2007年03月30日

そこに確かに在ったもの

長く煮え切らなかった冬もようやく終わり、

いつもの通学路、通り慣れた緑道の桜も満開になった.


この路の桜を撮るのももう何回目のことだろうか.

自転車を降り、真下から空を見上げるようにカメラを構え、

イメージしたアングルに合わせようとズームを調節する.

そのとき、1枚の花びらがふいにフィンダーの中を横切り、

かばんの上にふわりと着地した.

世界から偶然僕の元に舞い降りてきたその花びらは、

春の暖かい日差しの中でお昼寝をしているようで、

その心地良さそうな佇まいに、気持ちが緩やかになる.


もう行かなきゃ.

僕はその花びらをそっと払い落とし、また自転車を漕ぎ出した.

そこに確かに在ったものを忘れないようにしながら.


blog20070330

planke at 16:19|PermalinkComments(6)TrackBack(0) なんとなく思う | diary

2007年01月30日

美しいもの

もしかして、よく言われていることなのかもしれないけれど。

美しいものとは、ある純粋な思考や哲学で貫かれた存在のことを言うのではないかとふと思って、あれこれ考えてみたらけっこううまく説明できるように思えた。
あるいは、純粋な思考や哲学が目に見えるものとして存在し得た状態、と。

美しい造形物、美しい動き、美しい文章、美しい数式、そして美しい人など。

すべからく全てのもののその出発点は、ある純粋な思考や哲学ではあって、だけれども、その思考とか哲学が何か現実世界のものにそのかたちを変えていくときに、その純粋なままで在ることができるかどうか。それはとてもとても難しいことだと思う。現実というのは、純粋なものが純粋なままであることを阻もうとする。現実的制約やら、人の思惑やら何やかやで。
純粋さを保てなくなれば、美しさは損なわれる。


そして、そう考えると自分が美しいものが好きな理由がしっくりして、だからこそやっぱり僕は美しいものが好きなんだなと納得した。


純粋に、シンプルに、超然と存在するもの。

planke at 23:58|PermalinkComments(4)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年10月06日

記憶に留めておくということ

上京して家族と離れた大学生が、どれくらいの頻度で家族と連絡を取るものなのかってもちろん人によって違うんだろうけれど、僕はだいたい週に1回メールのやり取りをして、2,3週に1回電話で会話をするくらいです。
僕と母親との会話は、家族の近況とか、少し前から体調の悪い祖母の回復具合とか、うちの猫の話とか、だいたいそんなことについて。
けれども、興味の対象が異なり、日常を共有していなければ、会話の内容はだいたい似通った話題になり、会話が弾むということも少なくなってくる。大学に入って離ればなれになってから年を経るに連れて、このことを実感するようになった。
一方で、父親とは、会話の頻度は別に多くはないのだけど、興味の対象が近いので話が弾むことは多い。デザインの話とか、勉強の話とか、本の話とか。
だから、いつかのこと、母親に「お父さんとはどういう話をするの?」と聞かれたときに、母は同じように考えて寂しく思っていたんだと気付いて、申し訳ない気持ちで一杯だった。

だけど、つい最近母親と電話で話した時のこと、最近少しだけ料理をするようになった、という話をすると、途端に会話が弾むようになった。
僕はじゃがいもをよく使うと言った。
母はじゃがいもは茹でるとどれくらいもつだとか、バターで炒める時は塩を少なめにしろとか、そんなことを言った。そしてあんたはやっぱりじゃがいもが好きなのねと言った。

料理の話をしているときの母は1つ1つ思い出しながらしっかり語りかける、という感じで、その喋り方は僕を懐かしい気持ちにさせた。
そして、そんなふうに生き生きと話す母との会話を嬉しく思うと同時に、いかに自分が母から引き出していない部分があったか、ということに今更ながら気付かされた。
それはあるいはずっとこの先も引き出されなかったかもしれなくて、それに引き出されていないものもきっとたくさんある。そう考えるととても寂しい思いがした。


僕はいつか母や父を失ったときに、どれくらい自分の中にその存在を残していられるだろうか。

人が誰かを自分の中に生きながらえさせることができるとするならば、それは共有したものの中にしかないんじゃないかと思った。
共有した興味、共有した状況、共有した感情、そして共有した日々、など。


電話を切った後に、そんなことをとりとめもなく考えた。

planke at 23:28|PermalinkComments(3)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年10月02日

「好きだ、」

37511fc4.jpg映画館で見たかったんだけど、少し恥ずかしいなぁ...なんて考えて結局そのままになっていたこの作品を借りて見てみました。

「好きだ、」
監督: 石川寛
出演: 宮崎あおい / 西島秀俊 / 永作博美 / 瑛太

「好きだ」の一言が言えず離ればなれになった2人が、17年後に再会する。そういうお話。


少ない言葉で描く、というのはなんとなく予想できていたけど、場面場面の言葉もなく、表情の変化を描くでもない投げ出したような時間の使い方が見ていてかなり気になりました。
それに加えて、空を画面に巧く取り込んでいるのが印象的で、それら時間的・空間的な効果で映画の雰囲気がとても広がりのある、心地よいものになっていたと思います。
見ていないけど、この監督の前の作品が「tokyo.sora」ってタイトルらしいから、空に思い入れがあるんでしょうね。

部分では、ヨースケから「セーラー服を着て来た前の日」という言葉がさらっと出た瞬間の感情の触れ合い(一方的なものだけど)を、言葉なく表情と間で表現した場面が僕はとても気に入りました。
最初見ている時は、2人の感情のすれ違い方に微妙に違和感があって、もうちょっとじれったくなるように描いたり、その中で17年後の伏線を張っておく、というような"揺さぶる"展開を期待していたと思う。
だけど、この何気ない一言で妙ににんまりしている自分に気付いて、やられたって感じでした。
揺さぶって、伏線を張って、そしてウマいこと落とすことで唸らせる。のではなく、平板で穏やかな水面に小石を投げ込んだような感情の揺らめきを起こす。
抑えに抑えた展開だからこそ、じんわりきました。

大きな刺激と小さな刺激。
大きな刺激に慣れてしまうと、微細な感覚が麻痺してしまう。
小さな刺激を大切にして、微細な感覚を失わないようにしたい。
環境が如何に在ろうと、出来るだけそう在りたい。

ここ最近とくに考えていることを、改めて考えさせられた次第です。


あと、
タイトルの"好きだ"の後の"、"。こういうこだわり、ツボなんだよなぁ...。

映画の広がりのある雰囲気に合っていて、とてもいいタイトルだなと思いました。

planke at 22:54|PermalinkComments(2)TrackBack(0) movie 

2006年09月21日

YouTubeっていいもんだな

bd055edb.jpgMr.Childrenの桜井さんが、斉藤和義さんの「歌うたいのバラッド」という曲をカバーしている動画をYouTubeで見つけました。

歌うたいのバラッド / 桜井和寿

僕はそもそも原曲を知らなかったんだけど、歌詞とメロディーが作り出す世界が優しさに溢れていて、1度聴いただけで素直にいい曲だなと思いました。
あとは、桜井さんが曲の後半でかなり感情を載っけて歌っている姿が感動的。
「歌うたいのバラッド」ということで、まさに歌うたいの人が歌うのがハマっていて、何やら素敵な感じです。(まあそもそも歌うたいというものだから歌を歌っているわけなんだけど。)

ところで、この動画をアップした人はなかなかいいことするな〜、と思うのです。
(いや、もちろん、スカパーで放送されたものを個人が編集してアップしているわけだから違法だってのはわかっているんだけど。)
んで、YouTubeっていいもんだな、と今更ながら思ったわけです。
(同じく、YouTube自体も著作権関連のことで議論が絶えないわけなんだけど。)

それをアップすることによる自己顕示なのか、詰まる所自分を理解して欲しいという欲求なのか、あるいは皆と共有したいという願望なのか、何でもいいんだけど、自分のフィルターに引っかかったもの(好きなもの、面白いもの、問題だなと思ったもの、などなど)をアップするという行為。
それを表現する場と、フィードバックが得られる場。そういう場を確立したことに価値がある、と思う。
そもそもの思想がそうだったとは思わないけど、結果的にはそうなっている。
繋がるとか、共有とか、理解・評価とか。今っぽいキーワード。
インターネットによる恩恵の本質のような仕組みだなと思います。


んで話戻って、「歌うたいのバラッド」について。
僕は斉藤和義さんの歌をちゃんと聴いたことがないんだけど、どの曲もこの曲みたいな歌詞の世界なのかな。
照れくさい歌詞(失礼だけど)だなぁ、と思うんだけど、重みを持って語りかけてくるようなきれいな1文1文だな、と思いました。

"今日だってあなたを想いながら歌う"
そして歌うことは、"ただ声に身を任せ頭の中を空っぽにするだけ"、と。

自分が仕事にしている歌と、愛情ってものを、こういうふうに言えるってのは素敵ですね。



歌うたいのバラッド / 斉藤和義

ああ歌う事は難しいことじゃない
ただ声に身を任せ頭の中を空っぽにするだけ
ああ目を閉じれば胸の中に映る
懐かしい思い出やあなたとの毎日
本当の事は歌の中にある
いつもなら照れくさくて言えない事も
今日だってあなたを想いながら歌うたいは歌うよ
ずっと言えなかった言葉がある
短いから聞いておくれ愛してる

ああ歌う事は難しいことじゃない
その胸の目隠しをそっと外せばいい
空に浮かんでる言葉をつかんで
メロディを乗せた雲で旅に出かける
情熱の彼方に何がある
気になるから行こうよ
窓の外には北風が腕組みするビルの影に吹くけれど

僕らを乗せてメロディは続く
今日だってあなたを想いながら歌うたいは歌うよ
どうやってあなたに伝えよう
雨の夜も冬の朝も傍にいて
ハッピーエンドの映画を今イメージして歌うよ
こんなに素敵な言葉がある
短いけど聞いておくれよ 愛してる

planke at 20:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う | music

2006年08月30日

ありふれた日常の中に

日常の1コマ。

朝、研究室に来るとだいたい誰も来ていないので、僕が電気を付けることになります。
部屋には2つの電気があり、対応するスイッチが2つある。だからそれらを何とはなしにぽちぽちと押していたのです。今までは。

だけど、ここ最近は自分の場所側の電気しか付けないようになりました。

というのも、「最初に来た人間がとりあえず両方の電気を点けておく」ってことで今までは意識せずにやってきたけど、今は一応夏休み期間であまり人も来ないのでとりあえず片っぽでいいかな、と。
それに夏の昼間の外の明るさと、部屋の若干の薄暗さがいい感じだって気付いたってのもあり。

とまあ、そんなこんなでなんとなく始めた片側電気な今日この頃だったわけなんだけど、最近同じように電気を点けようと思って、
「2コじゃなくて、自分の側1コでいいんだ。」
って意識していることを、意識したのです。

いつのまにか、この惰性の作業に1クッションの意識が習慣化してるなぁ、と。

それが少し嬉しかった。


こうやって日々繰り返す単純なことを、無意識にではなく、意識して行うということ。
惰性で行われていたことに、改めて想いを馳せてみるということ。

えっとまあ、こういうことを大切にしなきゃって頭ではわかっているつもりだし、今さらって感じもあるんだけど、やはり忘れがちなものなのでなんか嬉しかったのです。最近こういう感覚薄れていたんだろうなぁ、と気付いたこともあり。
まずいまずい。

毎日を少しでも有意義なものにするための身近な方法は、ありふれた日常や繰り返される平凡なことへも愛情を注いであげることだと思っています。
意識、という名の愛情。
それが自然にできる人で在りたいと思うのです。

それが自然にできる人は、きっと繊細で優しい人だと思うからね。

planke at 22:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う | diary

2006年08月07日

主張の受け止め方

最近、と言うか、いつからか本を読むときに意識して考えるようにしてることがあって、それは何かと言うと、その本の中のすべての主張には同等の重みがある、ということです。

1冊の本を読んでいるときに「あ〜これはすごくわかるなぁ〜」とか「いいこと言ってるなぁ〜」などなど響く部分がある一方で、「理屈としてはわかるけど、いまいちリアルに響いてこないなぁ〜」という部分もある。
こういうとき、後者の響いてこない部分について、自分にとって響いてくる前者と同等に意味のあることが書かれているはずだと考えてみるようにする。
程度の差こそあれ、同じ本の中に書かれていることならば、主張の強さ、妥当性、みたいなことってだいたい同じくらいだと思うし。
それに、どれくらいの情熱や自信を持って作者がその主張を行っているかを見極める必要はあるけれど、これは展開の盛り上がりなどから感じるだろうし。
んで、そう意識的に考えるようにすることで、自分にとっていまいち響いてこない主張を今一度捉え直す、ということをしてみる。

でもまあ、こう意識したところで、そのとき響かないものがリアルな実感を伴って響くようになるわけではないので、そこで主張そのものではない部分でちょいと考えてみる。


まず1つ目。

昔読んだ本を読み返してみると、当時はさらっと流した部分が、今は響いてくる、というのがけっこうあって、つまりは「理屈としてはわかるけど、いまいちリアルに響いてこないなぁ〜」という感じであったものが実感を伴ってきたということ。

20台も半ばくらいになると、世の中のいろんなことがそれなりにわかってきたつもりにもなってしまう。
それはそれでそういうものだと"謙虚"に自覚しているつもり。
というのも、当たり前のことだけど、理屈としてわかることと、それをリアルに実感するということには大きな違いがある。

だから、後者の響いてこない部分についてその理由を、自分の経験不足やそのことに対する意識の低さによる興味の無さが原因だと考え、ではどうしてそうなってしまっているのか、その理由を考えてみる。
って書くとすごく仰々しくて、重々しいけど。まあ、なんとなくでも、ほんの少しでも。


んで、2つ目。

作者にとっての興味の対象と、僕にとっての興味の対象が完璧に同じでない(要は同じ人間でない)以上、切実に思う部分に違いがあるのは当然。だから同等に切実な想いを主張したとしても、それが響くか響かないかに違いがあるのも当然のこと。
だけど、それは当然にしても、ある人間にとってはそこに同等の熱意とか想いがある、ということ、それ自体を意識することはけっこう大切なんじゃないかと思う。

これは単純に、人それぞれ考えることが違うんだなぁ〜、としておくことと大差ないのかもしれない。
だけど、このことを意識することで、ほんの少しだけでも相手の側に寄り添っていけるような、そんな感じがするのです。
理解する、から一歩踏み込んで、受け入れる、とか。そんなような。
そして、それにより、多様な価値観・考え方に対して寛容になれるような。
って書くとまたしても仰々しくて、重々しいけど。まあ、なんとなくでも、ほんの少しでも。


という2つのことに思いを馳せてみる。
そう考えるようにすると、いまいちピンとこないなぁ、という部分についてもまた別の意味で考えることができるんじゃないか、というわけなんです。
まあごちゃごちゃと書いたけど、ざっくり言うと、いろいろ考えられるようになりたいなぁ、とかそんな感じです。


それで、本を読むとき、ということで書いてたけど、本だけでなく、表現された様々なものについて同じように考えられますね。ブログとか。
あるいはもっと直接的に、誰かの話を聞くときなんかもそうだと思う。
んで、そうやって意識して本を読んだり、人のブログを読んだり、誰かの話を聞くようにしてみると、何か少し感じ方が変わってくる。
というのも、1つ目のように自分について省みたり、2つ目のように相手と自分との違いを意識したり、というのはつまり、響かないことについては主張そのものから一歩引いて、人間の問題にしてしまっているから。
大袈裟に言えば、そういうことなんだと思う。

...って書いていて妙に自分で納得してしまった。

いろいろ整理してみようとだらだらと書いてみたら、その先にあるものは結局は人間かぁ、となってしまって、こんなことなら別に意識せずともなんとなくは考えていたよ、と。
つまりすごく普通のことだなぁ、と(笑)。

まあ、上記2点についてとくに強く意識を持とうとしている、ってことに意味があるんだろう、とも思うけどさ。


んで、えっと、、、
主張そのものが響いてくるということは、すなわち上で書いた2つのことは満たされていることになるわけで、
さらに、何かを表現(主張)するということは、理解されたいということがその根底にあるわけで(あくまで持論です)、
だからこそ、共感ってなんか切ないんだろうなぁ。
そして尊いんだろうなぁ。

なんとなくそんなふうに思った。


...と、そんな感じのシメにしておきますかな。

planke at 21:57|PermalinkComments(1)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年07月21日

「ゆれる」

044944f0.jpg映画「ゆれる」を見てきました。

解説は以下抜粋↓
*********************************
「蛇イチゴ」で注目を集めた新鋭・西川美和監督が、オダギリジョーと香川照之という実力派2人を迎えて贈る上質のミステリー・ドラマ。ある出来事をきっかけに対照的な兄弟の間に巻き起こる心理的葛藤が巧みな構成で描かれてゆく。
 東京で写真家として成功し、自由奔放に生きる弟・猛。母の一周忌に久々に帰郷した彼は、そこで父と共にガソリンスタンドを経営する兄・稔と再会する。猛は頑固な父とは折り合いが悪かったが、温厚な稔がいつも2人の間に入り取りなしていた。翌日、兄弟はガソリンスタンドで働く幼なじみの智恵子と3人で近くの渓谷に足をのばす。ところが、川に架かる細い吊り橋で、智恵子が眼下の渓流へと落下してしまう。その時、そばにいたのは稔ひとりだった。事故か、事件か、やがて裁判が始まる。その過程で稔は意外な一面を覗かせる。一方、一部始終を目撃していた猛も激しく揺れ動く。
*********************************

最近は映画館に行くにしろ借りるにしろ邦画をそれなりに見ていて、すごくいいと思えるものも多くあるなぁなんて思ったりしていたわけだけど、この映画はほんとにすごいなぁ...って感じでした。
高すぎる前評判と、それによる高すぎた僕の期待を裏切らず。いやはや。

兄と弟の関係を下敷きにして、人間同士の関係の在り方を掘り下げるというもので、とにかく心理描写が素晴らしい。
しぐさとか、象徴的シーンやカット、お互いに対する言葉。
すべてがそこはかとなく微妙な感情の機微を物語っている。その繊細で鋭敏な感覚がすごい。
とくに、少ない言葉ながら、それぞれの言葉の持つ意味が限りなく重い兄弟の会話の応酬には凄まじいものがあった。

投げかける1つの言葉がお互いをえぐるえぐる。
怒るときに、怒鳴り散らす人より、静かに淡々と語る人の方がよっぽど怖いと言うけど、まさにそんな感じでした。


パンフレットの中のコラムで評論家の川本三郎が、この映画の中の兄弟のやり取りについて田村隆一という人の1つの詩を引用して説明していたのだけど、それがハマっていてすごく印象に残った。

「一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない」

きれいごとを一度、根底から壊し、兄と弟の兄弟愛を見すえようとする。再生のためには、どれだけ二人は傷つかなければならないか。
兄弟愛を真なるものにするには、兄と弟を深く傷つけなければならない。

とのこと。


人間同士が深く関わろうとするならば、お互いが傷つけあうことは不可欠ということ。
希望はその先にしか存在しないということ。

こんな考え方、今まで持っていなかったと思う。少なくとも意識しては。
傷ついてしまうような関わり方を経て関係が深まる、ということはなんとなくわかる。
けれど、それが不可欠である、というのはあまりにもあんまりなように思った。

でも、そういうものなのかも、とすんなり思えてしまった。

傷つけ合う、というのは、単にお互いが相手を傷つけるだけでなく、というよりむしろ、お互いが自分自身を傷つけることになる、ということ。
その先に、痛みを知った分だけ、痛みに耐えうる強さを持った自分がいる。相手の痛みを分かってあげられる自分がいる。
それでこそ、人間は相手との関係を成長させていくことが出来る。
だからそれは、傷つける、という言葉とはちょっと違うんじゃないか、とも思った。
そんなことを、なんとなく考えてみたりした。

だけど、やっぱりあんまりじゃないかな、と思う気持ちはなくなるわけではないわけで、
だから、傷つけ合ったその先に築かれる相手との新たな関係、
そこに何らかの希望があると信じていないと、やってられないよ。

だから、だからね、
せめて、信じさせておくれよ。


・・・な〜んてね。まあ、そんな感じでちゃんちゃん、と。

planke at 00:00|PermalinkComments(4)TrackBack(0) movie | なんとなく思う

2006年07月03日

内と外、そのバランス

何か物事に取り組もうとするとき、

自分の中での準備を万全にしてから動き出そう、とするのは自分の悪い癖。


もちろん、何も考えずに始めるのはマズいと思うけど、

「準備はこれで十分」と自分で納得してから始められることはむしろ稀で、

だけどそこで足踏みをするのではなく、すぱっと始めてみると、

どうにかこうにか試行錯誤、手探りで物事は進んでいき、

たいていのことはそれなりに上手くいってきたように思う。


この自分の性質が、それ自身マイナスだと強く思うわけでもない。

だからこそ努力してきた、と思うことができる部分もあるし。

けれどもやはり、その"程度"のバランスや使い分けは悪く、多くの物事に対してマイナスに効いてきたということを今更ながら実感してきた。


こんな当たり前のことを意識するのにかなりの時間がかかってしまって、

頭ではわかっていたつもりだけど、やっと実感できたなぁ、と感じる今日この頃。

内なる世界での葛藤と、外とのインタラクションのバランス。

僕はこのバランスの取り方がやっぱりかなり下手くそだったみたい。


それを気付かせてくれた"今という状況"に感謝する。



echoesBIG RIVERの船橋淳監督について調べていてechoesという映画を知った。

彼の撮った最初の映画らしいけど、そのキャッチコピーにすごく魅かれた。



この街で、走り出した.

どこにたどり着くのか、まだわからないけど.



DVDもないのでもはや見ることはできなさそう。


見てみたかったな。



planke at 21:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年06月14日

ICC再開おめでとう

a4580940.gif今日は朝っぱらから1人で大興奮してました。
何気なくICC(NTT Inter Communication Center)のホームページを開いてみたら、リニューアルオープンしてたからです。

かなりうれしい。

昨年末に、今後の企画展の予定なし、と事実上の閉館となっていたICC。
コミュニケーションアート、メディアアートを展示する場としてこの規模の大きさ、そして権威(?)としては唯一無二の場所。
僕が自分の興味との接点からここに行き着いたのが昨年末で、見に行った展示や、過去にここでどのようなアーティストがどのような作品を展示してきたかを知り、この場所の意味の大きさを感じるに至ってからわずか2,3ヶ月で閉館のお知らせ。
だから行ったのはたった2回...。

んで、年明けに"いつか"再開します、というようなアナウンスがなされたものの、半永久的未来のような気がして諦めて忘れかけていたところにこのニュース。
意外に早かったなぁ...。

でもまあ、ほんとにうれしいのです。


そして、リニューアルに伴って、オープンスペースの常設展が一新されているようなんだけど、そのラインナップがなんかヤバそうです。
おもしろそうなのを3つほど。説明文抜粋。

06141○《Project Phonethica Installation "Rondo"》
Phonethica Systemは,世界のあらゆる言語の間を飛び越え,音声的に近似の言葉を探し出します.探し出された言葉は,同時にそれぞれの背景情報と結びつけられ,人々は音声の偶然の一致をきっかけに,これまで知らなかった様々な情報と接することができます.
たとえば,日本語の「平和」という単語を例にすると,オランダ語で“heimwee”(ヘイムワ)があり,「ホームシック・郷愁」という意味となります.さらに,英語の“haywire”(ヘイワイア)は「混乱した」という意味です. 作者である遠藤と徳井は,2005年現在で5000種とも6000種ともいわれる地球上の言語の50%から90%が,今世紀中にも消滅するという観測に注目し,言語の音声的な特質を媒介にして,世界の多様性を探ることを試みています.

06142○《Monalisa: 音の影》
《Monalisa》は「音を見,画像を聞く」ソフトウェアです.普段私たちが聞いている音は,どんなふうに見えるのでしょうか?また,私たちが見ている画像は,どのような音をしているのでしょうか?このソフトウェアは,そのような視覚と聴覚の相互変換を可能にします.すべての情報を0と1で記録していくコンピュータの上では,音も映像も同等な「情報」として扱われます.このソフトウェアは,情報化が進んだ現代にふさわしい,音と映像の認識を与えてくれるのかもしれません.

06143○《無分別な鏡》
部屋の壁に鏡が取り付けられています.ほんとうの鏡ならば,鏡の中に自分が映りますが,この鏡には映りません.しかし,備え付けの眼鏡をかけて鏡をのぞくと,そこにはあなたのかけている眼鏡だけがあなたのいる場所に映っています.さらに,背後の部屋の空間も,まるで鏡の中の風景のように反転されて表示され,あなたの前後左右の動きに合わせて変化します.


あとは論文で読んで興味のあったクリスタ・ソムラー&ローラン・ミニョノーの作品なんかもあるみたいなのでそれも見たいなぁ。
それにこれらの作品は常設展示なのでタダとのこと。
良心的すぎるよ...。
(ただ、これらの展示の規模から考えると、全部置けるのか?と不思議なのですが。)


しかも、過去の展示やワークショップ、トークイベントなどの映像記録アーカイブHIVEをインターネットで公開(以前はICC館内のみ)したり、PodCasting始めたりなどなど、いろいろやるみたいです。
こういったメディアアートの分野を担う文化施設として、インフラにでもなろうとしてるのかな。大歓迎ですが。


えっと、余談ですが、HIVEをちょこちょこ調べてて少し驚いたことが。
深澤直人の「行為に相即するデザイン」のワークショップとかここでやってたのか...。
確かに、アフォーダンスとかコミュニケーションってキーワードで捉えると、ICCに関係していても不思議ではない、と言うかむしろ自然ですね。
あとは、まず本人がぱっと見若いのが新鮮で(笑)、それにそこで描かれている図など、今も使われていたりするものの原型が見て取れたりですごく感慨深い...。


1個1個取り上げていると、なんかキリがなさそうですね...。

とにかく大興奮なのでした。ちゃんちゃんと。

planke at 00:34|PermalinkComments(2)TrackBack(0) exhibition 

2006年06月11日

全編ノスタルジー

先日、深澤直人のディレクションする恒例のWITHOUT THOUGHTに行ってきました。

場所はGALLERY le bainというところで、六本木駅からも広尾駅からも徒歩約10分とのこと。
広尾駅で降り、とぼとぼと歩いて向かう。

意識的に広尾駅を選んだ。

広尾は1年半程度バイトで通った場所。
その間、僕はひたすらに模型を造り続けた。
CADで模型用図面を描き、それをスプレーのりでスチレンボードに貼付け、カッターで線に沿って切り、それを組み立てる。さっき造ったものとほんのわずかにしか違いがなくとも、それがスタディに必要であるとボスが判断したなら無駄と思えても造り続けた。
来る日も、来る日も。

僕にとっては大学の学部時代の大部分を捧げた場所。

懐かしい記憶。


会社はまだ僕がいた頃に不幸な事件に巻き込まれ、2年以上経った今も裁判で闘っている、らしい。
僕がやめた後、その事件の影響もあって経営はいよいよ苦しくなり、事務所は別の場所に移動した。

バイトをやめた後もこのあたりに来たことはあったけど、どれも用事があって来たのでじっくりと歩くことはしていなくて、
だけど、そのときはふと行ってみたくなって、展示を見た後にふらふらと戻ってきて事務所までの道のりを歩いてみた。


駅から会社に行くときに通る大通り沿いの店は随分様変わりしていた。
その通りから会社に向かう曲がり角のカフェはなくなっていた。
会社のすぐ近くのこ洒落たイタリアンレストランは今もあった。
よく通った定食屋は今でもあって同じおばさんがいた。
社員御用達の風呂屋は今もひっそりと営業していた。
駅を出てすぐの角にあったお店はワインを売る店になっていた。

だけど、それが元は何のお店だったか思い出せなかった。


相変わらずで、変わっていなかったものは、懐かしさとか安心感を与えてくれたけど、それだけでなく、自分のいなくなった後も何も変わらず在り続けているということに、なんとも言えない寂しさとか虚しさみたいなものもあったりした。
変わってしまったものは、僕が会社をやめてから時間が経っていることを改めて認識させたんだけど、その中には思い出せなくなってしまっているものもあり、あの頃のことをだんだんと忘れて行ってしまうことは仕方のないことなんだけど、でもやっぱり寂しいことなわけで、忘れちゃったな...、と苦笑いしてみたりした。

変わっているものがあり、変わっていないものもある。
憶えていることもあるし、忘れてしまうこともある。
すごく当たり前で、すごく普通のこと。

だから、ノスタルジックな思い出に浸った出来事についてのただの感想です。
それだけ。
だけど、それがすべて。


その後、あの頃の"いつも"の帰り方、日比谷線に乗ろうと降りて行き、切符を買おうとしたら、券売機も変わっていて、なんか笑った。

新しくて、きれいな、最新式の自動券売機。

planke at 02:27|PermalinkComments(2)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年06月05日

"想い"がない

昨日は、卒業研究を共同で行った山野美容専門学校の先生に久しぶりに会いました。

用件は、先生が発表をするということで研究内容についての細かいことの説明。
とまあこれは別にちゃっちゃとやったわけなんだけど、ついでに最近できたと聞いていた研究内容から作成したソフト(内容については書くとまずいかも?と思うので一応伏せておきます。)を見せてもらいました。

まず自分の研究したことがソフトになってることに単純に感激。
やはりあの頃は時間的にもきつかったりで苦労したなぁ、でもあの作業は意外と楽しかったなぁ、などなど月並みな回想をしたりなんかして。
それに、このソフト化までこぎつけるというのが当初からの目的であったので、約1年半かけてやっと(とりあえず)完成したということになんとも言えない感慨がありました。

んで、こういう喜びとか、感動ってすごいモチベーションになるよな、と(当たり前のことを)しみじみ感じた次第です。
もちろん研究だけでなく、それが何であれ。


それから、用件が済んだ後の雑談。


この研究結果をどのように活用していくのか、ということについて話を聞いていたんだけど、そこから「美容ということがどのように人を幸せにしたり、助けたりできるか」ということについて話題が広がっていきました。
んで、僕はその話、というか、そういったことに対する先生の"想い"を聞いて泣きそうになってしまった。

きっと誰でもそうだと思うけど、人の強い"想い"に触れると泣き出したくなる。
それが純粋であればあるほど、心からの叫びであればあるほど。
これが、泣きそうになった1つの理由だと思う。

だけど、それだけじゃない。

僕には、そのような強い"想い"を抱くに至る対象がまだない。何もない。
だから、誰かの想いの強さを目にし自分の想いの無さを改めて意識させられると、情けない、というか悲しく思うのです。

僕には、自分の能力を活かして人を助けたいという想いもなければ、その結果としてより良い社会に変えて行くことに貢献したいという想いもない。
僕が今やりたいと思っていることは、自分にとって興味深いかどうか、楽しそうかどうか、そんな単純なことでしかない。
これを、追求の対象が外にあるのではなく内に向いている、と考えることはできても、それでも今の僕はそんな強い想いを持ち得ていないと思う。

そういうものを皆が皆持たなければならない、とは別に思わない。
それに想いだけがすべてじゃない。それを成し得る力がなければ意味がない。
だけど一方で、やはりそれがある人間とない人間とでは、何をするにも最後の"強さ"が違う。
目指した成果物、表現したもの、に最後の"何か"が宿るかどうか、薄っぺらなものでなく中身のあるものになるかどうか、人の気持ちを揺り動かすことができるかどうか。その紙一重だけど、大きな違い。
それが自分にないのがつらい。

最初から強い想いがなくても、やっていくうちに生まれていくかもしれない。
だけど自分にもいつかそういう想いが生まれる、とは今は思えない。


けれども、悲しいとか、つらいとか言ったところで、これが僕という人間が生きてきた結果なわけで。
問題意識のなさや、無関心さなど。すべて自分自身のせいなわけで。



さてどうしたものかな...。

もっとちゃんと生きなきゃな。

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2006年05月31日

結局、僕はそこに行き着く

うちの研究室のゼミの1つに読書会というのがあって、毎期1冊の本を選んでみんなで読むというものがあるのですが、先日このゼミの中で「なぜブログがこんなにも流行ったのか?」というような議題になりました。

このことに関する僕の考えはかなり固まっています。


人は根源的な欲求として人に理解されることを欲する生き物。
だからオンラインの形で誰かに見てもらえる可能性のあるブログというものにこぞって自分を表現する。

いやなことやつらいことを吐き出すのも、自分の苦しみを理解してもらいたいため。
おもしろいことや変なことを書くのは、自分をアピールする自己顕示なんだけど、それも結局は理解してもらいたいため。
"きちんとした形のもの"を発信することも、自分の考えからひいては自分自身を理解してもらいたいため。(上と同じパターンもありかも。)

基本的には今まで自分の周りの人間に対してしかできなかったことを、不特定多数の存在に対して行っているだけじゃないかと。


こんな感じです。

ちなみに、先生が教えてくれたかなり昔の雑誌の記事だと「他の人との繋がりを求めて」というような結論だったらしいけど、基本的には同じことなんじゃないかと思います。

書くこと自体に意味を見出しているならば、自分自身のプライベートな日記なりでいいわけで。
今ブログを書いている人の皆が皆、日記という形で付け続けるとは僕には到底思えません。

うちの先生は「ブログという形で公開するために、文章(論理構成)の最後の詰めをするようになる」というようなことを目的として挙げていたけど、きっとそれは稀なほうなんじゃないかと思います。
(あとは半コミュニティ化してえるものなんかも例外かな。)

でまあ、僕は上のような自分の意見を述べたわけなんですが、みんなのリアクション薄かったなぁ...。

何でこの人こんなこと必死に訴えてるんだろ、て心配されたのかも(笑)。
少し感情的に訴えすぎたような気がして、後で思い出してみて恥ずかしくなった訳なんですが。

でも僕は本気でそう思っているのです。

んで、もちろん自分自身もこのブログに対してそうなんだと思っています。とても強く。


(以下、僕の仮説の上での話なのであしからず。)

けれども、この考えに想いを馳せていると無性に寂しくなってくるのです。
自分自身を理解してもらうことを求めて、こんなにも多くの人たちが日々ブログを書き続けているんだな、と考えると。

こんな根源的な欲求がなんで植え付けられているんだろね。

「この惑星は人々の寂寥を滋養として回転を続けているのか。」(スプートニクの恋人 / 村上春樹)

ってかぁ。おもしろいこと言ってくれるね。



まあ、そういう想いが存在しないのはもっと寂しいことだろうけどさ。

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2006年05月28日

「BIG RIVER」

f5857a25.jpg今週も公開初日に行ってきました。

BIG RIVER
監督: 船橋淳
出演: オダギリジョー / カヴィ・ラズ / クロエ・スナイダー

以下ストーリー抜粋

****************************
アリゾナの砂漠を1人の日本人バックパッカーが歩いている。ヒッチハイクで大陸横断を試みている若者・哲平だ。哲平は砂漠の中で、パキスタン人の男・アリが運転していた車が立ち往生しているのに出会う。修理して哲平を乗せて走り出した車だが、まもなくガス欠になりストップ。歩いてガススタンドへ向かう哲平を拾ったのは、若いアメリカ人女性サラ。故障した車を残し、2人はサラの家へ行く。サラはアル中の祖父とトレーラーハウス暮しをしていた。そしてアリはアメリカで消息を絶った妻を探しに来ていると2人に告げる。
****************************

ストーリーの説明か何かで、劇中で描かれるのが4日間だと聞いたときには最初少し物足りなそうな気がしました。長い旅の中での内面的成長や他の2人との間に生まれる友情なりを描く、というのが僕が期待した展開で好きな展開だからです。それにそういう展開が"こういう"映画の王道だと思うし。
だけど短いならそれはそれで密な展開で描けばいいわけで、さてどうだろう、と期待して見たわけですが、かなりあっさり。セリフもほとんどないし。
密と言えば確かに密なんだけど、3人のキャラクターがなかなか掘り下げられない展開にやきもき。
場面場面でいいなと思える部分はけっこうあるけれど、でも雰囲気で押し通すのかも・・・、と思ったりしながら展開を追っていたわけです。

だけどまあそうならそうで別に良かったんです。
僕にとっては"オダギリジョー"が"車"で"アメリカ"を旅する、ってだけでまあいいかな、くらいだったので。
映像は前評判通りほんとに美しかったし。

警察官に捕まる場面で、3人の車の後ろのガラスが警察官の車のヘッドライトに照らされてなんとも言えない色で反射しているカットとか、うわぁ・・、って感じの美しさでした。
この映像のためにこのエピソードを入れたんじゃないかと思うくらい。(それはないけど...。)


ストーリーの話に戻ると、
でも、そんな描き方なのに、気付くとものすごく引き込まれてしまっていたのです。

説得力とかを越えた部分で何か良さがあった、と思う。
突き詰めるとやはり「場面場面が力強くて、その結果説得力があった」ということになるのかも知れないけど、これでは自分の感じた良さを表現できていないのです。

なんなんでしょう。
セリフ+言葉以外のモノ(表情、しぐさ、間などなど)に加えて、周りを取り囲む雄大な風景が何か効いていたのかも、と少し思いました。
全然意味不明だけど、この説明...。


雰囲気だけの映画だと言ってしまえばそうかもしれない。
昔の自分なら、そう思って切り捨てていたような気がする。
でも、今日この映画を見た僕は、なかなか良かったなぁ、と感じた。
その違いは何なのかが、よくわからない。

ラストシーンが終わった後のスタッフロールの間、涙をこらえていたのはきっと僕くらいなんじゃないか、と思う。
だって、"あの"ラストで何で泣きそうになっているのか自分でもわからなかったので。



まあいいや。

それがわかることが何だって言うんだよ、とね。

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2006年05月25日

やれやれ

村上春樹の小説の登場人物はよく「やれやれ」という言葉を口にします。

あるいは僕の印象に強く残っているだけでそんなに多くないのかもしれないけど、とにかくいろんな状況に対して、やれやれ、という言葉が用いられていたように思います。
だいたいは会話の終わり際にぽつんと。

何か困った状況になったときに「やれやれ・・・」って感じとか、
相手の言ったことに苦笑いで「やれやれ・・・」って感じとか、
何かにあきれて、でも何か感覚的な情のある「やれやれ」って感じとか。

一般的な意味での"不満の感情の吐露"というような使われ方の面はあまりなく、自分に向けて放たれているような使われ方の面が強い感じ。
あるいは、彼の小説ではいろいろと風変わりなことが起きたり、身に降り掛かってきたりするんだけど、そういった事態を受け入れることを"ポジティヴでもネガティヴでもなく"諦めたり、妥協したりといった容認の意味での「やれやれ」。
そう考えると(上で書いた)"苦笑い"という表現が一番近いのかな...。

だから、もしこの言葉を使う時に誰か相手がいるならば、それは相手を突き放すような感じはなくて、事態に対して自分の中で消化して了解している、受け入れている、受け止めている、とかそういう感じ。
それは自分に対して、相手に対して、事態に対して、もっと言うと世界に対して、自分の価値観を越えたものでさえ許容する態度があればこそ、なんだろうなと思います。


・・・って、やっぱりどうにもうまく表現できないなぁ...。

小説を読んだらこの雰囲気が一発で伝わる、と思うのだけどそれはあまりに身も蓋もない...。


んで、まあ僕この言葉を気に入っていまして、小説のように誰かに向けて使うということは(意識している限りでは)ないと思うんだけど、いつのまにかけっこう1人言で使うようになっていることを最近自覚しました。

1日の終わりにいろんなことを考えてみて、とか、
誰かと話し込んだ後に振り返ってみて、とか。

この言葉を口にすると、沈み込みそうになる気持ちが少し軽くなるような気がします。

いろいろと絡み合ったり、もやもやしている何やかやをそのままで受け入れられそうだからね。


って書くとなんか意味深だな...。


まあいいや。

とにかく、おまじないみたいでいい言葉だなと思うのです。

planke at 23:18|PermalinkComments(2)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年05月21日

「雪に願うこと」

38e9204a.jpg映画「雪に願うこと」を見に行ってきました。


ストーリーを抜粋
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東京での成功を夢見て故郷と家族を捨てた矢崎学(伊勢谷友介)だが、事業に失敗し全てを失ってしまう。行き場を失った学は、故郷の帯広で“ばんえい競馬”の厩舎を営む兄・威夫(佐藤浩市)の元へ13年ぶりに戻ってくる。兄の厩舎で個性的な仲間たちや馬と共に寝起きするうちに、学は人生をやり直す気力を取り戻してゆく。
**************************

と、いかにも僕好みな感じなわけで、珍しく公開初日に足を運んでみました。


それで感想はと言うと、まあほんとにいい映画でしたよ。しみじみ。

「素朴な生活を営む兄と、故郷を馬鹿にし都会に出て1度は成功したものの挫折して戻ってきた弟」という対立の構図を軸に描くのではなく、
復活を賭けてレースに出場しようとする馬に、主人公が自分を重ね合わせる、という視点を軸に描くわけでもなく。
それに、場面場面が描いているものが、"主人公への教訓"というような押し付けがましさもなく。
そこに暮らす人たちの、地に足をつけ"ただ生きる"ということ、が淡々と描かれる。

そして彼らとふれ合い生活していくことで、主人公は人間的に成長して行く。


挫折して故郷に戻ってくる、という設定とか、失った何かを取り戻すといった展開とか、
また、こうした淡々とした描かれ方とか、別段目新しさは何もないかもしれない。

それでも、地に足をつけ"ただ生きる"ということ、このことの大切さは色褪せるものではないわけで、その描写にリアリティーがあれば、映画は力強いものになる。

この映画にはそれがある。



「羨ましいな、兄さんが。迷わないで生きてる。」

「何言ってんだ。迷ってばかしだ。」

という兄弟の会話の場面や、

主人公の兄との関係について小泉今日子演じる賄い婦が「今のままで十分」と言う場面など、挙げ出したらキリがないけど、素敵な場面や言葉がたくさんあり、とくに何があるという訳ではないのに、何回も泣きそうになってしまった。

だけど、その理由を考え出すと余計に泣きそうになりそうで考えるのを止めた。
まあなんとなく自覚しているからなんだけどさ。



こうやって色々考えられる映画に出会えてよかったです。

planke at 02:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) movie | なんとなく思う

2006年05月13日

僕にはわかりません

昨日は朝から免許の更新に行ってきました。

初回だから鮫洲試験場限定。ちょっとついでに...、なんて場所でないので伸ばし伸ばしになっていて、危うく免許を失いかけました。
が、何はともあれ行った。自分を褒めました(笑)。

んでまあ、どうせいろいろと面倒くさいことをさせられるんだろうなぁ、と思って行ったわけなんだけど、意外にさくっと手際よく事は進みました。

流れ作業的にたらい回しにあっちこっちに移動させられるものの、基本的に待ち時間がない。
どこに進めばいいかは床を見ればいい。「更新」と書かれ張られた誘導のビニールテープ、それに沿って歩くだけ。
嗚呼、素晴らしき情報デザイン...。

で、一連の手続きが終わった後に僕は更新が"初回"なので2時間の講習。
(隣の外国人の方が「2時間! ワオッ!」って言ってました...。笑)

そして、その最後に交通規則に対する意識を高めるためのドラマ仕立てのビデオを見せられたんだけど、、
これが少し(かなり)問題があるように僕には思えました。


ストーリーは単純なもので、
まず、主人公の男性が飲酒運転して人を轢いて殺してしまいます。
そこから少し過去に戻り、なぜ飲酒運転をしてしまったのか?という彼なりの言い訳が回想シーンで展開されます。
仕事が上手く行く→一杯飲みに行く→帰り、自分が運転しないためにタクシーに乗ろうとするが混んでいる→明日朝早い→結局運転してしまう→事故を起こしてしまう
とまあそんな感じです。

それでそこからは、主人公を取り巻く環境が事故後どうなるかの描写。

主人公の奥さんが(主人公は刑務所の中だから)被害者の葬式に行くも遺族に追い返される。
賠償金が莫大なもので保険+貯蓄+家を売る、でも半分にも満たない。
そこで妻は主人公の退職金の前借りを頼みに行くも、会社は払えないと言い、さらに解雇されてしまう。
今度は実家に借金を頼みに行くが、お金はないとのこと。
子供は学校でいじめられ学校に行かなくなる。
妻は生きる希望を失い、自殺を試みるも子供に助けられる。

引っ越して今までとは違う苦しい生活が始まる。
夫は釈放され工事現場で働いてお金を稼ぐ。妻はパート、子供は新聞配達。

1つの飲酒運転が(引き起こした事故が)このような苦しみを生むことになる。

おしまい。


・・・って、焦点の当て方間違ってないですか?

主人公も含めた単なる"家族の行く末"描写。

あ〜、こんな悲惨なことになってしまうんだ。それはいやだなぁ。気をつけよっと。
ってなるんかい。

それより自分が軽い気持ちで犯してしまったことが人を殺してしまうという事の重大さ、道徳的・倫理的過ちに対する内省をメインに描くべきなんじゃないでしょうか?
これじゃあ単に、結局のところは人は罰によってしか抑えられない、ってことじゃないかと思うのです。

確かに、そういう現実的な罰こそが罪を抑制する最も効果的で強制力のあるものだと僕も思います。それを否定している訳ではないです。
ただ、その一面からの一方的な描き方はあんまりだと思うのです。
一応「主人公の奥さんが(主人公は刑務所の中だから)被害者の葬式に行くも遺族に追い返される。」とか、最後にテロップで「被害者の家族の悲しみは消えない」とか何とかってとってつけたように出てくるけど、なんだかなぁ...。

しかも、この主人公は過去にも飲酒運転で事故を起こしているって設定なんです。
そのときは相手も軽症で済み、保険により金銭的な負担は0であったから軽い気持ちだった、とか。
だから今回の事故と対比させて「保険で安心するな」と警告することで、罰に対する恐怖を上乗せしたいがための設定としか思えない。

極端な話、金持ってる人が見たらリアリティー0ですよ、これじゃあ。


このビデオの制作者は、大真面目に作ったのか、結局は罰だろ?と開き直って作ったのか、どっちなんでしょうね。

まあ、どっちでもいいや。


書いててどうでも良くなってきたよ。

planke at 22:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年05月11日

30人くらいの猫好きな人たち?

このブログには一応アクセスカウンターなるものが付いています。

ってまあリアルタイムでカウントされるわけではなく、前日の訪問者数の合計値を教えてくれるというしろものなんですが、左下の方にそれとなく表示させています。(非表示にもできますが。)

そもそも、こういうものが存在しているのに僕が気付いたのが確か去年の11月頃で、それまでどれくらいの人がこのブログを読んでくれているのか気にはなるものの全く知る術がなかったということもあり、気付いた最初の頃は毎日数字を興味深く眺めていました。

記憶が少し曖昧なんだけど、当時でだいたい記事を書くと15人くらいで、多いと20人程度。記事を書かないと10人いかなくて、5人平均くらいとかでした。まあみんながみんな書いてすぐ次の日に読んでくれるというわけではないので、書いた次の日の訪問者数=読者数という単純なことではないんだけど。
んで、この人数が予想より多いとか少ないとか、そういった感慨はとくになかったんだけど、読んでくれていそうな人たちを思い浮かべて指を折ってみるとそれよりやや多いなぁ、全く知らない人も何人か読んでくれているのかなぁという感じでした。

ちなみに、年内で僕が訪問者数を確認した日の中だと、最高が確か24人、最低が1人とか。ちなみに最低人数を記録したのは年末のいつかで、その1人はきっと僕自身です(笑)。
普段、多忙な中このブログに目を通してくれている人たちも、年末はPCの前にいることなく穏やかに過ごしたのでしょう。
平和で何よりです...。

脱線しました。。

んで、年が明けてからもそれとなく数字を気にしていたわけなんですが、相変わらず5~15人程度をふらふらしつつ、たまに3とか20というようにブレたりという感じで、まあ上に書いたくらいの変動と変わらずってところです。

とくに何もしていないので当然と言えば当然なんですが。(ってかなり気まぐれ更新なので、減らないだけ感謝すべきか...。)


と、ここまでが前フリだったわけなんですが、少し驚くべきことが。

なぜか昨日(3/10)の訪問者数が47人。
これは(あくまで確認した日の中で)過去最高記録で、普段の数からすると"今日ちょっと増えた"のレベルじゃないですよね。

まず単純嬉しかったです。

でもなんで??


というわけで、考えてみたんだけど、まず思ったのが昨日のねこ記事のせいかな...?ということ。
あのsharpのCMを見た猫好きな人たちがブログに対して検索かけたところ、30人くらいがこのブログに辿り着いた、と。

この考えだと、あのCMの最新版はまだ始まって間もないので、明日以降も同様の理由で人数が増え続けることになります。ふむふむ。

ねこ記事原因説であと考えられるのは、Livedoor Blogの更新一覧に表示された際に、タイトルの「ねこです」に(こちらも)猫好きの方々が興味を持ったとかも。
いずれにせよ要は猫好き。つまり同志(笑)。

んで次の説は、昨日の何らかのニュースに関連したキーワードなりで検索するとこのブログのどれかの記事がヒットした、というもの。
でももちろん、何のニュースか、どの記事に対してかは全く想像もつきません。

あとは、どこかのブログなり何なりにこのブログのリンクが張られたとか?
何故かは全くわからないけど。


う〜ん。
このインターネットの世界で「何らかの情報(ニュース、CMなどなど含む)から気になって検索をする、それもブログに対して」って人がどれくらい存在しているのかって僕には全く検討もつかない話で、仮に「その検索の結果、このブログにたどり着いたのが30人なんだよ」と言われても「へぇ〜」としか言えないなぁ。。
このインターネットの膨大な情報の海から、どれくらいのオーダーでこのブログに辿り着くのか?は完全の想像の範囲外です。

まああれこれと考えてみたところで、今のところどれも推測の域を超えず、ですね。

明日以降の数で少しは絞れるかな。まあ楽しみにしておきます。



ちなみに、
僕が気に入っているのは言わずもがな"ねこ記事検索説"です。

だって"30人くらいの猫好きな人たち"って想像、なんか素敵じゃないですか(笑)。

planke at 14:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年05月10日

「ねこです」

猫1猫2猫3










今日は猫好き以外にはつらい記事です(笑)。


というのも、sharpのecoシリーズCMの猫がかわいすぎる、って話だからです...。

猫。と言うよりこの猫と犬。と言うよりもうこのCMの雰囲気全てなんですが。


とまあ、
あまり褒めてばかりいると、ただの猫馬鹿なんで(まあ事実そうだけどさ・・)弁解しておきますと、

僕猫好きだけど、猫のCMでそんなに惹かれたことない気がするんです。

たいていお上品な猫とか、かわいい猫が出てきてって感じとか、まあとにかく小綺麗にまとまっていて、それでも猫好きとして一応「あ、猫だ。いいなぁ〜」くらいは思ってるんだろうけど、そんなにくすぐられない。別に、というか。とにかく、そんなんにはやられない(笑)。
猫ではないですが、某消費者金融のCMの犬なんかはかわいいけど、むしろイメージは悪かったです。

そこでこのCMに目を向けると、動物の使い方自体は「狙ってるなぁ・・・」ってあざとさがなくもないと思う。
だけど、このCMはすごくいい。
それはecoを背負ってるってことによるイメージとか音楽、そしてこのなんとも言えないほのぼのとした犬猫のコラボレーションも含めた全体の雰囲気作りがうまいからなんだろうなぁと思います。
この犬猫、単に見た目がすごくかわいいというわけでなく、なんか味のある奴らですよね。(いやまあ普通にかわいいと言えばかわいいけどさ。微妙な仕草とか。)

ってのがまず。

あと、それに加えてこのCMの決め手はやはりナレーションなんじゃないかと思います。
吉岡秀隆の素朴で優しげな声がハマっているし、毎回定番の「ねこです」の一言が雰囲気を決定づけているのではないか、と。
もちろん、それに続く一連の語りも毎回すごくいいと思うけど、やはり決め手は「ねこです」に尽きるのではないかと思うのです。

全シリーズ共通して
「〜なんたらかんたら〜」「ねこです。」
と「ねこです。」の一言をぽつんとさせて強調している。
これは、前の言葉からの流れが良くないような気がするものもある(「サンビスタとカモメ篇」)。まあ逆にリズムが生まれているとも言えるけど。
しかしいずれにせよ、ものすごく主張している。

そこに制作者のこの一言への並々ならぬこだわりを感じました(笑)。


とにかくそんな感じです。


さらっと褒めてさらっと終わらせようと思ったのにうだうだ書いてしまった...。



まあこのCMに関して僕ほど真面目に論じた人はいないだろう、と何気に自己満足(笑)。

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2006年05月05日

思い出を1つだけ

a2184097.jpgワンダフルライフ (1998)
監督: 是枝裕和  主演: ARATA


自分の人生の中から1つの場面を選び、
その思い出のみを持って死の世界に旅立つ。

死んだ人間の集まるこの施設では、職員たちがそういった思い出を選ぶ手助けをする。
その過程の1週間を描くというストーリー。


是枝監督の映画は「誰も知らない」を見ていて、あの映画をリアルタイムに映画館で見ることができたのは本当に良かったと思った。
それくらい僕にとって、考えさせられて、衝撃的で、心に残る映画でした。

そしてこの映画も同じようにかなり良かったです。


この映画を見た人は多分、この映画の死者と同じように「自分の人生において1つだけ残すならどの場面だろうか」と考えることになる、と思う。

たった1つ。それ以外のことはすべて忘れる。
その思い出の場面のみが永遠に記憶され、その思い出の場面の感情のみが永遠に保存される。

1つだけ。たった1つだけ残す場面。
どういう思い出を取っておきたい?
どういう感情を忘れたくない?
それは誰かとの思い出?それはどういう相手?...

こういったことに想いを馳せ、人生における大切な思い出ってどういうものなんだろう?と考えさせられる。


劇中、ARATAが小田エリカに言う。

僕はあの時、幸せな思い出を自分の中に必死になって探してた
そして50年経って、自分も人の幸せに参加してることがわかった
それはとっても素敵なことだった
君も、君にもいつかそんな時が来る

と。


自分が唯1つ選んだ思い出の場面を、その思い出を共有した相手が同じように選んでくれたとしたら、
それ以上に素敵なことなんて、おそらく何もない。


本当に、何もないんじゃないかと思う。

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