ジョーカーです。

今回紹介する名将はクライフです。
選手としてもミケルスの「トータル・フットボール」を体現するなど歴史に名を残した名プレイヤーでしたが今回は監督としてのクライフを紹介していきたいと思います。

クライフは引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった。

監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという

クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。

アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。

この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツ1.FCロコモティヴ・ライプツィヒをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。

1988年クライフはクラブとの確執もありアヤックスを退団。
同年1988年5月4日FCバルセロナの監督に就任する。

クライフは就任後、トップチームのみならずクラブ全体の大改革に着手した。
その中で最も特徴的だったのが、カンテラ(下部組織)の整備である。

年代別チームのフォーメーションや戦術をトップチームに統一させ、クラブの哲学、チームスタイルをじっくり教え込むスタイルが確立されていった。

これにより、晴れて昇格を果たしたカンテラーノはそれまでと同じシステムの中でプレーできることになり、本領を発揮しやすくなったのだ。

クライフ就任前と就任後のカンテラ出身の選手を見ればわかる通りこの改革はバルセロナにとってかなり大きな功績となりました。

そんなクライフの戦術は変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて超攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した。

GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなさせ

守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築。

左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した

中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った。

攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた。

前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った。

アヤックス、バルセロナでも同様にパスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させた。

まさに黄金期のペップ・バルサが体現したサッカーこそがクライフが築き上げた礎の上で行われたサッカーだったのだ。

最近はクライフの哲学が薄れてきているバルセロナですがもう一度バルセロナが時代を席巻するためにはクライフの哲学を思い出すべきだと思います。

以上ジョーカーでした

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