東村山徒然日記

私(東村山)のダラダラとした日常の日記です。 3日に一度更新予定 連絡用メールアドレス:horizontal02@yahoo.co.jp なお当ブログはリンクフリーです。

飛行機設計に関する半端な知識

映画「風立ちぬ」を観たら主人公の二郎青年が設計した飛行機が盛大に空中分解するシーンが複数回あるのは観ての通りです。優秀で真面目で仕事熱心な人が設計したのに何で空中分解するのじゃろ?と思う人も居るかと思うので今日はその辺に関する私のかなりいい加減な雑学を披露しようと思います。
東村山ですこんばんは

あくまでシロウトの雑学なんで、あまり真剣に考えないで参考程度に認識してくださいね。

前にも紹介したジェイムズ・エドワード・ゴードンの「構造の世界」という本を読むと、第一次世界大戦当時の木製骨組み布張りの飛行機はたいそう安全な設計だったとあります。

複葉機時代の航空機はワイヤーを張り巡らせたりしていかにも華奢な印象ですが、飛行中に機体に掛かる力に対しては十分な強度があった。まあエンジンパワーも低かったので機体に掛かる力もたかが知れてたんでしょうな。

それでもフォッカー製の単葉戦闘機が急降下中に振動現象で空中分解した話が上記の本に出てきます。

「風立ちぬ」の主人公が飛行機設計に関わり始めたのは、ちょうど日本でも全金属製飛行機を作り始めた時期でして、木製飛行機の設計や製造のノウハウは当てにならなくなりつつあるしエンジンパワーも向上して機体に掛かる力も段違いに強くなっていた。

当時の飛行機設計は映画で描かれたように、要求される性能を満たす為のエンジンや翼形(官民の研究機関が公表したもの)を選んで、機体に掛かる力を考えながら計算尺やソロバンや手回し計算機で強度計算をして飛行機を形作る部材の強度を割り出して設計していた。

でもって試作機を作ると、翼や胴体に重りを吊るして飛行中に力が掛かった状態にして、変形量が計算内に納まっているかどうかを確認する。
二郎さんの設計した飛行機はテスト飛行したのだから、この段階はクリアしている。つまり予想される飛行中の力に対して十分な強度は有った事になる。

じゃあなんで壊れるのか?上で書いたフォッカー単葉機のように振動するのですな。

流体内に置かれた物(この場合空気中を飛ぶ飛行機)の周囲には「カルマン渦」という現象が必ず起こる。
つまり風下の方向に大きさの異なる渦が交互に発生して振動現象を起こす。

設計した飛行機が飛行中にどんな振動を起こしているのか、というのは当時の強度試験や模型による風洞試験では分からない。実際に飛ばしてみてテストパイロットの体感で確認するしかなかった。

まあこういう振動現象も最近は高性能コンピューターでかなりシュミレートできるそうですが、計算尺の時代には無理だった。
テストパイロットもあんまり無理しないで少しづつ激しい飛行を行えばよさそうなものですが、工場から飛行場まで牛に引かせて2日がかりだから無理したのかなぁ…

まあ、そんなこんなで昔の飛行機はよく空中分解した。
異常振動を抑えるには振動する部分の部材の厚みとかを地道に調整してカルマン渦の振動数と部品の固有振動数が共振しないようにズラすしかなかったハズだ。推測だけど他にやりようもあるまい。

地道な強度計算とテスト飛行と振動対策が上手くいけば完成した飛行機はちゃんと安全に飛べる訳だが、なんとなく運の良し悪しで開発がスムースに行ったり行かなかったりしたようだ。

それに映画にも描かれているように日本には高出力で信頼性のあるエンジンが無かったから外国の戦闘機と戦うにはある程度「冒険的」な設計にしなければならない事情もあった。
アメリカの戦闘機なんぞはエンジン出力のわりに凡庸な飛行性能の戦闘機だったりするが、それだけ余裕のある設計の頑丈な機体だったということだ。

非力なエンジンや低い工作技術など当時の日本航空産業の制約の中で零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)を纏め上げたところが堀越二郎氏の凄い所である。

時代が下って最近の飛行機は、最近といっても1960年以降か?「最適設計」という技法で作られるようになった。
具体的にどういう事かというと、飛行時の強度だけでなく機体の寿命も設計時に考慮するようになった

たとえば1万回飛行する機体を最適設計すると1万プラス一回飛んだときに機体のどこかが壊れる(理想的には)、
もし1万五千回飛んでも機体のどこも壊れなかったとすると最適設計としては失敗という事になる
すなわち重量か製造コストのどちらかあるいは両方が過大ということで失敗作となる。

これがどういう事かというと第二次大戦時代の飛行機は整備点検がしっかりしていれば現在でも飛ばす事が出来る(欧米の金持ちが趣味で飛ばしてるように)。
しかし最適設計された戦後のジェット戦闘機は、もし金持ちが軍の中古品を手に入れたとしても規定の飛行回数をすでにこなしていたとすれば危なくて飛ばせられないということだ。

まあ、もちろん機体をバラバラにするほど徹底的にメンテナンスして劣化した部品を交換すれば飛ばせられるだろうけど第二次大戦中の機体に比べて途方も無く費用が膨らむだろう。

どうしてこういう最適設計が導入されたかというと、軍用機なんぞは時間が経てば陳腐化して戦力外になるから半永久的に飛べる機体なんて要らないという事ですな。たまに後継機の開発が上手くいかなくて古い機体を大金をかけて整備するハメになるようですが。

私が知ってる飛行機設計の話はこれくらい

そういえば九六式陸上攻撃機という飛行機が出てきましたな、堀越二郎の同僚の本庄が設計した迷彩塗装の爆撃機(雷撃もする)です。映画の中では中国空軍のアメリカ製戦闘機に撃たれて火を噴いて墜落してました。

この九六式陸攻というのは日本軍が始めて実戦投入した全金属製飛行機でした。
古い航空ファンの記事によると全金属製ということで「浅い角度で当たった機銃弾は跳弾になってダメージを受けない」という誤解があったり、接近してきた中国戦闘機に主翼をぶつけようとしたとかイロイロあったようです。全金属製だから凄く頑丈だと思われていたようです、もちろんそんなことは無かったのは映画の通りです。

という訳で飛行機もいろいろと面白い。
ではまた

ふと思い出したけど「構造の世界」のフォッカー単葉戦闘機は振動で空中分解したのではなく、荷重試験を念入りにやり直したら翼が妙な方向にねじれたので構造材の一部を弱くして対処した、と書いてあったのを思い出した。というわけで訂正

本が手元に無いからコレも間違ってるかも

映画「風立ちぬ」を観る

というわけで話題の映画宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を観てきました。東村山ですこんばんは
前回、更新が久しぶり過ぎていつもの挨拶を忘れていたような気がします。

ついでに「パシフィック・リム」という映画も観たんですが、これがまた例によって典型的なアメリカ製アトラクション映画で特に語ることも無いのでとりあえずスルー。
まあアトラクションとしては楽しかったよ、3D吹き替え版で巨大ロボと怪獣が街中でドンガラガッシャンと暴れまくっておりました。

で、「風立ちぬ」なんですが、主人公が変な声だったけどすぐに慣れた件は置いておくとして、いかにも宮崎駿らしい映画だなぁ、と思いました、良くも悪くも。

どこまで史実でどこまでフィクションなのか良く分からないし、調べるのも面倒なんで以下とりあえず映画の中の話で進めていきますね。

全体の話の流れとしては主人公:堀越二郎とその妻:里美菜穂子の出会いと結婚のお話がメインですな、堀越二郎は零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)の設計者として有名な人物ですが、彼の仕事である飛行機開発の話題は添え物的な扱いです。

それにしても宮崎駿が大人同士の恋愛を普通に描くようになったんだなぁ…スタジオジブリ設立以来30年で大人の恋を描いたのだから、あと20年もすれば宮崎アニメの主人公が不倫をする姿が描かれるかもしれない。それまで宮崎駿が生きていればの話だが。

まあ、ともかく二郎と菜穂子が学生時代に出会って大人になってから再会して、付き合って結婚してという物語を丁寧に描いているからこの作品はちゃんとした映画として成立している。
飛行機マニア以外の観客の印象に残るのはそういう内容だろう、二人が黒川邸で結婚式を挙げるシーンはセンチメンタルな性格の私のような観客にとっては一番のクライマックスだと思う。

センチメンタル、そう、センチメンタルこそがこの映画の本質のように私には思える。
この映画は要するに宮崎駿が1930年代から40年代にかけての時代から感傷的に取り扱える要素を抽出して組み上げた甘いファンタジーなのだ。

あの時代をセンチメンタルなファンタジーで描いているから批評的な視点による描写は無い。
あの時代の日本人がどうして戦争をしたのか?疑問に答えてくれる作品ではない。というかそういう疑問は宮崎ファンタジーワールドにはそもそも存在しない。

品行方正で学業優秀、柔道も出来る、女性に優しい愛情たっぷりの主人公が病魔に侵された可憐なヒロインと優雅なダンスを踊るような人生模様を70分間見せられて、観客は満足したり不満に思ったりしながら映画館を後にする事になる。

たぶんコレが宮崎駿映画の良い所であり、限界でもあるのだ。
私は宮崎駿作品に「テーマ」あるいは「思想」とかいう物を求めるのは無意味だと思う、彼はひたすら甘いファンタジーを生み出す天才なのだ。
戦争の時代ですら可憐な要素を抽出して甘い物語にしてしまう、宮崎駿とはそういう創作者なのだ。

「良い子」の主人公が戦争の時代に自分の手を汚さず(というか汚した描写をせずに)周囲の人間に守られながら華麗なダンスを踊っている、この映画はそれ以上の物では無い。

もちろん「それ以上の物」になる必要も無いが、あの時代の何が日本人をして戦争へと向かわせたのか?という命題とは向き合わず、そうした疑問の存在すら感じさせない作品を作る所が宮崎駿のファンタジー上手な所であり、向き合わない所が宮崎駿の限界なのだ。

私としてはこういう指摘をする事は決して非難している訳ではないのだが、この作品が何を描いて何を無視しているのかを指摘しないと、この作品について語った事にはならないと思う。

もちろん作家は「全て」を描く事など出来はしない、私は作家ではないから推測するしかないのだが創作するということは森羅万象の中から自分に知覚できる事柄を拾捨選択して組み合わせて作品を作るのだろう。
だから宮崎駿氏に「全て」を期待するべきではない、観客はただ彼が拾捨選択した結果を受け止めるだけである。

それにしても「風立ちぬ」の主人公、堀内二郎はたしかにあの時代を描くのには適切なキャラクター造形であると私は思う。
優秀で期待されていて仕事熱心で…おそらく社会の各部で彼のような優秀な若者が活躍していたのだろう。
言うまでも無く、軍隊でもだ。

あの戦争の推進力になったのは間違いなく彼のような「仕事熱心で優秀な若者」だろう、
映画の中の堀越二郎は夢の中でカプロニ伯爵と出会いながら優雅なダンスを踊っていた。

現実世界の官僚機構や軍隊組織の中で踊っていた優秀な若者たちは一体どんな夢を見ていたのだろうか?
戦後世界に生きる我々は死体の数を数えるだけで、彼らが夢を見ていたことさえ考えようとしない。
全ては「軍国主義」で片付けられてしまう、そう思うのは私だけか?

ではまた

どのツラ下げて現況報告

すんません、ホントすんません
ブログの更新サボってました東村山ですこんばんは

特段トラブルや不幸は無かったんですがイロイロあったんですよ
具体的に言うと引っ越しました

今年の2月頃(ちょうどワンフェスのあたりですな)引越し先をアレコレ物色して不動産屋さんに連れられてイロイロ見て回ったりして
2月の末には引っ越し先の物件も決まったんだけど、なんだかんだイロイロあって引越しできたのが7月の末。
東村山を出まして到着した先は千葉県市川市、都落ちだけど職場にはだいぶ近くなりました。ついでに秋葉原と幕張メッセも近くなりました、というわけで地理的には相当利便性が向上したんですが・・・
東村山って結構涼しかったんだな・・・なんだか引越し先は元の家に比べてはあきらかに2.3度気温が高い気がする。

ネット回線が開通したり、イロイロと環境は整いつつあるんですがプラモ作業したくても作業机が無かったり(古い学習机だったので引越しのとき処分した)。そもそもエアコンが禄に無かったりでまだまだ環境整備には時間が掛かる予定

それにしても大量のフィギュアやプラモのせいで一人暮らしなのに子供連れ世帯並みの引越し荷物になって参った参った、見積もりに来た引越し業者さんも「在庫」の山を見て暫し絶句してたよ。

とまあそんなこんなでようやく市川での生活にも目処が付いたので映画「ショートピース」を観てきたり・・・

いやねぇ、大友映画も「メトロポリス」「スチームボーイ」とガッカリ作品が続いたからスルーする予定だったんだけど意外と評判が良いので観に行ったんすわ、
で、どうだったかというと「意外と良かった」、ものすごくお勧めって程でも無いんですけどね実際
とりあえず
「他には無い作風」
「観客を楽しませようとする姿勢」
「見せたいものが明確に表現されてる」
というのは確かなので映画館で観て損はしないでしょう。

まあそんなこんなで・・・ちなみに居住地は変わったけどタイトルと芸名はこのままでいきますわ、というわけで東村山市民の皆様には今後ともご迷惑お掛けしますんでよろしくお願いします。

あと市川市の皆さんにもこれからご迷惑お掛けする予定なんでよろしくです、変な奴が引っ越して来てご愁傷様です。
ではまた

仕方が無いから自民党に投票する

そろそろ今年も終わろうかという頃に衆院議員選挙だそうでいやまったくせわしないですなぁ、東村山ですこんばんは。

選挙といっても誰に、どの政党に投票して良いのか分からないよ、というか投票したくなる政党や候補者なんて無いよ、という人も多いかと思われますが、まあ棄権するのも勿体無い。

今の野田政権がダメか?といわれると個人的にはむしろ良くやっている気がするのですが、いかんせん世の中の雰囲気が彼の続投を許さぬ事は間違い無し。そうなると次期政権、おそらく自民党政権が少しでも仕事をやり易いように多少とも議席を伸ばさせるのがマシな選択と言えましょう。

前回の政権交代で分かった事と言えば政治家の質なんて政党を問わず似たようなモノだという事だけで、どこが政権を握ろうが大して世の中は変わらない、と私は思うのですが皆さんはどうでしょう?

橋下徹氏が第三極がどうたらとか言われてますが、維新の会とやらも大した議席は取れない様子。

嘉田由紀子知事が反原発を旗印に新党立ち上げというのは原発問題が気になる有権者にとっては良い受け皿が出来たという感想でしょうか?こういう政党が出来たことによって他の政党としては原発問題をあまり論じる必要が無くなったという、そういう面でホッとしているのではないかと思われる。
小沢氏が参加しているというのも微妙にマイナスイメージで他の政党にとってはプラス材料でしょう。

私としては原発は必要ではないか、その代わり安全策を徹底的に追求すべきだと思っているのですが、こういう政党が存在感を持つことによって議論されるようになるのは歓迎すべきではないかと思っております。

話を橋下徹氏に戻しますと私はこの人をわりと評価している。少なくとも右翼、左翼でガチガチに固まってしまった日本の政治的環境を批判的に問題提起出来た点は評価したい。
橋下徹氏は「敵を作ってやっつけて愚民の人気を集める」とマスコミや批評家連中が叩いているが、私にはむしろ「世の中で当たり前だと思っている事、仕方が無いと思っている事」に対し「本当にそうなのか?」と問題提起している事をもっと評価すべきだと思う。

おそらくこの「批判精神」が橋本徹氏の人気の元であり、いわゆる「言論人連中」に嫌われる原因だろう。
マスコミ等の「言論業界」でメシを喰っている連中からすれば政治家が批判的精神など発揮してはならない、政治家はいかにも政治家らしく旧来通りの行動をしてしてくれないと、自分達が批判精神をひけらかして金を稼ぐことが出来なくなる、とまあ領分を侵されることを本能的に恐れているのだろう。

という訳で橋下徹氏に投票したい気分は多分にあるが、現在は次期政権の安定が喫緊の課題であるから今回は自民党に投票させてもらう。

そういえば先日のこと朝日新聞に鈴木邦男氏という自称右翼言論人のインタビューが載っていて、これがまた傑作な無いようだった、「無いようだった」というのは変換ミスだが実際に内容が無かったのだからあえてそのままにした。
この鈴木邦男氏が右翼思想家を名乗っているのだから、さてどのような意見を開陳してくれるのかと思いきや「最近は左翼が元気無くて右翼がやり難い」などとのたまっている、ただそれだけである。
こんなもんで思想家名乗っている奴も奴だがこんな対談をドヤ顔で載せている朝日新聞も底が知れてる。

所詮右翼も左翼も大手マスコミも戦後体制の中でヌクヌクと生きてきた連中であり、今後の厳しい未来に対処する気など毛頭無い、私たちは懐古趣味と心中しますよと宣言しているようなものである。

とまあ「政治的オポチュニスト」である私は以上のように考え、投票する所存。

ではまた

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q をみてきた

ふう、すっかり「ブログを更新しない事が日常のリズム」になってしまった東村山ですこんばんは。
ネタが無くても無理やり話をヒネリ出していた過去の私が随分と偉大な人間だったような気がします。

でまあ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を観て来たんですよ、ネタバレ怖くて「逃げるように」観てきました。
いや予想以上に良い作品でしたよホント。キッチリとエヴァンゲリオンらしさを守りつつ「ええっ!そう来るか!」というものも盛り込んだまさに「待った甲斐のあった作品」でした。

というわけでまだ観てない人は興ざめするからこれ以上読まない方が良いでしょう、先に映画を観てきてください。東村山的には超オススメですよマジで。

私は前にこんな事を書いたりしているロートルのエヴァンゲリオン観客ですが、最近では歳のせいかエヴァンゲリオンとの付き合い方もすっかり慣れてきたというかまあ冷静に付き合えるようになった気がします。

エヴァンゲリオンという作品は要するにシンジ君を主人公として
〇疎外された状況
〇人間関係の構築
〇使途との戦闘等によるアクションシーンの祝祭的表現
の3要素を繰り返し見せていく作品な訳ですな。

「使途とはなんだろう?」という疑問は観客の多くが抱くと思うのですが、物語的観点からみれば「使途」とは「祝祭的シーンを展開する為のトリガー的要素」ということになります。
エヴァンゲリオンという作品が多くの観客に支持されているのは戦闘シーンの「祝祭感」というものが実に上手く、美しく表現されているからではないかと私は思うのです、少なくとも魅力のひとつではあるでしょう。

まあ、それはともかく「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」はいきなり祝祭的な宇宙戦闘シーンから始まります。
新キャラのマリがアスカと一緒に戦ってます。前回の「破」では他のキャラとほとんど絡まなかったので「Q」ではどういう役回り、どういう関係になるのかと思っていたのですが普通にアスカと一緒に戦ってます。

さてこのマリという新キャラは(物語的に)一体何者なのでしょうか?
とまあ、その前にいまさらながらエヴァンゲリオンに出てくるキャラクターについて考えて見ましょう(ああ、話が長くなりそうだ今回は)。

まずシンジ君:過酷な状況に何も知らないまま放り出されるアイロニー的な主人公です、世間一般的な表現では「カフカの小説の主人公」的な存在です。観客は彼が疎外されたり、人間関係を結んだり、悩んだり苦しんだりエヴァンゲリオンに乗って戦ったりする姿を見て物語の進行を知るわけです。

ロボに乗りたがらない主人公というロボ戦アニメには珍しいタイプの主人公です。たいていのロボ戦アニメの主人公は楽しそうにとは言わないまでもノリノリでロボに乗って戦ってくれます。ガンダムのアムロでさえ最初は興味津々でガンダムに乗ってました。

次にレイ:周囲の人間に言われるままにエヴァンゲリオンに乗って戦ったり検査されてり、何も指示されなければボーっとしていたりする少女です。我欲はおろか生存本能すら感じられません、人間としてどうか?というより生き物としてどうか?と観客に疑問を感じさせるキャラクターです。

非人間的な少女として登場し、徐々に人間的な少女へと変化するのが物語上の役目と言えましょう。

そしてアスカ:やる気満々でエヴァンゲリオンに乗って戦う少女です。主人公に反感を持つ人物として登場し、やがてある種の好意を示すというツンデレ的役回りの登場人物です。

このアスカというキャラクターは新劇場版以前の、つまり旧劇場版までは華々しく戦って敗れ去るという「没落する美人」という役も演じていましたが新劇場版では事故に巻き込まれはするが戦い続けるタフな美少女キャラになっている。この辺の変化がどういう意味を持つのかは良く分からない。

さて話を新キャラのマリに戻しますと、実は「Q」を観ても物語り上のマリの役目というのは良く分からない。
そもそも主人公(シンジ)との絡みが無い、「破」でパラシュート落下したとき衝突しただけで人間関係という点では全く接点が無い。
観客は物語上のマリの役回りを知ることは無く(今のところ)ただマリの性質、すなわち軽口を叩きながら淡々と仕事をこなす子供らしさを感じさせない(少なくとも外観上は)少女であるという性質を知るのみである。

このキャラクターはただ「彩を添える」だけで主人公と関わることは最後まで無いのかもしれない。
ただこういうシニカルなキャラクターがエヴァンゲリオン世界に登場したということは作り手も観客も歳を取ったという事の表れではなかろうか。

さて「Q」の劇が始まり主人公のシンジ少年が目を覚ますと驚いたことに「破」のラストシーンから14年も経っていたと聞かされる、その上ネルフの指令所にいたミサト以下おなじみのメンバーが今では「ヴィレ」という組織に結集し「ネルフを壊滅させる」などと言い出し、オマケに気づいたら空飛ぶ巨大船に乗せられてる。

まあネルフ上層部であるゲンドウ・冬月の爺さんコンビとミサト以下の実働部隊は別々に描かれる事が多かったから敵対関係になってもあんまり違和感は無い。という訳で観客は意外な展開にビックリした後で、にも拘らずエヴァンゲリオン世界の雰囲気が変わっていない事にさらにビックリするであろう。とんだウルトラCの離れ技である。

どうやらシンジ少年は「破」のラストにおいて「サードインパクト」という大災害を引き起こしてしまったらしい、その上助けたと思ったレイも実は助かっていなかったと聞かされる。

とにかくシンジ少年が「Q」冒頭からきわめて孤立した居場所の無い立場に置かれた事が強調される。
アレコレあって廃墟のようなネルフ本部に帰還するシンジ少年だが、そこにはゲンドウ・冬月の爺さんコンビとシンジとの関係を失った(というか元から関係の無い)レイ(仮)と謎の少年カヲルの4人しか居ない(描かれない)。

シンジ少年は居室、食事を含め極めてシンプル、というより不毛な空間に身を置く事になる。
そして謎の少年カヲルだけがシンジ少年に対し優しさを示す。「Q」の幕が上がって以来ひたすらシンジ少年が疎外されまくるのはシンジとカヲルの関係を濃密に描く為であることが分かる。

さて
〇疎外された状況
〇人間関係の構築
までは描かれた、最後の「祝祭」においてカヲル少年は死ぬ。死ぬ事によってカヲル少年がシンジ少年に示した「無限の優しさ」をより強力に印象付ける意図が感じられる。
そもそも祝祭には供儀(すなわち生贄)がつきものである、エヴァンゲリオンの祝祭表現の巧みさがここでも示される。全ての表現がカヲルの死という焦点に向かって準備されてきた事がわかる。

虚脱状態になったシンジ少年はタフな少女であるアスカ(考えてみれば28歳である、エヴァに乗っていると肉体的に歳をとらないらしい)に助け出され、関係性の消失した(元から無い)レイ(仮)と共に砂漠へと歩き出す。

シンジ少年が落としたカセットレコーダーをレイ(仮)が見つめる。カセットレコーダーはシンジ少年と「破」で助けようとしたレイとの絆を表している。レコーダーをレイ(仮)が拾うかどうかは観客には示されない。

さて次回の完結篇はどうなるのだろうか?
私の見方、すなわちエヴァンゲリオンという作品が
〇疎外された状況
〇人間関係の構築
〇使途との戦闘等によるアクションシーンの祝祭的表現
の繰り返しであるという見方が正しければ結末は「無い」という事になる。

少なくとも今まで描かれてきた物語の様子からは必然的に導き出される消失点のような結末は無いように思える。となると観客に「終わった」と感じさせる祝祭表現が出来るかどうか(してくれるかどうか)が完結篇の成否を決めることになる。

以上が私が考えた「人間の物語としてのエヴァンゲリオン」の姿である。私は人類補完計画その他の衒学的要素に関しては良く分からないし興味もあまり無い。それらの要素はアリストテレスの詩学(この前読んでみた)でいうところの「物語の外の出来事」とみなしてかまわないだろう。
良く調べてみれば人物描写との関わりもあるのかもしれないが、ここは難しい事が良く分からない「頭の悪い人間」にとってエヴァンゲリオンがどのように捉えうるのかという考察ということで御容赦いただきたい。

ではまた
 
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