ジョーカーです。

今回紹介するのは中澤佑二です。
今でこそ日本代表のキャリアもあり日本屈指のDFですがプロになるまで非常に苦労した選手です。

高校時代は無名だったため卒業後Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルへサッカー留学を計画する。ブラジルのサッカークラブ・アメリカFCに加入し、次第に練習試合などにも起用されるようになった。

チームメイトにはジウベルト・シウバなどがいた。一年後にビザ更新の為日本に帰国したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念した。

Jリーグの各クラブへ売り込みをかけたがどのクラブからも誘いは来ず、母校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける。1998年にヴェルディ川崎のユースチームとの練習試合で得点を挙げる活躍を見せ、これをきっかけに練習生契約での入団が決まる。

練習生契約では給料は支払われず、必要費用をクラブに支払って練習に参加する。認められればプロと一緒に練習が出来るが、クラブからは交通費など金銭補助は一切無く自腹での練習参加の身となり、地元の埼玉県吉川市からヴェルディの練習場がある東京都稲城市まで(交通費は往復で約1800円)片道2時間かけて練習に参加していた。

この時の待遇と経験は本人にとっても屈辱だったようで、プロの練習を横目に単調な反復の基礎体力練習に明け暮れ、練習に付き合ってくれたトレーナーと共に嘆息していた

1999年からプロ契約がきまった。同年のシーズンでレギュラーポジションを獲得し、Jリーグ新人王に輝き、シドニー五輪をめざすトルシエ率いるU-23サッカー日本代表に招集され本大会にも出場した。

2002年に横浜F・マリノスに移籍し、チーム初の2連覇(2003年2004年)と3ステージ連続優勝(2003年1st、2ndステージ完全制覇、2004年1stステージ)。2004年度にはJリーグMVPを受賞した。

2006年のオールスターゲームでは、当時の日本代表GK川口能活から直接フリーキックを決め、DFとして初めてMVPを受賞した。本人のインタビューによれば、直接フリーキックでのゴールは初めてとのこと。 2013年から3年連続リーグ戦全試合出場、2015年10月ヴィッセル神戸戦にてJ1通算500試合出場を達成した。

2017年5月27日、J1リーグ第13節(対戦相手: 清水エスパルス)に出場し、J1通算550試合出場の記録を達成した。

日本代表としては1999年9月8日に行なわれたイランとの親善試合でA代表デビューを果たし、翌2000年に行なわれたAFCアジアカップ2000予選シンガポール戦で代表初得点。

その後はシドニーオリンピックAFCアジアカップ2000ではレギュラーとして活躍するが、2001年に入ってからスランプに陥り、代表でも同ポジションの松田直樹の控えに甘んじる事が増え、2002 FIFAワールドカップ本大会のメンバー発表前最後の試合であるアウェイのノルウェー戦にはフル出場(同年唯一のAキャップ)するが0-3で敗れ、秋田豊の選出もあってメンバー入りは叶わなかった。

その後しばらくの間招集されることはなかったが、2003年に横浜を年間優勝に導く活躍から代表へと復帰を果たす。

復帰してからしばらくは控えであったものの、ジーコ監督が本格的に3バックを導入した頃からレギュラーとして出場することが増え、AFCアジアカップ2004ではグループリーグのタイ戦で決勝点を含む2得点、バーレーンとの準決勝では敗戦の危機を救う同点ゴールを決めるなど、玉田圭司と並んでチームトップタイの3得点を記録する活躍で優勝の原動力となった。

その後もレギュラーとして出場を続け、2006 FIFAワールドカップ本大会ではグループリーグ全3試合にフル出場したが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2010 FIFAワールドカップにも出場し田中マルクス闘莉王とともにセンターバックのコンビを組んでグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合に先発出場し、日本代表の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献。大会終了後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成した報告書では、空中戦の強さと視野の広さがあると評されている。

日本代表では守備だけでなくセットプレーにおける得点源としても活躍し、通算得点数17は日本代表におけるDF登録の選手では史上最多記録である。

中澤には今の日本代表のDFにはない泥臭さというか相手のFWに食らいついてでも身体を張ってゴールを許さない熱い闘志があります。

今の日本代表のDFのほうが技術の面では上かもしれませんが中澤には世界と戦う上で最も必要な部分を兼ね備えた選手なだけに見習う部分も多いと思います。

以上ジョーカーでした

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