2017年03月21日


デリヘルアート事件について再検討するために、まず、丹羽良徳が作家としての姿勢をどう表明し、公認されていたか、確認します。
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(15:20)

2017年03月13日

デリへルアート事件という呼び名そのものが不適切だと思う人もいるでしょうが、『社会の芸術/芸術という社会』という本を見ると、事件の呼称として一定の人々の間に定着しているらしいので、自分も使わせてもらいます。
社会の芸術/芸術という社会—社会とアートの関係、その再創造に向けて [単行本(ソフトカバー)]

それで、まず、デリへルアート事件をめぐってこの一年間なされてきた議論は、ほとんどが一種の誤解の上に成り立っていただろう、というのが私の見解です。続きを読む

(08:32)

2017年01月24日

丹羽良徳といえば、その笑い方について、東京国立近代美術館で主任研究員をしている肩書きで保坂健二郎氏は哀しい笑顔だと論じていた。

峡氏による、次のブログ記事は同意し難いものだが、おそらく、この文章を書かせるようにそそのかしてしまう一種の力が、丹羽良徳の笑い方には宿っている。

http://researchmap.jp/joudo2faw-111/#_111

丹羽良徳の笑いについて考えてみたい。


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(17:38)

2016年12月09日

岸政彦著『断片的なものの社会学』を読みながら、丹羽良徳の「88の提案」について考える。

岸氏は、この本の中で、かつて「絶対にやってはいけないことのひとつ」をしてしまった経験について語っている。

 それは、「笑いと自由」と題された、さほど長くはない文章をしめくくる、次のようなエピソードだ。
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(17:28)

2016年08月20日

この映画、良し悪しは別にして、石原さとみの存在感だけ異質なのは明らかですよね。
ここに、シン・ゴジラにおける石原さとみ問題が生じます。

石原さとみさえいなければ、もっと自分好みの映画だったのに。
とか
石原さとみが居なければもっと作品世界に没頭できたのに。
と、感じる人が居ても当然でしょう。

というか、僕も見ながらそう思ってたわけですが、いろいろなひとがこの問題を考えて納得したりしなかったりしているようです。

シン・ゴジラは、石原さとみが演じるカヨコ・アン・パタースンが居なければ成立しない映画だったのか?だとすれば、その理由はどこにあるのか?

石原さとみの英語に不満をおぼえる人も、この問題に引っかかりながら、答えが見えないもやもやを英語という点に投影しているのでしょう。

では、この問題にどう答えを出すべきか。 

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(18:17)

2015年02月16日

岡崎藝術座の『+51 アビアシオン サンボルハ』を2月14日、STスポットで見て来た。

http://okazaki-aviacion.strikingly.com/

タイトルはアルファベット表記にしたけど、カタカナにしても一見なじみがないのは多くの日本語話者にとって同じことだろう。続きを読む

(21:40)

2014年12月19日

先月、東京の西のはずれから東のはずれに引っ越しました。

以下、そのことにまつわる話。 続きを読む

(17:57)

2014年01月25日

先日、投影期間が終わる直前に、映画『祭の馬』をイメージフォーラムで見た。

震災や原発事故に関わる人々の様子や語りも重要な要素となるこのドキュメンタリー映画だけど、ともかく馬の様子を映している場面が多い。

生まれてこの方、こんなに馬をじっくり見たのは初めてではないかと思う。
ともかく、馬をずっと見ていて飽きない映画だった。

その終わりに出てくるイメージの働きについて、すこし批判的になるけど、感想を述べておきたい。

※以下の文章では、映画の結末に触れています。
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(20:00)

2014年01月19日

宮城聰演出のSPAC公演、野田秀樹潤色版の『真夏の夜の夢』を見てきました。
久しぶりに、舞台に魔法がかかる瞬間を楽しみました。
真冬ゆえに真夏の夜の夢もまたさらに儚いという感じでしょうか。


ロビーでは、今回の舞台美術を演劇史の系譜に位置づける展示も行われていて、そういう啓蒙的な姿勢は公共劇場としての使命を立派に果たしているものだろうし、勉強になりました。

以下、簡単に感想を書きます。
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(21:38)

2014年01月06日


イデアデッキを見に行った感想をメモしておきたい。

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(00:29)