2006年08月

2006年08月30日

ありふれた日常の中に

日常の1コマ。

朝、研究室に来るとだいたい誰も来ていないので、僕が電気を付けることになります。
部屋には2つの電気があり、対応するスイッチが2つある。だからそれらを何とはなしにぽちぽちと押していたのです。今までは。

だけど、ここ最近は自分の場所側の電気しか付けないようになりました。

というのも、「最初に来た人間がとりあえず両方の電気を点けておく」ってことで今までは意識せずにやってきたけど、今は一応夏休み期間であまり人も来ないのでとりあえず片っぽでいいかな、と。
それに夏の昼間の外の明るさと、部屋の若干の薄暗さがいい感じだって気付いたってのもあり。

とまあ、そんなこんなでなんとなく始めた片側電気な今日この頃だったわけなんだけど、最近同じように電気を点けようと思って、
「2コじゃなくて、自分の側1コでいいんだ。」
って意識していることを、意識したのです。

いつのまにか、この惰性の作業に1クッションの意識が習慣化してるなぁ、と。

それが少し嬉しかった。


こうやって日々繰り返す単純なことを、無意識にではなく、意識して行うということ。
惰性で行われていたことに、改めて想いを馳せてみるということ。

えっとまあ、こういうことを大切にしなきゃって頭ではわかっているつもりだし、今さらって感じもあるんだけど、やはり忘れがちなものなのでなんか嬉しかったのです。最近こういう感覚薄れていたんだろうなぁ、と気付いたこともあり。
まずいまずい。

毎日を少しでも有意義なものにするための身近な方法は、ありふれた日常や繰り返される平凡なことへも愛情を注いであげることだと思っています。
意識、という名の愛情。
それが自然にできる人で在りたいと思うのです。

それが自然にできる人は、きっと繊細で優しい人だと思うからね。

planke at 22:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0) なんとなく思う | diary

2006年08月07日

主張の受け止め方

最近、と言うか、いつからか本を読むときに意識して考えるようにしてることがあって、それは何かと言うと、その本の中のすべての主張には同等の重みがある、ということです。

1冊の本を読んでいるときに「あ〜これはすごくわかるなぁ〜」とか「いいこと言ってるなぁ〜」などなど響く部分がある一方で、「理屈としてはわかるけど、いまいちリアルに響いてこないなぁ〜」という部分もある。
こういうとき、後者の響いてこない部分について、自分にとって響いてくる前者と同等に意味のあることが書かれているはずだと考えてみるようにする。
程度の差こそあれ、同じ本の中に書かれていることならば、主張の強さ、妥当性、みたいなことってだいたい同じくらいだと思うし。
それに、どれくらいの情熱や自信を持って作者がその主張を行っているかを見極める必要はあるけれど、これは展開の盛り上がりなどから感じるだろうし。
んで、そう意識的に考えるようにすることで、自分にとっていまいち響いてこない主張を今一度捉え直す、ということをしてみる。

でもまあ、こう意識したところで、そのとき響かないものがリアルな実感を伴って響くようになるわけではないので、そこで主張そのものではない部分でちょいと考えてみる。


まず1つ目。

昔読んだ本を読み返してみると、当時はさらっと流した部分が、今は響いてくる、というのがけっこうあって、つまりは「理屈としてはわかるけど、いまいちリアルに響いてこないなぁ〜」という感じであったものが実感を伴ってきたということ。

20台も半ばくらいになると、世の中のいろんなことがそれなりにわかってきたつもりにもなってしまう。
それはそれでそういうものだと"謙虚"に自覚しているつもり。
というのも、当たり前のことだけど、理屈としてわかることと、それをリアルに実感するということには大きな違いがある。

だから、後者の響いてこない部分についてその理由を、自分の経験不足やそのことに対する意識の低さによる興味の無さが原因だと考え、ではどうしてそうなってしまっているのか、その理由を考えてみる。
って書くとすごく仰々しくて、重々しいけど。まあ、なんとなくでも、ほんの少しでも。


んで、2つ目。

作者にとっての興味の対象と、僕にとっての興味の対象が完璧に同じでない(要は同じ人間でない)以上、切実に思う部分に違いがあるのは当然。だから同等に切実な想いを主張したとしても、それが響くか響かないかに違いがあるのも当然のこと。
だけど、それは当然にしても、ある人間にとってはそこに同等の熱意とか想いがある、ということ、それ自体を意識することはけっこう大切なんじゃないかと思う。

これは単純に、人それぞれ考えることが違うんだなぁ〜、としておくことと大差ないのかもしれない。
だけど、このことを意識することで、ほんの少しだけでも相手の側に寄り添っていけるような、そんな感じがするのです。
理解する、から一歩踏み込んで、受け入れる、とか。そんなような。
そして、それにより、多様な価値観・考え方に対して寛容になれるような。
って書くとまたしても仰々しくて、重々しいけど。まあ、なんとなくでも、ほんの少しでも。


という2つのことに思いを馳せてみる。
そう考えるようにすると、いまいちピンとこないなぁ、という部分についてもまた別の意味で考えることができるんじゃないか、というわけなんです。
まあごちゃごちゃと書いたけど、ざっくり言うと、いろいろ考えられるようになりたいなぁ、とかそんな感じです。


それで、本を読むとき、ということで書いてたけど、本だけでなく、表現された様々なものについて同じように考えられますね。ブログとか。
あるいはもっと直接的に、誰かの話を聞くときなんかもそうだと思う。
んで、そうやって意識して本を読んだり、人のブログを読んだり、誰かの話を聞くようにしてみると、何か少し感じ方が変わってくる。
というのも、1つ目のように自分について省みたり、2つ目のように相手と自分との違いを意識したり、というのはつまり、響かないことについては主張そのものから一歩引いて、人間の問題にしてしまっているから。
大袈裟に言えば、そういうことなんだと思う。

...って書いていて妙に自分で納得してしまった。

いろいろ整理してみようとだらだらと書いてみたら、その先にあるものは結局は人間かぁ、となってしまって、こんなことなら別に意識せずともなんとなくは考えていたよ、と。
つまりすごく普通のことだなぁ、と(笑)。

まあ、上記2点についてとくに強く意識を持とうとしている、ってことに意味があるんだろう、とも思うけどさ。


んで、えっと、、、
主張そのものが響いてくるということは、すなわち上で書いた2つのことは満たされていることになるわけで、
さらに、何かを表現(主張)するということは、理解されたいということがその根底にあるわけで(あくまで持論です)、
だからこそ、共感ってなんか切ないんだろうなぁ。
そして尊いんだろうなぁ。

なんとなくそんなふうに思った。


...と、そんな感じのシメにしておきますかな。

planke at 21:57|PermalinkComments(1)TrackBack(0) なんとなく思う