読書ノート

2011年07月03日

【読書ノート】 『人間の大地』 犬養道子著 中公文庫

この名著が上梓されて20年。冒頭に掲げられた献辞が「全世界の飢餓児童、難民児童に献ぐ」とあるように、私たち日本人に向けて発せられた衝撃的な警世・告発の書です。

ほんの10年前、いや20年前の私たち日本人は、繁栄と豊かさの真っ直中にあって、それと知らず、世界中の飢えた子供たちの死に手を貸していたのではなかったでしょうか?

そして、東日本大震災後、はや4か月。私が今、敢えてこの本を手に取ったのは、この国の復興に向けた歩みが、国民一人ひとりの覚悟を持って、本当に遂行されることになるのか甚だ疑問であるからにほかなりません。
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                 『人間の大地』の表紙 犬養道子

 「難民」とはいかなる人々なのかを、日本の善良な市民や、大学に籍をおく者や、各地方の地方自治体の人々は、「よく知らない」。(…)たとえばポルポトのそれが、最初の狙い(ターゲット)として虐殺・拷問・逮捕等々のしうちを与えたのは、中等以上の教育を受けた(中には錚々たる学者やジャーナリストや医師も多くまじる)中産階級から上の人々であったことなぞに思いも及ばず、「難民イコール賤民、カネほしさに国を出たずるい貧者」といった固定と無知の観念はいまだに日本には居坐っているのである。(8~9頁)

 日本の習慣的な生き方のひとつ-ぜんぶなどとは言わない-が、あまりにもこまやかな配慮(よい意味でも悪い意味でも)に満ち満ちているため、ものを見る眼と心は、否応なく、「身近」に限られてしまい、視野の地平線をうんと拡げたい意志があっても、視界が狭められてしまうこと。さらに「身内社会意識」がありすぎること。(18頁)

 「全世界の人口中の30パーセントつまり富む『北』のぜんぶの人間が、全世界の産する食べものの70パーセントをいかに値が釣り上げられようと買い込んでしまい(あげくのはてはその中の70億ドル分を手もつけぬまま棄ててしまい)、全世界の生産品の90パーセントを買ってしまう」。のこり70パーセント分を占める人々は、わずか30パーセントの食べものと、10パーセントの生産品で賄ってゆかねばならぬ。これは正義か。公正か。(29頁)

 富むときは出来る限りを 貧しいときも出来る限りを(旧約聖書・トビア書)(100頁)

 5人に1人のわりで死亡する、極限に達した栄養失調児童(5歳以下)現在世界に4億人(国連ユニセフ及びスイス児童問題調査会発表1979年8月)(127頁)

 心せよ、茨から葡萄は取れぬ。みのり(結果)によって判断せよ、悪しき木から善き実は取れぬ…(マタイ福音7-15~17)(137頁)

 何をおいても、食べさせよ。食を与えよ。まず、第一に、「自立(セルフヘルプ)して食べられる」 よう助け(ヘルプ)よ。(179頁)

 いったいいつまで、正しからぬ判断を続けるか。弱き者・みなし児に正を行え。棄てられた者や不幸な者に、公正を行え。正しさもて彼らを解放せよ。(詩篇81その他)(193頁)

 (仏の若い学究の言葉)…土とは、大地とは、みなさん、いつくしんで感謝して畏敬の情を以て、かしこく手厚く扱わねばならない、たまものなのです、生きものなのです。正しく扱ったときはじめて、土は人間に食すなわち生命を保つ産物を与えてくれる。謙虚な心で人間が土に対するときはじめて、大地もまた人間の手を迎えてくれる。互いが依存しあい連帯しあう、この相互関係の中からだけ、食と呼ばれる貴いものが生み出されてくるのです…。(237頁)

 煽りたてられた欲望と野放しの傲りがそこにあった。そして傲りは、パリのあの農学者がいみじくも言ったように「無知の別名」なのである。(242頁)

 ああ、われら!いまだ会ったことのない、また、会う機会はおそらくないであろう「われら兄弟」のだれかが、どこかで、額に汗して、天父からのたまものである大地を耕し、そこにつくり、刈り、運んでくれた、「労働のみのり」こそ、私たちの日々の食べもの。(264頁)

 モリエールの有名な芝居「守銭奴」の主人公のように、飼葉を馬にやるのが惜しくてほっておいたためいざと言うとき、乗って走るべき馬が倒れてしまう、これはケチだ。ケチは愚に通じる。が、いまだ使えるものを使い切る、のは、賢(さか)しさである。(265頁)

 さればこそ、最も基本的な人間の働きである大地の耕作と、それを出発点として人間がつくってゆくさまざまの文化の、単語(Calture)のはじめの半分は、生成・変化しない普遍・絶対・至高のもの(例えば真理)を「仰ぎ見る心すなわち礼拝」を意味する。(267頁)

 「人はひとりでいるのはよくない。助け合う相手が必要である」(268頁)

 リーダーとは何か?一方の眼で水平線のかなたを、一方の眼で自分の足もとを、見て眺めて、二つの視線をひとつに結ぶ人…(オランダの諺)(274頁)

 「井戸は深く掘りすぎてはいけない」「むしろ、浅く、二つ掘る。いや十まで掘る」(286頁)

 国民全部の教育も衣食住も衛生も医療も福祉も、いわばほっぽり出して、一部富者のみが政治からカネから食から工業まで抑えて独走する、不気味で不健康極まりない社会。(341頁)

 グローバルハウスキーピング!(377頁)

 二十世紀後半の特徴は、私の考えでは、片や綜合・一体性(言葉を変えれば相互連帯・相互依存・相互援助)の日々深まる認識と、片やその一体性を分裂させようとする力(カネの力、欲と独占とエゴイズムの力、イデオロギーの力等々)の相剋によってあらわされる。(378頁)

 目標はただひとつ。地球を-人間の唯一の大地を-ほんの少しでも、人間の住むに足る、ほんのちょっとでもいまより安全な、善いものにして、(あるいは、ほんのちょっとでも癒して)来るべき世代に引き継ぎ、人間の社会を、いまよりほんの少しでも、人間らしい、万人のための社会にする…共有のこの土地を死の脅威の場ではなく、万人の生存のための場とする…。(444頁)

 枠を出ること。エゴを出ること。エゴの世界の安楽からどれほど痛くても身をもぎはなすこと。(447頁)

 大気圏内に心もとなく浮かぶ小さな地球の、どこが(えらばぬ手段で)痛めつけられても、全体がひいては傷つく。「全体の益優先」の長い眼で見て、「まわりまわってこちらも益を頂く」発想法に、われわれはいま、政治課題としてものっぴきならず招かれている。それはまた、「ひとさまの地のもの(すべての資源)を安く叩いて出来るだけ取って安楽に暮らす」生き方から、「まず自分の持つもののとことん利用をせい一杯やって、そののちは自分の能力をみんなのために使う」百八十度逆の生き方への転向を意味する。(450頁)

 けだし 万物は陣痛の中でもだえつつ 人の子ら(人間)の和解を待ち望む…(ロマ書8参照)(452頁)
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この本で著者が告発するのは、地球規模で豊かさを享受して止まない「北」と、貧困に喘ぐ「南」の南北(の格差)問題ですが、20年を経たいまこの本を読むと、この国において、財源なき予算編成を執拗に繰り返す「現在世代」と「未来世代」とのもはや看過できない格差問題について考えないわけにはいきません。

<それでは、あのように高々と掲げられたマニフェストの数々は、政権奪取のために、都合よく並べただけだったのか?>
<「最小不幸社会の実現」というキャッチフレーズは一体何だったのか?>
(公約どおり)「宰相不幸社会の実現」に、日々、腐心しているとしか見えない現政権及びそれを取り巻く政界の姿を見聞きするにつけ、国民の間にはそうした失望感や不信感が募っています。

責めるべきは、政治家、国・地方自治体、そして深刻な原発事故を招来した東京電力…。
けれども、果たしてそれでいいのでしょうか?それでこの国は本当に復興できるのでしょうか?そのような危惧を抱く人たちにとって、この本は、心底、深い感動と共感を与えてくれます。自らが、覚悟を持って取り組むか否かは別として、まずは「責任者出て来い!」的な発想では何も始まらないということをしっかりと心に刻むことが出来ます。
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plaisir874 at 18:24|Permalink

2011年05月01日

【読書ノート】『時はいつ美となるか』 大橋良介著 中公新書

例えば、大きな公共図書館の、普段はあまり人が立ち入ることのない地階の書庫の片隅で、長い時間、誰の手にも触れることなく、ひっそりとただひたすらその時を待っている…そんな書物があるものです。ある日、ほんの気まぐれに、そうした膨大な書物の中から、ふと私が手に取り、そして邂逅したのがこの本なのです。

著者はハイデッガーや西田幾多郎、九鬼周造などの日本哲学を主に論じてきた哲学者。

冒頭のエピグラフ(題辞)に、道元の『正法眼蔵』「有時」より、「しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げゑ)すべからず」という言葉を引用しているように、手強い本であることはまず覚悟しなければなりません。さらに「時熟」などという造語に出会うと、少々腰を引いてしまう方もいるかも知れません。それでも、これは決して学術論文ではなく、あくまでも一般読者を想定して、ことさら明解な論理を展開した、私にとっては、久々に出会った価値ある新書版(1984.5発刊)なのです。

まずは、この本の全容を把握するために、表紙扉の紹介文を引用することにしましょう。

「時はいつ美となるか」というのは、「時熟」という問題を「美」の領域に限定したときに出てくる問いである。時熟といえば聞き慣れないが「時が熟す」といえば誰もがその意味を知っていよう。ではそもそも時とは何であり、時とともに熟してゆく生と歴史とはいかなる構造をもっているか。中世の教会建築からゴッホに至るヨーロッパの美的世界の中で追求される本書のテーマは、次の問と一つである。すなわち-美は人生を救済するか?
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(以下は、私のランダムな抜き書きです。)

それぞれの時が熟したもののみが、それぞれの有となる。逆に、有るといえるものはみな自らの時を持つ。『正法眼蔵』の「有時」という巻の中で語られる「松も時なり、竹も時なり」という道元の語は、そういうところを端的に言いきっている。そうだとすると、美も、「時」が美として熟す出来事だと考えられる。それは、「秋」が柿の実において熟すということと通ずる。(11頁)

それでは時はいつ美となるか。これは美学の立てる問いではない。主題は美ではなくて「時」だからである。それは歴史世界の時熟の仕方への問いである。美的時熟とは「時」の一つの卓越したあり方である。この「時」が美として熟すような出来事を訪ね歩くことは、結局は現代という「時」の本質を尋ねることでもある。(14頁)

原作者を「一層よく」理解したかどうかという議論は、時熟の「反復」を前にしては虚しいものとなる。一層よいとか悪いとかの「価値判断」は、時熟の「反復」という出来事を、人間的な視野に引っ張り込んで捉えるところから来る。モネもゴッホも、そういう価値判断で比較することのできない、それぞれに唯一的で一回的な時熟の世界である。(21頁)

様式とは何であろうか。ゼーデルマイヤーは様式を「統一」と考えた。厳密な意味での統一様式はロマネスクのみであり、その統一の中心となるのは支配者としての神である。ゴシックに到ってすでに聖と俗、教会と城への二極化が始まる。「神」ではなく「神人」の時代である。さらに神と人との間に亀裂が入ると、それが現代という時代になる。そこでは「中心の喪失」という事態が生じ、したがって統一様式も失われる。芸術の各分野はそれぞれに各自の存在を主張し、個々の領域はさらに細分化し、統一様式から遠ざかる。(27頁)

様式とは、時熟の瞬間場の「凝固」である。それは単なる時熟の「反復」ではない。反復は個別のものにおいてなされる。しかし凝固とは、そういう個々の反復がその内部で生じるような、普遍的な「形相」の成立である。それは一方では「時の内」での出来事である。凝固は時の内で起こる。しかし他方でそれは、形相として、単なる時間的なものの反復ではなくて、「時そのもの」の凝固である。瞬間というものが、時の内での出来事でありながら、時そのものを成り立たせる場所なのである。(35頁)

中心のないものは反復もされない。ただ、ヨハネス教会のように丹念に「時」を積み重ね、個々の「時」の内に中心が浸透しているもののみが、時の「反復」に堪える。そしてこの「反復」に堪えるもののみが、美として時熟し得る。(46頁)

美的時熟の条件とは、緩やかなる時である。「緩やか」とはもちろん、個物的衝動の加速度に追われる現代から見ての言い方である。中世においては自明であった時の流れを緩やかと見るこの現代において、中世の都市は「美的」なものとして反復される。逆に、われわれが中世都市を美的なものとして感銘を持って見るとき、その感銘のうちでわれわれは、知らぬ間に加速度的な日常生活から脱け出て、あの「緩やかなる時」の内に入り、この時を反復しているのである。(50頁)

時そのものの凝固としての様式も、決して単に退屈な長い時を蔵しているのではない。そこでは個別の瞬間が、時を早まることも遅きに失することもなく育まれる。緩やかな時とは、春に梅花を開かしめ、秋に紅葉を染めるような、自然なる速さの時である。自然の時は緩やかである。(51頁)

日常から脱した旅の時間においてのみ、過ぎ去った世界も開示される。そのとき、過ぎ去った世界は幾重もの層をなして現在のうちに断層を示す。(52頁)

反復された美は、かっての宗教に代わって救済の力たり得るか(…)。加速度的時間は自己というものを見失わせしめ、人を混迷に陥れる。それは「美」として時熟しないというのみならず、そもそも何かの時熟というものを根こそぎにする。それは、信仰の人をも無信仰の人をも等しく脅かす。加速度の支配するところでは救済が求められる。しかし、美は救済の原理たり得るであろうか。(60頁)

何百年このかた、自然の四季を自らの時として生きてきた牧歌的農村では、「時」は都会とは別の速さで流れている。そういうところでは、十字架上の「救い主」の原型は、四季のうちに生きる人間である。ということはこの人間が初めから救われてしまっているということである。人間は初めから救われてしまっているのではないか。そのことを見失った者のみが、救済を求めるのではないか。そうだとすると、「原罪」とは救済を求める人間が原初へ回帰するために設けられた門ということになる。(…)美はおそらく救済するものではない。それはむしろ、救済を必要としないものの相である、と。美的時熟の反復とは一面で加速度的時間からの脱出ではあるが、その脱出は単なる逃避ではない。それはひょっとして救済を必要とせぬものに触れることではないのか。(62頁)

「美」そのものを見る瞬間は「救済」の瞬間でもある。(69頁)

作るということは一回的な時の内での働きであり、一回的な時を作ることである。この形成的直感の世界がレオナルドにおいて開かれる。それは時を超えるとされた美のイデアが、実は時の熟成そのものだったということでもある。レオナルドにおいて、美は芸術作品そのもののうちに求められる。それは当たり前のことではない。プラトンにおいて美は芸術作品のうちにはなかったのだから。(73頁)

緩やかなる時の反復とは、加速度的な日常生活から脱け出て不可逆の時を破り、種々なる過去を経歴し、この過去を反復することであった。しかしこの言い方はなおも、美を「見る」という観賞者の立場を脱していない。もしも「見る」ということそれ自身が「作る」という意味を帯びるなら、美的時熟もまた、「作る」という立場まで深まったところから考えられなければならない。美的時熟とは、時が自らに緩やかなる時を与えることである。(74頁)

しかし個々の時は、自らの奪われた時を取り戻し、もしくは奪われることなき固有の時を自らに与えようとする。ここに様式がそれ自体として興隆しゆくプロセスが始まる。(83頁)

生きるということは、時を得ることであり、与えることである。しかしまた、時を失ったり、奪ったりすることでもある。このように時を与えたり、奪ったりするその自分自身が「有時」でもある。(87頁)

精神は時間を否定的に越えようとし、感性は時間を肯定的に内化しようとする。(100頁)

時熟とは、何らかの意味でこの生死の自覚と結びついていた。自覚といっても抽象的なことではない。それは、時の内で限りある生を享けた人間の苦悩や努力によって、事と物とが熟成するということである。(101頁)

「悲」とはしかし、単なる悲しみのことではない。それは感傷ではなくて、一つの智でさえある。有情のはかなきを知る智である。しかも冷たい知性の智ではなくて、有情の悲しみと一体になる智である。『嘆きのマリア』の像は、そういう悲の形象化である。(120頁)

「様式」とは、われわれの言葉でいえば「時の凝固」であった。全体様式の分化とは、凝固した時の破砕と個別化である。佳人は存在しないのではない。ただ「普遍的佳人」として存在しないだけである。代わりに個性を具えた種々の佳人が現れはじめるのである。(130~131頁)

フィレンツェにおけるルネッサンスの開花は、時が自らに惜しげなく時を与え、時の肯定面の優勢に終始した出来事でもある。それは時の過剰への傾向を必然的に持っている。フィレンツェの天才たちは、その過剰を担う力を持った御者たちでもあった。しかし過剰を担う力の持ち主たちがいなくなったとき、それはマニエリズムという仕方で変容し、変容したままで凝固する。(136頁)

美的時熟とは、時が自らに時を与える一つの仕方である。しかし、時は自らに一つの時を与えるとともに、一つの時を奪う。それは時の本質性格でもある。時は物を育てるとともに、物を滅ぼすからである。時が熟して一つの物が現前するとき、その物は必ず時に属する物として一つの影を持つ。それは本質的には、時の底を破る底なしの無とも言うべきものの影である。美的時熟が歴史世界の出来事になるのに伴って、この無の影も現れざるを得ない。美的時熟は本質的には時の肯定面の作用でありながら、他方で時の無の深淵の露呈である。時はいつ美となるか、という問いは、このような無に張り渡された時の内なる歴史世界の展開への問いである。(162頁)

宗教的荘厳の世界は、時を超えたところになおも最高の善が現れるからこそ可能になる。時を超えたところか神の国の光が射しこむがゆえに、一切の有限は荘厳となる。しかしその光が消えたとき、時はそのまま深淵の入口となる。(173頁)

ゴッホが『烏のいる麦畑』を描いて自殺した前の年の一八八九年に、ニーチェもまた狂気となって創作力を失い、廃人となった。ゴッホの狂気とニーチェの狂気とはともに、いまから一世紀前に起こった。それは全くの偶然ではあるまい。「来るべき次の二世紀の歴史」としてニヒリズムを予言するような思想家は、その日その日の日常時間に生きる者から見れば、本質的に狂人である。それは日々の糧を与える黄金色の麦畑に天地の震撼を見る画家が、本質的に狂人であるのと同じである。ただし、その狂気は、単に正気と対立する狂気ではない。むしろ正気の人間の気づかない世界の震撼を、正気な人間より一世紀も早く感得し、作品化してしまうがゆえに狂気なのである。(181~182頁)
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私は、この小さな本を、この本が発刊された80年代の日本と重ね合わせ読んだのではありません。そうではなくて、現在の日本と重ね合わせ熟読したのです。敢えて言えば、あの3月11日「大震災」以後の日本と重ね合わせて。私たち日本人が世界中の人々に向かい、再び顔を上げて、あのファウストのように、「時よとまれ、お前はいかにも美しい」ということができるまで、果たして後どれほどの時を重ねなければならないのでしょうか?




plaisir874 at 17:29|Permalink

2011年03月05日

【読書ノート】『サキャ格言集』 今枝由郎訳 岩波文庫

ご存じアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』によれば、格言とは、「民間で行われている陳腐な言い慣わし、ないし諺(ことわざ)」とあり、彼は古い格言を鋸(のこぎり)とみなし、これに新しく目立てをした例をいくつか掲げています。
例えば、「一銭の節約は、一銭の浪費」…など。

ついでに、金言を引いてみると、こうなります。
「歯の弱い者でも噛めるようにと、骨が抜き取ってある人生の知恵」
なるほど。格言金言も、繰り返し使用されると、「骨抜き」になってしまうようですね。

400320901Xそれでも私が何故、ここで『サキャ格言集』をご紹介する気になったのかというと、この書物には近代の「毒」とはまったく無縁の世界を感じてしまうからなのです。 

まず、表紙に掲げる言葉を要約すると、こうなります。
「著者サキャ・パンデイタは、13世紀チベットの大学者。晩年は、強大なモンゴル帝国との折衝にあたった練達の政治家であり、その卓越した学識と政治家としての体験が生んだ辛口の格言457句は現在も人々に愛誦されている」

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1章 賢者についての考察
  2 人に功徳があるのかないのかを
       見極める智恵を持った者が賢者である。
    埃(ほこり)と混じった砂鉄を
    磁石は吸い付けることができる。

  24 賢者は学ぶ時には苦労する。
        安逸にいてどうして賢者になれようか。
        小さな安楽に執着するものは
        大きな安楽が得られない。

2章 貴人についての考察
 53 人は偉大な人の欠点を探すが
        劣った人の欠点は探さない。
        宝石の傷は探しても
    燃え木の傷を探す人などいない。

3章 愚者についての考察
 59 悪人は富んでも
        行いが悪くなる。
        滝の水をひっくり返しても
        水は落ちるばかりだ。

 73 心にねたみを持つ愚者は
        害を及ぼす前に態度に表す。
        愚かな犬は敵を見て
        噛みつく前に吠える。

 75 愚者の前では賢者より
        猿回しのほうが喜ばれる。
        猿回しは食べ物とお金を受け取るが
        賢者は手ぶらで去って行く。

 86 愚鈍な者の愛の言葉
        すぐれてはいるけれど聡敏ではない馬
        戦場に落ちた刀
        これらは誰の味方になるか分からない。

 95 卑怯者は敵を退治することを口にし
        遠くに目をすれば叫ぶ。
        しかし対面すると手を合わせて命乞いし
        家に帰ると自慢する。

4章 賢愚混交についての考察

110 立派な人は穏やかさで自他を守るが
        劣った人はかたくなさで自他を苦しめる。
        果実をつけた木は自他を守り
        乾いた木は自他を焼く。

132 立派な人はしばし貧しくても
        上弦の月のように上向く。
        劣った人は一旦貧しくなると
        灯火のように消え失せる。

5章 悪行についての考察
145 ずるい人が耳あたりよく話すのは
        自分のためであって敬意からではない。
        フクロウが気持ちよく鳴くのは
        悪い兆しをもたらすためで喜びからではない。

171 カラスがものを隠すこと
        厚顔な人に尽くすこと
        悪い畑に種を蒔くこと
        望み多くして実り少なし。

6章 本性についての考察
194 偏(かたよ)った智恵では
        すべてをこなすことは難しい。
        いくら目がよく見えても
        音を聞くことはできない。

225 貪欲な人は財があれば喜び
        傲慢な人は褒められれば満足する。
        愚者は同類を喜び
        賢者は真実の言葉で満足する。

242 本のなかの知識と
        成就していない真言(しんごん)と
        忘れっぽい人の学問
        必要な時に騙される。

252 最高の富は布施
        最高の幸せは心の安らぎ
    最高の飾りは学問
        最高の友は騙さない人。

7章 不相応についての考察
266 功徳のある人を世間は敬い
        功徳は努力のたまものである。
        努力して功徳を達成せずに
        他人に傲慢にして何になろう。

274 いい家系と身体と若さがあっても
        功徳がなければ美しくない。
        孔雀の羽はきれいだけれど
        偉人の飾りには相応しくない。

281 理由あって怒るのは
        少し分かれば鎮められる。
        原因なしに怒るのは
        誰が鎮められようか。

296 嘘で相手を騙したと
        思うなら自分を騙したことだ。
        一度でも嘘をつけば
        真実を言っても疑われる。

299 完成できないことは
        いい行いでも始めるべきではない。
        腹の中で消化できない食べ物は
        美味しくても誰が食べるか。

8章 行為についての考察
327 慈しみ過ぎるのは味方に対してもいけない
        あまりにも害することは敵に対してもいけない。
        味方に対する期待は争いのもとで
        報復は誰でも容易にする。

334 他人が見下げる
    財産や食べ物が何になろうか。
        犬や豚が汚物を食べるのを
        どの賢者が羨もうか。

353 場所と時を得たなら
        よく注意して数回語る。
        格言であっても多すぎると
        売れ残りのように誰も欲しがらない。

387 財産が増え過ぎると
        衰えるのはもう間近だ。
        水が満ちあふれた池は
        空になるか決壊する。

9章 教法についての考察
401 少しで足ることを知る者
        その人の財産はなくならない。
        足ることを知らずに求める者には
        苦しみの雨がいつも降る。

416 長い間幸せを享受すると
        別れの苦しみはことさら大きい。
        人は否応なく死ぬもので
        永遠であれと願う人は圧倒される。
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「語り得るもの」と「語り得ぬもの」
「幸福は物事の味にあって、物事そのものにあるのではない。」(ラ・ロシュフコー)
例えば、このラ・ロシュフコーの箴言ともまったく異質の世界がこの『サキャ格言集』にはあるのですが、この違いとはいったい何なのでしょう?

ここで私が思い出すのは、ウィトゲンシュタインのあの有名な言葉です。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

そこで、私は思うのですが、ラ・ロシュフコーの箴言は、決して「語り得ぬもの」ではない。それ自体、文学としても充分、味わい尽くすことができる。しかし、サキャの格言は、これは本来「語り得ぬもの」ではないか、と。そして、サキャはそのことをも知っていた。だからこそ、彼はこう云うのです。

353 場所と時を得たなら
          よく注意して数回語る。
          格言であっても多すぎると
          売れ残りのように誰も欲しがらない。

もう一度、ウィトゲンシュタインの言葉を引けば、例によって、謎のように、彼はこう云っています。
「独我論が意味することは全く正しいのであるが、ただそれは語られ得ないのである。それは自らを示すのである。」

それでは、いったい何において自らを示すのかといえば、それは、言うまでもなく、自らの行為において以外ありえないのではないでしょうか。



plaisir874 at 04:26|Permalink

2011年02月12日

【読書ノート】『ギリシア悲劇名言集』ギリシア悲劇全集編集部編 岩波書店

ギリシア悲劇全集この本は、岩波書店版『ギリシア悲劇全集』(全13巻+別巻1 1990年~1993年)の編集作業過程(5世紀のギリシアの編纂者であったストバイオスの「選文集」の断片引用)から「名言集」として編纂されたものだそうです。

ギリシア悲劇といえば、三大悲劇詩人として知られるアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスの名前がすぐに浮かびますが、彼らの作品は、現代において、いったいどのようにして触れることができるのでしょうか?

私は、遠い昔、学生時代にイタリアのOedipus_And_The_Sphinx映画監督パゾリーニの『アポロンの地獄』や『王女メディア』に触発されて以来、多くのギリシア悲劇を読んできましたが、もはや活字でしかこうした作品を味わうことができません。
       (図右 借用 オイディプスとスフィンクス)

ディオニュソス劇場実をいうと、現在に至るまで、テレビの劇場中継を除くと、実際には一度もギリシア悲劇を観劇したことがないのです。けれども、このことは、シェークスピアやその他の戯曲と同様、私にとって問題ではありません。
       (写真右 借用 ディオニュソス劇場跡)

平気で嘘をつき続ける人なぜなら、こうした古典的な戯曲を観劇することとは、〈自分のものではない〉解釈によって具象化された、演出や役作りにその都度付き合わされることを意味するからです。(というより、やはり私にはそれを受け入れ、楽しむほどの余力がないということなのでしょうか?)
      (写真右 借用 平気で嘘をつき続ける人) 

さて、以下に引用する言葉は、現代に生きる私たちにとっては、もはや、古色蒼然とした響きしか持たないのかも知れません。けれども改めてここに整理してみると、そのどれもが、いかにも〈健康である〉ということに気づかされるのです。

ご存じのとおり、古代ギリシアにおいては、デモクラシーに代表される成熟した市民社会がありました。ところが、その一方で、奴隷制や男尊女卑の風習は厳然と温存されていたのです。無論、私はこうしたことをも一切含めて〈健康である〉と云うのではありません。
また、かってのロマン派詩人たちのように、既に失われてしまった魂の故郷に対する憧憬からそう云うのでもありません。
敢えて云えば、これらの言葉の数々には、いささかのルサンチマンも感じることがないからです。
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 愛(エロース)
  7 人間の中には、何か別な愛があるのだ、
   思慮深くて善良な正しい魂への愛が。
   人間にとって慣習とならなければならないのは
   敬虔な人々を、そして思慮深い人々を愛すること、
   そしてゼウスの娘(愛欲の神)キュプリスに別れを告げることだ。
                                (4頁 エウリピデース断片388)
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 怒り(オルゲー)
 3 怒りは多くの悪事を有無を言わせずなさしめる。
                                (11頁 カイレーモーン断片29)
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 運命(テュケー)
11 死すべき人間に与えられる恵みは不滅ではない。思い上がった人たちは
      現在のことから未来を信じ切っているので、
   酷い目に遭ったときに運命からの反駁を受けることになるのである。
                              (19頁 エウリピデース断片1073)
12 「必然」(アネンケー)には軍神(アレース)すら抗しえない。
                                 (20頁 ソポクレース断片256)
22 「必然」を前にすれば他のものはすべて無力だ。
                               (22頁 エウリピデース断片299)
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 金銭、富(クレーマタ、プルートス)
10 富が生み出すのは思い上がりか吝嗇(けち)である。 
                               (55頁 エウリピデース断片632)
25 富とは臆病で、自分の命に執着する禍いだ。
                                    (59頁 カルキノス断片9)
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 国、国家(ポリス)
 3 安逸な暮しや見苦しい女々しさが 
      家や国家を再興させることはあるまい。
                               (63頁 エウリピデース断片239)
 4 多くの国は過ちを犯すものだ。
      優れた者、懸命に働いた者を
       それ以下の人間と同じように扱ってしまうのだ。
                     (63頁 エウリピデース「ヘカベー」306~308行)
 7 国には三通りの人間がいるものだ。資産家というのは
       有害無益なことしか考えず、常にいま以上の財を得ようと懸命だ。
       その逆に、持たざる者、日々の生活にも事欠く者たちは
       嫉妬と恨みの情に陥りやすく、危険な存在であって、
    心いやしい煽動家の口車にうまうまと乗せられて、
    持てる者に悪意のこもった攻撃の矛先を向ける。
    三つに分けた層の中で、中間にいる市民たちこそ、国の守り手であり
    国の定めた仕来(しきた)りならば、これをよく守ろうと努めるものだ。
                   (64頁 エウリピデース「ヒケティデス」238~245行)
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 賢、愚(ソポス、モーロス)
 2 愚か者が幸運に恵まれると、重い荷物である。
                                           (75頁 アイスキュロス断片392)
29 人が死んでも徳が滅びるわけではない。
       肉体がもはや存在しなくても徳は生きている。だが劣った者たちの場合には、
   すべてが死とともに大地の下へと消え去ってしまう。
                               (80頁 エウリピデース断片734)
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 言葉(ロゴス)
30 希望と言葉とは、人間たちをしばしば欺くものだ。
                               (94頁 エウリピデース断片650)
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 死(タナトス)
 5 死は病の最後の医者である。
                                 (97頁 ソポクレース断片698)
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 嫉妬、中傷(プトノス、ディアボレー)
 1 あらゆることの中で最も不正なものは嫉妬である。
                                  (105頁 作者不詳断片532)
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 人生、人間(ビオス、ブロートス)
45 誓いは人の保証とはならない。人が誓いの保証である。
                              (121頁 アイスキュロス断片394)
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 老、老年(ゲーラス)
 9 いかなる嘘も老年まで続くことはない。
                                 (156頁 ソポクレース断片62)
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 その他(雑)
27 無数の苦難があってこそ素晴らしいことは生まれる。
                              (166頁 エウリピデース断片236)
48 美徳は苦悩の中を歩む。 
                    (170頁 エウリピデース「ヘーラクレイダイ」625行)
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2011年02月06日

【読書ノート】『卵のように軽やかに─サティによるサティ─』 秋山邦晴 岩佐鉄男 編訳 筑摩叢書

サティの音楽は、例えばバッハやモーツアルト、ベートーヴェンのそれのようにメインディッシュにはなりえません。何故なら、あまりにもスパイス(毒)が効き過ぎて、小骨も多く、腹一杯食べるとすぐに食傷してしまうからです。でも、時々は、無性に食べてみたくなる…そんな塩梅(あんばい)のオードーブルでしょうか。

サティといえば、数々のエピソードに事欠かない奇抜な人物としても有名ですが、彼の残した文章やデッサン・絵も個性的な魅力に満ちています。この本は、そうした彼自身が書き残したことば―膨大な断片、書簡、講演原稿、音楽論、詩、音楽劇などを編訳したもので、私が折に触れ、食している(味わっている)ものです。

 

彼の「ジムノペディ」、「グノシエンヌ」や声楽曲「ジュ・トゥ・ヴー」などは、テレビのCMなどにもしばしば使われているので、よく耳にしますが、その他あまり馴染みのない楽曲も、「官僚的なソナチネ」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「梨の形をした3つの小品」「ひからびた胎児」など、とても思わせぶりな表題で、気になる存在です。このうち「梨の形をした3つの小品」は、3つの小品とありますが、実は何と7つあります。そう、これがサティの真骨頂なのです。
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さて、この本の〈訳者あとがき〉で、同時代のフランスの作曲家シャルル・ケクランの言葉が引用されています。まずはそれから紹介しておきましょう。

 「サティの音楽には優雅な身軽さと、つつしみ深い態度、それに悪戯好きな戯れのなかでさえも足並みが確かで、粗野な人々にはけっして感じることができないようなある秘めやかな感覚というものが含まれている。結局、特筆していいことは、その生まれついての絶対的な独立性ということだろう…」(シャルル・ケクラン)(285頁)

やはり、サティのような筋金入りの反骨精神は、「ただ一匹で出掛けていく猫」だか「犬」だかは知りませんが、いわば独立不羈のソフィスト同様、徹頭徹尾、嫌みな存在であり続けたようです。(そういえば、「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」の中に「犬儒派的牧歌」があり、また、劇付随音楽『ソクラテス』や彼の遺作「ヴェクサシオン」(嫌がらせ)というのもありますしね。)

この本を読んで以来、私は、恐らくサティは、もはや自分自身にしか分からない〈猛烈なユーモア〉を感じながら、まるでそれらをなぞるように、多くの作品を産み出していたに違いないと思うようになりました。ケクランが云う「秘めやかな感覚」というのもやはりそのことを意味しているのでしょうか?彼の音楽を聴くたびに、私はそう感じるのです。
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〔健忘症患者の回想録〕
 〈音楽家の一日〉
 芸術家は規則正しい生活を送らなくてはならない。これは私の日常生活の行動を正確に記した時間表(日課)である。起床──午前7時18分。インスピレーションの湧くとき──10時23分から11時47分まで。私は12時11分に昼食をとり、12時14分に食卓を離れる。…(92頁)
 〈食卓で〉
 私にとって、食べることは暇なときの義務──それが快い義務であることはもちろんだけれど──であると考えている。私はこの義務を厳格に、そしてつねに注意深くなしとげたいと思っている。食欲はすこぶる旺盛。だから私は自分のために食べる。だが、エゴイスムはもたない。また獣のように食べるというわけでもない。いいかえれば、かりに私が名騎手であったとしても、私は「馬に乗っているよりは、食卓についているほうがいい」のである。(102頁)
 〈家具の音楽について〉
 「…私たちは、〈有用性〉の要請をみたすようにデザインされた音楽というものを確立したいのです。芸術は、そのような要素をもってはいません。家具の音楽は空気振動をつくりだします。それ以外の目的なんてありません。それは光や熱と同じ役割を果たすのです──あらゆる形態をとりながら、〈人に快適さを与えるもの〉として。」(107頁)

〔哺乳類の手帳〕
 〈日本風サラダ〉
 九十歳にもなろうかという老婆が九十五歳のド・フォントネル氏に言った。「死が私たちを忘れてしまったんですよ。」──「し─っ!」ド・フォントネル氏は口に指をあてて答えた。(132頁)
 〈頑固者の屁理屈〉
 木の中には、鳥が決してとまらないものがある。とくにヒマラヤスギがそうだ。そのような木はあまりに陰鬱なので、そこにとまった鳥がうんざりしてしまい、それで避けるのだ。ポプラにも鳥はあまり来ない。それはそこまで行くのが危険だからだ、あまりに高すぎて。(140頁)
 ピアノというのは、お金と同じように、それに触る人にしかよろこびを与えないものだ。(142頁)
 彼には人生がなにひとつわかっていない。ほんのささいなことが彼を夢想家にする。(143頁)
 誰かさんが現代の〈退廃〉(デカダンス)について話していたら、そいつの顔を見てやるといい。(147頁)
 アプサントを飲む者は、ひと口ごとに自殺している。(148頁)
 人間とは何か? この地上に他の人間たちを悩ませるためにもたらされた哀れな存在。(152頁)
 はい、奥様、人は誰でも〈死ぬ〉でございましょう。でも私はくたばるのです。おお、奥様、あなたは〈おなくなり〉になります。(160頁)
  人びとをおもしろがらせるより、退屈させるほうが簡単なのは、どうしてだろう?(161頁)
 もし金持ちだったら、財産をなくすのが怖いだろう。(163頁)
 墓の中にいる時間はたっぷりある。(170頁)
 耽美主義者とは、缶詰より新鮮な食品のほうを好む人のことだ。(173頁)
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(そして最後に、極めつけの強烈なアフォリズムをどうぞ。)
 人間を知れば知るほど、犬をすばらしいと思う。(174頁)

 



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