2012年01月06日

1月10日からさいたま地裁ではじまる木嶋佳苗さんに対する殺人事件の公判審理について、裁判員の在任期間――裁判員選任から判決言渡しまで――が100日もあることが話題になっている。マスコミは「裁判員100日の重圧」などと言って、裁判員の負担の重さを強調したり(日本経済新聞2012年1月6日朝刊、38頁)、選ばれなかった候補者にわざわざインタビューして「選ばれなくて良かった」というコメントを載せたりしている(毎日新聞同日朝刊、23頁)。しかし、この事件の公判審理の予定を見てみると、この「100日」というのはかなり水増しされた数字であることがわかる。

公判の開始(1月10日)から判決言渡し(4月13日)まで3ヶ月以上の期間があるのは確かである。しかし、裁判員が公判審理に参加するのは34日間に過ぎない。公判審理は毎日行われるのではなく、週に4日(月、火、水、金)であり、午前10時にはじまり午後5時までには終わる。午後3時前に終了する日もある。開廷日には1時間半の昼食休憩のほかに、随所に15分程度の休憩が入る。確かに証人の数は63人と多いが、1日に聴く証人の数は2、3人である。

戦前の陪審裁判では、公判は週6日連日ぶっ通しで行われた。開廷はだいたい午前9時であり、閉廷は早くて午後5時、午後8時を過ぎても尋問が行われることは珍しくなかった。1日に10人以上の証人を尋問することもあった。昭和3年に行われた東京地裁最初の陪審裁判(放火事件)では3日間の公判で28人の証人を尋問した(塚崎直義「寒子放火事件の陪審裁判」改造昭和4年2月号49頁;熊谷弘「新聞報道を通じてみた東京最初の陪審裁判」判例タイムズ229号50頁(1969))。4日目には被告人の予審調書が朗読され、同日の午後から検察官の論告と弁護人の弁論が行われた。その日の閉廷は午後9時30分だった(塚崎・前掲、52頁)。そして5日目、裁判長の説示と問書の朗読の後、直ちに陪審は評議に入り、同日午後4時30分に陪審は評議を終えて「然らず」の答申を提出した。続けて裁判長が「被告を無罪とす」と宣言した(同前)。昭和4年長崎地裁で行われた被告人8名被害者5名の殺人教唆、強盗殺人事件の陪審裁判でも、4日間で8人の被告人と21人の証人の尋問が行われた。5日目に双方の弁論と裁判長の説示が行われ、直ちに陪審は評議に入った。答申が出たのは、翌日の午前2時(!)であった(三浦順太郎『陪審裁判:松島五人斬事件之弁論』(藤木博英社1931)、33-34頁)。

こうした文字通りの「集中審理」に当時の陪審員(引き続き2年以上直接国税3円以上納め読み書きができる30歳以上の帝国臣民たる男子――陪審法12条)はどのように取り組んだのだろうか。次から次に登場する多数の証人への問いと答えをただ呆然と聞き流し、相矛盾し錯綜する証拠と争点の渦に飲み込まれ混沌の淵へと埋没していったのだろうか。断じてそんなことはない。当時の新聞報道などによれば、こうした過酷とも言える審理日程にもかかわらず、陪審員は熱心にそして積極的に審理に参加し、評議を行なっている。東京地裁第1号事件では、被告人の自白の任意性が問題になり、自白をとった駐在所の巡査が証人に呼ばれた。陪審員はこの巡査にこう質問した――「簡単に誘導尋問はしないとか、被告の云うところと違うと片付けてしまうけれども、被告の陳述の秩序立っているのに反し、それでは余りに物足らない。もっと吾々が成る程とうなづけるようには答弁できぬものか」(熊谷・前掲、54頁)。午後9時半まで続いた最終弁論のとき「陪審員は夕食を延期し空腹をこらへながらもノートを取る。其熱心さには満廷一人として感激せぬものはなかった」(塚崎・前掲、52頁)。さらに、裁判長の問書のなかに一部矛盾があるとして弁護人が訂正を求めたのに対して、裁判長が口頭で説明を加えただけで済まそうとすると、陪審員の一人(前出の陪審員とは別)は「説明付の問書では困る」としてあくまで訂正することを要求した(同前、55頁)。

戦前の徹底した集中審理と比較して、現代の裁判員裁判の公判審理は明らかに間延びしている。その審理日程はむやみに水増しされている。法律は「できるかぎり、連日開廷し、継続して審理を行わなければならない」と定めている(刑事訴訟法281条の6第1項)。それにもかかわらず、週5日連日開廷されることはまずない。木嶋事件では週4日開廷されるが、週3日しか開廷しない例すらある。そして、証人尋問が終わっても直ちに最終弁論が行われないし、最終弁論から判決までの期間――つまり評議の時間と判決書作成の時間――があらかじめ定められている。木嶋事件では、証人尋問から最終弁論まで10日間の空白があるし、最終弁論から判決まで1ヶ月(!)も間が開いている。証人尋問が終わったら直ちに最終弁論を行い、最終弁論が終わったら直ちに評議を行い、評議が整ったら直ちに答申そして判決宣告を行った戦前の陪審裁判とは、ここが最も違うところである。

なぜ、最終弁論の前に10日も時間をとり、判決の前に1ヶ月も空白を設ける必要があるのだろうか?これは「裁判員の負担の軽減」という理屈では説明がつかない。この冗長な幕間は決して裁判員のためにあるのではない。こんなに長い間何もしないで待たされているというのは、社会人にとってひどく迷惑な話だ。戦前の市民は被告人8人・被害者5人の殺人教唆及び強盗殺人事件の評決を17時間の評議で達成した(三浦・前掲、34頁)。どうして現代の市民が3人の被害者の殺人事件の評議を1ヶ月もかけてやる必要があろうか。この長大なる時間は決して裁判員のためにあるのではない。この長々しい空白は法律家と裁判官のためにあるのである。かれらの無能に市民が付き合わされているのである。

陪審法が停止され、戦争が終わり、新しい刑事訴訟法による刑事裁判がはじまって、時が経つにつれて、日本の公判審理はどんどん間延びしていった。証人尋問の期日の間隔が1日空き、5日空き、ついには1ヶ月以上も間が空くようになった。そして、審理が終結するまで何年もかかるようになった。そうすると、法律家はだれがどのような証言をしたのか記憶がなくなり、証言録を読んで文章を書かなければ最終弁論をすることすらできなくなってしまった。裁判官も、長い審理の間に、当然記憶がなくなるし、ときには転勤によって裁判官が交代することも珍しくなくなった。そうすると、裁判官は訴訟記録を読んで判決文を書く以外に判決言渡をすることができなくなった。法律の上では判決は口頭で言い渡せば良いことになっている(刑事訴訟法342条)。しかし、現代の裁判官は口頭だけで判決の理由を説明する能力がない。例外なく、宣告前に判決文を作成してそれを朗読する。戦後の司法研修所の教育は、事件記録を読んで最終弁論を書いたり判決文を書いたりする訓練ばかりするようになった。こうして、日本の法律家や裁判官は、生の証言を聞いて直ちにその場で弁論をする能力や、その弁論を聞いて評議をして口頭で判決を言い渡すという能力を失ってしまったのである。ガラパゴス諸島の動物が独自の進化を遂げたように、日本の法曹は書類を読んで書類を作成し書類を読み上げるという書類に特化した独自の進化を遂げたのである。それと引き換えに、光のない深海や洞窟の奥に生きる動物が視力を失ったように、彼らは、生の証言を聞いて口頭で弁論をし、口頭弁論を聞いてすぐに評議して口頭で判決宣告するという能力――口頭弁論能力あるいは法廷技術――を退化させてしまったのである。

木嶋事件の裁判員が100日間も裁判員をやらなければならないのは、要するに、現代の法律家と裁判官の都合によるのである。法律家と裁判官が80年前と同程度の能力をもっていたならば、裁判員たちは――戦前の陪審員たちと同じように――集中的に熱心にそして積極的に公判審理に取り組み、この事件を遅くとも数週間以内に判決に導くことができたであろう。現代の裁判員が戦前の陪審員と比較して、その能力や熱意において劣っているという証拠はどこにもないからである。戦前よりも劣っているのは市民ではなく、法曹の方なのである。しかも、卑劣なことに、彼らは「裁判員の負担の軽減」と言って自分たちの無能ぶりをごまかそうとしているのである。


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2011年09月23日

日本人はなぜ「裁く」と言うのだろうか。日本で刑事裁判が語られるとき、非常にしばしば「人を裁く」という言い方が使われる。私は昔からこの言い方に違和感を覚えてきた。和英辞典を引いてみると「裁く」にはadjudicateとかjudgeという訳語が当てられている。しかし、日本語と英語では随分ニュアンスが違う感じがする――私は日本語の専門家でも英語の専門家でもないので、正確なことは何もわからないが。日常使われる英語では、adjudicateやjudgeの後に人を表す名詞が来ることはあまりないような気がする。

新約聖書の「ヤコブの手紙」4章11〜12節にこうある。

「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。

「兄弟を裁く」という部分は英訳聖書ではjudges his brotherとなっている(James4:11-12)。まさにここでは「人を裁く」言葉としてjudgeが使われている。そして、聖書はこれを禁じているのだ。人を裁くことができるのは神様だけである。人間が人間を裁くことは許されないのだ。そうだとすれば、人が企画し運営する刑事裁判で人を裁くことは決して許されないということになる。刑事裁判の目的は人を裁くこと以外に求めなければならない。刑事裁判は被告人を裁くものではなく、被告人と政府の間の刑罰をめぐる紛争に決着をつける装置である。神をいただく西欧の倫理からすればそうならざるを得ない。

日本にも「神」はいたはずだが、日本の神様は「人の裁き」の権限を人間から取り上げなかった。兄弟たちの上に君臨する特別な役人がいて、彼らが兄弟たちを裁くシステムができあがった。その正当性に疑問を抱く人はあまりなく、日本人は刑事裁判では裁判官が被告人を裁くものだと考えるようになった。

この日本式の「裁き」の観念は今でも非常に強い力を持っている。西欧の近代的な刑事裁判の考え方を学んだはずの現代の法律家の思考にもこの観念が根付いている。法廷では、裁判官も検察官も、そして被告人が雇った弁護人ですら、みんな揃って被告人の「反省」を追い求める。研修所を出たばかりの弁護士が、性犯罪を犯した依頼人に性犯罪被害者が書いた本を読ませて「自省」を深めさせた、その結果が裁判官に評価されて執行猶予付きの判決を得られたなどという話が「熱心な弁護」の美談として語られている。刑事弁護の目的は「被告人の更正」だと公言する大御所の弁護士もいる。これらも、日本の刑事裁判の目的が「人を裁く」ことであるならば、ある意味当然の成り行きだと言えなくもない。

しかし、私はどうしても馴染めない。私を選び、お金を払って私を雇ってくれている「依頼人」を裁くなんてことがどうしてできようか。やっぱり「人を裁く」というのは無理がある。どこか嘘くさい。安直な感じもする。そんなことに協力したくない。私はクリスチャンではないが、しかし、兄弟を裁くようなことはしたくない。「反省」とか「更正」とかとは全く別の道を私は目指したい。


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2011年07月28日

あなたは、相手が目の前にいるのに、相手に尋ねたいことをわざわざ紙に書いてそれを相手に渡して、別室で「はい」か「いいえ」を丸で囲んできてくださいと言うだろうか。そんなことをするのは対人恐怖症の人か耳の聞こえない人ぐらいだろう。対人恐怖症でもなく、正常な聴覚を持っている普通の人は、端的に、目の前にいる相手に口頭で尋ねたいことを尋ねるのではないだろうか。その方が相手の応答態度をつぶさに観察できるので、相手の真意を知るという意味でも効果的ではないだろうか。ところが、東京地方裁判所の裁判官たちは違うのである。彼らは、重大な刑事裁判の審理を担当する裁判員の候補者をわざわざ自分たちの職場である裁判所に呼び出しながら、その場で口頭で質問できることをわざわざ紙に書いて渡し、「はい」か「いいえ」を丸で囲ませるのである。その結果、この国で最も重大とされる刑事事件の審理を担当する裁判員は、裁判長から口頭で質問を受けることもなく、訴訟関係者の前で一言も言葉を発することもなしに、くじで選ばれ法壇の椅子に座るのである――法律によれば裁判長は裁判員を選ぶ前に裁判員候補者に対して「必要な質問」をすることになっているのに。

裁判員法は「裁判員選任手続に先立ち」候補者に対して「質問票」を郵送して、一定の事項――候補者が有資格者かどうか、欠格事由、辞退事由及び不適格事由があるかどうか、並びに不公平な裁判をするおそれがないかどうかを判断するのに必要な事項――を答えさせるという手続を定めている(30条1項)。この質問票に答えた候補者の中から裁判所に呼び出す者を選別するのである。これはいわば面接試験を受ける応募者を書類で選考するのと同じ手続である。法は、こうして「裁判員等選任手続期日」に呼び出された候補者に対して、さらに「必要な質問」をして、その答えを聞いたうえで裁判員や補充裁判員を選任するとしている(34条1項)。書類選考と面接試験の例を持ち出すまでもなく、この2段階の選考方法の趣旨は明らかであろう。

裁判員法が制定された半年後2006年11月に、最高裁判所は、「裁判員選任手続のイメージ案」を公表した。それによれば、「選任手続の当日の手続」は次のようなものであった。

「(1) 呼出状を受け取った裁判員候補者には、裁判員選任手続期日当日、裁判所にお越しいただきます。裁判所では、まず、御本人であることを確認させていただいた上、裁判員候補者待合室(大部屋)でお待ちいただきます。 担当の係員が、これから行われる手続について、ビデオなどを利用しながら説明を行います。
「(2) また、裁判所にお越しいただいた裁判員候補者には、当日用質問票が交付されます。当日用質問票では、事件の関係者でないかどうかなどについてお聞きします。
「(3) その後、裁判員候補者は、別室の裁判員質問手続室(小部屋)で裁判長から質問を受けることになります。質問手続室には、裁判官3人と書記官のほか、検察官と弁護人(裁判所が必要と認める場合に限り被告人も)が立ち会います(裁判員法32条) 。候補者のプライバシーを保護するため第三者が傍聴することはありません(裁判員法33条1項 ) 。
裁判長は、裁判員候補者が記入した質問票を読んだ上で、補充的に質問をします。検察官と弁護人も質問票を見ることはできますが、検察官と弁護人の手元にある質問票は、手続終了後、裁判所が回収します。陪席の裁判官、検察官又は弁護人(被告人)も、裁判長に質問をしてもらうよう求めることができます(裁判員法34条2項) 。
「既に第1段階の手続で、法律上裁判員となることができない人や辞退が認められることが明らかな人は、そもそも呼出しがされないか、すでに取り消されていることになります 。 したがって、 この段階では 、裁判長は、主に、仕事や家庭を理由として辞退が認められるか微妙なケースについて、候補者に事情を確認する質問や、候補者が公平な裁判をしてくれるかどうかを確かめる質問などをすることになります (最高裁判所「裁判員選任手続のイメージ案」http://www.saibanin.courts.go.jp/topics/pdf/06_11_17_tetuzuki_image/tetuzuki_image.pdf 強調は引用者)。」

最高裁判所が制作した裁判員制度の広報映画にも、裁判員候補者が1人ずつ小部屋に入って裁判長から質問を受けるシーンがある。例えば、「裁判員〜選ばれ、そして見えてきたもの〜」には、まさに面接と呼ぶにふさわしい裁判長と候補者のやり取りが描かれている(http://www.saibanin.courts.go.jp/news/video4/chapter2_erabare_bb_sub.html)。ところが、現在東京地方裁判所で日々行われている「質問手続」はこれとは似ても似つかぬ代物である。既に事前に「質問票」の答えを返送したうえで、裁判所に出頭してきた候補者に対して、裁判所は次の4つの問いを記載した「質問票(当日用)」なる紙を渡す。

問1 あなたは、被告人と関係があったり、事件の捜査に関与するなど、事件と特別な関係がありますか。
問2 今回の事件について報道などを通じて知っていますか。
問3 事前に提出した質問票に記載した事項について、今日までの間に何か変更はありますか。
問4 特に裁判官に話しておきたい事情があるなど、個別に質問を受けることを希望しますか。

裁判員候補者は、これらの問いの下にある「ある・ない」「ある程度知っている・くわしく知っている・知らない」「ある・ない」「希望する・希望しない」の答えを丸で囲んで署名することになる。ほとんどの候補者は、「ない」「知らない」「ない」「希望しない」に丸をする。それで終わりである。「裁判員選任手続のイメージ案」によれば、当日質問票に記入した後、候補者は「別室の裁判員質問手続室(小部屋)で裁判長から質問を受ける」はずであるが、質問票の「ない」「知らない」「希望しない」に丸をした候補者が質問手続室に呼ばれることは全くない。その答えを直接候補者と問答して個別に確認する作業すら行われないのである。要するに、大部分の候補者に対して誰かが何かを尋ねるということは行われないのである。そしてあとは、くじ引き(パソコンのマウスを書記官が1回クリックするだけ)で6人の裁判員と1人ないし2人の補充裁判員が選ばれるのである。

裁判員法によると、当事者は裁判員候補者に質問してほしい事項を裁判長に質問するように請求することができ、裁判長は「相当と認めるときは」その質問をすることになっている(裁判員法34条2項)。しかし、裁判長が当事者の質問請求を「相当と認め」て質問をすることはほとんど全くない。私は、統合失調症を発病した青年が幻覚と妄想に突き動かされて知人を包丁でめった刺しにして殺したという殺人事件の裁判員選任手続で、候補者に対してこう質問してほしいと裁判長に請求したことがある――「あなたは、殺人犯が精神障害のために無罪となることに、抵抗がありますか」。この要求に対して、裁判長は、当日質問票の問4があるからこのような質問は要らないと言って、私の質問請求を却下した。問4というのは前述したとおり「特に裁判官に話しておきたい事情があるなど、個別に質問を受けることを希望しますか」という問いである。そもそも、当日裁判所に出頭したばかりの人たちはまだ事件の内容を知らされていない。自分の担当する事件が被告人の精神障害が問題となる事案だということを知らないのである。そのような人たちが、「自分は精神障害を理由に無罪となることに抵抗があるのだが、それでも裁判員になってもいいでしょうか」と裁判長に申し出ることなどあり得るだろうか。事件の争点――心神喪失かどうか――を理解した裁判員であっても、わざわざ自分の信条と法制度の関係に思いをはせ、その信条を自ら進んで裁判長に申し出ることなど、期待できるだろうか。常識で考えれば分かりそうなことである。しかし、東京地裁の裁判長たちは、最高裁の映画の裁判長のように1人1人の候補者と親しく口頭のやり取りをすることを頑なに拒否するのである。4つの、おそろしく抽象的な型どおりの問いを記載した「質問票」への回答以外の情報を、いまそこにいる候補者――わざわざ職場や家庭や学業を犠牲にして裁判所にやってきた人々――から得えようとはしないのである。やろうと思えばすぐにできるのに。彼らはやはり対人恐怖症なのだろうか。

実質的に考えて、裁判員候補者に対して個別の口頭質問を行うことは、公正かつ適格な裁判員を選出するためには必要不可欠なことである。先日千葉地裁で行われた女子大生殺害事件の裁判員裁判で、1人の裁判員が公判の冒頭から毎回法壇上で居眠りをしていたということがあった(日本経済新聞2011年6月23日夕刊、15頁)。証人尋問が終わり弁論が終結された後になってこの裁判員は解任されたが、そもそもこのような人は「心身の故障のために裁判員の職務の遂行に著しい支障がある者」(法14条3号)、あるいは「不公平な裁判をするおそれがある」者(法18条)なのであって、裁判員に選任されるべきではなかったのである。この事件でも、裁判長は「質問票」の配布と回収だけを行い、候補者への口頭の個別質問を行わなかった。もしも、裁判員選任手続において「質問票」を回収するなどという安直な方法に頼らず、1人1人の候補者に対して個別の口頭質問を行い、その応答態度をつぶさに見ていたならば、このような人物の不適格性を当事者や裁判所が見逃すとはとうてい思えないのである。死刑事件の冒頭から居眠りをするような特異な人物は、質問手続室(小部屋)の中で行われる個別質問の際にも特異な反応や様子を示す可能性が高いからである。

法が要求する「質問」というのは、最高裁判所がイメージしたような個別の口頭の質問を意味するというべきである。裁判官は、たとえ対人恐怖症で書面を通じてでないと人とコミュニケートできない体質だとしても、この手続を形骸化する権利はないはずである。どうしても広報映画に登場する裁判長のような面接が自分にはできないというのであれば、潔く裁判員裁判の担当を自主的に外れるべきである。裁判官は法を実践する公務員として国民から給与の支払いを受けているのであって、法を自分に都合の良いように骨抜きにするために国民から雇われているのではない。


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2011年06月10日

【三行半・三下半】江戸時代、簡略に三行半で書いたからいう、夫から妻に出す離縁状の俗称。(広辞苑第3版)

最高裁から薄い封筒が届いた。
「ああ、やっぱりね。ちょうど2週間じゃねえか。予想通りだ!」
と嘯いてみたものの、胸の奥の方で小さな筋肉が収縮するのを感じる。顔の表面がざわざわする。

確かにこれは今まで何百回も繰り返してきたことである。しかし、毎回毎回何がしかの期待を抱き、ダメに違いないと思い、けれど、「もしかして」と期待する。そして、結局ダメなのだ。

クリニックの学生と一緒に何日もかけて調査をし、議論を重ねて、睡眠時間を削って、精魂込めて書いた特別抗告申立書に対する最高裁判所第1小法廷の返事は、ワン・センテンスであった。
「……所論引用の判例は事案を異にするもので本件に適切でなく、憲法違反の主張は、実質は単なる法令違反の主張であって、刑訴法433条の抗告理由に当たらない。」

原決定は、刑訴法89条1号と4号は合憲であると判断した。そして、われわれはこれらの条文の立法の経緯を詳しく調べ、その立法目的からしてとうてい憲法が容認しうるような自由制限規定ではなく、憲法34条に違反すると主張した。イギリスの類似の規定を人権条約違反としたヨーロッパ人権裁判所の判例も引用した。同じ文言の自由権規約9条3項に違反するとも主張した。どうしてこれが「単なる法令違反の主張」なんだろうか。

毎度のことながら最高裁の三行半決定には心の底から怒りを覚える。この怒りは何に対してなんだろうか。最高裁判事の知的不正直に対して。彼らの「自由」というものへの不感症ぶりに対して。彼らの税金の無駄遣いに対して。彼らの無能に対して。

アメリカ連邦最高裁の9人の老人は、1人の浮浪者が刑務所の図書館で鉛筆で便箋3枚に書いた申立てに答えるようにと、フロリダ州知事に督促し、浮浪者のためにニュー・ヨークの著名な弁護士を国選弁護人に選任して口頭弁論を開いた。そして、40ページの憲法解釈論を書いて、刑事司法の歴史を作った。

日本の最高裁の老人たちは、私とロースクールの学生が何日もかけてパソコンで書いた23頁の申立てに対して、まるで暑中見舞いに対する返事のように、三行半の一文を送ってきた。

これでは才能のある人が刑事弁護から去ってしまい、変わり者か閑人だけしかこの業界に残らなくなってしまうだろう。

もう20年以上こんなことをやってきたが、あと何年やれるんだろうか。
【2005年10月5日記】


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2011年05月25日

判例集を繰っていたら、偶然、陪審制と憲法を論じた最高裁判例を2つ見つけた。最高裁の判断はまったく木で鼻を括ったようなもので味も素っ気もないのだが、その上告趣意は敗戦間もないころの刑事弁護士の気骨を感じさせるものである。紹介しよう。

1件目は昭和25年10月25日の大法廷判決(刑集4‐10‐2166)。弁護人は森長英三郎。大変に有名な方なのでご存知の方も多いと思う。事案は強盗事件で、従犯的な立場の被告人が実刑判決を受け、主犯が執行猶予になったとして、弁護人は、控訴審が刑訴法の証拠の規定を適用せず新証拠を斟酌しなかった点が憲法31条に違反すると主張した。そして、この上告趣意に加えて森長は次のように述べた。

「しかし、憲法37条の公平な裁判所とは、陪審裁判を要請しているものといわなければならぬ。その理由は憲法前文が、国政は、『その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し』とあるところから当然に出てくることである。陪審裁判は民主主義国家の刑事裁判には固有の制度であり、民主主義とは切りはなすことのできないものである。」

これに対して最高裁大法廷は「所論の憲法37条及び憲法前文は陪審による裁判を保障するものではない。その他民主主義国家であるからといって、必ずしも陪審制度を採用しなければならぬという理由はない」とあっさり上告を棄却した。ちなみに、このときの裁判長は塚崎直義である。戦前を代表する刑事弁護士であり、東京で第1号の陪審裁判、無罪となった放火事件の弁護人である。

2件目は第3小法廷昭和26年5月8日(裁判集刑45‐311)。弁護人は衛藤隈三という人である。やはり森長の事件と同じような事件で、こちらも、主犯を含め共犯者の大部分が執行猶予になっているのに、従犯的で、しかも当時17歳だった被告人が執行猶予にならないのは公平な裁判ではないと言っている。それに続けて陪審制を論じている点でも森長と同じだが、衛藤の上告趣意は、森永のそれと比べてかなり長く内容的にも密度が濃い。その一部を引用してみよう。

「憲法31条によって、何人も『法律の定める手続によらなければ』生命又は自由を奪われ、其他の刑罰を科せられない。この『法律の定める手続』中には刑事訴訟法の定むる手続は勿論であるが、『陪審法』も又当然法律の定める一つの刑事手続であって、国民が生命又は自由を奪われ、其他の刑罰を科せらるゝに当っては、依るべき手続として国民に与えられた権利であり、基本的人権の一である。
「陪審法自体は廃止になったのはではない。単なる停止中で、死んだのではなくまだ生きている法律である。陪審裁判は、このまだ生きている陪審法に基づいて、国民が永年にわたり獲得した基本的人権保護の手続上における権利である。われわれ国民は、この与えられたる権利の保持の為には、憲法上不断の努力を払わねばならないことは憲法の要請するところである。
「陪審裁判も、今次の戦争で国民の全力を戦争遂行に集中させるために、一時中止となったに過ぎないので、右法律の附則が明記する様に、大戦終了後の今日は再施行することが国民に約束されているものである。この法律停止法というのは法律として全く特異な性質をもっているが、然し、陪審法自体は未だ生存の鼓動を脈々として打っている生きた法律である。われわれ国民は、この陪審法上の権利を抱いたまゝで只々安閑として其上に睡っていることは許されない。
「私は、憲法によって与えられたこの国民の基本的人権がたゞ1片の法律又は勅令で停止せらるゝことが憲法上間違いであると確信する。」

最高裁第三小法廷は、先の25年大法廷判決を引用して「憲法が陪審手続を保障したものでないことは当裁判所大法廷の判決の趣旨に徴して明らか」と言った上で、「陪審手続は特に法律で定めたものであるからこれを法律で停止することを得るのは云うを待たない」と述べて、上告を棄却した。
衛藤の弁論から60年たって裁判員法が施行された。しかし、陪審法はまだ死んではない。「再試行する」という条文も存在している。森長の弁論も衛藤の弁論もわれわれにとって示唆的である。とくに衛藤の指摘は重要であると思う。法律が定めた権利を1片の勅令で奪い、また、「再施行する」と法律で約束しながら、それが実行されていないことの意味をわれわれはもう少し真剣に考えてもいいのかもしれない。裁判員制度と陪審制度との間には決定的な違いがある。裁判員裁判では職業裁判官が市民と一緒に評議室に入る。陪審裁判では事実認定は市民の専権である。職業裁判官が「裁判員の負担」を口実にして裁判員の権限を形骸化する戦略を進め続けるのであれば、われわれには陪審法の再試行という選択があることを心にとどめておくべきであろう。


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2011年02月19日

東京地裁の法廷の弁護人席で裁判官の登場を待っていると、スーツ姿の見知らぬ男女5名が法廷に入ってきて、そのうちの2人が傍聴席のバーを越えて、私の後ろに入り込んできた。残りの3人は法廷の反対側、検察官席に向かった。ジャケットの襟に司法修習生のバッジをつけている。私の後ろには長テーブルがあり、私のコートとカバンが置いてある。修習生が躊躇している姿に気付いた裁判所書記官は迷いもせずに、私のカバンとコートをどけて、修習生のための席を整えた。修習生は私に何の挨拶もなく、無言で私の背後のテーブルに着席し、もっともらしく三省堂模範六法の適当な頁を繰って目を落としているふりをした。

私の内部ではめらめらと怒りの炎が燃え盛った。が、今日は判決言渡しだけなので、依頼人のためにも我慢しようとした。そしてちゃんと我慢できた。

これほど失礼な、無神経な、無礼極まりない振る舞いがあるだろうか。無言で勝手に他人の所持品をどかして、挨拶もなく人の背後に陣取るなどということが許されるだろうか。江戸時代の武士の作法からすれば、私の背後に無言で近付いた瞬間に私に切り捨てられても申し開きは許されまい。現代の法廷において弁護人は訴訟記録や尋問メモを弁護人席において、法廷活動をする。ときには依頼人と小声でコミュニケーションをする。そのときに、背後に見ず知らずの他人がいるなどということはおよそ想定外である。そのような状態で十分な弁護活動ができるわけはない。

彼らは裁判官の下で実務修習をしているのであり、弁護人である私の下で修習しているのではない。私は彼らの名前もしらない。彼らは全くの赤の他人である。しかし、裁判員や傍聴人はそれを知らないだろう。私の後ろにいる以上、弁護人か少なくとも弁護人の関係者だと思うだろう。彼らが証人尋問中に鼻くそをほじっていたらどうだろう。被告人質問中に居眠りしていたらどうだろう。「被害者」の意見陳述の間に今晩の飲み会の打ち合わせをひそひそにやにやしていたらどうだろう。私や私の依頼人には彼らを管理できないのに、彼らの不始末の不利益はわれわれが負うことになる。

これは最近の東京地裁で頻繁に行われるようになったことである。私の1回だけの体験ではない。すなわち、東京地裁の裁判官たちは話し合いのうえで、組織的に修習生を当事者席に座らせることを決定したのだ。これほど不躾なことを事前に何の連絡もなく、さも当然のように一糸乱れず遂行できる裁判所というのは、一体どんなところなんだろう。それを指揮した裁判官という人たちはどういう人間なんだろう。少なくとも、彼らは、弁護人の法廷における仕事が秘密や自由を扱うセンシティブなものであることを理解していない。弁護士というのは、その背後わずか40センチの範囲を犯されても何も感じない人間だと思っている。それだけは確かである。

私が修習生をしていた30年前には、弁護修習中の修習生は弁護人席に座り、検察修習中の修習生は検察官席に座り、そして、裁判修習中の修習生は法壇の上の裁判官席に座ったのである。最近になって、裁判所は修習生を法壇から追い出した。それでも弁護人席に勝手に座らせることはなかった。法壇の横に修習生を座らせた。今回の動きは、おそらく裁判員裁判の法廷の構造が原因であろう。裁判員法廷の法壇は非常に大きい。そのために、法壇のうえ以外に修習生を置いておくスペースがない。現代の裁判官は司法修習生を法壇に置く勇気などない。弁護人席なら問題ないだろう。この小役人根性と弁護人を見くびる姿勢が今回の出来事の背景にある。

弁護士は、このような理不尽に対して黙っていてはいけない。依頼人のためにもまた刑事弁護のためにも毅然とした態度をとるべきである。その場で声をあげ、自分の背後から不逞の輩を追い払おう。そうでなければ、法廷における弁護の地位はますます矮小なものにされていくだろう。全国の同志よ。立ちあがれ!怒れ!


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2011年02月10日

法廷技術に情熱を燃やしている若い弁護士と一緒に「裁判員裁判のための法廷技術」の教則DVDを作りました。

ちょっと値段が高いのですが、新しい法廷弁護に挑戦しようという弁護士の参考になればと思います。

ご購入は全国の書店か、現代人文社へご注文ください。
http://www.genjin.jp/index.html

DVDちらし



plltakano at 22:39コメント(0)トラックバック(0)裁判員制度法廷技術 この記事をクリップ!

2010年11月11日

「耳かき殺人事件」の判決言い渡し後、裁判員と補充裁判員を務めた人たちが記者会見で「死刑求刑事案での審理に参加した感想」を述べた(msn産経ニュース2010.11.1 18:19、同19:15)。その中で、裁判員6番(男性会社員)は、「プレッシャーを感じながらやるにつれ責任感が出てきました」と述べる一方で、こうも述べている。

「評議の後、裁判長が『判決についての責任は裁判官が負う』と言ってくださり、気持ちが和らぎました」。

この裁判長の発言は、日本的な官尊民卑、パターナリズム、甘えの構造を表している1つのエピソードであると同時に、裁判員制度の存在理由にかかわる重大な問題を孕んでいると思う。なぜ、裁判長は、死刑か無期かが問われ、全国民が注目したこの重大事件の判決について、一緒に評議をした裁判員を免責することができるのだろうか。そして、裁判員を免責する一方で、「責任は裁判官が負う」などと言えるのだろうか。もしも判決の責任の主体が裁判官だけだというなら、裁判員は一体何をしに裁判所に来たのだろうか。

そして、責任は自分ではなく裁判官が負うと聞いて「気持ちが和らぐ」ような人に、本件の裁判員として評議を行い一票を投じる資格があるのだろうか。裁判員制度は、国民自身が司法に参加しその責任の一翼を担うことを目指してはじめられたのである。それはこの国に生きる国民全体が平等に責任を分かちあう、国民の義務として行われるべきものである。死刑か無期かの選択を自らの責任において行うことができない人は、最初から裁判員になるべきではない。裁判員選任手続おいてそのような人は排除されるべきである。

裁判員は職業裁判官の補助者ではない。裁判官は自分たちだけで判決の責任を引き受けることなど許されない。裁判官は、裁判員とともにその責任を分かち合わなければならない。裁判員は、判決が「自らの決断」であることを自覚すべきである。この自覚のない人によってなされた刑事裁判はその正当性の根拠を欠いているというべきである。

【付記】
憲法には教育、勤労、そして納税の義務(国民の三大義務)が書かれている(26条、27条、30条)が、「裁判員を務める義務」は書かれていない。しかし、憲法に明文で書かれていないからといって、それ以外に国民の義務はない――あとは政府に任せておけばよい――ということには必ずしもならない。国民の基本的な人権を保障するために、当の国民全体が一定の負担をしなければならない場合というのがある。

例えば、日本国憲法37条2項は、刑事被告人に対して「強制的手続により証人を求める権利」、すなわち、自分に有利な証言をするかもしれない人を国家権力によって強制的に証人喚問してもらう権利を与えている。この権利が十分に保障されるためには、証人として喚問された個人は法廷に行って自分の見たこと、聞いたこと、そして考えたことを言わなければいけない;宣誓をし、うそをつくと偽証罪になって処罰されるし、宣誓を拒否したり証言を拒否したら、証言拒否罪あるいは宣誓拒否罪ということで罰則を科せられる、ということが必要になる。この国に居住する全ての人が耐え忍ばなければならない「証言義務」は憲法には書かれていない。しかし、この義務がなければ、刑事訴追を受けた個人は裁判で十分な反証をすることができず、無実の罪で刑罰を受けてしまうかもしれない。証言義務はこの国が自由な国であるために必要な国民の義務なのである。

同じように、裁判員裁判というのは国民が自由に生きるための1つの防塁だと私は思う。それを支えるのは裁判員として法廷に召喚された国民である。国民が裁判員としての職責を果たすこと、その責任を「お上」に任せず自らの一身に引き受けることによって、公正な刑事裁判が実現され、この国に生きる人々の自由が守られる。このような国民の義務が伴わなければ、国民の権利は持続しえないのである。


plltakano at 22:22コメント(7)トラックバック(0)刑事裁判裁判員制度 この記事をクリップ!

2010年11月09日

被告人が全面的に否認し無罪を主張する一方で、検察官が死刑求刑することが「予想される」という鹿児島の強盗殺人事件の場合は、公判審理は11月2日から17日までの10日間と指定され、判決期日は12月10日に指定された。裁判長は評議の期間を実に3週間に設定したのである(日本経済新聞電子版2010年11月2日13:24)。記者のインタビューを受けた裁判員候補者の1人は「裁判員になっても40日のうち有給で休めるのは4日間と勤務先に言われた。正直困っている」と言った(日本経済新聞電子版2010年11月2日1:55)

こうなると、裁判官の独断で裁判員になれる人材が絞られてしまうということになりかねないだろう。

それにしても、裁判長は一体何を根拠に審理期間の倍以上もの長きにわたって評議を行うべきだと考えたのだろうか。証拠関係が複雑で事実認定の評議が紛糾し、量刑の議論も錯綜すると裁判長は予想したのだろうか。もしそうだとしたら、裁判長はすでに事件について一定の予断を持っているとしか言いようがない。評議の時間まで予想できる裁判官と何も知らない裁判員との間の「情報格差」はすでに決定的である。

このような情報格差のある者同士が本当に対等の立場で評議などできるんだろうか。


plltakano at 21:51コメント(0)トラックバック(0)裁判員制度刑事裁判 この記事をクリップ!

2010年10月27日

死刑が求刑された「耳かき殺人事件」では、公判がはじまる前に裁判官によって10月25日に最終弁論が行われ、11月1日に判決を言い渡すことが予定されていた。その予定は公判が始まる前にマスコミにも伝えられていた。そして、25日の公判の最後に裁判長は、判決の言い渡しは11月1日であることを改めて告げた。つまり、裁判官3人と裁判員6人による評議は10月26日から29日までの4日間であることが公判が始まるずっと前に裁判官によって決められ、公判の最終日に裁判長はあらためてその予定を確認したのである。裁判員との評議がはじまるずっと前に、裁判官たちは、一緒に評議をする同僚である裁判員たちには一切相談することもなく(まだ裁判員は選ばれていないから相談できない)、勝手に評議の予定時間を決めておいて、それを公的に宣言したということである。

これはこの事件に限ったことではない。これまでに行われた裁判員裁判の全て(正確な統計はまだ発表されていないが、多分1000件くらいであろう)において、公判前整理手続の段階で最終弁論の期日と判決言い渡し期日が決められている。つまり評議の予定時間が決められている。そして、その期間は1日のこともあれば3日のこともあるし、1週間というのもある。しかも、直前に弁護人が解任されたために公判自体を開くことができなかった1件を除いて、全ての事件で予定通りに評議が終了して予定通りの日に判決が言い渡されている。

これは実に驚くべきことである。しかし、これでいいんだろうか。一体裁判官たちは如何なる権限に基づいて裁判員との評議の時間まで決めてしまうことができるのだろうか。裁判官たちは如何なる情報と推理によって未知の市民たちとの評議の時間をあらかじめ「予定」できるんだろうか。そして、このような「予定」の存在は、裁判員たちが自由に意見を述べ議論を重ねることを制約していないのだろうか。

そもそも、評議の時間を予想するためには、どのような人が裁判員に選ばれ、彼らが評議室の中でどのような意見を述べ、どのように議論が進行し、その終息までにどのくらいの時間がかかるのかを推理しなければならないだろう。そのような推理を――しかも公判審理が始まる前に――行うことなど、およそ不可能である。そのようなことができる人間が存在するとは思えない。

これまで、全ての事件で予定された時間のとおりに評議が進行し評決に達し、予定の期日に判決の言い渡しができたのは、裁判官たちの予測能力が優れていたからでは決してない。裁判官たちが定めた予定を既定方針として、裁判員と裁判官がその方針に合わせて評議を行ったにすぎないのである。裁判員のなかには「もっと議論したい」と思いながら、判決言い渡し期日が翌日に迫っているので、議論を続けるのをあきらめた人もいるであろう。逆に、もう議論の種が尽きてしまい、早く評決してほしいと思っているのに、予定の評議時間が余っているので、つまらない雑談に付き合わされたり、長すぎる休憩時間をもてあましていた裁判員もいるかもしれない。あらかじめ「判決宣告期日」すなわち評議の制限時間を知らされている裁判員の多くは、充実した評議のためには裁判長が定めた予定であっても変更すべきだと裁判長に向かって進言する勇気など持っていない。

判決宣告期日の指定すなわち評議時間の指定は、「裁判員が発言する機会を十分に設けるなど、裁判員がその職責を十分に果たすことができるように配慮しなければならない」という裁判長の義務(裁判員法66条5項)と矛盾するのである。

公判前整理手続の目的は「充実した公判の審理を継続的、計画的かつ迅速に行うため」である(刑事訴訟法316条の2第1項)。ここに言う「公判の審理」とは公判廷で行われる審理すなわち当事者の冒頭陳述、証人尋問、最終弁論などの手続を意味する。評議は「公判の審理」ではない。評議は公判審理が終わった後に事実認定者が結論を導くために行う会議のことである。したがって、評議の進行をどうするかを公判前整理手続で決めることはできないのである。公判審理の進行を決める公判前整理手続が公判審理の当事者である裁判官、検察官、弁護人の参加によって行われなければならないように、評議をどのように進めるかは評議の当事者である裁判員がそろってから、裁判員とともに決められなければならないのである。

刑事訴訟法は、公判前整理手続において行うことができる事項として「公判期日を定め、又は変更することその他公判手続の進行上必要な事項を定めること」をあげている(316条の5第11号)。判決の言い渡しは公判廷で行わなければならないので(342条)、その日程も「公判期日」と言える。しかし、公判前整理手続で判決言渡しのための公判期日を指定することは許されないというべきである。なぜなら、判決言渡し期日の指定は「公判手続の進行上必要な事項」でないことは明白であるし、判決言い渡し期日の指定はすなわち評議時間の指定を意味するのであり、評議に入る前に裁判官だけで評議時間の指定をすることは許されないからである。

裁判所法75条2項は「評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する」と定めている。これは裁判長が評議の議事進行役(司会ないし議長)を務めることを定めたものであって、裁判長に対してそれ以上の特別の権限を与えるものではない。裁判員の意見を無視して評議を打ち切ったり、逆に、独断で評議を続けることを裁判長に認めたものではない。評議のタイムリミットを設定する独占的な権限を裁判長に与えてなどいない。裁判長は議事進行役にすぎないのであり、前述のように「裁判員が発言する機会を十分に設ける」義務が特に課せられているのである。

法令の解釈や訴訟手続に関する判断は法律解釈と訴訟手続の専門家である裁判官の専権であり、彼らだけの合議で決定される(裁判員法6条2項、66条3項)。これらの事項について裁判官が評議するときは、たとえ裁判員がこれを傍聴したり意見を述べることができたとしても(裁判員法68条2項、3項)、評議をいつまで続けるかは裁判官だけで決めることができるし、そうすべきである。これに対して、評議の中心的な課題である、事実の認定、法令の適用そして刑の量定については、裁判員と裁判官が対等の立場で評議し評決するものである(裁判員法6条1項、66条1項、2項、67条)。評議の時間を決定する権限が裁判官にだけ与えられ、裁判員には与えられていないのだとしたら、両者は全然対等な立場とは言えないだろう。

要するに、法は、裁判官たちに評議の時間を決める特別の権限を与えてはいない。評議の時間の決定については裁判員と裁判官は同等の権限を持っているのである。評議をどのくらいやっていつ打ち切るかを定めた法の規定はない。その決定方法を定めた規定もない。そうすると、評議をいつ打ち切るかは、会議の一般的なルールに従って決められることになる。すなわち、裁判員も裁判官も単独で、評議を打ち切り直ちに評決をすることを提案できる。この提案(評議打ち切り動議)が多数決で採択されたときは直ちに評決をしなければならない。逆に、打ち切り動議が否決されたときはさらに評議を続けることになる。

評議は当事者双方の最終弁論と被告人の最終陳述が済んだ後すぐに始めなければならない。事実認定者は公判廷で見て聞いた証拠に基づいて事実認定をするのであり、公判審理の「記録」に基づいて事実認定するのではない。だから、見聞した証拠の記憶が鮮明なうちに評議をしなければならないのである。評議を開始した段階ではいつ結論が出るかは分からない。だから、裁判長はこの段階で判決言い渡しのための公判期日を指定することなど出来ない。評議は結論がでるまで続けられる。休憩をとるか、一旦解散して翌日集まるか、それとも、このまま結論が出るまで夜中まで評議を続けるか。すべては裁判員と裁判官の話し合いで――意見が一致しなければ多数決で――決められる。そして、評議が進み、最終的な結論(評決)に達したならば、裁判長は判決言渡しのための公判期日を指定することができる。判決書の起案――裁判官の専門分野である――に要する時間を予想して。

「耳かき殺人事件」の評議の時間が4日である根拠は何だろうか。若園裁判長は何を根拠にそれを4日と見積もったのだろうか。彼は検事が死刑を求刑することを予想したのだろうか。仮に、裁判長が4日の根拠を説明できたとしたら、それは公判が始まるまえに彼が事件とその審理について予断を持っていたことを示すであろう。4日という数字には確たる根拠はない。それは単なる直観にすぎないのである。その直観によって1人の青年の生と死を決定する話し合いのタイムリミットが定められたのである。これ以上の不条理があるだろうか。


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