2016年10月19日

ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2010年1月
起訴する、起訴しないは、検察官の権限です。でもそれは、有罪、無罪を決めるという意味ではない。裁判でそれを決めてもらうべき容疑者、つまり、ある程度の証拠が集まっている容疑者をどんどん起訴するのが、検察官の役目のはずです。それが、いつのまにか、裁判権みたいなものにすりかわっている。有罪/無罪の分岐点が、裁判の手前にあることになり、検察が実質的な裁判権をもってしまっている。これを憲法違反と言わなくてなんと言いましょう。
――橋爪大三郎『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房2009)、213頁。

2010年2月
しかし、陪審が評決を宣告するまでは告訴人は告訴人に過ぎないはずである。犯罪が行われたことそして被告人がその犯人であることを陪審が決定するまでは、法律上「被害者」なるものは存在しえない。建国の祖たちは告訴人の氏名が公表されることによって彼らの過去の虚偽告訴や悪行が明らかになることが必須であると考えた。これに対して、今日われわれは、幾つかの州において告訴人を匿名にしてジョンとかジェーンとかの偽名を使うことを許して、対決権を徐々に譲り渡している。今では、裁判官や陪審が告訴人を「本当の」被害者と認定していないにもかかわらず、検察官が告訴人を「被害者」と呼ぶことさえも許されている。自由と秩序の均衡は微妙であり複雑である。政治の風向きが変わるのに合わせてこの均衡は揺れ動くものである。しかし、いまわれわれが目撃しているのは、ただの風ではなく、「即時の満足」司法という新しいモデルを求める無謀な政治的機会主義のすさまじい旋風である。
――ブレア・バーク、ロサンジェルスの刑事弁護士。Blair Berk, “Ruminations on a Doe-Eyed Puppy”, in LARRY KING ED., BEYOND A REASONABLE DOUBT (Phoenix Book, 2006), at p139.

2010年3月
彼[イギリス国王ジョージ3世]は、その任期や俸給の額や支払い方法を通じて、裁判官たちを意のままにした。
 ――アメリカ独立宣言(1776年)

2010年4月
こうして、ある種の被告人のデュー・プロセスの権利は重大な侵害を受けている。手続を同時通訳することが原則となっている国、関連する言語の組み合わせの通訳人に同時通訳を行う訓練が行われ、かつ、通訳人が法廷通訳の職業倫理に精通している国で逮捕されるという幸運を得た人だけが、訴訟手続を理解し自らの防御に積極的に参加する権利を保障されるにすぎない。そのほかの被告人はみな、完全にあるいは部分的に暗闇の中に置かれるのである。
――ホリー・ミッケルソン(アメリカの法廷通訳)Holly Mikkelson, The Court Interpreter as Guarantor of Defendant Rights (1998), http://www.acebo.com/papers/GUARANTR.HTM (last visit on May 15, 2010)

2010年5月
供述調書からは、被疑者の叫び声も、うめき声も、またため息も聞くことはできないのである。涙にぬれた被疑者の顔や、苦痛にゆがめられた表情を見ることもできないのである。供述調書は、取調の経過を記載するものではなく、どのような経過で供述されたにしても、供述されたものを要約して記載するにすぎないのである。そして、要約である限りは、取捨選択の行われることは当然であって、その過程において要約する者の頭脳、すなわちその主観を通して表現された供述となることはやむを得ないのである。
――青木英五郎「事実誤認の実証的研究−自白を中心として」『青木英五郎著作集機戞陛槌書店・1986年)236頁)

2010年6月
三月十八日の午後六時十八分、夜の取調べが始まってすぐ、神垣検事が突然取調室を出ていった。二十分ほどして、取調室のドアを勢いよく開け、再び中に入ってくると、バタン! と大きな音を立ててドアを閉めた。私はただならぬ気配を感じた。
検事はすぐに私のそばに寄ってきて、声を荒らげて言った。
「おまえは嘘をついていた。眞藤はさっき落ちた! 眞藤はお前から直接電話を受けたと話している! これまで俺に嘘をついていたな! 俺にこんな態度をとったのはお前が初めてだ!」
言うや否や、私の椅子を窓側の横から蹴り上げた。その勢いでキャスターが横に滑り、私は頭から反対側に転げ落ちかけたが、素早く検事が反対側に回り私の身体を支えた。その身のこなしから、検事の動作は計算ずくだ、と思った。
検事はたたみかけるように怒鳴った。
「立て! 窓側に移れ!」
取調室の窓側で、私は検事と向き合う形となった。
「俺に向って土下座しろ!」
検事は私に殴りかからんばかりの剣幕であった。恐怖心から抵抗できず、私は屈辱的な思いで床に座った。命じられるままに、検事に向かい手をつき、頭を下げた。そのような姿勢を続けているうちに、私は検事のマインドコントロール下に入っていった。
「お前は眞藤に直接電話している。忘れているだけだ。思い出したか。・・・・・
思い出したなら席に着くことを許す」
私はこれまでにずっと真実を述べてきていた。だが、恐怖心に捕らわれた私は、悲しいことに、小声で「分かりました」と答えた。
すると、検事は事務官に口述をして次のような調書を作成した。
「私は、検事に土下座してお詫び申し上げます。いままで検事に対し、眞藤さんに直接声をかけたことはない、村田さん個人にお譲りしたものであるなどと嘘を申し上げてきました」
抵抗する気力を失い、私は言われるままに調書に署名した。私が署名を終えると、「よし、これでよい」と検事は急いで取調室を出ていった。
二時間ほどで戻ってきた検事は満足げな表情で言った。
「よし、調べは終わりだ。下がってよい」
悪夢のような体験だった。房に戻されたが、房はいつもより寒々としていた。

保釈後、房内ノートを見ながら新聞記事のスクラップファイルを操っていたところ、「江副の株譲渡持ちかけ 眞藤に直接だった 収賄罪成立、確実に」という、毎日夕刊の一面トップの大きな見出し記事が目に留まった。
「今までの調べや関係者の証言で明らかになった」との記事だが、日付は三月十四日。私が土下座させられ調書を取られた四日前の報道である。合同会議あたりでそのようなシナリオがあらかじめできていた、と私は思った。
――江副浩正『リクルート事件・江副浩正の真実』(中央公論新社・2009年)155頁〜157頁

2010年7月
御承知の通り、警職法2条1項というものを何度読み返してみましても、職務質問の要件を確認するために職務質問が出来る、という事や、いわんや、その事のために、今申し上げました3つの要件がいる等という事は、どこからも出て来そうにないわけでございます。非常に自由な法解釈でございます。これでは、警職法の条文は、まるで打出の小槌のようなものであるという感想をいだくわけでございます。***ところで、話変わりまして、これも御承知の通りの証拠の事前開示の問題になりますと、この物判りのよさが一変するわけでございます。自由法学がとたんに不自由法学になるわけでございます。最高裁の決定を読んでみますと、要するに、規定がないから証拠閲覧命令は認められない、条文がないからだ、というように云っているわけでございます。自由法学から、非常に厳格な概念法学に一変しているわけです。しかし、別に驚くことはございませんので、結局、秩序維持の結論をとるために、解釈技術を上手に使い分けておるということにすぎないわけです。人権より秩序を重んずるという感覚、そのような裁判官の意識・無意識の態度が、そういった結論をとらせていることは明白だと思います。
――下村幸雄「法曹の人権感覚」同『刑事裁判を問う――在官30年の思索と提言』(勁草書房1989、初出1967)、186〜187頁

2010年8月
裁判官が初めて普通の人にわかる「言葉」で裁判を語り始めたときに、何か変化が起きるんじゃないかとすごく期待しているんです。初めて裁判が一般の人に「開かれる」。今までは「公開が原則」ということで、誰もが傍聴できたわけですが、裁判官も検察官も弁護士も、傍聴人にわかるようには裁判してこなかった。自分たち専門家がしっかりやっているから大丈夫だけど、見たかったらどうぞという、裁判をわかってもらおうとはしていない「公開」だった。裁判は「開かれた」ものではなかったんです。だけど今度は少なくとも裁判官は一般の人を説得しなきゃいけないわけですからね。裁判官が自分の思い通りにやりたかったら、「裁判員」である一般の人を説得しなければいけない。裁判所は、裁判を「開かれた」ものにしなければならないんです。少なくともアメリカの陪審員のように、傍聴人にもわかる裁判が始まる可能性がある。
――周防正行(映画監督)。周防正行『それでもボクはやってない−日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』(幻冬社2007)、310頁

2010年9月
しかし、適切な問いは、死刑が「相応しい」と思えるケースがあったのかどうかということではなかった。正しい問いは、死刑が相応しい事件だけを捉え、決して死刑が相応しくない事件を誤って捉えてしまうことのない法制度を構築することがわれわれに可能であったのか、というものであった。死刑が相応しくない事件とは、何人かの私の依頼人のように無実の人、あるいはまた別の依頼人のようにいかなる比例の感覚に照らしても死刑に相当する罪を犯したとは言えない人の事件である。われわれは未だにそのような制度を構想できたことがないということに私は気付いた。
――スコット・トゥロー(アメリカの小説家、弁護士)。Scott Turow, “Doubting the Death Penalty”, in LARRY KING ED., BEYOND A REASONABLE DOUBT (Phoenix Book, 2006), at p286.

2010年10月
さらに信用性を持たすために、わざと事実とは違ったことを調書に書き込んでおくわけ。……たとえば椅子の配列があるとする。もちろん、実況見分しているからこっちは正確なデータが分かっているんだけれども、そこをわざとちょっといじるわけね。2つあった椅子をわざと3つにしてみたりだとか、4つあったのを1つにしてみたりだとか。そうやって少しだけ間違いを作っておいたほうがかえって信憑性が増すんだよ。そういうのは図面だけでなくて、調書の文章の中でもやる。たとえば佐藤慶の「優」を「勝」とわざと書き間違えたり、田中森一の「森一」を「守一」としたりするわけだ。その調書を被疑者に読み聞かせれば、被疑者は「いや、佐藤マサルのマサルはこうじゃないんですよ、田中モリカズのモリは違いますよ」と、こうなるじゃない?で、そこを訂正しておけば、もう検察の思うつぼ。というのも、それで実際に裁判が始まって、ある争点に関して被疑者が「いや、私はそんなこと言った覚えはありません。事実はこうなんです」と言ったところで、判事は「あなた、そんなこと言うけども、この中でわざわざこんな誤字脱字まで訂正しているじゃないか。文字の間違いを検事はちゃんと直してくれたんでしょ?名前まで直してくれているじゃない。それなのに自白を強要されたというわけ?」と聞くわね。こうなってしまえば裁判所は検事の調書の信用性を否定することができなくなるんだ。
−田中森一・佐藤優『正義の正体』(集英社インターナショナル・2008年)45〜〜46頁

2010年11月
わたしはと言えば、常々、依頼人が当該の案件についてわたしに詳しく情報を与えてくれるよう努力し、また、その人に自由に語ってもらうためにその場に誰もいないようにするよう努め、さらには、わたしが相手方の立場に立って弁護し、その人には自分の立場に立って弁護してもらったり、依頼人が自分の案件についてどう考えているか胸襟を開いて語ってもらうように努力している。だから、依頼人が去ると、まったく公平な心をもってわたしは1人で3役、つまり、弁護人としてのわたしと、相手方と、陪審員の3役を演じるのである。−キケロー/大西英文訳「弁論家について」『キケロー選集7』(岩波書店・1999年)184頁−

2010年12月
弁護人によって予め与えられた助言でさえ、密室の取調べによって容易に打ち敗かされてしまうのである。したがって、第5修正の特権を保護するための弁護人の必要性というのは、取調べの前に弁護人と相談する権利のみならず、被告人が望むならば取調べの間弁護人を立会わせる権利をも包含するのである。
――アール・ウォレン連邦最高裁首席裁判官、ミランダ対アリゾナ法廷意見


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2007年1月
どうか私たちをあなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いてください。わたしのいうことはそれだけです。
――アフェニ・シャクール 元ブラックパンサー党地区代表、トゥーパック・シャクール(ラッパー、1996年9月ラスベガスで何者かに射殺された)の母親。1971年6月、ニューヨーク州最高裁判所(事実審裁判所)にて、警察署に爆弾を仕掛けた容疑でパンサー党員13名が起訴された「パンサーの13人」事件の被告人の1人として、陪審に向けて自ら行った最終弁論の1節。出典:アンジェラ・デービス編著(袖井林二郎監訳)『もし奴らが朝にきたら――黒人政治犯・闘いの声』(現代評論社1972)、311頁)。

2007年2月
We defend everybody.(われわれは誰でも弁護する。)
――アール・ロジャーズ(Earl Rogers 1869-1922アメリカの伝説的な刑事弁護士。21年間の弁護士生活で189件の無罪評決を獲得した。77件の殺人の公判で74件の無罪を得ている。)の口癖。Adela Rogers St. Johns, “Final Verdict” (Doubleday, 1962).

2007年3月
1人の奴隷の根拠のない意見によって人類全体の自由と運命とを片付けてしまうわけにはいかない。
――ジョン・ロック John Loke, The Two Treatises of Government, ed., Peter Laslett (Cambridge University Press, 1988[1698]), p177. 1st Treatise §51.

2007年4月
憲法の保障には何がしかのコストが伴うというのは自明の理である。
――スカリア裁判官Coy v. Iowa, 487 U.S. 1012 (1988), at 1020.

2007年5月
たまたま弁護士資格のある人が法廷で被告人の隣に座っているというだけでは、憲法の要請を満足させるに充分という訳にはいかない。
――サンドラ・D・オコナー判事Strickland v Washington, 466 U.S. 668 (1984), at 685.

2007年6月
裁判の手続は、その古めかしく奇妙であることを旅行者によって賞賛されるべき、歴史的展示物ではない。それは、法の下の正義を推進する力量によって評価されるべき、必須の政府機関である。
――DAVID PANNICK, JUDGES (Oxford University Press, 1987), at p146.

2007年7月
訴訟法は裁判所の執務の安易や簡便のために設けられているものでない。
――小谷勝重最高裁判事。最高裁大法廷昭和28年4月1日判決における補足意見。刑集7-4-713、724頁。

2007年8月
この事件の判決をどうするか考えているとき、私は、ある素人の友人に、事実と法が、有罪を宣告され死刑を言渡されたある男に対して再審を認めることを私に要求しているようだ、と言った。
「彼は殺っているのか」とその友人は尋ねた。
私はただこう答えた。「彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない」と。
この偉大な国において、公正な裁判を受けていない人々が処刑されようとしているときにわれわれがそれから目を背けてしまうようなことは、決してあってはならない。この事件ではまさにそれが起ろうとしていたのだ。
――フランク・シャイ、オクラホマ東部地区連邦地裁判事、1995年9月19日ロナルド・ウィリアムソン死刑囚の再審を許可する判決において。Williamson v Reynolds, 904 F.Supp. 1529 (E.D.Okla.1995), at 1676-77, cited in, JOHN GRISHAM, THE INNOCENT MAN: MURDER AND INJUSTICE IN A SMALL TOWN (Doubleday, 2006), at 277.この判決の4年後、1999年4月15日、DNA鑑定によってウィリアムソン氏の無実が証明され、彼は死刑囚監房から釈放された。

2007年9月
いったい裁判官が裁判をするにあたっては事件を審理した上で結論が先に出るのだろうか、それとも法文と理屈とが先に出てその推理の結果ようやく結論が出るものだろうかという問題です。この問題は日本の裁判官はもちろん外国の裁判官にもしばしばたずねてみました。ところがこれに対する答えはほとんど常に「結論が直感的に先に出る、理屈はあとからつけるものだ」というものでした。
――末弘厳太郎『嘘の効用』(日本評論社1954[初出1923])、136頁。

2007年10月
刑訴143条は「裁判所はこの法律に特別の定ある場合を除いては何人でも証人としてこれを尋問することができる」と規定し、一般国民に証言義務を課しているのである。証人として法廷に出頭し証言することはその証人個人に対しては多大の犠牲を強いるものである。個人的の道義観念からいえば秘密にしておきたいと思うことでも証言しなければならない場合もあり、またその結果、他人から敵意、不信、怨恨を買う場合もあるのである。
そして、証言を必要とする具体的事件は訴訟当事者の問題であるのにかかわらず、証人にかかる犠牲を強いる根拠は実験的真実の発見によって法の適正な実現を期することが司法裁判の使命であり、証人の証言を強制することがその使命の達成に不可欠なものであるからである。従って、一般国民の証言義務は国民が司法裁判の適正な行使に協力すべき重大な義務であるといわなければならない。
――最高裁大法廷昭和27年8月6日判決(石井記者事件)、最高裁判所刑事判例集6巻8号974頁、976-977頁。

2007年11月
アメリカ人の目からみると、被害者の参加制度が裁判員制度とほぼ同時に採用されるというのは、皮肉であるとともに、まさに衝撃的である。有罪・無罪の判断と量刑判断が段階を分けられておれば、被害者は量刑判断の段階で自らの意見を述べることもありうるだろう。しかし、有罪無罪を判断する段階にまで被害者の積極的な参加を認めるとなると、これは、裁判員と裁判官とを問わず、事実認定者を、偏見を抱かせるような無数の危険にさらすに等しい。これが合衆国であれば、有罪・無罪の判断の段階での被害者の積極的な参加が、被告人に公正な裁判への権利を保護する観点から、違憲審査で認められるとはまず考えられない。
――ダニエル・フット(溜箭将之訳)『名もない顔もない司法−−日本の裁判は変わるのか』(NTT 出版2007)、310 頁。

2007年12月
この地球上でもっとも危険な人物は、あまりにも長いあいだ偏見を持ち続けてきたために偏見がその心根にしっくりと馴染んでしまった独善的な学者気どりたちである。
――ジェリー・スペンスGerry Spence, Win Your Case: How to Present, Persuade, Prevail—Every Place, Every Time (St. Martin’s Press, New York, 2005), at p118.

2009年1月
もし、私が裁判員裁判の弁護人となり、捜査段階での被告人の自白が強制されたものであると主張する場合には、取調べの全過程を録音・録画できるのに、していないことを徹底的に突くであろう。
――後藤昭「裁判員制度をめぐる対立は何を意味しているか」世界2008年6月号90、95頁。

2009年2月
私モ四十三年ノ司法官生活中随分間違ッタ裁判ヲ為シタコトノアルハ勿論ダガ、併シ自分ノ考ガ理屈ニ捉ハレ一種ノ型ニハマリ真相ニ適シナイ事実ノ見方ヲ為シ居ルトハ気付カナカッタノデアル。今ヤ民間ニ下リ局外ヨリ裁判ノ当否ヲ傍観スルニ従来耳ニシタ世間ノ批評モ成程ト肯カルヽコトガアル。古人ノ語ニ「五十年ニシテ四十九年の非ヲ悟ル」ト云ヘルコトアリ。私ノ在野法曹トシテノ感想は全ク此ノ語句ノ通リデアリマス。
――三浦順太郎『陪審裁判松島五人斬事件之弁論』(1931)、60頁。三浦は明治から昭和にかけての裁判官。昭和4年に定年退官して弁護士。

2009年3月
「起訴のタイミングは、私にかかってる。捜査一課長は、急げ、急げ、言うてるけど、そんなもん、関係あらへん。私の事件や、これは。あんたは、私の仕事相手なんや。自分をもっと大事にせんとアカン。誠実に、直向きに生き直すチャンスなんやで。つまらん素人考えで、あんたは、取り返しのつかん間違いを犯そうとしとる。見て見ぬフリはでけんやろ?あとで、あん時、あの刑事の言うこと聴いて、ちゃんと自供しとったらて、どんだけ後悔しても始まらんのやで!完黙なんかしてみたところで、何にもならへん!起訴して、有罪になるだけの証拠はもう揃ってるんやから。今の裁判では、一人殺しただけじゃ死刑にならん。二人殺せば50パーセント。三人殺せば、確実に死刑。――そうなっとる。けど、あんたの場合、事件が事件や。西麻布の死体遺棄事件もあんたが関係してるんかどうか、それは分からん。けど、世論はどんどん、厳罰化の方向に向かっとる。判事もそれに従いだした。あんたも知っとるやろ?態度次第では、死刑だってあり得る。死ぬんやぞ!絞首刑や。想像してみ。どんだけ無惨な死に方か。――死に急ぐことはあらへん。生き延びることをまず考え!すべてはそっからや。きちっと自供すれば、絶対に悪いようにはせえへん。私らはそんな、弁護士みたいに高給取りでもなし、あんたを自供させて懐が温かくなるわけでもなんでもない。けど、刑事とかなんとか言う前に、ひとりの人間として、私の誇りにかけて一生懸命なんや。あんたが、どっちを信じるか。――完黙とか、怠慢な方法であんたを唆して、ほったらかしてる人間を信じるか、あえて恨まれるようなことでも言って、あんたの将来のことを真剣に考えてる私らの方を信じるか。」
――平野啓一郎『決壊(下)』(新潮社2008)、179-180頁。

2009年4月
サード・ディグリーの時代と同じように、取調べを行う警察官の第一の目標は、真実の探求それ自体ではなく、被疑者に罪を認めさせて、有罪の証拠を固めて裁判で有罪判決を獲得する手助けをすることである。また、取調べは依然としてしばしば秘密裡に行われている。現代アメリカの警察官は当事者主義の規律に見事に順応した。しかし彼らは、先人たちと同様に、決して公正中立な事実探究者になろうなどとは考えていない。むしろ、彼らは依然として本質的に検察官の代理人である。そして、彼らは、当事者主義のシステムが用意したチェックとバランスが有効に機能する前に、刑事司法制度の入口において権力をほとんど独占し、被疑者自身を操って自らにとって致命的な供述証拠を引き出すという仕事を続けているのである。
――Richard A. Leo, Police Interrogation and American Justice (Harvard University Press, 2008), at 77.

2009年5月
今の裁判制度では、弁護士が裁判官に対して「無罪の推定」について必死に説いても、裁判官は仕事柄、その言葉の真意について少々マヒしているかもしれない。しかし、これからは裁判員が、弁護士の援助を得ながら、無罪の推定など刑事裁判の本質的な部分をその都度、素人の新鮮な目で見極めるようになれば、裁判員制度は本当に画期的な制度になるかもしれない。
――コリン・P.A.ジョーンズ『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』(平凡社2008)、219-220頁。

2009年6月
罪を自認することを拒否する特権は、われらの自由の発展の歴史において重要な飛躍――人類が自らを文明化するための戦いにおける偉大なる道標の一つ――を示している。それは、われわれの基本的な価値と崇高なる願望の多く――犯罪の嫌疑を受けている人々を、自己弾劾か偽証か法廷侮辱かという過酷な三重苦に追い込むのを避けたいというわれわれの気持ち;糾問的な刑事司法制度よりも弾劾的な刑事司法制度を好むわれわれの選好;非人道的な方法や虐待によって罪を自認する供述が引き出されることへのわれわれの恐怖;介入を正当化する十分な理由が示されるまでは政府は個人に介入してはならず、個人との対決においては政府に全責任を負わせなければならないとすることによって、政府と個人との間に公正なバランスをもたらそうとするわれわれのフェアプレイの感覚;個人の人格や私生活の領域への権利の不可侵性というものへのわれわれの敬意の念;自己批判的な供述というものに対するわれわれの不信感;そして、この特権が、時として「犯罪者の避難所」であるとしても、しばしば「無実の人の防壁」であるというわれわれの認識――を反映している。
――アメリカ連邦最高裁判所、マーフィ対ウォーター・フロント委員会(1964年)、Murphy v. Waterfront Commission, 378 U.S. 52 (1964), 55.

2009年7月
善人の盾となるルールのほとんど全ては、同時に悪人の剣ともなる。これは[表現の自由を保障する]第1修正についての真実であり、また、[黙秘権を保障する]第5修正についての真実でもある。マーティン・ルーザー・キング・ジュニアを保護しながらデービッド・デュークを保護しないルール、あるいは、ジェームズ・ジョイスの盾となりつつ、ラリー・フりントの剣とならないルールを考案できた人はいない。法、とりわけ権利章典は、外科手術用のメスではない。それは斧である。それは過剰に保護するか、不十分に保護するかのどちらかである。
――アラン・ダーショウィッツAlan M. Dershowitz, Is There a Right to Remain Silence?: Coercive Interrogation and the Fifth Amendment After 9/11 (Oxford University Press, 2008), at 141.

2009年8月
通常の語法では「非有罪(Not Guilty)」という言葉はしばしば「無罪(innocent)」と同義と考えられている。しかし、アメリカの刑事法では、これらは同義ではない。「非有罪」というのは、検察官が証明責任を果たさなかったという陪審の法的判断に過ぎないのであり、たとえ彼らがそう信じていたとしても、被告人が無罪であるということを意味しない。被告人が有罪(guilty)なのか無罪(innocent)なのかは明らかにすべての刑事裁判において最も重要な道徳上の論点であり、また、それは法的にも重要な論点であるに違いない(だからもしも陪審が被告人は無罪だと思えば彼らは「非有罪」の評決をしなければならない)。しかし、陪審が決定すべき究極の法的論点は、検察側が合理的な疑問を入れない程度に有罪を証明する責任を果たしたかどうかを決定することである。もし陪審がこの決定的に重要な区別を十分に理解していないならば、彼らは事実認定者としての機能を十全に発揮する能力を損なわれているというほかない。
――ヴィンセント・バグリオシ(ロサンジェルスの検察官・小説家)。

2009年9月
一人の無実の者を罰するよりも、10人の有罪の者を逃す方が良い。
――サー・ウィリアム・ブラックストン(18世紀イギリスの偉大な法律家)。

2009年10月
一人の有罪の者を逃すよりも、10人の無実の者を処刑した方が良い。
――フェリクス・ジェルジンスキー(ロシアの革命家、ソビエト秘密警察の創設者)。

2009年11月
記録を精査し、当審で取調べた証拠を検討したが、被害者の半袖下着に付着していた犯人の精液を資料にして判定されたABO式血液型、ルイス式血液型の2種の血液型ばかりでなく、MCT118法によるDNAの型が、被告人のそれと合致すること、被告人の性向、知的能力、生活振り、本格的事情聴取の初日に早くも被告人が自白し、捜査官の押し付けや誘導などがなかったことを被告人自身認めながら、犯人であればこそ述べ得るような事柄について、客観状況によく符合する具体的で詳細な供述をしたことなど、本件の関係証拠を総合すれば、被告人の原審の審理後半以降当審にいたる犯行否認の供述にもかかわらず、被告人が被害者花子をわいせつ目的で誘拐して殺害し、遺棄したことを認定するについて、合理的疑いを容れる余地はないというべきである。
――裁判長裁判官高木俊夫、裁判官岡村稔、裁判官長谷川憲一(足利事件控訴審判決、東京高裁平成8年5月9日判決)。高木俊夫は、東電OL殺し事件で、一審無罪判決を破棄してゴビンダ氏に無期懲役刑を言い渡した。後に中央大学法科大学院教授に就任した。

2009年12月
実際のところ、刑事弁護士ならだれでも、カクテルパーティで最も頻繁に尋ねられる質問は、「どうしてあんな連中の弁護ができるのか」というものだと言うだろう。この質問は繰り返し何度も尋ねられる。ほかの弁護士がこんな風に答えているのを耳にする。「有罪の人の権利のために立ち上がることは、無実の人の権利を守ることだからだ。」あるいは、「被告人があなたの息子さんや娘さんだったとしたら、あなたはその質問をしないでしょう。」あるいはまた、「裁判は当事者が対立するものだ。私は自分の役割を果たしているに過ぎない。」これらの答えはどれも決して間違ってはいない。
しかし、いずれの答えも、私が毎朝起きあがり仕事に向かう理由の本質的な部分を捕らえてはない。刑事被告人の弁護を30年以上続けてきた現在も、私は、法律家の仕事の中でこの刑事弁護という仕事に対する情熱を失ってはない。そして私は、私がしていること――私がやろうと全力を尽くしていること――が正しいというだけではなく、私の信念の中核をなしているものだと感じている。私の信念とは、すなわち、被告人が誰であれ、どんな容疑で訴追を受けたのであれ、また、被告人が実際何をしたのであれ、彼らの尊厳のために立ち上がること、これこそが私の仕事だということだ。彼らに対して人間としての敬意を払えと要求すること、これこそが私の義務である、そう私は信じている。
***
刑事被告人の尊厳と彼らへの敬意のために立ち上がるということは、つまり、すべての事件を徹底的に繰り返し調査するということであり、調査報告書や記録を丹念に調べることであり、科学的証拠の再検査をすることであり、検察側のケースセオリーを再検討することである。それは、依頼人とその家族の話を聞くことであり、依頼人がどんな人かを知ることである。それはまた、些細な事柄の中に現れる。たとえば、依頼人の手錠を外し、他の事件の当事者と同じように、彼や彼女を弁護人席に着席させよと、裁判官が廷吏に命じるように働きかけるというような、ときとして単純な事柄である。ときには、貧乏な依頼人のためにスーツを買うことである。ときには、著名な依頼人のために公判までの数カ月間、彼らの自宅の平穏を確保してやることである。世論やセンセーショナルな記事にもかかわらず、一人ひとりの依頼人に無罪が推定されるのだという感覚を取り戻させることである。それは、金持ちであれ貧乏人であれ、有名人であれ悪名高い人であれ、すべての依頼人が、まずその弁護人によってついで司法制度によって、尊厳と敬意をもって扱われることを実現することである。
――ロバート・サンガー:カリフォルニアの刑事弁護士。マイケル・ジャクソンの児童に対する性的虐待事件の弁護人の一人。Robert Sanger, Human Dignity and Respect, in Larry King ed., “Beyond a Reasonable Doubt” (Phoenix Book, 2006), at pp111-114.


plltakano at 01:02コメント(0)トラックバック(0)刑事司法全般 
ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2005年1月
若し単に自白獲得の爲めに勾留が執行されるならば、恐らく冤罪者は、嘘自白を提供して一時的にせよ此責苦より遁げ出でんと踠がくであらう。何となれば勾留は往昔弱者に対して自自搾取の爲めに行はれたる水責、火責等々の怖ろしき拷問と比べて、實質的相違が余り認められないからだ。其形式に於て彼は身體にあり、是れは精紳に關すと雖、人間は物心両界の綜合的統一體の存在であるのみならず日に月に精神生活向上しつゝある現代文明人は、痛苦の肉體的たるよりは寧ろ精神的に受くるを以て一層の激烈さを體験する。彼等は恐らく二・三時間の縛り敲きの肉體的拷問を受くるよりは、数十日間に亘る絶え間無き精神上の痛苦を感ずる事が、どの位耐え難いか判からないだらう。試みに未だ自白をしない現代の被告人をして、「笞杖の拷問」と「二十九日間の警察拘留」と何れかを自由に選択せしめて申出でしめんか、恐らく大多数の者は、一時的の肉體的拷問を志願するでもあらう。それ程實質的に責苦と云ふ点は、両者同様であり、而かも拘留の方が深刻である。
――南波杢三郎『弁護学:科学的弁護と防禦技術』(新光閣1935)452頁。

2005年2月
「ときどき思うんですが、イランでしているように、腕を切り落とすというような厳罰を加えるべきではないでしょうか。そうすれば、私たちも安心でしょう」と彼は言う。「たぶんね。でもそうなったら、あなたはこの国で暮らしたいですか」と私は答えた。
――ワハード・ゼア(西村春夫ほか監訳)『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』(新泉社2003)、198頁。

2005年3月
時には望ましい目的のためでさえ権力を行使できないこともあることを認めないかぎり、権力の濫用を防止することは決してできないだろう。
――F・A・ハイエク(西山千明訳)『隷属への道』(春秋社1992)[1944]、325頁。

2005年4月
弁護人がいない間は、刑事被告人の黙秘する権利はすべての防禦を放棄する権利に他ならなかった。実際のところ、死刑が多用されたシステムにおいては、黙秘する権利は文字通り自殺する権利に等しかった。弁護人が登場して彼らが沈黙する被告人を防禦できるように刑事公判を再構築することに成功したとき、はじめて、自己負罪拒否の特権はコモンロー裁判所の手続において実践可能な権利となり得たのである。現代英米法において知られているその特権は、被告人ではなく第三者証人を保護していた特権を拡張することによって、19世紀を通じて形成されたものである。
-- John H. Langbein, The Origins of Adversary Criminal Trial, (Oxford University Press, 2003), pp278-279.

2005年5月
実際のところ自律的な理性的判断と思っているところのものが、じつは伝統的な法学教育のなかで培われてきて私たちに期せずして押しつけられている概念を、ただ無自覚に操っているだけだ、と言えるようなばあいが少なくない。「リーガルマインド」というとき、じつは専門や経験をおなじくしているサークルにかぎって通用するジャーゴン(仲間うちの隠語)を使用することへの慣れという、それ自体ではとうてい「理性」作用とは言えないものが、まことしやかに混在しているのである。
――奥平康弘『憲法の想像力』(日本評論社2003)、16頁。

2005年6月
私は来た手札を受け入れた。私はそのゲームに最善を尽くした。私は誠実に、男らしく戦おうと努めた。自分のために、そして仲間のために、私はできるかぎりのことをした。この先も私は最後までゲームを続けるだろう。その最後がどのようなものであろうとも。
――クラレンス・ダロウ、1912年8月15日、カリフォルニア州上級裁判所ロス・アンジェルス郡支部にて。陪審に賄賂を渡した嫌疑による彼自身に対する刑事裁判の最終弁論の一節。GEOFFREY COWAN, THE PEOPLE V. CLARENCE DARROW :THE BRIBERY TRIAL OF AMERICA’S GREATEST LAWYER (Times Books, 1993), p425.

2005年7月
自白の問題は、日々の裁判の現実において最も重要な憲法問題の一つである。
――最高裁判所大法廷昭和23年(1948年)7月29日判決(刑集2-9-1012、1014頁)

2005年8月
自由と秩序についての一般的な前提には、もうひとつ誤りがある。ほぼいつの時代も、秩序とは規則と罰、つまり公式なコントロールであると考えられている。だが歴史を振り返ってみると、秩序は非公式なコントロール、すなわち信念の体系、社会的な圧力や義務、同調への報酬によって維持されてきたことを忘れている。このことはまた、日常生活についてもいえる。秩序は単に法と刑罰に由来するものと考えると、社会をまとめているものを見失うことにもなる。
――ワハード・ゼア(西村春夫ほか監訳)『修復的司法とは何か――応報から関係修復へ』(新泉社2003)、198〜199頁。

2005年9月
多くの世人にとって、被嫌疑者の権利と自由は他人事である。将来自らが被嫌疑者となるようなことは危惧していないのが普通である。しかし良く世情を観察すれば、なるほど強、窃盗や殺人の被嫌疑者になることはないにしても、どんな嫌疑で、どんな事件に連座しないとは限らないのである。決して他人事ではない。しかし、仮に他人事であるとしても、被嫌疑者の自由と権利とが正しく保障されている国家においては、一般市民の自由と権利も、必ずよりよく保障されているはずである。最も犯されやすい被嫌疑者の人間的尊厳すら保障されているのであれば、一般市民の人間的尊厳も、必ずよりよく保障されているはずである。憲法第13条前段は、「全て国民は、個人として尊重される。」と規定している。最も尊重され難い個人は被嫌疑者である。その意味で被嫌疑者の尊重は、個人尊重のバロメーターであり、被嫌疑者の自由と権利は、決して他人事ではないのである。人はときに「被嫌疑者の権利よりも、善良なる市民の権利を尊重することが大切である。」などという。まことに近視眼的である。被嫌疑者に自由のない国家においては、一般市民もまた自由が無いことに思いを致さねばならない。
−−毛利与一『刑事訴訟法序説』(法律文化社1959)、12頁。

2005年10月
検察の慎重な公訴提起と相まって、有罪率は年々99パーセントを超え、日本の刑事司法はその効率性を誇ることができた。いわゆる精密司法の正の側面である。しかし、「記録の読み直し」に専心するという裁判はほとんど世界に類がなく、何かおかしいのではないかという疑問が次第に増幅する。19世紀の前半、チャールズ・ダーウィンは、南米大陸から1000キロ離れたガラパゴス諸島を訪ね、どことも異なる独自の生態系が繁栄しているのを見出して強烈な印象を受け、それが後の進化論の構想につながったといわれる。進化論の当否はともかくとして、現在の日本刑事訴訟の「成功」は、その特異性の点で一種のガラパゴス的状況を混在させているのではないかという懸念が払拭しきれない。
――松尾浩也「刑事訴訟の課題」松尾浩也・井上正仁編『刑事訴訟法の争点(第3版)』(有斐閣2002)、4、6〜7頁。

2005年11月
[保釈に関する]現在の実務の流れをどこかでくい止めなければ、今にどうにもならない事態に逢着するのではないかと、私は危惧感を持っています。現状は、いわゆる「人質司法」となっており、このままでは被告人が公訴事実を否認することが事実上できなくなってしまうのではないかと心配しています。
――木谷明『事実認定の適正化:続・刑事裁判の心』(法律文化社2005)93頁。

2005年12月
[終戦直後の10年間は]日本刑事裁判史上最も正しく裁判が行われた時代として顕著であるというように思います。昭和20年8月に日本は敗戦という有史以来の大悲劇を見終わったわけですが、悲劇というものを見終わった時に、人間というものは誰でもが非常に謙虚になる。日本人全部が謙虚になったということを経験しております。裁判官も検察官も警察も例外ではありませんでした。……そこから貧しいながら同胞が互いに抱き合う、人の哀れを自分の哀れとする、人の悲しみを自分の悲しみとすることができました。そこに自他一如、……そういう諦観が生まれたということを私は実感いたしました。多くの裁判官は肩をいからすのはやめまして、そして人の心をもって人の心を見るということができるようになりました。虚心平明に被告人を見る、少なくとも法を正しく運用していこうという、そういう心がありありと見えるようになりました。
――関谷信夫「刑事弁護哲学――自他一如」関谷先生無罪判決集出版委員会編『無罪への道――関谷信夫先生無罪判決集』(ぎょうせい1989)16頁。

2006年1月
米国には今猶私刑の遺習ありて、刑法も亦瞠若たるにあらずや。星移り物変りて、主権者の権威漸くにして強大を加ふるや、政府となり、法廷となり裁判となる。即ち知る、国家司法権の淵源は、民に在りて国家にあらざることを。形式上国家は裁判権を保有すと雖も、実体上民に代りて民を理する所以の根本観念を忘るべからず。古往今来、国民なき国家の存在すべき理由なし。官民不和、上下隔離二者互に相敵するに至らば、国家は遂に分裂破壊すべし。形式に存して実体に空しからん。国民にして国家の司法権に参与するの権なくんば、司法権は有司の私権なり。之を国家の司法権と云ふべからず。嗚呼我司法の現状果して如何。
――花井卓蔵『人生と犯罪』(廣文堂書店1915)、22-23頁。

2006年2月
「自己の情動的な性質の道を踏み外させる影響に」最も強く支配されている裁判官に限って、屡々、最も神妙に威圧的な機械的論理の言葉を用いるものであり、自分はただ現行の規範を発見して、それを実施するだけにすぎないという粧いで巧妙に自己を包みかくすものである。もしすべての判決意見が、判決の実際の根拠となったものを全部さらけ出して述べられるならば、判事席に在る暴君、偏屈者、不正直者は、彼等の仮面を失い、その本性を暴露するであろう。***われわれは、いかに望んでみたところで、所詮司法の運用における情動的要素を除去し得るものではない。われわれが望み得る最上のことは、事実審裁判官の情動が繊細で、平衡がとれており、且つ彼自身の吟味を受けるということである。自己の持つ権能の性格と自分自身の偏見及び弱点とについて、能う限り完全な知識をもった誠実な十分訓練された事実審裁判官こそ、正義の最上の保証となる。賢明な方針は、「個人的要素」が必然的に存在することを認め、それに従って行動することである。
――ジェローム・フランク(古賀正義訳)『裁かれる裁判所(下)(新装版)』(弘文堂1970[1949])、668-669頁

2006年3月
昔、子供だったときに、ある日、川を水死人が流れてくるのを見た。翌日になって新聞を二つ読んでみたら、二つとも水死人の着物の柄をまちまちに書いていた。記者が水死人を見てどんな感想を書こうが、それはその記者の主観の自由であるが、一人の水死人の着物の柄が事実とまったくちがって活字になるというのは、いったいどういうことなのだろう。後世には水死人が消えてこの誤報の記事だけが伝えられてゆく。それがこの水死人についての“歴史”となってのこされてゆく。一人の水死人についてすでにこうであってみれば、一国一世の巨大な事業については、どれほどの嘘の歴史が書かれてゆくことであろうかと考えた。
それ以来、彼は、文字になった“歴史”というものを、子供心に、ことごとく割引いて考えるようになった。
――開高健「阿波踊り」同『路上にて:開高健全ノンフィクション掘戞癖檎砂媾1977[1963])、412頁。

2006年4月
私は、37年間の検察官としてキャリアのなかで、陪審の評決に不平を言ったことはただの一度もない。今日はじめてそれを言うつもりもない。
――サンタ・バーバラ・カウンティ地方検事トーマス・スネドン、2005年6月14日、カリフォルニア州上級裁判所の陪審がマイケル・ジャクソンに無罪評決を出した直後のコメント。
http://www.cnn.com/2005/LAW/06/13/jackson.trial/

2006年5月
政府機関が多大のプレッシャーの下で重要な利益を保護するのに必要と判断される臨機の行動をとるのと、裁判所が刑事手続のなかでその行動を回顧的に審査したうえでそれに憲法的な正当性を承認するのとでは、全く意味が異なる。ロバート・H・ジャクソン連邦最高裁判事が第2次世界大戦中の日本人強制収用事件における反対意見の中で述べているように、政府の役人が憲法に違反したとしても、「それは一つの出来事に過ぎない」が、その行動を裁判所が承認したならば、「その一過性の出来事は憲法上の教義になるのである。それは自らの生産力を持ち、それが創り出すものはすべて独自のイメージを持つに至るであろう。」
――アラン・ダーショウィッツAlan M. Dershowitz, “The Best Defense” (Vintage Books, 1983), p80.

2006年6月
いかなる者であれ被告人が告発人と面と向かって対面し、訴追について防禦する機会を与えられないままに彼を処刑するというのは、ローマ人のやり方ではない。
――使徒行伝25章16節

2006年7月
昔或吟味方の役人、予て上手と云はれし者、或日感ずる所ありて、家に帰り、役服のまゝにて、下男を呼び出し、汝は我手許の金子を盗取り、不届けなりと問ひしに下男は驚き、其覚なき旨、申し披きしに段々理非をもって責問ひ、或は憤り、或は諭せしかば、終に下男、申し開き尽き服罪せり。依て役人大に驚き、我は是まで、如何なる囚人にても、白状させずといふ事なかりしに今全く覚なき下男、我調べを受け伏罪せしを見れば、是まで冤罪を出し候事多かるべしと、只今思当れり。余り此方の詞強く、少しもゆるみなく責め問へば、愚人は終に閉口し、罪に落ちる事、此僕の如し。恐るべき事なりとて、其役人は自分と職を辞し、隠居せしと云う事あり。去れば、吟味方程大事の者これ無し、口問ですら斯くの如くなれば、拷問などは尚更に候。
――佐久間長敬『吟味の口伝』原胤昭・尾佐竹猛解題『江戸時代犯罪・刑罰事例集』(柏書房1982[1930])268~169頁。佐久間長敬(1839-1923)は幕末の江戸町奉行与力。明治維新後は裁判官として活躍し、司法権少判事に任ぜられ、足柄裁判所長となり、後に東京裁判所に転勤したが、明治6年12月征韓論のとき同志とともに辞職した。

2006年8月
3 粘りと執念を持って「絶対に落とす」という気迫が必要
   調べ官の「絶対に落とす」という、自信と執念に満ちた気迫が必要である
4 調べ室に入ったら自供させるまで出るな。
○ 被疑者の言うことが正しいのでないかという疑問を持ったり、調べが行き詰まると逃げたくなるが、その時に調べ室から出たら負けである。
***
12 被疑者は、できる限り調べ室に出せ
○ 否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ。(被疑者を弱らせる意味もある)
――「被疑者取調べ要領」愛媛県警察本部警察学校における講義用レジュメ。http://y-nakamoto.cocolog-nifty.com/docs/miketsu/ehime-manual.html 同本部刑事部捜査1課所属のA警部(42歳)のパソコンから流出したファイルの一つ。愛媛県警察本部平成18年6月16日付「調査結果報告書」 https://www.police.pref.ehime.jp/soumu/ryusyutu_chousa.pdf

2006年9月
実際のところ、私には友愛という言葉を自発的という言葉と分断することができない。自由を法的に破壊せずに、すなわち正義を法的に踏みにじることなしに、友愛を法的に強制する方法があるとは思えない。
――フレデリック・バスティア『法』(1850年パリで出版された)。Frederic Bastiat, “The Law” (Filliqarian Publishing, LLC, 2005), at p23.

2006年10月
私は、決して自分の疑問を押しつけるつもりはありませんが、しかしあえてもう一度お伺いしたいと思います。今まで申しましたようなアメリカの判例の動向を背景として考えますと、私は、日本の憲法上の強制による自白を排除する法則と公判前の勾留・取調の手続とを調和させて考えるのに非常な困難を感じるのであります。もし、私が日本の勾留・取調手続を正しく理解しているとしますならば、私には、取調のため長い間勾留しておけるという手続そのものが、実質的には、一種の強制ではないか、との議論も可能なように思われるのであります。
――ジョン・B・ハールバット、1960年6月21日司法研修所にて。司法研修所編『日米比較刑事訴訟手続――ハールバット教授セミナー記録』(1961年)、131頁。ハールバット(John B. Hurlbut)は、スタンフォード大学ロースクール教授。日米法学交流委員会とフルブライト委員会による交換教授として来日した際に、司法研修所で彼を講師として当時の指導的な裁判官、検察官、弁護士、研修所教官らとのセミナーが開かれた。上記の発言に対して受講者の1人であった横川敏雄(東京地裁部総括判事)は「自白の任意性についてはもう少し裁判所として厳格に解釈する必要があるんじゃないかということは、実践的には非常に感じるのですが、今までの最高裁・高裁の判例で、任意性なしとするには脅迫がある場合とかある程度固まっておりますので、そういう判例の線をはなはだしく逸脱するということは実際上できない」と答えた。

2006年11月
重罰化に、教育機能や、特別予防効果があると考えるのは刑法上のお伽話であり、裁判官が判決を書く際の気休めに過ぎない。そんなことは、刑務所や少年院での実務を経験し、受刑者や非行少年と日々生活を共にすれば、すぐに分ることである。しかし、残念ながら、日本の刑事司法の専門家の多くは、刑罰信仰の中に生きている。
――浜井浩一『刑務所の風景――社会をみつめる刑務所モノグラフ』(日本評論社2006)、iv.

2006年12月
裁判所は犯罪と闘うために存在するのではない。裁判所は正義を実現するために存在するのだ。
――2006年11月、あるアジアの都市で開かれた国際会議で香港のバリスターが中国本土の裁判官に向けて言った言葉。


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2003年2月
それは何人も自らを訴追することはないという国の法に照らして違法である。それは汝自身にそむくなかれという神の法に照らして違法である。それは全ての人は自らを保持すべしという自然の法に照らして違法である。***訴追を受ける人に対しては、何故に訴追されたかが知らされなければならず、彼を訴追する者を連れてきて彼に対面させなければならない。自らを訴追することを求められたとき、彼の答えは、イエス・キリストのそれと同じでなければならない――「汝ら何故に我に問うか。我を知る者に赴け」。――ジョン・リルバーン、1638年2月9日スターチェンバーにて、キーパー卿から「なぜ宣誓を拒むのか」と尋ねられて。Pauline Gregg, Free Born John: A Biography of John Lilburne (George G. Harrap & Co., 1961), p60.

2003年3月
権利章典の草案者たちは、刑事事件において何人も自らに対立する証人とされてはならないという彼らの禁令を、弾劾主義的な刑事司法制度の中心的な特色の一つとみなしていた。無実の者を処罰する可能性を最小限にする制度を永続させることに深く献身するとともに、少なくともそれと同じ程度に、彼らは基本法が犯罪者に対しても示すべき人間性というものを考慮していたのである。何よりも、[黙秘権を保障する合衆国憲法]第5修正は、個人の尊厳に基礎をおく自由社会においては、有罪無罪の決定は公正な手続によってなされ、訴追を受ける者は自らの有罪のために不本意な貢献をなすべきではないということの方が、有罪の者を処罰することよりも大切であるという彼らの判断を反映しているのである。――Leonard W. Levy, The Origins of the Fifth Amendment: The Right Against Self-Incrimination (Macmillan, 1986), p432.

2003年4月
世に現れた誤判のほとんどは、理解力の欠陥というよりは意思の欠陥によるものであるから、司法を良く運営するためには博識の人よりも高潔の人を選ぶように注意しなければならない。――ジョン・ロック Mark Goldie ed., Locke: Political Essays (Cambridge University Press, 1997), p273.

2003年5月
デラ・ストリートは、椅子から立ちあがって窓まで行き、外を覗いてみた。
「警察の車だわ」彼女はメイソンに言った。
メイソンは顔をしかめた。「タイディングス婦人」彼は言った。
「あなたに約束してもらいたいことが1つあります。絶対に供述をしてはなりません。いかなる質問にも答えを拒否してください。」
「メイソンさん、あなたまさか……。」
窓辺からデラ・ストリートが言った。「ハルコム警部と、もうひとり出てきた。こっちに向かってるわよ。」
「私に約束してくれますか?」メイソンは尋ねた。
「はい。」
「覚えておいてください。あなたの人生はこの約束を守ることにかかっているということを。」
--E. S. Gardner, “The Case of the Baited Hook” (Ballantine Book, 1986; originally published 1940), p170.

2003年6月
自らの肉体を防衛しないことを約束する規約は無効である。したがって――
 主権者が、たとえ正当な目的に発したものであっても、個人に対して、彼自身を殺し傷つけあるいは不具にすることを命じ、あるいは食べ物、空気、薬などそれなしでは彼が生存できない物の利用を禁じる命令を発したとしても、なお、彼にはその命令に従うのを拒否する自由がある。
 個人が自らの犯罪について主権者やその権限をもつ者によって取調べを受けるとき、彼には、恩赦の保障がない限り、それを自白する義務はない。なぜなら、何人も規約によって自らを訴追する義務を負わせられることはないからである。
――トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』第21章。

2003年7月
しかし、習慣や伝統というだけでは、憲法上の異議申立に対する十分な回答とは言えない。
――ブラックマン判事 Justice Blackmun, for the court, Bates v. State Bar of Arizona, 433 U.S. 350, 371 (1977).

2003年8月
アメリカの弁護人は制度上有罪無罪の決定に参与する。すなわち、独自に事実関係を調査し中立の事実認定者の前で検察側の証拠に疑義を提起するために、弁護人への意味のあるアクセスが被告人に保障されなければならない。検察側が被告人の有罪を証明する前に刑罰や矯正が開始されることは、憲法に適合するとはいえない。これに対して、日本では、訴追機関が被告人の有罪を信じて自白を引き出した時点で、矯正が始まる。日本の当局者は、自白は「被疑者に道徳的責任を受け入れさせる手段」であり、更生の出発点であると考えている。このアプローチが被告人の弁護権における力点の差を導く。アメリカのモデルを見て、日本の市民、政策担当者そして刑事司法当局者が、取調べへの弁護人の在席は、有罪判決を減少させるだけでなく、望ましい矯正過程を阻害するだろうと考えるのは自然である。要するに、自白に対するいかなる障壁も、被告人が道徳的責任を取ることを妨げ、彼らの社会復帰を阻害すると考えるのである。
――David A. Suess, Paternalism Versus Pugnacity: The Right to Counsel in Japan and United States, 72 Ind. L.J. 291(1996).

2003年9月
我邦今日詞訟ニ代言人ヲ許サルルハ、其能ク詞訟本人ノ情ヲ尽シテ其権利ヲ暢ベ、之ヲシテ枉屈ニ陥ラシムルナキニ在ルナリ。其社会ニ益アル亦少ナカラズ。然リト謂モ、詞訟ノ関係スル所ハ多ク是レ財物金銭ノ得喪ニ過ギズ。之ヲ刑獄ノ関係スル所ニ比スレバ、其軽重大小固ヨリ日ヲ同フシテ語ルベカラズ。抑々刑獄ハ栄辱ノ属スル所、死生ノ岐ルル所、裁判一タビ其當ヲ失フトキハ、人其罪ニ非ズシテ長ク囹圄ニ繋ガルルノ苦ヲ受ケ、其甚キニ至テハ、身首處ヲ殊ニシ、復タ日月ヲ見ザルノ惨ニ遭フヲ致ス。其関係スル所豈至大至重ト謂ハザルベケン哉。然而シテ刑獄ノ原告タル者ハ堂々タル官吏ニシテ、学力知識ニ富ムノ人ナリ。之ニ反シ、其被告タル者ハ大概愚昧卑賎ノ民ナリ。其囚ハレテ獄庭ニ到ルヤ、畏懼ニ勝ヘズ。自ラ其辭ヲ尽シ、其情ヲ明ニシ、以テ原告ノ論ズル所ヲ破ルヲ得ルハ萬ニ一ヲ望ムベカラズ。其ヲシテ呑恨泣冤ナカラシメント欲スルハ蓋シ甚ダ難シトス。知ル可シ、其代言辯護ヲ要スル切ナル、亦詞訟人ノ比ニ非ズ。今ヤ我邦獨リ詞訟ニ代言ヲ許サレ、未ダ刑獄ニ之ヲ許サレズ、豈一大缺典ト謂ハザル可ケンヤ。因テ速ニ刑事代言人ヲ御差許相成度。
――磯辺四郎(司法省修法課起草委員)の明治12年(1879年)6月27日付「刑事代言人ヲ許スノ議上申案」。委員10人中8人の反対で否決された。賛成したもう1人の委員は箕作麟祥。

2003年10月
次に三十九條でありますが、この規定によりますと、弁護人が被疑者にもつくことは許されておるのでありますが、その弁護人が立会人なくして被疑者と接見し、書類とか物の授受ができることが規定されていますが、被疑者の取調べに立会うという規定が書かれていない。この被疑者の取調べに立会うか立会わぬかということは、きわめて重大なことであります。もしも被疑者につけられたる弁護人が、被疑者の取調べに立会えないとすれば、弁護人を被疑者につけるという意味は、大部分抹殺されてしまうだろう、こう考えておるのであります。この点について、政府としてはどう考えていられるか。この点について改正に應ぜられる意思があるや否や、お伺いしたい。
――中村俊夫、1948年6月21日衆議院司法委員会で「刑事訴訟法を改正する法律案」についての質問。政府委員野木新一は「取調べに際しましては、弁護人側を立会わせるということは、今の日本の段階におきましては、そこまでさせることは、捜査の敏活に差支えがあると考えまして、この案ではまだそこまでは至つていないわけであります」と答弁した。

2003年11月
又盗賊火付ケなどを吟味する時、覺えなき者も、拷問せられて、苦痛の甚しきにえたへずして、僞りて我也と白状する事あるを、白状だにすれば、眞僞をばさのみたゞさず、其者を犯人として、其刑に行ふやうの類もありとか、是又甚あるまじき事也
――本居宣長『秘本玉くしげ』天明7年(1787年)

2003年12月
一 重犯−山賊・海賊・夜討・強盗−の輩の事
 右、彼の輩の者は重犯なり、禁ぜざるべからず、須く罪科に處す。但し重犯の者は、贓物を露顯せしめ、證據分明の輩の事なり、嫌疑をもって左右無くその身を搦め捕り、拷訊に及び壓状を責め取り、白状と稱して断罪せしむるの條、甚だ然るべからず。若しこの儀に背き、理不盡の沙汰に致す者は、地頭代と云えども、沙汰人と云えども、その職を改易せしむべきなり。
――建長5年(1253年)10月1日鎌倉幕府「諸國郡庄園の地頭代、存知せしめ且つ沙汰に致すべく條々」(佐藤進一・池内義資編『中世法制資料集第1巻』(岩波書店1955)171-172頁)。現代語試訳:「一 重犯すなわち山賊・海賊・夜討・強盗について。右にあげた者は重犯であり、しっかりと禁じて、処罰しなくてはならない。但しこれらの重犯者は、贓物を発見され、証拠が明らかになった者のことであり、嫌疑によって無理やりその身柄を拘束し、拷問に及び強引に調書に署名させ、それを白状と称して処罰することは、決してあってはならない。もしこの規則に背いて、理不尽な評定をした者は、地頭代といえども、また、沙汰人といえども、その職を解かれるべきである。」

2004年1月
われわれはまた、歴史から次のような教訓を親しく学んだ――自分の憲法上の権利を知らないために市民がその権利を放棄することに依存してその有効性を保つような刑事司法は永らうことはできないし、また永らうべきでもない、と。弁護士と相談することを許されれば被告人がこれらの権利に気付き、彼らが権利を行使するだろうことを恐れなければならないような制度は、存続するに値しないのである。もしも憲法上の権利の行使によって法執行制度の有効性が阻害されるのだとすれば、その制度の何かが非常に間違っているのである。
――アーサー・J・ゴールドバーグ、アメリカ連邦最高裁判事(Justice Arthur J. Goldberg, in Escobedo v. Illinois, 378 U.S. 478, 490 (1964).)

2004年2月
先例であることそして先例であることのみが裁判所の作り出したルールを支える論拠の全てであるとき、そのときこそ、ルールの作成者自身がそのルールを打ち破るときである。
――ヒューゴー・L・ブラックアメリカ連邦最高裁判事(Justice Hugo L. Black, Francis v. Southern Pacific Co., 333 U.S. 445, 471 (1948) (dissenting opinion).

2004年3月
社会が勝利するのは罪を犯した者が有罪を宣告されるときだけではない。刑事裁判がフェアに行われるときにも社会は勝利するのだ。われわれの司法運営システムは、いかなる被告人がアンフェアに扱われたときにも傷を受ける。***被告人を免罪しあるいはその刑を軽くする傾向を持ちうる証拠をその要求にもかかわらず検察官が秘匿することは、被告人を圧迫する公判手続を作り上げるのを助ける。それは、検察官に正義の基準にそぐわない手続の指揮者としての役回りを割りふるのである。
――ウィリアム・O・ダグラスアメリカ連邦最高裁判事(Justice William O. Douglas, in Brady v. Maryland, 373 U.S. 83, 87-88 (1963))

2004年4月
このヴィデオカメラとテープレコーダーの国において、警察の取調室だけは機械とは無縁の場所である。
――Justice in Japan: The People Come to Court, Economist.com, Mar 4th 2004, http://www.economist.com/world/asia/PrinterFriendly.cfm?Story_ID=2479774

2004年5月
刑事裁判所において法律家は必需品であって贅沢品ではない。
――ヒューゴー・L・ブラック アメリカ連邦最高裁判事Justice Hugo L. Black, in Gideon v. Wainwright, 372 U.S. 335, 344 (1963).

2004年6月
皆さんは次のことをご存知のことと思います。すなわち、拷問される者は拷問尋問の最大の責任者の側に立ち、結局はそうした者を喜ばせるようなことを話してしまうということをです。なにせそうした者の中にのみ救いはあるのですから。そしてそれはとりわけ自分が嘘の非難をなそうとする者がその場にいない場合にそうなるでありましょう。
――アンティフォン(前480年ころ−411年)『ヘローデース殺害に関して』高畠純夫訳「アンティフォン弁論集」富山医科薬科大学一般教育研究紀要14−1(1992)、37頁。

2004年7月
ある種の裁判、すなわちそれは神判であるが、それが行われたのは、上原御嶽(ウイバルウタキ)のなかであった。盗みをしたとかその他、人びとが考えて、悪いことを犯したと判断された被疑者は、一般の人びとにより左縄をめぐらした刳舟にのせられ、イビヌメー[威部の前]までつれて行かれた。イビヌメーに着くと、被疑者たちは一人一人、当時まだあった神屋(カミヤー)に呼ばれ、神人(カミンチュ)たちが居ならぶ前で、尋問が行われた。神屋にはビトローと称する神が祭られており、この神が神人を通して神判を下す神であった。神屋には神人だけしかおらず、一般村民が立ち入ることはできなかった。こうしたなかで被疑者は、神人から被疑内容について尋ねられた。被疑者が真犯人であるならば、かならず白状してしまったという。当時の神への信仰は絶対であり、かつまた殺人を犯したことが世に知られれば、その罪は子々孫々にも及び、子孫の結婚やその他の生活にも及ぶ、厳しい時代であった。真犯人がしかし、神前で罪をみとめたからといって、そこで白状してしまえばその後に罰があったわけではなく、懺悔してしまえば犯人に罰は課されなかった。むしろ真犯人の名を、神人が一般村民にもらしたりすると、神人そのものに死罪という神罰が加えられた、という。
――渡辺欣雄「沖縄の祭礼:祭場・祭司・祭儀に関する東村内諸村落の調査報告」武蔵大学人文学会雑誌18-3-1(1987)、243-244頁。

2004年8月
被疑者の取調べは、取調室という密室内で行われるので、その状況を知るものは、原則として、当該被疑者と取調官及びその補助者以外にはいない。従って、かりに密室内で違法・不当な取調べが行われたとしても、もし捜査官側が、口を合わせてこれを否定する供述をする限り、被告人が自らの供述のみによって、違法・不当な取調べの存在を立証することは、容易なことではない。しかし、このように、被告人側を、ほとんど防禦の方法を与えないに等しい状況のもとに置きながら、その供述が捜査官の供述と抵触し他にこれを支えるべき証拠がないというだけの理由により、これを排斥するのは相当でない。このような事実認定の方法が許されることになると、密室内において行われた不正義(違法・不当な取調べ)を被告人側が自白のもとにさらすことができないまま、無実の被告人が不当に処罰されるという事態の発生を防止し得ないと思われるからである。近時、そのような問題意識に基づき、「捜査の可視化」が提唱され、少なくとも、被疑者の取調べ時間等については、留置人出入簿等の簿冊類により比較的容易に把握し得るようになったが、それ以上の可視化(例えば、取調べ状況のテープ録音、弁護人の立会の許可等)の提案は、捜査官側に容易に受け容れられそうもない。そこで、現状においては、従前どおり、取調べ状況に関する被告人及び取調官の各供述を対比し、その信用性を比較検討するほかないのであるが、もともと、自白の任意性については、これに疑いがないことについても、訴追側が立証責任を負担しているのに、捜査官において、取調べが適正に行われたことを客観的に明らかにすべき可視化の方策を講じていないことなどにかんがみ、右各供述の信用性の比較検討は、特に慎重、かつ、厳密に行う必要がある。
――木谷明判事、浦和地方裁判所平成3年3月25日判決、判例タイムズ760号261頁。

2004年9月
この世の中において皆さんが自分たちの自由を守ることができるのは、ほかの人の自由を皆さんが守ることによってのみです。皆さんが自由なのは私が自由なときだけです。私を捕らえるものは次には皆さんを捕らえために使われるかもしれない。
――クラレンス・ダロウ、1920年7月シカゴ刑事裁判所にて「共産主義者裁判」における最終弁論Arthur Weinberg ed., Attorney For The Damned: Clarence Darrow in the Courtroom, University of Chicago Press, 1989[1957], p140.

2004年10月
人間の弱さに寛大さをもって臨むことは、公正なことである。また、法にではなく、立法者に、つまり、法の条文にではなく、制定した人の立法の精神に注目すること、また、行為そのものではなく、行為の意図するところに目を向け、事の一部ではなくその全体に対して、また、被疑者が今どのようであるかではなく、彼は常に、もしくは大抵の場合どのような者であったか、に目を向けるのが公正というものである。また、蒙った被害よりも受けた恩恵のほうを、自分が与えた恩恵よりも自分が受けた恩恵のほうを想い出すのも、公正なことである。また、不正を受けてもこれに耐える、というのもそうである。また、直接行動に訴えるよりは言論によって黒白をつけようとすることも、公正なことである。また、法廷の判決を仰ぐよりは調停にもって行こうとすることも、そうである。なぜなら、調停に立つ者は公正に目をやるが、裁判官のほうは法に目を向けるからである。調停者の制度が発案されたのも、じつにこの目的、つまり公正さを強固なものにするためなのである。(アリストテレス・戸塚七郎訳『弁論術』岩波文庫138頁)

2004年11月
取調べ状況について、被告人と取調官のとの間での水掛け論に持ち込まれた場合は、捜査官側の負けと割り切る必要がある。
――木谷明『刑事裁判の心――事実認定適正化の方策(新版)』(法律文化社2004)、59頁

2004年12月
法の発展ということがもしあるとすれば、それは、ほとんど常に特殊・具体性を帯びたケースを切り口として「想像力」をはたらかせて橋頭堡を築き、それがやがて一般化され普遍化されるという性格のものである。
――奥平康弘『憲法の想像力』(日本評論社2003)、14頁


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ちょうど70年前に公布された日本国憲法は、すべての個人に黙秘権(自己負罪拒否の特権)があることを認めています。しかし、日本国の現状はこれとは程遠いものであり、江戸時代の御白州のようにお上は刑事訴追された民に罪の告白を強要しています。この現実をなんとか改善しようと考える弁護士のグループが、いまから20年前に「ミランダの会」という団体を作りました。ミランダの会は2000年代の10年間ウェブサイト上でさまざま情報を発信していました。毎月1回トップページに「今月の言葉」を掲載して、刑事司法に思いを致すよすがとして古今の文献の一節を引用しました。ミランダの会は現在その活動を休止し、ウェブサイトも閉鎖されていますが、読者からの要望にお応えして、「今月の言葉」を復刻することにしました。

2001年4月
検察側が証拠方法として強制的な自己開示( compulsory self-disclosure )に頼ることを常とするのを認める司法制度は、それゆえに自ら道徳的に傷つかざるを得ない。この傾向は、もっぱらそのような証拠を信頼し、他の証拠についての捜査が不完全でもかまわないという態度を生み出す。供述を得ようとするための権力の行使は、 その権力の正当な限界を忘却させる。単純で穏やかな訊問の手続が、いじめや腕力あるいは拷問に頼る下地を育む。答えを得る権利があることから、やがて、期待通りの答えを得る権利−−即ち犯罪の自白を得る権利−−もあるように思えてくる。かように、合法的な権限の行使が不正なる濫用と化していく。そしてついには、無実の者が有害な制度に侵害される危険を被る。この特権を認めない法律制度が経験した筋道は、こういうことだったように思える。
−−ジョン・H・ウィグモ ア

2001年5月
「『何人も自らを訴追することを強いられない』(Nemo tenetur prodere seipsum)とは貴職らの法ではないか」――ジョン・ランバート 1532年、異端の嫌疑により宗教裁判所の尋問を受けて。

2001年6月
「沈黙を保つことをもって如何なる法を犯したとすることもできないし、如何なる罪も反逆も成立しない。神のみがわれらが心に秘めた思いの裁き人であるから。」――トーマス・モア 1535年、国王至上法に基づく誓約を拒んだ罪による訴追に対して。

2001年7月
「いかなる種類の自由であれ、それが一挙に失われるということは滅多にありません。自由に慣れ親しんでいる人々にとっては隷従は世にも恐ろしい身の毛のよだつような顔をしています。ですから、そのような人々に受け容れられるようになるためには、隷従は必ず徐々に忍び寄ってゆき、しかも、無数の姿に身をやつさなければなりません。」――デイヴィッド・ヒューム「市民の国について」より

2001年8月
「アテナイ人諸君、私にメレトスの訴状にいうような罪過がないことは、多くの弁明を要すまいと思う。……しかし最初に述べた通り、私に対する多大の敵意が多衆の間に起こっていることが真実であることは確かである。そうしてもし私が滅ぼされるとすれば、私を滅ぼすべきものはこれである。それはメレトスでもなくアニュトスでもなく、むしろ多衆の誹謗と猜忌とである。それは既に多くの善人を滅ぼして来た、思うにまた滅ぼして行くであろう。私がその最後だろうというような心配は決して無用である」(プラトン・久保勉訳「ソクラテスの弁明」岩波文庫34頁)。

2001年9月
「或る問題に関して相対立する意見のうち単に一方のみが弁護者をもっているという場合には、―しかもその双方の意見の間に立って賢明な判決を下すという裁判官的能力ほど稀れな精神的特質はまずないといってもよいのであるから―問題のあらゆる側面、すなわち、真理の断片を体現するあらゆる意見が、単に弁護者をもつというに止まらず、人の傾聴をかちうるように弁護されて、それらの側面の間に均衡を見出すということに比例してしか、真理はその顕現の機会をもちえないのである。」(ジョン・ステュアト・ミル「自由論」岩波文庫106頁)

2001年10月
「もし弁護士が、正義の炎を燃え続けさせることを怠るようなことがあったとしたら、およそ被告人は、いかに憎むべき罪に問われていようと、必ず弁護してもらう権利を有しており、彼のために合法的に弁じうる全てのことが立派に語り尽くされなければならない、という文明国に相応しい考え方を国民に納得させることのできる者は、果たして誰であろうか。もしわれわれが、この理想と戦って護るに価するものであることを国民に納得させることができないとしたら、われわれが知っているような自由はもはや終焉を告げる。」ロイド・ポール・ストライカー(古賀正義訳)「弁護の技術」青甲社215頁

2001年11月
人間というものは、よく見ているつもりで実は何も見てはいない。それなのに、いざ何を見たかとたずねられると、全然でたらめな印象を平気で喋りたてるものなのだ。……そういう目撃者たちが、裁判の証人になるとどうだ?証人たちはつぎつぎに証言台に立って、誰も彼もまるで謄写版で刷った原稿を読み上げるように、同じ言葉を並べ立てる。むろん誰だって全然なんにも見なかったわけじゃないだろう。それを警察に行って喋る。すると警察ではその男に、かれの話と他の証人たちの話の食い違いを指摘してみせる。ばかりではなく、“こうであったに違いない”真相を話して聞かせる。それからもう一度よく考え直してみろと言い、その後であらためて陳述のし直しをさせる。それから他の証人たちと話し合わさせる。つぎに警察は証人たちを事件の現場に連れて行き、“事件を再演”してみせる。というわけで、その証人がいよいよ証人台に立って申し立てることは、事実かれが見たことと、“見たと思う”ことと、他の誰かから見たと“教えられた”ことと、かれが物的な証拠から判断して“見たはずだと思う”こととのよせ集め以外の何ものでもなくなってしまうのだ(E・S・ガードナー/田中融二訳「怪しい花婿」ペリイ・メイスン・シリーズ早川文庫219頁以下)。

2002年1月
逮捕時から弁護士つけよ
米で画期的な判決
被告側の権利を大幅に広げる
〔ワシントン=浜田特派員発〕米最高裁は13日、刑事事件の容疑者に対する警察当局の取調べ権限を大幅に制限する、世界の刑法史上画期的な判決を下した。……民主的な法治国家における基本的人権の一つとして認められた黙秘権の保護を強化し、人権保護を一層前進させたものだが、容疑者を隔離状態においたうえで、尋問を行うという、警察当局の従来の取調べ環境を否認するものだけに、大きな波紋を呼びそうである。……ウォーレン最高裁長官ら多数派が下した判決は、〕撞深圓蓮⊇蠶蠅亮蠡海鬚悗覆す感愧罎龍―匳颪鬚發箸冒閉匹気譴襪海箸呂覆ぁ↓⇒撞深圓麓萃瓦戮棒萠ち、黙秘権があること、弁護士を呼ぶ権利があることを通告されねばならない、M撞深圓呂海譴蕕慮⇒を自発的にのみ放棄できる、い靴し、容疑者が取調べなどの段階ででも、なんらかの形で弁護士と相談したい意思を表明した場合、弁護士との相談の前にはいかなる尋問も許されない、テ瑛佑僕撞深圓単独で供述したくないとの意思を表明した場合、当局はそれ以上尋問を行ってはいけない、というもので、関連の4事件につき有罪の証拠となった被告人の自白の法律的有効性を全てくつがえした。……最高裁の多数派がこの歴史的新判例を作った背景には、隔離状態におかれた容疑者の取調べには、まだまだ肉体的・精神的ごう門の要素が残っているとう深い疑問があったものと思われる(『朝日新聞』昭和41年6月15日)

2002年3月
実際のところ、今日殆んどすべての警察官や刑事たちは、ミランダ以外の法を知らない。この30年の間に、警察の取り調べについてなされる道徳的なそして法的な対話を再定義することによって、ミランダはアメリカの警察が身柄拘束下の取調べの法的あるいは道徳的意味について考え、議論し、理解する仕方を永久に変えてしまったのである。要するに、ミランダは警察の感受性を変えたのである。――Richard A. Leo, The Impact of Miranda Revisited, 86 J. Criminal Law & Criminology 621, at 671(1996).

2002年5月
日本の刑事司法は非常に強く自白に依存している。それゆえに、ある種の状況下において、検察官は、自白を得るために、答弁取引、調書の作文、サード・ディグリーというような、あからさまな違法手段を用いる。彼らがそうした行動をとるのには様々な理由があるが、一番の理由は、それが可能だということである。自白を得るために捜査官が殆んどなんでもできるところでは、捜査官は自白を得るために殆んどなんでもするであろう――その「必要」があれば。David T. Johnson, The Japanese Way of Justice, Oxford University Press, 2002, p264.

2002年12月
数年前、ある日本人の学者がミランダの会と呼ばれる日本の弁護士グループに関する新聞記事を私に送ってきた。この弁護士グループは、弁護士の立会いのない取調べを拒否するように一部の依頼人に助言している。***
***その記事はミランダの会を紹介し、彼らの目標の1つが合衆国の基準と似たものを日本に導入しようとするものであると説明している。そして、記事の執筆者は、弁護人が依頼人に黙秘を助言することは違法であると日本の検察官は主張していると報告していた。私はそれまで取調べと自白についての日本の伝統の強さを知っていたつもりであったが、憲法上の権利を行使することを依頼人に助言することが違法だと言われることがあるのを知って、ショックを受けたことを認めなければならない。Daniel H. Foote, Reflections on Japan’s Cooperative Adversary Process, in Malcolm M. Feeley, et. al., ed, The Japanese Adversary System in Context: Controversies and Comparisons (Palgrave, 2002), p30.


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2016年09月13日

刑法21条は「未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる」と定めている。これは裁判で刑の言い渡しを受けるまでに警察署や拘置所に拘禁されていた被告人に対して、その期間の全部または一部を刑期に算入して刑の執行を受け終わったものとみなす制度である。未決勾留は刑罰そのものではないが、社会から隔離され自由を拘束されるという意味で、刑罰と異ならない。犯罪に対する制裁は予め法律に定められた刑罰に限られるというのが近代法治国家の大原則である。未決拘禁期間を刑期に算入するという制度は、この原則にしたがって個人に対して裁判所が適法に宣告する刑罰以上の苦しみを与えないようにする制度であると言える。言い換えると、適正な裁判を実現するために未決拘禁という苦痛・害悪を被った個人に対して、裁判終結時にその害悪に対する補償をする制度である。無罪の裁判を受けた被告人には未決拘禁期間に応じた金銭的補償を受ける制度がある(憲法40条、刑事補償法1条)。未決算入制度は、有罪の被告人に対してこの補償を与えようという制度である。

刑法は「その全部又は一部」と言っている。しかし、わが国の現代の裁判実務では、未決勾留日数の「全部」が刑に算入されることは全くない。皆無である。それは、現代の圧倒的多数の裁判官が、いわゆる「一部算入説」にしたがって、「事件の捜査・審理に必要な期間」を除いた未決勾留日数しか刑期に算入しないからである。そして、この「事件の捜査・審理に必要な期間」については、司法研修所が作成したマニュアルに掲載された計算式 (1)を使うのが一般的であった。裁判員法が施行されててから、刑事裁判の審理スケジュールが従来のものと異なるものとなったので、最近は「司法研修所方式」とは異なる計算式が考案されるに至っている (2)。いずれにしても、実務が「一部算入説」で運用されていることは変わりない。

60年ほど前に、この実務に異論を唱え、未決勾留日数は原則として全部本刑に算入されるべきであるという「全部算入説」を提案する裁判官が現れた(3) 。この考え方に追随する裁判官もいた(4) が、彼らは多数派にはならなかった。2009年に日本の刑法に強い影響を受けた刑法典を持つ韓国の憲法裁判所が、未決拘禁日数の全部を算入しないのは同国憲法が定める適法手続条項や無罪推定原則に違反するとして、「全部又は一部を本刑に算入する」と定める同国刑法57条1項のうち「又は一部」の部分は無効であると宣言した(5) 。この違憲判決はわが国の実務には全く影響を与えなかった。

一部算入説が実務上盤石の地位を占めていることは疑いがない。しかし、その正当性の根拠については、これまでほとんど議論されてこなかった。われわれ実務家は実務の大勢がそうだからというだけの理由でこれに従ってきたのである。このままわが国の実務を支配し続けることは正しいのか。裁判員裁判では、普通の市民がこの判断に加わるのである。「これまでの実務がこれだ」というだけで市民をそれに従わせるのは不当である。原点に帰ってこの問題を考え直す必要がある。

“未決拘禁の不利益は甘受されるべきだ”という考え方

一部算入説は、適正な刑事裁判の実現のために必要があるとして未決拘禁された人々はそれによる不利益を甘受すべきであり、刑事裁判終結の際にその不利益を精算されるのは当然だとは言えない;だから、全部算入説には無理がある、という (6)。しかし、未決拘禁の要件が認められた者はそれによる不利益を甘受すべきだというのあれば、無罪となった場合に未決拘禁期間に対する補償が受けられること(憲法40条)の説明がつかないであろう。有罪の者と無罪の者との間に、未決拘禁がなされる根拠において差異があるわけではない。いずれの場合も犯罪の嫌疑があり、逃亡や罪証隠滅のおそれも認められる(と裁判官が判断した)という点も同じである。あとで無罪になったらといって、未決拘禁の判断が間違っていたということにはならない。無罪の者が被った不利益は補償されるが、有罪の者には補償がなされず、犯罪の法的効果である刑罰に加えて未決拘禁による不利益も耐え忍ばなければならないという差別を設ける根拠はどこにもない。未決勾留を本刑に算入するという考え方を最初に示した明治34年刑法改正案30条を審議した帝国議会貴族院特別委員会(1901年)において、富井政章は、こうした規定を設けるならば「犯人ガ若シ無罪ノ宣告ヲ受ケタ場合ニハ、賠償シテヤラナケレハナラヌトイウコトニナッテ来テ、其場合ト権衡ヲ得ナイ」と言って反対した。これに対して、政府委員石渡敏一は「公用徴収ノ如ク國ノ必要ニ応シテ取ルモノテモ、其土地相当ノ代償ヲ払フノハ素ヨリ認メテ居ルノテ、被告人ハ國ノ必要ノ為ニ未決勾留ヲサレルト云フケレトモ、出来ルナラハソレ相当ノ倍賞ヲスルカ至当テハナイカ」と言って反論した (7)。現行刑法成立(1907年)の24年後、1931年に制定された旧刑事補償法(昭和6年4月2日法律60号)によって無罪の者に対する補償制度が実現した。未決勾留日数の本刑算入という概念にも刑事補償という考えにも、公共の利益のために私権が犠牲にされた個人に対する正当な補償(日本国憲法29条3項参照)と共通する公正の理念があるのである。

未決拘禁の理由である犯罪の嫌疑――罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由――があるということは、拘禁による不利益を最終的に個人に帰属させることを正当化しない。それを認めることは「一種の嫌疑罰ないし不従順罰を容認することとなるからである」 (8)。そして、未決拘禁のもう1つの根拠である逃亡のおそれや罪証隠滅のおそれも、未決拘禁の不利益を個人に負担させる理由とはならない。

事件が重罪である場合には判決の結果として重い刑罰が予想されるから、一般的には、逃亡のおそれはかなり高いと考えられるであろう。しかし事件が重罪であることから、直ちに被告人が未決勾留を甘受すべきであるという結論はでてこない。又被告人は定まった住居がないとか、独身であるとか、定職がないとか、船員のような転々する職業を持つとか、無産者であるとか等が、しばしば逃亡のおそれを理由づけるであろう。これらの事情のために、被告人が未決勾留を甘受しなければならないとすることは法の前の平等の原則に反するから、これまた、到底許されない。***罪証隠滅のおそれの判断は逃亡のおそれの判断に比べるといっそう困難である。これを直接認めるべき資料が非常に少ないことが普通であるといっても決して過言ではないであろう。罪証隠滅のおそれは、結局、被疑者、被告人の年齢、境遇、犯罪の軽重、態様、証拠関係その他諸般の事情から推認するほかない。従って、罪証隠滅のおそれ自体に被告人の責任を認めることは、逃亡のおそれの場合よりも、さらに不当であるといわなければならない 。(9)


要するに、有罪であること(罪を犯したこと)に対する制裁は刑罰に尽きるのであり、有罪者に対して刑罰を超える自由の剥奪を正当化することはできないのである。無罪の者に対して未決拘禁期間の補償を与える以上、有罪の者に対しても未決拘禁期間の補償をするのは当然である。

この論理に対して、全部算入が正しいのであれば、未決勾留期間が刑を超過する場合には超過部分を補償しなければならないが、わが実定法上そのような法規は存在しないとか、執行猶予判決(猶予が取り消されない場合)についても同様の問題が生じるという反論がなされている(10) 。しかし、これは反論になっていない。未決拘禁期間が刑期を超越する場合というのは、要するに、未決拘禁の害悪を全部補償するための通貨(原資)である刑期が足りないということである。返済資金が足りないからと言って債務の一部しか弁済しないことが正当化されるいわれはない。未決勾留期間が宣告刑を超過する場合に、算入しきれない部分を、未決算入以外の方法で補償するというのは正しい。その実現のために立法が必要であるというのなら、そうすべきである。

“捜査・審理に必要な期間は算入されない”という考え方

一部算入説は、起訴前の拘禁期間は「捜査に必要な期間」であるから算入されないという(11) 。そして、起訴後の拘禁についても「当該事件の審理に必要と認められる期間」は――その計算方法については様々な考えがあるが――算入されないという (12)。なぜ事件の捜査や審理に必要な期間は当然に被拘禁者の負担とされなければならないのだろうか。戦後に公刊された文献でこの点を説明するものは皆無である。「われわれは現在のところ、***これを被告人の負担に帰せしめたとしても、公平の理念に反するものとは考えない」という宣言(13) 以上の説明をする論者はいない。裁判官の多くは、司法研修所が定めた方式だからとか、東京地裁の多く裁判官が行っているからなどという、法令の解釈として通用するはずのない、いわば惰性によってこの説にしたがっているのである。

ところで、“事件の捜査・審理に必要な期間は算入されない”という説は、横川敏雄判事が1943年に発表した論文 (14)で提案したものである。横川判事は「我が国文化の現段階及その現に当面する情勢下に於いて、通常の設備ありと看做さるべき裁判所並に普通の能力ありと信ぜられるべき司法官を標準とし、当該事件の捜査及審理に付、通常一般の例として、幾何の勾留期間を不可欠なりやと判断し、現実の勾留日数より、右日数を控除して、その残余の日数を算入すべし」と提案した(15) 。横川氏は、この説の根拠を説明するために10ページ(連載頁割り当ての半分!)を割いている。彼は、国家(統治する者)と国民(統治される者)とを対立的に捉えるのは誤謬であり、両者は「二にして一、対偶にして調和たるを本質とする」「不可分的全一体」である(16) ;とりわけ「国家の道義的、政治的、法律的中心として、他国に比なき万世一系の天皇がおはしまし、国家的統一、国民的一体感が特に強固」な我が国においてはそうあらねばならないと、説く(17) 。

かくの如くして、両者間の対立と摩擦を最小限度に食い止めつゝ、しかも尚国家の存立と発展のために、国民に対し或程度犠牲の強要がやむを得ざるものであり、その結果を国家或は国民のいづれかに負担乃至還元せしめなければならぬとすれば、かゝる犠牲はよろしく国民の側に負担せしむるのが、この場合、法の要請する最も妥当なる解決と信ずるものである。蓋し、国民が国家、否自らの存立と発展のために、この程度の犠牲を負担するは当然だからである。***かく考へるならば、国家の名に於て捜査審理の衝にあたるものは、常に国家の要請、司法本然の使命及国民の立場に深く思を致し、国家の現に当面する政治的、経済的乃至文化的諸状勢或は治安の状況に照し、能ふ限り国民の人格を尊重し、その権利を保障するやう努むると共に、不幸犯罪の嫌疑に問はれたるものも、自ら国家の要員たる光栄と義務に徹し、夢寝にも、国家の要請、司法の使命が奈辺に存するかを忘るゝことなく、被疑者又は被告人として、なし得る限度に於て、すゝんでその行動に協力し、以て、共々「正しき刑罰権」の実現を期するべきであるが、しかも尚捜査審理の過程に於てまぬかれ得ざる不利益は、萬やむを得ざるものとして後者に負担せしめるのが相当であると思ふのである 。(18)

横川判事は、こうした「国家観」に基づく「純理」に立脚するだけではなく、「更に現実的にも、現に捜査審理に携はりつゝあるものが、しかくその権力を濫用するの虞なしと信ぜられることと犯罪の嫌疑を受けて勾留せられるものが、ほとんど大半有罪者と認定せられつゝある現実を斟酌した結果でもある」という(19) 。

横川判事の提案は、明治憲法体制の末期に横行した「君臣一如」の天皇制国家論(20) にもとづき、被告人は「正しき刑罰権」の実現のために自ら進んで奉仕すべきであるという国家主義的訴訟観を反映するものである。それと同時に、捜査訴追機関による権力濫用はないという権力への盲信と、大部分の被疑者被告人は有罪であるという有罪推定論を基礎にしているのである。いずれの議論も、日本国憲法を採択し、かつ、国際人権規約を批准した現在のわが国において成り立つようなものではないことは多言を要しないであろう。

「捜査・審理に必要な期間は算入しない」という考え方には、こうした根本的な問題点のほかにも、様々な問題がある。そもそも、捜査・審理に必要な期間がどれくらいなのかを決定することはほとんど不可能である。司法研修所方式にしても東京地裁方式にしても、恣意的であり、根拠は薄弱である。第1回公判前の30日あるいは期日間の10日というのは「近時多くの地方裁判所」における「申し合わせ」が根拠であるに過ぎない(21) 。こうした様々な計算方式が提案されていることからも分かるように、実際にはそれは1つのフィクションであり、単なる「想定」に過ぎないのである。そのうえさらに、実際に行われた捜査や審理期間と拘禁が正当化される期間が同一であるという保証もないのである。

勾留の要件は、かなり漠然としたものであり、これを判断する資料も限られており、又その要件の判断はその時々において急速に行われるものであるから、そこにはある程度の裁量の余地がある。従って勾留はすべて客観的に捜査・審理に絶対不可欠なものであるとはいえない場合もあることは否定できないであろう。このことは次のようなことを考えれば明らかである。勾留された被疑者に対し公訴が提起されないことがあり又起訴されても無罪となるものも皆無ではない。さらに有罪とされた者の中にも実際逃亡又は罪証隠滅により訴追を免れようなどとは夢想だにしない者も含まれているであろう。他方いわゆる在宅のまま起訴される者もいる。又保釈保証金を調達できないため権利保釈の権利を有しながら勾留を甘受しなければならない者も決して少なくはない。かようにして未決勾留自体は、必ずしも、捜査・審理のために必要不可避のものではなく、捜査・審理という「合目的的性のための手段であり一種の応急措置(eine Art Notbehelf)」に過ぎないものといわなければならない。従って未決勾留を捜査・審理のために必要不可避なものとして被告人の負担に帰せしめる実質的根拠は薄弱である 。(22)

自白事件よりも否認事件の方が審理期間は長くなる。検察官が証拠請求した証拠書類の取調べに同意しなければ、その供述者を公判廷で尋問することになるので、その分審理期間は長くなる。被告側の請求により尋問や鑑定が行われる場合も、その分審理期間は長くならざるをえない。審理に必要な期間は算入されないというのであれば、被告側は審理期間をできる限り短くしようとするだろう。検察官請求の書証に同意したり、弁護側の証拠請求を控えたりするだろう。そして、たとえ無実であっても、自白に転じようとする人がでてこないとも限らない。要するに、一部算入説は、刑事被告人に憲法上法律上の権利を放棄させる圧力として作用するのである。

“被告人の責に帰すべき事由により延長した勾留期間は算入しない”という考え

わが国においては、一部算入説だけではなく、「全部算入説」と呼ばれる論者も、被告人自身の責に帰すべき事由で勾留期間が伸びた場合はこれを算入しないと言っている(23) 。これに対して一部算入説に立つ谷口正孝判事がこう批判していた。

然し、この場合であっても、これを除外する論理上の必然性はないとしなければならない。被疑者、被告人に対し、犯罪に対する法律効果としての刑罰を超過する害悪を加うべき合理性がないことは、この場合であっても、同様であるからである。捜査、審理を遅延させたことにより生ずる勾留期間の延長は当然、被疑者、被告人において甘受すべしというのであれば、それは審理を遅延させたことに対する制裁を法によらずして科するにひとしい 。(24)

韓国憲法裁判所は、まさにこれと同じ考え方から、被告人の責に帰すべき事由によって増加した拘禁期間も含めて全期間を算入しないことは憲法に違反するとしたのである。

たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反するというべきである 。(25)


刑法21条は「全部」算入を規定している

「捜査・審理に必要な期間」がゼロということはあり得ない。そうすると、一部算入説に立つ限り未決勾留期間が全部刑期に算入されることはないことになる。刑法21条の「全部」という文言は死文と化する。これは刑法21条の明文に相反する解釈である(26) 。

谷口判事は「事後的に勾留の必要が勾留当時存在しなかったと認められる場合」とか「一部通算の結果残刑が極めて僅少であって、刑の執行の目的が無意味となるが如き場合」には全部算入されるべきだという(27) 。しかし、事後的に勾留の必要がないことが判明した場合は、勾留自体を取り消すべきであり(刑訴法87条)、未決勾留の本刑算入によって解消する問題ではない。また、勾留の必要がない場合というのは、無罪でなければ執行猶予か罰金になる可能性が高く、こうした場合にむしろ、未決通算を全くしないか、既に保釈されていて通算すべき未決勾留期間が少ないのが大半であって、これを理由に全部算入した例は皆無である(28) 。一部通算では「残刑が僅少」というのは、全部算入すればもっと残刑は僅少となるはずである。これは結局、算入の対象となる未決勾留の期間が宣告刑よりも長くなる場合に「刑に満つるまで」算入せよと言っているだけであり、むしろ「全部算入」が不可能な場合に他ならない。いずれにしても、残刑が僅少だから全部算入したという事例も皆無であり(29) 、一部算入説では刑法21条が死文化することに変わりはない。

逮捕留置期間が算入されないこと

一部算入説は起訴前の未決拘禁は無条件に「捜査に必要な期間」と考えるから、逮捕留置の期間(最大72時間=3日間)は当然に算入しない。この点は全部算入説も同じである(30) 。その理由は刑法21条が「未決勾留の日数」と言っているからであろう。しかし、逮捕と勾留で差別する理由はない。勾留という身柄拘束による害悪を最終的に被告人に負担させることが不合理であるならば、逮捕による不利益を被告人に負担させることも不合理であろう。無罪になった者に対してはその「抑留又は拘禁」すなわち逮捕留置期間を含む全未決拘禁期間に対して補償がなされる(憲法40条、刑事補償法1条)。有罪となった者に対する補償制度である未決算入において逮捕留置期間を除く理由はどこにもない。これは不合理な差別と言わなければならない。

刑法21条は「未決勾留の日数」と言っているのであるが、刑法の制定者がこの日数から逮捕留置期間を除く意思であったとは考えられないのである。そのことは、刑法制定の歴史的経緯を考えれば明らかである。刑法典が制定されたのは明治40年(1907年)である。その当時、現行刑事訴訟法(昭和23年(1948年)制定)はおろか、大正刑訴法(大正11年(1922年)制定)も存在しなかった。当時存在したのは明治23年(1890年)制定の刑事訴訟法である。この明治刑訴法には「逮捕留置」という概念が存在しなかったのである。被告人を逮捕した巡査らは「速ニ」司法警察官に被告人を引致することになっていたが(59条1項)、起訴権限のある検事に事件送致すべき期間の定めはない。検事から予審請求を受けた判事は被告人に召喚状を発して尋問するか、逃亡や罪証隠滅のおそれがあるときに勾引状を発して尋問する(69条、72条)。勾引状が執行されて引致されてきた被告人を尋問し、禁錮以上の刑にあたる罪を犯したと考える時に勾留状が発せられる(75条)。現行刑訴法の下で警察や検察の「持ち時間」と考えられているような「逮捕留置」期間に相当するような仕組みは刑法典制定当時には存在しなかったのである。

憲法と国際人権法

未決勾留日数の本刑算入を定めた刑法21条は「未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる」と言っているが、どのような方針や基準に基づいて算入するのかについて何も述べていない。『政府提案理由書』によれば、「全ク之ヲ判事ノ自由裁量ニ委スルコトトセリ」ということである(31) 。法はこれらの事項についてルールを作ることを最高裁判所や司法研修所などに委任してはいない。それは「判事ノ自由裁量」とした法の趣旨に反する。裁判員裁判においては、法の適用と量刑は裁判官と裁判員が対等の権限で評議して決めるべき事柄であるから、裁判員と裁判官の自由裁量というのが法の趣旨ということになる。最高裁や司法研修所には、算入方式を制定してこれを全国の裁判官や裁判員に適用することを求める権限などない。それは越権行為である。

刑法21条の解釈適用の指針とされるべきなのは、最高裁や司法研修所などの組織の定めた通達やルールではなく、また、大方の裁判官が依拠している「実務感覚」や「実務慣例」でもない。国民の量刑感覚などでももちろんない。現在のわが国の憲法秩序と法体系においてわれわれが依拠すべき解釈基準は、刑法より上位の法である憲法と国際人権法でなければならない。そして、刑法21条をいかに合理的に解釈してもこれら上位の法と整合しないというのであれば、刑法21条の全部または一部は無効とされなければならないのである。

昭和20年代の最高裁判例

最高裁判所は、日本国憲法が施行されて数年の間に一連の判決を通じて、刑法21条は未決拘禁期間を刑期に算入するかどうか、算入するとして何日算入するかを裁判官の裁量に委ねているのであり、そのことは新憲法下においても変わらないと宣言した。曰く、「原則として未決勾留日数の全部を本刑に通算するのが憲法の精神であるということは、憲法の何れの条規からも推論し得ない」(最大判昭23・4・7刑集2-4-298、302頁);「刑法21条は、未決勾留日数の全部又は一部を本刑に算入することは、裁判所の任意であることを規定している。***新憲法下においても、右刑法規定を所論のように必ず算入することを要するものと解すべき理由はない」(最1小判昭24・2・17集刑7−419、420頁);「刑法21条は、裁判所に対し諸般の事情を参酌してその勾留日数の全部又は一部を本刑に算入することを許容するに過ぎない。そして、その法理は新憲法下においても毫も変更を認めることはできない」(最1小判昭24・10・13集刑14-187);「憲法36条にいわゆる残虐な刑罰とは不必要な精神的肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰を指称すること当裁判所の判例とするところであって原判決が未決勾留日数を本刑に通算しないことが右にいわゆる残虐な刑罰に当たらないこと亦明らかである」(最3小判昭26・2・27刑集5-4-475、476頁)。

しかし、これらの判例は単に結論を述べているだけであり、理由と呼べるようなものをほとんど述べていない。憲法のテキストとその背後にある歴史や政策についての洞察を展開した判例は存在しない。これは上告趣意があまりにも簡潔であるために (32)、最高裁もそれに対して短く応答せざるをえなかったのかもしれない。

いずれにしても、憲法施行から70年が経過し、その間に、世界人権宣言を採択した国連に加盟し、国際人権規約を批准し、主要先進国(G8)の一員として国際社会において責任ある地位にある現在のわが国の憲法判例としてふさわしいとはとうてい思えない。少なくとも、現代の人権論とりわけ国際人権法の観点からこれらの先例には見直しが必要である。これらの先例は、われわれ21世紀の日本の法律家が「これがわが国の憲法判例だ」と国際社会に胸を張って語れるような内実を備えているとはとうてい思えない。単なる惰性で「一部算入説」に寄り添い続けるのは、法曹としての堕落以外の何ものでもない。

韓国憲法裁判所の判決

韓国刑法57条1項は「判決宣告前の拘禁日数はその全部または一部を有期懲役、有期禁固、罰金もしくは科料に関する留置または拘留に算入する」と定めている。日本刑法21条と異なり、「拘禁日数」を算入する点及び必ず算入しなければならないとする点で違いがあるとはいえ、条文上一部算入を肯定している点は同じである。韓国憲法裁判所は、2009年6月25日、未決拘禁の日数は憲法上全部算入しなければならないのであり、刑法57条1項の「または一部」という部分は違憲無効であると判示した(33) 。この違憲判決によって、韓国では未決拘禁期間は全部刑期に算入されることになった。この判例はわが国の未決算入制度と憲法・国際人権法との関係を考えるうえで、極めて示唆に富むものである。

韓国憲法裁判所は、同国憲法が規定する適法手続条項(34) と立法限界条項(35) から、「法律による刑罰権の行使であるといっても、身体の自由の本質的な内容を侵害し得ないだけでなく、比例の原則過剰立法禁止の原則に反しない限度内においてのみその適正性と合憲性が認められる」とした。そして、同裁判所は、同国憲法27条4項が規定する無罪推定原則(36) は、単なる証拠法上の規定ではなく、「捜査手続から公判手続に至るまで刑事手続の全過程を支配する指導原理として、人身の拘束自体を制限する原理として作用する」という。

有罪の確定判決があるまで、国家の捜査権はもちろん、公訴権、裁判権、行刑権等の行使において被疑者または被告人は無罪と推定され、その身体の自由を保障しなければならないという無罪推定の原則は、人間の尊厳性を基本権秩序の中心として保障している憲法秩序内において刑罰作用の必然的な羈束原理になるばかりでなく、このような原則が制度的に表現されたものとしては、公判手続の立証段階において挙証責任を検事に負担させる制度、保釈および拘束適否審等の人身拘束の制限のための制度、そして被疑者および被告人に対する不当な待遇の禁止等がある。

そうして、この適法手続条項(比例の原則と過剰立法禁止)と無罪推定原則(有罪確定前の身柄拘束の制限)から、未決拘禁の通算が憲法上の要請として求められるのである。

捜査の必要上または裁判手続の進行上不可避に被告人を拘禁するとしても、このような未決拘禁は無罪推定の原則にもかかわらず身体の自由という重要な基本権を制限するものであるから、先に見たように適法手続の原則により身体の自由の本質的な内容を侵害し得ないだけでなく、過剰禁止原則に反しない正当な限度内に制限すべきである。

さらに被疑者や被告人が上のような国家の刑事訴訟的必要によって適法に拘禁されたとしても、未決拘禁は被疑者または被告人の身体の自由を剥奪している点で実質的に自由刑の執行と類似するので、無罪推定の原則によりその拘禁期間に対する正当な評価と補償がなされなければならない。すなわち、拘禁された被告人が無罪判決を受ける場合、刑事補償法等によって未決拘禁日数による金銭的補償を受けることができ、有罪判決を受ける場合には未決拘禁日数を本刑に通算することになる。

濫訴や訴訟遅延行為を予防するために被告人の責に帰すべき事由によって裁判が遅延した場合には未決算入をしないことができるという主張に対して、法廷意見は次のように反論している。

刑事訴訟手続上の事由によって左右される拘禁期間の長短を被告人の帰責事由に正確に対応させることも容易ではないばかりか、たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反するというべきである。
***
被告人の上訴権は憲法第27条の裁判請求権に含まれる被告人の正当な権利として憲法第37条第2項の比例の原則によってのみこれを制限し得るところ、刑法第57条第1項部分が上訴提起後の未決拘禁日数の一部が法院の裁量で算入されないようにして被告人の上訴意思を萎縮させることをもって濫上訴を防止しようとするのは、立法目的達成のための適切な手段であるということはできない。
すなわち、刑事裁判において人身が拘束され、検事に比べて不利な状態にある被告人としては、裁判手続で自分に有利な弁論や証拠申請をしようとしても、上の刑法第57条第1項部分のせいで正当な証拠申請を諦めることもありうる。***原審判決に不服がある拘束被告人が、上訴審で未決拘禁日数のうち一部のみが算入され、事実上拘禁期間が延長される不利益を被らないために上訴を躊躇することにもなり得る。これは結局、濫上訴を防止するという名目で、むしろ拘束被告人の裁判請求権や上訴権の適正な行使を阻害することになるのである。
***拘束の目的は刑事訴訟手続の実効性、すなわち適正な事実調査および訴訟手続での出席確保と判決後の刑罰の執行を担保しようとすることにあり、このような目的以外の他の目的を追求することは許されない。それゆえ被疑者や被告人が拘束された状態を利用して訴訟の遅延や濫上訴の防止という司法運営上の目的を達成しようとするのは拘束制度の本来の目的に符合しないというべきである。

無罪推定の権利、適法手続の保証

わが国の憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定し、適法手続の保障を明言している。この規定によって罪刑法定主義――国会が制定した明文の法律によって宣言された犯罪とそれに対応する刑罰によるのでなければいかなる刑罰をも科せられない――が保障されることは明らかである。さらに、憲法34条が正当な理由のない身体拘束を受けない権利を保障しており、わが国においても、比例原則や身体不拘束原則が保障されていることも明らかであろう。

日本国憲法には無罪推定原則を定めた明文規定はない。しかし、国連が採択した世界人権宣言11条1項は「犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律にしたがって有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する」と定めている。そして、わが国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約14条2項は「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する」と定めている。この国際人権法上の無罪推定の権利は、単なる証拠法上のルールではなく、有罪の裁判が確定する前に官憲が個人を犯罪者として扱うことを禁止しようとする規定である(37) 。過剰な未決拘禁が人権規約14条2項に違反するとされた例もある(38) 。条約と確立した国際法規の誠実順守を宣言する日本国憲法(98条2項)の下において、これらの権利は憲法と同等の法的拘束力をもつというべきであり、これに違反する法律や官憲の処分は無効とされなければならない。

日本国憲法40条は、裁判の結果無罪とされた者に対してその受けた未決拘禁に対する補償を受ける権利を規定している。これは無罪の場合は刑期に算入する仕方で未決拘禁に対する補償をすることができないので、別途金銭による補償が必要であることを憲法上の補償として明記したものである。韓国憲法裁判所が指摘するように、無罪推定原則と法定手続の保障の趣旨からすれば、無罪の者に対して刑事補償をするのと同じように有罪の者に対しても未決拘禁に対する補償をしなければならないのである。

結論

日本国憲法の施行から70年が経ち、日本が国連に加盟して60年が経ち、人権規約を批准して40年が経った。現代においてこの国の圧倒的多数の裁判官は、「被告人が犯罪を犯し、このような事態を招いた以上当該事件の捜査・審理に通常必要な身柄拘束は甘受すべきである」 (39)などという単純素朴な感情論にしたがって、未決拘禁期間の全部算入を拒み続けている。そして、法令上の根拠がまるでないにもかかわらず、算入の計算式を勝手に作り、それを、刑事裁判における対等の判断者であるはずの裁判員に一方的に押し付けようとしている。

未決拘禁は被疑者被告人が招いたものでもなく、罪を犯した結果とも言えないことは、先に引用したとおり、中島卓児裁判官が60年前に指摘したとおりである。彼の言葉をもう一度引用しよう。

犯罪の法律的結果は刑罰である。そして未決勾留は、断じて刑罰ではない。従って有罪と認定された者に対しては刑罰を科すれば足りる。かような者に加えられた未決勾留は過剰な害悪といわなければならない。国家はかような害悪に対し補償をなすべきである 。(40)

現代の裁判官の単純素朴な感情論の起源は何か。それも既に論じた。横川敏雄裁判官の戦前の論稿が雄弁に語っているもの、それこそが起源である。

***不幸犯罪の嫌疑に問はれたるものも、自ら国家の要員たる光栄と義務に徹し、夢寝にも、国家の要請、司法の使命が奈辺に存するかを忘るゝことなく、被疑者又は被告人として、なし得る限度に於て、すゝんでその行動に協力し、以て、共々「正しき刑罰権」の実現を期するべきである 。(41)


刑事被告人として国家から訴追されている個人に対して、訴訟当事者として防御の権利を付与するのではなく、崇高な国家目的に進んで協力し犠牲となることを求める、そうした国家観が、現代のわが国の裁判実務を支える「公平の理念」の正体なのである。

【注】
(1) 「起訴後の勾留日数−{30+10×(公判期日の回数−1)}」。司法研修所『刑事第1審公判手続の概要(解説)(平成19年版)』92-93頁。

(2) 例えば、「起訴後の未決勾留日数−(仝判前整理手続の定型的審理必要期間[自白事件では40日ないし60日程度。一般的な否認事件では80日ないし90日程度]+公判期日の日数)」。芦澤政治「第1審における未決勾留日数の本刑算入の在り方」『植村立郎判事退官記念論文集:現代刑事法の諸問題(第2巻)』(立花書房2011)19、38頁。

(3) 中島卓児『勾留及び保釈に関する諸問題の研究』司法研究報告書第8輯第9号(司法研修所1957)、470頁以下。

(4) 仲戸川隆人「未決勾留日数の算入について――全部算入説への展開」『小野慶二判事退官記念論文集:刑事裁判の現代的展開』(勁草書房1988)、59頁以下。

(5) 大韓民国憲法裁判所2009年6月25日判決(山本宜成訳)。原文及び英訳は韓国憲法裁判所のウェブサイトで読める。山本宜成氏による全訳は、同判決を解説するものとして、石田倫識「未決勾留日数の全部算入――韓国憲法裁判所の違憲決定を手がかりに」季刊刑事弁護61-113(2010)。

(6) 谷口正孝「未決勾留日数の本刑通算」河村澄夫・柏井康夫編『刑事実務ノート(第2巻)』(判例タイムズ社1969)、256、264頁;芦澤・前注2、23-24頁。

(7) 松尾浩也増補解題『増補刑法沿革総覧』(信山社1990)675-676頁。強調は引用者。

(8)中島・前注3、463頁。

(9)同前、463-464頁。

(10)谷口・前注6、262頁;

(11)小林充「未決勾留日数の本刑算入の基準」『岩田誠先生傘寿祝賀――刑事裁判の諸問題』(判例タイムズ1982)、98、105-106頁

(12) 谷口・前注6、264頁;小林・前注、106-107。

(13)谷口・前注6、264頁。強調は引用者。

(14)横川敏雄「刑事裁判に於ける二・三の基礎的問題に就いて(5)」法学志林45-12-936(1943)。

(15)同前、943頁。旧漢字を当用漢字に改めた(以下同じ)。

(16) 同前、944-945頁。

(17) 同前、946-947頁。

(18) 同前、948-951頁。強調は原文。

(19) 同前、951頁。強調は原文。

(20)例えば、「臣民ハ絶対ニ、無限ニ、国権ニ服従ス。此ノ完全ナル服従アルカ故ニ、亦完全ナル保護ヲ受ケ、完全ナル保護アルニ由リテ権能ノ享有ヲ全ウスルコトヲ得ルナリ。権力ナケレバ服従ナシ、服従ナケレバ保護ナシ、保護ナケレバ権能ナシ」。穂積八束『憲法提要』(有斐閣、修正増補5版、1935年)201頁。

(21) 小林・前注11、106頁。

(22) 中島・前注3、461-462頁。

(23) 中島・前注3、472-475頁;仲戸川・前注4、71-72頁。

(24)谷口・前注6、262-263頁。

(25)前注5の大韓民国憲法裁判所2009年6月25日判決。

(26)中島・前注3、471頁。

(27)谷口・前注6、265−266頁。

(28) 仲戸川・前注4、66頁。

(29)同前。

(30)中島・前注3、475頁。

(31) 松尾・前注7、2133頁。

(32)昭和23年大法廷判決の上告趣意は「原則として未決勾留日数の全部を本刑に通算するのが憲法の精神なりと思う」というだけである。刑集2-4、302頁。昭和24年の二つの判決の上告趣意も同様に新憲法の精神を語るだけで、憲法の具体的な条文を引用すらしていない。集刑7、423頁;集刑14、189-190頁。昭和26年判決の上告趣意は、憲法11条と36条を引用するだけで、根拠を示して解釈論を展開することもしていない。刑集5-4、477頁。

(33) 前注5の韓国憲法裁判所2009年6月25日判決。

(34)憲法12条1項後文「何人も法律によらなくては逮捕・拘束・押収・捜索または尋問を受けず、法律と適法な手続によらなくては処罰・保安処分または強制労役を受けない」;同条3項「逮捕・拘束・押収または捜索をするときは、適法な手続により検事の申請によって裁判官が発付した令状を提示しなければならない」。

(35)憲法37条2項「国民の全ての自由と権利は国家安全保障・秩序維持または公共の福利のために必要な場合に限り法律で制限することができ、制限する場合にも自由と権利の本質的な内容を侵害することができない」。

(36) 憲法27条4項「刑事被告人は有罪の判決が確定するまでは無罪と推定される」。

(37)規約人権委員会の一般的見解General Comment 13/21 §7(1984).

(38)Cagas et al. v. The Philippines, No. 788/1997, §7.3.

(39)和田真「刑事訴追に必然的に伴う負担と量刑」判タ1269-84(2008)、88頁。強調は引用者。

(40)中島・前注3、464頁。

(41)横川・前注14、951頁。



plltakano at 11:58コメント(0)トラックバック(0)刑事裁判身体拘束 

2016年08月31日

韓国憲法裁判所が未決拘禁日数をすべて本刑に算入しないのは憲法に違反するとした2009年6月25日判決の日本語訳を、訳者である山本宜成弁護士のご好意により掲載します。

わが国の法律は「未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる」と定めています。一般にこの「勾留」には逮捕留置の期間は含まないと理解されています。しかし、なぜ含まれないのか疑問があります。法律は「全部」を算入する場合を規定していますが、日本の裁判官は、「審理に通常必要な期間」は算入しないことにしており、法律の「全部」という文言は事実上死文と化しています。これは裁判官による法律の無視の一事例でしょう。

いずれにしても、この韓国憲法裁判所の判例はわが国の未決拘禁制度のルーズな運用を考えなおすきっかけになるべきものです。

この訳文は「ミランダの会」ホームページに掲載されていましたが、同ホームページが閉鎖されて以降、法曹関係者の間でも知る人がほとんどいなくなりました。今回あらためて多くの人に知っていただきたいと思い、掲載することにしました。

なお、判決原文とその英訳は韓国憲法裁判所のホームページで見ることができます。

(訳者注)
 韓国の憲法裁判所は、2009年6月25日、刑法が未決拘禁日数の「全部または一部を……算入する」としている規定のうち、「または一部」の部分が憲法上の無罪推定の原則および適法手続の原則等に違背するという違憲決定を出した。
 多数意見の違憲決定理由の要旨は次のとおりである。
〃法上の身体の自由の保障、適法手続原則、無罪推定原則から不拘束捜査の原則が導かれる。
¬し莵感悗老困亮更圓任呂覆い、自由を剥奪して苦痛を与える効果の面において実質的に自由刑の執行に類似する。無罪推定原則の例外として身体の自由を制限する未決拘禁は、無罪判決の場合には金銭的に補償し、有罪判決の場合には本刑通算によって補償されなければならない。
裁判官の裁量による一部算入は被告人による訴訟遅延、濫上訴防止を目的とするが、訴訟手続上の諸事情によって左右される拘禁期間の長短を被告人の帰責事由に正確に対応させることは容易でないばかりか、たとえ被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反し、憲法の裁判請求権保障としての被告人の上訴権行使を萎縮させるもので、立法目的達成のための適切な手段ではない。
ぢ燭の立法例は全部算入を採用している。

原典出処URL:
http://www.law.go.kr/LSW/PrecTrmSc.do?menuId=9&query=2007%ED%97%8C%EB%B0%9425





事件名:性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律第5条第2項等違憲訴願
憲法裁判所 2009年6月25日 憲パ25

【全文】
事件2007憲パ25性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律第5条第2項等違憲訴願
請求人 シン・○ソン

国選代理人 弁護士 キム・ジョンジン
当該事件の大法院2006ト7882強盗傷害[認定された罪名:性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律違反(特殊強盗強姦等)]・強制わいせつ傷害

主文
1.刑法第57条第1項中「または一部」の部分は憲法に違反する。
2.性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律(1997年8月22日法律第5343号で改正されたもの)第5条第2項のうち「刑法第334条(特殊強盗)の罪を犯した者が同法第298条(強制わいせつ)の罪を犯したときは、死刑・無期または10年以上の懲役に処する」という部分は憲法に違反しない。

理由
1.事件の概要と審判の対象
カ.事件の概要
(1) 請求人は2006年4月11日4時40分頃、チャンウォン昌原市中央洞にあるイーマート北門前の路上において、被害者クォン・○スン(女、37歳)に後ろから飛びかかり、凶器の長さ20cmの果物ナイフを首に突き付け、「言うことを聞かなければ殺す。持ってる金を全部出せ」と脅迫して被害者の反抗を抑圧した後、被害者からその所有の現金172,000ウォン相当のPDA携帯電話1台を奪ってこれを強取し、続いて左手で被害者の乳房を揉もうとして強いてわいせつ行為をしているうちに、被害者が両手で果物ナイフの刃を掴んで押しのけながら「強盗だ」と声を上げるや、上の果物ナイフで被害者の首を1回刺し、左側肩を1回刺して被害者に約3週間の治療を要する左肩胛骨部等に対する多発性裂傷等を加えた。
(2) 請求人は上のような犯罪事実に関して、2006年8月23日 チャンウォン昌原地方法院(2006高合84)において、「性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律」(1997年8月22日法律第5343号で改正されたもの)第5条第2項、刑法第334条第2項、第333条、第298条が適用され、懲役5年を宣告され、よって控訴したが、2006年10月26日プサン釜山高等法院(2006ノ557)から控訴棄却判決を宣告され、2007年2月8日大法院(2006ト7882)から上告棄却判決を宣告され、上の有罪判決が確定した。その過程において控訴審法院は刑法第57条第1項を適用して控訴審の未決拘禁日数58日のうち28日のみを本刑に算入し、大法院は上告審の未決拘禁日数105日のうち100日のみを本刑に算入した。
(3) 請求人は上告審において、「性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律」第5条第2項と刑法第57条第1項が憲法に違反すると主張するとともに、違憲法律審判提請申請(2006チョキ478)をしたが、上の申請が棄却されるや憲法裁判所法第68条第2項によるこの事件の憲法訴願審判を請求した。
ナ.審判の対象
この事件の審判対象は「性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律」(1997年8月22日法律第5343号で改正されたもの、以下「性暴法」という)第5条第2項のうち、「刑法第334条(特殊強盗)の罪を犯した者が同法第298条(強制わいせつ)の罪を犯したときは死刑・無期または10年以上の懲役に処する」という部分(以下「性暴法第5条第2項部分」といい、上の条項において定めた罪を「特殊強盗強制わいせつ罪」という)と刑法第57条第1項中「または一部」の部分(以下「刑法第57条第1項部分」という)の各違憲の有無であり、その内容および関連規定の内容は次のとおりである。
[審判対象条項]
性暴力犯罪の処罰および被害者保護等に関する法律(1997年8月22日法律第5343号で改正されたもの)
第5条(特殊強盗強姦等)刑法第334条(特殊強盗)または第342条(未遂犯。ただし、第334条の未遂犯に限る)の罪を犯した者が同法第297条(強姦)ないし第299条(準強姦、準強制わいせつ)の罪を犯したときは、死刑・無期または10年以上の懲役に処する。
刑法
第57条(判決宣告前の拘禁日数の通算)“酬萓觜霑阿旅感愼数はその全部または一部を有期懲役、有期禁固、罰金もしくは科料に関する留置または拘留に算入する。
[関連規定]
刑法
第297条(強姦)暴行または脅迫により婦女を強姦した者は3年以上の有期懲役に処する。
第298条(強制わいせつ)暴行または脅迫により人に対してわいせつ行為をした者は10年以下の懲役または1,500万ウォン以下の罰金に処する。
第333条(強盗)暴行または脅迫により他人の財物を強取したり、その他財産上の利益を取得したり、第三者をしてこれを取得させた者は3年以上の有期懲役に処する。
第334条(特殊強盗)〔覺屬某佑僚撒錙管理する建造物、船舶もしくは航空機または占有する部屋に侵入して第333条の罪を犯した者は無期または5年以上の懲役に処する。
凶器を携帯したり、2人以上が合同して前条の罪を犯した者も前項の刑と同じである。
性暴法
第6条(特殊強盗等)ゞТ錣修梁彰躙韻癖を携帯したり、2人以上が合同して刑法第297条(強姦)の罪を犯した者は無期または5年以上の懲役に処する。
第1項の方法により刑法第298条(強制わいせつ)の罪を犯した者は3年以上の有期懲役に処する。
B1項の方法により刑法第299条(準強姦、準強制わいせつ)の罪を犯した者は第1項または第2項の例による。
訴訟促進等に関する特例法
第24条(上訴提起後判決前の拘禁日数の算入)被告人または被告人でない者の上訴を棄却する場合に、相当な理由なく上訴を提起したものと認められるときは、上訴提起後判決宣告前の拘禁日数のうち上訴提起期間満了日から上訴理由書提出期間満了日までの日数はこれを本刑に算入しない。
刑事訴訟法
第482条(上訴提起後判決前の拘禁日数等の算入)‐總閉鶺後の判決宣告前の拘禁日数は次の場合には全部を本刑に算入する。
1.検事が上訴を提起したとき
2.検事でない者が上訴を提起した場合に原審判決が破棄されたとき
⊂總閉鶺期間中の判決確定前の拘禁日数(上訴提起後の拘禁日数を除く)は全部本刑に算入する。
上訴棄却決定時に送達期間や即時抗告期間中の未決拘禁日数は全部を本刑に算入する。
ぢ1項から第3項までの場合には、拘禁日数の1日を刑期の1日または罰金や科料に関する留置期間の1日として計算する。
ゾ總碧 ̄,原審判決を破棄した後の判決宣告前の拘禁日数は上訴中の判決宣告前の拘禁日数に準じて通算する。
2.請求人の主張、大法院の違憲法律審判提請申請棄却理由および利害関係人らの意見
カ.請求人の主張の要旨
(1) 強制わいせつは強姦に比べてその罪質と行為態様が異なるだけでなく、不法性の程度も強姦のそれをはるかに超えるものから極めて軽微なものまで含んでいるところ、性暴法第5条第2項においては特殊強盗の罪を犯した者が強制わいせつの罪を犯したときの法定刑を強姦罪を犯したときと同一に死刑・無期または10年以上の懲役と規定している。特殊強盗強制わいせつ罪は特殊強盗と強制わいせつの、特殊強盗強姦罪は特殊強盗と強姦の結合犯として、両罪は身分犯という点においては同一であるが、具体的な性暴力行為の態様を異にしているので、性暴法の目的に照らしてこれに対する刑罰は行為態様による不法内容と責任の程度の間に適正な比例関係を維持し得るように定められなければならない。しかし、特殊強盗強制わいせつ罪を規定した性暴法第5条第2項部分の場合、最低の法定刑が10年と法定刑があまりに過酷であり、別途の法律上の減刑事由がない限り執行猶予を宣告することができないようにして、裁判官の量刑決定権を不当に制限するなど立法裁量を逸脱し、実質的法治主義に反し、人間の尊厳と価値を尊重して保護しなければならないとする憲法第10条および憲法第37条第2項の過剰立法禁止の原則にも違反する。
さらに刑法第297条は強姦罪の法定刑を3年以上の有期懲役とし、第298条は強制わいせつ罪の法定刑を10年以下の懲役または1,500万ウォン以下の罰金とそれぞれ規定しており、その法定刑を異にしており、性暴法第6条においては凶器その他危険な物を携帯したり、2人以上が合同して強姦の罪を犯した者は無期または5年以上の懲役(第1項)に、強制わいせつの罪を犯した者は3年以上の有期懲役(第2項)にそれぞれ処するように別に規定していることに照らして、性暴法第5条第2項部分は特殊強盗の罪を犯した者が強制わいせつの犯行に値するならば、強姦罪を犯した場合と全く同じに一律的に死刑・無期または10年以上の懲役に処するようにすることとし、刑法体系上の正当性を喪失し、平等の原則にも違反する。
(2) 刑事裁判において上訴を棄却するとともに判決宣告前の拘禁日数を全部算入しないで刑法第57条第1項部分により一部のみを算入するのは、その算入基準が曖昧であり、罪刑法定主義および明確性の原則に違背するだけでなく、憲法第12条第1項において定めた適法手続原則にも反する。さらに刑法第57条第1項部分によって拘束被告人は上訴を提起する場合に不拘束被告人に比べて不利な立場に処せられる点に照らして、平等原則と公正な裁判を受ける権利を侵害する。
ナ.大法院の違憲法律審判提請申請棄却理由の要旨
(1) どのような犯罪をどのように処罰するかという問題、すなわち法定刑の種類と範囲の選択は、その犯罪の罪質と保護法益、立法当時の時代的状況、犯罪予防のための刑事政策的側面などいろいろな要素を総合的に考慮して立法者が決定する事項である。そして刑法規定の法定刑のみではある犯罪行為を予防し、摘発するのに十分ではないという立法政策的考慮によりこれを加重処罰するために特別刑法法規を制定した場合には、刑法規定の法定刑のみを基準としてその特別刑法法規の法定刑が過重かどうかを安易に論断してはならない。したがって性暴法第5条第2項部分において特殊強盗の罪を犯した者が強姦または強制わいせつの罪を犯したときの法定刑を同一に規定しているからといって、刑罰と責任の間の比例の原則、刑罰の体系の正当性、平等の原則などに違反するとか、公正な裁判を受ける権利を侵害するということはできない。
(2) 未決拘禁は公訴の目的を達成するためにやむを得ず被告人または被疑者を拘禁する強制処分であって刑の執行ではないが、自由を剥奪する点が自由刑と類似するので、刑事司法の公平を図り、人権を保護する観点から刑法第57条第1項が未決拘禁日数の全部または一部を本刑に算入すると規定しているのであって、算入される日数は事件の性質、審理経過などの具体的な事情により裁判官が定めることができるのである。したがって未決拘禁日数の一部のみを本刑に算入するように規定している刑法第57条第1項部分に関して、立法目的、事件の性質、審理経過などからその算入基準を見出すことができるので、その基準が曖昧であって平等権を侵害するものであるとか、一部のみを算入する理由を被告人に説明しないことが知る権利を侵害するということはできない。
タ.利害関係人の意見の要旨
(1) 法務部長官の意見の要旨
(カ) 強制わいせつにおいて極端な態様で性的快感を得る加虐的な行為など、強姦の場合より罪質が悪く、被害が重大な場合も相当数存在する。さらには通常の強制わいせつ行為であるとしても、犯行の動機と犯行当時の状況および保護法益に対する侵害の程度などを考慮すると、強姦より重く処罰したり、少なくとも同一に処罰すべき必要がある場合も実務上存在する。家庭破壊犯罪を予防し、摘発しようとする性暴法第5条第2項部分の立法背景と家庭の平和と安全という保護法益の重大性および性犯罪の被害者である女性の羞恥心を悪用して自分の犯行を隠蔽するという動機の不法性と特殊強盗犯行によって極度に反抗が抑圧された状態という犯行当時の状況などを総合的に考慮してみると、特殊強盗が被害者に強制わいせつをした場合に対する非難可能性の程度が被害者を強姦した場合に比べて必ずしも軽いということはできず、むしろ具体的なわいせつ行為の態様によっては強姦の場合よりももっと重い処罰をすべき必要もある。そうすると性暴法第5条第2項部分は特殊強盗が強制わいせつに至る特殊な状況を防止するための立法目的の正当性が認められ、その処罰方法が立法目的に寄与するとともに、さらにその犯罪による個人的・社会的被害が極めて大きく、非難可能性が非常に大きいのであって、これを予防するために強力な処罰が不可避であるので、必要性および均衡性が認められる。したがって性暴法第5条第2項部分が両罪の法定刑を同一に定めたからといって刑罰体系上の均衡を失う恣意的な立法ということはできない。
(ナ) 刑事訴訟において濫上訴を防止する立法目的は正当であり、拘束被告人に対する未決拘禁日数を控除する方法が最も適切な手段である。「訴訟促進等に関する特例法」第24条によって算入されない未決拘禁日数は上訴によって必ず必要とされる期間のうちの一部である上訴提起期間満了日から上訴理由書提出期間満了日までの期間に過ぎない点、刑法第57条第1項部分は理由のない上訴であると認められる場合に限って適用される点に照らして、侵害の最小性を備えている。さらには濫上訴を防止して裁判の不当な遅延、法院の業務負担、それにより他の国民に及ぼす不利益などを考慮すると、公益と私益間の適切な均衡性も認められる。
さらに未決拘禁日数算入制度自体が拘束被告人を前提にする制度である点、不拘束の被告人は自身の生活が制約されない状況で自ら法廷に出席したり、弁護人を選任しなければならないなど、濫上訴の危険が拘束被告人に対して顕著に少ない点などを考慮すると、刑法第57条第1項部分が拘束被告人と不拘束の被告人を差別するという請求人の主要は理由がない。
(2) チャンウォン昌原地方検察庁検事長の意見の要旨
法務部長官の意見要旨と大体同じである。
3.刑法第57条第1項部分に対する判断
カ.未決拘禁日数算入に対する一般論
(1) 未決拘禁の性格と通算の根拠
刑法第57条第1項は「判決宣告前の拘禁日数はその全部または一部を有期懲役、有期禁固、罰金もしくは科料に関する留置または拘留に算入する。」と規定している。このような判決宣告前の拘禁、すなわち未決拘禁は逃亡や証拠隠滅を防止し、捜査、裁判または刑の執行を円滑に進めるために、無罪推定の原則にもかかわらず不可避に被疑者または被告人を一定期間、一定の施設に拘禁してその自由を剥奪する裁判確定前の強制的処分であり、刑の執行ではない。しかし未決拘禁は自由を剥奪して苦痛を与える効果の面においては実質的に自由刑と類似し、拘禁の可否および拘禁期間の長短は被告人の罪責または帰責事由に正確に対応するものではなく、刑事手続上の事由によって左右される場合が多い。このような点において、有罪の場合には未決拘禁期間を刑期に算入するのが衡平に合致し、被告人らの間においても公平を図ることができる(憲裁2000年7月20日99憲カ7、判例集12-2、17、26参照)。
(2) 我が国の未決拘禁算入制度
我が国は未決拘禁期間の刑期算入に関して、刑法第57条および「訴訟促進等に関する特例法」第24条により、法院の裁判で算入される「裁定通算」制度と、刑事訴訟法第482条により法律上当然に算入される「法定通算」制度を置いている。すなわち、未決拘禁期間の算入は刑法第57条等による裁定通算を原則とするが、被告人に責に帰することができない事由で未決拘禁日数が増える場合には法院の裁量介入がなく自動的に刑期に算入することが妥当であると考え、法定通算規定を補充的に置いているのである。したがって法定通算は未決拘禁日数の本刑算入に関する裁判官の裁量が認められないので、判決において宣告する必要がなく、宣告したとしてもいかなる意味もない半面(大法院1996年1月26日宣告95ト2263判決)、裁定通算においては裁判官にその算入の可否に対する裁量はないが、算入の範囲を決定する裁量が付与されている。
(3) 結局、未決拘禁が自由を剥奪して苦痛を与える効果の面においては実質的に自由刑の執行と類似するに、刑法第57条第1項部分によって裁判官が未決拘禁日数を刑期に一部のみ算入しうるように許容することが憲法上の適法手続の原則、無罪推定の原則等に違背し、身体の自由を制限し過ぎるのではないかが問題となる。
ナ.適法手続の原則および無罪推定の原則
(1) 憲法上の身体の自由の保障
身体の安全が保障されない限り、状況においてはどんな自由と権利も無意味になるほかないから、身体の自由は人間の尊厳と価値を具現するための最も基本的な最小限の自由としてあらゆる基本権保障の前提となる。人間の自由と権利の歴史において身体の自由は主に統治権力と支配者の強圧によって侵害されてきたので、身体の自由に対する保障は国家公権力からの保障が中核をなしている。このように身体の自由は国家刑罰権の行使によって侵害される余地が多いので、我が憲法は国家刑罰権の行使による身体の自由に対する不可避の制限を認めながらも、それと同時に国家刑罰権の不当な行使によって発生しうる身体の自由の侵害を防止するためにその限界を具体的に定めている。
すなわち、憲法第12条第1項前文は「すべての国民は身体の自由を有する。」と宣言するとともに、これを具体的に保障するために、同項後文で「何人も法律によらなくては逮捕・拘束・押収・捜索または尋問を受けず、法律と適法な手続によらなくては処罰・保安処分または強制労役を受けない。」と規定して、身体の自由を保障するための適法手続の原則を明示しており、第12条第3項本文は、「逮捕・拘束・押収または捜索をするときは、適法な手続により検事の申請によって裁判官が発付した令状を提示しなければならない。」と規定することにより、身体の自由に対する制限は裁判官の令状によってのみするという令状主義を採択している。
さらに憲法第37条第2項は「国民の全ての自由と権利は国家安全保障・秩序維持または公共の福利のために必要な場合に限り法律で制限することができ、制限する場合にも自由と権利の本質的な内容を侵害することができない。」と規定して、基本権制限に関する一般的法律留保原則を明示し、それに対する立法権の限界を設定しているとともに、憲法第27条第4項は「刑事被告人は有罪の判決が確定するまでは無罪と推定される。」と規定し、無罪推定の原則を明らかにしている。
(2) 適法手続の原則
現行憲法第12条第1項後文と第3項本文は上で見たように適法手続の原則を憲法上の明文規定に置いているが、これは改正前の憲法第1条第1項の「何人も法律によらなくしては逮捕・拘禁・押収・捜索・処罰・保安処分または強制労役を受けない。」という規定を、1987年10月29日第9回改正の現行憲法で初めて、英米法系の国家で国民の人権を保障するための基本権利の1つとして発達してきた適法手続の原則を導入して憲法に明文化したものであり、この適法手続の原則は歴史的に見ると、英国のマグナカルタ(大憲章)第39条、1335年のエドワード3世制定法律、1628年権利請願第4条を経て1791年米国修正憲法第5条第3文と1868年米国修正憲法第14条に明文化され、米国憲法の基本権利の1つとして位置づけられ、すべての国家作用を支配する一般原理として解釈・適用される重要な原則として、今日ではドイツなどの大陸法系の国家においてもこれに相応して一般的な法治国家原理または基本権制限の法律留保原理として定立されることになった(憲裁1992年12月24日92憲カ8、判例集4、853、876参照)。
このように現行憲法上規定された適法手続の原則をどのように解釈するのかについて表現の差異はあるが、大体において適法手続の原則が独自的な憲法権利の1つとして受け入れられながら、これは形式的な手続だけではなく、実体的法律内容が合理性と正当性を備えたものでなければならないという実質的意味に拡大解釈されており、さらに刑事訴訟手続と関連させて適用することにおいては刑罰権の実行手続である刑事訴訟の全般を規定する基本原理と理解される。しかも刑事訴訟手続において身体の自由を制限する法律と関連させて適用することにおいては、法律による刑罰権の行使であるといっても、身体の自由の本質的な内容を侵害してはならないだけでなく、比例の原則や過剰立法禁止の原則に反しない限度内においてのみその適正性と合憲性が認められることを特に強調しているものと解釈しなければならない(憲裁1992年12月24日92憲カ8、判例集4,853,876-878参照)。
(3) 無罪推定の原則
憲法上の無罪推定の原則は、刑事裁判において有罪の判決が確定するまで被疑者や被告人は原則的に罪がない者として扱われなければならず、その不利益は必要最小限に止めなければならないことを意味する。このような無罪推定の原則は証拠法に局限される原則ではなく、捜査手続から公判手続に至るまで刑事手続の全過程を支配する指導原理として、人身の拘束自体を制限する原理として作用する(憲裁2003年11月27日2002憲マ193,判例集15-2下、311、320参照)。有罪の確定判決があるまで、国家の捜査権はもちろん、公訴権、裁判権、行刑権等の行使において被疑者または被告人は無罪と推定され、その身体の自由を保障しなければならないという無罪推定の原則は、人間の尊厳性を基本権秩序の中心として保障している憲法秩序内において刑罰作用の必然的な羈束原理になるばかりでなく、このような原則が制度的に表現されたものとしては、公判手続の立証段階において挙証責任を検事に負担させる制度、保釈および拘束適否審等の人身拘束の制限のための制度、そして被疑者および被告人に対する不当な待遇の禁止等がある(憲裁2001年11月29日2001憲パ41,判例集13-2,699,703参照)。
タ.判断
(1) 不拘束捜査の原則
身体の自由を最大限に保障しようとする憲法の精神、特に無罪推定の原則によって、捜査と裁判は原則的に不拘束状態でなされなければならない。それゆえ拘束は拘束以外の方法によっては犯罪に対する効果的な闘争が不可能であり、刑事訴訟の目的を達成することができないと認められる例外的な場合に限り、最後の手段としてのみ使用されなければならず、拘束捜査または拘束裁判が許容される場合でもその拘束期間は可能な限り最小限に止めなければならない(憲裁2003年11月27日2002憲マ193、判例集15-2下、311、321参照)。このように身体の自由を規定した憲法第12条と無罪推定の原則を規定した憲法第27条第4項の精神に照らして当然に解釈されてきた一般原則は、2007年6月1日法律第8435号で改正された刑事訴訟法第198条第1項が「被疑者に対する捜査は不拘束状態ですることを原則とする。」と不拘束捜査の原則を明らかにしたことをもって立法化された。
(2) 未決拘禁の通算
それゆえ捜査の必要上または裁判手続の進行上不可避に被告人を拘禁するとしても、このような未決拘禁は無罪推定の原則にもかかわらず身体の自由という重要な基本権を制限するものであるから、先に見たように適法手続の原則により身体の自由の本質的な内容を侵害してはならないだけでなく、過剰禁止原則に反しない正当な限度内に制限すべきである。
さらに被疑者や被告人が上のような国家の刑事訴訟的必要によって適法に拘禁されたとしても、未決拘禁は被疑者または被告人の身体の自由を剥奪している点で実質的に自由刑の執行と類似するので、無罪推定の原則によりその拘禁期間に対する正当な評価と補償がなされなければならない。すなわち、拘禁された被告人が無罪判決を受ける場合、刑事補償法等によって未決拘禁日数による金銭的補償を受けることができ、有罪判決を受ける場合には未決拘禁日数を本刑に通算することになる。
(3) 裁量通算とその目的
ところで、我が刑法第57条第1項は、大多数の立法例が未決拘禁期間の「全部」を刑期に算入するのと異なり、未決拘禁期間の「全部または一部を……算入する」と規定することをもって、当該裁判官をして未決拘禁日数を刑期に算入し、その算入範囲は裁量によって決定するようにしている。
このように未決拘禁日数算入範囲の決定を裁判官の自由裁量に委ねる理由は、被告人が故意に不当に裁判を遅延させるのを防ぎ、刑事裁判の効率性を高め、被告人の濫上訴を防止して上訴審法院の業務負担を減らすことにあるという。
(4) 裁量通算の正当性
しかし以下に見るとおり、上のような立法目的が憲法上の無罪推定の原則と適法手続の原則に反して未決拘禁日数の一部のみを刑期に通算するのを許容するだけの合理性と正当性を有しているとは考えがたい。
(カ) まず、未決拘禁を許容すること自体が憲法上の無罪推定の原則から派生する不拘束捜査の原則に対する例外であるのに、刑法第57条第1項部分はその未決拘禁日数のうち一部のみを本刑に算入しうるように規定し、その例外に対して事実上再度の特例を設定することをもって、基本権のうちでも最も本質的な身体の自由に対する侵害を加重している。
(ナ) 未決拘禁は身体の自由を剥奪して苦痛を与える効果面では実質的に自由刑の執行と類似しており、未決拘禁状態での精神的緊張や未来に対する不安を考慮すると、未決拘禁が確定した刑の執行より緩和された形態の拘禁だと断定することもできない。
いわゆる既決囚に比べて未決囚が刑務所内の面会回数の制限、移監、労役等の処遇において有利だという反論があるが、未決囚に対するこのような処遇は無罪推定の原則上認められる当然のものであり、既決囚との上のような差異は既決囚に対する刑務所内の処遇を未決囚に合わせて改善しようとする努力で解決すべきものであって、未決囚の拘禁を既決囚の刑執行に比べて等差評価する根拠とみなしてはならない。
(タ) 拘束被告人の責任で不当に裁判が遅延した場合には裁判の効率性のために未決拘禁期間のうちそれに該当する部分を刑期に算入してはならないという主張があるが、刑事訴訟手続上の事由によって左右される拘禁期間の長短を被告人の帰責事由に正確に対応させることも容易ではないばかりか、たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反するというべきである。
(ラ) 刑事訴訟手続において上訴制度は誤判を是正して法令の解釈・適用を統一するために用意されたものであるところ、上訴権の濫用は刑事裁判手続を不必要に遅延させるだけでなく、上訴審の業務を過重にし、迅速・適正な司法運営を妨害するので、これを予防し、除く必要性がある。
しかし被告人の上訴権は憲法第27条の裁判請求権に含まれる被告人の正当な権利として憲法第37条第2項の比例の原則によってのみこれを制限し得るところ(憲裁1996年10月4日95憲カ1等、判例集8-2、258、270;憲裁1999年7月22日96憲パ19、判例集11-2、73、81参照)、刑法第57条第1項部分が上訴提起後の未決拘禁日数の一部が法院の裁量で算入されないようにして被告人の上訴意思を萎縮させることをもって濫上訴を防止しようとするのは、立法目的達成のための適切な手段であるということはできない。
すなわち、刑事裁判において人身が拘束され、検事に比べて不利な状態にある被告人としては、裁判手続で自分に有利な弁論や証拠申請をしようとしても、上の刑法第57条第1項部分のせいで正当な証拠申請を諦めることもありうる。さらに刑法第57条第1項によって未決拘禁日数を算入する以上、その算入日数は裁判官の自由裁量であるというのが大法院の確立した判例であり(大法院2005年10月14日宣告2005ト4758判決;大法院1993年11月26日宣告93ト2505判決等参照)、裁定通算の場合に一審判決が被告人の未決拘禁日数のうち一部を本刑に算入しなかったとしても、これは判決法院の裁量に属する事項であって、一部通算しなかった未決拘禁日数について上訴審に裁量権がないので(大法院1993年11月26日宣告93ト2505判決;大法院1991年4月26日宣告91ト353等参照)、原審判決に不服がある拘束被告人が、上訴審で未決拘禁日数のうち一部のみが算入され、事実上拘禁期間が延長される不利益を被らないために上訴を躊躇することにもなり得る。これは結局、濫上訴を防止するという名目で、むしろ拘束被告人の裁判請求権や上訴権の適正な行使を阻害することになるのである。
(マ) 拘束の目的は刑事訴訟手続の実効性、すなわち適正な事実調査および訴訟手続での出席確保と判決後の刑罰の執行を担保しようとすることにあり、このような目的以外の他の目的を追求することは許されない。それゆえ被疑者や被告人が拘束された状態を利用して訴訟の遅延や濫上訴の防止という司法運営上の目的を達成しようとするのは拘束制度の本来の目的に符合しないというべきである。
(パ) 未決拘禁は無罪推定原則の例外的状態として身体の自由を重大に制限するものであるから、拘束被告人は拘束されたという点だけでも既に不拘束被告人より不利益な処遇を受けているのに、さらに有罪判決確定時の未決拘禁日数のうち一部のみが算入されるとするならば、事実上拘禁期間が増えることになり、不拘束状態で有罪判決が確定し自由刑を執行される被告人に比べて再度不利な差別を受ける結果を招くものである。
(5) 小結
憲法上の無罪推定の原則により、有罪判決が確定する前に被疑者または被告人を罪ある者に準じて取り扱うことをもって法律的・事実的側面で有形・無形の不利益を与えてはならない。特に未決拘禁は身体の自由を侵害される被疑者または被告人の立場から見ると、実質的に自由刑の執行と異なるところはないので、人権保護および公平の原則上、刑期に全部算入すべきである。
しかし刑法第57条第1項中「または一部」の部分は未決拘禁のこのような本質を忠実に考慮せず、裁判官をして未決拘禁日数のうち一部を刑期に算入しないことができるように許容しているところ、これは憲法上の無罪推定の原則および適法手続の原則等に違背し、合理性と正当性なくして身体の自由をあまりに制限することをもって憲法に違反するというべきである。
4.性暴法第5条第2項部分に対する判断
カ.憲法的争点
特殊強盗強制わいせつ罪と特殊強盗強姦罪はすべての特殊強盗という行為要素を必要とする点では同一であるが、具体的な性暴力行為の態様が強制わいせつと強姦という点でお互いに区別されるのに、性暴法第5条第2項は特殊強盗強制わいせつ罪の法定刑を特殊強盗強姦罪のそれと同一に「死刑・無期または10年以上の懲役」と規定しているところ、このような法定刑が行為者を責任以上に加重処罰して刑罰と責任間の比例原則に違反するか、特殊強盗強姦罪のそれと比べてみたとき、あまりに高くて刑罰体系上の均衡を失い、平等原則に違反するかどうかが問題となる。
ナ.性暴法第5条第2項部分の立法背景と改正経緯
(1) 刑法は強盗が婦女を強姦したときを強盗強姦罪と規定し、これを無期または10年以上の懲役刑という重い法定刑で処罰している(第339条)。この罪は強盗罪と強姦罪の結合犯として、強盗が強盗犯行で惹起された反抗不能状態を利用して被害者を強姦する場合が頻繁だったので、強盗罪の加重的構成要件として規定されたものである。しかしこのような趨勢を見ると、強姦の動機も一時的な性衝動による偶発的なものであるというよりは、大部分の被害者である女性の羞恥心を悪用して自身の強盗犯行を隠蔽する目的で行われるようになり、計画的で組織的な犯罪の性格を帯びるようになるとともに、具体的な行為の態様も強姦の他に被害者に非正常的で変態的な性的行為を強要するものが現れるようになった。特に強盗犯行が夜間に住居でなされる場合または住居ではなくても凶器を携帯したり、多数人の合同犯の形態で行われる場合には、抵抗することができない絶対的暴力状況で配偶者または他の家族が目撃するなかで強姦がなされることもあり、これによる被害は被害者の個人的な法益の侵害を超えて家庭を破壊する程度に至ることになる。しかしこのような状況にもかかわらず、既存の強盗強姦罪は家庭破壊犯罪としての強盗強姦の類型の犯罪に対して適切な一般予防的機能を遂行できず、具体的な性暴力行為の類型を強姦にのみ限定するあまり、不法や責任の内容において決して強姦より軽微であるとはいえない強制わいせつについてはまったく対処することができない立法論的な問題点さえ露わにした。
(2) このような背景の下に1989年3月25日法律第4090号で改正された「特定犯罪加重処罰等に関する法律」第5条の6第1項は、夜間住居侵入型または凶器携帯・合同犯形態の窃盗および強盗罪と強姦罪および強制わいせつ罪の結合犯を処罰しうる特殊強盗強制わいせつ罪等を新設してその法定刑を加重した。その後性暴力犯罪を予防してその被害者を保護し、性暴力犯罪の処罰およびその手続に関する特例を規定したものとして、国民の人権伸長と健康な社会秩序の確立に寄与する目的で1994年1月5日法律第4702号で制定された性暴法は、特殊強盗罪と強姦罪または強制わいせつ罪の結合犯を夜間住居侵入窃盗等の窃盗犯との結合犯と分離してそれぞれ構成要件を置いてその法定刑を別に定めるとともに、1997年8月22日法律第5343号で改正された性暴法第5条第2項部分は特殊強盗の未遂犯も特殊強盗に含めてその適用範囲を拡大した(憲裁2001年11月29日2001憲カ16、判例集13-2、570、577-578)。
タ.責任と刑罰間の比例原則違反の有無
(1) どのような犯罪をどのように処罰するのかという問題、すなわち法定刑の種類と範囲の選択はその犯罪の罪質と保護法益に対する考慮のみならず、歴史と文化、立法当時の時代的状況、国民一般の価値観ないし法感情そして犯罪予防のための刑事政策的側面等のいろいろな要素を総合的に考慮し、立法者が適正な事項として広範囲な立法裁量ないし形成の自由が認められる領域である。したがってある犯罪に対する法定刑がその犯罪の罪質およびこれに対する行為者の責任に比してあまりに過酷なものであって、著しく刑罰体系上の均衡を失っていたり、その犯罪に対する刑罰本来の目的と機能を達成するのに必要な程度を逸脱しない限り、たやすく憲法に違反すると断定してはならない。そして刑罰規定の法定刑のみではどのような犯罪行為を予防し摘発するのに十分でないという立法政策的考慮によりこれを加重処罰するために特別刑法法規を制定した場合には、刑法規定の法定刑のみを基準としてその特別刑法法規の法定刑の加重の可否をたやすく論断してはならないというべきである(憲裁2006年4月27日2005憲カ2、判例集18-1上、478、484)。
(2) 性暴法第5条第2項部分が規定した特殊強盗強姦罪は、夜間に人の住居等に侵入し、または凶器を携帯したり、2人以上が合同して強盗をしたり、その実行の終了に至らなかった者が被害者を強制わいせつした場合に成立するもので、特殊強盗罪(刑法第334条)と強制わいせつ罪(刑法第298条)の結合犯である。特殊強盗が強盗の機会に被害者を強制わいせつした場合には、その動機が自身の強盗犯行を隠蔽しようというにあるのが多く、特殊強盗犯行によって極度に抵抗が抑圧された状態で被害者の性的自己決定権が著しく侵害されたというもので、罪質と犯情が重く非難可能性が極めて大きい。さらにこのような犯行が夜間に住居で発生し、配偶者または家族が目撃するなかで行われた場合には、被害者の財産と性的自己決定権の侵害を超えて生活の基礎単位としての一家庭を破壊する結果にまで至ることになり、これによる被害の程度も通常の特殊強盗と強制わいせつの結果を越えて極めて甚大である。それゆえ立法者がこのような場合に行為者を単純な特殊強盗罪と強制わいせつ罪の結合犯として処罰するのではそれと同じような犯罪を予防して摘発するのに不十分であるという刑事政策的考慮から特別法を制定して特殊強盗強制わいせつ罪の構成要件を新設したことは、必要でもあり望ましいというべきである。さらにその保護法益の重要性と犯罪の罪質、行為者責任の程度および一般予防的目的を達成するための刑事政策的側面等のいろいろな要素を考慮して刑法上の強盗強姦罪の法定刑に死刑を追加し、死刑・無期または10年以上の懲役刑という比較的重い法定刑を定めたことには首肯するだけの合理的な理由があるというべきである。したがってこのような点を考慮すると、性暴法第5条第2項部分がそれ自体に犯罪の罪質および行為者の責任に比べてあまりに過酷であるとは考えがたいので、責任と刑罰間の比例原則に違反するということはできない。
(3) 比例原則違反の有無と関連して、性暴法第5条第2項部分はその法定刑の下限が10年以上の懲役であるので、酌量減軽をしたとしても別の法律上の減軽事由がない限り執行猶予の宣告をすることができないようになっているところ、これが裁判官の量刑決定権を過度に制限するものであるのかが問題となる。
法定刑は裁判官をして具体的な事件の情状により行為者の責任に相応する適正な宣告刑を導き出すことができるように、過度に広くない範囲においてできる限りその幅を広く規定するのが望ましい。しかし立法者が先に見たような法定刑策定に関するいろいろな要素を総合的に考慮して法律それ自体に裁判官による量刑裁量の範囲を狭くしたとしても、それが当該犯罪の保護法益と罪質に照らして犯罪と刑罰間の比例の原則上首肯しうる程度の合理性があるならば、このような法律を違憲であるということはできない(憲裁1995年4月20日93憲パ40、判例集7-1、539、553参照)。
性暴法第5条第2項部分の場合、立法者は特殊強盗の機会に被害者を強制わいせつした者に対してその犯罪と非難可能性の程度を高く評価し、特段の事情がない限り、すなわち法律上の減軽事由がない限り裁判官が酌量減刑をしうるけれども執行猶予は宣告できないように立法的決断を下したものというべきであって、このような立法者の決断は上で見たいろいろな事情に照らして首肯するに値する合理的な理由があるというべきである。さらに性暴法第5条第2項部分に該当する場合でも、法律上の減軽事由が競合したり、法律上の減軽事由と酌量減軽事由が競合するときにはその刑の執行を猶予されうることもあるので、執行猶予の可能性が法律上全面的に封鎖されているものでもない。したがって性暴法第5条第2項部分が酌量減刑をしたとしても別途の法律上の減軽事由がない限り執行猶予の宣告をすることができないようにその法定刑の下限を高めたからといって、必ずしも裁判官の量刑決定権を侵害したということはできない。
ラ.刑法体系上の均衡を喪失し平等原則に違反するかどうか
(1) ある類型の犯罪について特別に刑を加重する必要がある場合であっても、その加重の程度が通常の刑事処罰と比較して著しく刑法体系上の正当性と均衡を失っていることが明白な場合には、人間の尊厳性と価値を保障する憲法の基本原理に違背するだけでなく、法の内容においても平等の原則に反する違憲的法律となる(憲裁2001年2月26日2008憲パ9等参照)。
(2) しかし犯罪行為の罪質とそれに相応する法定刑を規定するにあたって、罪質とそれによる法定刑が数学的・機械的な正比例関係を維持することが必ずしも合理的なものではなく、これは立法技術上、事実上不可能なものともいえる。ある犯罪行為について一定の刑罰を規定するのはその刑罰を賦課することによって犯罪を犯した者に対する応報効果および以下による犯罪の一般予防効果等を達成しようとするものであるが、罪質の重さの程度がある水準を超えるようになると、たとえ具体的犯罪類型により罪質において若干の差異があったとしても、そのような犯罪行為に対して一般人が感じる非難可能性やその犯罪の一般予防効果を達成するために要求される法定刑の水準は別段差異がない場合も発生する。このような現象は該当犯罪の罪質が重ければ重くなるほど現れやすく、例えば強姦罪と強制わいせつ罪を単純に比較する場合や特殊強盗罪と強盗罪を単純に比較する場合なら、強姦罪が強制わいせつ罪より、そして特殊強盗罪が強盗罪よりその罪質が明白により重く、これを予防するために要求される刑罰の強度もより高めなければならないと容易に判断を下すことができるが、特殊強盗強姦罪と特殊強盗強制わいせつ罪を比較する場合だと、そのそれぞれの犯罪自体が持つ極めて高い不法性のために、それら相互間の不法性の差異は相対的に微々たるものであると判断することができるであろう。すなわち、比較対象である各犯罪行為の罪質が重くなるほどそれらの犯罪相互間の罪質の相対的差異は減るというべきである。
(3) 一方、強制わいせつとは性欲を満足させたり性欲を刺激するために相手方の性的羞恥心や嫌悪感を呼び起こす性器挿入以外の一切の行為をいうものとしてその範囲が極めて広いので、強姦の場合に比べてその被害が相対的に軽微で不法の程度も低い場合が多いが、性器に異物質を挿入して性的快感を得る加虐的な行為(Sadistic Rape)、肛門性交、口腔性交など強姦の場合より罪質が悪く被害が重大な場合もいくらでもありうる。さらに通常のわいせつ行為といっても、犯行の動機と犯行当時の状況および保護法益に対する侵害の程度等を考慮すると、強姦より重く処罰したり、少なくとも同一に処罰すべき必要がある場合も実務上よくある。したがって強姦と強制わいせつを一律的に区分して強姦に比べて強制わいせつを軽く処罰するのは具体的な場合においてむしろ不均衡的な処罰結果をもたらす恐れがある(憲裁2001年11月29日2001憲カ16、判例集13-2、570、579-580)。したがって特殊強盗を犯した者が被害者を強制わいせつした場合に対する非難可能性の程度が被害者を強姦した場合に比べて必ずしも軽いと断定することはできず、むしろ具体的なわいせつ行為の態様によっては強姦の場合よりも重く処罰をすべき必要もあるというべきである。
(4) したがって性暴法第5条第2項が両罪の法定刑を同一に定めたといってこれを巡って刑罰体系上の均衡を失った恣意的な立法だということはできないので、性暴法第5条第2項部分が平等原則に違反するということはできない。
マ.小結
そうすると、特殊強盗強制わいせつ罪について特殊強盗強姦罪と同じく死刑・無期または10年以上の懲役の法定刑を定めている性暴法第5条第2項部分の法定刑が、過重で苛酷な刑罰を規定して責任原則に反するとか、刑罰体系上の均衡を喪失して立法裁量の範囲を逸れた恣意的な立法であると断定することはできないので、憲法上の比例原則、平等原則に違反するとか、ひいては憲法第10条の人間としての尊厳と価値に違反するとみることはできない。
5.結論
そうすると、刑法第57条第1項中「または一部」の部分は憲法に違反し、性暴法第5条第2項部分は憲法に違反しないので、主文のとおり決定する。この決定には刑法第57条第1項中「または一部」の部分に対する裁判官イ・ドンフプの次の6.のとおりの反対意見、裁判官チョウ・テヒョンの次の7.のとおりの補充意見、性暴法第5条第2項部分に対する裁判官キム・チョンデ、裁判官モク・ヨンジュンの次の8.のとおりの反対意見がある以外に残りの関与裁判官全員の一致した意見によるものである。
6.裁判官イ・ドンフプの刑法第57条第1項中「または一部」の部分に対する反対意見
私は多数意見と異なり、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が憲法に違反しないと判断するので、以下のとおりその意見を明らかにする。
カ.適法手続原則、無罪推定原則違反および身体の自由侵害の有無
(1) 未決拘禁の本質と適法手続原則および無罪推定原則
(カ) 多数意見は、未決拘禁自体が身体の自由を制限するものとして、未決拘禁日数を本刑に一部だけ算入しうるようにした刑法第57条第1項中「または一部」の部分が適法手続原則と無罪推定原則に違背し、身体の自由を侵害するとの結論を下している。
しかし未決拘禁は逃亡や証拠隠滅を防止することをもって捜査、裁判または刑の執行を円滑に進めるためにやむを得ず被疑者または被告人を拘禁する強制処分であるところ、憲法上の無罪推定の原則により不拘束状態で捜査および裁判をすべきであるというのが望ましいが、憲法において法律と適法手続に従って例外的に裁判官の令状によって拘束の必要性がある場合に、法定の拘束期間内に身体の自由が制限された状態で捜査および裁判を受けるようにするものである。したがって未決拘禁は憲法が認めた無罪推定原則の例外として適法手続原則によりなされるのであって、このような適法手続原則の適用を受けて行われた未決拘禁自体が無罪推定原則または適法手続原則に違背するということはできない。
(ナ) さらに未決拘禁は身体の自由を制限する面があるものの、身柄を確保する必要から不可避に行われる裁判確定前の強制処分である点で、社会一般の法益を保護し、被告人の社会復帰のために犯罪に対する法律上の効果として被告人に対して科する法益の剥奪である刑の執行とはその法的性格が顕著に相違するものである。したがって未決拘禁はその内容面からも上のような法的性格を反映して強制労役と教育が伴わず、特別な事情がない限り移送されないなど、刑罰の執行とは基本的な差異があるので、必ずしも未決拘禁期間が本刑に算入されるべき論理的必然性があるものではない。未決拘禁日数の本刑算入問題は以下に見るとおり、単に刑事訴訟手続上の目的を達成するために刑事訴訟法が認めた未決拘禁の期間をどの程度本刑に算入するのが公平の観点から相当であるかの問題に過ぎず、無罪推定原則に帰する不拘束裁判原則の具現や拘束被告人に対する防御権保障等の問題とは次元を異にするものである。したがって未決拘禁が身体の自由を侵害する性質を有することを根拠に未決拘禁日数を全部算入せずにその一部を本刑に算入しないことができるようにしたことが無罪推定原則と適法手続原則に違背し、合理性と正当性なくして身体の自由をあまりに制限するものであるという論理は、憲法上正当化される未決拘禁制度自体が基本権を侵害するものとみて未決拘禁日数の全部算入を通して侵害された基本権を回復させなければならないとすることにほかならないので、未決拘禁および未決拘禁算入制度の本質をきちんと把握せずにこれを混同したものというほかない。
(2) 未決拘禁日数の本刑算入の根拠
未決拘禁は刑の執行ではないが自由を剥奪する点が自由刑の執行と類似するので、適法手続原則に由来する刑事司法の公平ないし衡平の原理によりその期間を宣告された本刑に算入することを認めたものと理解されている。
多数意見は未決拘禁日数の本刑算入の根拠について、未決拘禁がやむを得ないものだとしても、無罪推定の原則によってその拘禁期間に対する正当な評価と補償がなされなければならず、拘禁された被告人が裁判の結果無罪となった場合には金銭的補償で填補される点に照らして、有罪の場合にも未決拘禁日数が当然に本刑に算入されるものであるとしている。しかし被告人が裁判の結果無罪となった場合は未決拘禁が結果的に正当化されがたいので、上のように不当に経験した拘禁を犠牲と見て未決拘禁期間の全部について補償がなされるものであるところ、被告人が有罪となった場合の未決拘禁の本刑算入を被告人が無罪となった場合のそれと同一視することはできないというべきである。
さらに上で見たとおり、憲法によって法律と適法な手続によりなされた未決拘禁自体が身体の自由を侵害するものではない以上、それによって負わされる不利益は被告人の犠牲であるとみることはできないので、当然に未決拘禁日数の全部が本刑に算入されなければならない論理的な根拠はないというべきである。ただし手続の確保という理由でまだ判決が確定していない被告人について賦課された未決拘禁という身体的害悪について、公正性の原理に基づいて事後的な調整をすることが未決拘禁日数の本刑算入制度の認定根拠であるといえる。
(3) 未決拘禁日数の本刑算入に関する立法例と裁判実務
未決拘禁日数の本刑算入の問題は未決拘禁と刑の執行に対する観点の差異、裁判遅延などを訴訟経済や裁判の効率性とどのように調和させるかどうかなどと関連しているもので、これは各国の刑事訴訟構造や状況などを総合して立法政策として決定する問題として基本的に立法者の広範囲な立法形成権に属する領域であるといえよう。未決拘禁日数の本刑算入に関しては法律による当然算入を原則とする法定通算主義と法院の裁量による任意的算入を原則とする裁定通算主義に分かれるが、多数の学説は米国、英国、ドイツなどは法定通算主義を、我が国は日本のように裁定通算主義をとっているという。
ところで裁定通算主義をとっている国においても、算入の基準に関しては法律でこれを定めていないので、原則的に未決拘禁日数の全部を本刑に算入し、被告人の責に帰すべき事由による未決拘禁日数を本刑算入から除外する方式(全部算入説)と、原則的に当該事件の捜査、公判に通算必要な期間と被告人の責に帰すべき事由で生じた未決拘禁日数はこれを本刑に算入せず、被告人の責に帰することができない事由で延長した拘禁日数のみを算入する方式(一部算入説)に、学説および実務例が分かれている。刑法第57条第1項に関する我が国の裁判実務は原則的に未決拘禁日数の全部を本刑に算入し、被告人の犯行後の態度、被告人の不当な手続遅延によって審理期間が延長されたかどうかなどを参酌して、裁判官の裁量により適切な範囲内で未決拘禁日数の一部を本刑算入から除く方式で運営しているので、裁定通算主義のうち前者の方式をとっているといえよう。これに反して日本の裁判実務は起訴前の拘禁日数は算入しないのが通常であり、起訴後の拘禁日数については公判回数などを考慮して算入日数を定めるのが一般的であり、裁判部や検察側の事由で公判期日が変更され、発生した拘禁日数、証人不出頭のために長期化した拘束日数など被告人に責に帰すことができずに増えた拘禁日数は本刑に算入する方式で運営しているので、裁定通算主義のうち後者の方式をとっているといえよう。
多数意見は日本と我が国を除いた大多数の立法例が我が国と異なり未決拘禁日数の全部を本刑に算入する立法態度をとっているというが、上の国家は原則的に法定通算主義をとりながらも、被告人の犯行後の態度等を考慮して一部のみを算入しうるようにする例外を認めている。すなわち英国の場合に、法院は無益な控訴の場合、控訴提起後の期間の全部または一部を算入から除外するように命じることができ、ドイツの場合にも法院は未決拘禁日数の本刑算入が犯罪後の刑の宣告を受けた者の態度をみて正当でなかったと認められるときは、その算入の全部または一部の停止を命じることができるようにしているので、法定通算主義をとっている国家がすべて例外なく未決拘禁日数の全部を本刑に算入しているということはできない。したがって我が国の立法と実務例を総合すると、ドイツなどの法定通算主義をとっている国家の場合と比較しても大きく異ならないというべきである。
(4) 刑法第57条第1項中「または一部」の部分の正当性
(カ) 多数意見は未決拘禁が捜査または刑事訴訟のために不可避に被疑者または被告人の自由を制限するので、未決拘禁日数を全部本刑に算入するようにしなければ人権保護の目的を達成することができず、一部を算入する方式は適した手段になりえないという。
しかし公平の観点から未決拘禁日数の本刑算入が認められるものであるといっても、これをどのような形態で立法に反映するかは立法者の裁量の領域に属するものとして、その裁量行使による立法が明白に不合理でない限りこれを違憲ということはできないので、必ずしも全部を本刑に算入してこそ人権が保護されるという論理は成立しがたい。そしてもし刑法第57条第1項が未決拘禁日数の一部本刑算入の余地を置いていないのであれば、刑事手続上本質的に他の未決拘禁と刑の執行を同一に扱うことになり、刑事訴訟法上有罪判決確定の前後で区別しながら、相違する法的地位を有する既決囚と未決囚の区分が事実上形骸化する問題が発生しうる。さらに未決拘禁期間はその性格が多様であって通常の裁判手続の進行に必要な期間、被告人に責に帰すべき期間、被告人以外の者に責を帰すべき期間などに分けられるが、そのうち被告人に責を帰すべき期間、例えば裁判遅延のみを目的とした不出頭が明白な証人の申請の繰り返しによって遅延した期間などはこれを本刑に算入することがむしろ刑事司法の正義に反することにもなりうる。このように被告人が訴訟遅延等のために悪用する期間まで法定通算をすることになれば、被告人の責に帰すべき期間が刑期に算入される不合理な結果が招かれることにもなりうる。したがって全体の未決拘禁期間は多様な性格の期間が合わさっているという点、各未決拘禁期間の性格により異なる取扱いが必要であるという点で未決拘禁日数を全部本刑に算入するようにすることで、実務上審理に必要な期間、審理遅延等に対する被告人の帰責事由、被告人の犯行後の態度、事件の進行状態などを参酌して裁判官の裁量で本刑への算入の程度を定めることができるようにした刑法第57条第1項は上のように合理的な理由があるといえよう。先に見たとおり、我が国と同じ裁定通算主義をとっている日本の裁判実務においては、一般的に当該事件の捜査、公判に通常必要な期間の未決拘禁は被告人が甘受しなければならないものであって、これを超過する拘禁日数のみを本刑に算入しているが、日本の最高裁判所も審理に必要な未決拘禁日数を常に本刑に算入すべき法律上、実際上の理由はないと判示しているところである。
(ナ) 多数意見は、刑法第57条第1項が未決拘禁日数のうち一部のみを本刑に算入しうるように規定していることをもって、無罪推定の原則から派生する不拘束捜査原則の例外に対する特例を設定したものとして、身体の自由に対する侵害を加重させているという。しかし、未決拘禁が効果において身体の自由を制限する面があるとしても、どこまでもその法律的性質は刑の執行ではない強制処分であることには疑問の余地がなく、未決拘禁が無罪推定の原則や適法手続の原則に違背しないということは先に見たとおりである。さらに未決拘禁の期間は刑事司法の公平を図り、人権を保護するためにこれを事後的な調整として本刑に算入するようにしたものであるから、未決拘禁日数を必ず全部算入せずに一部算入が可能なようにしたことが、身体の自由を侵害したり、これを加重させるとみることはできない。捜査および裁判手続における身体の自由の最大の保障は、拘束の必要性や拘束事由に対する厳格な解釈・適用と拘束期間、保釈等の拘束制度に対する立法、行政、司法的改善努力を通してなされなければならないものであって、未決拘禁日数を全部本刑に算入する方法で解決する問題ではないというべきである。
(タ) 次に、多数意見は、刑事訴訟手続上の事由によって左右される拘禁期間の長短を被告人の帰責事由に正確に対応させることも容易ではなく、たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延したり不当な行動をしたとしても、これを理由に未決拘禁日数の一部のみを本刑に算入するのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科すものだと指摘する。
しかし、未決拘禁自体は刑事訴訟手続上の目的のための強制処分であって確定した刑の執行ではないので、拘禁の可否および拘禁期間の長短が被告人の罪責または帰責事由ではなく、刑事手続上の事由によって定められるのがむしろ当然であり、さらに未決拘禁日数の本刑算入の問題は本刑の内容を定めるのではなく、ただ捜査および刑事訴訟の目的を達成するために刑事訴訟法が認めた未決拘禁日数をどの程度本刑に算入するのが公平の観点から相当なものであるかの問題として、被告人の帰責事由による訴訟手続遅延の場合、未決拘禁日数の一部を算入から除外するのがむしろ公平の観点から妥当であるということができ、英国とドイツでもこのような趣旨から被告人の犯行後の態度を問題として未決拘禁日数の全部または一部を本刑算入から除外しうるようにしているのであって、裁判通算主義をとっている日本においても被告人の責に帰すべからざる事由で延長された場合の未決拘禁日数を本刑に算入しているのである。
したがって、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的制裁を科するものであるとはいえない。
(5) 小結
未決拘禁日数のうち全部または一部を本刑に算入することができるように規定した刑法第57条第1項は刑事司法上の公平と被告人の人権を保護するためのものとして、その目的と手段の間に合理性と正当性が認められるので、憲法上の適法手続原則や無罪推定原則に違背し、身体の自由を侵害するとみることはできない。
したがって、刑法第57条第1項が未決拘禁日数のうち一部を本刑に算入することができるようにしたことからより進んで、必ず全部を本刑に算入することができるようにしてこそ、刑事司法の公平、人権保護の目的を達成し、適法手続原則と無罪推定原則に違背しないという多数意見の論理は、先に指摘したように到底首肯することはできないというべきである。
ナ.裁判を受ける権利の侵害の有無
(1) 多数意見は、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が上訴提起後の未決拘禁日数の一部が算入されないようにして被告人の有利な弁論や証拠申請を諦めるようにし、被告人の上訴意思を萎縮させることをもって、拘束被告人の裁判請求権や上訴権の適正な行使を阻害しているという。
しかし、未決拘禁日数の本刑算入に関する刑法第57条第1項中「または一部」の部分によって裁判請求権の制限があるのかどうかに関してみると、先に見たように未決拘禁日数の本刑算入の問題は刑の内容を定めるのではなく、ただ刑事訴訟手続上不可避の強制処分である未決拘禁の期間をどの程度本刑に算入するのが公平の観点に照らして相当であるかの問題として、その算入の程度を裁判官の裁量で定めるようにした刑法第57条第1項の立法目的は、刑事司法の公平を図り人権を保護するためのものであって、裁判請求権と直接関連しているとみることはできない。さらに刑法第57条第1項中「または一部」の部分の存在によって被告人の正当な防御権行使または有利な量刑のための証拠申請等、裁判請求権の行使が妨害されるということはできない。
次に、上訴権行使と関連した裁判請求権の制限の有無は、刑法第57条第1項中「または一部」の部分ではなく、被告人等の上訴を棄却する場合、相当な理由がなく上訴を提起したと認められるときは上訴提起後の判決宣告前の拘禁日数のうち上訴提起期間満了日から上訴理由書提出期間満了日までの日数を本刑に算入しないように規定した訴訟促進等に関する特例法第24条に関する問題といえるものであり、仮に上訴審で刑法第57条第1項中「または一部」の部分を適用して未決拘禁日数のうち一部を本刑に算入しないとしても、これは先に見たように被告人の犯行後の態度、審理遅延に対する被告人の帰責事由等を参酌して、裁判官の裁量で未決拘禁日数のうち一部を本刑に算入しないだけで、上訴に対する制裁を科するものだとみるものではないから、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が上訴権の適正な行使を制限しているということはできない。
(2) したがって、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が裁判を受ける権利を侵害するとみることはできない。
タ.平等権侵害の有無
(1) 多数意見は、拘束被告人が未決拘禁日数を裁判官の裁量で一部算入するように規定した刑法第57条第1項中「または一部」の部分が、不拘束被告人に比べて拘束被告人を差別扱いしているという。
それゆえ、まずこの事件において比較集団となる拘束被告人と不拘束被告人が本質的に同一に差別扱いがあるかどうかに関してみると、2個の比較集団が本質的に同一なのかどうかの判断は一般的に関連憲法規定と当該法規定の意味と目的で異なっているが(憲裁1996年12月26日96憲カ18、判例集8-2、680、701;憲裁2001年11月29日99憲マ494、判例集13-2、714、727-728)、未決拘禁日数の本刑算入に関する刑法第57条第1項は未決拘禁状態の拘束被告人に対して訴訟手続上不可避に自由を制約する実質を考慮して、公平の観念上その期間を本刑に算入しうるようにした規定にすぎず、不拘束被告人と異なり拘束被告人を差別扱いしようという目的と内容を含んでいないので、上の2個の比較集団が本質的に同一であるとみることはできないというべきである。
(2) したがって、刑法第57条第1項中「または一部」の部分によって拘束被告人と不拘束被告人の間に恣意的な差別が存在するという多数意見は、本質的に同一でない拘束被告人と不拘束被告人を同一視した誤りがある。
ラ.結論
そうしてみると、刑法第57条第1項中「または一部」の部分が憲法に違反しているということはできない。
7.裁判官チョウ・テヒョンの刑法第57条第1項中「または一部」の部分に対する補充意見
国家は個人が持っている不可侵の基本的人権を確認し、これを最大限保障する義務を負うとともに(憲法第10条後文)、公益のためにやむを得ず国民の基本権を制限する場合にも必要な範囲内で最小限度に止めなければならない(憲法第37条第2項)。特に身体の自由は人間の尊厳と基本権を保障する基盤であるので、最も大切な基本権としてより強力で徹底して保護されなければならない(憲法第12条)。
このような憲法上の原則により、国家刑罰権を行使するために犯罪嫌疑者を拘禁して身体の自由を制限した場合に、有罪判決を宣告する場合には判決宣告前の拘禁日数の全部または一部を本刑に算入するようにし(刑法第57条)、無罪判決が確定したら未決拘禁に対して補償するようにしている(刑事補償法第1条)。このような制度は、国家刑罰権を行使するために犯罪嫌疑者を拘束する必要がある場合にも、拘束による基本権侵害の程度を最小限度に止めるようにするために未決拘禁期間を刑罰期間に算入したり補償するように規定したものである。
したがって、国家刑罰権の行使のために国民の身体の自由を拘束する必要がある場合にも、その拘束期間を刑期に算入しなかったり、補償しなければ、「基本権制限が必要な場合にもその制限は最小限に止めなければならない」という憲法第37条第2項の原則を遵守できないことになる。もちろん未決拘禁期間を刑罰期間に算入して身体拘束による基本権侵害の程度を最小化させる措置も憲法第37条第2項により制限されうるが、その制限事由は身体の自由よりもっと重要な価値のために必要な場合でなければならず、その場合にも最小限度の制限に止めなければならない。
ところで刑法第57条は未決拘禁日数の一部のみ算入することができる事由に関していかなる規定もしないまま裁判官の裁量に委ねているので、憲法第37条第2項に違反するといわざるをえない。
8.裁判官キム・チョンデ、裁判官モク・ヨンジュンの性暴法第5条第2項部分に対する反対意見
われわれは多数意見と異なり、性暴法第5条第2項部分が憲法に違反すると判断するので、次のとおり意見を明らかにする。
カ.刑罰の限界
我が憲法第10条は「すべての国民は人間としての尊厳と価値を有するとともに、幸福を追求する権利を有する。国家は個人が有する不可侵の基本的人権を確認しこれを保障する義務を負う」と宣言している。それゆえ国家作用である刑罰も人間としての尊厳と価値を保障する範囲内で行使されなければならないところ、このために「責任なくしては刑罰を受けない」という責任原則に拘束され、刑罰は必要な範囲内で最後・補充的に発動されなければならず、実効性を超える過重な刑罰が賦課されてはならない。
一方、刑罰についての法定刑の種類と範囲が立法裁量に属するとしても、このような立法裁量は上のような限界を超えて基本権の本質的内容を侵害することができないのであるから、法定刑の種類と範囲を定めるときには憲法第10条による内在的限界以外にも憲法第37条第2項が規定している過剰立法禁止の精神により合理的範囲の法定刑を設定して実質的法治国家の原理を具現するようにし、刑罰が罪質と責任に相応するように適切な比例性を守らなければならず、憲法第11条の実質的平等の原則に符合しなければならない。このような要求は特別刑罰法のように重罰主義で対処する必要性が認められる場合といえども異なるところではない(憲裁2006年4月27日2006憲カ5、判例集18-1、491、497参照)。
ナ.刑罰の体系の正当性および平等原則の違背
(1) 基本法である刑法に規定されている具体的な法定刑は個別的な保護法益に対する統一的な価値体系を表現しているとみるべきであり、このような価値判断は特別な事情変更がない限り尊重されなければならない。我が刑法上、強姦罪の法定刑は3年以上の有期懲役であるのに比して(刑法第297条)、強制わいせつ罪の法定刑は10年以下の懲役または1,500万ウォン以下の罰金であるところ(刑法第298条)、このように刑法は両罪の保護法益、一般人の法感情および刑事政策的側面などを考慮して、強姦罪の不法の程度と非難可能性が強制わいせつ罪のそれよりはるかに大きく高いという前提から強姦罪の法定刑を強制わいせつ罪の法定刑より著しく高く設定している。これに反して、性暴法第5条第2項は強姦罪と強制わいせつ罪が単に特殊強盗罪(刑法第334条)と結合したという理由だけで、罪質と犯情が大きく異なる特殊強盗強姦罪と特殊強盗強制わいせつ罪に対して同一の法定刑を規定するとともに、それも法定刑の下限を「10年以上の懲役」と過度に高くしている。
(2) さらに性暴法第5条第2項部分は特殊強盗の罪を犯した者が「強制わいせつ」の犯行さえすれば一律的に「死刑・無期または10年以上の懲役」に処するようにしており、夜間に人の住居、管理する建造物、船舶もしくは航空機または占有する部屋に侵入したり、凶器を携帯したり、または2人以上が合同して強盗の罪を犯した者が「強制わいせつ」の犯行さえすれば、たとえ特殊強盗が未遂に止まったとしてもそお法定刑は死刑・無期または10年以上の懲役になる半面、性暴法第6条第2項は凶器その他危険な物を携帯したり、2人以上が合同して強制わいせつの罪を犯した者は3年以上の有期懲役に処するように規定している。
このように凶器その他危険な物を携帯したり、2人以上が合同して強制わいせつの罪を犯した場合に、当時の財物強取の犯意があるかどうかにより法定刑の間に厳格な差異が発生することになる。すなわち、裁判官が量刑をするにあたって、後者の場合、酌量減刑をしなくても執行猶予までも可能であるのに、前者の場合には法定刑に「死刑・無期懲役」があるのみならず、他の法律上の減軽事由がない限り酌量減刑をしても執行猶予が不可能となるはなはだしい差異があることになる。
しかし行為の不法性と可罰性において、後者が前者より上のような偏差を正当化するほど軽いとみることは難しく、特に前者において特殊強盗が未遂に止まった場合には後者の犯行とほとんど差異がないところ、その罪質および法益侵害の程度を考慮すると、両者の差異が合理的だとは考えがたい。
(3) 多数意見は、強制わいせつが強姦の場合より罪質が悪く、被害が重大な場合もいくらでもありうるとし、通常のわいせつ行為といっても、犯行の動機と犯行当時の状況および保護法益に対する侵害の程度などを考慮すると、強姦より重く処罰したり、少なくとも同一に処罰すべき必要がある場合も実務上よくあるので、立法者が性暴法第5条第2項部分で特殊強盗強制わいせつ罪と特殊強盗強姦罪の法定刑を同一に定めたことには合理的な理由があるという。
しかしある犯罪に対する法定刑は当該犯罪の一般的な罪質と保護法益により上限と下限が定められ、裁判官はその構成要件に該当する犯罪に対して上の範囲内で罪質と犯情等の諸条件を考慮して量刑を定めることになるのである。それゆえ、ある犯罪に対する法定刑が刑罰の体系の正当性に反して過度であるかどうかは、法定刑の上限と下限によって定められる量刑範囲がその構成要件に該当する態様の犯罪をすべて包容しうるかどうかによって決定され、ある犯罪に対する法定刑が平等原則に反して他の犯罪に対するそれよりあまりに高いかどうかは一般的な罪質と保護法益を基準として判断されなければならない。
ところで、刑法上、強制わいせつ行為と認められる行為類型はその範囲が極めて広いので、強姦に劣らない不法性を持った行為(例えば肛門性交、口腔性交または性器に異物質を挿入する行為)も含まれるが、強姦に比して性的自己決定権を侵害する程度がはるかに軽微な場合もまた含まれる。すなわち、強姦罪が成立するためには被害者の抗拒を著しく困難にする程度の暴行・脅迫が必要であるが、強制わいせつ罪は相手方に対して暴行または脅迫を加えて抗拒を困難にした後にわいせつ行為をする場合だけでなく、暴行行為自体がわいせつ行為と認められる場合も含まれており、この場合における暴行は必ずしも相手方の意思を抑圧する程度のものであることを要せず、相手方の意思に反する有形力の行使がある以上、その力の大小強弱を不問とする(大法院2002年4月26日宣告2001ト2417判決参照)。強制わいせつ罪のこのような多様性は刑法上の強制わいせつ罪の規定も予想している。すなわち、刑法上強姦罪の法定刑は3年以上の有期懲役であり、強制わいせつ罪の法定刑は10年以下の懲役または1,500万ウォン以下の罰金であるのに、これはまさに強制わいせつ罪の場合、強姦罪に劣らず不法性が重い場合があることを反映すると同時に(すなわち、3年以上10年以下の懲役に処することとして一定の強姦行為と同等に取り扱うことが相当な強制わいせつ行為があることを予定している)、罰金刑に処することで十分な極めて軽微な類型の強制わいせつ行為もまた予定しているのである。
したがって単純に被害者の意思に反して被害者の身体部位を触るなどの行為をした場合、これは刑法上の強制わいせつ罪を構成し、それが特殊強盗罪と結合すると性暴法第5条第2項が適用されて特殊強盗強制わいせつ罪が成立するのであるが、このように罰金刑に相応する程度の軽微な強制わいせつ行為まで強姦と同一に取り扱いうるほど罪質の差異が相対化すると考えることはできないというべきである。
(4) 一方、両者をお互いに同一に考えることができないほどの罪質の差異が出る特殊強盗強制わいせつ罪と特殊強盗強姦罪をお互いに異なって規律するのが立法技術上不可能であるとか、難しいというものでもない。実際に同じ性暴法のうち立法者は、第6条第1項で凶器その他危険な物を携帯したり、2人以上が合同して強姦罪を犯した場合について無期または5年以上の懲役刑を賦課しながら、同条第2項では同じ方法で強制わいせつ罪を犯した場合について3年以上の有期懲役刑を賦課し、強姦と強制わいせつを区分して規律している。
(5) したがって性暴法第5条第2項部分は、法定刑を定めるにあたって「平等なものは平等に、不平等なものは不平等に」という実質的平等原則にそぐわず、刑法体系上の均衡を失った立法形態といわざるをえない。
タ.小結
結局、性暴法第5条第2項部分は、罪質と責任に比例する法定刑を規定しておらず、刑罰の体系の正当性に反し、憲法第11条の実質的平等の原則に符合しないのであるから、憲法に違反するというべきである。

2009年6月25日

裁判長裁判官 イ・カングク
裁判官 イ・コンヒョン
裁判官 チョウ・テヒョン
裁判官 キム・ヒオク
裁判官 キム・チョンデ
裁判官 ミン・ヒョンギ
裁判官 イ・ドンフプ
裁判官 モク・ヨンジュン
裁判官 ソン・トゥファン



plltakano at 23:13コメント(0)トラックバック(0)憲法的刑事手続身体拘束 

2016年07月12日

昨日午後1時30分から102号法廷で控訴審第1回公判が行われました。報道されたとおり、こちらの証人申請はすべて却下され、弁論は終結されました。判決言渡しは9月7日午後1時30分と指定されました。

昨日主任弁護人高野隆が行った弁論は下記のとおりです。
なお、以下の資料も閲覧できます。
*第1審判決はこちら
*控訴趣意書はこちら


【高橋事件控訴審第1回公判における弁護人の弁論】

裁判長、
両倍席裁判官、

私どもが皆さんに判断していただきたいことは本年1月に提出した控訴趣意書の通りです。控訴の趣意は全17項目にわたり、趣意書は160ページを超えるものです。私どもは、皆さんに訴えたいことを厳選して申し上げました。原審の手続とその判断における違法のすべてを取り上げた訳ではありません。この国の刑事司法の運営のあり方として、看過できない、極めて深刻な問題のみを取り上げたつもりです。それはまた、私どもの依頼人高橋克也氏の人生を左右する重大な問題でもあります。

私どもがこの趣意書で取り上げた論点はいずれも皆様の判断を仰ぐにふさわしい重要かつ深刻な論点です。何一つ無駄な記述はありません。そして、そこに書かれていることがすべてです。趣意書には数カ所明らかな誤記がありますが、この弁論で趣意書に何かを付け加えるとか、削るとか、補足することはありません。

この弁論では、皆さんが控訴趣意の内容を調査し判断するうえで留意していただきたい点を数点申し上げるにとどめます。

まず私どもがお願いしたいのは、きちんと応答して欲しいということです。単に結論を示すだけではなく、きちんとした理由を示して頂きたいということです。通り一遍の紋切り型の理由ではなく、われわれが提示した法令や証拠を踏まえた議論に知的に応答して欲しいということです。

これは余りにも当たり前のことですが、私が敢えてここでこうした要望を皆さんに申し上げるには理由があります。

原審の訴訟記録にも現れていますが、原審裁判官と私どもとの間には、こうした知的なやりとりはほとんど全く行われませんでした。麻原彰晃氏や土谷正実氏の証人尋問が本件の争点と密接に関連することについて、公判前整理手続中もそして公判開始後も、弁護人は長文の意見書を提出したり、口頭で意見を述べたりして原審裁判官に訴えました。しかし、原審裁判官は全くなにも理由を述べずに、ただ単に証人申請を却下しました。却下決定に対して、私どもは理由を付して異議を申し立てました。異議を却下するならその理由もきちんと説明して欲しいとも申し上げました。しかし、中里裁判長は一切理由を述べずに、異議を棄却しました。

この不毛なやりとりは原審において何度も繰り返されました。5人の死刑囚の証人尋問に際して遮へい措置を施すこと、平田悟証人の尋問が予定された公判期日を取消し、同じ時刻に裁判所のなかで期日外尋問を行うことなどについて、私どもはそれが裁判公開原則や刑事被告人の公開裁判を受ける権利、証人審問権を侵害し、かつ、法律の定めにも違反することを書面や口頭で述べましたが、原審はこれに一切応答せずに、全くなにも理由を告げないままに、われわれの異議を退けて、遮へい措置や期日外尋問を実施しました。

そればかりではありません。われわれの違憲違法の主張が根拠があることを記録に残そうとするわれわれの活動を、裁判所は阻止しました。遮へい措置が証人自身に与える影響についてわれわれが証人に尋問することを制止しました。そして、遮へい措置が傍聴人の側にどのような影響を与えるのかを検証する申立てついても、これを拒絶しました。

原審裁判所が行ったことは、東京拘置所や検察官の要望に沿う訴訟運営をしたというだけです。なぜそれが必要なのか、なぜそれが憲法や訴訟法の規定に沿った訴訟運営なのか、弁護人の再三にわたる要求にもかかわらず、中里裁判長は一切説明しませんでした。これは民主制の下における裁判官の仕事ぶりとして正しいでしょうか?こうした訴訟運営と、全体主義国家における専断的な刑事裁判の運営と一体どこが違うのでしょうか?

1947年に任命された最初の15人の最高裁判事の一人、小谷勝重判事は、ある大法廷判決に付した個別意見のなかで、こう述べました。

「訴訟法は裁判所の執務の安易や簡便のために設けられているものではない」。

大法廷の法廷意見は、必要的弁護事件の控訴審裁判所が、控訴趣意書提出期限経過後に国選弁護人を選任しても憲法や刑訴法に違反するところはないと言いました。この法廷意見に対して、小谷裁判官は、必要的弁護事件における弁護人の選任は単なる「開廷の要件」ではない;それは被告人が弁護人による実質的な援助を受けるための制度であり、したがって弁護権の行使が可能な時期に選任をしなければ意味がないと言って批判する意見を述べました。

小谷判事のこの言葉は、その文脈を離れて、刑事訴訟手続というものが何のためにあるのかを、改めてわれわれに考えさせるものです。

刑事裁判の手続は、裁判所という役所、裁判官という役人が、その執務を効率的に進めるための便法ではないのです。それは、憲法が予定している公正な裁判を実現するために行われなければならないのです。

拘置所や検察庁の要請にしたがって死刑囚の証人採用を拒否したり、傍聴人と証人との間に分厚い遮蔽を施して証人が一般公衆の目に触れないようにする;それに異を唱える者の意見を黙殺する。そうすれば、手続は表面上波乱なく進み、拘置所との友好関係は維持され、裁判官の役人生活は安泰でしょう。しかし、それによって失われるものは余りにも大きいと言わなければなりません。

わが国の訴訟手続は、憲法と法令に則って行われるべきです。拘置所と検察庁と裁判所のお役所の都合がすべてに優先するというのでは、日本国はもはや法の支配を尊ぶ立憲民主主義の国とは言えないでしょう。

原判決は多くの証拠、証言を無視し、黙殺しました。高橋さんの故意や共謀を否定する方向の証拠を弁護人は最終弁論でるる指摘しました。しかし、原判決はその多くを全く取り上げませんでした。ただ黙殺しました。その一方で、有罪方向の証拠をつなぎあわせ、ときには想像によってこれを補い、最終的には検察官の主張通りの有罪認定を行いました。

原判決が黙殺した証拠の内容は控訴趣意書に書いたとおりです。一つだけ取り上げます。

原審に現れた証拠によれば、オウム真理教において「ワーク」と呼ばれる修業に従事する出家信者同士が行うコミュニケーションには際立った特徴がありました。それは、自分のワークが他の信者や教団との関係でどのような意味をもつのかについて、信者は関心がなく、むしろ関心をもつことを禁じられていたということです。例えば、運転のワークをする出家信者は、何時どこで誰を車に乗せてどこまで乗せていくのか、についてだけ関心を持ち、その人物が目的地で何をするのかについて一切関心を持たないということです。まるでタクシー運転手のように、そうしたことにコミットしないように訓練されていたということです。

出家信者の間のこうしたコミュニケーションの特徴は、原審に専門家証人として登場したオウム真理教研究者たちが異口同音に述べています。それだけではありません。検察側証人として登場した元信者たちも一致して証言していました。教団と縁を切って20年経過した現在でもその影響から抜け切れていないという証人もいました。

研究者の証言によれば、このコミュニケーションの特殊性は、偶然ではなく、オウム真理教の教義の中核部分に関係するものです。それは必然的で根深いものです。

すなわち、合法的なものであれ非合法なものであれ、「ワーク」は出家信者がその修業のステージを上り詰めるために、絶対的な存在である尊師麻原彰晃から直接的に与えられた宗教上の課題である;チベット密教と同様に、オウム真理教においては、修業はすべてグルと弟子の一対一の関係で行われるのであって、その間に第三者が介在することは許されない;したがって、他の信者がどのような課題=ワークを与えられているのかは一切関与するべきではなく、関与することは許されない。そういうことです。

控訴趣意書のなかで指摘したように、さまざまな分野の専門家がこのことを指摘しました。また、様々な立場の出家信者や最高幹部と言われた人たちも、異口同音にこれを指摘しました。このコミュニケーションの問題は、本件における高橋克也さんの故意や共謀の成否を考えるうえで非常に重要な事実であることは疑問の余地がありません。ところが、原判決はこの問題をほとんど全く検討しませんでした。

これはほんの一例に過ぎません。原判決は実に様々な証拠を黙殺しています。

どうか、皆さんは、そうした不誠実な態度をとらないで下さい。証拠を黙殺なさらないようにお願いします。仮に結論が私どものそれと異なったとしても、証拠を無視してその結論を導くのではなく、その証拠を細心の注意を払って検討した上でもなお、私ども弁護人の主張が成り立たない所以を私どもが納得できるようにご説明下さい。お願いします。

われわれ普通の日本人は、オウム真理教とその幹部たち、そして彼らが起こした事件について、なにひとつ証拠を見なくても、既に一定の具体的なイメージを持っています。世代によっては、20年前のあの出来事についてそれぞれの物語を語ることもできるでしょう。その物語の中に、一連のテロ事件の犯人のなかで逃亡を続けていた出家信者として、高橋さんが登場することでしょう。

こうしたイメージ、物語を完全に払拭して、白紙の状態で裁判の証拠に向き合うことは、ほとんど不可能かもしれません。われわれ全員にとってこの事件は既に歴史の一部です。われわれはみなこの事件について拭いがたいバイアス、予断を抱いているのです。

しかし、刑事裁判というものに意味があるとすれば、どんなに世間が予断に満ちていようとも、世間はとっくの昔に被告人を断罪していようとも、少なくとも事実認定者は、証拠に基づき、証拠のみによって、ゼロから被告人が有罪か無罪かを決定するべきであるということです。

原審の公判審理を通じて、オウム事件をめぐる歴史的な定説とは異なる証拠が幾つも登場しました。原審の裁判官も裁判員もそれらを無視することはできませんでした。しかし、甚だ残念なことに、彼らは自らの歴史的な予断を乗り越えることはできませんでした。証拠が歴史に反することを感じながらも、証拠に基づかない推論や想像によって、事実を歪曲してしまいました。いくつかの例を上げます。

われわれはみなこの裁判がはじまるずっと前から「ポア」という言葉を知っていました。オウムの出家信者の間では「ポア」という言葉は、「殺人」を意味する隠語として使われていたのだと思っていました。

しかし、原審の公判に現れた証拠によって次の事実が明らかになりました。――「ポア」は、チベット密教の修業の一つであり、死後により高い転生をえるための技法である;麻原彰晃もその説法のなかで「ポア」の意味をそうした宗教用語として使っていた;説法のなかで悪業を積む人を殺害することが宗教上「ポア」となる可能性を示唆する発言があったが、信者はそれを一つの宗教的なたとえ話と理解していた;麻原と最高幹部の間で殺人の隠語として「ポア」が使われることがあったが、それはごく限られた人たちの間でのことだった;高橋さんが「ポア」という言葉を殺人を意味する言葉として使っているのを聞いた人はいないし、彼にそれを説明した人もない。

こうした証拠関係を冷静に見つめるならば、「誰々をポアする」という麻原の計画が高橋さんに伝えられたとして、高橋さんがそれを殺人計画であると理解したということは、簡単には認定できないはずです。

ところが、原判決は、こうした証拠を全く無視して、ポアは「客観的には殺人に当たる行為をすることを意味するものとしても用いられていた」「このことを被告人も認識していた」などと実にあっさりと断定してしまいました。一体どこに、麻原が説法の中でポアを殺人を意味する言葉として使っていたという証拠があるんでしょうか。そのことを高橋さんが理解していたという証拠がどこにあるんでしょうか。

假谷事件では実行犯たちは假谷清志さんを麻酔薬を使って眠らせて拉致することを共謀し、彼は麻酔薬の副作用で亡くなったというのが、定説です。

しかし、原審の公判ではこの定説に反する証拠が沢山登場しました。そもそも、高橋さんに麻酔薬の使用を説明した人は一人もいませんでした。高橋さんは、「信者の居場所を知っている人を上九一色村の教団施設に連れて行くのを手伝って欲しい。ワゴン車に押しこむのを手伝って欲しい」と言われただけです。そして、上九一色村で中川が林郁夫から假谷さんの監視を引き継ぐ段階では、假谷さんは麻酔薬の影響から脱していて、その副作用によって亡くなるような危険はなかったという林郁夫の明確な証言がありました。

原判決はこうした証拠を深刻に受け止めませんでした。

電話をするために15分間假谷さんのそばを離れている間に假谷さんが亡くなったという、全く何の裏付けもない中川の証言のみによって、假谷さんは麻酔薬の副作用で亡くなったのだと認定しました。

そのうえで、麻酔薬を使うかどうかは、逮捕監禁の手段に過ぎず、犯罪の主要部分(骨格)ではないから、假谷さんを拉致することについて知っていた以上、高橋さんは逮捕監禁致死罪の正犯として責任を負うのだと断定しました。

しかし、車に押し込むとしか知らされていない人に、麻酔薬を使った逮捕監禁罪の共謀まで認めるというのは、われわれの常識に反するのではないでしょうか。しかも、麻酔薬で亡くなったことの責任まで負わせるというのは、さらに非常識ではないでしょうか。

犯罪の手段は「骨格」ではないという原判決の基準をそのまま適用すれば、たとえば、「あいつ気に食わないから、ちょっと懲らしめてやろう。焼きを入れてやろう」と言われて、1,2発ビンタする程度だと思って、これに賛同した人は、実行犯が鉄パイプで被害者の頭を殴り、被害者が脳挫傷で亡くなったことについても、正犯として責任を負わなければなりません。それは刑法の正しい解釈と言えますか。

われわれの歴史の中にある「地下鉄サリン事件」では、麻原彰晃や村井秀夫から指示された井上嘉浩が今川の家や渋谷ホームズで、実行犯や運転手役に向けて「地下鉄にサリンを撒く」という計画を告げた;実行犯はもちろん運転手役も地下鉄に猛毒のサリンを撒くというテロ計画を明確に認識して犯行に及んだということになっています。

検察官も起訴状にそう書き、証明予定事実記載書でその詳細な経過を書き、そして、公判開始後の冒頭陳述でそう説明しました。しかし、証拠はこれとぜんぜん違う事実を指し示しました。

今川の家でも渋谷ホームズでも「サリンを撒く」ということを誰も告げていないという事実が浮上してきたのです。つまり、高橋さんは地下鉄にサリンが撒かれるということを誰からも知らされませんでした。地下鉄に何かを撒くということは理解しましたが、それが何かは知らされていなかったのです。

ところが、原判決は、高橋さんがサリンを撒くことを知らされていなかったことを認めながら、「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」を撒くことは想像できたはずだと認定しました。

これは公正な裁判といえるでしょうか?本件の争点は高橋さんが「サリンを撒く」という説明を井上から受けていたかどうかでした。検察側の立証は完全に崩壊しました。高橋さんは誰からも「サリンを撒く」という説明を受けていなかったのです。だとしたら高橋さんは無罪でなければおかしいでしょう。

誰もそれまで言ってなかった「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」などという得体の知れない物質を創造して有罪にするというのは、「後出しじゃんけん」と同じように卑怯なやり方ではないでしょうか。

「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」ってそもそも何でしょうか。豊田亨を車に乗せて中目黒駅に向かう直前に渋谷ホームズで高橋さんが見たもののことでしょうか。それは透明なビニール袋に入った茶色い液体でした。実行犯たちはみなそれを素手で掴んでいました。内側の袋が破れているものもありました。その様子を見てそれが「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」だと思う人がこの世界に一体何人いるでしょうか。

都庁事件は都知事や都庁に勤務する人々の無差別殺人を狙った爆弾テロ事件だというのが、われわれの歴史上の定説です。しかし、ここでもそれと異なる証拠が公判で登場しました。

この事件の計画をした最高幹部たち――井上、中川、林泰男、豊田亨――は誰ひとりとして、人を殺すことを考えていませんでした。麻原からの指示――いわゆる「有能神メッセージ」――にも殺人は含まれていませんでした。

そして、さらに、中川が作ったRDXはわずか10グラムでした。爆発物の人体への影響を長年にわたって研究している専門家は、この量では、とたえ人体の至近距離で爆発したとしても人は死なないと証言しました。

そして、起爆装置を作った高橋さんは爆薬の中に鉛玉を入れることに反対し入れませんでした。

こうした証拠を常識にしたがって判断するならば、この事件はそもそも殺人事件ではなかったというべきでしょう。しかし、原判決は、麻原の「有能神メッセージ」から「人の殺傷の可能性をも想定したそれなりに大きな事件」を「容易に想像できたはず」だと言って、高橋さんを殺人未遂罪で有罪としてしまいました。誰も証言していない、「想像できたはずだ」という、文字通り「想像」によって殺意が肯定されてしまったのです。

確かに、われわれは予断を持って生活しています。普段の生活のなかで何かを決めるときに、厳密に証拠を求めることなどしないでしょう。オウム真理教の事件を雑談のテーマにするのであれば、本やネットに書いてあることを喋っても何も害はないかもしれません。

しかし、刑事裁判でそれは許されないはずです。高橋克也という一人の男性がこれから先一生刑務所で過ごさなければならないかどうかという極めて重大な決定をするのです。そのために公開の法廷で厳粛な手続で証人尋問が行われるのです。

事実認定者はそうして登場した証拠に忠実に従う義務があるはずです。たとえ、それが歴史の定説に反していようと、それまで信じて疑わなかったことと異なっていようと、事実認定者は証拠を離れて、想像や思い込みで事実認定をすることは許されません。まして、それを無視することなどあってはならないことです。

裁判がはじまる前から結論が決まっているなら、それは裁判ではありません。ただのリンチです。

ありがとうございました。



plltakano at 11:18コメント(0)トラックバック(0)高橋事件刑事裁判 

2016年04月26日

公判前整理手続がむやみに長くなる原因を整理しておこう。それとともに、その原因を取り除いて手続を短縮し、充実した公判を早期に開始するための方策を考えてみたい。

「間接事実の交換」

検察官が詳細な間接事実の主張を行う;弁護側がそれに対する認否や反論をする;それを踏まえて検察官がさらに書面で反論をする、というような、民事の準備書面の交換に類比される「間接事実の交換」を繰り返すことが、公判前整理手続を長期化させる最も大きな原因の一つである。そもそも、法はそうしたことを要求しておらず、これが公判を形骸化させ、裁判員と裁判官との間の情報格差、裁判官による裁判員の誘導の原因となっていることはすでに述べたとおりである。

刑事訴訟規則193条1項は「検察官は、まず、事件の審判に必要と認めるすべての証拠の取調を請求しなければならない」と定めている。また、刑事訴訟法は、裁判所は検察官の証明予定事実記載書と証拠請求の期限を定めるものとし(316条の13第4項)、同規則はその期限の遵守義務を定めている(217条の22)。しかし、これらの規制は事実上死文と化している。裁判所は、公判前整理手続に付する決定をするのと同じ頃に、検察官に対して、法にしたがって証明予定事実記載書の提出と証拠調べ請求をする期限を指定はする。しかし、この期限は検察官の主張と証拠請求のタイムリミットとしての機能を全く果たしていない。なぜなら、この期限はあくまでも検察官が「最初の」証明予定事実記載書と証拠調べ請求をする「期限」の意味しかなく、そのあとでも検察官は第2、第3の証明予定事実や証拠の請求ができると理解されているからである。

検察官は、「弁護人の主張を見なければ、争点が明らかではなく、十分な主張立証はできない」などと言う。弁護人が正当防衛とか心神喪失というような積極抗弁(affirmative defense)を主張する場合は、確かに、弁護人の主張と証拠提出を待たなければ検察側の有罪立証は困難であると言える。しかし、訴因の成否だけが問題となるケースでは、検察官は弁護側の主張がどのようなものであれ、訴因を構成するすべての事実を合理的な疑問を超える程度まで立証しなければならないのである。そして、検察官は捜査の過程を通じその強制権限を駆使して、有罪立証に必要な証拠を収集できるはずであり、それができたと考えたから起訴したのである。起訴と同時に、訴因の組み立てに必要な事実関係を主張し、その立証に必要な全ての証拠の取調べを請求することは容易にできるはずである。弁護人の主張立証を待たなければこれができないという理由は全然ない。

書面による「間接事実」の交換をむやみに繰り返させないためには、まず、刑訴法と刑訴規則による期間制限を厳格に適用する必要がある。裁判所が設定した期限のあとに検察官が証明予定事実記載書や証拠調べ請求を追加提出しようとするときは、裁判所が設定した期日まで提出できなかったことがやむを得ないと言える事情がある場合でなければならないであろう。

弁護側が主張明示義務を負うのは、積極抗弁を提出する場合だけであり、訴因事実について「認否」や「反論」を予め主張する義務はないということを三者が理解していれば、「間接事実」を巡っていつまでも書面のやり取りを続けることはなくなるはずである。積極抗弁を提出しない場合、弁護側は検察側立証に対する反証をするための証拠調べ請求だけをすれば良い。そのために予定主張記載書を提出する必要はない。証拠の関連性が分かる程度の立証趣旨を記載した証拠調べ請求を行えば足りるのである。

そもそも、検察官の証明予定事実記載書は必要なんだろうか?わが国の刑事裁判においては、検察官による訴追内容すなわち裁判の対象は「訴因」に明示されるのである。訴因はそれ自体において明確でなければならないのである(刑訴法256条3項)。訴因を明確にするために、その背景事情を説明する必要はないし、むしろ、法はそれを禁じているのである。すなわち、「起訴状には、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用してはならない」のである(同条6項)。

公判が開始される前に、請求証拠との関係を「具体的に明示」しながら(刑訴規則217条の20)、訴因を立証する「間接事実」(情況証拠)を主張するというのは、起訴状とともに証拠の抜粋を裁判官に交付しているのとほとんど同じことである。経験を積んだ裁判官であれば、こうした証明予定事実記載書を読めば、検察官がどのような証拠を持っており、その立証活動がどのように展開するのかを手に取るように理解できるであろう。要するに、証明予定事実記載書は裁判官に事実について予断を与える文書に他ならないのである。

検察官が取調べ請求する証拠の関連性を判断するために証明予定事実記載書が必要だということもない。証拠調べ請求をするときには、その証拠の立証趣旨を明示することが必要であり(刑訴規則189条1項)、それで十分である。実際のところ、平成16年の刑訴法改正まではわれわれはそうしてきたし、公判前整理手続が行われない事件ではいまでもわれわれはそうしているのである。

証明予定事実記載書は裁判員のためには全く役に立たない。裁判員は公判前整理手続が終わった後に登場するのである。そして、彼らはそれを読まない。そうすると、結局のところ、検察官の証明予定事実記載書は、裁判官に事件についての予断を与え、彼らが検察の立証の展開を予測する手助けをするだけである。全くそうした情報を持たない裁判員とこうした情報をふんだんに得られる裁判官との間の情報格差は、ほとんど絶対的と言って良い。こうした絶対的な情報の非対称性を温存したまま、「意見の重みは同じです」などと言ってみたところで、裁判官と裁判員との間で平等かつ公正な評議ができるだろうか。できるわけがない。しかも、職業裁判官は当事者双方に「証拠の厳選」を要求し(刑訴規則189条の2)、あとから来た裁判員たちが見聞できる証拠の量を極力少ないものにしようとしている。情報格差は広がるばかりである。

検察官に証明予定事実記載書を提出させる法律は一刻も早く廃止されるべきである。法改正が行われるまでわれわれにできることはなんだろうか。まず、裁判官に予断を与える危険性が高い書面――例えば、証拠の内容を引用しているあるいは引用と変わらないような記載に対しては、異議を申立て削除させることである。それから、認否や反論、求釈明などをしないことである。そうした反応をすることで、裁判官はますます予断をもつことが可能となるからである。認否や反論は法的な義務ではない、ということを肝に命じて、裁判官の理不尽な要求を跳ね返すべきである。

証拠開示までの時間

現行法上弁護側は検察官の証拠調べ請求を待たなければ証拠開示請求をすることができない(刑訴法316条の15第1項)。検察官が証拠調べ請求をするのは、起訴から2、3週間後であることが多い。ときには「証拠の整理に時間が掛かる」などと言って、1ヶ月も2ヶ月も証拠調べ請求をしないことがある。弁護側はその間ただ待つだけである。検察官によっては、「任意開示」をしてくる場合もあるが、全証拠を開示するわけではなく、証拠のリストの開示も行われない。現在国会で審議中の刑訴法改正案では、弁護人の請求によって「検察官が保管する証拠の一覧表」の交付が行われることになっている。しかし、それができるのは、やはり、検察官が証拠調べ請求をした後である。

検察官は起訴の段階で全証拠の内容を把握しているはずであり、当然に、全証拠のリストを持っているはずである。そうでなければ、証拠を管理することもできないだろう。起訴と同時に証拠のリストを弁護人に交付することは簡単にできるだろう。「任意開示」というならば、むしろ任意の証拠リストの開示を行うべきである。起訴から間がない段階で全証拠のリストの開示を受け、適宜その中から必要な証拠を閲覧することができるならば、弁護側は早い段階で――検察官による証明予定事実記載書の提出や証拠請求が行われるのを待つまでもなく――訴因に対する態度――有罪を認めるのか、無罪を主張するのか――を決定することができる。訴因に対する態度決定こそが本来の意味の「争点の整理」である。これがいち早く行なわれ、後述するように、自白事件の審理を迅速に進める方策をとるならば、否認事件も含めて、公判前整理手続の期間は大幅に短縮されることになるだろう。

書証を請求すること

ほとんど全ての事件で、検察官は、間接事実の主張を伴う証明予定事実記載書とともに、その全事実関係と情状関係を証明する証拠書類の取調べを請求する。しかし、それらがそのまま採用されるケースは殆どない。否認事件では多くの証拠書類の取調べに弁護人は同意しない。証拠書類は基本的に伝聞証拠であるから、弁護人が取調べに同意しない限り証拠にはならない。その結果、検察官はあらためて、その供述者の証人尋問を請求することになる。この間のやり取りだけで数ヶ月の時間が経過してしまう。

自白事件でも、裁判員裁判では、最終的には証人尋問を主体とする立証が行われるのであり、検察官が最初に請求した書証がそのまま公判で採用されることはそれほど多くない。ここでも最初の証拠請求の段階で証人尋問の請求をしておけば、時間を短縮することができるのである。

最初の証拠請求の段階から人証中心にするためには、起訴後の早い段階で、自白事件なのか否認事件なのかという選別を行うことが不可欠である。そのためには、起訴から間がない時期に十分な証拠の開示が行われ、「否認」なのか「自白」なのかの選別だけを行うための期日(罪状認否期日)を開く必要があるだろう。

統合捜査報告書の作成

裁判官は、弁護人に対して、自白事件でも否認事件でも、検察官請求の書証の一部に同意するように迫る。これが不当なことは既に述べたとおりである。裁判員裁判では、こうして同意された書証をそのまま採用するのではなく、検察官がそれらを検察官作成の報告書――「統合捜査報告書」と言う――にまとめ、それを証拠として採用し、オリジナルの書証は撤回するという運用が多い。これにも時間がかかる。

統合捜査報告書は当事者の一方である検察官が作成する書類である。実質的にも形式的にも、それは検察官の主張するところをなぞったものとなる。現在の実務では、検察官は冒頭陳述を行う際に、事案の概要や検察官の立証の概要を書いたA3サイズの書面を提出する。その後に検察官が提出して取調べられる「統合捜査報告書」は、このA3の書面と形式的にも内容的にもマッチしたものになっていることが多い。その朗読を聞かされ、書面を見た裁判員は、検察官が捜査を行い、それが正しかったのだという経験を繰り返すことになる。統合捜査報告書の内容が、実は、弁護人と検察官の合意した事項なのだという実質はどこにも現れず、裁判員はそれを理解できないまま審理をすすめることになる。

検察官が作る捜査報告書に弁護側が同意するという実務はやめるべきである。争いのない事実関係は、多くの場合、弁護側の主張立証にとっても有用な事項である。そうであれば、検察官と弁護人が協議して合意書面を作成し、それを証拠として採用する(刑訴法327条)という方策が採れる。その方が公正であり、実態を反映した証拠と言える。書証の請求→一部同意→統合捜査報告書の作成→同意というプロセスを回避して、最初から供述関係は人証を請求し、現場の客観的な状況を示す見取図や写真、あるいは、電話やEメールの通信記録、銀行の送金記録、身分関係などについては、双方の協議で合意書面を作成する、ということにすれば、時間の大幅な節約になるだろう。

公訴事実に争いがない事件では、公訴事実の内容を1通の合意書面に作成して、この合意書面のみで有罪立証することができる。このことに法的な問題は何もない。被告人の自白や有罪の自認(有罪答弁)だけで有罪を宣告するわけではないから(刑訴法319条2項3項)、これは完全に適法な手続である。これによって、公判前整理手続も公判自体も大幅に短縮される。そして、公判では本来の「争点」である量刑に関する事実認定のための証拠調べに焦点をあてることができる。

裁判官の不足・1-4制公判の不活用

刑事裁判の公判は本来連続的に行われるべきものである(刑事訴訟法281条の6)。一度開始したら判決言渡しまで連続して行われなければならない。治罪法(1880年)では公判が5日間以上中断したときは裁判のやり直し(更新)が必要であった(268条2項)。明治刑訴法(1890年)も同じである(183条2項)。大正刑訴法(1922年)ではこの期間は15日間に延長された(353条)。戦後の刑訴法は、公判期日の間隔の日数制限を削除した。政府委員は「今後の訴訟手続は、迅速な裁判という趣旨に基きまして、どんどんと行われるということも考え」て、この規定を削ったのだと説明した((参議院司法委員会会議録45号4頁)。ところが、事態は全く逆の方向に行ってしまったのである。

この「ガラパゴス的進化」にともなって、現在の裁判所の人的体制そのものが「連続開廷」を困難なものにしてしまった。裁判官が一つの事件の公判に集中的に取り組むことがそもそも難しくなってしまったのである。そして、これが公判前整理手続の長期化に大きく寄与しているのである。裁判所の合議部は、通常数十件以上の事件を抱えている。複数の裁判員裁判の公判前整理手続が併行して進んでいることも珍しくない。そして、合議部を構成する3人の裁判官のうち2人(裁判長と右陪席)は合議事件の他に、それと同じ数あるいはそれ以上の数の単独事件を持っている。

裁判員裁判は連日開廷することが他の事件よりも強く要請される。したがって、公判前整理手続の過程で、裁判員事件の審理に見込まれる期間――1週間とか2週間とか――の日程を予め抑えておく必要がある。別の事件の公判予定がすでに入っているので、1週間や2週間の連日開廷日を確保できるのは数カ月以上先である。そして、裁判官は、他の事件も出来るだけ早く処理したいと考えている。だから、本来であれば週5日連日開廷すべきところを、3日とか4日に限定して、空いた日に別の事件の公判期日を入れるのである。

裁判官は「週5日開廷したら、裁判員が疲れる」とか「裁判員も他の仕事がある」などという言い訳をしているが、これは実態に反する見苦しいいい訳である。「裁判員の負担」を口実に自分たちの仕事を効率的に処理したいだけである。普通の大人の市民(会社員、経営者、家庭人、学生)にとって、週に3日、一日おきに3週間拘束されるよりも、9日連続で(1週間と4日)仕事に集中して早く開放される方が望ましいことは常識である。そして、多くの市民は裁判員という職責を真剣に考えている。彼らはそれに集中したいと考えている。1日おきに証言を聞くより、毎日証言を聞くほうが証言の内容を鮮明に記憶することができ、事件の真相をより深く理解できるに違いない。

現在の事態を根本的に改善するためには裁判迅速化法が言うように「法曹人口の大幅な増加、裁判所***の人的体制の拡充」が必要なのかもしれない(裁判迅速化法2条2項)。しかし、現在の体制を前提にしても幾つかの改善策がありうる。一つは先程述べた、自白事件と否認事件の選別を早期に行い、合意書面を活用して自白事件の審理時間を大幅に短縮することである。

もう1つは、現在全く死文と化している、裁判官1名・裁判員4名による公判(裁判員法2条3項)を活用することである。自白事件のうち量刑に関する事実関係についても争いがあまりない事件については、この裁判官1名・裁判員4名の合議体(「1・4制」)で審理をすべきである。例えば、午前中に裁判員の選任から証人尋問と論告弁論までを行い、午後に評議と判決言渡しまでを行うということも不可能ではない。いずれにしても、1・4制による公判を行うことを法は予定していたのであるから、裁判所にはこの制度を使う責任があるはずである。

裁判員裁判の半数以上を占める自白事件の審理が1・4制によって処理されることのメリットは、裁判官の人員配置という点でも、非常に大きいと思う。例えば、3人の合議部に10件の裁判員裁判が係属しおり、そのうち5件が1・4制適合事件だとすると、裁判長と右陪席がこの5件を手分けして1週間で処理すれば、残り5件の否認ないし複雑な事件だけを3人で処理すれば済む。このメリットを最大限に活かすには、一つの合議部に4人の裁判官を配置して、そのうちの1人は1・4制の裁判を専属的に扱うというローテーションを組むことである。

詳細な審理予定の策定

裁判員裁判を担当する裁判官はとにかく詳細な審理予定を定めたがる。双方の冒頭陳述の時間から、書証や証拠物の取調べ時間、証人に対する主尋問、反対尋問、補充尋問の時間、最終弁論の時間まで、そしてさらに、評議の時間まで、分刻みで決めようとする。こうした詳細を極めた審理予定を作るために、当事者に細かい認否をさせたり、証拠の立証趣旨を細かく釈明したりする。要するに、事件の心証が採れるくらいでなければ、詳細で正確な審理予定など作れないのである。いずれにしても、当事者の意向を確認し、調整しながら、こうした予定を作るために何週間もの時間をかけるのである。

そして、公判ではこの予め定められたシナリオのとおりに手続が進行することを極力確保しようとする。弁護人の弁論が予定時間に近づくにつれて裁判長は苛立ちを隠さず、法廷の時計を凝視する。ストップウォッチを弁護人に向けて差し出すしぐさをした裁判長もいた。こうした極端なまでの「事前準備主義」とその「励行」が公判前整理手続の肥大化と公判の形骸化をもたらす元凶の一つであることはすでに述べたとおりである。

予定は予定であり予定に過ぎないのである。公判を真に生き生きとした実体審理の場にするためには、訴訟関係人がその場で思うとことを心置きなく主張し、かつ、その証明を行う機会を十分に与えられるべきである。その場ですべてを出さないかぎり後がないという「一回性」の緊張感のなかで、臨機応変に口頭での法廷技術を駆使できるようにしなければならない。「時刻表」から外れることは許さないというような状態ではそうした審理は期待できない。予定よりも尋問が延びたとしても、その尋問が関連性のあるものであるならば、それを許さなければならない。弁論が予定の時刻を過ぎても、裁判員がそれを熱心に聞いており、それが聞くに値する内容であるならば、それを遮る理由はない。これを遮ることは不当な弁論制限である。現代の日本の裁判官に、多少の逸脱や回り道を許容するいわば「大人」のゆとりや寛容の精神と呼べるものを期待することはほとんど不可能であるとしても、証拠法上の関連性の法則に従い、憲法上の弁護権を保障する職責があることは否定できないのである。

審理予定は分刻みで決めるべきではない。ざっくりと決めるべきである。例えば、証人尋問の時間は日にち単位あるいはせいぜい午前か午後かという範囲で決めるべきである。時には複数日にわたる予定を決めて、証人にはその両日の日程を確保することを要求するべきである。証人の出頭義務や証言義務は、憲法体制のもとにおける統治機構を支える根本的な義務である。それと当時に、それは個人の基本的権利である正義と自由を実効的に保障するために必須の義務なのである。日本の裁判所は国民に対して証人としての義務が、この国が自由で秩序ある国であるために必要不可欠な崇高な義務であることをきちんと説明するべきである。

公判日程はおおむねの期間として指定され、裁判員予定者に告知されるべきである。判決宣告日すなわち評議時間をあらかじめ決めることは、許されるべきではない。評議のプロセスは裁判官と対等の事実認定者である裁判員が協議して決めらなければならない。

あるべき公判前整理手続のイメージ

以上のことを踏まえて、あるべき公判前整理手続の流れを提案したい。

1 起訴と同時に検察官は手持ち証拠の一覧表を弁護人に交付する。
2 弁護人は一覧表の中から訴因に対する態度決定をするのに必要と思われる証拠の開示を検察官に要求し、検察官はそれを開示する。
3 裁判所は起訴から2〜3週間程度の後に罪状認否のための公判前整理手続期日を指定する。この期日は必ず公開法廷で行い、被告人は必ず出席する。
4 罪状認否期日において、裁判所は被告人と弁護人に訴因に対する答弁を求める。答弁は、1)有罪、2)無罪、そして、3)沈黙あるいは留保の3種類とする。
5 被告人と弁護人が有罪を自認したときは、
(1)検察官と弁護人は、訴因の内容が関係証拠から真実であると認められる旨を記載した合意書面を作成する。
(2)裁判所は、合意書面の採用決定と、事件を裁判官1名・裁判員4名の合議体で審理する旨の決定を行い、双方の意見を聞いたうえで、双方が量刑に関する証拠調べ請求を行う期限を決定し告知する。
(3)検察官、弁護人双方とも、できる限り証人尋問の請求を行い、書証の請求は避ける。
(4)裁判所は上記期限の後に、証人等の採否決定を行い、裁判員選任手続期日と公判期日を指定する。
6 第4項の期日に被告人又は弁護人が無罪あるいは留保の答弁を行ったときは、
(1)裁判所は、双方の意見を聴いて、検察官の証明予定事実記載書の提出及び証拠請求の期限を定める。
(2)検察官は、供述証拠に関しては、できる限り証人尋問の請求をする。
(3)弁護人は第1項で交付された一覧表にもとづいて、証拠開示請求を行う。
(4)弁護人は、積極抗弁を提出するときは予定主張記載書を提出し、証拠調べ請求書を提出する。積極抗弁がない事件では証拠調べ請求書のみ提出する。
(5)裁判所は、証拠決定を行い、公判期日を指定する。

これらの手続は現行法のもとでも実施可能である。


plltakano at 21:23コメント(0)トラックバック(0)裁判員制度刑事裁判 

2016年04月11日

*これは2011年6月23日弁護士会館(東京)で行われた刑事弁護フォーラム主催「若手ゼミ」において、若い弁護士と司法修習生向けに行った講演の記録に加筆したものである。

はじめに

皆さん、こんばんは。高野です。刑弁フォーラムの若手ゼミというと、私はもう3度目か4度目になるかな、毎回、毎回、反対尋問の話をしてくれと言われて反対尋問の話ばかりしてきました。私は反対尋問の話ししかできないんじゃないかと、そういう評価が固まりつつあるので、ほかの話もできるんだよということ示したいということで今回このテーマを選びました。

このテーマを選んだ第二の理由は、私自身、この制度が導入されて以来、何度も公判前整理手続を体験しましたけれども、その結果、この手続は最悪だという確信をいだきました。それは私個人の体験だけではなくて、私にいろいろな相談を寄せてくれる若い弁護士の体験でもあります。むしろ、私のような人間は、裁判官からいじめられたり要求されても、それを無視したり突っぱねたりしますし、そういうことを裁判官も知っているものですから、あまり強く言わない。ところが、若い弁護士は、生まれたばかりの、ふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、カモメに簡単に食べられちゃう感じですね。若い弁護士が裁判官からああしろこうしろと言われて、泣きながらいろんなことをやっている、こんなんで良いのでしょうか、という相談を何度も何度も受けています。

そうした運用が一つのスタンダードになりながら、徐々に、本来あるべき公判前整理手続の姿というものも変質していき、本来公判手続を充実したものにしようとして生まれた制度なのに、かえって公判を形がい化しているのではないか。何とか若い皆さんに、ここは踏ん張ってもらわなきゃいけない。公判前整理手続というのをちゃんとしたものに作り変えていくのは皆さんですから、皆さんがそれなりの技量を身に付けて、裁判官の職権的な訴訟運営に対してノーと言える弁護人になってもらいたいなというふうに思っているわけです。それが、今回、公判前整理手続の話をしようと思った第二の理由です。

公判前整理手続の肥大化

最初に私がお話しするのは、現実に行われている公判前整理手続はどんなものかということです。公判前整理手続というのは、条文に書いてあるように、「充実した公判審理を継続的、計画的かつ迅速に行うため」に行うものです(刑事訴訟法316条の2第1項)。これは、平成 16年の刑訴法の改正でできたわけですけれども、その前に、「裁判の迅速化に関する法律」(平成15年)ができまして、「第1審の訴訟手続については2年以内のできるだけ短い期間内にこれを終局させ[る]」という目標を掲げました。そのために、「法曹人口の大幅な増加、裁判所及び検察庁の人的体制の充実」などと並んで「訴訟手続その他の裁判所における手続の整備」を要求したこと(裁判迅速化法2条1項、2項)から刑訴法の改正に至ったものです。しかし、結論から言うと、現実の公判前整理手続というのは、公判審理の充実にも迅速化にも全く役に立っておりません。

公判前整理手続によって事件はどんどん長くなっています。私がやっている否認事件などでは、公判前整理手続だけで2年もやっています。そういう事件は決して珍しくありません。いつになっても公判が始まらない。そして、裁判員裁判ならまだ公判それ自体は集中的に迅速に行われますけれども、裁判員裁判以外を見ますと、そのようにして1年以上公判前整理手続をやりながら、公判は全然集中してないです。2週間に1回とか、下手をすると1カ月に1回ぐらいのペースで公判をやる。一体何のための公判前整理だったのかというような事態になっているんですね。このように、公判前整理手続が量的に肥大化している。

それから、さらに問題なのは質的な肥大化です。本来、公判前整理手続というのは、公判で決着をつける、公判を充実したものにするためにやるものです。法律にも書いてありますね。「充実した公判審理」と書いてあります。それを計画的に迅速にやるということになっているわけですけども、この目的も全然達成されていません。公判前整理手続をやった結果どういうことが行われているかというと、裁判の本体である公判手続が形がい化している。公判前整理手続の中でほとんどのことがもう決められてしまって、公判自体はもう付け足しになってしまっている。公判前整理手続の中で、すべてがもうほとんど終わってしまっているという状況になっているわけですね。それが現実です。

公判前整理手続というのは公開の法廷でやるものではないんですね。身柄拘束された被告人が参加したいという時には、裁判所の警備の都合上法廷でやりますけれども、非公開ですね。こちらが公開でやれと言っても、裁判官は公開でやらないです。つまり、非公開の場所で当事者がさまざまな書類のやりとりをしたり、言葉でやりとりをする。このやりとりを通じて事実認定が事実上おこなわれています。公開の場で「公判」という形式でやられるのは、その抜け殻だけです。

認否・反論の強要

その中身を少しずつお話ししていきたいと思います。まず、刑事訴訟法 316 条の 14 にあるように、検察官が証明予定事実というのを出します。検察官が公判で証明しようとする事実を出すということ。公開の法廷で行われる冒頭陳述というのがありますけども、冒頭陳述で述べるようなことを非公開の公判前整理手続でまず出して、それを支える証拠の請求までさせる。関連して弁護人が検察官の手持ち証拠のうち一定の類型にあてはまる証拠の開示請求(これを類型証拠開示請求と言います)をします。これに応じて検察官が、自分が法廷に出したい証拠(請求証拠)以外の手持ち証拠のうち法律の要件を満たす一定の証拠を弁護人に開示します。弁護人はこれらの証拠を検討して、その段階で検察官の請求証拠に対する意見を述べる。そうすると、今度は弁護側が、自分の側が公判で主張する予定の事実上法律上の主張があるならばそれを書面(予定主張記載書)にして出す。弁護人はこの書面を出すと、その主張に関連する検察官手持ち証拠の開示を請求できます(主張関連証拠開示請求)。弁護人も公判で取調べて欲しい証拠を請求する。裁判所はこれらを受けて公判で取調べる証拠の採用決定をする。そういう流れになっています。

しかし、現実にはこのようにスムーズには行きません。検察官は証明予定事実記載書というものを繰り返し何通も提出します。1回で終わることはないです。非公開の密室で裁判官は何度も冒頭陳述を聞かされるようなものです。検察官は訴因を構成する事実関係を主張するというだけではありません。その訴因を支える「間接事実」と呼ばれる事実を主張します。検察官がそれを主張しないと裁判官がその主張を促します。検察官は訴因を構成する事実、「要証事実」などと言いますが、それを主張するだけではなく、それを推測させるような事実実、「間接事実」というふうに日本の裁判官は言っていますけれども、それを主張するのです。弁護側も、それに対して、自らの間接事実を主張する。ちょうど民事の準備書面のやりとりのようなことが公判前整理手続の中で行われています。民事の準備書面でも、皆さんはいろいろな事実を主張しますよね。いわゆる要件事実だけではなくて、それを支える「間接事実」というやつを書面に書いて主張し、相手方はそれに対して「認める」「知らない」「否認する」などといわゆる「認否」をしたり、あらたな主張をして反論したりすることが行われます。刑事裁判の公判前整理手続の中でも同じようなことが行わているのです。検察官の「証明予定事実記載書1」に対して、弁護人が「予定主張記載書1」、それに対して検察官側が「証明予定事実記載書2」さらに弁護人が「予定主張記載書2」、そしてさらに検察官が・・・みたいなことで、延々と文書のやりとりをするんですね。

民事裁判ではそうした準備書面のやり取りを繰り返すことで裁判官は事件の心証を形成します。刑事でもおなじです。検察官の間接事実に対して、弁護側がそれを認否したり反論したりして、反対の間接事実を主張する。それが繰り返し行われる。時には、検察官が請求する供述調書の作成過程、捜査官の取り調べの経過についてまで双方が事実を主張し、それに対する認否や反論を書いた書面のやりとりが延々と繰り返される。
私のように、「検察官の主張に対する認否とか反論なんかしません」と宣言する弁護士もいます。そういう弁護士に対しては、裁判所は「求釈明」という形で認否や反論を促します。検察官のこういう主張に対して被告側はどう考えるのかみたいなことを訊いてきます。釈明までされると、普通の弁護士は答えなきゃいけないと考えます。書面を書いて答えるんですね。応えを渋る弁護士に対しては裁判官はさまざまなプレッシャーをかけてきます。

こうした間接事実の主張とそれに対する認否反論をさせることによって検察官の主張する訴因と間接事実について、争いのない部分と争いのある部分というのが出てくるわけです。事件の筋のようなのが当然そこに見えてくるんです。そうすると、検察官が請求した証拠書類がありますね、それに対して弁護側は、単に「不同意」というだけでは済まなくなる。裁判所は、ああ、ここは争いがないんだな、本当の争点はここなんだなというふうに分かるわけです。そうすると、争点でない部分については、検察官の証拠を争う意味はないじゃないかと言ってくるのです。検察官が請求する証拠書類に対して、弁護人に326 条の同意をするように迫るわけです。「不同意です」なんていうと、裁判長が身を乗り出してきて、「何で不同意なんですか。あなたは放火があったこと自体は争わないわけでしょう。だったらいいじゃないか」みたいなことを言うわけですね。

そうすると、新しい弁護士で、まだ初々しい、要するに、汚れていない皆さんは、うーんと悩むわけですね。「どんな放火だか分からないけれど、別に放火があったことを争っているわけじゃない。これは犯人性を争っているわけだから、同意してもいいんじゃないか」「裁判官がいうのも一理あるな」と思ってしまうわけです。それで、どんどん書証は採用されていく。「不同意」を「一部不同意」に改めさせるということも良くやられます。
そうすることによって法廷で尋問する証人の数はどんどん減っていくわけですね。尋問時間も減らされる。公判廷で行われる出来事はどんどん少なくなっていくことになります。

僕とかは、裁判長に「なぜ同意しないんですか」と訊かれても、「同意する理由が見当たらなかったので同意しないんです」などと木で鼻を括ったような返事をします。「なぜ、同意する理由が見当たらないのか」、「いや、法廷で尋問する権利を放棄する理由が見当たらなかったんです。」「それじゃ理由にならない」とか言って、論争したりするわけですけれども、そういう論争をするような弁護士は、不良と見なされるわけですね。大抵の弁護士はよい子になろうとするわけです。ちゃんと説明するわけです。「いや、そこはちょっと事実が違うので不同意にします」。「どう違うの」みたいな話になって、どんどん事実の話、証拠の中身の話が前倒しに出てくるわけです。そうすることによって書証がどんどん採用されていって、その結果、法廷でやることはあまりなくなってしまうことになります。

この仕組みは裁判官の姿勢とそれに対する弁護側の対応によって作り上げられているわけですけれども、それだけではありません。皆さんよくご存じのように、書証に同意しないあるいは検察官の証明予定事実に対してちゃんとした意見を言わない結果、被告人は非常な不利益を受けます。どういう不利益かというと、身柄が拘束される期間が伸びるということです。保釈が認められないということです。われわれの依頼人が人質にとられていることでこの仕組みは強化されているんです。

「コンパクト」で予測可能な公判を目指す裁判官

ちょっと違う話をしましょう。このように裁判所は間接事実の出し合いを促進し、それに伴って検察官側の証拠書類を採用する範囲をどんどん広げていくことによって、法廷審理の量を圧縮しようとします。ある裁判員裁判で裁判長は盛んに「公判をコンパクトにしたい」と言っていました。その理由として彼は何度も「裁判員の負担を軽くするため」と言いました。

さらに裁判官は、法廷で何が行われるのかについて詳細に計画を立てようとします。特に裁判員裁判の場合はそうです。公判日程を分刻みで計画を立てます。法が言う「計画的に」というのはそういう意味だと裁判官は理解しているのかもしれません。当事者の弁論や意見陳述、証人尋問の時間について、非常に厳格なスケジュールを作ります。法廷で何か不測の事態が起こった、あるいは予想外に尋問に手間取ったとしても、裁判所はとにかく予定された時間内に収めることを要求します。あらかじめ定めた時間内に収めるということに最大の価値を彼らは置いています。弁論の時間が長引いたりすることに対しては非常に不寛容です。

公判の時刻表を定めるだけでは気がすまず、一人一人の証人尋問の際にどういう書面を見せるかとか、どういう図面を使って尋問するかということまで、いちいち公判前整理手続の中で決めたがる裁判官もいます。刑事訴訟規則には、証人尋問を分かりやすくするために、図面、写真、書類、装置、模型などを利用して尋問できるという規定があります。50年前にその規則を定めた人たちは、尋問の中でそれを判断しましょう、必要だと思えば裁判長はその場で許可するでしょうし、不必要なら許可しないだろう、というようなことを考えたはずです。しかし、現在の裁判官は、法廷のその場でそのときの判断で決めるのではなく、あらかじめ公判がはじまる前に決めておきたいのですね。まだ、証人尋問はおろか、起訴状の朗読すらやられていないのに、そのずっと前に特定の証人にどういう尋問が行われて、そこで、どういう図面が示されるかも決めておきたい。芝居の台本のようなものを裁判が始まるずっと前に決めておきたい。そんなことは尋問の時に決めたらいいんじゃないですかなんて発言しようものなら、何を言っているんですかっていう感じで真顔で批判されます。もう全部決めておきたいというのが今の裁判官の姿勢です。

裁判員裁判では、公判前整理手続で判決の言い渡しの日まで決めてしまうのです。まだ裁判は始まってすらいないんですよ。始まっていないにもかかわらず、判決言い渡しは何日の何時ですよって決めてしまうわけです。これほどおかしなことはないですよね。だって、事実認定というのは、法廷で証拠調べをやって、裁判員と一緒にそれを聞いて、裁判員と評議をして決めるわけでしょう。裁判員の選任すら行われていない、誰が裁判員かも分からない、彼らと会ってもいないのに、評議にどのぐらい時間がかかるか分かるわけがないじゃないですか。であるにもかかわらず、もういつが判決の言い渡しかって決めちゃっているわけですよ。

彼らは一度決めたらそれに従って行動します。今までの裁判員裁判で、あらかじめ決められた判決言い渡し期日が延びたことは皆無に近いです。予定よりも早く判決が言い渡されたということも聞いたことがありません。つまり、裁判員裁判において、実際の公判は公判前整理手続で作られたシナリオどおりに行われている。そして、裁判員と裁判官の評議も予定されたスケジュールに沿って行われているということです。一言で言うならば、裁判という舞台の完ぺきなシナリオが、公判前整理手続で作られてしまっているということになります。

公判の形骸化

これは、私のような弁護士にとっては非常につまらないことです。あらかじめ決められたことを決められたとおりに法廷でやるなんていうことは、これほどつまらない仕事はないです。法廷というのはそういうものではない。何が起こるか分からない。自分のその場の判断で、挙手一投足によって何かが変わると、そういうスリルといいますか、そういう興奮といいますか、そういうものがなければ公判をやる意味がない。そのために弁護士になったようなものですから。

しかし、問題は私個人の生きがいという小さなものだけではありません。もっと大きな問題がそこにはあります。まず、第一の問題は、事実認定が公判前整理手続によって先取りされてしまっているということです。先ほども言いましたように、公判前整理手続の中で、検察官と弁護人は「間接事実」をめぐって詳細なやりとりをします。間接事実のやりとりが行われるということはどういうことかというと、証拠の中身を裁判官は先取りしてしまうということです。間接事実が分かれば、それはもう証拠の現物をみるのとあまり変わらないぐらいに証拠の内容を理解(予測)することができます。なぜなら、間接事実とは実質的には証拠の内容にほかならないからです。当事者双方が詳細な間接事実を主張し合えばし合うほど、裁判官は生の証拠を見たのと同じ心理状態に近づくことができるのです。

例えば、殺人の訴因で殺意が争われているとしましょう。検察官が、被告人は刃渡り 20 センチの柳刃包丁で、被害者のお腹を刺したという間接事実を主張したとします。で、弁護側が、被告人が刃渡り 20 センチの柳刃包丁を持っていたことは間違いなし、それで被害者のお腹が切られていたことも間違いない、しかし、それは、意図的に刺したんじゃなくて、包丁の取り合いをして包丁が刺さっちゃったんだというふうな間接事実を主張したとします。

そうすると裁判官は、「ああ、柳刃包丁がお腹に刺さったんだ。被告人は、刺さっちゃったという弁解を法廷でするんだ」というようなふうに、もう証拠の中身を理解してしまう。それが理解できない人間なんて恐らく存在しない。つまり、間接事実のやりとりというのは、証拠のやりとりとほとんど変わらないのです。

もっとひどい場合は、被告人や証人予定者の供述をそのまま間接事実として主張する場合もあります。被告人は何月何日に、包丁でお腹を刺したと供述していた。被告人の何月何日付けの供述調書にはこういう記載があるというようなことを、正々堂々と証明予定事実の中に記載してくる検察官もいます。それに対して弁護側が予定主張として、いや、被告人はその前々日にはこういうことを言っていたと「反論」する場合もあります。随分熱心な弁護士のように見えます。当の本人もそう思っているのかもしれません。しかし、これは要するに証拠の中身を非公開の場所で裁判官に披瀝しているのと同じことです。裁判官が調書を読むの全然違わない。もう証拠調べをしたのと同じ状態になってしまっているわけです。

こうして、公判前整理手続が終わった段階で裁判官は判決が書ける状態になっているのです。実際、そういうふうに修習生に言っている裁判官もいますい。公判前整理手続というのはもう判決が書ける状態までやらなきゃいけないんだということを教育の一環として修習生に教えている。判決文の中に何カ所かブランクがある状態、あるいは、判決という名のジグソーパズルがあって、ちょこっと抜けたピースがある状態、それが公判前整理手続の理想の姿だと裁判官は考えているのです。

あとは公判で判決文のブランクにいれる言葉を見つければいいんですね。パズルのピースを法廷で埋めていけばいい。それだけが公判に課せられた使命だと。それこそが優秀な刑事裁判官による理想的な公判前整理手続と公判との関係だということになります。

このように、事実認定が先取りされて、そして、公判が極限的なまでに矮小化されていく、形骸化していく。これが裁判員裁判で行われるとより深刻な問題を招くことになります。それは第一には、裁判官と裁判員との間に、圧倒的な情報の格差が生まれることです。公判前整理手続が終わった段階で、裁判官はもう証拠調べが終わったのと同じ心証を持っています。事件のことは何でも分かっている状態になっています。証拠の中身を見たのとほぼ同じ状態になっている。他方、裁判員の方はどうかというと、何も分かっていません。事件の筋も証拠も何も分かっていない。当事者がどういう主張をしているのかも分からない。どういう証拠があるのかも分からない。

これほど大きな情報格差のある人たちが平等な審理と評議をすることができるでしょうか。できるわけがありません。事件の真相をほとんどと理解している裁判官は、何も知らない裁判員に対して圧倒的に有利な立場に立てるでしょう。あからさまな方法で裁判員を説得したり誘導したりすることもできるでしょうが、もっとわかりにくい方法で巧妙に評議を方向づけることが可能になります。例えば公判で、証人尋問をやっていて、証人が公判前に予想したこととは違う証言をしたとしますよね。そういうことはよくありますよね。要するに、検事が尋問に失敗しているわけです。そういう場合に、裁判官はそっと誰にも気づかれないようにその証言を違う方向に誘導していく。そして、公判前で見た間接事実のほうに、つまり、いったん納まったパズルがちょっと外れかかったわけだけども、もう一回それを戻すというような尋問をするでしょう。

それから、評議室での議論の中で、裁判官の心証と外れたような議論が行われたとしても、その場で説得するような、そんなあからさまなことをすれば、それは裁判員から反発を感じるわけですね。そうじゃなくて、もうじきこういう証拠が出てくるから、ここはこれでいいかみたいな感じで、大人として振る舞う余裕があるわけですね。そして、最終的に評議の中で、「じゃ、こういう証拠はどうですか」みたいな、ぽんと出す。そうすることで、裁判員は「ああ、そうか」ということで裁判官が考えている方向に一気に流れていく。情報さえもっていれば、何も知らない人を誘導することは簡単です。いくらでも方法があるわけです。あからさまに説得するなんていうのは、賢い裁判官はやらないと思います。そんなことをやればかえって反発を受けるし、それは下手な方法です。

裁判官はもう事実関係を誰よりも知っているわけですね。そして、裁判員は全然知らない。だから、裁判員は裁判官に質問するわけですね。「この人はどういう証人なんですか」「これからどういう証人が出てくるんですか」と。裁判官はこうした質問に的確に答え、裁判員を指導することができる。こうしたコミュニケーションを通じて、裁判員は、「裁判官は何でも知っている」と考えます。裁判官は権威者として振る舞うことができる。裁判員はとにかく裁判官を信頼し、尊敬するわけですね。裁判官がどう考えているのかということを考えるようになる。そうなればあとは簡単なことですよね。裁判員がみんな裁判官を信じてしまえば、あとは極めて簡単な話になるんです。職業裁判官と一般市民が対等の立場で証拠を評価し事実を認定するという裁判員制度の中心的な価値は全く無効にされる。裁判員は職業裁判官の決定に民主的なお墨付きを与えるだけの存在になってしまうのです。

「裁判所への協力義務」

公判前整理手続は職業裁判官の権限を強化する制度です。言い換えると、当事者主義の仕組みを職権探知主義に変えてしまう仕組みにほかなりません。裁判官は積極的に検察官と弁護人の尻を叩いて「間接事実の交換」をさせようとします。これは、要するに、検察官と弁護人を使って事件の「真相」を追求しようというものです。これが職権主義でなくて、何が職権主義と言えるでしょうか。

しかも、裁判官は職権主義を進める強力な武器を持っています。それに協力しない弁護士を処罰することができます。保釈を認めないとか、請求した証拠を「必要性がない」と言って却下したりします。彼らはさらに自分たちに従うのは法律上の義務だと言います。刑事訴訟法 316 条の3にこう書いてあります――「訴訟関係人は、充実した公判の審理を継続的、計画的かつ迅速に行うことができるよう、公判前整理手続において、相互に協力するとともに、その実施に関し、裁判所に進んで協力しなければならない」。さらに裁判員法51条にも「裁判官、検察官及び弁護人は、裁判員の負担が過重なものとならないように」しなさい、と書いてある。裁判官はこうした条文を盾にとって、「何で争点を絞ることに協力しないんだ」「何で、そんな書証に『不同意』なんて言うんだ」と迫ってきます。裁判員に余分な負担をかけちゃいけないんだ、だから、われわれ法曹が協力し合って、できるだけ争点を少なくして、できるだけ公判で聞く証人の人数を減らさなければいけないんだ、あなたのような原理主義的な頑迷な弁護士がいるから、裁判員の皆さんは迷惑を被るんだというわけです。さらに「それは被告人の利益にもならないでしょう」なんて言う。暗に公判が長期化してその分被告人の身柄拘束が長引くことをほのめかすのです。

よい子の皆さんは、そういうことを言われると、「間違ってました、分かりました、もう一回出直してきます」と言って、できるだけ証拠書類の取調べに同意して証人の数を減らそうと努力する。その結果、裁判員の負担が減るかというと、決してそんなことはない。彼らは証人から直に話を聞くことができると思って法廷に来ているのです。ところが実際には、延々と退屈な調書の朗読を聞くことになるわけです。加重な負担どころか拷問ですよね、調書の朗読を何時間も聞かされて。

検事が請求する証拠書類の取調べに同意すれば、「罪証隠滅の恐れが減った」とか言って保釈を認めてくれる――逆に、証拠書類のほとんどに不同意の意見を言うと保釈を認めない――そういう裁判官がいるのは事実です。この運用が保釈を自白強要の道具にしてしまっていることは常識を備えた人間ならだれでもわかることです。実際、警察は「いつまでも否認していると保釈が認められないぞ」と言って自白を求めます。皆さんのような若い弁護士がこうした裁判官の脅しに屈して唯々諾々と調書に同意することはこの現状をますます固定することになるでしょう。調書を不同意にしたからと言って被告人による証拠隠滅の可能性が高くなるなどとうのは全く現実離れした議論です。われわれはそのことを一つ一つの事件のなかで保釈担当裁判官や準抗告審裁判官に説明すべきです。1回や2回であきらめてはいけない。何回でも何十回でも保釈請求、準抗告申立を続けるべきです。そうして改善していくしかない。

公判前整理手続というのは、弁護人が被告人の身代わりとして、ものすごく糾問的な(自白追及的な)勾留質問を受けているようなものですね。被告人の代わりに、弁護人が尋問を受けている。どんどんしゃべらなきゃいけない状態になっている。前に言ったことと違ったことを言うと、「あんたは前にこう言っていたじゃないか」みたいに、法廷でいじめられている被告人のような状態に、弁護人がなっている。これはどういうことかというと、黙秘権がなくなっているということです。供述しない権利が被告人にあるわけですけれども、弁護人がどんどん供述させられることによって、被告人の権利は無意味になっているということです。黙秘権、供述拒否権が空洞化しているということです。

証拠書類の取調べに同意するということは、証人審問権の放棄です。公開の法廷で自分の目の前に検察側の証人を呼んできて宣誓をさせる;弁護人を通じて反対尋問をするという憲法上の権利を放棄したということです。

要するに、黙秘権も証人尋問権も反対尋問権も、そして、公開裁判を受ける権利すらも放棄させられている。これが現在行われている公判前整理手続の実態なのです。裁判官は、われわれの依頼人である被告人と裁判員を人質にとって、彼らのためだという口実――全く嘘っぽい口実――を使って、実際には自分たちの権限を温存して自分たちに好都合な訴訟運営を効率的にやろうとしています。公判前整理手続は量的にも質的にも肥大化し、いわば職権主義の化け物のようになっている。その反面で、公判で証人から話を聞いてすべて決めようという公判中心主義が形がい化し、被告人の権利が空洞化している。

法への回帰を

じゃあどうすべきかという話をしたいと思います。それは簡単なことではないですね。裁判所が組織ぐるみで一体として公判前整理手続を職権主義的に運用しようとしているんですから。国民の税金を使って「司法研究」を発表して事実上の「模範解答」を示したり、「勉強会」と称する非公式の意思伝達機構を使って、この現状を固定しようと躍起になっているのですから、これを変えるというのは容易なことではないでしょう。しかし、どんなに困難であっても、これは変えなければいけないと思います。なぜなら、事態はあまりにも深刻だからです。公判前整理手続の肥大化によって、大切なものが失われつつあるからです。われわれはいま何が失われつつあるのかをしっかりと確認しておく必要があります。

黙秘権

被告人には黙秘権があります。知っていますか、被告人には黙秘権があるんです。黙秘権、知ってる?ああ、よかった!黙秘権があるというのはどういうことかというと、犯罪の訴追を受ける人は何人も自分で自分の無罪を証明しなくていいということです。被告人は黙っていれば良い。自分が無実であることを説明したり、その証拠を提出しなくても良い。検察官が訴因――起訴状に「公訴事実」として書かれていること――を合理的な疑問を容れない程度まで証明しなければならない。検察官がその証明に失敗したら被告人は無罪にされなければならない。そういうことです。

刑事訴訟法291 条3項はこう言ってます――「裁判長は、***被告人及び弁護人に対し、被告事件について陳述する機会を与えなければならない」。これは陳述する機会なのであって、陳述する義務ではない。これは権利なんですよ。言いたいことがあるなら言える権利があるということです。何かを言わなきゃいけない義務ではないのです。法律の条文と憲法からしてこれはあまりにも当然なことです。

アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどのコモンロー系の刑事裁判では、被告人は訴因に対して3種類の答弁をすることになっています。「有罪」(guilty)、「無罪」正確には「有罪ではない」(not guilty)、そして「争わない」(nolo contendere; no contest)、この3つです。これ以上に細かい答弁を要求したり、事実に関する認否を要求することは許されません。それは黙秘権を侵害すると同時に、陪審が権限をもつ事実認定の領域を侵食することになるからです。被告人が「有罪」の答弁あるいは「争わない」という答弁をすれば、その段階で――証人尋問などの証拠調べは省略されて――直ちに有罪が宣告されて、量刑を決めるための公判が行われます。被告人が「無罪」の答弁をすれば、有罪か無罪かを決めるための公判(trial)が行われます。

裁判官は無罪の答弁をした被告人に対して、「現場に居たことは間違いなのか」とか「バッグの中に覚せい剤が入っていたことは争わないのか」などと質問してはいけない。そんなことをすれば、確実に上訴されるでしょうし、その前に裁判官に対する忌避申立てが行われ、それは認められるでしょう。検察官がそうした「釈明」をしたとしたら、裁判官が直ちに公訴棄却(dismissal)の決定をするでしょう。被告人が「無罪」と一言言えば、検察官は訴因を構成するすべての事実を公判廷で証明しなければなりません。どれか一つの事実について「合理的な疑問を容れない」程度に証明できなかったとすれば、被告人は無罪です。例えば、覚せい剤密輸の訴因に対して被告人が無罪の答弁をしたとします。検察官が、税関検査で発見された覚せい剤が被告人が搭乗した飛行機に預託した荷物のなかに最初から入っていたこと(証拠物の同一性、いわゆる「保管の連鎖」)を証明できなかったとすれば、当然無罪とされなければなりません。

いま言ったように英米では「有罪」答弁によって公判は省略できる。だから罪状認否手続には重大な意味があるわけです。日本の場合はどうでしょうか?日本刑事訴訟法319条2項はこう言っています――「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」。第3項によればこの「自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む」。だから、罪状認否手続で被告人が「有罪」と答弁しようがなんと言おうが、検察官は有罪立証を省略することができないのです。つまり、日本の刑事裁判では、被告人に罪状認否をさせることは法的にはなんの意味もないのです。ではなぜ、現実の刑事裁判では、裁判官は一所懸命被告人に罪状認否を求めるのでしょうか。罪状認否どころか、検察官が主張する周辺事実(間接事実)一つ一つについてまで、認否するように求めるのでしょうか?それは、先ほど説明したように、その答弁によって心証をとることができるからです。法廷でやることを局所的・断片的なものに絞り込んで自分たちの仕事を効率的にすすめることができるからです。

しかし、これは明らかに法律の建前に反しています。法律は自白だけで有罪の認定をしてはいけないと言っているのです。自白どころか実際には弁護人が作成した文書にすぎない「予定主張記載書」の文言によって事実を認定してしまうのです。刑事裁判の判決文を読むと、事実認定の説明の中に「以下の事実は当事者も争っておらず、矛盾する証拠もないので、事実と認められる」というような記載がよくあります。これは有罪判決の事実認定が法廷で取調べられた証拠によってではなく、当事者の態度――事実を争っていないという態度――によってなされていることを物語っています。しかし、これは刑事訴訟法の明文に反しているのです。

主張明示義務

刑事訴訟法316条の17第1項はこう言ってます――「被告人又は弁護人は、***公判期日においてすることを予定している事実上及び法律上の主張があるときは、裁判所及び検察官に対し、これを明らかにしなければならない」。法律家はこれを「主張明示義務」と呼んでいます。公判廷で予定している事実上・法律上の主張があるときは、それを公判前整理手続のなかで予告しておかなければならない、ということです。これはどういう意味でしょうか?

繰り返し言いますが、被告人には自分が無罪であることを説明する義務はない。訴因の立証責任は検察官にある。だから、弁護側が公判廷で提出する証拠は原則として「反証」ということになる。この反証を提出するかどうかは被告人の自由です。あらかじめ何か積極的な主張をしなければ証拠が提出できないというわけではないのです。但し、平成16年改正刑事訴訟法は、それまで当事者は公判廷で随時証拠請求ができるという建前だったもの(刑訴法298条1項)を改めて、公判前整理手続に付された事件では公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」がない限り証拠調べ請求ができないとしてしまいました(316条の32第1項。この立法が賢明な立法だったかについては大いに疑問がありますが、それには今回は触れないことにします)。ですから、公判前整理手続に付されたケースでは、弁護側も原則としてその手続中に証拠の取調べを請求しなければならないということになります。そして、裁判所にその証拠を採用してもらうためには、その証拠が関連性のある証拠であること――その存在によって事件の結果に影響を及ぼす蓋然性があること――を示さなければなりません。そうすると、弁護人は証拠の関連性を示すためにその証拠によってどのようなことが証明されるのか(立証趣旨)を裁判所に示さなければならないということになります。これは刑事訴訟法の改正を待つまでもなく、それまでの手続でも行われていたことです(刑事訴訟規則189条1項)。

改正法が弁護側にあらかじめ主張することを求めているのは、こうした「反証」を超える主張を弁護側がする場合のことです。あらかじめ主張させ、検察側に反証の機会を与えなければならない事実のことだと思います。つまり、いわゆる証拠提出責任を負う主張のことです。「積極抗弁」(affirmative defense)と言われる主張、例えば、正当防衛とか緊急避難というような違法性阻却事由、心神喪失や心神耗弱のような責任阻却事由、さらにアリバイ主張がこれに当たるでしょう。また、証拠法上の主張として、自白の任意性を争うとか違法収集証拠の排除の主張も、わが国の判例や実務では弁護側が証拠提出責任を負うとされています。こうした事実上及び法律上の主張をするときには、公判前整理手続が行われている間にしなさいというのが法の趣旨です。

無罪の説明や検察官の主張する「間接事実」に対する反論をあらかじめすることを求める規定ではないのです。あらかじめ「争う」と言わなければ公判で争えなくなるとか、反論の中身を事前に予告しなければならないというようなものではないのです。

ところで、改正法は「主張明示義務」に違反した場合の制裁を何ももうけませんでした。あらかじめ主張しておかなければ公判の途中で主張できなくなるというような主張制限を定めた規定はどこにもありませんし、また、そのための証拠を請求できなくなるという証拠制限の規定もありません。先ほども言ったように、公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」のために公判前整理手続中に請求できなかった場合を除いて証拠請求できないという一般的な制限があるだけです。そうすると、公判前整理手続の間に主張していなかった積極抗弁を公判中に展開することが一律に許されないというわけではなく、それが訴訟上の権利の濫用に当たるとか信義誠実義務違反だと言える場合(刑訴規則1条2項)を除いて、新しい主張をすることは可能だということになります。目撃証人や法医学者の証言を聞いてみたら、正当防衛が成立しそうであることが改めて分かったのであれば、公判の途中でその主張をしてもよい、そして、新しい証拠を請求することも許される(「やむを得ない事由」があるから)ということになります。

証人審問権

有罪の人であれ無罪の人であれ、被告人はすべての証人を公判廷の自分の前に連れて来させる権利があります。証言台で公衆の面前で宣誓させたうえで、尋問する権利がある。これも憲法に書いてあります――「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」と(憲法37条2項)。前半は検察側証人に対して反対尋問する権利、後半は自分に有利な証言をする予定の証人を公費で強制的に法廷に召喚する権利です。捜査機関が関係者の話をまとめたにすぎない供述調書を被告人に不利な証拠として採用することは被告人の反対尋問の権利を侵害するから許されない。

供述調書の取調べに同意するということはこの反対尋問の権利を放棄することにほかなりません。当事者が明確に「同意しない」という意見を表明した以上、裁判官が権利放棄を慫慂することは許されないはずです。ましてや、当事者に対する不利益――公判の長期化――を仄めかして権利放棄を強要することなど言語道断というべきです。法律は疑問の余地のない言葉で「審理に2日以上を要する事件については、できる限り、連日開廷し、継続して審理を行わなければならない」と定めています(刑訴法281条の6第1項)。調書がすべて不同意になっても証人の数は、たいていのばあい10人以下です。どんなに多くても40人ぐらいでしょう。そして、1人の尋問時間が3時間を超えることはほとんどない。30分で終わることなど珍しくありません。仮に2時間の証人を10人取調べるとして、この法律の規定にしたがって1日6時間(午前2時間、午後4時間)の開廷時間で連日開廷すれば、冒頭陳述や最終弁論を入れても4日間で公判は終了するはずです。

ところが、裁判官たちはこの法律はただの努力規定にすぎないと言って、むかしとあまり変わらない期日指定をします。とりわけ裁判員裁判でない事件の公判は2週間に1回とかひどい場合には2ヶ月に1回などということもあります。彼らは「他の事件の公判が入っている」とか「別の用事がある」と言って連日開廷を拒否します。裁判員裁判では流石に1周間に1回などということはありません。しかし、「連日開廷」にはほど遠いものです。週に3日しか期日を入れません。しかも、1時間尋問したら30分休みというように、1日の開廷時間は実質4時間程度に抑えられています。彼らはここでも「裁判員の負担の軽減」を持ち出します。しかし、本当に裁判員はそんな風に休み時間ばっかりの仕事を望んでいるでしょうか。そうは思いません。実際、もっと沢山の証人から多くの証言を聞きたかった、という裁判員の感想を聞いたことがあります。少なくとも、最初から休み時間を決めるのではなく、実際の公判の進行ぶりを見て休廷を決めるべきでしょう。

要するに、裁判迅速化法にもとづいて改正された法律の明文は、裁判官の勝手な解釈と運用によって死文と化しているのです。もしも、沢山の事件を抱えているために連日開廷の日程確保ができないというのであれば、法の実現のために刑事裁判官の数を増やすべきです。裁判迅速化法も「裁判所***の人的体制の充実」を要求しているじゃないですか(同法2条2項)。さらに、何でもかんでも3人の裁判官が一緒に仕事する必要はそもそもないのです。裁判員法は、「公訴事実について争いがないと認められ、事件の内容その他の事情を考慮して適当と認められる」事件については、裁判官1人裁判員4人の合議体で裁判できるとしています(2条3項)。裁判員裁判のうちおそらく3分の2以上は公訴事実に争いのない事件です。こうした事件では裁判官は1人で良いのです。この法律を使えば、裁判員裁判の期日が渋滞する事態を少なくすることができます。しかし、この法律も死文化しています。一度も使われたことがありません。公訴事実に争いのない事件でも全件で裁判官は3人参加しています。あれだけ議論して熟慮を重ねて制定された法律が、法を執行する責任のある裁判官たちの一存で無効化されてしまっているのです。

話が少しずれてしまいましたが、要するに、供述調書を拒否して供述者を法廷に呼ぶという被告人の権利は、裁判官の役人的な都合よりも大事なものです。連日開廷や裁判官1・裁判員4の合議体など、法をきちんと運用すれば、相当数の証人尋問を行っても迅速な裁判を実現することは可能なのです。これを実施しないのは裁判官の怠慢であり、責任放棄としか言いようがありません。

そして、これは憲法上の権利ではないけれども、事実認定の権限が与えられている裁判員にとっても法廷で宣誓した証人の生の声を聞き、その供述態度を直接観察するというのはとても重要なことだと思います。調書の朗読を延々と聞き続けるというのは非常に退屈であるだけではなく、供述を正確に理解して真相に近づくという観点からも、調書を使うことには問題があります。

公開裁判の権利

この国で刑事訴追されたすべての被告人は公開の法廷で裁判を受ける憲法上の権利があります(憲法37条1項)。有罪か無罪かという事実認定や量刑の決定が公開の法廷で、誰でも視聴できる状態で行われなければならないことはいうまでもありません。非公開の公判前整理手続で、検察官に訴因とその周辺事実(「間接事実」)を主張させ、弁護人にそれに対する認否や反論をさせて、事実認定をしてしまうのは、裁判の公開に反します。

公開の法廷で行われなければならないのは、事実認定や量刑だけではありません。刑事裁判というのは犯罪と治安という国家統治の最も基礎的な事柄を規制する手続であり、国民主権の国家においてその手続が国民の監視下で行われなければならないのは当然です。それと同時に、刑事裁判は市民の生命や自由に対する国家権力による侵害・介入の手続ですから、自由主義の国家においてはそれが被告人の同胞の関与と監視のもとで行われなければならないのも当然です。これこそが裁判公開の保障の意味です。そうすると、単に事実認定や量刑だけではなく、その前提となる重要な手続や決定も公開の場所で行われることを憲法は要請しているということになります。

アメリカやイギリスでは、逮捕された被疑者の拘禁を継続するか保釈を認めるかという手続は公開の法廷で行われます。陪審員の選任手続(陪審候補者への質問手続)も公開の法廷で行われます。自白や押収物などの証拠能力が問題となったときの証拠採否のための証人尋問も公開されます。陪審が事実認定を行うときの証明基準や適用される法律を裁判長が説明する手続(陪審への説示)も誰でも傍聴できる公開法廷で行わなければなりません。もしもここに挙げた手続を裁判官と当事者だけしか参加できない密室で行ったとすれば、それは裁判公開の権利を侵害する違法な手続だとされるでしょう(事実、連邦最高裁はそうした判断をしています)。

日本ではどうでしょうか?現在の日本では、これらのうち、自白や証拠物の許容性判断の場合を除いて、すべて非公開の密室で行われているのです。逮捕された被疑者を拘禁する手続(勾留質問)は、裁判所の中の「勾留質問室」という部屋で被疑者本人のほかは裁判官と書記官と警察官しかいないところで行われます。弁護人の立会も認められません。保釈の審査は裁判官が自分の部屋で検察官から送られた一件記録を読むだけで行われます。裁判官は被告人の顔を見ることすらせずに、保釈を却下します。裁判員選任手続は、法律自体が「公開しない」と定めています(裁判員法33条1項)。そして、裁判長による裁判員への法令の説明(説示)は、裁判官と裁判員以外に参加できない評議室の中で行われます(裁判員法66条3項)。こうして見ると、日本の刑事裁判の実際は、中世のヨーロッパや現在のどこかの独裁国家で行われている「秘密の審問」(secret inquisition)とあまり大差がないのではないかと思えてきます。現状に対して、われわれ弁護士は裁判公開の保障の観点から異議申し立てをすべきではないかと私は考えています。

先ほど言ったように、これまでの刑事裁判では自白の任意性であるとか違法収集証拠の問題などは公開の法廷で、公判手続の一環として、捜査官の証人尋問や被告人質問などを行って判断されてきました。ところで、公判前整理手続を導入した平成16年改正刑事訴訟法は、公判前整理手続のなかで証拠の採否の決定ができると定めました(刑訴法316条の5第7号)。そして、この決定のために「事実の取調べ」(刑訴法43条3項)すなわち証人尋問や鑑定(刑訴規則33条2項)をすることができます。法は公判前整理手続を公開すべきかどうかについて沈黙していますが、現在の裁判官はみな原則非公開だと理解しているようです。私は公判前整理手続が公開されたという話を聞いたことがありません。そうすると、自白の任意性や違法収集証拠、同一性や真正が争われている証拠物や文書の許容性を判断するために、裁判官は非公開の場所で、もちろん裁判員もいない場所で、捜査官や被告人を尋問して決定してしまう可能性があります。私自身はその経験はありませんが、実際にこれが行われているという話を聞いたことがあります。公判が開かれないまま、延々と密室で証人尋問が行われているということです。これは裁判公開原則から考えて本当に由々しき事態だと言わなければなりません。その事件の弁護人がその手続に異議を唱えたかどうか分かりませんが、皆さんが仮にそうした事態に遭遇したなら絶対に異議を述べて阻止して下さい。阻止できなかったら、上訴して下さい。最高裁まで争って下さい。

証拠の決定や裁判員への説示のほかにも、公判前整理手続という密室の中で世間の誰も知らないうちに大事なことが次々に決められていってしまいます。事件の争点や証拠の採否の他、被害者を匿名にするとか、証人と被告人や傍聴人との間の遮へいであるとか、論告や弁論の予定時間、そして評議の時間、判決をいつ言い渡すかなどです。起訴された後何か月間もときには1年以上にわたって密室での手続が続きます。そのことに日本のマスコミは不思議なくらいに寛容ですね。著名な事件では被告人の逮捕から起訴までは本当に時々刻々細部にわたって警察や検察の発表に基づいて報道が行われるのに、起訴された途端に情報がなくなる。そして、突然裁判が始まる。なぜ日本のマスコミは「公判前整理手続を公開せよ」と要求しないのか。私には理解できません。

「間接事実による認定」と裁判員制度

とにかく日本の裁判官は「間接事実による認定」ということを金科玉条にしています。検察官もそれに追随しています。司法研修所では、証拠法とか憲法と刑事手続とかはほとんど全く教えられませんが、事実認定の方法として「間接事実」が重要だということを盛んに教えます。ロースクールに派遣されている裁判官や検察官もこればっかりです。「間接事実による事実認定」の技術こそ、法律家の法律家たる所以であるなどと言っていますね。

間接事実による事実認定とは何でしょうか?それは例えばこういうことです。ある時ある場所の天気が晴れだったか雨だったかが問題となったとしましょう。そのとき街の歩道を傘をさした人が歩いていたという事実があれば、雨だったということが推測できますね。この論理において、傘をさして歩いている人がいたという事実が間接事実です。コモンローの伝統的な用語法によればこれは「状況証拠による証明」(proof by circumstantial evidence)ということです。状況証拠と対立する概念が「直接証拠」(direct evidence)です。直接証拠はそれが100%信用できるならば、直ちに事実を認定できるのです。これに対して状況証拠は、それが100%信頼できるとしても、事実を認定するためには事実と証拠との関係を推論によって補強しなければなりません。例えば、目撃証人の田中が「加藤が包丁で山田の胸のあたりを刺した;山田は血だらけで倒れた;そして息絶えた」と証言したとします。これは加藤が殺人を実行したという事実についての直接証拠です。田中の証言が100%信頼できるとすれば、特に推論を加えなくても殺人を認定できます。一方、田中の証言がこうだったとします――「加藤と山田が奥の別室に消えた;二人の口論が聞こえた;加藤が包丁を持って部屋から飛び出してきた;部屋の様子を見に行ったら、山田が血の海の中に横たわっていた」。この場合、田中の証言が100%正しかったとしても、加藤が殺人者だとは限りません。例えば、最初から加藤以外の人物(高橋)がその部屋にいて、高橋が山田を刺して、加藤はその包丁を取り上げて部屋から出てきたのかもしれないからです。田中の証言と加藤の殺人を結びつけるためには、第三者はいなかったに違いないというような一定の推論を加える必要があるのです。指紋とかDNAなどの科学的証拠や証拠物も状況証拠です。

状況証拠と要証事実との間の推論の過程は事実認定者の専権事項であり、彼らの自由な判断に任せられています。これがすなわち「自由心証主義」というものです。裁判官裁判について刑事訴訟法318条がこれを定めています。裁判員裁判についても、裁判員法62条が「裁判員の関与する判断に関しては、証拠の証明力は、それぞれの裁判官及び裁判員の自由な判断にゆだねる」と、これを明言しているのです。ここまでは日本の裁判とコモンローの裁判とで違いはありません。

ところが、日本の刑事裁判ではこの推論の過程を専門家にしかわからないルールによって規制しようとしています。それを「経験則」と呼んだりして、法的なルールに昇格させようとしているのです。このルールに反する推論は違法だと決めつけています。例えば、覚せい剤の密輸事件の有罪判決をみると、‖梢佑ら渡航費を負担してもらったうえ、小遣いをもらえるというような「報酬約束」があり、品物が何か良く分からない状態でスーツケースの中に入れられていたという事情があれば、そうした多額の費用を負担してまでして運ぶ価値のある物として覚せい剤などの違法薬物が思い浮かぶはずであるから、特段の事情のない限り覚せい剤などの違法薬物の認識があったと推認できる、というパターンの判決がたくさんあります。そして、薬物密輸事件の公判前整理手続では、裁判官は、報酬約束とか荷物の隠匿状況に関する間接事実を検察官に主張させ、弁護人にそれに対する認否を迫ります。「自分は違法薬物を運ばされるなんて考えてもいなかった」と被告人が言っているケースでも、荷物を彼女に託した人が渡航費用や小遣いを負担する(裁判所に言わせれば「報酬約束」)という場合がほとんどですし、荷物の中身は被告人自身にはわからないようになっていますから、公判前整理の段階で検察官が主張する間接事実は「争いがない」という具合に整理されます。そうすると、被告人は「特段の事情」を法廷で証明しない限り有罪になってしまうのです。

こうした実務が違法であることは明白だと私は思います。第1に、これは自由心証主義に反します。費用負担や荷物の梱包の状態と「薬物の認識」という要証事実の間にどのような推論をするかは、一人一人の裁判官や裁判員の自由にゆだねられなければならないはずです。それを規制し「経験則」という名のルールに仕立て上げ、事実認定者を拘束することは許されません。

第2に、これは裁判官による裁判員の権限の侵害です。裁判員法は、裁判官と裁判員が対等の立場で評議を行って事実を認定するとしています(裁判員法6条1項)。裁判員が裁判に関与する前に、公判前整理手続のなかで、事実認定に影響を与える「間接事実」(状況証拠)がなんであるかを裁判官が勝手に選別してしまうというのは、裁判員の事実認定の権限を侵害しています。何が重要な間接事実であるかを決めることは、事実認定という作業の中核の一つです。それはすべての証拠を見聞し、当事者双方の最終弁論を聞いた後で、裁判員と裁判官がそれぞれ自由な立場で意見交換をした後で決められなければなりません。裁判員の仕事は、あらかじめ決められた、欠けたパズルのピースを見つけるだけというようなものであってはなりません。実際の法廷で見聞した状況証拠の数々を、裁判員それぞれの社会経験に基づく良識によって選別し評価すること、これこそ裁判員制度の本質的部分です。裁判官には事実認定について裁判員を指導する権限などないのですから。

第3に、職業裁判官による事実認定のルール化は実際にも不当な結果を生み出します。先ほどの覚せい剤密輸事件を例にあげましょう。実際に起こる出来事は千差万別です。無限のバリエーションがあるのです。「報酬約束」と一言でくくることなど到底不可能です。荷物の梱包状況もいろいろです。そして、「認識」の主体である被告人のバックグランドや性格も様々です。これらを一括りにして「特段の事情のない限り」有罪だというのはあまりにも乱暴な議論ではないでしょうか。実際のところ、今の日本の刑務所では、国際麻薬密輸組織に騙されて運び屋にされた、お人好しの老人や軽率な大人たち、そして冒険好きの若者たちが、無実の罪で非常に長期の懲役刑を務めています。薬物の認識を巡る「経験則」は実際には冤罪製造の道具にほかならないのです。

「争点整理」とは何か

刑事訴訟法は公判前整理手続において「事件の争点を整理」することを求めています(316条の2第1項、同条の5第3号)。これまでの話から明らかなように、検察官に「間接事実」を主張させるとか、これに対して弁護人に認否をさせるというようなことは、法の要求ではありません。それでは法が言う「争点の整理」とは何でしょうか?

訴因を構成する事実について被告人には「陳述の機会」が与えられます。先ほど言ったように、これは権利であって義務ではありません。陳述を強制することは許されません。被告人は終始黙っていることもできるし、「無罪です」と一言いうこともできます。この場合は検察官が主張する訴因(公訴事実)が争点ということになります。これは非常に明確です。これ以上明確な争点はないと言っても良いくらいです。

被告人には陳述の義務はありませんが、しかし、陳述する自由があります。したがって、被告人は自分はやってないと言ったうえで、その理由を説明することができます。自分は犯人ではないとか、覚せい剤が入っているとは知らなかったという陳述を積極的に行うことができます。あるいは、あえて訴因の一部を認めるということもあるでしょう。さらには有罪を認めたうえで罪を犯した事情を訴えたいという被告人もいるでしょう。こうした陳述によって、訴因事実の一部だけが争いの対象であることが浮き彫りにされることもあります。

さらに、主張明示義務の対象である積極抗弁――正当防衛とか心神喪失とか――が主張される場合があります。この場合には訴因の一部または全部が弁護側の主張の前提になる場合がほとんどです。この場合は弁護側が主張する積極抗弁の成否が争点ということになります。

このように、「争点の整理」というのは、被告人には陳述の義務がないことを前提にして、その陳述態度に応じて訴訟における当事者の攻防の中核がどこにあるのかを明らかにする作業にほかなりません。被告人が何も言わないという供述態度であれば、検察官の主張のすべてが争点だということです。これも「争点の整理」に他ならないのです。

弁護戦略はどうあるべきか

最後に、現実の公判前整理手続において、われわれ弁護人はどのような立ち居振る舞いをすべきなのかというお話を少しだけしたいと思います。

現実に行われている公判前整理手続は、私が今お話した適法な形では運営されていません。間接事実の交換を強制し、事実認定を先取りして、公判を形骸化してしまうようなものが横行しています。「職権主義のお化け」と言っても言い過ぎではありません。皆さんが公判前整理手続に出かけて行って非公開の部屋に入ると、こういうことをやろうと裁判官や検察官が待ち構えているんですね。皆さんはまるで卵からふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、海に向かっていく途中で、トンビのようなカモメのような裁判官に狙われているわけです。そういう状況で生き延びるのは決して生やさしいことではありません。しかし、皆さんは生き延びる必要があります。一歩一歩現実を改善していき、法を実現する努力を重ねる必要があります。

私は、公判前整理手続における弁護戦略の指針として3つの原則を提案します。
第1の原則は「利益がなければ権利放棄するな」ということです。検察官請求の書証に同意をするということは、憲法が保障する証人審問権の放棄なわけです。検察官の立証に協力することです。ですから、書証に対する意見は原則「全部不同意」であるべきです。例外的に、証拠書類が被告人側の証明に役に立つという場合には、同意してもよい。そういうことです。権利放棄するからには、それに見合う見返りがなければいけない。それは当たり前のことですね。見返りがある時には書証に同意してもいい。だけれども、見返りがない時にはそれはやめましょう。

第2の原則、それは「知らない事実を認めるな」ということです。例えば、共犯事件で依頼人は犯罪の実行には加担していないが、共謀をしたと言われている事件です。数人の実行犯が被害者をぼこぼこに殴って殺してしまった;その遺体をばらばらにして山の中に捨てたという事件。依頼人は、その現場の何カ所かで実行犯と一緒に行動はしていたけれども、まさかそんなことになるとは知らなかったというような事件です。こういう事件に出会うと、すぐに「共謀が争点だ」と思いがちです。そして、共謀が争点なんだから、そのほかの実行犯の3人が被害者をぼこぼこにして、首を絞めて殺して、死体を切り刻んで川に捨てたということは「争いがない」というふうにまとめられてしまう。

実行犯たちと依頼人がどういうコミュニケーションをしたかが争点であって、被害者が彼らにぼこぼこにさせられて、殺されて切り刻まれたというのは、もう争わないんだというふうに決め付けちゃう。その結果、死体の損傷状態とか死因についての鑑定書とか、実行犯が自分たちの行為について語っている調書とか、そういうものを全部同意しちゃう。共謀に関する部分だけ不同意にする。これは大間違いです。その結果冤罪が起こるのです。なぜ冤罪なのかといったら、依頼人の知らない事実を認めているからです。本当に共謀がないんだったら、被害者が死んだことすら分からない;死体を切り刻まれたことすら分からない;実行犯どうしがどういう話し合いの結果それをやったのかも分からないわけです。だとしたら、解剖も、現場の状況に関する供述も、全部不同意にしなきゃ駄目でしょう。そうすることによって初めて、実際に何が行われたのか、実際の暴行の状態がどうだったのかということを、一から法廷で証言させることができるわけです。そのことが、実は共謀にとても大きな影響を与えるんです。実行犯が法廷で供述調書に書いてあることと違う行為していた、あるいは違うプロセスで被害者が亡くなっていたとすれば、そういう食い違いは共謀の成否に影響を与えざるを得ないのです。だから、依頼人が知らない事実を認めるのは絶対にやめましょう。

第3の原則は「利益がなければ主張するな」ということです。主張するということにはリスクが伴います。公判が主張通りに行くとは限らない。訴因については検察官が立証責任を負うわけですから、被告人の言い分が間違っていたというだけで有罪になるのはおかしい。しかし、職業裁判官のなかには、被告人の主張は信頼できない、だから有罪だというような認定をする人がたくさんいます。いずれにしても、弁護側が主張したことが証拠によって否定されるという事態は、弁護側の訴訟活動に対する信頼性を揺るがすことにつながります。

認否をしたり、反論をしたり、あるいは検察側に求釈明をすると、検察官に問題に気付かせ、立証のターゲットを絞る手助けになることが多いのです。ベテランの弁護士のなかには、相手の弱みを追及しているつもりになって細かい「求釈明」をする人がいます。これは逆効果です。

しかし、繰り返し言うように積極抗弁は主張しなければ勝てません。また、いわゆる「主張関連証拠」の開示を受けるためにはそれの根拠となる主張をする必要があります。積極抗弁を提出する事件などでは、物語性のある主張を公判前整理手続の段階で主張した方が得策な場合もあります。
要するに、われわれ弁護人はリスクと利益をはかりにかけて、利益があるというときには、主張を提出する。利益がなければ主張しない。こうした戦略的な判断をしなければなりません。これこそ、刑事弁護の醍醐味の一つと言えます。

裁判官は人を見て態度を変えます。私のようなすれっからしには「認否してください」なんて言いません。けれども、研修所を出たての若い弁護士にはどんどんプレッシャーをかけてくる。そこが彼らのずるいところですね。ヒトによってルールを変えるなんて言うのは「法の支配」の対極ですよね。そうした恣意的な訴訟運営に対して皆さんは堂々と異議申し立てをすべきです。「認否なんてしませんよ。金輪際」そう宣言してください。

刑事弁護というのは、孤独なものです。孤独に耐えプレッシャーに耐えて、依頼人の最善の利益のために全力を尽くすこと。そういう実践の繰り返しが皆さんを磨くはずです。重要なのはこういうことです。誰のために弁護をやっているのかを常に考える。弁護は裁判官を喜ばせるためにやっているわけじゃない。ときにはこういう言い訳をしたくなります――この裁判官とけんかをすれば、依頼人が困るんじゃないか。だから、自分は裁判官とうまくやっているだけだ、依頼人のために裁判官にへいこらしているだけなんだと。これは負け犬の発想です。いいですか。刑事弁護というのはそういう仕事じゃないです。刑事弁護というのは、にこにこしながら、相手に何かやってもらおうというお仕事じゃない。そうではなくて、相手の首根っこをつかんで、「どうだ、おまえ」と言うのが刑事弁護です。そのために、われわれは技術を磨かなければいけない。決して裁判官を喜ばせようなどと思ってはいけません。

質疑応答

――――20 年ぐらい前に著名な刑事弁護士の座談会で、いかに証拠を入手するか、いかに、得るかということを延々と議論しているのを見たことがあります。そういう意味では、証拠開示のところは劇的に、20 年ぐらい前に比べれば良くなったのではないかと思うんですが、この点について、ちょっと一言お話しいただけますか。

高野:私は、公判前整理手続と証拠開示制度というのを一体のものとして理解する必要はないんじゃないかと思います。証拠開示というのは独立した仕組みとして理解すればいい。今 20 年前と言いわれましたけど、ほんの 10 年足らず前と比べれば、これは劇的に改善しました。10 年前にどういうことが行われていたかというと、否認事件では、検察官側証人の検察官調書しか検事は開示しませんでした。検察官調書と言っても、最後のまとめの調書を1通開示するだけです。ほかの調書の証拠開示請求をしても検察官は、「請求予定がありませんので、開示しません」、この一言ですよ。それで、裁判官に証拠開示命令の申立てをします。裁判官は何と言うかというと、「現段階では職権は発動しません」、これだけです。

最高裁判所の判例によれば、主尋問が終わって反対尋問の段階で、証人の検察官調書を開示することが義務的になる場合があるということでした。検察官の主尋問が終わるまでは調書は1通しか開示されない。最後のまとめの検察官の作文の完成版だけですよ。さらにひどい場合もあります。私のやった否認事件で調書を一通も開示しないのがありました。検察官は証人請求をする、調書は証拠請求しないから開示しないというわけです。

供述調書以外の証拠、証拠物であるとか、検証調書であるとか、鑑定書であるとか、そういうものが開示されるなんていうことはほとんどなかった。最終的な鑑定書以外にもいろんな専門家の意見を検察官が聞いていることはあるわけですね。それは必ずしも検察官の意見を支えるような鑑定結果ではない場合がある。そういうものは全部隠されていた。検察庁の倉庫の中に眠っているわけ。それを開示しろと言っても開示しない。なぜかといったら、請求する予定がないからという。そういう状況で私は 20 年以上も刑事弁護をやってきました。最近それが劇的に変わって、天国みたいなものです。

――――今日お話を伺っていて、公判前整理手続の段階で、主張の取捨選択が厳密に行われ、審理時間等、尋問時間をきちんと決めるということが弊害であるということなんですけれども、そういう場面を任されている裁判官にとって、ある程度審理が計画的にできて、裁判員にも過重な負担をかけることなく審理に参加してもらえているという一面もあるのかなと思っているんです。

高野:計画的な審理、間接事実の争点を絞った審理によって、裁判員が利益を受けているかといったら全然受けていないと思います。その審理の結果、裁判員は、ある意味で細切れの事実を聞かされるんです。細切れの証言を聞かされる。そして、不十分な尋問で打ち切られる。つまり、裁判員は欲求不満な状態になっているわけですね。そして、長々とした調書の朗読を聞かされる。詳細な争点整理によって、裁判官と裁判員の情報格差が広がっていきます。その結果、裁判員は裁判官を頼りにする。裁判官に説明を求めることが多くまります。裁判官と裁判員は対等な事実認定者ではなく、裁判官は裁判員を導く指導者ということになってしまいます。

実際のとこと、裁判員はもっと重複した証拠を聞きたいはずです。同じことを別の証人から聞きたいはずです。あるいは同じ証人に繰り返し聞きたいはずです。つまり、重複というのは必要なんです。争点でない事実、つまり、一致している事実でも、それは発言する人によって違う色合いがあるはずです。裁判官はその事実を抽象化して、この事実は一致している、包丁を持っていたという事実は一致している。だから、そこの証言を繰り返す必要はないと言うかもしれないけども、まさに、その包丁を持っていた時のその人はどういうことだったのか、何をしていたのか、包丁をどのように持っていたのか、包丁とは何なのかということを別の人から繰り返し聞くということが、事実認定にとって実は大きな意味を持つことがある。そういうことによって人はある事実に納得できたり、あるいは納得できなかったり、疑問を感じたりするわけですね。

ですから、パズルのように事実認定をすることは不可能なんです。本当は合わないピースがたくさんあって、それがぐしゃぐしゃになった状態で事実というのを認定する、それが本当の事実認定だと、人間社会における事実の見方というのはそういうものだと思うんですね。そういうプロセスが保障されることで、様々なバックグラウンドを持った裁判員たちが常識を発揮できるんだと思う。実際には証拠が厳選されて、重複証拠がきれいに排除されて、尋問時間がきっちり守られことによって、裁判員はそういう人間的な部分を発揮できなくさせられていると私は思います。

――――公判前手続で裁判員の人に何も見せていないうちから期日まで指定されてしまっておかしいという話があったんですけれども、期日を仮に決めないと、結局だらだら延びていってしまうんじゃないかと思うんですが。だから、その期日を決めることは悪くはないんじゃないですか。

高野:裁判所の期日指定の仕方というのは、何月何日の何時から冒頭陳述をやると、検察 30 分、弁護が 30 分、で、その後 10 分間休憩をして、書証の取り調べを何時何分までやる。その後、だれだれ証人を何分間聞きます。論告30分、弁論は1時間。で、判決は何月何日何時に言い渡します。こういう決め方は変じゃないのということです。だって、まだ何もやっていないのに、どうして、その証人の尋問が30分で終わるとか、2時間で終わるとか、厳密に決めることができるんですか。1時間ぐらいとか2時間ぐらいというなら、話は分かりますよ。だからもうちょっとフレキシブルにやったらどうかと思います。

判決の言い渡しまで決めるのは決定的に間違っている。それは評議時間を決めていることになる。まだ裁判員の顔も知らないのに、なぜ、その人たちの評議が何日間で終わるなんて言えるのか。1時間で終わっちゃうかもしれないし2時間で大丈夫かもしれない。それなのに何で1週間もとらなきゃいけないのか。そういう話です。それは裁判員が来て初めて決められるべき話であって、裁判官に評議時間を決める権限なんかどこにもないでしょうというのが、私の意見です。

裁判員裁判にしろ裁判官だけの刑事裁判にしろ、法は連日開廷ということを言っています。連日開廷というのはまさにあなたが言ったように、「だらだらやる」ものなんですよ。公判というのはだらだらやらなきゃいけないんです。いつ終わるか分からないというのが連日開廷ということです。いつ終わるか分からないけれども、みんなが納得できるまでやりましょうというのが、本来あるべき姿です、違いますか。だって、結局やってみないと分からないでしょう。証人が予定したとおり、証言要旨記載書のとおりしゃべるなんて、誰が保証できますか。全く違う話をするかもしれない。証人からあることを聞き出すのに、5回言わなきゃ聞き出せないかもしれない。あるいは一瞬で終わるかもしれない。誰にも分からない。だから、だらだらやりましょうというのが集中審理です。

アメリカでもイギリスでも公判審理はそのように行われています。そして、日本でも昔はそのように行われていた。治罪法(1882年)の時からだらだらやりましょうと法律に書いてありました。明治刑訴(1890年)にも書いてあった。明治刑訴には、5日間法廷の期間が空いたら、もう一回最初からやり直せと書いてある。大正刑訴(1922年)には 15 日間空いたら、もう一回やり直せと書いてある。戦後の刑訴法(1949年)でそれはなくなったんです。その立法の際の政府委員の説明はこうです――「旧刑訴には 15 日と書いてありますけども、もうこれからは確実に毎日やりますから、この 15 日という規定は入れる必要はないのです」と。それが、議会で新しい刑訴法を議論した時の政府委員の説明です。

その結果どうなりましたか?5日間ですか、15 日ですか、1カ月ですか、2カ月ですか。なぜ、そうなっちゃったんですか?答えは簡単です。裁判官が悪いんです。裁判官が法廷で人の話を聞いてそこで判断するという仕事をやめちゃったからです。法廷で話を聞いて決めるんじゃなくて、その人がしゃべったことを記録した文書を後で読んで決めるというふうにしちゃったからです。だけれども、日本の法律にはそんなことどこにも書いてないですよね。速記録を読んで判決を書きなさいなんてどこにも書いてない。だけれども、裁判官は一切の法を無視して、そのほうが仕事が楽だから、そういうふうにしちゃったんです。だから、1カ月空いても2カ月も空いても平気で、途中で裁判官が変わっても平気で、判決を言い渡す。そういう仕組みを勝手に作っちゃったんですね。これは日本に近代的な刑事訴訟法が輸入された時の考えと全く違います。だから、松尾浩也先生は「ガラパゴス的な進化を遂げたんだ」と言っているわけです。近代的な刑訴の種が日本にまかれたけれども、戦後の日本の仕組みの中で全く違うものに生まれ変わっちゃったということです。

裁判員裁判は、それを本来あるべき姿にしましょうよという試みです。だらだらやりましょうよというのがまさに裁判員裁判の一つの目的だったと私は思います。

――――普段から裁判官に迎合するということ、裁判官に信頼されるということの違いというか、どこに境界があるのかということをよく考えるんですけれど、今日のお話だと、もちろん、徹底的に争うんだけれども、裁判官に信頼されるのは、自分でお勉強をして、ちゃんとした知識を身に付けて裁判官を説得するぐらいやれということだと聞こえたんですけど、先生の理解もそれでいいんでしょうか。

高野:すごくきれいにまとめていただいてありがとうございます。私は裁判官のことをすごく批判していますけれども、これは裁判官という職業がくだらないんだとか、裁判官という人たちはとても駄目なんだということを言っているわけではもちろんないんです。裁判官というのはとても大事な仕事だと思います。裁判官は刑事裁判がフェアに運営されるためにはなくてはならない人たちですし、彼らには一所懸命仕事をやってもらわなければいけないと思います。しかし、現実は法の理想とあまりにも違い過ぎて、裁判官の生活のしやすさ、裁判官の仕事のしやすさというようなものが、あらゆる価値よりも上に置かれているとしか思えないです。

先ほど、期日の話がありましたけれども、期日を先に延ばすことによって不利益を被るのは被告人なわけですよね。ほかの仕事がある、裁判員裁判があるから期日がここにしか入りませんというようなことを当然のように言われると、おまえ、何考えているんじゃと言いたくなるわけですね。やはり何が大事なのかという価値の序列の考え方がどこか狂ってしまっているような気がします。裁判所がスムーズに仕事ができるようにするということが、すべての価値を超えているような運用の仕方になっている。そうじゃないんでということを、裁判の価値というのは別のところにあるんだと、もっと守らなければならない価値があるんだということを、弁護士は彼らに分からせてあげないといけないんじゃないかというふうに私は思っています。

(完)



plltakano at 15:10コメント(0)トラックバック(0)刑事裁判裁判員制度 
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