命的な欠陥が明らかになった以上、ルールは改められなければならない。
特に、コロナ・パンデミックは、生物多様性の喪失という「地球の限界による危機」と、これがもたらす人間と自然の関係の変化によってもたらされた。今後、生物多様性の喪失がさらに進むにつれて、新たな感染症が人類にもたらされる可能性は高くなる。「パンデミックの時代」の幕がコロナによって開けられたのである。そうであれば、ますます、現行の「独占と競争」をベースにした制度から、新たな制度への移行が早期に実現される必要がある。
新たなルール作りへの提案
国際社会はすでにそのことに気付いている。コロナに対するWHOの初動のあり方を検証し、今後のパンデミック予防・対策・対応のあり方を検討するために二〇二〇年五月に設置された「パンデミック対策・対応に関する独立パネル」(IPPPR。議長=ヘレン・クラーク・ニュージーランド元首相、エレン・ジョンソン=サーリーフ・リベリア元大統領)は、今回招来した事態を踏まえて、「研究開発から供給に至るまでのエンド・トゥ・エンドの仕組み」を事前に作っておくことが必要であり、そのなかで「研究開発や製造の技術や能力を一部の先進国が独占しているあり方は早急に変えられなければならない」と喝破した。
同パネルは、国連をベースにした「国際保健脅威評議会」と五十億〜百億ドル規模の「国際保健脅威資金ファシリティ」を設置することを提案。一方、G20は特に資金面に特化した「国際公共財としてのパンデミックへの備えと対応のための資金調達に関するG20ハイレベル独立パネル」(HLIP。議長=ローレンス・サマーズ・元米財務長官、オコンジョ=イウェアラ・元ナイジェリア財務相、ターマン・シャンガムラットナム・シンガポール上級相)を設置し、パンデミック対策・対応のための一兆円規模の「金融仲介基金」(FIF)と、「国際保健脅威評議会」を補完し、同基金を管理するための「国際保健脅威理事会」を、G20の保健相・財務相会議をベースに設置することを提案した。
一方、特にパンデミックに関する初動の在り方等を含め、現行のWHO「国際保健規則」を大幅に変え、様々な要素を盛り込んだ「パンデミック条約」を設置すべき、との提起が、特に欧州を中心に提唱され、WHOも臨時の世界保健総会を開催してこれについて討議することになっている。
「誰もが安全な」システムへの移行へ「アーキテクチャー(構造)の変革」を
同時進行するWTOの知的財産権をめぐる議論を含め、これらの一連の動きは「国際保健アーキテクチャー(構造)の変革」と名づけられているが、この変革に向けた動きは、二一年末から加速し、二二年を通じて討議され、おそらく二三年のG7日本サミットに向けて収斂していくことになるであろう。
私たち人類社会の行く末は、この「アーキテクチャーの変革」のいかんに大きく左右される。知的財産権を軸とする、一部先進国とその企業による「独占と競争」と、中国・ロシアなど一部巨大信仰経済による競合と補完、という現行のシステムは、世界を富裕国と貧困国とに分断し、富裕国の国民を含め、「誰も安全にしない」システムである。
このシステムを抜本的に作り替え、共有と協働をベースとする、感染症に対して「誰もが安全な」システムへと移行できるかが問われている。これを実現する規定力となるのは、南の世界(途上国)と北の世界(先進国)を貫く市民社会の連帯である。
この「連帯」は、すでに数多くの市民社会の潮流によって担われている。途上国の保健・医療アクセスや、開発、人権などに取り組んできた市民社会団体は、昨年来、国境なき医師団やオックスファム、ヒューマン・ライツ・ウォッチなど大きな国際NGOから途上国の現場のコミュニティ団体までが連合して「ピープルズ・ワクチン連合」を設立し、知的財産権保護の免除と医薬品への公正なアクセスを求める世界規模の提言キャンペーンを行っている。また、不公正な貿易ルールの是正や債務問題などに関わってきた米国の「パブリックシチズン」やマレーシアの「第3世界ネットワーク」をはじめとするグループも、貿易関連の世界的キャンペーン「我々の世界は売り物ではない」を筆頭に政策提言を行っている。さらに、米国政府が「知的財産権保護免除」に舵を切ったのと前後して、米国の大手民間財団やそれに支えられた大手のロビーイング・キャンペーン系の団体なども、「知的財産権保護免除」に向けた取り組みを始めつつある。
日本では、昨年11月に、国境なき医師団日本、アフリカ日本協議会、シェア=国際保健協力市民の会、アジア保健研修所など国際保健に取り組む市民社会団体と、アジア太平洋資料センター(PARC)など南の世界の民衆との連帯や貿易の不公正に取り組む市民社会団体が連携して「新型コロナに対する公正な医療アクセスをすべての人に!連絡会」を設置、問題の啓発や、日本政府への政策提言、対話などに取り組んでいる。日本政府は現在のところ、上記のACTアクセラレーター関連国際機関への多国間協力や各国へのワクチン供与や無償資金、円借款などを一定の規模で行いつつも、コロナ・パンデミックや今後のパンデミックの危機の大きさに対応した、知的財産権保護免除など国際ルールや構造の抜本的な変革については、積極的な立場には立っていない。日本政府が世界の市民社会の声に耳を傾け、コロナ危機に象徴される人類の「持続可能性の危機」の現実を直視し、世界の多くの国々や市民とともに変革への道に足を踏み入れることを切に願うものである。
(注1)UNDP「ワクチンの平等性に関する国際ダッシュボード」の二〇二一年九月の数字による。
(注2)英語では「No one is safe until everyone is」。
(注3)FIND(革新的新規診断技術財団)「重症急性呼吸器症候群コロナウイルス二型(SARS-COV-2)検査に関する双方向的トラッカー」
(注4)WHO「ACTアクセラレーター資金コミットメント・トラッカー」によるデータ。
(注5)国境なき医師団プレスリリース「ワクチンで数十億ドルの収入を上げるモデルナ社、しかし技術移転はせず」(二〇二一年十一月四日)
(注6)CNN「ファイザー社、コロナ事業で利益が急増」(二〇二一年十一月二日)
(注7)GAVIワクチンアライアンス「ワクチン供与誓約と実際の供給」(二〇二一年十月二十二日現在)
(注8)ブリッジ・コンサルティング社(北京)「中国コロナワクチン・トラッカー」による数字。