A.W.トウザー(Aiden Wilson Tozer 1897-1963)が1955年に出版した論説集“The Root of the Righteous”(英語)の第6章“That Utilitarian Christ(あの実利的なキリスト)”を日本語に翻訳しました。
トウザーは、聖書が警告している偽キリストは、外部からやって来るだけでなく、クリスチャンの中からも作り出されること、クリスチャンが真のキリストではなく、人間の都合に合わせて人間の想像力によって作り出した「便利なキリスト」という偽キリストに従う危険性を警告しています。
以下はA.W.Tozer“The Root of the Righteous”の“Chapter 6 That Utilitarian Christ ”を日本語訳
あの実利的なキリスト
私たちの主は、偽キリストが来ることを前もって警告しておられました。多くの場合、私たちは偽キリストが外部からやってくると考えますが、聖所の中からもやって来る可能性があることを忘れてはなりません。私たちが従うと告白しているキリストが、本当に神のキリストそのものであるかどうかに細心の注意を払わなければならないのです。真のキリストではなく、私たちの想像によって作り出したキリスト、私たち自身のかたちに作られたキリストに従うことになるかもしれないという危険性が常にあります。
最近、キリストが人のためにしてくださると言われている疑わしい物事を見ると、私はこのことについて不安を感じます。しばしばキリストは、私たちが目的を達成するのを喜んで助けてくれる、素晴らしく親切ではあるが、あまり分別のないビッグブラザーとして勧められています。さらには、私たちの目的の道徳的、霊的な質を問うといった困った質問はせずに、私たちに好意を持ってくれる方とされているのです。
「キリストを受け入れる」ように人を導こうとするあまり、聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれ、十字架につけられ、三日目によみがえり、神の右の座につかれた「聖なるお方」のパロディーにすぎないキリストを示して受け入れさせようとする傾向が私たちにあります。例えば、ここ数年、いわゆる福音主義者によって、キリストは、適度の祈りがなされれば、敬虔なプロボクサーがリング上で対戦相手をノックアウトするのを助けてくださる方として広まっています。また、キリストは大リーグの投手がカーブをうまく決めるのを助けるとも言われています。また、運動好きな人が走り高跳びで優勝するのを助け、さらには、ある人が陸上競技大会で一位になるばかりでなく、新記録を樹立するのを助けてくださるというのです。また、キリストは、祈るビジネスマンが、競争相手を打ち負かし、ライバルより安値で誰もが望む契約を獲得するのを助け、その契約を獲得しようとしていた他の人を落胆させたとも言われています。また、祈る映画女優が、プロの娼婦顔負けの淫らな役を演じるときにも力を貸すと考えられているのです。
こうして、私たちの主は実利的なキリストとなり、自分の命令に従うよう彼を呼び出す人のために小さな奇跡を行うアラジンのランプのような存在となるのです。キリストがリングに足を踏み入れ、神の力を使ってあるプロボクサーが別のボクサーをやっつけるのを助けるとしたら、それは相手のボクサーをひどく不利な状況に落とし入れ、フェアプレーという一般的な本能に違反することになると立ち止まって考える人はどうやらいないようです。
もしキリストがあるビジネスマンを助けて、他のビジネスマンを不利にするのであれば、それはえこひいきであり、聖書に書かれた本当のキリストとは全く異なる性格を示していることになります。さらには、栄光の主が、古い考えに固執したアダムをアダムの思いどおりの条件で助けるためにやって来るという奇妙な事態が起こっていることになります。
こうしたことはみな、考えるだけでもぞっとするものです。この現代的な、人の言いなりになるキリストの支持者たちは、その粗悪な教えに潜む裏の意味を知らずにそうしているのだと思いたいです。けれども、もしかすると彼らは知っているにもかかわらず、この実利的なキリストを人類の救い主として提供しようとしているのかもしれません。もしそうなら、彼らはもはやキリストが神であることも、キリストが主であることもその言葉の正しい定義の意味では信じていないことになります。彼らのキリストは、肉欲の都合のためのキリストであり、異教の神々とさほど変わらないものです。
贖罪における神の全目的は、私たちを聖なるものとし、神のかたちに回復させることです。そのために、神は私たちをこの世の野心から解放し、この世の人が欲しがっている安っぽい、価値のないものから引き離してださいます。聖なる人は、自分が相手を打ち負かしたり、ライバルに勝つの助けてくださるよう神に求めるなどとは夢にも思わないでしょう。そうすることで他の人が失敗するのなら、自分は成功したいとは思わないでしょう。御霊が宿っている人は、あぶく銭や下品な観客の称賛を得るために、他人をノックアウトするのを助けてくださるよう主に求めたりはしないでしょう。
主の戦いを戦ったヨシュア、イスラエルをペリシテ人から救ったダビデ、アメリカを奴隷にしようとする敵に対して神の助けを求めたワシントン、これは高いレベルの道徳的、霊的原則に立ち、人類史における神の目的に合致しているものです。しかし、キリストがその神聖な力を使って私たちのこの世の利益を推進させると教えることは、主を誤解し、私たち自身の魂を傷つけることです。
私たち現代の福音主義者は、神の主権とキリストが主であることを学ぶ必要があります。神はアダムと調子を合わせることはなく、キリストはアダムの利己的な子どもに利用されることもありません。この世代の若いクリスチャンが、真の栄光の主ではなく単に便利なキリストに従うという最大の悲劇を免れるためには、私たちはこれらのことを早く学ばなければなりません。
A.W.Tozer“The Root of the Righteous”の“Chapter 6 That Utilitarian Christ ”を日本語訳