2017年09月15日

物語には終わりというものがある。
日々暮らしているとそんなことを忘れそうになってしまうが、多分僕らの生活はたくさんの物語が多重構造的に交わってできているのだろう。いくつかの物語が始まり、いくつかの物語を抱え込みながら、いくつかの物語を終える。しかし、ただ、僕らはそれに気づいていないだけなのだ。

朝、看護師さんが僕のところにやってきて採血してくれた。
僕はすでに起きていて、カートヴォネガットジュニアの小説「猫のゆりかご」について考えていた。あれはいったいどういうものだったのだろうかと。

ぼんやりとしている僕を尻目に看護師さんはせっせと僕の体温を計り、血圧を測定し、注射器で血を採った。
入院している間、たくさんの看護師さんにお世話になった。この病院は(というか僕は他の病院を知らないんだけれど)マンツーマンではなく毎日担当してくれる看護師さんが代わる。若い人もそうでない人もいたが、基本的にはみな親切だった。親切な人が看護師さんになるのか、看護師さんだから親切にしているのか、それは定かではないが、少なくともみんな良心的だった。
果たして、僕が一番好きだった看護師さんはどの人だろうとふと考えてみた。
いろんな人がいたが、とりあえず顔に関してはみんなマスクで隠れているから全貌は明らかになっていない。そうなると、性格だとか言動だとかが評価する基準になってくる。ある意味ではとてもフェアだといえる。
採血が終わるまでに答えは出た。意外なことにみんな大好きだという中学校の先生みたいな結論が出てしまった。
我ながらなんだかつまらないなと思ったが、年を取るということはそういうものなのかもしれない。そんなに簡単に優劣はつけられないし、だからそんなに簡単に恋にも落ちない。不惑。

朝ごはんを食べたら(全粥、かぶとさやえんどうのみそ汁、炒り卵、梅干、牛乳)日課の散歩をする。採血の結果待ちではあるが、おそらく僕は今日退院できるだろう。単純にいって身体の調子がいい。先生たちにとってはデータを確認する必要があるのかもしれないが、僕自身にとってみれば身体に聞けばわかることだ。
ありんこが何匹かで固まりながら地面を這っていた。少し進んでは相談するようにみんなで集まり、また進み始める。僕はしゃがみこんで彼らのことをズームアップで見てみる。彼らは一体なんのために、どこに向かっているのか。おそらく僕と同じようなことなのだろう。つまりは、多分、僕も彼らも同じような目的にしたがって生きているのだ。

病室に戻ろうと廊下を歩いていたら主治医の先生に会った。
先生は僕を認めたとたん、まるで街角で偶然出会ったかのように驚いていた。
僕が微笑みかけると先生はいつものように目を見開いて、
「今病室に行ったらいなかったから、勝手に退院しちゃったかと思ったわよ。」
といった。
「ははは。さすがに荷物を全部置いて帰ったりしませんよ。」
と僕はいった。
彼女はいったん僕から目をそらし、自分の靴を(スリッパだったかもしれない)見るようなそぶりをしてからもう一度僕を見た。
「うん。採血の結果だけど良好です。退院してもいいよ。」
彼女はそういって、にこりと笑った。
結局この病院で僕が一番好きだった人はこの人ということになるんだろうなと思いながら僕は、
「ありがとうございます。」
といって笑った。
もちろん食事になんかは誘っていません(笑)

早々に着替えをすませ、荷物をまとめ、図書室の本を返却ボックスに落とし(「蛇とピアス」を少し読み始めて、結構おもしろそうな内容だったが完読にはいたらなかった。今度ちゃんと読もう)帰りの準備は整ったが、入院費用の計算をしているのでもう少し待てとのこと。
iPhoneはデータがないからやたらと遅いし、やることないのでベッドの上でぼんやりとした時間。

両隣のおじいさんたちは寝息を立てて眠っている。
結局彼らの顔をしっかりと見ることはなかった。
むしろどの病室にいるのかわからない、アメリカンな社長さんとばかり顔を合わせていたような気がする。
これが小説だったら彼と僕は仲良くなって、そして彼から不思議な依頼を受け、非日常の世界に巻き込まれたりするのだろうけれど、いや、そこまでいかなくてもちょっとしたふたりだけの秘密の物語が生まれたりするのだろうけれど、結局最後まで彼とは親しく口をきくチャンスがなかった。
だからこの日記はただの日記であって、別に面白いものではないのだ。
いうなれば、道ばたをありんこが這っているようなものだ。
そこにストーリーがあるかといわれれば、もしかしたらあるのかもしれないが、もしかしたら別に何もないのかもしれない。
小説のようにうまくはいかない。

やがて、入院費用の請求書が届けられる。むろん安くはないが、まあしかたがない。
箱根だか草津だかでゆっくり逗留したと思おうとしたが、そんなに優雅なものではなかったな(苦笑)大半はチューブにつながれた生活だったし。

ハットをかぶって荷物を持ち、背筋を伸ばして病室を出る。
ナースステーションに寄って「お世話になりました」と挨拶する。
退院するときはエレベーターの前でファン、いや失礼、看護師さんたちが、
「立井さんがいなくなると寂しいわぁ」
「絶対また来てね!もっとしっかり看病するから!」
とか、ある意味ちやほやされるのかと思っていたが、意外にも(意外でもなんでもないけど)
「お大事にー」
と気のない返事で挨拶は終わった。
不惑ってつまらないもんだな。

支払いをすませ、ロビーを通って外へと出る。
目の前には明るい景色が広がっている。
今までとはまるで違う景色に見えたわけでもないが(毎日散歩してたしね)なんとなく清々しい気分なのである。

かくして僕の入院生活は終わる。
ひとつの物語が終わればまた次の物語が始まるのだろう。
ありんこたちはどこへ行ったのだろうか。
僕はハナちゃんのいるおうちへ帰るよ。

続く。






 




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