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2011年05月01日

【読書ノート】『時はいつ美となるか』 大橋良介著 中公新書

例えば、大きな公共図書館の、普段はあまり人が立ち入ることのない地階の書庫の片隅で、長い時間、誰の手にも触れることなく、ひっそりとただひたすらその時を待っている…そんな書物があるものです。ある日、ほんの気まぐれに、そうした膨大な書物の中から、ふと私が手に取り、そして邂逅したのがこの本なのです。

著者はハイデッガーや西田幾多郎、九鬼周造などの日本哲学を主に論じてきた哲学者。

冒頭のエピグラフ(題辞)に、道元の『正法眼蔵』「有時」より、「しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げゑ)すべからず」という言葉を引用しているように、手強い本であることはまず覚悟しなければなりません。さらに「時熟」などという造語に出会うと、少々腰を引いてしまう方もいるかも知れません。それでも、これは決して学術論文ではなく、あくまでも一般読者を想定して、ことさら明解な論理を展開した、私にとっては、久々に出会った価値ある新書版(1984.5発刊)なのです。

まずは、この本の全容を把握するために、表紙扉の紹介文を引用することにしましょう。

「時はいつ美となるか」というのは、「時熟」という問題を「美」の領域に限定したときに出てくる問いである。時熟といえば聞き慣れないが「時が熟す」といえば誰もがその意味を知っていよう。ではそもそも時とは何であり、時とともに熟してゆく生と歴史とはいかなる構造をもっているか。中世の教会建築からゴッホに至るヨーロッパの美的世界の中で追求される本書のテーマは、次の問と一つである。すなわち-美は人生を救済するか?
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(以下は、私のランダムな抜き書きです。)

それぞれの時が熟したもののみが、それぞれの有となる。逆に、有るといえるものはみな自らの時を持つ。『正法眼蔵』の「有時」という巻の中で語られる「松も時なり、竹も時なり」という道元の語は、そういうところを端的に言いきっている。そうだとすると、美も、「時」が美として熟す出来事だと考えられる。それは、「秋」が柿の実において熟すということと通ずる。(11頁)

それでは時はいつ美となるか。これは美学の立てる問いではない。主題は美ではなくて「時」だからである。それは歴史世界の時熟の仕方への問いである。美的時熟とは「時」の一つの卓越したあり方である。この「時」が美として熟すような出来事を訪ね歩くことは、結局は現代という「時」の本質を尋ねることでもある。(14頁)

原作者を「一層よく」理解したかどうかという議論は、時熟の「反復」を前にしては虚しいものとなる。一層よいとか悪いとかの「価値判断」は、時熟の「反復」という出来事を、人間的な視野に引っ張り込んで捉えるところから来る。モネもゴッホも、そういう価値判断で比較することのできない、それぞれに唯一的で一回的な時熟の世界である。(21頁)

様式とは何であろうか。ゼーデルマイヤーは様式を「統一」と考えた。厳密な意味での統一様式はロマネスクのみであり、その統一の中心となるのは支配者としての神である。ゴシックに到ってすでに聖と俗、教会と城への二極化が始まる。「神」ではなく「神人」の時代である。さらに神と人との間に亀裂が入ると、それが現代という時代になる。そこでは「中心の喪失」という事態が生じ、したがって統一様式も失われる。芸術の各分野はそれぞれに各自の存在を主張し、個々の領域はさらに細分化し、統一様式から遠ざかる。(27頁)

様式とは、時熟の瞬間場の「凝固」である。それは単なる時熟の「反復」ではない。反復は個別のものにおいてなされる。しかし凝固とは、そういう個々の反復がその内部で生じるような、普遍的な「形相」の成立である。それは一方では「時の内」での出来事である。凝固は時の内で起こる。しかし他方でそれは、形相として、単なる時間的なものの反復ではなくて、「時そのもの」の凝固である。瞬間というものが、時の内での出来事でありながら、時そのものを成り立たせる場所なのである。(35頁)

中心のないものは反復もされない。ただ、ヨハネス教会のように丹念に「時」を積み重ね、個々の「時」の内に中心が浸透しているもののみが、時の「反復」に堪える。そしてこの「反復」に堪えるもののみが、美として時熟し得る。(46頁)

美的時熟の条件とは、緩やかなる時である。「緩やか」とはもちろん、個物的衝動の加速度に追われる現代から見ての言い方である。中世においては自明であった時の流れを緩やかと見るこの現代において、中世の都市は「美的」なものとして反復される。逆に、われわれが中世都市を美的なものとして感銘を持って見るとき、その感銘のうちでわれわれは、知らぬ間に加速度的な日常生活から脱け出て、あの「緩やかなる時」の内に入り、この時を反復しているのである。(50頁)

時そのものの凝固としての様式も、決して単に退屈な長い時を蔵しているのではない。そこでは個別の瞬間が、時を早まることも遅きに失することもなく育まれる。緩やかな時とは、春に梅花を開かしめ、秋に紅葉を染めるような、自然なる速さの時である。自然の時は緩やかである。(51頁)

日常から脱した旅の時間においてのみ、過ぎ去った世界も開示される。そのとき、過ぎ去った世界は幾重もの層をなして現在のうちに断層を示す。(52頁)

反復された美は、かっての宗教に代わって救済の力たり得るか(…)。加速度的時間は自己というものを見失わせしめ、人を混迷に陥れる。それは「美」として時熟しないというのみならず、そもそも何かの時熟というものを根こそぎにする。それは、信仰の人をも無信仰の人をも等しく脅かす。加速度の支配するところでは救済が求められる。しかし、美は救済の原理たり得るであろうか。(60頁)

何百年このかた、自然の四季を自らの時として生きてきた牧歌的農村では、「時」は都会とは別の速さで流れている。そういうところでは、十字架上の「救い主」の原型は、四季のうちに生きる人間である。ということはこの人間が初めから救われてしまっているということである。人間は初めから救われてしまっているのではないか。そのことを見失った者のみが、救済を求めるのではないか。そうだとすると、「原罪」とは救済を求める人間が原初へ回帰するために設けられた門ということになる。(…)美はおそらく救済するものではない。それはむしろ、救済を必要としないものの相である、と。美的時熟の反復とは一面で加速度的時間からの脱出ではあるが、その脱出は単なる逃避ではない。それはひょっとして救済を必要とせぬものに触れることではないのか。(62頁)

「美」そのものを見る瞬間は「救済」の瞬間でもある。(69頁)

作るということは一回的な時の内での働きであり、一回的な時を作ることである。この形成的直感の世界がレオナルドにおいて開かれる。それは時を超えるとされた美のイデアが、実は時の熟成そのものだったということでもある。レオナルドにおいて、美は芸術作品そのもののうちに求められる。それは当たり前のことではない。プラトンにおいて美は芸術作品のうちにはなかったのだから。(73頁)

緩やかなる時の反復とは、加速度的な日常生活から脱け出て不可逆の時を破り、種々なる過去を経歴し、この過去を反復することであった。しかしこの言い方はなおも、美を「見る」という観賞者の立場を脱していない。もしも「見る」ということそれ自身が「作る」という意味を帯びるなら、美的時熟もまた、「作る」という立場まで深まったところから考えられなければならない。美的時熟とは、時が自らに緩やかなる時を与えることである。(74頁)

しかし個々の時は、自らの奪われた時を取り戻し、もしくは奪われることなき固有の時を自らに与えようとする。ここに様式がそれ自体として興隆しゆくプロセスが始まる。(83頁)

生きるということは、時を得ることであり、与えることである。しかしまた、時を失ったり、奪ったりすることでもある。このように時を与えたり、奪ったりするその自分自身が「有時」でもある。(87頁)

精神は時間を否定的に越えようとし、感性は時間を肯定的に内化しようとする。(100頁)

時熟とは、何らかの意味でこの生死の自覚と結びついていた。自覚といっても抽象的なことではない。それは、時の内で限りある生を享けた人間の苦悩や努力によって、事と物とが熟成するということである。(101頁)

「悲」とはしかし、単なる悲しみのことではない。それは感傷ではなくて、一つの智でさえある。有情のはかなきを知る智である。しかも冷たい知性の智ではなくて、有情の悲しみと一体になる智である。『嘆きのマリア』の像は、そういう悲の形象化である。(120頁)

「様式」とは、われわれの言葉でいえば「時の凝固」であった。全体様式の分化とは、凝固した時の破砕と個別化である。佳人は存在しないのではない。ただ「普遍的佳人」として存在しないだけである。代わりに個性を具えた種々の佳人が現れはじめるのである。(130~131頁)

フィレンツェにおけるルネッサンスの開花は、時が自らに惜しげなく時を与え、時の肯定面の優勢に終始した出来事でもある。それは時の過剰への傾向を必然的に持っている。フィレンツェの天才たちは、その過剰を担う力を持った御者たちでもあった。しかし過剰を担う力の持ち主たちがいなくなったとき、それはマニエリズムという仕方で変容し、変容したままで凝固する。(136頁)

美的時熟とは、時が自らに時を与える一つの仕方である。しかし、時は自らに一つの時を与えるとともに、一つの時を奪う。それは時の本質性格でもある。時は物を育てるとともに、物を滅ぼすからである。時が熟して一つの物が現前するとき、その物は必ず時に属する物として一つの影を持つ。それは本質的には、時の底を破る底なしの無とも言うべきものの影である。美的時熟が歴史世界の出来事になるのに伴って、この無の影も現れざるを得ない。美的時熟は本質的には時の肯定面の作用でありながら、他方で時の無の深淵の露呈である。時はいつ美となるか、という問いは、このような無に張り渡された時の内なる歴史世界の展開への問いである。(162頁)

宗教的荘厳の世界は、時を超えたところになおも最高の善が現れるからこそ可能になる。時を超えたところか神の国の光が射しこむがゆえに、一切の有限は荘厳となる。しかしその光が消えたとき、時はそのまま深淵の入口となる。(173頁)

ゴッホが『烏のいる麦畑』を描いて自殺した前の年の一八八九年に、ニーチェもまた狂気となって創作力を失い、廃人となった。ゴッホの狂気とニーチェの狂気とはともに、いまから一世紀前に起こった。それは全くの偶然ではあるまい。「来るべき次の二世紀の歴史」としてニヒリズムを予言するような思想家は、その日その日の日常時間に生きる者から見れば、本質的に狂人である。それは日々の糧を与える黄金色の麦畑に天地の震撼を見る画家が、本質的に狂人であるのと同じである。ただし、その狂気は、単に正気と対立する狂気ではない。むしろ正気の人間の気づかない世界の震撼を、正気な人間より一世紀も早く感得し、作品化してしまうがゆえに狂気なのである。(181~182頁)
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私は、この小さな本を、この本が発刊された80年代の日本と重ね合わせ読んだのではありません。そうではなくて、現在の日本と重ね合わせ熟読したのです。敢えて言えば、あの3月11日「大震災」以後の日本と重ね合わせて。私たち日本人が世界中の人々に向かい、再び顔を上げて、あのファウストのように、「時よとまれ、お前はいかにも美しい」ということができるまで、果たして後どれほどの時を重ねなければならないのでしょうか?




plaisir874 at 17:29│ 読書ノート 
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