臼杵散策佐賀関へ早春を見つけに行きました

2011年01月30日

就職までのモラトリアム

先日の新聞で、『この春卒業見込みの大学生の就職内定率は68・8%(昨年12月現在)で過去最低』と報じられていました。つまり、その3分の1が就職が決まらないまま年を越したことになります。バブル経済の崩壊で企業の採用が大幅に減った「就職氷河期」よりもさらに悪い状況で、「超氷河期」ともいわれるそうです。

このように、卒業しても、就職できない若者たちが増えていくこと自体、この国の閉塞感をさらに増していくことは、疑いようもありません。果たして、そのような若者たちは、これから彼らの就職までの期間を、いったいどのような気持ちで生きて行くのでしょうか?実は、この私、彼らの気持ちがよく分かるような気がするのです。

というのも私自身、もう40年近く前のことですが、大学を卒業したものの、その後の人生を決めかねて、就職もせずに1年半もの間、アルバイトやひたすら図書館通いに日々を費やしていた時期があったからです。

卒業後、直ちにどこかに就職するというのは、当時も今も違ったところはなく、おおかたの学生は、3年ともなれば、着々と自らの卒後対策を講じていました。ところがこの私は、こういうことには奥手だったせいでしょうか、それとも片親(母)で、勤め人の家系に育たなかったせいか、就職活動などまったく思いつきもしなかったのでした。

ふと気付けば、卒業を契機に、周囲の学友たちは、首尾よく就職に、大学院への進学に、あるいは留年へと、それぞれ進路を定めているのに、ひとりこの私はそのまま卒業して、その春からは、まったく肩書きを持たない「無業」の若者になっていたのでした。

4年間暮らした本郷追分の三畳一間のアパートを引き払い、北区豊島に見つけた四畳半一間の安アパートに引っ越して、その後の生活を始めました。当時は、まだフリーターなどという言葉はありませんでしたが、まさしくそれはフリーター生活そのもののでした。

ある程度お金が稼げると、仕事を休んでは、図書館通いを続けました。司法試験はとっくの昔に諦めており、当時は、数多くの文学、思想書を飽きもせず読みふけっていました。その一方で、「このような生活が、いったいいつまで続けられるのか?」それを自問自答する日々でもありました。

アルバイト先は、当時、新宿の花園神社近くにあった「正論新聞社」で、私は資料係として同業各紙のスクラップ記事の整理を担当しました。例えば、新聞各紙が、同じ交通事故をどのように記事にしたのか、それを一枚の紙面にスクラップするのです。こうした作業を繰り返すうちに、その活字を見ただけで、それが何新聞なのか分かるほどでした。

けれども、そのような生活をいくら続けても、将来に向け何かしら光明が拓けてくるというものではありません。そのことは当時の私も十分に分かっていたことでした。 ただ…
 〈 ひと夏をのみ与えよ 力強い者たちよ!また熟した歌のために ただひと秋を。〉
そんなヘルダーリンの詩句に鼓舞されながら、日々を懸命に送っていたのだと思います。そして、1年半後、ようやく東京を後にして、故郷に戻り、地方での公務員生活をスタートさせたのです。それは、日本中がオイルショックに揺れる、昭和49年秋のことでした。
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実は、これには後日談があります。
それから20数年を経て、私は東京勤務になり、3年間、単身赴任することになりました。平日はともかく、単身赴任者の休日は、24時間すべてが自分のためだけの時間となります。有り難いことに、こうして、再び、私に〈モラトリアムな日々〉が与えられたのでした。

そんなある日のこと、ちょっとしたノスタルジックな思いつきで、その昔、私が暮らした界隈を探し歩いてみることにしました。王子駅から記憶をたどりながら、歩いていくとさすがにその周辺は激変しています。どうやら銭湯のあった場所が分かると、それらしいアパートが見つかりました。

確認のため、路地を奥に少し進むと、確かにそのアパートです。そうそう、2階のこの部屋、ここに1年半暮らしたのだ…。そんな感慨に浸りながら、その部屋を見上げている私に気づいたのか、アパートの真向かいのお宅から、年老いた女性が出てきました。愕然としました。あのお婆さんがまだ健在なのです!

「実は、もう20年以上前のことですが、私はこの2階の部屋に住んだことがあるのです。今日は、まだここにアパートがあるのかどうか、懐かしくて寄ってみたのです」
とうの昔に、私のことなど忘れているものと思い、私はその女性にそう説明しました。

「ええ、ええ、分かりますよ。Sさんでしょう?」
何と、親しげに微笑みながら、彼女はそう云うのです!私のことを、そして私の名前を覚えているのです。でも、いったい何故?

私は、記憶を懸命にたぐり寄せました。私がこの部屋に引っ越してきたとき、ちょうどこのお宅は、まだ新築中でした。部屋の窓から日々、私は、その工事を眺め、完成後、この一家が引っ越して来て、そこで生活するのを眺めていました。

新潟から引っ越してこられたHさん一家は、当時50代後半のご夫妻とその3人の娘たちの5人暮らし。気さくで世話好きの奥さんと、口数少ないご主人、とても恥ずかしがり屋の娘たち。アパートの住人からは、就職もせず、図書館通いをする、何やら訝しげな存在のように見られていて、人付き合いのない私に対しても、Hさんだけは優しく声をかけてくれ、何かと心遣いをしていただきました。

何年も経て、私がやってきたことを心から喜び、彼女はすぐさま私を家に迎え入れました。そしてご主人が亡くなったことを告げ、ご主人の仏壇の引き出しから一通の古い手紙を取り出して、それを私に見せました。何ということでしょう、それは、私が帰郷してすぐにHさんに宛て、感謝を込めて出した、お礼の手紙だったのです!

plaisir874 at 10:26│日記 
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