November 2004
November 30, 2004
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高良勉著『発言・沖縄の戦後五〇年』(ひるぎ社)を読む
本書は1995年の刊行で、序詩「あたびーぬ うんじ(蛙の恩)」と、書き下ろし「私にとっての敗戦後五〇年・思春編」、これに五つの座談会と「アイヌモシリへ」「私の戦後史年表」が収められており、詩人・高良勉の発言集として編集されている。
私は先だって沖縄で、著者自身からこの本を戴き、読む機会を得た。多くのテーマが扱われているのですべてについて触れることはできないが、いくつかのメモを記しておきたい。
高良さんは1949年、沖縄県南部の玉城村の生まれである。幼年期は水道も電気もない、村一番の貧乏(ヒンスー)であったと書いておられる。小学校三、四年生で「共通語励行運動」が盛んになり、方言(ウチナーグチ)を使うことが禁じられた。方言を使うと「方言札」というものを首から紐でぶら下げられ、方言を使う他の生徒を見つけて渡さない限り、解放されない。密告をともなう言葉狩りが、小学生のなかで行われたのだ。殴るか足を踏んづけて、「アガーッ(痛っ)!」と言わせ、「いま、方言を使っただろう」と方言札を渡したという笑えない話も出てくる。方言札はやがて地域にまで広がり、子どもたちは無邪気に言葉を発しえない環境を強いられていく。
戦前の話ではない、1950年代の終わりごろの話である。ちょうど私が生まれた頃ではないか。沖縄の祖国復帰運動は、このような子どもたちの言葉狩りから始まったことを私たち大和人は痛苦の念をもって受け止めざるを得ない。
高良さんは高校時代に「祖国復帰運動」を経験し、その後、国費留学で静岡大学に入学、全共闘運動に参加し、渡航制限撤廃闘争、沖縄返還協定粉砕闘争、三里塚闘争、部落解放闘争などに関わる。復帰後に大学を卒業し、沖縄で教員生活のかたわら詩人として活躍、84年に第7回山之口貘賞を受賞、85年に第19回沖縄タイムス芸術選賞・奨励賞(文学)を受賞、沖縄を代表する詩人として知られている。
参考:高良勉プロフィール
さて、いくつかの座談会で、高良氏を始めとする何人かの発言者から、「祖国復帰」への違和感が語られている。72年の「復帰万歳」に唱和しかねる感情の澱があったのであろう。先の「共通語励行運動」とも関連するのだが、「祖国復帰運動」の先頭で沖縄人指導者によって打ち振られていたのは日の丸である。琉球処分から日本国の帝国主義への離陸は機を一にしていたにも関わらず、なぜ沖縄人は「皇民化教育」の亡霊のごとき「共通語励行運動」を受け入れ、祖国復帰運動を日の丸を掲げて推進したのだろう。ましてや、沖縄戦で大和の兵隊は多くの沖縄人を集団自殺に追い込んでいる。そうしたウラミツラミを捨てて、沖縄人の多くは自ら「祖国復帰」への道を選んだのだ。ここに高良さんらは、大いなる疑義を感じたのである。
座談会のなかで、日本に国費留学した沖縄出身の学生たちが、日本の大学でごく普通に関西弁などの方言が使われていることにショックを受けたという話が出てくる。「方言札」を使ってまで、教育の現場で共通語を強要した運動とは何であったのか、という疑いが生まれたという。
アメリカ世からヤマト世へ、沖縄は帰属する国家を変えながらも、ベトナム侵略戦争の出撃拠点として日米同盟の軍事要塞とされていく。沖縄返還協定粉砕闘争は、米日国家間の裏取引を糾弾するとともに、日本国への「復帰」を根底から問い直さねばならない思想的な闘いでもあった。新左翼が掲げた「沖縄奪還」も「沖縄解放」も大和人からの物言いであり、沖縄人は自ら「復帰思想」を越える論理と思想を模索しつつも、現実政治の雪崩を打った「本土化」に為す術はなかったと言ってよい。ここにおいて、日の丸を先頭に掲げた「祖国復帰運動」は根底から問われなければならないだろう。
高良さんは72年5月15日、「復帰」当日に与儀公園で琉球独立党らと共に「反復帰独立派」の200名ほどの集会・デモに参加したという。
私は、沖縄闘争を同時代的に闘ったことはない。しかし、高良さんと等しくベトナム反戦運動にシンパシーを感じ、大学時代に三里塚闘争、部落解放闘争などに参加した。そのことは先日、高良さんとも話し合ったことだが、私のなかにも沖縄問題はある。それは、私のなかの「反日思想」と深く関わっている。換言すれば、日米同盟の武装力を沖縄を拠点とする非暴力のネットワークのなかで解体したいというヴィジョンがある。私は、沖縄は独立「国家」を目指すべきではないが、にもかかわらず自尊意識を取り戻すために権力化されなければならないと考えている。それは、自治政府を目指すことであるかどうかはまだ分からない。国家を目指すことなく、琉球弧のネットワークのなかで日本国の武装を解いていく道を沖縄の人たちと共に模索していかなければならないだろうと私は思っている。
それは皮肉にも、日本国憲法の九条の精神を沖縄の地で防衛していくことにもなるだろう。東アジアの地で、国家間戦争を止め、日本国軍の海外派兵を止め、米軍基地をこのアジアから叩き出すための戦いを、ユートピアであるかも知れぬが、戦い抜く平和の礎としての未来を、その可能性を沖縄は拓いている。ここに「出口」があるだろうと私は考え、自らのBlogに「EXIT」の言葉を冠した。そのことはすでに皆さまに伝わっていることと思う。
高良さんの本に還れば、沖縄の人たちは、あまりにも国家によって弄ばれすぎた。その苦痛はパレスチナにも通じ、またアイヌモシリにも通じているだろう。私は沖縄人の生命と光を受け止めるために、その言葉を、声を、歌を、耳を澄まして聴かなければならないだろう。それが沖縄の生命を奪ってきた日本国人・大和人の宿命であろう。
汝、花を武器とせよ。この言葉から沖縄の彼方に桃源の共同体を夢見た思想家がいた。私はその思想家の忠実な下僕として、生きたいと思った十代に立ち返り、もう一度沖縄を血肉化すべくその暗闇を体内に注ごう。そこから見えてくるニライカナイを、観念のユートピアとしてではなく、この生活に活かそう。地続きの共同体を、今・此処から掘り、彼方へと抜ける秘密の歓びの道を、私たちの友人と共に歩きたいと思う。
追記
2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、沖縄の「祖国復帰運動」の映像を数多く観る機会があった。「祖国」とはフィクションであると私は思っているので、そのフィクションのために多くの日の丸が振られている光景は、痛ましくも異様に感じた。日の丸は、抵抗のシンボルと言われていたけれど。
沖縄の独立派は、少数派ながらつねに存在すると聞く。私は独立思想の系譜に関心をもっている。現実政治のなかで、沖縄がどのような道を歩むべきかは、沖縄人自身が決めることだ。私たち大和人は、そこにどう関われるのか、今後も考えていきたい。ただ、大和人であるからには、今・此処に穴を掘るしかないであろうというのが正直な実感だ。私は沖縄と大和を行ったり来たりする。私は沖縄に逃げを打っているわけではないのである。
参考:沖縄独立論・自立論の検証
風游
私は先だって沖縄で、著者自身からこの本を戴き、読む機会を得た。多くのテーマが扱われているのですべてについて触れることはできないが、いくつかのメモを記しておきたい。
高良さんは1949年、沖縄県南部の玉城村の生まれである。幼年期は水道も電気もない、村一番の貧乏(ヒンスー)であったと書いておられる。小学校三、四年生で「共通語励行運動」が盛んになり、方言(ウチナーグチ)を使うことが禁じられた。方言を使うと「方言札」というものを首から紐でぶら下げられ、方言を使う他の生徒を見つけて渡さない限り、解放されない。密告をともなう言葉狩りが、小学生のなかで行われたのだ。殴るか足を踏んづけて、「アガーッ(痛っ)!」と言わせ、「いま、方言を使っただろう」と方言札を渡したという笑えない話も出てくる。方言札はやがて地域にまで広がり、子どもたちは無邪気に言葉を発しえない環境を強いられていく。
戦前の話ではない、1950年代の終わりごろの話である。ちょうど私が生まれた頃ではないか。沖縄の祖国復帰運動は、このような子どもたちの言葉狩りから始まったことを私たち大和人は痛苦の念をもって受け止めざるを得ない。
高良さんは高校時代に「祖国復帰運動」を経験し、その後、国費留学で静岡大学に入学、全共闘運動に参加し、渡航制限撤廃闘争、沖縄返還協定粉砕闘争、三里塚闘争、部落解放闘争などに関わる。復帰後に大学を卒業し、沖縄で教員生活のかたわら詩人として活躍、84年に第7回山之口貘賞を受賞、85年に第19回沖縄タイムス芸術選賞・奨励賞(文学)を受賞、沖縄を代表する詩人として知られている。
参考:高良勉プロフィール
さて、いくつかの座談会で、高良氏を始めとする何人かの発言者から、「祖国復帰」への違和感が語られている。72年の「復帰万歳」に唱和しかねる感情の澱があったのであろう。先の「共通語励行運動」とも関連するのだが、「祖国復帰運動」の先頭で沖縄人指導者によって打ち振られていたのは日の丸である。琉球処分から日本国の帝国主義への離陸は機を一にしていたにも関わらず、なぜ沖縄人は「皇民化教育」の亡霊のごとき「共通語励行運動」を受け入れ、祖国復帰運動を日の丸を掲げて推進したのだろう。ましてや、沖縄戦で大和の兵隊は多くの沖縄人を集団自殺に追い込んでいる。そうしたウラミツラミを捨てて、沖縄人の多くは自ら「祖国復帰」への道を選んだのだ。ここに高良さんらは、大いなる疑義を感じたのである。
座談会のなかで、日本に国費留学した沖縄出身の学生たちが、日本の大学でごく普通に関西弁などの方言が使われていることにショックを受けたという話が出てくる。「方言札」を使ってまで、教育の現場で共通語を強要した運動とは何であったのか、という疑いが生まれたという。
アメリカ世からヤマト世へ、沖縄は帰属する国家を変えながらも、ベトナム侵略戦争の出撃拠点として日米同盟の軍事要塞とされていく。沖縄返還協定粉砕闘争は、米日国家間の裏取引を糾弾するとともに、日本国への「復帰」を根底から問い直さねばならない思想的な闘いでもあった。新左翼が掲げた「沖縄奪還」も「沖縄解放」も大和人からの物言いであり、沖縄人は自ら「復帰思想」を越える論理と思想を模索しつつも、現実政治の雪崩を打った「本土化」に為す術はなかったと言ってよい。ここにおいて、日の丸を先頭に掲げた「祖国復帰運動」は根底から問われなければならないだろう。
高良さんは72年5月15日、「復帰」当日に与儀公園で琉球独立党らと共に「反復帰独立派」の200名ほどの集会・デモに参加したという。
私は、沖縄闘争を同時代的に闘ったことはない。しかし、高良さんと等しくベトナム反戦運動にシンパシーを感じ、大学時代に三里塚闘争、部落解放闘争などに参加した。そのことは先日、高良さんとも話し合ったことだが、私のなかにも沖縄問題はある。それは、私のなかの「反日思想」と深く関わっている。換言すれば、日米同盟の武装力を沖縄を拠点とする非暴力のネットワークのなかで解体したいというヴィジョンがある。私は、沖縄は独立「国家」を目指すべきではないが、にもかかわらず自尊意識を取り戻すために権力化されなければならないと考えている。それは、自治政府を目指すことであるかどうかはまだ分からない。国家を目指すことなく、琉球弧のネットワークのなかで日本国の武装を解いていく道を沖縄の人たちと共に模索していかなければならないだろうと私は思っている。
それは皮肉にも、日本国憲法の九条の精神を沖縄の地で防衛していくことにもなるだろう。東アジアの地で、国家間戦争を止め、日本国軍の海外派兵を止め、米軍基地をこのアジアから叩き出すための戦いを、ユートピアであるかも知れぬが、戦い抜く平和の礎としての未来を、その可能性を沖縄は拓いている。ここに「出口」があるだろうと私は考え、自らのBlogに「EXIT」の言葉を冠した。そのことはすでに皆さまに伝わっていることと思う。
高良さんの本に還れば、沖縄の人たちは、あまりにも国家によって弄ばれすぎた。その苦痛はパレスチナにも通じ、またアイヌモシリにも通じているだろう。私は沖縄人の生命と光を受け止めるために、その言葉を、声を、歌を、耳を澄まして聴かなければならないだろう。それが沖縄の生命を奪ってきた日本国人・大和人の宿命であろう。
汝、花を武器とせよ。この言葉から沖縄の彼方に桃源の共同体を夢見た思想家がいた。私はその思想家の忠実な下僕として、生きたいと思った十代に立ち返り、もう一度沖縄を血肉化すべくその暗闇を体内に注ごう。そこから見えてくるニライカナイを、観念のユートピアとしてではなく、この生活に活かそう。地続きの共同体を、今・此処から掘り、彼方へと抜ける秘密の歓びの道を、私たちの友人と共に歩きたいと思う。
追記
2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、沖縄の「祖国復帰運動」の映像を数多く観る機会があった。「祖国」とはフィクションであると私は思っているので、そのフィクションのために多くの日の丸が振られている光景は、痛ましくも異様に感じた。日の丸は、抵抗のシンボルと言われていたけれど。
沖縄の独立派は、少数派ながらつねに存在すると聞く。私は独立思想の系譜に関心をもっている。現実政治のなかで、沖縄がどのような道を歩むべきかは、沖縄人自身が決めることだ。私たち大和人は、そこにどう関われるのか、今後も考えていきたい。ただ、大和人であるからには、今・此処に穴を掘るしかないであろうというのが正直な実感だ。私は沖縄と大和を行ったり来たりする。私は沖縄に逃げを打っているわけではないのである。
参考:沖縄独立論・自立論の検証
風游
November 27, 2004
planet_knsd at 22:53 Permalink
12.12 「げんこつまつり」に行こう!

参照:げんこつまつり
※チケットはHPで予約できます。
●日時 12月12日(日) 15:00〜20:30
●場所 小金井市公会堂(JR武蔵小金井駅下車5分)
●料金 前売り2000円 当日2500円 中学生以下無料
●呼びかけ人
伊藤正樹 全水道東水労三多摩地協事務局長
朝倉玲子 全国一般東京労組三多摩地域支部書記長
●出演者
高田渡
中川五郎(with HONZI)
寿[Kotobuki] バンド編成
花&フェノミナン
アブライティ
末森樹
瑠璃
K−UNIT
「東水労バンド」
November 26, 2004
planet_knsd at 02:17 Permalink
長い夜
本日は、寿[kotobuki]の撮影の立ち会い。
カメラマンは、杉本文さん。
いよいよ、寿[kotobuki]の4年ぶりのCD制作が
佳境に入りつつあります。乞うご期待!
![寿[kotobuki]](https://livedoor.blogimg.jp/planet_knsd/e6c49169-s.jpg)
その後、吉祥寺でタイ料理を食べ、六本木のMUSEへ、
増山麗奈個展「LAN TO FACE」を見に行く。
最終日の打ち上げへ。

りあんちゃんの
パーンチ!

打ち上げ風景。
左写真・左から芦澤礼子さん、増山麗奈さん、相澤恭行さん、高瀬香緒里さん。右写真・右は加藤さん。
ひと目で気に入った「ロミちゃんの変わった戦争」(下・トルソ)を買う。
このタイトルは、りあん(増山さんの娘・3歳)が付けたという。
凄い! 天才少女かも!
私にとってこのトルソの絵は、
竹中英太郎を彷彿とさせるのであった。
麗奈さんは英太郎をご存知なかったけれど。
右は、私が一時期編集参加していた
「夜想」の夢野久作+竹中英太郎特集。
このときは、まだペヨトル工房にいなかったけどね。


ちなみに、増山麗奈さんの次回展示は、
府中ビエンナーレです。
先に紹介した「LAN TO IRAQ in OKINAWA〜イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ」も、どぞ!
増山麗奈×新宿タイガー、タッグ結成の噂あり!
ももいろ通信日記
カメラマンは、杉本文さん。
いよいよ、寿[kotobuki]の4年ぶりのCD制作が
佳境に入りつつあります。乞うご期待!
![寿[kotobuki]](https://livedoor.blogimg.jp/planet_knsd/e6c49169-s.jpg)
その後、吉祥寺でタイ料理を食べ、六本木のMUSEへ、
増山麗奈個展「LAN TO FACE」を見に行く。
最終日の打ち上げへ。

パーンチ!

左写真・左から芦澤礼子さん、増山麗奈さん、相澤恭行さん、高瀬香緒里さん。右写真・右は加藤さん。
ひと目で気に入った「ロミちゃんの変わった戦争」(下・トルソ)を買う。
このタイトルは、りあん(増山さんの娘・3歳)が付けたという。
凄い! 天才少女かも!
竹中英太郎を彷彿とさせるのであった。
麗奈さんは英太郎をご存知なかったけれど。
右は、私が一時期編集参加していた
「夜想」の夢野久作+竹中英太郎特集。
このときは、まだペヨトル工房にいなかったけどね。


ちなみに、増山麗奈さんの次回展示は、
府中ビエンナーレです。
先に紹介した「LAN TO IRAQ in OKINAWA〜イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ」も、どぞ!
増山麗奈×新宿タイガー、タッグ結成の噂あり!
ももいろ通信日記
November 25, 2004
planet_knsd at 11:53 Permalink
室伏鴻舞踏「Experimental Body no.2 始原児」を観る
麻布die pratzeで、室伏鴻の舞踏作品「Experimental Body no.2 始原児」を観る。共演に、目黒大路、鈴木ユキオ、林貞之。
参考:室伏鴻公式サイト
室伏鴻の最近の活動に関して、私は00年の「edge」、01年の「edge01」は観ているが、03年の「美貌の青空」を見逃している。その上で、昨夜の感想を記しておきたい。
第一場:宙吊りにされた三人の男、裸体である。さながら命綱のようにしがみつき、意識の底へ降りてゆく。まどろみの世界。男たちの動作は、言葉を奪われており、吼え、戯れる、始原的遊戯のようである。
男たちの肉体は、鍛え上げられており、筋肉標本を見る思いがした。ダンサーとしての練成は、筋肉の付き方で分かるが、あまりにも筋肉質であるとかえって美しくはない。しかし動き出したときに一つひとつの筋肉が動員され、踊り始める様は見事である。これは千本ノックだな、と思った。30分ほど動き続けると、腹部の波打つ気配は尋常ではなく、筋肉は狂おしい悲鳴をあげる。いや、歓喜の声を挙げるのであろうか。
第二場:チョコレート色の闇を塗りたくった等身大の人形が、板の上でガンジガラメに縛られている。その背後に銀色の男(室伏)、人形の脚にしがみつくように、ふくらはぎに接吻をしている。生け捕られた褐色の聖母か、さもなくば、宇宙の闇に濡れている処女か、男は麻縄を締めつけ、母であり、娘であり、己自身である闇の物体から産み落とされていく。呻くように叫び、薄気味悪く笑う。からだは波を打ち、沈み、反り返る一瞬に闇へダイヴするがごとく、背中を床に打ちつける。立ち上がって男は、ゆっくりと人形の前に佇む。指差しながら何事かをしゃべりだす、「black bird・・・飛べやしねえ・・・内臓が出ちまってる」などの言の葉が漏れる。男は獲物のように褐色の女を引き摺り、闇のなかにその姿を消す。
室伏鴻ノ美学的極北デアル。闇の塊がガンジガラメに縛り上げられている造形が美しかった。最初は人間であるかのように思われたが、やがて等身大の人形であることが察知される。女体の闇は、生命を産み落とす暗黒のマリアかと思われたが、「black bird」とは……。闇を抱く鳥の化身か。
室伏の銀色に輝く肉体は、野獣性の鞭である。縛られた女に頬寄せ、産み落とされた赤ん坊が、獣となって還ってくる。この刻々と変容する情景が、室伏の官能の額縁を描きだす。至福の舞踏的時間。縛り上げられたチョコレート色の物体は、マシュー・バーニーの物質的変容(=錬金術)を想起させた。
第三場:棺桶の踊り。三人の男が自らの肉体を戯れに白い小さな棺桶に押し込めていく。道化めいた三人の動きから、一瞬に訪れる死の濃厚な気配。静寂。屠られた死者たちの彫像か。眠り男。パリ・コンミューンの虐殺か、惨たらしいイラクの死体か。
棺桶からはみ出た肉体のユーモラスな造形が、死を遊戯化する人間の愚かしさをシニカルに笑い飛ばす。垂直に立てられた棺桶の上に、三人が絡まる「肉体の塔」が生まれ、これが暗転の後、浴槽に並ぶ三人の情景へと変化している。ジョン・レノンの「imagine」が流れ、室伏が背後の棺桶に倒れこむ。
THE END.
舞踏に不用意な意味を持ち込むべきではないが、死者が甦り「肉体の塔」となり、棺桶が浴槽に変転し、「死者」たちが湯に浸かって笑っている、という結構には笑えた。特に、地上2メートルのわずかなスペース(棺桶の側面)に三人が昇り、築かれた「肉体の塔」(クンズホグレツ)は圧巻であった。
追記
総じて三人の男性舞踏家の出番が多く、室伏鴻のファンにとっては食い足りないという意見もあろう。私は久々に観た舞踏作品であったのと、「闇を縛り上げる」というメタファーにエロティックな歓喜を覚えた。「imagine」をどう受け止めればいいのか、迷ってもいる。死の戯画化を単純な「反戦」という意味性に結びつけたくはない。そこには「imagine」そのものへの皮肉も込められているのか、それは分からない。
私にとっては第二場がすべてという作品であった。「美貌の青空」(原作・土方巽)を見逃したのが、かえすがえすも悔しい。
参考:室伏鴻公式サイト
室伏鴻の最近の活動に関して、私は00年の「edge」、01年の「edge01」は観ているが、03年の「美貌の青空」を見逃している。その上で、昨夜の感想を記しておきたい。
第一場:宙吊りにされた三人の男、裸体である。さながら命綱のようにしがみつき、意識の底へ降りてゆく。まどろみの世界。男たちの動作は、言葉を奪われており、吼え、戯れる、始原的遊戯のようである。
男たちの肉体は、鍛え上げられており、筋肉標本を見る思いがした。ダンサーとしての練成は、筋肉の付き方で分かるが、あまりにも筋肉質であるとかえって美しくはない。しかし動き出したときに一つひとつの筋肉が動員され、踊り始める様は見事である。これは千本ノックだな、と思った。30分ほど動き続けると、腹部の波打つ気配は尋常ではなく、筋肉は狂おしい悲鳴をあげる。いや、歓喜の声を挙げるのであろうか。
第二場:チョコレート色の闇を塗りたくった等身大の人形が、板の上でガンジガラメに縛られている。その背後に銀色の男(室伏)、人形の脚にしがみつくように、ふくらはぎに接吻をしている。生け捕られた褐色の聖母か、さもなくば、宇宙の闇に濡れている処女か、男は麻縄を締めつけ、母であり、娘であり、己自身である闇の物体から産み落とされていく。呻くように叫び、薄気味悪く笑う。からだは波を打ち、沈み、反り返る一瞬に闇へダイヴするがごとく、背中を床に打ちつける。立ち上がって男は、ゆっくりと人形の前に佇む。指差しながら何事かをしゃべりだす、「black bird・・・飛べやしねえ・・・内臓が出ちまってる」などの言の葉が漏れる。男は獲物のように褐色の女を引き摺り、闇のなかにその姿を消す。
室伏鴻ノ美学的極北デアル。闇の塊がガンジガラメに縛り上げられている造形が美しかった。最初は人間であるかのように思われたが、やがて等身大の人形であることが察知される。女体の闇は、生命を産み落とす暗黒のマリアかと思われたが、「black bird」とは……。闇を抱く鳥の化身か。
室伏の銀色に輝く肉体は、野獣性の鞭である。縛られた女に頬寄せ、産み落とされた赤ん坊が、獣となって還ってくる。この刻々と変容する情景が、室伏の官能の額縁を描きだす。至福の舞踏的時間。縛り上げられたチョコレート色の物体は、マシュー・バーニーの物質的変容(=錬金術)を想起させた。
第三場:棺桶の踊り。三人の男が自らの肉体を戯れに白い小さな棺桶に押し込めていく。道化めいた三人の動きから、一瞬に訪れる死の濃厚な気配。静寂。屠られた死者たちの彫像か。眠り男。パリ・コンミューンの虐殺か、惨たらしいイラクの死体か。
棺桶からはみ出た肉体のユーモラスな造形が、死を遊戯化する人間の愚かしさをシニカルに笑い飛ばす。垂直に立てられた棺桶の上に、三人が絡まる「肉体の塔」が生まれ、これが暗転の後、浴槽に並ぶ三人の情景へと変化している。ジョン・レノンの「imagine」が流れ、室伏が背後の棺桶に倒れこむ。
THE END.
舞踏に不用意な意味を持ち込むべきではないが、死者が甦り「肉体の塔」となり、棺桶が浴槽に変転し、「死者」たちが湯に浸かって笑っている、という結構には笑えた。特に、地上2メートルのわずかなスペース(棺桶の側面)に三人が昇り、築かれた「肉体の塔」(クンズホグレツ)は圧巻であった。
追記
総じて三人の男性舞踏家の出番が多く、室伏鴻のファンにとっては食い足りないという意見もあろう。私は久々に観た舞踏作品であったのと、「闇を縛り上げる」というメタファーにエロティックな歓喜を覚えた。「imagine」をどう受け止めればいいのか、迷ってもいる。死の戯画化を単純な「反戦」という意味性に結びつけたくはない。そこには「imagine」そのものへの皮肉も込められているのか、それは分からない。
私にとっては第二場がすべてという作品であった。「美貌の青空」(原作・土方巽)を見逃したのが、かえすがえすも悔しい。
November 22, 2004
planet_knsd at 01:46 Permalink
怪奇大家族、面白すぎ!
偶然にも見てしまった、テレ東・深夜ドラマ「怪奇大家族」は面白すぎ。いま、目が点になってしまって、感想が書けない。メメント・モリ、霊界スナック「ああ冥土」、死というものが少し分かってきました・・・ああ、次回また見て感想を書きたい。
公式サイトはココ!
怪奇大家族
「呪怨」の清水大崇とかが監督しているんだね。今日は、山口雄大の監督だった。脚本は誰か、なかなかに良いぞ!
本日は、息子(小学校5年生・國貞幻矢君・背番号29番)のサッカー観戦。がんばっているけど、もう少し上手くなってほしいな(杉並区・杉森中学校庭にて)。

公式サイトはココ!
怪奇大家族
「呪怨」の清水大崇とかが監督しているんだね。今日は、山口雄大の監督だった。脚本は誰か、なかなかに良いぞ!
本日は、息子(小学校5年生・國貞幻矢君・背番号29番)のサッカー観戦。がんばっているけど、もう少し上手くなってほしいな(杉並区・杉森中学校庭にて)。

November 20, 2004
planet_knsd at 22:59 Permalink
久田恵さんの「まざあぐうすの唄芝居」など
本日朝4時から起き、原稿書くも進まず。早朝、図書新聞の島尾伸三さん・潮田登久子さんインタビュー「<もの>が語る記憶」を読む。現在、沖縄の詩人・高良勉氏の「発言・沖縄の戦後五〇年」(ひるぎ社、OKINAWA BUNKO)を読み進めつつあり、島尾敏雄氏の「ヤポネシア論」など出て来、この符牒を面白く思う(島尾伸三氏はご子息)。
いい天気なれど、夕方まで外出せず。NHKの「文楽鑑賞入門 心中天の網島」「花舞台 江戸の風俗“飴売り”」を見る。近松の「心中天の網島」を見つつ、社会的抑圧こそがエロティシズム(感情の発露)を生むと考える。抑圧もまた、良きことなり。
夕方、銀座「あらじんデュオ」で久田恵さん脚本・演出の「まざあぐうすの唄芝居」を観る。人形と道化師が織り成す「パペレッタ」。太田拓美氏の人形に感心。アルレッキーノとコロンビーヌ、懐かしき名前、確か「ジゼル」か。


公演情報:まざあぐうすの唄芝居
久田恵さんと「花げし舎」:花げし舎
太田拓美さんの人形:パペットハウス
久田さんの口上を引用しよう。
「陽気で、混沌としていて、ちょっと冷酷、そして哀切。そんな「まざあぐうす」の世界を携えてはせ参じます。そうです。ファンタジーは現実と空想の世界を奔放に行き来できる子どもたちだけのものではありません。いささか疲れた「もと子どもたち」の心をもときに解放してくれます。」
(写真中・舞台挨拶する久田恵さん(右側)、写真右・バレエ「ジゼル」)
冷酷と哀切。苦しみと歓び。幸福と不幸。さまざまなものは混ざり合い、「混沌」という愛を産み落とす。その後、「純愛」の話あれど(飲み屋で)、我は「純愛」を信じず。混沌の愛こそを真実と知るべし。
久田さんの演出は、さすがの一言。特に歌詞は見事で、シュールかつアナーキー、エネルギーは凸凹にあっちへ行きこっちへ行き、その脈絡の無さこそ愛すべき。「愛情」とはつねに入れ子構造と知るべし。引き出しをいっぱい持つべし。楽しからずや。
ちなみに、アルレッキーノは調べてみると、「イタリアの古典喜劇コメディア・デラルテの登場人物で、のちには道化の代名詞となる。菱模様パッチワークの派手な衣装が特徴」とある。
三原橋「傳八」にて、旧「共同アピールの会」の面々とまたしても騒ぐ。帰りに南阿佐ヶ谷のご贔屓の「書源」にて、ちくま日本文学全集「島尾敏雄」を買う。三砂ちづるさんの「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」が気になり、「新潮45」も買う。
さて、これより皿洗い&仕事。
いい天気なれど、夕方まで外出せず。NHKの「文楽鑑賞入門 心中天の網島」「花舞台 江戸の風俗“飴売り”」を見る。近松の「心中天の網島」を見つつ、社会的抑圧こそがエロティシズム(感情の発露)を生むと考える。抑圧もまた、良きことなり。
夕方、銀座「あらじんデュオ」で久田恵さん脚本・演出の「まざあぐうすの唄芝居」を観る。人形と道化師が織り成す「パペレッタ」。太田拓美氏の人形に感心。アルレッキーノとコロンビーヌ、懐かしき名前、確か「ジゼル」か。


公演情報:まざあぐうすの唄芝居
久田恵さんと「花げし舎」:花げし舎
太田拓美さんの人形:パペットハウス
久田さんの口上を引用しよう。
「陽気で、混沌としていて、ちょっと冷酷、そして哀切。そんな「まざあぐうす」の世界を携えてはせ参じます。そうです。ファンタジーは現実と空想の世界を奔放に行き来できる子どもたちだけのものではありません。いささか疲れた「もと子どもたち」の心をもときに解放してくれます。」
(写真中・舞台挨拶する久田恵さん(右側)、写真右・バレエ「ジゼル」)
冷酷と哀切。苦しみと歓び。幸福と不幸。さまざまなものは混ざり合い、「混沌」という愛を産み落とす。その後、「純愛」の話あれど(飲み屋で)、我は「純愛」を信じず。混沌の愛こそを真実と知るべし。
久田さんの演出は、さすがの一言。特に歌詞は見事で、シュールかつアナーキー、エネルギーは凸凹にあっちへ行きこっちへ行き、その脈絡の無さこそ愛すべき。「愛情」とはつねに入れ子構造と知るべし。引き出しをいっぱい持つべし。楽しからずや。
ちなみに、アルレッキーノは調べてみると、「イタリアの古典喜劇コメディア・デラルテの登場人物で、のちには道化の代名詞となる。菱模様パッチワークの派手な衣装が特徴」とある。
三原橋「傳八」にて、旧「共同アピールの会」の面々とまたしても騒ぐ。帰りに南阿佐ヶ谷のご贔屓の「書源」にて、ちくま日本文学全集「島尾敏雄」を買う。三砂ちづるさんの「「負け犬」に警告!あなたはもう「オニババ」かもしれない」が気になり、「新潮45」も買う。
さて、これより皿洗い&仕事。
planet_knsd at 15:21 Permalink
気になる「まほちゃんち」
図書新聞に写真家の島尾伸三さんと潮田登久子さんのインタビューが載っていて、いま水戸芸術館で開催中の「まほちゃんち」展の話題がてんこ盛り。
「まほちゃんち」
まほちゃん、可愛い、見てみた〜い。
パロル舎でお二人の新刊がそれぞれ出ているよ。
「中国製造 CHINA PRODUCTS」(島尾伸三+潮田登久子)
「帽子 潮田登久子写真集」

中国製造 CHINA PRODUCTS

帽子―潮田登久子・写真集
このサイトもごらん遊ばせ。
Welcome to Usimaoda.3-parties
「まほちゃんち」
まほちゃん、可愛い、見てみた〜い。
パロル舎でお二人の新刊がそれぞれ出ているよ。
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帽子―潮田登久子・写真集
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November 19, 2004
planet_knsd at 22:14 Permalink
【資料】画家・増山麗奈さん(桃色ゲリラ)インタビュー
イラク現代アート展を企画した画家
増山麗奈さんインタヴュー
「POCO21」6月号掲載
註:以下の文章は、2004年3月、私が画家の増山麗奈さんにインタビューをしたものです。桃色ゲリラの「LAN TO IRAQ」プロジェクトの資料としてお読みください。増山さんは、高遠菜穂子さんら三人の日本人人質誘拐事件が起こる前の2月にバグダッドに入り、イラクの現代美術家と接触・交流し、約20点の作品を購入しています。それが、イラク現代美術展「LAN TO IRAQ」へと結びついています。詳しくは、桃色ゲリラのHPをご覧ください。
桃色ゲリラ
画家としての増山麗奈さんの作品は、彼女のHPで見ることができます。
増山麗奈
昨日紹介した「LAN TO IRAQ in OKinawa〜イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ」については、下記で詳細が読めます。
LAN TO IRAQ
では、以下、増山麗奈さんのインタビュー資料です。
「桃色ゲリラ」という反戦パフォーマンス集団の中心人物、画家の増山麗奈さんが、二月に バグダッドに行ってきた。イラクの画家たちと交流し、イラク・アート展をプロデュースするためだ。芸術家九名の作品、絵画一八点、アニメーション作品一点を購入し、三月から四月にかけて新宿のギャラリー・バーなどで展覧会を開催した。芸術家として世界と向き合うこととは何か、増山さんの本音を聞いた。
いま、この時代に向き合う
現代美術の現場から
――増山さんは、どんなふうに絵を描いてきたんですか?
「私は肖像画を描くことが多くてね、人がデジタル社会の中で消えていくような世の中だから、アナログな人間の情けなさや、あったかさ、しようもなさというのを描きたいのね。失われてしまう人間的なものに対する悲しさというのはずっと感じていて、そういうものは自分の絵のなかに描きたい、そのなかにちゃんと人がいるような絵を描きたいんです」
――絵は大学の頃から?
「そうですね。大学に入る前にヒマラヤを見て、夕陽がたいそう美しかったから、芸術家になるぞと決めたのね。この世で美しいものを人が創ったのを見たことがなかったから、私が創ろうと思ったの。でも周りは美術オタクばっかりでどうにも肌が合わなくて、芸大で油絵科に入ったんだけど、すぐに劇団に入って演劇を始めちゃった」
――それが「桃色ゲリラ」の反戦パフォーマンスにもつながっている?
「そうかも知れない。私がやってきたことはパフォーマンスと絵を描くことなんです。生きていくためには何かを吐き出さないと毒が溜まってしまうようなところがあってね、失恋すると裸になってボディペインティングして踊っていると、なんか翌日はすっきりしちゃうみたいな、そういうところがありますね、表現って。
絵を描いていて思うことは、人間のなかには赤い生命の光のようなものがあって、それが最初はまあるいんだけど、だんだん傷ついたり、歪んだりして、ショワショワになっちゃったりしてるのを見ると、辛いんだよね。だから人の顔を描く時も、その人の命に届け! って思いで描いている。その思いは伝わるもので、そういう人が私の絵を買ってくれています。
現代美術と言うけれど、いまここに私は生きていて、生きつづけるためにやる表現というのが自然に現代美術になるわけで、現代美術を模倣しても何の意味もないんだよね。私は私の仕事をやるだけです」
――今回は、なぜイラクに?
「イラクのアーティストたちが、いまこの世界をどのように感じているのかに関心があったんです。テレビや新聞の二次情報じゃなくて、私自身がそのことをダイレクトに感じたかった。
それから、イラク・アート展を企画して、彼らの作品を買いに行きたいと思ったんです。もし自分がそういう状態にあったら、作品を見てくれて、買ってくれたら応援してもらってると思って、元気が出るじゃないですか。そう思ってお金を集めて、イラクの画家の作品を購入する資金を作ったんです」
――それは「NO WAR」を掲げてきた桃色ゲリラにとって必然的な流れだった?
「私たちは戦争反対と言ってきたけれど、日本が戦争に加担して、結局戦争を止められなかった。私たちには選挙権があって政権を変えられたのに、それができなかった。ごめんなさいという気持ちがあるよ。その罪を償いたいという気持ちと、イラクの画家に会ってみたいという思いが重なっていったんです。
ところが、展覧会の計画を美術関係者に相談したら反対されましたね。美術と政治は違うものだから、これ以上、政治に関わるなって言うんだよね。でも、それって時代に対して感覚が鈍いんじゃないのって思ったの。いまこの時代に向き合って、生み出されるものが現代アートなんだから、イラク人の画家と交流することがアートと関係ないだなんて、おかしいと思わない? 結局、スポンサーも付かず、自分のお金で行っちゃえとなって、クッソー、見てやがれー、みんながびっくりするようなイラクの作品を持って帰ってやるぞーと思ったの」
――バグダッドにはどうやって入ったんですか?
「ヨルダンのアンマンから車をチャーターするんです。陸路一〇時間くらい。夜一一時頃にアンマンを出発して、明け方の五時くらいに国境で入国審査を受け、バグダッドには昼くらいに到着します。私は、NPOのピースオンのスタッフと二人で入りました。
車は安いのだと一万円もかからずに行けるんだけど、車によってかなり値段の開きがあるんですね。私が乗ったのはメチャクチャ安い車。結果、大丈夫だったんですが、バグダッドに着く直前に、何回かエンストした時は怖かった。まだ太陽の昇らない真っ暗な道で、一時間くらい待たされたんです。危険地帯と言われていた場所で、ここで襲われたらどうしようと思いました。
ドライバーと盗賊がグルの場合があるらしいんです。ドライバーが頻繁に携帯でどこかに電話してるとか、トイレ休憩がやたら長いとか、警戒したほうがいい。結局、安全かどうかはドライバー次第なんですね。あとは運。プラス五〇ドルで武装したガードマンを雇うこともできるんだけど、それが安全かどうかは分からない。日本人記者で、強盗にあって頭に銃を突きつけられて、五〇〇ドルを奪われた人もいたようです」
――バグダッドの印象はどうでしたか?
「思っていたよりも活気はありましたね。みんなボロボロでくたびれてて、落胆してるのかと思ったんだけど、街は意外と明るい雰囲気でした。子どもたちは路上でワーッって遊んでるし、市場にはフルーツがいっぱい積まれていました。
ただ無政府状態なので、ゴミ収集車が来ないんです。街のいたるところにゴミが山積みになっている。これがメチャクチャ臭いんです。みんなゴミをポイポイ捨てちゃうしね。
それから停電が日常茶飯事で、ホテルでも一日に三、四回は止まるんですよ。ジェネレーターですぐ復活するんで慣れましたが、街中いたるところでジェネレーターの黒い煙が街中にもくもくとあがっていて、これがオイルの臭いと混ざってまた臭いんだ。とにかく街の空気はかなり悪かったですね」
生命の危険があるイラクで
輝いて見えた芸術家たち
――画家たちとは、どうやってコンタクトをしたんですか?
「最初、アンマンでハジムさんという亡命イラク人の画家と会って、彼のルートで何人か画家を紹介してもらいました。バグダッドに着いてからメールを出して、あとはアポなしでギャラリーに行って直接交渉しました。
最初、バグダッド芸術大学の隣にあるヘワード・ギャラリーというところに行きました。バグダッドのギャラリーは戦争で建物が壊されていたりするんですが、ちゃんと運営されていて、ヘワード・ギャラリーも戦争でも休まずオープンしていたと言います。画家たちはインターネットでヨーロッパの美術事情にも精通していて、展覧会やアートフェスティバルに出品している人もいます。そんなに閉ざされた環境にいるわけではないんですね」
――画家とはどんな交流ができましたか?
「ヘワード・ギャラリーで、ハニ・デリ・アリさんという画家と知り合ったんです。作品がギャラリーに飾ってあって、繊細な光を感じる抽象画でとてもいいなと思ったいたら、本人がそこにいらしたんですね。話しているうちに、滞在中に共同制作をしませんかと口説いてしまい、自宅のアトリエを訪問させていただくことになったんです。
ハニ・デリ・アリさんとは一日かけて、一つのキャンバスに二人で一緒に絵を描きました。日本人とイラク人の二人の顔が重なり合った作品になりました。彼は仲間たちと戦争で略奪され傷つけられた美術作品を修復する仕事をしていると言っていました。『政府と個人は違うから』と言って、一人の日本人としての私にはとても親切にしてくれました。
もう一人、印象深かったのは、ウィサム・ラディという画家です。今回私は、自分の絵と『NO WAR』の文字が印刷されてた桃色ゲリラのカードを持って行って自己紹介代わりに渡していたんですが、彼はそのカードを受け取ってはくれませんでした。
『僕はフセイン政権の崩壊を待ち望んでいたから』と言うんです。ウィサムはフセイン政権下で反フセインの立場を貫いてきた画家で、投獄された経験もある人です。ガールフレンドが当局に拉致されて、ウダイ(フセインの息子、米軍に殺害された)に暴行されたと言うんです。その話をしている時に、ウィサムは泣いていました。
ウィサムと二度目に会った時に、私に似た女性の肖像画に、「RENA NO WAR」と書いてくれました。どんな心境の変化があったのか分かりませんが、彼とはいつか二人展をやりたいと思っています」
――イラクに行って感じたことは?
「もしかしたら死ぬかも知れないという感覚をどこか肌で感じていたんでしょうね。バグダッドからアンマンの国境を越えて戻ってきた時に、死の恐怖から解放されたような気がして、目の前に(娘の)凛杏(りあん)の顔がパーッと浮かんできて、早く会いたーいって思いました。
イラクの画家たちは、みんな気骨があっていい人たちでした。生きていくだけで命がけなんですね。死ぬかも知れないというイラクの地で生きている人々が生き生きと見えるのはなぜだろうと思いました。私たちが持っていない力のようなものを感じましたね」
増山麗奈さんインタヴュー
「POCO21」6月号掲載
註:以下の文章は、2004年3月、私が画家の増山麗奈さんにインタビューをしたものです。桃色ゲリラの「LAN TO IRAQ」プロジェクトの資料としてお読みください。増山さんは、高遠菜穂子さんら三人の日本人人質誘拐事件が起こる前の2月にバグダッドに入り、イラクの現代美術家と接触・交流し、約20点の作品を購入しています。それが、イラク現代美術展「LAN TO IRAQ」へと結びついています。詳しくは、桃色ゲリラのHPをご覧ください。
桃色ゲリラ
画家としての増山麗奈さんの作品は、彼女のHPで見ることができます。
増山麗奈
昨日紹介した「LAN TO IRAQ in OKinawa〜イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ」については、下記で詳細が読めます。
LAN TO IRAQ
では、以下、増山麗奈さんのインタビュー資料です。
「桃色ゲリラ」という反戦パフォーマンス集団の中心人物、画家の増山麗奈さんが、二月に バグダッドに行ってきた。イラクの画家たちと交流し、イラク・アート展をプロデュースするためだ。芸術家九名の作品、絵画一八点、アニメーション作品一点を購入し、三月から四月にかけて新宿のギャラリー・バーなどで展覧会を開催した。芸術家として世界と向き合うこととは何か、増山さんの本音を聞いた。
いま、この時代に向き合う
現代美術の現場から
――増山さんは、どんなふうに絵を描いてきたんですか?
「私は肖像画を描くことが多くてね、人がデジタル社会の中で消えていくような世の中だから、アナログな人間の情けなさや、あったかさ、しようもなさというのを描きたいのね。失われてしまう人間的なものに対する悲しさというのはずっと感じていて、そういうものは自分の絵のなかに描きたい、そのなかにちゃんと人がいるような絵を描きたいんです」
――絵は大学の頃から?
「そうですね。大学に入る前にヒマラヤを見て、夕陽がたいそう美しかったから、芸術家になるぞと決めたのね。この世で美しいものを人が創ったのを見たことがなかったから、私が創ろうと思ったの。でも周りは美術オタクばっかりでどうにも肌が合わなくて、芸大で油絵科に入ったんだけど、すぐに劇団に入って演劇を始めちゃった」
――それが「桃色ゲリラ」の反戦パフォーマンスにもつながっている?
「そうかも知れない。私がやってきたことはパフォーマンスと絵を描くことなんです。生きていくためには何かを吐き出さないと毒が溜まってしまうようなところがあってね、失恋すると裸になってボディペインティングして踊っていると、なんか翌日はすっきりしちゃうみたいな、そういうところがありますね、表現って。
絵を描いていて思うことは、人間のなかには赤い生命の光のようなものがあって、それが最初はまあるいんだけど、だんだん傷ついたり、歪んだりして、ショワショワになっちゃったりしてるのを見ると、辛いんだよね。だから人の顔を描く時も、その人の命に届け! って思いで描いている。その思いは伝わるもので、そういう人が私の絵を買ってくれています。
現代美術と言うけれど、いまここに私は生きていて、生きつづけるためにやる表現というのが自然に現代美術になるわけで、現代美術を模倣しても何の意味もないんだよね。私は私の仕事をやるだけです」
――今回は、なぜイラクに?
「イラクのアーティストたちが、いまこの世界をどのように感じているのかに関心があったんです。テレビや新聞の二次情報じゃなくて、私自身がそのことをダイレクトに感じたかった。
それから、イラク・アート展を企画して、彼らの作品を買いに行きたいと思ったんです。もし自分がそういう状態にあったら、作品を見てくれて、買ってくれたら応援してもらってると思って、元気が出るじゃないですか。そう思ってお金を集めて、イラクの画家の作品を購入する資金を作ったんです」
――それは「NO WAR」を掲げてきた桃色ゲリラにとって必然的な流れだった?
「私たちは戦争反対と言ってきたけれど、日本が戦争に加担して、結局戦争を止められなかった。私たちには選挙権があって政権を変えられたのに、それができなかった。ごめんなさいという気持ちがあるよ。その罪を償いたいという気持ちと、イラクの画家に会ってみたいという思いが重なっていったんです。
ところが、展覧会の計画を美術関係者に相談したら反対されましたね。美術と政治は違うものだから、これ以上、政治に関わるなって言うんだよね。でも、それって時代に対して感覚が鈍いんじゃないのって思ったの。いまこの時代に向き合って、生み出されるものが現代アートなんだから、イラク人の画家と交流することがアートと関係ないだなんて、おかしいと思わない? 結局、スポンサーも付かず、自分のお金で行っちゃえとなって、クッソー、見てやがれー、みんながびっくりするようなイラクの作品を持って帰ってやるぞーと思ったの」
――バグダッドにはどうやって入ったんですか?
「ヨルダンのアンマンから車をチャーターするんです。陸路一〇時間くらい。夜一一時頃にアンマンを出発して、明け方の五時くらいに国境で入国審査を受け、バグダッドには昼くらいに到着します。私は、NPOのピースオンのスタッフと二人で入りました。
車は安いのだと一万円もかからずに行けるんだけど、車によってかなり値段の開きがあるんですね。私が乗ったのはメチャクチャ安い車。結果、大丈夫だったんですが、バグダッドに着く直前に、何回かエンストした時は怖かった。まだ太陽の昇らない真っ暗な道で、一時間くらい待たされたんです。危険地帯と言われていた場所で、ここで襲われたらどうしようと思いました。
ドライバーと盗賊がグルの場合があるらしいんです。ドライバーが頻繁に携帯でどこかに電話してるとか、トイレ休憩がやたら長いとか、警戒したほうがいい。結局、安全かどうかはドライバー次第なんですね。あとは運。プラス五〇ドルで武装したガードマンを雇うこともできるんだけど、それが安全かどうかは分からない。日本人記者で、強盗にあって頭に銃を突きつけられて、五〇〇ドルを奪われた人もいたようです」
――バグダッドの印象はどうでしたか?
「思っていたよりも活気はありましたね。みんなボロボロでくたびれてて、落胆してるのかと思ったんだけど、街は意外と明るい雰囲気でした。子どもたちは路上でワーッって遊んでるし、市場にはフルーツがいっぱい積まれていました。
ただ無政府状態なので、ゴミ収集車が来ないんです。街のいたるところにゴミが山積みになっている。これがメチャクチャ臭いんです。みんなゴミをポイポイ捨てちゃうしね。
それから停電が日常茶飯事で、ホテルでも一日に三、四回は止まるんですよ。ジェネレーターですぐ復活するんで慣れましたが、街中いたるところでジェネレーターの黒い煙が街中にもくもくとあがっていて、これがオイルの臭いと混ざってまた臭いんだ。とにかく街の空気はかなり悪かったですね」
生命の危険があるイラクで
輝いて見えた芸術家たち
――画家たちとは、どうやってコンタクトをしたんですか?
「最初、アンマンでハジムさんという亡命イラク人の画家と会って、彼のルートで何人か画家を紹介してもらいました。バグダッドに着いてからメールを出して、あとはアポなしでギャラリーに行って直接交渉しました。
最初、バグダッド芸術大学の隣にあるヘワード・ギャラリーというところに行きました。バグダッドのギャラリーは戦争で建物が壊されていたりするんですが、ちゃんと運営されていて、ヘワード・ギャラリーも戦争でも休まずオープンしていたと言います。画家たちはインターネットでヨーロッパの美術事情にも精通していて、展覧会やアートフェスティバルに出品している人もいます。そんなに閉ざされた環境にいるわけではないんですね」
――画家とはどんな交流ができましたか?
「ヘワード・ギャラリーで、ハニ・デリ・アリさんという画家と知り合ったんです。作品がギャラリーに飾ってあって、繊細な光を感じる抽象画でとてもいいなと思ったいたら、本人がそこにいらしたんですね。話しているうちに、滞在中に共同制作をしませんかと口説いてしまい、自宅のアトリエを訪問させていただくことになったんです。
ハニ・デリ・アリさんとは一日かけて、一つのキャンバスに二人で一緒に絵を描きました。日本人とイラク人の二人の顔が重なり合った作品になりました。彼は仲間たちと戦争で略奪され傷つけられた美術作品を修復する仕事をしていると言っていました。『政府と個人は違うから』と言って、一人の日本人としての私にはとても親切にしてくれました。
もう一人、印象深かったのは、ウィサム・ラディという画家です。今回私は、自分の絵と『NO WAR』の文字が印刷されてた桃色ゲリラのカードを持って行って自己紹介代わりに渡していたんですが、彼はそのカードを受け取ってはくれませんでした。
『僕はフセイン政権の崩壊を待ち望んでいたから』と言うんです。ウィサムはフセイン政権下で反フセインの立場を貫いてきた画家で、投獄された経験もある人です。ガールフレンドが当局に拉致されて、ウダイ(フセインの息子、米軍に殺害された)に暴行されたと言うんです。その話をしている時に、ウィサムは泣いていました。
ウィサムと二度目に会った時に、私に似た女性の肖像画に、「RENA NO WAR」と書いてくれました。どんな心境の変化があったのか分かりませんが、彼とはいつか二人展をやりたいと思っています」
――イラクに行って感じたことは?
「もしかしたら死ぬかも知れないという感覚をどこか肌で感じていたんでしょうね。バグダッドからアンマンの国境を越えて戻ってきた時に、死の恐怖から解放されたような気がして、目の前に(娘の)凛杏(りあん)の顔がパーッと浮かんできて、早く会いたーいって思いました。
イラクの画家たちは、みんな気骨があっていい人たちでした。生きていくだけで命がけなんですね。死ぬかも知れないというイラクの地で生きている人々が生き生きと見えるのはなぜだろうと思いました。私たちが持っていない力のようなものを感じましたね」
planet_knsd at 06:41 Permalink
「LAN TO IRAQ in OKINAWA」 〜イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ

友人の芦澤礼子さんからメールが来て、私たちが沖縄で行った前島アートセンターの「LAN TO IRAQ in OKINAWA」展でのスナップ写真(中・右)が送られてきました。これは、桃色ゲリラ代表の増山麗奈さん、PEACE ONの相澤恭行さんが企画したイラク現代美術展です。芦澤さんはそのスタッフとして参加して、会場でお目にかかりました。写真中は、相澤さんと、写真右は、芦澤さんと。うちらの写真はただおふざけにしか見えないけれど(ごめんなさい、こんなんで)、展覧会は増山さんと相澤さんが、イラクの現代美術家と直接出会って購入した作品を展示するという画期的な企画でした。これまでに、東京、ソウル、沖縄で巡回し、東京展のときには私も増山さんのインタビューをさせていただきました。
「LAN TO IRAQ in OKINAWA」展については、桃色ゲリラのサイトをご覧ください。
LAN TO IRAQ
写真左は、那覇市パレット久茂地前で行われた増山さんらのストリート・ペインティング。この現場は残念ながら見逃しちゃったけど、展覧会会場でその作品は見ることができました。芦澤さんによれば、「LAN TO IRAQ in OKINAWA」の報告会&展覧会が下記の日程であるそうです。ご興味のある方は、是非、お越しください。会場の「らくだ」(千歳船橋)は奇遇にも、寿「kotobuki]のライヴがあったところだにゃあー。
また、増山麗奈さんは11月25日まで、西麻布MUSE(港区西麻布4−1−1B1f)で「paint exhibition:LAN TO FACE」を開催中。サイト情報によれば、増山さんが「会場で毎日オープン前12時から入り口で大きな絵を書いてます」とありますね。こちらの方も併せて足をお運びください。
私は、桃色ゲリラのファンなので、勝手に宣伝しちゃいます。
■■■お知らせ■■■
☆報告会&展覧会☆
LAN TO IRAQ in OKINAWA
イラク現代アート、バグダッドから沖縄へ、そして東京へ
LAN TO IRAQは、画家の増山麗奈さん(「桃色ゲリラ+」代表)とイラク支援NPO「PEACE ON」代表の相澤恭行さんが企画したイラク現代アートコレクションです。この2月に増山さんと相澤さんはイラクを訪れ、戦火の下で描き続けるアーティストたちと交流し、作品を約20点購入しました。この作品は3月に東京で初公開され、その後5月から9月まで韓国・ソウルで展示され、10月に沖縄で「那覇10・10空襲展」と「前島アートセンター」で公開されました。
増山さんは10月11日には沖縄在住の若手女性アーティスト2名と共に沖縄県庁前広場でライブペインティング「LAN TO FACE」を行いました。相澤さんはこの7月から8月に政権移譲後のイラクに滞在し、支援の傍ら、新たに絵を購入してきました。増山さんと相澤さんは、那覇10・10空襲展の期間中に沖縄の基地と戦跡を巡り、イラクに出発する米軍のフェリーに遭遇したり、辺野古でカヌー隊の人々に会ったり、沖縄戦で多くの人々が亡くなったガマの中を体験し、「イラクと沖縄がつながっている」ことを実感しました。
12月5日、LAN TO IRAQの始めから今までを、増山さんと相澤さんが映像を交えて報告します。報告会に合わせて展覧会も開催します。LAN TO IRAQは単に「戦火の下で描き続けるイラクの人々の作品」という話題性だけではなく、若手から巨匠と言われる作家まで網羅し、世界最古の文明を源流とするアートとしても見ごたえのある優れた作品群です。悲惨な情勢ばかりが報道されるイラクの中に存在する豊かな文化の息吹を、感じていただけたら幸いです。
【報告会】2004年12月5日(日)14:00〜17:00
増山麗奈&相澤恭行トーク イラク&沖縄現地ビデオ上映
会場:レストラン「らくだ」 03-5313-8151 参加費:1000円
世田谷区南烏山6-8-7 楽多ビル2F
京王線千歳烏山駅西口徒歩5分
【展覧会】11月29日(月)18:00から 12月5日(日)18:00まで
イラク現代アート作品を15点ほど展示予定(5日には絵の販売も行います)
会場:レストラン「らくだ」11:30〜16:45
※夜はライブ・バー「TUBO(つぼ)」として営業しています。18:00〜24:00
◆お店ですので、なにか一品御注文下さい。11月30日、12月2日、4日の夜はライブのため、展示はごらんいただけません。
★共催★
PEACE ON TEL/FAX 03-3823-5508
株式会社 楽多 03-5313-8151
November 18, 2004
planet_knsd at 10:42 Permalink
なぜ、ウォン・カーウァイの「2046」はクソか
私がウォン・カーウァイの「2046」を不満に思うのは、映像美の厚塗りで女優の身体性が完全に封じ込められているという点です。カーウァイのフェティッシュな映像(撮影はクリストファー・ドイル)は、抑制的なエロティシズムを狙っているのでしょうが、「2046」は前作「花様年華」と比べてより観念的で、しかも男のナルシズム映画として成立しています。エロスはチャイナドレスの下に縛り上げられ、女優の感情表現はナルシズム的な映像美と観念操作によって殺されていきます。従って、これは抑制的というよりも抑圧的であり、エロティックですらありません。きわめて暴力的なナルシズム映画であるように私には感じられました。いっぺんの暴力も描かれておらず、むしろ男の優しさが強調されているのですが、これは静かな観念の暴力です。エロスは観念によって封じ込められ、映画はまったくカタルシスのないものになっています。
観念映画として面白いならまだしも、「2046」は男の自己完結的なナルシズム映画となっており、他者を「殺して」なお自己は優しいと肯定する、支離滅裂でご都合主義的な男の映画になっています。主人公の官能小説家(トニー・レオン)の分身として登場する日本人(キムタク)は、ナルシスの鏡としてのアンドロイド(フェイ・ウォン)を愛し、心の通い合わない「恋」に傷つき、「2046」という「意識の消失点」を前に右往左往するという設定。他者を認めることなく空転する男は、目の前の身悶えする女(チャン・ツィイー)の苦悩さえ受け止めえず、見て見ぬふりをし、自己の内面世界へと逃げ続けます。こんな男が「優しい」わけもなく、「あなたのような優しい男と初めて会った」などと抜けぬけと女(コン・リー)に言わせる作者の欺瞞的な自己肯定に私は辟易としました。
他者への侵犯も他者からの侵犯もない映画にエロティシズムが生まれるわけもなく、ただただ自己完結していく映像に感動が生まれるでしょうか。ひりひりする情念すらも感じられなかったのです。
観念映画として面白いならまだしも、「2046」は男の自己完結的なナルシズム映画となっており、他者を「殺して」なお自己は優しいと肯定する、支離滅裂でご都合主義的な男の映画になっています。主人公の官能小説家(トニー・レオン)の分身として登場する日本人(キムタク)は、ナルシスの鏡としてのアンドロイド(フェイ・ウォン)を愛し、心の通い合わない「恋」に傷つき、「2046」という「意識の消失点」を前に右往左往するという設定。他者を認めることなく空転する男は、目の前の身悶えする女(チャン・ツィイー)の苦悩さえ受け止めえず、見て見ぬふりをし、自己の内面世界へと逃げ続けます。こんな男が「優しい」わけもなく、「あなたのような優しい男と初めて会った」などと抜けぬけと女(コン・リー)に言わせる作者の欺瞞的な自己肯定に私は辟易としました。
他者への侵犯も他者からの侵犯もない映画にエロティシズムが生まれるわけもなく、ただただ自己完結していく映像に感動が生まれるでしょうか。ひりひりする情念すらも感じられなかったのです。
November 17, 2004
planet_knsd at 11:00 Permalink
チャン・ツィイーはいい、ただ映画はクソだ
那覇市長選、辺野古ボーリング調査掘削作業開始、ファルージャ、拉致家族問題、メキシコ月のピラミッドで翡翠の人形発掘と、書きたいことは山々あれど、ちょいと仕事が忙しくなってきた。
でも、これだけは書きたい。ウォン・カーウァイの「2046」はクソだということだ。確かに、チャン・ツィイーのチャイナドレスは可愛いし、濃厚なベッドシーンは見応えがあるけど、豪華な女優陣を使ったわりには映画は空疎だった。特にキムタク、いらねえよ。
カーワァイのフェチ映像は相変わらずで、チャイナドレスの衣擦れの音が聞こえてきそうな耽美的ムードがあるにはあるが、ただそれだけの映画。「花様年華」のほうがずっと良い。不在への情熱、繰り返されるすれ違い、心の通い合わない虚ろなるセックス・・・。
「2046」の数字にさしたる意味はなく、まあ、「意識の消滅点」「宇宙の暗黒点」とでも言うような、死/エロスの対位法として象徴化されている。つまり、虚しいだけのナルシズム映画。これを俺は耽美とは呼ばない。思わず、あのチャン・ツィイーを泣かせるなよなー、とトニー・レオンに叫びたくなる。あの虚ろな男は永遠に虚ろなんだよねー。
その昔、パークハイアットでマギー・チャンとトニー・レオンのインタビューに立ち会ったことがある。マギー・チャン様の美しかったこと。切れ味爽やかないい女だった。
チャン・ツィイーは良いです。苦しげにしぼりだす情念が美しい。
ただ、映画はクソです。
だって、心も体も、映像の美意識に押さえ込まれているんだもん。
せめて女を泣かせろ。心の限り泣かせろ。そのこともさせない男のダンディズムなどクソだ。
でも、これだけは書きたい。ウォン・カーウァイの「2046」はクソだということだ。確かに、チャン・ツィイーのチャイナドレスは可愛いし、濃厚なベッドシーンは見応えがあるけど、豪華な女優陣を使ったわりには映画は空疎だった。特にキムタク、いらねえよ。
カーワァイのフェチ映像は相変わらずで、チャイナドレスの衣擦れの音が聞こえてきそうな耽美的ムードがあるにはあるが、ただそれだけの映画。「花様年華」のほうがずっと良い。不在への情熱、繰り返されるすれ違い、心の通い合わない虚ろなるセックス・・・。
「2046」の数字にさしたる意味はなく、まあ、「意識の消滅点」「宇宙の暗黒点」とでも言うような、死/エロスの対位法として象徴化されている。つまり、虚しいだけのナルシズム映画。これを俺は耽美とは呼ばない。思わず、あのチャン・ツィイーを泣かせるなよなー、とトニー・レオンに叫びたくなる。あの虚ろな男は永遠に虚ろなんだよねー。
その昔、パークハイアットでマギー・チャンとトニー・レオンのインタビューに立ち会ったことがある。マギー・チャン様の美しかったこと。切れ味爽やかないい女だった。
チャン・ツィイーは良いです。苦しげにしぼりだす情念が美しい。
ただ、映画はクソです。
だって、心も体も、映像の美意識に押さえ込まれているんだもん。
せめて女を泣かせろ。心の限り泣かせろ。そのこともさせない男のダンディズムなどクソだ。
November 14, 2004
planet_knsd at 20:38 Permalink
『海のふた』
よしもとばなな著
ロッキング・オン 1500円+税
『High and dry』に引き続き、よしもとばななを読む。名嘉睦稔さんの版画が挿入された美しい本。よしもとばななが35年間通い続けているという西伊豆の土肥の町とその海に捧げられている。
海辺でかき氷屋を始めたまりと、顔にやけどの痕のあるはじめちゃんという少女の出会いの物語。はじめちゃんはまりの母親の友人の娘で、大切に育ててもらったおばあちゃんが亡くなり、ひと夏まりの家で預かることになった。かき氷屋を手伝うようになるはじめちゃんとまりの会話で全編が成り立ち、さびれていく海辺の町で、人と人のつながりや自然への愛情が失われていくことへの二人の哀感が言葉にこめられていく。かき氷という消えていく「きれない時間」を売っているまりと、すべての思い出は「巨大な闇に吸い込まれていく」ように感じるはじめちゃんが、伝え残すともしびのような心を語っていく。「思わぬものが、思わぬ形でときを超えるのかも」という言葉が、二人のささやかな夢を紡いでいく。
「夢をかなえるだのなんだのと言っても、毎日はとても地味なものだ。」
「世の中はきれいごとではないとは言っても、きれいごとというのはそこそこ地味に、目立たずにちゃんと存在しているようだ。」(『海のふた』より)
読み終えると、ばななさんの言うこの「地味」ということが、とても素敵なことのように思えてくる。夢や、美しいものは、そのような一瞬一瞬のなかに、ある。そのことに気がつかないともったいないし、心がつながっていかないということだね。
人間はあまりにも多くの情報に振り回されていて、目の前の小さな世界に充分意識が集中できていない。そのことがどれだけ不幸を生み出していて、人間と世界とのつながりを疎かにしていることか。
僕はいつも思うのだけれど、世界を知りたいということは欲望であり好奇心でもあるけれど、それは目の前の小さな世界と大きな世界をつなげたいと思うからだ。僕たちは悲しむためや怒るために世界を知ろうとしているのではなく、目の前の小さな喜びが世界とつながっていると思うから世界のことを気にかけているのだ。
よしもとばななを読むと、目の前の小さな世界への眼差しがより強く意識されていく。それは、脳よりも身体的な世界とのかかわりを重視するようになっていく。つまり、からだを動かせということだ。
「どうして男の人って、どんどん深くて暗いものを求めていくんだろうね。」
「男の人はどんどん暗くて淋しいほうへ行って、女の人は毎日の中で小さな光を作るものなのかなあって。どっちもあって人類の車輪が回っていくのかも。」(『海のふた』より)
は、けだし名言。ここでは、男にとって女は「命綱」で、「なるべくしっかりしていて暗すぎず、大地に根をはっているほうがいいんだろうね」とある。そうそう、男は「深くて暗いもの」が大好きで、女が同じように「深くて暗い」とうまくはいかない。男は女の「明るさ」に感謝し、そこに「偉大なもの」を見るのだ。小説では、女にとって「深くて暗いこと」(宇宙につながるってことだね)は子供を産むことで、その勉強があるから「あとは毎日の中の小さな楽しさでやっていけるのかも」ともある。これは子供を産んだばななさんの実感だろうか。
ロッキング・オン 1500円+税

海辺でかき氷屋を始めたまりと、顔にやけどの痕のあるはじめちゃんという少女の出会いの物語。はじめちゃんはまりの母親の友人の娘で、大切に育ててもらったおばあちゃんが亡くなり、ひと夏まりの家で預かることになった。かき氷屋を手伝うようになるはじめちゃんとまりの会話で全編が成り立ち、さびれていく海辺の町で、人と人のつながりや自然への愛情が失われていくことへの二人の哀感が言葉にこめられていく。かき氷という消えていく「きれない時間」を売っているまりと、すべての思い出は「巨大な闇に吸い込まれていく」ように感じるはじめちゃんが、伝え残すともしびのような心を語っていく。「思わぬものが、思わぬ形でときを超えるのかも」という言葉が、二人のささやかな夢を紡いでいく。
「夢をかなえるだのなんだのと言っても、毎日はとても地味なものだ。」
「世の中はきれいごとではないとは言っても、きれいごとというのはそこそこ地味に、目立たずにちゃんと存在しているようだ。」(『海のふた』より)
読み終えると、ばななさんの言うこの「地味」ということが、とても素敵なことのように思えてくる。夢や、美しいものは、そのような一瞬一瞬のなかに、ある。そのことに気がつかないともったいないし、心がつながっていかないということだね。
人間はあまりにも多くの情報に振り回されていて、目の前の小さな世界に充分意識が集中できていない。そのことがどれだけ不幸を生み出していて、人間と世界とのつながりを疎かにしていることか。
僕はいつも思うのだけれど、世界を知りたいということは欲望であり好奇心でもあるけれど、それは目の前の小さな世界と大きな世界をつなげたいと思うからだ。僕たちは悲しむためや怒るために世界を知ろうとしているのではなく、目の前の小さな喜びが世界とつながっていると思うから世界のことを気にかけているのだ。
よしもとばななを読むと、目の前の小さな世界への眼差しがより強く意識されていく。それは、脳よりも身体的な世界とのかかわりを重視するようになっていく。つまり、からだを動かせということだ。
「どうして男の人って、どんどん深くて暗いものを求めていくんだろうね。」
「男の人はどんどん暗くて淋しいほうへ行って、女の人は毎日の中で小さな光を作るものなのかなあって。どっちもあって人類の車輪が回っていくのかも。」(『海のふた』より)
は、けだし名言。ここでは、男にとって女は「命綱」で、「なるべくしっかりしていて暗すぎず、大地に根をはっているほうがいいんだろうね」とある。そうそう、男は「深くて暗いもの」が大好きで、女が同じように「深くて暗い」とうまくはいかない。男は女の「明るさ」に感謝し、そこに「偉大なもの」を見るのだ。小説では、女にとって「深くて暗いこと」(宇宙につながるってことだね)は子供を産むことで、その勉強があるから「あとは毎日の中の小さな楽しさでやっていけるのかも」ともある。これは子供を産んだばななさんの実感だろうか。
planet_knsd at 01:30 Permalink
「シャローム・サラーム」






寿[kotobuki]の「シャローム・サラーム」という曲は、「シオン山」賞を受賞したラミ(パレスチナ人)とケレン(イスラエル人)との出会いから生まれ、パレスチナの平和を願って作られたものです。「シャローム」はヘブライ語で平和を、「サラーム」はアラビア語で平和を意味します。ラミとケレンについては、以下をご参照ください。
ナビィの、部屋「ラミとケレンが沖縄に来たのだ」
映像は、昨夜の寿[kotobuki]のぱちか村(高円寺)でのライヴより。
「シャローム サラ−ム」
1
太陽が出る国にも 星の元に守られてる国にも
神なき神なき聖地にも 光りあふれ ひかり踊る美しきこの島にも
シャローム サラ−ム シャローム サラ−ム
2
パパをママを失ったあの子にも 愛を声を夢を失ってゆくあの子にも
怒る事を奪われたあなたにも 泣く事さえも許されないあなたにも
シャローム サラ−ム シャローム サラ−ム
シャローム サラ−ム シャローム サラ−ム
美しさを見よ 美しさを見よ 美しさを見よ 美しさを見よ
世界にあなたの中に
美しさを見よ 美しさを見よ 美しさを見よ 美しさを見よ
こころに心に 映し出せ 描き出せ
その この 美しい心に
シャローム サラ−ム シャローム サラ−ム
シャローム サラ−ム シャローム サラ−ム
(作詞・作曲/ナビィ)
November 13, 2004
planet_knsd at 02:42 Permalink
やっている人はやっているね、SEX。

イギリスのコンドーム・メーカーが世界41カ国35万人に調査したところ、1年間のセックス回数は平均103回と出た。これを多いと見るか、少ないと見るか。月4回(週1回)として48回、月8回(週2回)として96回だから、これはけっこう多いんじゃないか。フランスが137回で、日本は最下位の46回。ガチョーン! 日本って超ヘタレなんやね。セックスレス大国ってこと。
「どのくらいのペースで」という質問には、いちばん多いのが「月1回から数回」で37%。「週1〜2回」が16%で、「週3回以上」がわずか2%。「この1年間で夫とは何回セックスしましたか」という質問には、なんと0回が26%もいる。1〜8回が21%、10〜18回が17%、20から28回が11%、100回以上がわずか3%しかいない。なんだか、涙が出る数字。
ただ、やっている人はやっている。子供が2人いるパート勤務のサチコさん(36歳)は、夫と月10回やっていて、なおかつ職場で猛烈にアタックされた年下の男性とも月2、3回ペースでエッチをしているという。お盛んですな。「結婚後、夫以外の男性とセックスしたことは?」には、17%が「ある」と答えている。今現在、夫以外に交際相手がいる女性(該当者55人)は、「この1年間で夫以外の男性と何回しましたか?」に、平均「13.0回」と答えている。やるもんです。
「1回のセックスにかける時間」は、いちばん多いのが「30〜40分」で36%。「10分未満」(最低)が9%、「50分以上」(最高)が13%となっている。面白いのは、夫婦の会話の時間とセックスの時間がほぼ比例していること。やっぱり、仲良しさんはしているわけだ。ちなみに、「夫婦で1日の会話時間は?」は、全体で平均73.5分。これは子供がいないと30代114.6分、40代120.5分と多くなる。
いろいろ考えさせられるデータだが、面白いのは出産とオルガズムの関係。「出産前と比べて夫とのセックスでオルガズムはどう変化しましたか?」で、「得やすくなった」人は子供1人が13%、子供2人が22%、子供3人が30%と、多産ほど感じやすくなっている。

ともあれ、骨盤底筋への意識は大事と先日三砂さんもおっしゃっていた。これは大いなる研究課題であるが、「小股の切れ上がったいい男」とは言わないので、男の場合はどうすればいいのか。やはり、うち鍛えるものが違うんだろうなあ(笑)。
最後に、AERAのセックスレポートの感想。ひとことで言えば、女性の身体性(セクシャリティ)は痛めつけられているなーってこと。これはどこから取り戻せるんだろう。なぜ、日本人(夫婦)はセックスレスで平気なのだろう。しないんだったら、他でやればって思う。むろんセックスだけが男女の絆とは思わないが、セックスレスで夫婦を続けていられるというのがどうにも私には分からない。
男の側から「仕事とセックスは家庭に持ち込まない」という冗句があるが、そうであれば妻はただの「お母さん」になってしまうなあ。「お母さん」と「お父さん」でいいんだろうか。性的でないって魅力的でないってことでしょ。斎藤学さんがおっしゃっていました。自分のセクシャリティは自分でデザインしろって。そして、パートナーシップって何だろう。私はそこにエロスがあったほうがいいと思う。エロス的であることは親和的であることなので、触れることから始まるだろう。するしないではなく、エロス的であること。そのことを心がけたいものだにゃー。爺さんになっても(笑)。
そうそう、三砂さんから聞いたいい話。ブラジルでは、みんなで赤ちゃんを触るんだって。赤ちゃんは触りたくなるオーラを発しているとか。だから、キスさせてーとか、抱かせてーとかが普通なわけ。ところが日本では、赤ちゃんが発しているエロス的なオーラさえ気づかない人が多い。それだけ身体性に鈍感になっているわけだ。最近日本では自分の子供を他人に抱かせなかったり、抱かせてーと言い出しにくい雰囲気があったりする。日本人って触れ合うことが下手糞なんだよね。ここらあたりからどうにかしないと、エロス的社会にはならないな、きっと。
画像は、タマラド・レンピッカ「アダムとイヴ」。
November 11, 2004
planet_knsd at 15:36 Permalink
ファルージャへの祈り

静寂と轟音。生と死。幻影のような、しじまの風景。
この光のふりそそぐ大地に、人々は住んでいる――。
ファルージャ情報は、Read JarrarさんのBlogも発見した。日本語で読める。Read in the Japanese Language
アラファトが死んだ。言葉がない。ただ、写真を眺めている。
英雄主義ではない、現実の力が必要とされている。
死への跳躍ではない、生命の力が――。
http://0000000000.net/p-navi/search/photo/index.html
「領土」とは各人がその内部のもっとも秘密の場所に、極限的な孤独のなかで創造すべきものであり、さらにその「領土」までも「解体」する自由が獲得されなければならない。そのときはじめて、「無限の、地獄のような透明」のうちに、各人の絶対的な等価性があらわになる。 ――鵜飼哲「ジャン・ジュネ『恋する虜』あとがき」
November 10, 2004
planet_knsd at 19:35 Permalink
「AERA」の現代の肖像に石川真生さん!
砂守さんが撮った、真生さんがお孫ちゃんたちに食べさせてあげている写真は圧巻です。真生さんもばあばだから、こうやって孫たちの面倒を見ているのですね。そういう話は本人からも聞きますし、私もここでご一緒させていただいたこともあります。
梯さんの文章は、真生さんがなぜ写真を始めたか、なぜ撮り続けてきたかの核心を書いており、また特に興味深かったのは、イラク戦争以後、真生さんが自衛隊の取材を再開していることのリポートでした。熊本の演習場にも同行取材をしているようで、真生さんの撮影現場の描写は迫真的です。
なぜ、青年たちは軍隊に入り、武器を取り、戦場へ行くのか、これは真生さんが沖縄海兵隊と付き合っていくなかで根本的に問わざるを得なかったテーマだと思います。特に4月のファルージャ攻撃では、沖縄海兵隊が主力部隊となりました。自衛隊員は米兵とは異なりますが、任務として人を殺すことが想定されていることは変わりません。人間はなぜ、軍人として人を殺すことができるのか、人間は戦場でどう変わってしまうのか、そのことを自衛隊員はどう考え、感じているのか――。真生さんのカメラが何を写し出すのか、興味深く思います。

石川真生写真事務所
それから、NY写真展「永続する瞬間―沖縄と韓国」のHPとメルマガがあります。こちらもどうぞ、よろしく。
http://blog.livedoor.jp/newyorkphoto/
そして、もし良かったら、私が編集した石川真生さんの波乱万丈の自叙伝『沖縄ソウル』(太田出版)も是非、読んでくださいね。
planet_knsd at 04:08 Permalink
ファルージャ情報
皆さん、ファルージャ情報はこちらで得られます。
Falluja April 2004-the book
以下も参考にしてください。
「TUP速報」
「ナブルス通信」管理人ビーさんのBlog
「ナブルス通信」
Falluja April 2004-the book
以下も参考にしてください。
「TUP速報」
「ナブルス通信」管理人ビーさんのBlog
「ナブルス通信」
November 09, 2004
planet_knsd at 19:24 Permalink
『不安の正体!』
金子勝、アンドリュー・デウィット、藤原帰一、宮台真司共著
筑摩書房 1,800円+税
ブッシュ再選の祝砲はファルージャ総攻撃になるだろうと思っていたら、案の定「殺人ショー」の幕開けである。作戦の実態は、イラクからの情報を得ない限り、「理解」などしえない。反米武装勢力の殲滅戦が始まっていることだけは確かである。そして、今なお多数の民間人が住んでいることも――。
ブッシュ再選をどう見るか、自分なりに考えたいと思い、本書を買った。だが、ここで展開されている高度な議論を私が批評しうるとは思わない。ましてや経済は疎い。ただの読書ノートとして書く。
ブッシュの方が日本経済にとって良い、という議論がある。帝国の力にすり寄っておいたほうがオコボレに預かれるだろう、という話である。オコボレがあなたの生活に潤いをもたらすかどうかは別にして。経済至上主義的に(つまり、儲かれば良いと考える場合)、この立論は分からぬでもない。帝国の権力に帰依すればするほど、利潤が上がるという考え方だ。
しかし、ブッシュ=ネオコンの政策は、どう見ても長期的な計画や展望がない。双子の赤字=経済の空洞化をさらなる戦争で突破しようとする手法は、世界経済を危うくしかねないのではないか、という議論もある。それに、ブッシュはただ選挙対策のために「神」を語っていたのかと思ったら、どうやら本気でキリスト教原理主義(福音派)に帰依しており、ブッシュと付き合うこと=南部のバイブル・ベルトのあの狂信的な連中の意のままになるのかと思うと鳥肌が立つ。いくらなんでも、もう少し知的でありたいと思わないか。それでも、ブッシュに帰依せざるを得ないと考える人は、つまり、「帝国には巻かれろ」という論理なのである。
世界を良くするか悪くするかではなく、儲かるか儲からないかで問題を立てるとき、ファルージャでの殺人ショーも「成功させなきゃ」(小泉)となる。ブッシュを支持するためには、人心に卑しく、殺人を肯定し、殺人こそが富を生むのだという倒錯(変態)へと至らなければならないようである。生きながら他者の死を望むことが倒錯でなくて何であろう。ブッシュや小泉やキリスト教原理主義者の知的水準まで降りなければ、いま世界で起こっていることを肯定することはなかなか難しい。ファック!
いや、世界は善悪の問題でなく、生活が良くなるか良くならないかの問題だよ、と大人の囁きが聞こえてきそうである。だが、ブッシュ=ネオコンが世界経済をどう危うくしつつあるかは、冷静な分析が必要だ。帝国のパワーに帰依することが自己の幸福と考える人は、どこまでブッシュに付き従えばいいか冷静に判断をすればよい。「勝ち馬に乗る」ことが幸福の源であるとするなら、殺人だって高笑いをしながら見られるに違いない。
『不安の正体!』は、アメリカの双子の赤字の内情を知るには便利な本である(楽観論と悲観論の幅がよく分かる)。「反戦平和」というロジックは、「国民の安全のために、いま戦争が必要だ」と考える議論のなかで有効性を持ちえなくなっている、という指摘(藤原帰一氏)は傾聴に値する。踏み込んで言えば、「帝国」化した世界では、「帝国」の利益に追随しなければ、自己の利益は確保しえないという問題である。藤原氏のアメリカを切り離して世界経済・世界秩序は成り立たないという論議は首肯し得る。従って、「帝国」の権力者を世界がどうコントロールするかという問題に、移行しつつある。つまり、「反米ナショナリズム」はナンセンスで、多国間主義によってしか「帝国」はコントロールし得ないという論理。藤原氏の議論は、世界秩序形成のための権力構成(調整)主義だと思う。現実政治はまさにそのようなものであろうと私も思う。そこにおける「戦争とは何か」「対テロ戦争とは何か」が問われなければいけないと思う。
私は、宮台真司氏の「与えられた環境のなかで最適化をめざす、効果的制御」こそが政治であるという考えに基本的に同意する。政治は普遍概念(真理)の現実化ではなく、機能主義的なコントロールの問題であるという考え方だ。その意味で、「人権」や「平和」や「公共性」や「民主主義」を普遍概念として語ることの危うさがある。誰のための「人権」であり、誰のための「平和」であり、誰のための「公共性」であるか、を問わなければいけない。世界が「帝国」化しているいま、すべての普遍概念が「帝国」の論理で語られているからだ(「帝国」の人権、平和、公共性、民主主義、というように)。そして、「帝国」の平和というエセ概念が、「排外主義的監視社会」(リスクの政治利用)を育んでいるのだ。
私は、藤原氏の権力構成主義に基本的に異論はないが、国家<社会、戦争<生命という、「生命主義的地域共同体論」を幸福論の原点に据えているので、「帝国」権力へのすり寄り論は個人的にまったく興味がない。金子勝氏、アンドリュー・デウィット氏の経済論は、迫力がある。資本主義=利潤の追求とは虚妄(世界の空洞)への帰依であるということがよく分かる。
つまり、「帝国」とは<神々の征服>(倫理の簒奪)ということに尽きる。「帝国」にひれ伏すことは、「空洞化された神」(原理主義)に帰依することになるだろう。
筑摩書房 1,800円+税

ブッシュ再選をどう見るか、自分なりに考えたいと思い、本書を買った。だが、ここで展開されている高度な議論を私が批評しうるとは思わない。ましてや経済は疎い。ただの読書ノートとして書く。
ブッシュの方が日本経済にとって良い、という議論がある。帝国の力にすり寄っておいたほうがオコボレに預かれるだろう、という話である。オコボレがあなたの生活に潤いをもたらすかどうかは別にして。経済至上主義的に(つまり、儲かれば良いと考える場合)、この立論は分からぬでもない。帝国の権力に帰依すればするほど、利潤が上がるという考え方だ。
しかし、ブッシュ=ネオコンの政策は、どう見ても長期的な計画や展望がない。双子の赤字=経済の空洞化をさらなる戦争で突破しようとする手法は、世界経済を危うくしかねないのではないか、という議論もある。それに、ブッシュはただ選挙対策のために「神」を語っていたのかと思ったら、どうやら本気でキリスト教原理主義(福音派)に帰依しており、ブッシュと付き合うこと=南部のバイブル・ベルトのあの狂信的な連中の意のままになるのかと思うと鳥肌が立つ。いくらなんでも、もう少し知的でありたいと思わないか。それでも、ブッシュに帰依せざるを得ないと考える人は、つまり、「帝国には巻かれろ」という論理なのである。
世界を良くするか悪くするかではなく、儲かるか儲からないかで問題を立てるとき、ファルージャでの殺人ショーも「成功させなきゃ」(小泉)となる。ブッシュを支持するためには、人心に卑しく、殺人を肯定し、殺人こそが富を生むのだという倒錯(変態)へと至らなければならないようである。生きながら他者の死を望むことが倒錯でなくて何であろう。ブッシュや小泉やキリスト教原理主義者の知的水準まで降りなければ、いま世界で起こっていることを肯定することはなかなか難しい。ファック!
いや、世界は善悪の問題でなく、生活が良くなるか良くならないかの問題だよ、と大人の囁きが聞こえてきそうである。だが、ブッシュ=ネオコンが世界経済をどう危うくしつつあるかは、冷静な分析が必要だ。帝国のパワーに帰依することが自己の幸福と考える人は、どこまでブッシュに付き従えばいいか冷静に判断をすればよい。「勝ち馬に乗る」ことが幸福の源であるとするなら、殺人だって高笑いをしながら見られるに違いない。
『不安の正体!』は、アメリカの双子の赤字の内情を知るには便利な本である(楽観論と悲観論の幅がよく分かる)。「反戦平和」というロジックは、「国民の安全のために、いま戦争が必要だ」と考える議論のなかで有効性を持ちえなくなっている、という指摘(藤原帰一氏)は傾聴に値する。踏み込んで言えば、「帝国」化した世界では、「帝国」の利益に追随しなければ、自己の利益は確保しえないという問題である。藤原氏のアメリカを切り離して世界経済・世界秩序は成り立たないという論議は首肯し得る。従って、「帝国」の権力者を世界がどうコントロールするかという問題に、移行しつつある。つまり、「反米ナショナリズム」はナンセンスで、多国間主義によってしか「帝国」はコントロールし得ないという論理。藤原氏の議論は、世界秩序形成のための権力構成(調整)主義だと思う。現実政治はまさにそのようなものであろうと私も思う。そこにおける「戦争とは何か」「対テロ戦争とは何か」が問われなければいけないと思う。
私は、宮台真司氏の「与えられた環境のなかで最適化をめざす、効果的制御」こそが政治であるという考えに基本的に同意する。政治は普遍概念(真理)の現実化ではなく、機能主義的なコントロールの問題であるという考え方だ。その意味で、「人権」や「平和」や「公共性」や「民主主義」を普遍概念として語ることの危うさがある。誰のための「人権」であり、誰のための「平和」であり、誰のための「公共性」であるか、を問わなければいけない。世界が「帝国」化しているいま、すべての普遍概念が「帝国」の論理で語られているからだ(「帝国」の人権、平和、公共性、民主主義、というように)。そして、「帝国」の平和というエセ概念が、「排外主義的監視社会」(リスクの政治利用)を育んでいるのだ。
私は、藤原氏の権力構成主義に基本的に異論はないが、国家<社会、戦争<生命という、「生命主義的地域共同体論」を幸福論の原点に据えているので、「帝国」権力へのすり寄り論は個人的にまったく興味がない。金子勝氏、アンドリュー・デウィット氏の経済論は、迫力がある。資本主義=利潤の追求とは虚妄(世界の空洞)への帰依であるということがよく分かる。
つまり、「帝国」とは<神々の征服>(倫理の簒奪)ということに尽きる。「帝国」にひれ伏すことは、「空洞化された神」(原理主義)に帰依することになるだろう。
planet_knsd at 13:32 Permalink
『High and Dry』

ばななさんの公式サイトはこちらです。
http://www.yoshimotobanana.com/index.html
November 08, 2004
planet_knsd at 01:25 Permalink
『血と骨』 血しぶく激情
すべては剥き出しで、あからさまであり、暴力的であった。その性欲も、金銭欲も、恥辱も、愛情も。噴出する激情は血しぶいており、他者を震えあがらせ、存在の全てを暗黒の一点へ呑み込んでしまう力があった。
映画は、1920年代に済州島から大阪に渡り、猪飼野の地で無頼を欲しいままにした悪の巨人、金俊平の物語である(原作は、梁石日)。これほどの暴力が噴出しながら、なぜか爽快感が残るのは不思議であった。それは金俊平(ビートたけし)の暴力が、いっさいの抑圧を跳ねのけ、感情を爆発させる純粋なエネルギーであったからだろうか。
雨中の玄関先で俊平が息子の朴武(オダギリジョー)を叩きのめすシーンでは、物語の展開とは無関係に涙が流れた。暴力を振るう俊平の背中に、朝鮮人の背負う矛盾ややりきれなさが凝縮しているように思われたからだ。それほどビートたけしの身体は、演技という虚構を越えて、身震いするほどのリアリティがあった。素晴らしいの一語である。
朝鮮人は概して感情を抑えない。泣き、喚き、愛し合い、殴りあう、その赤裸々な感情の衝突はときに悪無限的にも見えるが、これをもって朝鮮人が愚かしいとは私は思わない。確かに朝鮮人には集団的熱狂の気質がある。それは無益な衝突を引き起こし、エネルギーを空転させる危うさがある。しかし、ひとりの人間の動態として見るとき、感情のぶつかり合いが一瞬の火花を散らし、身体から横溢する力の揺らめきがエロティックでさえある。
私は理性など人間の薄皮一枚であると思っているので、人間の本質は身体(感情)から湧き上がる何ものかのなかにあると考える。鷹揚に言えば、理性とは身体(感情)をコントロールする智恵であって、身体から独立した観念の運動(イデオロギー)などないのである。私は矛盾だらけの感情の爆発に人間らしい活き活きしたものを見るし、泣いているときも笑っているときも怒っているときも、身体から横溢するエネルギーを美しいと思う。
(私は暴力や戦争が美しいと言っているのではない。エネルギーをどう昇華するかどう統御するかが、人間として問われるのである。横溢するものを制御したときに、かたちというものが生まれる。それは武道でも美学でも同じではないか。あるいは家族というものもまた、エネルギーのかたちであるだろう。)
『血と骨』もまた、薄皮一枚の理性を超えた身体の物語である。物語の背後には、朝鮮人の日本への移住、共産党の火炎瓶闘争への参加、北朝鮮への帰国運動という「理性の運動」が描かれているが、金俊平や李英姫(鈴木京香)らの生き抜く力と比べて、なんと薄っぺらで虚しいものであろうか。
理性は情動を確かに遠くへ連れ去ってはくれるが、それがいかなる身体の希求によるものか、多くは忘れがちになる。絶望が希望を生み、希望がまた絶望を生むのだ(映画で、政治闘争に挫折した張賛明が「北の詩人」として帰国運動に加わるように)。そこにおいて生活とは何かを問いたい。人間が何によって衝き動かされているか、おそらくは梁石日は知り尽くしているはずだ。
崔洋一監督の『血と骨』は、人間の身体的な物語を見事にダイナミックな絵巻として創り、堪能させてくれる、映画らしい映画である。人間の善悪を越えて、ただただ面白い時代の断片である。ビートたけし曰く、昭和には小・金俊平が無数に存在したという。とはいえ、八方破れの無頼漢はもはや絶滅種に近い。小説にせよ映画にせよ、この時代の人物像(群像)を描くことの価値の大きさをあらためて思った。日本映画のまごうことなき傑作が生まれたことを喜びたい。
映画は、1920年代に済州島から大阪に渡り、猪飼野の地で無頼を欲しいままにした悪の巨人、金俊平の物語である(原作は、梁石日)。これほどの暴力が噴出しながら、なぜか爽快感が残るのは不思議であった。それは金俊平(ビートたけし)の暴力が、いっさいの抑圧を跳ねのけ、感情を爆発させる純粋なエネルギーであったからだろうか。
雨中の玄関先で俊平が息子の朴武(オダギリジョー)を叩きのめすシーンでは、物語の展開とは無関係に涙が流れた。暴力を振るう俊平の背中に、朝鮮人の背負う矛盾ややりきれなさが凝縮しているように思われたからだ。それほどビートたけしの身体は、演技という虚構を越えて、身震いするほどのリアリティがあった。素晴らしいの一語である。
朝鮮人は概して感情を抑えない。泣き、喚き、愛し合い、殴りあう、その赤裸々な感情の衝突はときに悪無限的にも見えるが、これをもって朝鮮人が愚かしいとは私は思わない。確かに朝鮮人には集団的熱狂の気質がある。それは無益な衝突を引き起こし、エネルギーを空転させる危うさがある。しかし、ひとりの人間の動態として見るとき、感情のぶつかり合いが一瞬の火花を散らし、身体から横溢する力の揺らめきがエロティックでさえある。
私は理性など人間の薄皮一枚であると思っているので、人間の本質は身体(感情)から湧き上がる何ものかのなかにあると考える。鷹揚に言えば、理性とは身体(感情)をコントロールする智恵であって、身体から独立した観念の運動(イデオロギー)などないのである。私は矛盾だらけの感情の爆発に人間らしい活き活きしたものを見るし、泣いているときも笑っているときも怒っているときも、身体から横溢するエネルギーを美しいと思う。
(私は暴力や戦争が美しいと言っているのではない。エネルギーをどう昇華するかどう統御するかが、人間として問われるのである。横溢するものを制御したときに、かたちというものが生まれる。それは武道でも美学でも同じではないか。あるいは家族というものもまた、エネルギーのかたちであるだろう。)
『血と骨』もまた、薄皮一枚の理性を超えた身体の物語である。物語の背後には、朝鮮人の日本への移住、共産党の火炎瓶闘争への参加、北朝鮮への帰国運動という「理性の運動」が描かれているが、金俊平や李英姫(鈴木京香)らの生き抜く力と比べて、なんと薄っぺらで虚しいものであろうか。
理性は情動を確かに遠くへ連れ去ってはくれるが、それがいかなる身体の希求によるものか、多くは忘れがちになる。絶望が希望を生み、希望がまた絶望を生むのだ(映画で、政治闘争に挫折した張賛明が「北の詩人」として帰国運動に加わるように)。そこにおいて生活とは何かを問いたい。人間が何によって衝き動かされているか、おそらくは梁石日は知り尽くしているはずだ。
崔洋一監督の『血と骨』は、人間の身体的な物語を見事にダイナミックな絵巻として創り、堪能させてくれる、映画らしい映画である。人間の善悪を越えて、ただただ面白い時代の断片である。ビートたけし曰く、昭和には小・金俊平が無数に存在したという。とはいえ、八方破れの無頼漢はもはや絶滅種に近い。小説にせよ映画にせよ、この時代の人物像(群像)を描くことの価値の大きさをあらためて思った。日本映画のまごうことなき傑作が生まれたことを喜びたい。
November 07, 2004
planet_knsd at 05:09 Permalink
新宿ナジャ
November 05, 2004
planet_knsd at 05:35 Permalink
さんきゅーべりまっち
November 03, 2004
planet_knsd at 02:05 Permalink
米大統領選の開票前夜に
うーん、なんかムシャクシャする。これでブッシュが勝ったら、許さんぞ。世界に暗黒時代が到来する。もー、到来してるか。暗黒。
●小泉の「テロに屈しない」発言は、米軍による反米武装組織の軍事的殲滅を支持するもので、自衛隊の活動が米軍の後方支援を目的としていることを満天下に宣言したものである。
●解放交渉を始める前に誘拐犯を威嚇しているのだから、小泉に香田さんを助ける意志はなかったと思わざるを得ない。反米武装組織が香田さんの首を斬り落とし星条旗に巻いて放置したのも、日本国が米軍の軍事行動を支持していることへの応答であろう。
●「人道支援」という「良い事」をしているのに狙われるのは理不尽で、殺害は「非道かつ卑劣極まる」と言っている人がいる。しかし日本国はイラクの民間人を多数殺傷している米国の軍事行動を無条件で支持しているのだから、狙われるのも殺害されるのも戦場であれば当然のことである。自衛隊は、イラクを武装制圧する占領軍の一員であることを忘れるべきではない。そして米軍の軍事行動は「無辜の民間人の生命を奪う、非道かつ卑劣極まる」ものばかりであった。
●反米武装組織は、脅迫映像そのものをプロパガンダと考えており、撤退要求の人質と言うよりは、殺害という極限的手段で敵国の情報操作を行おうとしている。おそらくは、4月のファルージャ戦闘を境として、反米武装組織の誘拐作戦は過激化しているのではないか。香田さん殺害映像は、あまりにも惨たらしく正視に堪えない。あらためて、哀悼の意を表したい。
●ブッシュのイラク武装制圧路線は、イラク民間人の大量虐殺を引き起こすと同時に、中東の反米武装組織をイラクにおびき寄せる結果となり、イラク国民の頭越しに軍事戦闘と謀略戦を繰り返す事態に陥っている。このことを収束させるためには、イラク国家に主権を移譲し、外国軍隊はすみやかに撤退プログラムを作成すべきである。戦争に大義はなかったことが明らかなった以上、米国軍隊はすみやかに撤退する義務を国際社会に対して負っているのではないか。少なくとも、撤退プログラムを日程化せよ、と言いたい。
●もし外国軍隊が撤退しなければ、イラクは「ベトナム化」し、米軍とその同盟軍(=自衛隊)は反米武装組織との長期的な軍事戦闘と謀略戦を強いられるだろう。サマワの自衛隊は軍事攻撃のターゲットとなり続け、日本国内のテロの危険はさらに増大するであろう。自衛隊のサマワ駐屯の「成果」があるとしても、それは軍隊である必要があったのか、ということは問われればならないだろう。
●ブッシュはビンラディンを必要とし、ビンラディンはブッシュを必要としている。敵対する両勢力は、ますます相似形となっていくだろう。戦争と暴力を推進している者を、世界で止めなければならないと思う。
●ブッシュが再選されれば、世界はさらなる暗黒時代に突入し、夥しい死者と世界軍事産業のさらなる繁栄を招くであろう。ブッシュに追随する小泉はさらなる悪魔主義へと転落するであろう。その時代の転換を、光の導く道を私・たちは歩きたいと思う。
参考:Michael Moore.com
●小泉の「テロに屈しない」発言は、米軍による反米武装組織の軍事的殲滅を支持するもので、自衛隊の活動が米軍の後方支援を目的としていることを満天下に宣言したものである。
●解放交渉を始める前に誘拐犯を威嚇しているのだから、小泉に香田さんを助ける意志はなかったと思わざるを得ない。反米武装組織が香田さんの首を斬り落とし星条旗に巻いて放置したのも、日本国が米軍の軍事行動を支持していることへの応答であろう。
●「人道支援」という「良い事」をしているのに狙われるのは理不尽で、殺害は「非道かつ卑劣極まる」と言っている人がいる。しかし日本国はイラクの民間人を多数殺傷している米国の軍事行動を無条件で支持しているのだから、狙われるのも殺害されるのも戦場であれば当然のことである。自衛隊は、イラクを武装制圧する占領軍の一員であることを忘れるべきではない。そして米軍の軍事行動は「無辜の民間人の生命を奪う、非道かつ卑劣極まる」ものばかりであった。
●反米武装組織は、脅迫映像そのものをプロパガンダと考えており、撤退要求の人質と言うよりは、殺害という極限的手段で敵国の情報操作を行おうとしている。おそらくは、4月のファルージャ戦闘を境として、反米武装組織の誘拐作戦は過激化しているのではないか。香田さん殺害映像は、あまりにも惨たらしく正視に堪えない。あらためて、哀悼の意を表したい。
●ブッシュのイラク武装制圧路線は、イラク民間人の大量虐殺を引き起こすと同時に、中東の反米武装組織をイラクにおびき寄せる結果となり、イラク国民の頭越しに軍事戦闘と謀略戦を繰り返す事態に陥っている。このことを収束させるためには、イラク国家に主権を移譲し、外国軍隊はすみやかに撤退プログラムを作成すべきである。戦争に大義はなかったことが明らかなった以上、米国軍隊はすみやかに撤退する義務を国際社会に対して負っているのではないか。少なくとも、撤退プログラムを日程化せよ、と言いたい。
●もし外国軍隊が撤退しなければ、イラクは「ベトナム化」し、米軍とその同盟軍(=自衛隊)は反米武装組織との長期的な軍事戦闘と謀略戦を強いられるだろう。サマワの自衛隊は軍事攻撃のターゲットとなり続け、日本国内のテロの危険はさらに増大するであろう。自衛隊のサマワ駐屯の「成果」があるとしても、それは軍隊である必要があったのか、ということは問われればならないだろう。
●ブッシュはビンラディンを必要とし、ビンラディンはブッシュを必要としている。敵対する両勢力は、ますます相似形となっていくだろう。戦争と暴力を推進している者を、世界で止めなければならないと思う。
●ブッシュが再選されれば、世界はさらなる暗黒時代に突入し、夥しい死者と世界軍事産業のさらなる繁栄を招くであろう。ブッシュに追随する小泉はさらなる悪魔主義へと転落するであろう。その時代の転換を、光の導く道を私・たちは歩きたいと思う。
参考:Michael Moore.com
November 02, 2004
planet_knsd at 15:04 Permalink
松田優作取材余話

ぼくは、この二人の身体性がとても気になる。二人ともにTV・映画の俳優としては、既存の新劇出身の俳優と比べれば、ニューウェイヴだった。ショーケンは、「約束」(斎藤耕一監督・72)、「股旅」(市川昆監督・72)、「化石の森」(篠田正浩監督・73)、「青春の蹉跌」(神代辰巳監督・74)と引っ張りだこだったし、いっぽう優作は、「竜馬暗殺」(黒木和雄監督・74)、村川透監督の「遊戯」シリーズ「最も危険な遊戯」(78)「殺人遊戯」(78)「処刑遊戯」(79)のハードボイルド路線で人気絶頂となっていく。後に、深作欣二監督は、この二人を「仁義なき戦い」になぜ使わなかったかと悔やんだというエピソードがある。それほど二人は突出した存在だったし、身体的に逸脱した魅力を振りまいていた。そこに抱え込まれた時代の雰囲気、匂いは何だったろうと思う。つまり、役者の身体の身振りというものも、時代が産み落としたものではなかったか。
「太陽にほえろ!」のプロデューサー、岡田晋吉さん(現・川喜多記念映画文化財団事務局長)にお話を伺った際、ショーケンは盛んに「いまは挫折の時代だから、挫折の心情を描かなければダメだ」と主張し、人間的に苦悩する刑事像をドラマに持ち込んだという。続く優作は、挫折の心情を抱えながらも、突出した身体的強さを表現できる役者だった。ショーケンのナイーヴなしなやかさに対する、優作のクールな秘められた激情という違いがあったろうか。
吉田喜重監督は、優作に「異形性」を見たという。その虐げられた反抗者の匂いを嗅ぎ取って、優作を「嵐が丘」に抜擢するという経緯があった。晩年の優作は、その野獣性を身体的にもぎ取られるなかで(「陽炎座」など)、新たな存在の変容を見せ始めていたのだが――。
ぼくなりに、なぜ時代は優作の身体性に熱狂したのかを考えて書いた文章が下記のものだ。週刊誌では書ききれなかったので、下書きのまま取ってある部分から参考までに――。
松田優作がデビューした73年という年は、どういう時代だったのだろう。前年には連合赤軍事件があり、田中角栄の日本列島改造論、日中国交回復があった。同年には深作欣二監督の『仁義なき戦い』が大ヒットを飛ばし、金大中事件、そして第一次石油ショックが起こっている。
時代の空気は確かに挫折感やシラケムードが漂い、重々しいものがあっただろう。しかし、重々しいからこそ次の時代へ向けて、地下深くでマグマが燃えたぎるような新しい力を必要としていたのかも知れない。優作の発散するエネルギーは、そんな時代とうまくマッチしていたように思える。
オマケで、キネマ旬報ベストテンの1973年を覗くと――。
懐かしい人には無性に懐かしい。高校生のぼくは、この年から「キネ旬」を読み出したと思う。表紙まで鮮やかに覚えているよ。
キネマ旬報ベストテン 1973年
邦画
1位 津軽じょんがら節
2位 仁義なき戦い
3位 青幻記 遠い日の母は美しく
4位 股旅
5位 恍惚の人
6位 四畳半襖の裏張り
7位 戒厳令
8位 仁義なき戦い 代理戦争
9位 男はつらいよ 寅次郎忘れな草
10位 戦争と人間 完結篇
洋画
1位 スケアクロウ
2位 ジョニーは戦場へ行った
3位 ブラザー・サン シスター・ムーン
4位 ジャッカルの日
5位 ポセイドン・アドベンチャー
6位 マクベス
7位 探偵−スルース−
8位 激突!
9位 L・B・ジョーンズの解放
10位 ラストタンゴ・イン・パリ
写真:『松田優作クロニクル』(キネマ旬報社)
planet_knsd at 03:54 Permalink
小泉声明を嗤う
お前こそ、「無辜の民間人の生命を奪った、非道かつ卑劣極まりない」ブッシュの友だちやんか。「人道支援」などと言うお前の手がすでに血だらけなんや。
planet_knsd at 03:43 Permalink
北原みのりさんの『オニババ化する女たち』評に仰天!
昨日、「POCO21」のインタビューで『オニババ化する女たち』の著者・三砂ちづるさんにお会いするため、津田塾大学へ。席上、「週刊金曜日」10/29号の北原みのりさんの書評が話題になる。読んでいなかったので、帰って読む。私は、「週刊金曜日」の定期購読者だし、「週刊金曜日」の非常連ライターでもあるのだが、この書評には首を傾げざるを得ない。
北原さんは、三砂さんの言う「女性が自らの身体性を肯定できなくなっている」という指摘を、「母親世代がフェミに影響を受け、娘に女の幸福を伝えなかったからだ」と解釈している。果たしてそうであろうか。フェミニズム対三砂ちづるという対立図式を作ることは簡単なのだが、三砂さんの論点はそんなところにはないと思う。
三砂さんがとりわけ強調しているのは、医療施設による出産の非人間化の問題である。昨日も三砂さんから詳しくこの問題を聞いたので、いずれここでも紹介したいが、つまり三砂さんが対峙しているのは「出産の非人間化と医療化」であり、女性性をマイナス要因としかみなさないこの産業構造に対してなのだ。このことを見誤ると、三砂さんの主張が働く女性に対して母性を説くだけの「反動思想」のように曲解をしてしまう。
北原さんは、「近年、フェミ嫌いが加速しているように思う」と書き、『オニババ化する女たち』があたかも「反フェミ本」であるかのように描いているが、私はそのような印象はまったくない。三砂さんはそもそもフェミニズムに影響を受けた女性がオニババ化するなどと、ひと言も書いていないのである。「はじめに」ではこう書かれているではないか。
「どうやら、今の六十代、七十代の日本の女性あたりから、性と生殖、女性の身体性への軽視が始まったのではないでしょうか。この世代の親の娘たちは、現在四、五十代で、フェミニズムを生きてきた女性たちです。『産んでも産まなくてもあるがままの私を認めてほしい』というフェミニズムの主張は、私たちに多くの恩恵をもたらし、女性の生きる場をずっと風通しよくしてきました。親は娘がより自由に生きていくことを喜びとするものだと思いますが、六、七十代の親は必ずしもこの娘たちの得た自由を喜んでいるようには見えないし、娘たちも母親になんとなくすっきりしないものを感じているようで、この世代間は、なんとなくぎくしゃくしています。女性の身体性に根ざした知恵を大切なものとして伝承できなくなると、『お互いをあるがままに受け入れられない』ことになるのではないか、とこの世代間の葛藤を見て感じるようになりました。」
この文章と「第1章 身体の知恵はどこへいってしまったのか」を注意深く読めばわかることだが、フェミニズムによって勝ち得た女性の身体的自由を嫉妬しているのが六、七十代で、彼女たちが病院出産第一世代だと三砂さんは指摘している。戦後子育て世代である彼女たちは、「『女として生きること』『子どもを産むこと』、あるいは『結婚そのもの』に対しても、肯定的なイメージを持ち得ていない人が多」く、「女性としてのからだのありようについて、娘たちに肯定的なことを伝えることができなかった世代」だと三砂さんは指摘する。
つまり、ここでは病院出産の問題を根底的に問うているのであって、北原さんが言うような「フェミでは『幸せになれない女』の存在を執拗に描こうとしている」など、いったいどこにあるのかと驚いてしまう。
ともあれ、私もフェミニストがこの本をどう読むか興味深く思っている者の一人である。しかし残念ながら北原さんのアプローチは誤読・曲解の極地であり、まともな批評にはなっていない。三砂さんは女性の身体を無用に傷つけてきた日本の出産医療のデタラメさを徹底的に指弾している。女性の身体性の奪還を掲げ得ない女性解放論など、ただの観念論に過ぎない。生命のラディカリズム(根源主義)へ立ち返る道は、同時に身体の本質的な喜びを語ることでなければならないと思う。
北原さんは、三砂さんの言う「女性が自らの身体性を肯定できなくなっている」という指摘を、「母親世代がフェミに影響を受け、娘に女の幸福を伝えなかったからだ」と解釈している。果たしてそうであろうか。フェミニズム対三砂ちづるという対立図式を作ることは簡単なのだが、三砂さんの論点はそんなところにはないと思う。
三砂さんがとりわけ強調しているのは、医療施設による出産の非人間化の問題である。昨日も三砂さんから詳しくこの問題を聞いたので、いずれここでも紹介したいが、つまり三砂さんが対峙しているのは「出産の非人間化と医療化」であり、女性性をマイナス要因としかみなさないこの産業構造に対してなのだ。このことを見誤ると、三砂さんの主張が働く女性に対して母性を説くだけの「反動思想」のように曲解をしてしまう。
北原さんは、「近年、フェミ嫌いが加速しているように思う」と書き、『オニババ化する女たち』があたかも「反フェミ本」であるかのように描いているが、私はそのような印象はまったくない。三砂さんはそもそもフェミニズムに影響を受けた女性がオニババ化するなどと、ひと言も書いていないのである。「はじめに」ではこう書かれているではないか。
「どうやら、今の六十代、七十代の日本の女性あたりから、性と生殖、女性の身体性への軽視が始まったのではないでしょうか。この世代の親の娘たちは、現在四、五十代で、フェミニズムを生きてきた女性たちです。『産んでも産まなくてもあるがままの私を認めてほしい』というフェミニズムの主張は、私たちに多くの恩恵をもたらし、女性の生きる場をずっと風通しよくしてきました。親は娘がより自由に生きていくことを喜びとするものだと思いますが、六、七十代の親は必ずしもこの娘たちの得た自由を喜んでいるようには見えないし、娘たちも母親になんとなくすっきりしないものを感じているようで、この世代間は、なんとなくぎくしゃくしています。女性の身体性に根ざした知恵を大切なものとして伝承できなくなると、『お互いをあるがままに受け入れられない』ことになるのではないか、とこの世代間の葛藤を見て感じるようになりました。」
この文章と「第1章 身体の知恵はどこへいってしまったのか」を注意深く読めばわかることだが、フェミニズムによって勝ち得た女性の身体的自由を嫉妬しているのが六、七十代で、彼女たちが病院出産第一世代だと三砂さんは指摘している。戦後子育て世代である彼女たちは、「『女として生きること』『子どもを産むこと』、あるいは『結婚そのもの』に対しても、肯定的なイメージを持ち得ていない人が多」く、「女性としてのからだのありようについて、娘たちに肯定的なことを伝えることができなかった世代」だと三砂さんは指摘する。
つまり、ここでは病院出産の問題を根底的に問うているのであって、北原さんが言うような「フェミでは『幸せになれない女』の存在を執拗に描こうとしている」など、いったいどこにあるのかと驚いてしまう。
ともあれ、私もフェミニストがこの本をどう読むか興味深く思っている者の一人である。しかし残念ながら北原さんのアプローチは誤読・曲解の極地であり、まともな批評にはなっていない。三砂さんは女性の身体を無用に傷つけてきた日本の出産医療のデタラメさを徹底的に指弾している。女性の身体性の奪還を掲げ得ない女性解放論など、ただの観念論に過ぎない。生命のラディカリズム(根源主義)へ立ち返る道は、同時に身体の本質的な喜びを語ることでなければならないと思う。
November 01, 2004
planet_knsd at 04:36 Permalink
最近の仕事「週刊現代」11/6号
「松田優作伝説」
登場する人
■岡田晋吉さん:元日本テレビ・プロデューサー、川喜多記念映画文化財団事務局長
■山根貞男さん:映画評論家
■吉田喜重さん:映画監督
■井出情児さん:写真家
■大木雄高さん:レディ・ジェーン・オーナー
■高垣健さん:ビクターエンターテインメント常務取締役
http://books.bitway.ne.jp/kodansha/wgendai/scoopengine/
登場する人
■岡田晋吉さん:元日本テレビ・プロデューサー、川喜多記念映画文化財団事務局長
■山根貞男さん:映画評論家
■吉田喜重さん:映画監督
■井出情児さん:写真家
■大木雄高さん:レディ・ジェーン・オーナー
■高垣健さん:ビクターエンターテインメント常務取締役
http://books.bitway.ne.jp/kodansha/wgendai/scoopengine/
planet_knsd at 04:13 Permalink
最近の仕事「POCO21」12月号
特集「少子化は止まるか?」
「ジパング写真帖」宮川舞子さん「ドンドコドン」
登場する人
■大葉ナナコさん:バース・コーディネーター
■斎藤学さん:精神科医
■汐見稔幸さん:東京大学教授
■江原由美子さん:東京都立大学教授
■佐藤文明さん:戸籍研究者
宮川舞子さんの写真は、佐渡島のアースセレブレーションでの「鼓童」の舞台写真。フンドシに大太鼓、いいです。
http://www.pal-system.co.jp/poco21/200412.html
「ジパング写真帖」宮川舞子さん「ドンドコドン」

■大葉ナナコさん:バース・コーディネーター
■斎藤学さん:精神科医
■汐見稔幸さん:東京大学教授
■江原由美子さん:東京都立大学教授
■佐藤文明さん:戸籍研究者
宮川舞子さんの写真は、佐渡島のアースセレブレーションでの「鼓童」の舞台写真。フンドシに大太鼓、いいです。
http://www.pal-system.co.jp/poco21/200412.html