A.W.トウザー(1897-1963)が、いわゆる“罪人の祈り”に言及している文章がありますので、翻訳して掲載します。“罪人の祈り”(sinners prayer)とは、日本では“イエスを心の中に受け入れる祈り”や“救いを受け入れる祈り”などと呼ばれている祈りで、福音の事実や四つの法則などに同意した人が“罪人の祈り”を唱えてイエスを心の中に迎え入れると、その人は救われたクリスチャンとみなされるという現代の伝道方法を指しています。


以下、
What’s Wrong With The Sinner’s Prayer by A.W.Tozer より翻訳


罪人の祈りのどこが問題なのか? 

by A.W.トウザー


イエスが新たに“弟子”となる人たちを“罪人の祈り”で導いているこんな場面をあなたは想像できますか? 


「おぉ!今夜、救いを求めて前に出て来た沢山の人たちがいます!」(大勢の人々が拍手する)


「さぁ、救いはとても簡単です。あなたは私の後に続いてこの小さな祈りを繰り返すだけでいいのです。そうすればあなたはクリスチャンです!今あなたがこの祈りの意味を十分に理解しているかどうかは問題ではありません。効果に変わりはありません。では、準備はいいですか? 私の後に続けて祈ってください。愛するイエス様・・・私の心の中にお入り下さい。」etc..


ご覧のように、現代の伝道方法を使っているイエスご自身を私たちが試しに想像すると、それは全く愚かに見えます。これはどんな方法に対しても良いテストになると思います。「イエスがこれをやっているのを想像できるだろうか?」あるいは、「イエスがこれを説いたり、教えたりするのを想像できるだろうか?」。
聖書は私たちに“キリストが歩まれたように歩まなければなりません。”(Ⅰヨハネ2:6)と教えているので、私たちは、私たちの行動とメッセージを常に主のそれと比べるように心掛けるべきです。


“所定の”罪人の祈りというものがないのは明らかです。違う長さ、異なる言葉、異なる終わり方等の多くのヴァリエーションがありますが、内容はたいてい同じです。罪人の祈りは通常、次のようなフレーズを含んでいます。


「愛するイエス様」、「私の心の中にお入り下さい」、「私は罪を犯しました」(少しましなものは、この最後の発言を含んでいます―罪人の祈りの中で罪のことを口にすることすら好まない人たちがいます)、「あなたの霊で満たしてください」、「イエスの御名によって、アーメン」。


極めて無害です・・・そのような祈りに何の問題もないのでしょうか? いいえ、間違っています! 重要なのは言葉遣いではなく、それを口にする人の心の状態です。


私は、本当の“罪人の祈り”は、真に神を求め、罪の奴隷になっていることに疲れ果てた人から湧き出てくるに違いないと思っています(マタイ5:6)。“祈りで誰かを導く”という行為は全くばかげています。あなたは聖書の中や教会史における人々の書物や伝記の中にそのようなものをこれっぽっちも見つけることはできないでしょう。それは全くもって周囲の人々と仲間が圧力をかける戦術のようなもので、(こう言うのを許して下さい)洗脳テクニックです。私は、イエスが彼の弟子たちに“わたしの後に続いて祈りを唱えること”を願っておられるとは思いません。彼は弟子たちが“わたしについて来ること”を願っておられると信じます(マタイ4:19、8:22、9:9、16:24、19:21、ルカ9:59、ヨハネ12:26、21:19,22、Ⅰペテロ2:21、黙示録14:4)。


説教壇からの招きと同様に、誰かに奉仕者の後に続いて祈りを復唱させる行為は、おそらく最初は最善の意図から始まったのでしょう。祈って神と共に歩み続け、神の無限の恵みによって義の道に入り、最後まで徹底的に従った人々がいるのは確かです。しかし同時に、いわゆる“罪人の祈り”は、人が“費用を計算すること”(ルカ14:28)の本当の意味を全く理解していないにもかかわらず、彼が自分をクリスチャンとみなすのを驚くほど簡単にする手段のひとつです。


“説教壇からの招き”や“罪人の祈り”のような現在使用されている手段を神が悲しんでおられると私が思う最大の理由は、聖霊が救いに導く悔い改めのみわざをなす前に、それらが聖霊による罪の自覚を時期尚早に奪い去る可能性があるからです。神の御霊が人の人生にしようとしておられることに私たちが干渉することによって、本当は多くの人々を地獄に導いているにもかかわらず、通常数週間も続かない感情のほとばしりを用いて、私たちは人々を天国に導いていると思い込んでいます。聞こえていますか? あなたはこのことが“霊的な中絶”を構成するということがわかっていますか? まだ準備のできていない赤ちゃんを誕生させようと試みて、先走ることがもたらす永遠の結果がわからないのですか?


私たちは“逃した魚”を見るのをあまりにも恐れているので、むしろ人を急がせて浅はかな決断をさせたほうがよいと思っています。そして、たとえその人の魂のために長時間の祈りや労苦する祈りが必要であったとしても、彼に物事を十分に説明する時間をとるよりもむしろ彼が“通路を歩いて前方に進み出る”のを見て自分の満足感を得たいのです。私たちはもはや神のやり方でする時間を取ろうとしません(これとは対照的に、イエスが単に一人のサマリヤの女に救いを説明するためにとった時間と努力の量を見てください。ヨハネ4:3-42)。


しかし、神は膨大な数の“決断”よりもむしろ一つの真の回心をご覧になりたいと思っておられます。あぁ、私たちがどれほど大変なことになっているかにあなたは気づいていないのですか? 私たちは福音に何をしてしまったのでしょう? さらに、これらの罪人の祈りによる「回心者」たちがもはや私たちとの交わりを望んでおらず、以前の友人のもとや以前の生き方に戻りたいと願う時に、私たちは図々しくもそれを“後戻り(backsliding)”と呼んでいます。彼らが十字架に向かって“前進(front-sliding)”するのを私たちが立ちはだかって妨害したにもかかわらず! あぁ、神が“この小さな者たちのひとりにでもつまずきを与えた”人々を裁かれる恐ろしい日のことを思うと胸が張り裂けそうです(マルコ9:42)。


What’s Wrong With The Sinner’s Prayer by A.W.Tozer 翻訳


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