2006年05月

2006年05月31日

結局、僕はそこに行き着く

うちの研究室のゼミの1つに読書会というのがあって、毎期1冊の本を選んでみんなで読むというものがあるのですが、先日このゼミの中で「なぜブログがこんなにも流行ったのか?」というような議題になりました。

このことに関する僕の考えはかなり固まっています。


人は根源的な欲求として人に理解されることを欲する生き物。
だからオンラインの形で誰かに見てもらえる可能性のあるブログというものにこぞって自分を表現する。

いやなことやつらいことを吐き出すのも、自分の苦しみを理解してもらいたいため。
おもしろいことや変なことを書くのは、自分をアピールする自己顕示なんだけど、それも結局は理解してもらいたいため。
"きちんとした形のもの"を発信することも、自分の考えからひいては自分自身を理解してもらいたいため。(上と同じパターンもありかも。)

基本的には今まで自分の周りの人間に対してしかできなかったことを、不特定多数の存在に対して行っているだけじゃないかと。


こんな感じです。

ちなみに、先生が教えてくれたかなり昔の雑誌の記事だと「他の人との繋がりを求めて」というような結論だったらしいけど、基本的には同じことなんじゃないかと思います。

書くこと自体に意味を見出しているならば、自分自身のプライベートな日記なりでいいわけで。
今ブログを書いている人の皆が皆、日記という形で付け続けるとは僕には到底思えません。

うちの先生は「ブログという形で公開するために、文章(論理構成)の最後の詰めをするようになる」というようなことを目的として挙げていたけど、きっとそれは稀なほうなんじゃないかと思います。
(あとは半コミュニティ化してえるものなんかも例外かな。)

でまあ、僕は上のような自分の意見を述べたわけなんですが、みんなのリアクション薄かったなぁ...。

何でこの人こんなこと必死に訴えてるんだろ、て心配されたのかも(笑)。
少し感情的に訴えすぎたような気がして、後で思い出してみて恥ずかしくなった訳なんですが。

でも僕は本気でそう思っているのです。

んで、もちろん自分自身もこのブログに対してそうなんだと思っています。とても強く。


(以下、僕の仮説の上での話なのであしからず。)

けれども、この考えに想いを馳せていると無性に寂しくなってくるのです。
自分自身を理解してもらうことを求めて、こんなにも多くの人たちが日々ブログを書き続けているんだな、と考えると。

こんな根源的な欲求がなんで植え付けられているんだろね。

「この惑星は人々の寂寥を滋養として回転を続けているのか。」(スプートニクの恋人 / 村上春樹)

ってかぁ。おもしろいこと言ってくれるね。



まあ、そういう想いが存在しないのはもっと寂しいことだろうけどさ。

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2006年05月28日

「BIG RIVER」

f5857a25.jpg今週も公開初日に行ってきました。

BIG RIVER
監督: 船橋淳
出演: オダギリジョー / カヴィ・ラズ / クロエ・スナイダー

以下ストーリー抜粋

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アリゾナの砂漠を1人の日本人バックパッカーが歩いている。ヒッチハイクで大陸横断を試みている若者・哲平だ。哲平は砂漠の中で、パキスタン人の男・アリが運転していた車が立ち往生しているのに出会う。修理して哲平を乗せて走り出した車だが、まもなくガス欠になりストップ。歩いてガススタンドへ向かう哲平を拾ったのは、若いアメリカ人女性サラ。故障した車を残し、2人はサラの家へ行く。サラはアル中の祖父とトレーラーハウス暮しをしていた。そしてアリはアメリカで消息を絶った妻を探しに来ていると2人に告げる。
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ストーリーの説明か何かで、劇中で描かれるのが4日間だと聞いたときには最初少し物足りなそうな気がしました。長い旅の中での内面的成長や他の2人との間に生まれる友情なりを描く、というのが僕が期待した展開で好きな展開だからです。それにそういう展開が"こういう"映画の王道だと思うし。
だけど短いならそれはそれで密な展開で描けばいいわけで、さてどうだろう、と期待して見たわけですが、かなりあっさり。セリフもほとんどないし。
密と言えば確かに密なんだけど、3人のキャラクターがなかなか掘り下げられない展開にやきもき。
場面場面でいいなと思える部分はけっこうあるけれど、でも雰囲気で押し通すのかも・・・、と思ったりしながら展開を追っていたわけです。

だけどまあそうならそうで別に良かったんです。
僕にとっては"オダギリジョー"が"車"で"アメリカ"を旅する、ってだけでまあいいかな、くらいだったので。
映像は前評判通りほんとに美しかったし。

警察官に捕まる場面で、3人の車の後ろのガラスが警察官の車のヘッドライトに照らされてなんとも言えない色で反射しているカットとか、うわぁ・・、って感じの美しさでした。
この映像のためにこのエピソードを入れたんじゃないかと思うくらい。(それはないけど...。)


ストーリーの話に戻ると、
でも、そんな描き方なのに、気付くとものすごく引き込まれてしまっていたのです。

説得力とかを越えた部分で何か良さがあった、と思う。
突き詰めるとやはり「場面場面が力強くて、その結果説得力があった」ということになるのかも知れないけど、これでは自分の感じた良さを表現できていないのです。

なんなんでしょう。
セリフ+言葉以外のモノ(表情、しぐさ、間などなど)に加えて、周りを取り囲む雄大な風景が何か効いていたのかも、と少し思いました。
全然意味不明だけど、この説明...。


雰囲気だけの映画だと言ってしまえばそうかもしれない。
昔の自分なら、そう思って切り捨てていたような気がする。
でも、今日この映画を見た僕は、なかなか良かったなぁ、と感じた。
その違いは何なのかが、よくわからない。

ラストシーンが終わった後のスタッフロールの間、涙をこらえていたのはきっと僕くらいなんじゃないか、と思う。
だって、"あの"ラストで何で泣きそうになっているのか自分でもわからなかったので。



まあいいや。

それがわかることが何だって言うんだよ、とね。

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2006年05月25日

やれやれ

村上春樹の小説の登場人物はよく「やれやれ」という言葉を口にします。

あるいは僕の印象に強く残っているだけでそんなに多くないのかもしれないけど、とにかくいろんな状況に対して、やれやれ、という言葉が用いられていたように思います。
だいたいは会話の終わり際にぽつんと。

何か困った状況になったときに「やれやれ・・・」って感じとか、
相手の言ったことに苦笑いで「やれやれ・・・」って感じとか、
何かにあきれて、でも何か感覚的な情のある「やれやれ」って感じとか。

一般的な意味での"不満の感情の吐露"というような使われ方の面はあまりなく、自分に向けて放たれているような使われ方の面が強い感じ。
あるいは、彼の小説ではいろいろと風変わりなことが起きたり、身に降り掛かってきたりするんだけど、そういった事態を受け入れることを"ポジティヴでもネガティヴでもなく"諦めたり、妥協したりといった容認の意味での「やれやれ」。
そう考えると(上で書いた)"苦笑い"という表現が一番近いのかな...。

だから、もしこの言葉を使う時に誰か相手がいるならば、それは相手を突き放すような感じはなくて、事態に対して自分の中で消化して了解している、受け入れている、受け止めている、とかそういう感じ。
それは自分に対して、相手に対して、事態に対して、もっと言うと世界に対して、自分の価値観を越えたものでさえ許容する態度があればこそ、なんだろうなと思います。


・・・って、やっぱりどうにもうまく表現できないなぁ...。

小説を読んだらこの雰囲気が一発で伝わる、と思うのだけどそれはあまりに身も蓋もない...。


んで、まあ僕この言葉を気に入っていまして、小説のように誰かに向けて使うということは(意識している限りでは)ないと思うんだけど、いつのまにかけっこう1人言で使うようになっていることを最近自覚しました。

1日の終わりにいろんなことを考えてみて、とか、
誰かと話し込んだ後に振り返ってみて、とか。

この言葉を口にすると、沈み込みそうになる気持ちが少し軽くなるような気がします。

いろいろと絡み合ったり、もやもやしている何やかやをそのままで受け入れられそうだからね。


って書くとなんか意味深だな...。


まあいいや。

とにかく、おまじないみたいでいい言葉だなと思うのです。

planke at 23:18|PermalinkComments(2)TrackBack(0) なんとなく思う 

2006年05月21日

「雪に願うこと」

38e9204a.jpg映画「雪に願うこと」を見に行ってきました。


ストーリーを抜粋
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東京での成功を夢見て故郷と家族を捨てた矢崎学(伊勢谷友介)だが、事業に失敗し全てを失ってしまう。行き場を失った学は、故郷の帯広で“ばんえい競馬”の厩舎を営む兄・威夫(佐藤浩市)の元へ13年ぶりに戻ってくる。兄の厩舎で個性的な仲間たちや馬と共に寝起きするうちに、学は人生をやり直す気力を取り戻してゆく。
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と、いかにも僕好みな感じなわけで、珍しく公開初日に足を運んでみました。


それで感想はと言うと、まあほんとにいい映画でしたよ。しみじみ。

「素朴な生活を営む兄と、故郷を馬鹿にし都会に出て1度は成功したものの挫折して戻ってきた弟」という対立の構図を軸に描くのではなく、
復活を賭けてレースに出場しようとする馬に、主人公が自分を重ね合わせる、という視点を軸に描くわけでもなく。
それに、場面場面が描いているものが、"主人公への教訓"というような押し付けがましさもなく。
そこに暮らす人たちの、地に足をつけ"ただ生きる"ということ、が淡々と描かれる。

そして彼らとふれ合い生活していくことで、主人公は人間的に成長して行く。


挫折して故郷に戻ってくる、という設定とか、失った何かを取り戻すといった展開とか、
また、こうした淡々とした描かれ方とか、別段目新しさは何もないかもしれない。

それでも、地に足をつけ"ただ生きる"ということ、このことの大切さは色褪せるものではないわけで、その描写にリアリティーがあれば、映画は力強いものになる。

この映画にはそれがある。



「羨ましいな、兄さんが。迷わないで生きてる。」

「何言ってんだ。迷ってばかしだ。」

という兄弟の会話の場面や、

主人公の兄との関係について小泉今日子演じる賄い婦が「今のままで十分」と言う場面など、挙げ出したらキリがないけど、素敵な場面や言葉がたくさんあり、とくに何があるという訳ではないのに、何回も泣きそうになってしまった。

だけど、その理由を考え出すと余計に泣きそうになりそうで考えるのを止めた。
まあなんとなく自覚しているからなんだけどさ。



こうやって色々考えられる映画に出会えてよかったです。

planke at 02:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) movie | なんとなく思う

2006年05月13日

僕にはわかりません

昨日は朝から免許の更新に行ってきました。

初回だから鮫洲試験場限定。ちょっとついでに...、なんて場所でないので伸ばし伸ばしになっていて、危うく免許を失いかけました。
が、何はともあれ行った。自分を褒めました(笑)。

んでまあ、どうせいろいろと面倒くさいことをさせられるんだろうなぁ、と思って行ったわけなんだけど、意外にさくっと手際よく事は進みました。

流れ作業的にたらい回しにあっちこっちに移動させられるものの、基本的に待ち時間がない。
どこに進めばいいかは床を見ればいい。「更新」と書かれ張られた誘導のビニールテープ、それに沿って歩くだけ。
嗚呼、素晴らしき情報デザイン...。

で、一連の手続きが終わった後に僕は更新が"初回"なので2時間の講習。
(隣の外国人の方が「2時間! ワオッ!」って言ってました...。笑)

そして、その最後に交通規則に対する意識を高めるためのドラマ仕立てのビデオを見せられたんだけど、、
これが少し(かなり)問題があるように僕には思えました。


ストーリーは単純なもので、
まず、主人公の男性が飲酒運転して人を轢いて殺してしまいます。
そこから少し過去に戻り、なぜ飲酒運転をしてしまったのか?という彼なりの言い訳が回想シーンで展開されます。
仕事が上手く行く→一杯飲みに行く→帰り、自分が運転しないためにタクシーに乗ろうとするが混んでいる→明日朝早い→結局運転してしまう→事故を起こしてしまう
とまあそんな感じです。

それでそこからは、主人公を取り巻く環境が事故後どうなるかの描写。

主人公の奥さんが(主人公は刑務所の中だから)被害者の葬式に行くも遺族に追い返される。
賠償金が莫大なもので保険+貯蓄+家を売る、でも半分にも満たない。
そこで妻は主人公の退職金の前借りを頼みに行くも、会社は払えないと言い、さらに解雇されてしまう。
今度は実家に借金を頼みに行くが、お金はないとのこと。
子供は学校でいじめられ学校に行かなくなる。
妻は生きる希望を失い、自殺を試みるも子供に助けられる。

引っ越して今までとは違う苦しい生活が始まる。
夫は釈放され工事現場で働いてお金を稼ぐ。妻はパート、子供は新聞配達。

1つの飲酒運転が(引き起こした事故が)このような苦しみを生むことになる。

おしまい。


・・・って、焦点の当て方間違ってないですか?

主人公も含めた単なる"家族の行く末"描写。

あ〜、こんな悲惨なことになってしまうんだ。それはいやだなぁ。気をつけよっと。
ってなるんかい。

それより自分が軽い気持ちで犯してしまったことが人を殺してしまうという事の重大さ、道徳的・倫理的過ちに対する内省をメインに描くべきなんじゃないでしょうか?
これじゃあ単に、結局のところは人は罰によってしか抑えられない、ってことじゃないかと思うのです。

確かに、そういう現実的な罰こそが罪を抑制する最も効果的で強制力のあるものだと僕も思います。それを否定している訳ではないです。
ただ、その一面からの一方的な描き方はあんまりだと思うのです。
一応「主人公の奥さんが(主人公は刑務所の中だから)被害者の葬式に行くも遺族に追い返される。」とか、最後にテロップで「被害者の家族の悲しみは消えない」とか何とかってとってつけたように出てくるけど、なんだかなぁ...。

しかも、この主人公は過去にも飲酒運転で事故を起こしているって設定なんです。
そのときは相手も軽症で済み、保険により金銭的な負担は0であったから軽い気持ちだった、とか。
だから今回の事故と対比させて「保険で安心するな」と警告することで、罰に対する恐怖を上乗せしたいがための設定としか思えない。

極端な話、金持ってる人が見たらリアリティー0ですよ、これじゃあ。


このビデオの制作者は、大真面目に作ったのか、結局は罰だろ?と開き直って作ったのか、どっちなんでしょうね。

まあ、どっちでもいいや。


書いててどうでも良くなってきたよ。

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2006年05月11日

30人くらいの猫好きな人たち?

このブログには一応アクセスカウンターなるものが付いています。

ってまあリアルタイムでカウントされるわけではなく、前日の訪問者数の合計値を教えてくれるというしろものなんですが、左下の方にそれとなく表示させています。(非表示にもできますが。)

そもそも、こういうものが存在しているのに僕が気付いたのが確か去年の11月頃で、それまでどれくらいの人がこのブログを読んでくれているのか気にはなるものの全く知る術がなかったということもあり、気付いた最初の頃は毎日数字を興味深く眺めていました。

記憶が少し曖昧なんだけど、当時でだいたい記事を書くと15人くらいで、多いと20人程度。記事を書かないと10人いかなくて、5人平均くらいとかでした。まあみんながみんな書いてすぐ次の日に読んでくれるというわけではないので、書いた次の日の訪問者数=読者数という単純なことではないんだけど。
んで、この人数が予想より多いとか少ないとか、そういった感慨はとくになかったんだけど、読んでくれていそうな人たちを思い浮かべて指を折ってみるとそれよりやや多いなぁ、全く知らない人も何人か読んでくれているのかなぁという感じでした。

ちなみに、年内で僕が訪問者数を確認した日の中だと、最高が確か24人、最低が1人とか。ちなみに最低人数を記録したのは年末のいつかで、その1人はきっと僕自身です(笑)。
普段、多忙な中このブログに目を通してくれている人たちも、年末はPCの前にいることなく穏やかに過ごしたのでしょう。
平和で何よりです...。

脱線しました。。

んで、年が明けてからもそれとなく数字を気にしていたわけなんですが、相変わらず5~15人程度をふらふらしつつ、たまに3とか20というようにブレたりという感じで、まあ上に書いたくらいの変動と変わらずってところです。

とくに何もしていないので当然と言えば当然なんですが。(ってかなり気まぐれ更新なので、減らないだけ感謝すべきか...。)


と、ここまでが前フリだったわけなんですが、少し驚くべきことが。

なぜか昨日(3/10)の訪問者数が47人。
これは(あくまで確認した日の中で)過去最高記録で、普段の数からすると"今日ちょっと増えた"のレベルじゃないですよね。

まず単純嬉しかったです。

でもなんで??


というわけで、考えてみたんだけど、まず思ったのが昨日のねこ記事のせいかな...?ということ。
あのsharpのCMを見た猫好きな人たちがブログに対して検索かけたところ、30人くらいがこのブログに辿り着いた、と。

この考えだと、あのCMの最新版はまだ始まって間もないので、明日以降も同様の理由で人数が増え続けることになります。ふむふむ。

ねこ記事原因説であと考えられるのは、Livedoor Blogの更新一覧に表示された際に、タイトルの「ねこです」に(こちらも)猫好きの方々が興味を持ったとかも。
いずれにせよ要は猫好き。つまり同志(笑)。

んで次の説は、昨日の何らかのニュースに関連したキーワードなりで検索するとこのブログのどれかの記事がヒットした、というもの。
でももちろん、何のニュースか、どの記事に対してかは全く想像もつきません。

あとは、どこかのブログなり何なりにこのブログのリンクが張られたとか?
何故かは全くわからないけど。


う〜ん。
このインターネットの世界で「何らかの情報(ニュース、CMなどなど含む)から気になって検索をする、それもブログに対して」って人がどれくらい存在しているのかって僕には全く検討もつかない話で、仮に「その検索の結果、このブログにたどり着いたのが30人なんだよ」と言われても「へぇ〜」としか言えないなぁ。。
このインターネットの膨大な情報の海から、どれくらいのオーダーでこのブログに辿り着くのか?は完全の想像の範囲外です。

まああれこれと考えてみたところで、今のところどれも推測の域を超えず、ですね。

明日以降の数で少しは絞れるかな。まあ楽しみにしておきます。



ちなみに、
僕が気に入っているのは言わずもがな"ねこ記事検索説"です。

だって"30人くらいの猫好きな人たち"って想像、なんか素敵じゃないですか(笑)。

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2006年05月10日

「ねこです」

猫1猫2猫3










今日は猫好き以外にはつらい記事です(笑)。


というのも、sharpのecoシリーズCMの猫がかわいすぎる、って話だからです...。

猫。と言うよりこの猫と犬。と言うよりもうこのCMの雰囲気全てなんですが。


とまあ、
あまり褒めてばかりいると、ただの猫馬鹿なんで(まあ事実そうだけどさ・・)弁解しておきますと、

僕猫好きだけど、猫のCMでそんなに惹かれたことない気がするんです。

たいていお上品な猫とか、かわいい猫が出てきてって感じとか、まあとにかく小綺麗にまとまっていて、それでも猫好きとして一応「あ、猫だ。いいなぁ〜」くらいは思ってるんだろうけど、そんなにくすぐられない。別に、というか。とにかく、そんなんにはやられない(笑)。
猫ではないですが、某消費者金融のCMの犬なんかはかわいいけど、むしろイメージは悪かったです。

そこでこのCMに目を向けると、動物の使い方自体は「狙ってるなぁ・・・」ってあざとさがなくもないと思う。
だけど、このCMはすごくいい。
それはecoを背負ってるってことによるイメージとか音楽、そしてこのなんとも言えないほのぼのとした犬猫のコラボレーションも含めた全体の雰囲気作りがうまいからなんだろうなぁと思います。
この犬猫、単に見た目がすごくかわいいというわけでなく、なんか味のある奴らですよね。(いやまあ普通にかわいいと言えばかわいいけどさ。微妙な仕草とか。)

ってのがまず。

あと、それに加えてこのCMの決め手はやはりナレーションなんじゃないかと思います。
吉岡秀隆の素朴で優しげな声がハマっているし、毎回定番の「ねこです」の一言が雰囲気を決定づけているのではないか、と。
もちろん、それに続く一連の語りも毎回すごくいいと思うけど、やはり決め手は「ねこです」に尽きるのではないかと思うのです。

全シリーズ共通して
「〜なんたらかんたら〜」「ねこです。」
と「ねこです。」の一言をぽつんとさせて強調している。
これは、前の言葉からの流れが良くないような気がするものもある(「サンビスタとカモメ篇」)。まあ逆にリズムが生まれているとも言えるけど。
しかしいずれにせよ、ものすごく主張している。

そこに制作者のこの一言への並々ならぬこだわりを感じました(笑)。


とにかくそんな感じです。


さらっと褒めてさらっと終わらせようと思ったのにうだうだ書いてしまった...。



まあこのCMに関して僕ほど真面目に論じた人はいないだろう、と何気に自己満足(笑)。

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2006年05月05日

思い出を1つだけ

a2184097.jpgワンダフルライフ (1998)
監督: 是枝裕和  主演: ARATA


自分の人生の中から1つの場面を選び、
その思い出のみを持って死の世界に旅立つ。

死んだ人間の集まるこの施設では、職員たちがそういった思い出を選ぶ手助けをする。
その過程の1週間を描くというストーリー。


是枝監督の映画は「誰も知らない」を見ていて、あの映画をリアルタイムに映画館で見ることができたのは本当に良かったと思った。
それくらい僕にとって、考えさせられて、衝撃的で、心に残る映画でした。

そしてこの映画も同じようにかなり良かったです。


この映画を見た人は多分、この映画の死者と同じように「自分の人生において1つだけ残すならどの場面だろうか」と考えることになる、と思う。

たった1つ。それ以外のことはすべて忘れる。
その思い出の場面のみが永遠に記憶され、その思い出の場面の感情のみが永遠に保存される。

1つだけ。たった1つだけ残す場面。
どういう思い出を取っておきたい?
どういう感情を忘れたくない?
それは誰かとの思い出?それはどういう相手?...

こういったことに想いを馳せ、人生における大切な思い出ってどういうものなんだろう?と考えさせられる。


劇中、ARATAが小田エリカに言う。

僕はあの時、幸せな思い出を自分の中に必死になって探してた
そして50年経って、自分も人の幸せに参加してることがわかった
それはとっても素敵なことだった
君も、君にもいつかそんな時が来る

と。


自分が唯1つ選んだ思い出の場面を、その思い出を共有した相手が同じように選んでくれたとしたら、
それ以上に素敵なことなんて、おそらく何もない。


本当に、何もないんじゃないかと思う。

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2006年05月02日

そんなことならコンピューターにでもやらせればいい

よく読んでいるブログで紹介されていたのをきっかけに買ってみました。

○パンセ / パスカル

んで、気に入った部分を抜粋↓


***************************************

人間はひとくきの葦にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。

だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えることを努めよう。
ここに道徳の原理がある。

***************************************


この文章の意味すること自体は、れいの有名な「人間は考える葦である」っていうやつで、まあ別に目新しさはないと言うか、、って感じなんだけど、なんかこの文章に魅かれました。
(って、そもそもこのパンセを紹介していたブログがこの部分を引用していて、買ってみよう!と魅かれたわけなんですが。)

「一滴の水」が醸し出すイメージとか、
「おしつぶす」という表現の持つ力強さとか、
あまりに小さい「彼」と壮大な「宇宙」とのスケールの違いとか、
尊いとか、尊厳という言葉の持つ重さとか
あとは「宇宙は何も知らない。」って部分の信仰心にも似た強さとか。

胸に訴えてくるものがあるなぁ、と思いました。



意味とか感覚を正確に伝えようとすることだけが表現の存在理由ではない
そんなことならコンピューターにでもやらせればいい

もしもこの世界に表現というものが存在しなかったとしたら
1つの意味はそれを表す何かで伝えられ
そこには想像の余地は何もない

それは心とか感情というものが存在しないのと同じことで
これほどつまらないことはないだろうね

そんな世界はまっぴらごめんだよ



なんとなくそんなことを考えてみたのでした。

planke at 02:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) book | なんとなく思う