とくにe-Learningにおいては
学生の学力低下を受けて多大な期待がかけられている。
“内田樹の研究室”にこのe-Learningについての会議。
私立大学情報教育協会主催の「教育の情報化推進のための理事長・学長等会議」
についての顛末がかかれている。
http://blog.tatsuru.com/archives/001152.php
日本の教育について大きな問題があることがハッキリとわかる。
教育の方法に問題があるのか、いまの生徒の質がわるいのか
しかし、そもそもの人間としての基本的な質の低下していることだけは無いだろう。
私がおもうに情報化がすすみ、人間は情報を手に入れる機会がふえた。
とくに現在の社会は湯水以上に情報をうみだしつづけている。
ほんとに憶えなくてはならないものがわからなくなるぐらいに。
江戸時代なら一生村の中で暮らすことがあったかもしれない.
そのほとんどの場合、武士や公家、商人などでないかぎり。
文字や数字に慣れ親しむことなどなかったのではないだろうか。
しかし、いまでは、都道府県で四カ所以上[適当]訪れていない人を捜す方が
困難で、文字や数字を使わなければまともな生活すら危うい。
二世紀前とくらべると確実に情報の価値は上がってきている。
もっと近くで戦後ではどうだろうか。
モノがなく。人がおらず。困難な時代であったことは確かだ。
しかし、地に伏せたものが立ち上がろうとするチカラがあった。
国が一丸となって立ち直ろうとするチカラが。
学習こそが、西洋文化をとりいれて発展することこそが
荒廃した国土を復活させる道だった。
明治から昭和へと移り変わっているとき。
この時期は、学習の優秀者とは帝国大学へは一部の優秀な者と、
財産のあるものがほぼ同じ意味だったことも確かだが。
それでも数多くの分野で偉大な業績を残している。
(文学の分野で言うと、夏目漱石、太宰治、安部公房などなど
ほとんどの著名人が現在の東大や有名大学を卒業または中退している)
人がものごとにむかうとき、ただなんとなく向かうことは少ない。
打ち込めるだけの、そこに時間がさけるだけの動機があるのだ。
はたしていまの学生に勉強に熱意をむけるだけの動機があるのだろうか。
と問うたときに、そくざにあげられるだけのものが私には無かった。
彼らはただレールにしたがって勉強しているにすぎないように思う。
人間に自分の意志が芽生えはじめるのも中学校ぐらいからであるのだから
親の保護のもと、勉学にはげむように義務づけるのは道理にかなっているように
思える。いつか、彼等がほんとうにしたいことがみつかったときに
そこに向かえる力をつけさせるためだ。
しかし、それもさまざまな経験をつみ。
自分の目的をみつけたものだけが生かせるモノだけだ。
いまの教育に足りないモノ。
それは勉強にむかうだけの理由となりうるモノ。
実生活に根ざした経験を与える場であると思う。
自分で考え、自分で実行し、自分でその結果を受け止める。
その一連のプロセスを踏む場がないのだ。
失敗すればその悔しさは、次に失敗しないための努力へのチカラとなる。
失敗しろ!たくさんの経験をつめ!そして教育はその機会を与えろ!
こう偉そうに高みから命じることが私は一番の優しさだと思った。