July 05, 2011

6/25: ポエカフェ第二期の三:「安西冬衛・北川冬彦 〜白熱の厳冬。〜」 後編Up!

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安西冬彦(別名ぴっぽ)を囲んで…

(7/5 アンケート5名分+全ご参加者の朗読の様子など、追記しました!)

6月25日、ポエカフェ「安西冬衛・北川冬彦」@ちめんかのや、
新たな方々もお迎えして17名のみなさんにて、熱く楽しく(ときにdisや愛が炸裂☆笑)、ぶじ終了いたしました〜!!
ご参加くださった皆さん、また応援くださった皆さん、ありがとうございました!
また予想以上の、ご参加者の方々に、はじめて資料(年譜・テキスト)&“詩朗読くじ引き”が足らなくなるなどのハプニングもあり、すみませんでした!(次回から気をつけます!!)

1920年代に隆盛を誇ったモダニズムのさなかに。日本のそれとは、全く異なる文脈から発生した、満州発の「亜」創刊同人、ならびにモダニズム短詩系の両雄である、安西冬衛・北川冬彦。
二人の共通項は「満州」で過ごしたこと(北川は幼少期、安西は20歳過ぎから)。
そして、戦前に代表的な派閥であった、伝統派・抒情派に対し「短詩・新散文詩」という新たな手法・詩作品にて反旗を翻し、見事にその一時代を築いたことでした
(もちろん、そのご、二人異なる独自の道を歩んでゆくわけですが…)。

ポエカフェでは、まずご参加者みなさん、お一人ずつの気軽な自己紹介からはじまり、本番へ。
「広義のモダニズム(シュルレアリスム)の始まり→日本における1920〜1930年代モダニズム黄金期の詩人たちや詩誌」などを、まずざっとお話して。
 冬衛・冬彦。二人の生涯を紹介しつつ。みなさんと詩(くじ引き詩=今回は、J・ルナール『博物誌』より数篇、安西、北川、二人それぞれの全詩より15篇位ずつ選んだもの)を順に読みながら、冬衛・冬彦の厳しくも楽しい森林に分け入っていったわけですが。一篇、一篇の詩に対して、疑問や感想、「〜なのでは?」などの発言が、つぎつぎにあふれ出していました。
 なかでも、二人の戦前の詩集(安西、未刊詩篇及び『軍艦茉莉』他、北川『三半規管喪失』『検温器と花』『戦争』)等に収められた詩については、ひとつひとつの作品に対して、皆さんのイマジネーションの翼がぐんぐん広がってゆき、盛り上がりすぎて収拾がつかないほどに…!!笑
 しかし進行者としては、途中で(マズイ!このまま応酬を続けすぎると、時間内に終わらない…しかし!!)など、葛藤の冷や汗を流しつつ(笑)
 これは、ご参加の皆さんの「言葉」に対する感度、柔軟性ともむすびついているわけですが。100年近くたち、たとえ埋もれていても、力のある“言葉・詩”というものは、生きて運動しつづけてるんだなぁ、と、嬉しく思い知らされたような気持ちでもありました。
 そしてまた、みなさん一人ひとりの解釈がまるきり違うことに二人の「短詩」あるいは「散文詩」の烈しい魅力や、奥深さを感じてもいました。

まずはアンケート(ご感想集)をご紹介しますね。

【6/25(土)ポエカフェ:安西冬衛・北川冬彦 ご感想集!
(7/5 追記!(。・・)ノ゙♪)】

anzaikitagawa


《ご参加の方の、Blogなど》
モンガの西荻日記」 

(Pより:飛び入りでご参加のモンガさん。入場そうそう「ヒマだったので」との率直なヒトコトで場内爆笑!! 場を暖めてくださり感謝☆笑。ところで、冬彦は「島崎藤村が、詩を書いてたのか?」といったそうで。その独自の出発点を想いますね…)

グレアム・ペンギンの読書メモ
ポエトリーカフェ参加の記 第2期の3(安西冬衛、北川冬彦)」

(Pより:いやはや、本当に今回、大仕事となりました。二人の全作にお目を通そうとなされたペンギンさん、それだけでも凄いです…笑。冬彦の長編叙事詩『氾濫』は、小説と散文詩と叙情詩のあわいを行き来するような、非常に魅力的な作品なのでぜひ!笑)

《アンケートより》
1、今日の会や詩人へのご感想、ご意見、などございましたら、なんでも、おきかせください

◇1969年7月、人類が初めて月に降り立った日に、堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』を読みました。この本で「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた」という詩を知ったはずです。一度読むと忘れられない詩。
 ポエトリーカフェから帰って、調べてみましたが、どこに登場していたかを確認することはできませんでした。ひょっとしたら別の本だったのかもしれません。私は、作者が誰であるかを知らないまま40年あまりをすごし、ポエトリーカフェのおかげで安西冬衛を知ることができました。

 ピッポさんの「講義」は、安西冬衛と北川冬彦という二人の詩人の歩みをていねいにたどるもので、とてもおもしろかった。ふたりは共通するものを持っていると同時に、対照的。ふたりとも冬を内蔵し、叙情派を越える新しい詩を模索しました。戦中、冬衛は報国団幹部となり戦意を煽る詩をたくさん発表したそうです。戦前も戦後も冬衛は、名士であり「気のいいぼんぼん」だったように思えます。 好きな詩の作者の戦中の姿を知ってショックでした。冬彦は、戦争を撃つ『戦争』を書き、日本プロレタリア作家同盟に加入したのですから左翼的な立場だったのでしょう。
 ピッポさんは、多くの詩人が戦意を煽るような詩を書いたと述べておられましたが、『若き日の詩人たちの肖像』の中では、室生犀星の戦争詩が取り上げられていました。こんな詩です。

  皇軍向ふところ敵なし/進撃また進撃/砲火虹のごとく
  マレーを陥し入れ/香港を打ち抜く/怒濤は天に逆巻き
  敵拠点シンガポールを屠る/この日/日本はしんとして
  その父と母とは打ち寄り/すめらみくにのみいつを説く
  こどもらよ/兄よ/妹よ/ゆめにはあらず/シンガポールは陥ちたり
  ことほぎまつれ/つはものを讃へよ/歴史にもかゞやけ
  シンガポールは陥ちたり/シンガポールの燈火は消えたり
  百年の魔の都に/日のみ旗たてり/シンガポールは陥落せり

 ため息が出ますが、そういう時代があったことを忘れないでいたいと思います。
 現在の尺度で裁断するのではなく、もっと丁寧に考えなければならない問題です。
 新しい参加者もあり、素敵な会場でのポエカフェ―、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。(西村さん)

◆安西冬衛・北川冬彦共に、前回同様、初めて存在を知った詩人でした。
 また、「シュールレアリズム」や「ダダイズム」に対する文学的イメージ(映画・絵画的イメージは一応ありました。)がまったく固まっていなかったので前回の「村野四郎」同様苦戦していました。ただ、フランス文学に近い、湿った感じ、陰陽で言うのならば「陰」の文章でしたので、読み進めていくうちに若干のコミュニケートができるようにはなりました。(前回は、本当に最後まで突き放されてしまった。) 

 この2人の詩人ですが、本当に「ことば」の純度が高い!特に、「短詩」ですが、そぎ落として、そぎ落として、その中から出てきたのが、「ハナシスル」の一言であること。その、「ハナシスル」から受けるイマジネーションの豊富さ!私の受けた印象が正解なのか、全くの見当違いなのかもわからない感じ。「詩」や「ことば」の奥深さをめまいがするほど突き付けられた1か月でした。ただ、それだけに、「前編・後編」に分けて2か月通してポエカフェって頂きたかったかも、という贅沢なクレームをつけたくなってしまいました(笑)

(「近代詩と戦争」について)。
 「詩」を「読む」(読み込む?)のは、人生初かも知れず、さらに「近代詩」というものはぴっぽさんに出会わなければしらない世界でした。そして、まだ3人しか講義をうけていないので、浅い解釈になってしまいますが、「近代詩人」にとって、「戦争」とくに「太平洋戦争」というものは、大きな大きな出来事だったのだな。と。この大きな戦争によって、一人一人が明確な立場を取らねばならず、その渦の中で、建て前と本音を使い分けせねばならず、詩より、心の中の世界よりもさらに圧倒的非現実が現実となって押し寄せてくる戦下での日常があり、思考停止せざるおうないような戦場が目の前にある。
 私は、「戦争」が嫌いで、それは「人を殺す」行為が嫌いだから。という単純極まりない理由なのですが、「近代詩」を読み始めて、もうひとつの理由ができました。
「戦争という事実は、反戦者も、好戦者も、あらゆる人々を飲み込み、命を傷つけるだけでなく、心を傷つけていくから。そして、その時代にたまたま居合わせただけの人々に対し、傍観者になる事を許さず、当事者であることを事中、事後に関わらず烙印するから」。もし、「第二次世界大戦」がなかったら、安西は、北川は、どんな詩を書いていたのかな?と、思うと心がきゅーっと痛みます。(しばたさん)

◇詩を通してはじめて会う人たちと空間を共有して詩人の人生と共にその詩を追って朗読して感想を発言しあうっていうのがはじめてで、緊張しましたが(特に自己紹介)刺激的でした。
 率直に言うと、今回紹介された方たちの詩自体は不慣れなものだったのと、その知らない詩人を2人平行して知っていく形だったので、朗読感想の時間以外の2人の軌跡が詰め込みになる部分で集中力は切れそうになった部分はありました。モダニズムなどに関しても浅学だったので。
 しかしこの2人は一方を語れば一方がでてくる深い関係があるとのことで納得はしてて、次に機会があれば1人に絞りこんだものを体験したいなと思いました。もちろん総合的に興味深い楽しい体験でした。自分は飲めないビールを飲んで眠気がでていたのがいけなかったんですが。

 帰り道がわからないため、友人と一緒に途中で抜ける形になりましたが、その帰り道は知らないものを知って、思ったことを発言して、いろんな方の発言に触れて、自分と違う性質の知らないものを知って、人としても1人の詩書きとしても自分を知れたような充実感がありました。もちろん途中で抜けた不完全燃焼も。
 こういった昔の現代に埋もれた詩人さんを掘り起こし皆で共有する場を設けたピッポさんって人も刺激的でした。貴重な体験ありがとうございます。(中林さん)

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(7/5 追記分は、太字に)

◆こんにちわ。先日のポエカフェでは、久しぶりに熱く詩の世界にどっぷりつかることができました。ガスト2次会も楽しかったです。

言葉が短いから、イメージが強烈に残りました。まるで詩人から読者への、これは挑戦状なのだ、とさえ思ってしまいました。時代背景とか、それぞれの詩の示す意味を知って読むのも面白いけれど、最初に目にしたときのショックに近い感情は、2人の詩人の持つ「言葉の力」なのだなあと思います。安西冬衛の「槐」もぶったまげましたが、やはり、北川冬彦の「腕」の毒気にやられてしまいました。ははははは。(柏川さん)


安西冬衛
北川冬彦  真夏の入り口に冬の一文字。

安西には、可笑しみを常に感じていました。遊びがあるということでしょうか。
湖面に水滴を一つ垂らし、その波紋を楽しむというような。非常に高いところからみて自分たちを笑うような。ただ、明るいかと言われたらそんな感じはありませんでした。
海の底から天を見上げて、飛び上がると高くまでたどり着いたということなのかも知れません。
また、そこにはたくさんの空間が出来ているので、読んだ側の私も多くの妄想ができました。それが、理解ということであるとは思いませんが。

北川には、頭の良さを感じていました。全てのことばや行動にいちいち意味がありそうな感じといいましょうか。そこで選ばれた言葉は、説明されてしまいそうな気がしてなりません。説明は実際は出来ないにも関わらず。常に実験室の中で、ビーカーを振り、フィールドワークを欠かさない科学者のように。常に新しい価値を見つけ出そうとしていたのかもしれません。

双方ともに感じたのは、生命の流動への喜びや強さと人間の不動への嘆きや儚さです。
われわれ人間というものは、常に変化しているというのが、変化しない事です。それは、生まれた瞬間に死んでいくのと同じように、避けることが出来ません。
そんな中で、人間という観念を私たちは作り続けてきました。けれども、そんなものは、生命の中にはないのです。現在の中にもないのです。過去という固定された事物を見つめることによって、初めて作り上げることが出来ます。

そのような自分たちの観念を守ろうとするあまり、文化や文明の対立が発生していくのでしょう。そんなものに価値なんて本来はなくて、あとからつけているだけなのに。現在の生命を生きることしか出来ないのに、それをするのは難しい。そこに人間という観念の儚さを捕らえていたのではと双方の作品から強く感じました。単純に生命を賛歌するのではなく、同時に儚いものであるということでしょうか。
少し長くなりました。次回も楽しみにしています。(木村さん)

◆ひさしぶりに二人の詩人を取り上げるということで、時間的に大丈夫?と思いつつ参加しました。
Pippoさんの準備や、現場での時間配分は大変だったと思いますが、参加してみて、たしかにこの二人をいっしょに読めたことはよかったなと感じています。(理由をはっきりとは言えませんが)時にいっしょに活動し、時に離れていった二人。それぞれに、それまでの詩の流れとは別の独自なものを造り上げようとしていたことを感じました。

作品数が膨大な二人、参加前にどれほど読めるかなと思っていましたが、とても間に合う状態ではありませんでした。それでも、二人のことばが、はっきりと跡を残してくれいることを感じています。図書館から借りている詩集も、まだ返していません。自分にとっての二人の魅力をまだ整理できないでいますが、もっと細かく読んでみたくなっています。二人について感じたことはあらためてブログで整理してみたいと思っています。(できるかな…汗)

また、戦争期の二人の活動が今も気になっています。近代詩人で戦争中に生きていた詩人の活動にはいろいろありますが、安西の極端なまでの戦争詩の作成、北川のそれまでとは違った作風と映画関係の活動、いろいろなことが今も頭の中を巡っています。
近代詩を考える時、戦争との関わりを避けて通ることはできないなとあらためて感じています。
さらに、北川については、今回は取り上げられませんでしたが、叙事詩が気になっています。PippoさんがTwitterで触れておられたように最初、小説として発表され、後に改行をほどこし長編叙事詩とされた「氾濫」所収のものが、とても気になっています。いずれにしても、作品の数も膨大な安西、北川を別々にさらに細かく取り上げて欲しいと思うのはぜいたくなお願いでしょうか。

それにしても、今回は、これまでの最大17名の参加。すごいなと思います。新しい方も毎回おられ、確実に輪が広がっていることを今回も感じています。一つの詩をめぐっての解釈のやりとりも楽しい時間です。もっとも盛り上がりすぎると、時間超過の危険性はありますが(笑)これからもよろしくお願いします。(ペンギンさん)

◇こないだは面白かったよ。参加者それぞれの詩や詩人に対する強い思いが伝わってきて、ぴっぽのいうとおり朔太郎や中原中也の陰に隠れて埋もれてしまってはもったいない詩人がいっぱいいることが理解できたよ。また時間が合えば参加するよ。ありがとう。(E.T =ぴっぽ兄)

◆こうした集いに参加するのは大学のサークル以外では初めてのことだったので、緊張するとともに非常に楽しませていただきました。あれだけ漢字読めるひとに囲まれたのはずいぶんひさしぶりでした。会の数日前に参加が決まり読む時間もとれない中、図書館で借りて夜勤中の隙を見ては拾い読みをしていて、そのときには北川の詩の方が(たぶんこころなしかわかりやすかったというだけの理由で)気に入っていたのですが、当日には安西の方が気に入っていました。
ただ資料の参照なしにはどちらがどちらだったかいまだに思い出せないのですが。
会当日にも私の頭の軽さはよく出ていたかと思います。(村松さん)


2、気になった、詩、エピソードなどありましたか

◇「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛「春」)
 私は海峡を渡っていった蝶は白い蝶だと思っているのですが、他の方たちはどんな色の蝶を思い浮かべられたのでしょうか。

◆my best of 安西冬衛:「乾ける河」「死海アスファルト会社」

【理由】3.11以後の自分の心情に沿ってくれる詩でした。しかし、2年後、3年後もこの詩が好きかどうかはわかりません。一番興味をそそられたのは、「章侯爵夫人のscandal」でした。
 また、解説を読んで、隠されたシニカリズムにぎょっとしたのは「月世界旅行」です。
 
 my best of北川冬彦:「かなしい人々」「絶望の歌」上記と全く同じ理由です。なので、やはり、2年後には違う詩を好きというかもしれません。
 一番心を惹かれたのは「恋愛の結果」です。「恋愛=骨を舐める」という感覚がすごくわかる!一緒だぁ!
 と思ってしまいました(笑)「詩」としての興味とは異なりますが、「板門店」のなかに「北朝鮮側は黄色な稲田で飾られているが・南朝鮮側は茫々と立枯れた雑草原だ」と書いてあることに驚愕しました。

◇(安西・北川が)詩の主義から反旗をだした萩原朔太郎に褒められた話しが人間くさいドラマを感じて楽しかったです。これは安西さんのエピソードでしたよね。(P:そうです!)
 安西さんの右足切断という大きな出来事は、単純にインパクトがありました。基本的に長文の詩は字面の統一感ある美しさや雰囲気を漠然と感じるほどでした。
 
 自分が朗読した北川さんの“改札口で/指が 切符と一緒に切られた”(「ラッシュ・アワー」)という詩は自分と超直接的に関わったのと、詩の経験と自分がつくる詩の領域の中にある部分な気がしたので、馴染むものはありました。
 現代にこそ通じるものも感じて、つまり日常の機能に埋没して日常する人の流れの中で切断されるものみたいな。皮肉と痛みと滑稽と喪失感を感じました。
 北川「落日」という詩も興味深かかったです。これは描写がすごい印象的。好みでした。
 今帰って、ざっと北川さんの詩を見たのですが、すごいですね。「絶望の歌」も今はいってきました。とても哀しい。とても構造を俯瞰して、発見をくださる詩を書く方だなと思いました。テキストを見た感じでは悲痛が多いかな。

 安西さん作品は“ハナシスル”(「教会」)です。
 とにかく題と短い言葉だけで、たくさんのイメージを引き出す作品でしたので。

◆2人の詩人の、「戦争」に対する姿勢の違いについて、ポエカフェでも少し触れていましたね。戦意を煽ったり、堂々と反対したり、無言で目をつむったり、黙って世の中に従ったり --- どんな立場をとったにしろ、当時の人々が厳しい現実を目の前にして、必死で生きてきたのだけは事実なんだと、思うのです。

戦意高揚詩なんて、確かに今の私たちが見れば愚かなこと、作品としての魅力もない、ものかもしれません。あんなこと書いていても、本音では、争いなど望まなかったのでは、と考えたりもします。特に明治になって以来、積極的に海外へ進出し、戦争に勝つことで日本のアイデンティティーを作りあげてきた社会に疑問を持つ人もいたでしょう。
けれど、自分の生き方や立ち位置を、当時の皆は必死で模索していたのではないでしょうか。
単純に、後世の視点で「これはいいこと、悪いこと」と一蹴できないように思うのです。憎むべきは、争うことを受け入れたかどうかではなく、いろいろな人のいろいろな思い、人生をひとからげにして抹殺する戦争という「暴力」、体制の意に沿わないものを切り捨てる「力」だと思います。(今の社会にも通じますよね)

◇安西は「軍艦茉莉」でしょうか。冒頭の「『茉莉』と読まれた軍艦が」で掴まれています。また、朗読した「春」「雀」「教会」も。この短い表現の中でのイメージの挑戦はすごいと思います。北川は、取り上げられた中では、「ラッシュ・アワア」「馬」「絶望の歌」「火の車」です。「ラッシュ・アワア」は、改札で駅員がリズミカルに、無機質にたてる、改札の鋏の音が耳に響いていました。「火の車」の収められた「しんかん」が刊行されたのは、東京オリンピックの年。高度成長まっしぐらの日本という背景を思い浮かべながら朗読を聴いていました。

◆なんだかんだで自分が読んだの(「馬」「花」)が一番印象に残っています。
 あと安西が片思いっぽいのがちょっとおもしろかった。


3、お好きな作家、詩人、ミュージシャン、本、映画などありましたら、おしえてください
◆好きな作家:森茉莉、ナボコフ、ボールドウィン、セルジュ・ゲンズブール
 好きな詩人:セルジュ・ゲンズブール、与謝野晶子、茨城のり子、石垣りん、穂村弘
 好きなミュージシャン:ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンズブール、ウルトラオレンジ、
 ブリジット・バルドー、シンディ・ローパー、インディア・アリー…他。死ぬほど沢山
 好きな本:「贅沢貧乏」森茉莉(著)、「ニューヨーカー短編集」ニューヨーカー(編)、
 「ゾエトロープ・オールストーリー」F・コッポラ(編)、「ロリータ」ナボコフ(著)、
 「もう一つの国」J.ボールドウィン(著)
 好きな映画:「エコール」ルシール・アザリロヴィック(監督)2004年・仏

◇【ミュージシャン】イエローモンキー/ブランキージェットシティー/シャーベッツ
 ミッシェルガンエレファント/あとは、中島みゆき、椎名林檎、この人のこのアルバムや曲が好きなのでたくさんいます。
 【映画】グッドウィルハンティング/時計仕掛けのオレンジ/コレラの時代の愛/ノッティングヒルの恋人/プライドと偏見/愛の剥き出し/川の底からこんにちわ…たくさんありますので割愛
 【詩人】茨木のり子さん/山之口貘さん/銀色夏生さん/ヘルマンヘッセ …好みは置いたのも含め尊敬する方は詩集をだされてないネットで見た方などでたくさんいます。

◆最近は、浅生ハルミンさんの「猫ストーカー」シリーズとか、同じくハルミンさんの「猫のあいさつ」(パラパラマンガ)で、自分をくすぐってます。

【追伸】ポエカフェのあと、いろいろちょっと(?)考えていました。
そして先日朝のNHK「ひまわり」で、戦後の学校で、真っ黒に墨を塗られた教科書のシーンを見て、「戦争の後、もう一度心を殺された日本人」の悲しい姿を見るにつれ、「いいか、悪いか」
「その時の時勢に合うか、反しているか」でヒステリックに他人を非難し、許容量のないやり方というのに憤りを感じたのです。どんな時代でも、ひとの心に墨を塗ってはいけない、未体験で想像しかねる「戦争」に対しても、恐れず向き合って考えたい、と思うようになりました。
改めて、言葉の持つ力、現実にひるまず力強く向き合って生きてきた先人の方々の思いを強く感じたポエカフェでした。ありがとうございました。

◆【作家】北野勇作『人面町四丁目』『どろんころんど』、牧野修『楽園の知恵』、フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』、W・S・バロウズ『ソフトマシーン』、中井英夫『虚無への供物』、横溝正史『蔵の中』
【詩人】何度も申しますように、恥ずかしながら詩はろくに読んでおりませんゆえ……谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』、辻井喬『呼び声の彼方』、あとあまりちゃんと読んでないけど尾崎放哉、トリスタン・ツァラ、永井荷風『珊瑚集』などもいいかもなァとは思っとります。
【ミュージシャン】Anathema "a natural disaster"、Nosound "a sense of loss"、Memories of Machines "warm winter"、Niacin "time crunch"、Cynic "traced in air" 、Efterklang "parades"、eufonius "bezel"、Gregor Samsa "rest"、Naked City "torture garden"、Meshuggah "chaosphere"、Nucleus Torn "knell"、Pain of Salvation "remedy lane"、Talk Talk "laughing stock"、エンニオ・モリコーネ『ラ・カリファ』、マリア観音『歪む正義』、新月『遠き星より』……多すぎてすみませんというかすみません。
【本】藤崎竜の『封神演義』とか『新訳「巨人の星」花形』などを読んでニヤニヤしたり、Martin Roemers "Relics of the Cold War"やAndre Kerteszの写真集、"DesignSource minimalism"とかEditors of Phaidon Pressの家のやつとか服のやつなんかを眺めつつニヤニヤしてたりしてます。
【映画】あんまり観ないんですが、ガス・ヴァン・サント『エレファント』、『時計じかけのオレンジ』、溝口健二『雨月物語』、三谷幸喜『笑の大学』などは気に入っています。


《twitterより》
@kim_ita
不動・死・観念・言葉・理性と、流動・生・物体・肉体・本性という一見対立したことを併せ持つのが人間であり、前者への怒りと後者への希みという感情に対峙した時、笑い飛ばす無邪気で広い人間、詩(意図の有無は別に)。という印象が残っています。技巧は時代で変われど、印象は変わらないです。
あと、戦時中におけるスタイルの話。私には“あえて”の変化だったと思いました。今までの事に対する誇り・想いがあるがゆえに、何の工夫も思想もない言葉を使ったのではないかと。それは、今までのことを覆い隠すように。(無論、印象論を越えていないが)。6月26日

@akaifusen(→)@pippoem
おつかれさま! おかげでますます安西冬衛に興味持ったよ。全集、探すど!

@ramu0000 (→ ) “@pippoem: 人の詩を人前で読むのは始めての事でしたので、貴重な経験が出来て嬉しかったです!ぴっぽさんの勉強熱心な感じや、優しい声の朗読☆とっても勉強になりました!\(^o^)/素敵でしたぁ☆
8:26 PM Jun 26th


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《6/25 ポエカフェ 安西冬衛・北川冬彦》18:30〜21:00

会の様子は、ブログやアンケートで、
多くの方々が書いてくださっているので、ちょっとはしょってしまいますが、
いつもと同じように、二人(冬衛・冬彦)の生涯を紹介しながら、その折々にかかれた詩作品を、ご参加の方々とわたしで朗読し合って、感想や、疑問などを自由にのべあいました。



ただ今回、ひとりずつ分けて紹介するというよりも、
二人が途中で(「亜」の創刊時や、「詩と詩論」創刊のあたり)超リンクしたり、
また離れたりしていたので、その地点で重なるように、交互に順をおって紹介する形となり、
はじめて二人をしる方には、少しややこしかったかなあ、などと…。
(名前も、一時期のスタイルも似ているので)

では、ご参加の17名の方々がどんな詩をよみ、
どのような話になったのか、をかいてゆきます。

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1、柏川さん(安西/未刊詩篇)
大13〜昭5/軍艦茉莉以前の作品(新聞掲載作:のちに北川冬彦らが「亜」の同人に誘おうと、目をつけたきっかけとなったもの)「桜の落ち葉」短詩2篇

“槐(えんじ)”「ストーブにあたりにくる男の名」 他

柏川さんの朗らかで明るいお声で読まれるユニークな短詩2篇。
読み終わった瞬間、あはは〜という空気に。“えんじ”って、誰だよという…(笑。
金魚と、猫の、手がかからない比較なども。
こんなものが、本当に当時、新聞にのっていたんだろうか…!?

2、E・T(J・ルナール)
1904年に翻訳された『博物誌』より、3篇ほどの短詩。
Tさん、「えっ、これなに?笑」
(P)「冬衛・冬彦をはじめ、当時の日本の詩人達の多くが、非常に触発された詩集である、ことなど紹介(「亜」にも“trop long”など ルナールの詩句がところどころに、引用されている)

3、木村さん(安西『亜細亜の鹹湖』1933「マラソン選手 乒」(ピン)*ピンポン=卓球

芯の通ったお声で、よまれる短い散文詩。
木村さんは、映像的なイメジや秘められた意思などに言及。

“乒はフルマラソンの記録保持者だ”の最終行。
(P)安西が本気で詩をかきはじめるのは、右足を失った20代前半からであり、
詩を書くことによって、飛翔し僕は全力で走ることが出来ると、発想を転換した
冬衛の強さが垣間見える一篇。

4、塚本さん(北川『三半規管喪失』1925「街裏」)

華やかで明るいお声で、読まれる冬彦のちょっと不穏でユニークな詩。
塚本さんは、この詩に描かれた風景を、お話してくださった。
「楽しい」雰囲気の詩、と。
“太陽がげらげら笑いこけて”という、言葉に冬彦の独自性が垣間見える。

5、長谷川さん(北川『検温器と花』1926「花の中の花」)

とつとつとよみあげられる、岩壁の上の花々の風景、そこがみだれ、
遠くなり、やがてポツンと緑の斑点に。
長谷川さん、「う〜ん、これなんなのでしょうね。花…?」
(P)冬彦の自作解説によると、港を出港する際見送りに来てくれた人々の姿を花にたとえている。その中に好きな女性が居て、花の中の花、だと。ロマンチックですね、笑

6、中林さん(同上「ラッシュ・アワー」)

“改札口で 指が 切符と一緒に切られた”という短い詩。
よまれたあとに、中林さんは、日常の中にひそむ危機や、異常性のようなものに言及されて、
おお、そういう見方もあるのだなあ、と。この詩には、たくさんの疑問やご感想が噴出。

〜ぴっぽ「軍艦茉莉」(冬衛『軍艦茉莉』1929)朗読〜

7、宮本くん(冬衛「軍艦茉莉」より「再び誕生日」)

宮本君のちいさな、でもやさしい口調でよまれた「再び誕生日」。
“私は蝶をピンで壁に留めましたーもう動けない。幸福もこのやうに”
「蝶」と「幸福」のさししめすものについて、さまざまなご感想が、どんどんのべられる。
幸福の象徴が「蝶」で、それを留めてしまうことによって、永遠にしたいという願望。
あるいは、「象徴」されるもの、そのもの。

8、ペンギンさん(同上より「春」、「雀」「教会」)

“てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた”「春」
“ハナシスル”「教会」

あまりにも、有名な冬衛の代表作「春」と、ほか短詩二編。
ペンギンさんの、滋味あふれる声で、朗読されてゆく。
「ハナシスル」の一行に、ご参加の方々の見解、疑問、感想が、つぎつぎに語られてゆく。
おそらく会中でもっとも、想像力を飛躍させた作品であったような。

9、村松さん(冬彦「馬」「花」『戦争』1929より)

“軍港を内臓している「馬」”
“街並みに盗んで来た花々の中に埋つて日向ぼつこをしている
 雑巾のような支那の老人は楽しいのだ。楽しいのだ。”

ひかえめなお声で、よまれる、冬彦の短詩二篇。
おそらく、冬彦の短詩ではもっともよくしられているのが「馬」であると思う。
「楽しいのだ」の繰り返し。少しおそろしさも感じる詩。

〜ぴっぽ「絶望の歌」(冬彦『戦争』)朗読〜
わたしは、冬彦がひどく好きですが、おそらく全詩中で、この一篇が最もすきだ。
(と発言すると、北條氏より「わ、好きそう〜笑」のお声が…)
不穏さ、恐怖、生きることの不条理さ。
人間存在の不安のすべてがここにあるようにさえ、感じます。凄い詩です。

10、藤井さん(冬彦「雑草」『実験室』1941より)*小学校の教科書にも掲載

はきはきと、静かによまれる「雑草」の詩。雑草をテーマに、人を励ますような内容の詩。
藤井さん「なんの見るべきところもない詩、ですね。ぜんぜん好きじゃない」とばっさり!
「工夫も、新たなもの(詩)を作ろうという気概もない、なぜこんな詩を書いたのか?」
ご参加の方からは、あえて、なんの工夫もない詩をかくことで、何かを訴えていたのでは?というご意見も。
(P)このご発言をうけて、「ああ、詩に何を求めているかで、その感想が違ってくるのだなあ」と思った。

11、北條さん(冬彦「一扁舟」『花電車』1949)

男性のやさしく響く声で、よまれる一艘の舟の歌は、なんだかとても美しくきこえた。
北條さんのご見解。わたし、おまえ、という呼び名、呼び交わしあうところ。
“わたしはわたしを見失いたいのだ”の言葉に、戦後のかなしみがうっすらとかんじられる。

12、倉田さん(冬彦「火の車」『しんかん』1964)

倉田さんのぼくとつな雰囲気でかたられる、烈しい詩。
“背中に火のついた馬は 駆けつづけるより外はない”。
止まらない、止めることの出来ない火のついた馬。

倉田さんいわく、「そんなに、冬彦の家計は厳しかったんですかね?」と。
文字通り、「火の車」的な家計を想像することもできる。
冬彦がなにを想ってこの詩を書いたのかは、今は推察することしか出来ないが、
わたしは、なんとなく今の原発の状況と重なって見えた。
人間の業や欺瞞を背負って、走り続けてきた、多くの原子力発電のかなしき姿と。

13、篠田さん(冬彦 未刊『幻想詩篇』1988より/冬彦の亡くなる二年前頃かかれたもの)

繁茂した森林よりも、共感するのは、広野の疎林である、という詩。
しずかな、でも強い声でかたれらるこの詩。
一本一本の木々の、姿が浮かんでくる。
表現や、技巧的には、普通というか平易な詩。抒情詩。
ヘッセにも、似たような詩があります。

14、水口さん(冬衛「愛情の背景をなすわが鉄道達」『座せる闘牛士』1949)

冬衛が愛した、難波駅のプラットフォームや駅の、風景を描いた抒情的な散文。
なにげなくよんだとき、ヨーロッパの駅や鉄道のことだと思ってしまったが、大阪・難波駅の風景でした。
水口さん、読み終わり「鉄ちゃんですね。」(*鉄道大好きな人=鉄ちゃん)
に一同爆笑。たしかに、強い愛が感じられます。

15、西村さん(冬衛「夏すでに」1950 未刊詩篇)

大きく朗らかな声で、よみあげられた、夏のある日の描写。
とても爽やかな初夏の風景でありながら、大きいー小さいー大きいー小さい
ものの描写が交互に入ってくるのが、映像的なおもしろさがある。
ユニークな一篇。

16、しばたさん(冬衛「古いチーズ」1960 未刊詩篇)

明るく、やさしくなめらかな口調でよみあげられた「古いチーズ」。
しばたさん「冬衛にとって、はじめて生身の女性、ほんとうの女性が語られているような印象。
今まで女性は記号のようだった。冬衛の来し方を思う」というようなご感想が。
これは、ある女性の50年、誕生から今までをやさしく回顧しているような詩なのですが、
たしかに、冬衛にしては、とても暖かなまなざしで女性をみている風なのが印象的。

そして、“古いチーズは、傷口はつねに新しいと申しますけれど”の文句は真に秀逸。
「わたしたちが幾ら歳をとっても、“今”この生の断面はつねに新しい」と、わたしは解釈していました。
冬衛の晩年にきらきらひかる、強烈に素敵な詩です。

(とびいりモンがさんの分、くじなくて、すいません!)

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今、振り返ると、ふたりの生の軌跡をたどりつつ、
こんなにたくさんの詩を(わたしも4篇位よみました)
みなで読みあって、感想や疑問をのべあったんだなあ、と。
戦前の冬彦・冬衛詩群は、わたしも理解不能(想像や推察はしました。笑)
なものが多々アリ…なので、みなさんの読解や、自由な想像力にふれることが出来て、
わたし自身も相当、刺激をうけました。

わたしが、いい詩だなあ、と思った物が烈しく駄作!!と、いわれたことも(笑)、
人が詩に何を求めているのかで、感想や印象は180度くらい違うこともあるんだなあ、
など考えました。

また今回、戦時に量産された、冬衛の戦争詩も少し読み、紹介をしたのですが、
(それまでの華麗で気概に満ちた冬衛の詩とくらべ、あまりに平凡・平易なもの
だったので、思わず批判めいたことをいってしまった)
そのご、二次会やアンケートなどで、「戦争と詩人たち」とのことを、
話してくださったり、深く書いてくださった方がとても多かったです。
“今の裁量ではかってはいけない”、など、さまざまなお言葉が胸に染み入り、
ご参加の方に、あらためて教えさとされたような、心持ちがいたしました。

改めまして、ご参加くださった方々、ありがとうございました!
また読んでくださった方も!

7/30日は、ポエカフェスペシャル「大木実」です。
また、みなさんと、ユニークでゆたかな詩の時間を創れたら、と思っています。

それでは!     Pippo 

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p2


【休憩中:『モダニズム詩集』の丸井栄雄について興奮気味にかたるの巻。】

p3


【会のさいごにみなさんと、“はい、冬衛〜!”】
(早めに帰られた、塚本さん&中林さんも、初ご参加ありがとう〜!)


pipponpippon at 23:59│Comments(0)TrackBack(0)◆Pippoのポエトリーカフェ◆ 

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