2016年07月12日

昨日午後1時30分から102号法廷で控訴審第1回公判が行われました。報道されたとおり、こちらの証人申請はすべて却下され、弁論は終結されました。判決言渡しは9月7日午後1時30分と指定されました。

昨日主任弁護人高野隆が行った弁論は下記のとおりです。
なお、以下の資料も閲覧できます。
*第1審判決はこちら
*控訴趣意書はこちら


【高橋事件控訴審第1回公判における弁護人の弁論】

裁判長、
両倍席裁判官、

私どもが皆さんに判断していただきたいことは本年1月に提出した控訴趣意書の通りです。控訴の趣意は全17項目にわたり、趣意書は160ページを超えるものです。私どもは、皆さんに訴えたいことを厳選して申し上げました。原審の手続とその判断における違法のすべてを取り上げた訳ではありません。この国の刑事司法の運営のあり方として、看過できない、極めて深刻な問題のみを取り上げたつもりです。それはまた、私どもの依頼人高橋克也氏の人生を左右する重大な問題でもあります。

私どもがこの趣意書で取り上げた論点はいずれも皆様の判断を仰ぐにふさわしい重要かつ深刻な論点です。何一つ無駄な記述はありません。そして、そこに書かれていることがすべてです。趣意書には数カ所明らかな誤記がありますが、この弁論で趣意書に何かを付け加えるとか、削るとか、補足することはありません。

この弁論では、皆さんが控訴趣意の内容を調査し判断するうえで留意していただきたい点を数点申し上げるにとどめます。

まず私どもがお願いしたいのは、きちんと応答して欲しいということです。単に結論を示すだけではなく、きちんとした理由を示して頂きたいということです。通り一遍の紋切り型の理由ではなく、われわれが提示した法令や証拠を踏まえた議論に知的に応答して欲しいということです。

これは余りにも当たり前のことですが、私が敢えてここでこうした要望を皆さんに申し上げるには理由があります。

原審の訴訟記録にも現れていますが、原審裁判官と私どもとの間には、こうした知的なやりとりはほとんど全く行われませんでした。麻原彰晃氏や土谷正実氏の証人尋問が本件の争点と密接に関連することについて、公判前整理手続中もそして公判開始後も、弁護人は長文の意見書を提出したり、口頭で意見を述べたりして原審裁判官に訴えました。しかし、原審裁判官は全くなにも理由を述べずに、ただ単に証人申請を却下しました。却下決定に対して、私どもは理由を付して異議を申し立てました。異議を却下するならその理由もきちんと説明して欲しいとも申し上げました。しかし、中里裁判長は一切理由を述べずに、異議を棄却しました。

この不毛なやりとりは原審において何度も繰り返されました。5人の死刑囚の証人尋問に際して遮へい措置を施すこと、平田悟証人の尋問が予定された公判期日を取消し、同じ時刻に裁判所のなかで期日外尋問を行うことなどについて、私どもはそれが裁判公開原則や刑事被告人の公開裁判を受ける権利、証人審問権を侵害し、かつ、法律の定めにも違反することを書面や口頭で述べましたが、原審はこれに一切応答せずに、全くなにも理由を告げないままに、われわれの異議を退けて、遮へい措置や期日外尋問を実施しました。

そればかりではありません。われわれの違憲違法の主張が根拠があることを記録に残そうとするわれわれの活動を、裁判所は阻止しました。遮へい措置が証人自身に与える影響についてわれわれが証人に尋問することを制止しました。そして、遮へい措置が傍聴人の側にどのような影響を与えるのかを検証する申立てついても、これを拒絶しました。

原審裁判所が行ったことは、東京拘置所や検察官の要望に沿う訴訟運営をしたというだけです。なぜそれが必要なのか、なぜそれが憲法や訴訟法の規定に沿った訴訟運営なのか、弁護人の再三にわたる要求にもかかわらず、中里裁判長は一切説明しませんでした。これは民主制の下における裁判官の仕事ぶりとして正しいでしょうか?こうした訴訟運営と、全体主義国家における専断的な刑事裁判の運営と一体どこが違うのでしょうか?

1947年に任命された最初の15人の最高裁判事の一人、小谷勝重判事は、ある大法廷判決に付した個別意見のなかで、こう述べました。

「訴訟法は裁判所の執務の安易や簡便のために設けられているものではない」。

大法廷の法廷意見は、必要的弁護事件の控訴審裁判所が、控訴趣意書提出期限経過後に国選弁護人を選任しても憲法や刑訴法に違反するところはないと言いました。この法廷意見に対して、小谷裁判官は、必要的弁護事件における弁護人の選任は単なる「開廷の要件」ではない;それは被告人が弁護人による実質的な援助を受けるための制度であり、したがって弁護権の行使が可能な時期に選任をしなければ意味がないと言って批判する意見を述べました。

小谷判事のこの言葉は、その文脈を離れて、刑事訴訟手続というものが何のためにあるのかを、改めてわれわれに考えさせるものです。

刑事裁判の手続は、裁判所という役所、裁判官という役人が、その執務を効率的に進めるための便法ではないのです。それは、憲法が予定している公正な裁判を実現するために行われなければならないのです。

拘置所や検察庁の要請にしたがって死刑囚の証人採用を拒否したり、傍聴人と証人との間に分厚い遮蔽を施して証人が一般公衆の目に触れないようにする;それに異を唱える者の意見を黙殺する。そうすれば、手続は表面上波乱なく進み、拘置所との友好関係は維持され、裁判官の役人生活は安泰でしょう。しかし、それによって失われるものは余りにも大きいと言わなければなりません。

わが国の訴訟手続は、憲法と法令に則って行われるべきです。拘置所と検察庁と裁判所のお役所の都合がすべてに優先するというのでは、日本国はもはや法の支配を尊ぶ立憲民主主義の国とは言えないでしょう。

原判決は多くの証拠、証言を無視し、黙殺しました。高橋さんの故意や共謀を否定する方向の証拠を弁護人は最終弁論でるる指摘しました。しかし、原判決はその多くを全く取り上げませんでした。ただ黙殺しました。その一方で、有罪方向の証拠をつなぎあわせ、ときには想像によってこれを補い、最終的には検察官の主張通りの有罪認定を行いました。

原判決が黙殺した証拠の内容は控訴趣意書に書いたとおりです。一つだけ取り上げます。

原審に現れた証拠によれば、オウム真理教において「ワーク」と呼ばれる修業に従事する出家信者同士が行うコミュニケーションには際立った特徴がありました。それは、自分のワークが他の信者や教団との関係でどのような意味をもつのかについて、信者は関心がなく、むしろ関心をもつことを禁じられていたということです。例えば、運転のワークをする出家信者は、何時どこで誰を車に乗せてどこまで乗せていくのか、についてだけ関心を持ち、その人物が目的地で何をするのかについて一切関心を持たないということです。まるでタクシー運転手のように、そうしたことにコミットしないように訓練されていたということです。

出家信者の間のこうしたコミュニケーションの特徴は、原審に専門家証人として登場したオウム真理教研究者たちが異口同音に述べています。それだけではありません。検察側証人として登場した元信者たちも一致して証言していました。教団と縁を切って20年経過した現在でもその影響から抜け切れていないという証人もいました。

研究者の証言によれば、このコミュニケーションの特殊性は、偶然ではなく、オウム真理教の教義の中核部分に関係するものです。それは必然的で根深いものです。

すなわち、合法的なものであれ非合法なものであれ、「ワーク」は出家信者がその修業のステージを上り詰めるために、絶対的な存在である尊師麻原彰晃から直接的に与えられた宗教上の課題である;チベット密教と同様に、オウム真理教においては、修業はすべてグルと弟子の一対一の関係で行われるのであって、その間に第三者が介在することは許されない;したがって、他の信者がどのような課題=ワークを与えられているのかは一切関与するべきではなく、関与することは許されない。そういうことです。

控訴趣意書のなかで指摘したように、さまざまな分野の専門家がこのことを指摘しました。また、様々な立場の出家信者や最高幹部と言われた人たちも、異口同音にこれを指摘しました。このコミュニケーションの問題は、本件における高橋克也さんの故意や共謀の成否を考えるうえで非常に重要な事実であることは疑問の余地がありません。ところが、原判決はこの問題をほとんど全く検討しませんでした。

これはほんの一例に過ぎません。原判決は実に様々な証拠を黙殺しています。

どうか、皆さんは、そうした不誠実な態度をとらないで下さい。証拠を黙殺なさらないようにお願いします。仮に結論が私どものそれと異なったとしても、証拠を無視してその結論を導くのではなく、その証拠を細心の注意を払って検討した上でもなお、私ども弁護人の主張が成り立たない所以を私どもが納得できるようにご説明下さい。お願いします。

われわれ普通の日本人は、オウム真理教とその幹部たち、そして彼らが起こした事件について、なにひとつ証拠を見なくても、既に一定の具体的なイメージを持っています。世代によっては、20年前のあの出来事についてそれぞれの物語を語ることもできるでしょう。その物語の中に、一連のテロ事件の犯人のなかで逃亡を続けていた出家信者として、高橋さんが登場することでしょう。

こうしたイメージ、物語を完全に払拭して、白紙の状態で裁判の証拠に向き合うことは、ほとんど不可能かもしれません。われわれ全員にとってこの事件は既に歴史の一部です。われわれはみなこの事件について拭いがたいバイアス、予断を抱いているのです。

しかし、刑事裁判というものに意味があるとすれば、どんなに世間が予断に満ちていようとも、世間はとっくの昔に被告人を断罪していようとも、少なくとも事実認定者は、証拠に基づき、証拠のみによって、ゼロから被告人が有罪か無罪かを決定するべきであるということです。

原審の公判審理を通じて、オウム事件をめぐる歴史的な定説とは異なる証拠が幾つも登場しました。原審の裁判官も裁判員もそれらを無視することはできませんでした。しかし、甚だ残念なことに、彼らは自らの歴史的な予断を乗り越えることはできませんでした。証拠が歴史に反することを感じながらも、証拠に基づかない推論や想像によって、事実を歪曲してしまいました。いくつかの例を上げます。

われわれはみなこの裁判がはじまるずっと前から「ポア」という言葉を知っていました。オウムの出家信者の間では「ポア」という言葉は、「殺人」を意味する隠語として使われていたのだと思っていました。

しかし、原審の公判に現れた証拠によって次の事実が明らかになりました。――「ポア」は、チベット密教の修業の一つであり、死後により高い転生をえるための技法である;麻原彰晃もその説法のなかで「ポア」の意味をそうした宗教用語として使っていた;説法のなかで悪業を積む人を殺害することが宗教上「ポア」となる可能性を示唆する発言があったが、信者はそれを一つの宗教的なたとえ話と理解していた;麻原と最高幹部の間で殺人の隠語として「ポア」が使われることがあったが、それはごく限られた人たちの間でのことだった;高橋さんが「ポア」という言葉を殺人を意味する言葉として使っているのを聞いた人はいないし、彼にそれを説明した人もない。

こうした証拠関係を冷静に見つめるならば、「誰々をポアする」という麻原の計画が高橋さんに伝えられたとして、高橋さんがそれを殺人計画であると理解したということは、簡単には認定できないはずです。

ところが、原判決は、こうした証拠を全く無視して、ポアは「客観的には殺人に当たる行為をすることを意味するものとしても用いられていた」「このことを被告人も認識していた」などと実にあっさりと断定してしまいました。一体どこに、麻原が説法の中でポアを殺人を意味する言葉として使っていたという証拠があるんでしょうか。そのことを高橋さんが理解していたという証拠がどこにあるんでしょうか。

假谷事件では実行犯たちは假谷清志さんを麻酔薬を使って眠らせて拉致することを共謀し、彼は麻酔薬の副作用で亡くなったというのが、定説です。

しかし、原審の公判ではこの定説に反する証拠が沢山登場しました。そもそも、高橋さんに麻酔薬の使用を説明した人は一人もいませんでした。高橋さんは、「信者の居場所を知っている人を上九一色村の教団施設に連れて行くのを手伝って欲しい。ワゴン車に押しこむのを手伝って欲しい」と言われただけです。そして、上九一色村で中川が林郁夫から假谷さんの監視を引き継ぐ段階では、假谷さんは麻酔薬の影響から脱していて、その副作用によって亡くなるような危険はなかったという林郁夫の明確な証言がありました。

原判決はこうした証拠を深刻に受け止めませんでした。

電話をするために15分間假谷さんのそばを離れている間に假谷さんが亡くなったという、全く何の裏付けもない中川の証言のみによって、假谷さんは麻酔薬の副作用で亡くなったのだと認定しました。

そのうえで、麻酔薬を使うかどうかは、逮捕監禁の手段に過ぎず、犯罪の主要部分(骨格)ではないから、假谷さんを拉致することについて知っていた以上、高橋さんは逮捕監禁致死罪の正犯として責任を負うのだと断定しました。

しかし、車に押し込むとしか知らされていない人に、麻酔薬を使った逮捕監禁罪の共謀まで認めるというのは、われわれの常識に反するのではないでしょうか。しかも、麻酔薬で亡くなったことの責任まで負わせるというのは、さらに非常識ではないでしょうか。

犯罪の手段は「骨格」ではないという原判決の基準をそのまま適用すれば、たとえば、「あいつ気に食わないから、ちょっと懲らしめてやろう。焼きを入れてやろう」と言われて、1,2発ビンタする程度だと思って、これに賛同した人は、実行犯が鉄パイプで被害者の頭を殴り、被害者が脳挫傷で亡くなったことについても、正犯として責任を負わなければなりません。それは刑法の正しい解釈と言えますか。

われわれの歴史の中にある「地下鉄サリン事件」では、麻原彰晃や村井秀夫から指示された井上嘉浩が今川の家や渋谷ホームズで、実行犯や運転手役に向けて「地下鉄にサリンを撒く」という計画を告げた;実行犯はもちろん運転手役も地下鉄に猛毒のサリンを撒くというテロ計画を明確に認識して犯行に及んだということになっています。

検察官も起訴状にそう書き、証明予定事実記載書でその詳細な経過を書き、そして、公判開始後の冒頭陳述でそう説明しました。しかし、証拠はこれとぜんぜん違う事実を指し示しました。

今川の家でも渋谷ホームズでも「サリンを撒く」ということを誰も告げていないという事実が浮上してきたのです。つまり、高橋さんは地下鉄にサリンが撒かれるということを誰からも知らされませんでした。地下鉄に何かを撒くということは理解しましたが、それが何かは知らされていなかったのです。

ところが、原判決は、高橋さんがサリンを撒くことを知らされていなかったことを認めながら、「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」を撒くことは想像できたはずだと認定しました。

これは公正な裁判といえるでしょうか?本件の争点は高橋さんが「サリンを撒く」という説明を井上から受けていたかどうかでした。検察側の立証は完全に崩壊しました。高橋さんは誰からも「サリンを撒く」という説明を受けていなかったのです。だとしたら高橋さんは無罪でなければおかしいでしょう。

誰もそれまで言ってなかった「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」などという得体の知れない物質を創造して有罪にするというのは、「後出しじゃんけん」と同じように卑怯なやり方ではないでしょうか。

「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」ってそもそも何でしょうか。豊田亨を車に乗せて中目黒駅に向かう直前に渋谷ホームズで高橋さんが見たもののことでしょうか。それは透明なビニール袋に入った茶色い液体でした。実行犯たちはみなそれを素手で掴んでいました。内側の袋が破れているものもありました。その様子を見てそれが「人を死亡させる危険性が高い揮発性の毒物」だと思う人がこの世界に一体何人いるでしょうか。

都庁事件は都知事や都庁に勤務する人々の無差別殺人を狙った爆弾テロ事件だというのが、われわれの歴史上の定説です。しかし、ここでもそれと異なる証拠が公判で登場しました。

この事件の計画をした最高幹部たち――井上、中川、林泰男、豊田亨――は誰ひとりとして、人を殺すことを考えていませんでした。麻原からの指示――いわゆる「有能神メッセージ」――にも殺人は含まれていませんでした。

そして、さらに、中川が作ったRDXはわずか10グラムでした。爆発物の人体への影響を長年にわたって研究している専門家は、この量では、とたえ人体の至近距離で爆発したとしても人は死なないと証言しました。

そして、起爆装置を作った高橋さんは爆薬の中に鉛玉を入れることに反対し入れませんでした。

こうした証拠を常識にしたがって判断するならば、この事件はそもそも殺人事件ではなかったというべきでしょう。しかし、原判決は、麻原の「有能神メッセージ」から「人の殺傷の可能性をも想定したそれなりに大きな事件」を「容易に想像できたはず」だと言って、高橋さんを殺人未遂罪で有罪としてしまいました。誰も証言していない、「想像できたはずだ」という、文字通り「想像」によって殺意が肯定されてしまったのです。

確かに、われわれは予断を持って生活しています。普段の生活のなかで何かを決めるときに、厳密に証拠を求めることなどしないでしょう。オウム真理教の事件を雑談のテーマにするのであれば、本やネットに書いてあることを喋っても何も害はないかもしれません。

しかし、刑事裁判でそれは許されないはずです。高橋克也という一人の男性がこれから先一生刑務所で過ごさなければならないかどうかという極めて重大な決定をするのです。そのために公開の法廷で厳粛な手続で証人尋問が行われるのです。

事実認定者はそうして登場した証拠に忠実に従う義務があるはずです。たとえ、それが歴史の定説に反していようと、それまで信じて疑わなかったことと異なっていようと、事実認定者は証拠を離れて、想像や思い込みで事実認定をすることは許されません。まして、それを無視することなどあってはならないことです。

裁判がはじまる前から結論が決まっているなら、それは裁判ではありません。ただのリンチです。

ありがとうございました。



plltakano at 11:18コメント(0)トラックバック(0)高橋事件刑事裁判 

2016年04月26日

公判前整理手続がむやみに長くなる原因を整理しておこう。それとともに、その原因を取り除いて手続を短縮し、充実した公判を早期に開始するための方策を考えてみたい。

「間接事実の交換」

検察官が詳細な間接事実の主張を行う;弁護側がそれに対する認否や反論をする;それを踏まえて検察官がさらに書面で反論をする、というような、民事の準備書面の交換に類比される「間接事実の交換」を繰り返すことが、公判前整理手続を長期化させる最も大きな原因の一つである。そもそも、法はそうしたことを要求しておらず、これが公判を形骸化させ、裁判員と裁判官との間の情報格差、裁判官による裁判員の誘導の原因となっていることはすでに述べたとおりである。

刑事訴訟規則193条1項は「検察官は、まず、事件の審判に必要と認めるすべての証拠の取調を請求しなければならない」と定めている。また、刑事訴訟法は、裁判所は検察官の証明予定事実記載書と証拠請求の期限を定めるものとし(316条の13第4項)、同規則はその期限の遵守義務を定めている(217条の22)。しかし、これらの規制は事実上死文と化している。裁判所は、公判前整理手続に付する決定をするのと同じ頃に、検察官に対して、法にしたがって証明予定事実記載書の提出と証拠調べ請求をする期限を指定はする。しかし、この期限は検察官の主張と証拠請求のタイムリミットとしての機能を全く果たしていない。なぜなら、この期限はあくまでも検察官が「最初の」証明予定事実記載書と証拠調べ請求をする「期限」の意味しかなく、そのあとでも検察官は第2、第3の証明予定事実や証拠の請求ができると理解されているからである。

検察官は、「弁護人の主張を見なければ、争点が明らかではなく、十分な主張立証はできない」などと言う。弁護人が正当防衛とか心神喪失というような積極抗弁(affirmative defense)を主張する場合は、確かに、弁護人の主張と証拠提出を待たなければ検察側の有罪立証は困難であると言える。しかし、訴因の成否だけが問題となるケースでは、検察官は弁護側の主張がどのようなものであれ、訴因を構成するすべての事実を合理的な疑問を超える程度まで立証しなければならないのである。そして、検察官は捜査の過程を通じその強制権限を駆使して、有罪立証に必要な証拠を収集できるはずであり、それができたと考えたから起訴したのである。起訴と同時に、訴因の組み立てに必要な事実関係を主張し、その立証に必要な全ての証拠の取調べを請求することは容易にできるはずである。弁護人の主張立証を待たなければこれができないという理由は全然ない。

書面による「間接事実」の交換をむやみに繰り返させないためには、まず、刑訴法と刑訴規則による期間制限を厳格に適用する必要がある。裁判所が設定した期限のあとに検察官が証明予定事実記載書や証拠調べ請求を追加提出しようとするときは、裁判所が設定した期日まで提出できなかったことがやむを得ないと言える事情がある場合でなければならないであろう。

弁護側が主張明示義務を負うのは、積極抗弁を提出する場合だけであり、訴因事実について「認否」や「反論」を予め主張する義務はないということを三者が理解していれば、「間接事実」を巡っていつまでも書面のやり取りを続けることはなくなるはずである。積極抗弁を提出しない場合、弁護側は検察側立証に対する反証をするための証拠調べ請求だけをすれば良い。そのために予定主張記載書を提出する必要はない。証拠の関連性が分かる程度の立証趣旨を記載した証拠調べ請求を行えば足りるのである。

そもそも、検察官の証明予定事実記載書は必要なんだろうか?わが国の刑事裁判においては、検察官による訴追内容すなわち裁判の対象は「訴因」に明示されるのである。訴因はそれ自体において明確でなければならないのである(刑訴法256条3項)。訴因を明確にするために、その背景事情を説明する必要はないし、むしろ、法はそれを禁じているのである。すなわち、「起訴状には、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用してはならない」のである(同条6項)。

公判が開始される前に、請求証拠との関係を「具体的に明示」しながら(刑訴規則217条の20)、訴因を立証する「間接事実」(情況証拠)を主張するというのは、起訴状とともに証拠の抜粋を裁判官に交付しているのとほとんど同じことである。経験を積んだ裁判官であれば、こうした証明予定事実記載書を読めば、検察官がどのような証拠を持っており、その立証活動がどのように展開するのかを手に取るように理解できるであろう。要するに、証明予定事実記載書は裁判官に事実について予断を与える文書に他ならないのである。

検察官が取調べ請求する証拠の関連性を判断するために証明予定事実記載書が必要だということもない。証拠調べ請求をするときには、その証拠の立証趣旨を明示することが必要であり(刑訴規則189条1項)、それで十分である。実際のところ、平成16年の刑訴法改正まではわれわれはそうしてきたし、公判前整理手続が行われない事件ではいまでもわれわれはそうしているのである。

証明予定事実記載書は裁判員のためには全く役に立たない。裁判員は公判前整理手続が終わった後に登場するのである。そして、彼らはそれを読まない。そうすると、結局のところ、検察官の証明予定事実記載書は、裁判官に事件についての予断を与え、彼らが検察の立証の展開を予測する手助けをするだけである。全くそうした情報を持たない裁判員とこうした情報をふんだんに得られる裁判官との間の情報格差は、ほとんど絶対的と言って良い。こうした絶対的な情報の非対称性を温存したまま、「意見の重みは同じです」などと言ってみたところで、裁判官と裁判員との間で平等かつ公正な評議ができるだろうか。できるわけがない。しかも、職業裁判官は当事者双方に「証拠の厳選」を要求し(刑訴規則189条の2)、あとから来た裁判員たちが見聞できる証拠の量を極力少ないものにしようとしている。情報格差は広がるばかりである。

検察官に証明予定事実記載書を提出させる法律は一刻も早く廃止されるべきである。法改正が行われるまでわれわれにできることはなんだろうか。まず、裁判官に予断を与える危険性が高い書面――例えば、証拠の内容を引用しているあるいは引用と変わらないような記載に対しては、異議を申立て削除させることである。それから、認否や反論、求釈明などをしないことである。そうした反応をすることで、裁判官はますます予断をもつことが可能となるからである。認否や反論は法的な義務ではない、ということを肝に命じて、裁判官の理不尽な要求を跳ね返すべきである。

証拠開示までの時間

現行法上弁護側は検察官の証拠調べ請求を待たなければ証拠開示請求をすることができない(刑訴法316条の15第1項)。検察官が証拠調べ請求をするのは、起訴から2、3週間後であることが多い。ときには「証拠の整理に時間が掛かる」などと言って、1ヶ月も2ヶ月も証拠調べ請求をしないことがある。弁護側はその間ただ待つだけである。検察官によっては、「任意開示」をしてくる場合もあるが、全証拠を開示するわけではなく、証拠のリストの開示も行われない。現在国会で審議中の刑訴法改正案では、弁護人の請求によって「検察官が保管する証拠の一覧表」の交付が行われることになっている。しかし、それができるのは、やはり、検察官が証拠調べ請求をした後である。

検察官は起訴の段階で全証拠の内容を把握しているはずであり、当然に、全証拠のリストを持っているはずである。そうでなければ、証拠を管理することもできないだろう。起訴と同時に証拠のリストを弁護人に交付することは簡単にできるだろう。「任意開示」というならば、むしろ任意の証拠リストの開示を行うべきである。起訴から間がない段階で全証拠のリストの開示を受け、適宜その中から必要な証拠を閲覧することができるならば、弁護側は早い段階で――検察官による証明予定事実記載書の提出や証拠請求が行われるのを待つまでもなく――訴因に対する態度――有罪を認めるのか、無罪を主張するのか――を決定することができる。訴因に対する態度決定こそが本来の意味の「争点の整理」である。これがいち早く行なわれ、後述するように、自白事件の審理を迅速に進める方策をとるならば、否認事件も含めて、公判前整理手続の期間は大幅に短縮されることになるだろう。

書証を請求すること

ほとんど全ての事件で、検察官は、間接事実の主張を伴う証明予定事実記載書とともに、その全事実関係と情状関係を証明する証拠書類の取調べを請求する。しかし、それらがそのまま採用されるケースは殆どない。否認事件では多くの証拠書類の取調べに弁護人は同意しない。証拠書類は基本的に伝聞証拠であるから、弁護人が取調べに同意しない限り証拠にはならない。その結果、検察官はあらためて、その供述者の証人尋問を請求することになる。この間のやり取りだけで数ヶ月の時間が経過してしまう。

自白事件でも、裁判員裁判では、最終的には証人尋問を主体とする立証が行われるのであり、検察官が最初に請求した書証がそのまま公判で採用されることはそれほど多くない。ここでも最初の証拠請求の段階で証人尋問の請求をしておけば、時間を短縮することができるのである。

最初の証拠請求の段階から人証中心にするためには、起訴後の早い段階で、自白事件なのか否認事件なのかという選別を行うことが不可欠である。そのためには、起訴から間がない時期に十分な証拠の開示が行われ、「否認」なのか「自白」なのかの選別だけを行うための期日(罪状認否期日)を開く必要があるだろう。

統合捜査報告書の作成

裁判官は、弁護人に対して、自白事件でも否認事件でも、検察官請求の書証の一部に同意するように迫る。これが不当なことは既に述べたとおりである。裁判員裁判では、こうして同意された書証をそのまま採用するのではなく、検察官がそれらを検察官作成の報告書――「統合捜査報告書」と言う――にまとめ、それを証拠として採用し、オリジナルの書証は撤回するという運用が多い。これにも時間がかかる。

統合捜査報告書は当事者の一方である検察官が作成する書類である。実質的にも形式的にも、それは検察官の主張するところをなぞったものとなる。現在の実務では、検察官は冒頭陳述を行う際に、事案の概要や検察官の立証の概要を書いたA3サイズの書面を提出する。その後に検察官が提出して取調べられる「統合捜査報告書」は、このA3の書面と形式的にも内容的にもマッチしたものになっていることが多い。その朗読を聞かされ、書面を見た裁判員は、検察官が捜査を行い、それが正しかったのだという経験を繰り返すことになる。統合捜査報告書の内容が、実は、弁護人と検察官の合意した事項なのだという実質はどこにも現れず、裁判員はそれを理解できないまま審理をすすめることになる。

検察官が作る捜査報告書に弁護側が同意するという実務はやめるべきである。争いのない事実関係は、多くの場合、弁護側の主張立証にとっても有用な事項である。そうであれば、検察官と弁護人が協議して合意書面を作成し、それを証拠として採用する(刑訴法327条)という方策が採れる。その方が公正であり、実態を反映した証拠と言える。書証の請求→一部同意→統合捜査報告書の作成→同意というプロセスを回避して、最初から供述関係は人証を請求し、現場の客観的な状況を示す見取図や写真、あるいは、電話やEメールの通信記録、銀行の送金記録、身分関係などについては、双方の協議で合意書面を作成する、ということにすれば、時間の大幅な節約になるだろう。

公訴事実に争いがない事件では、公訴事実の内容を1通の合意書面に作成して、この合意書面のみで有罪立証することができる。このことに法的な問題は何もない。被告人の自白や有罪の自認(有罪答弁)だけで有罪を宣告するわけではないから(刑訴法319条2項3項)、これは完全に適法な手続である。これによって、公判前整理手続も公判自体も大幅に短縮される。そして、公判では本来の「争点」である量刑に関する事実認定のための証拠調べに焦点をあてることができる。

裁判官の不足・1-4制公判の不活用

刑事裁判の公判は本来連続的に行われるべきものである(刑事訴訟法281条の6)。一度開始したら判決言渡しまで連続して行われなければならない。治罪法(1880年)では公判が5日間以上中断したときは裁判のやり直し(更新)が必要であった(268条2項)。明治刑訴法(1890年)も同じである(183条2項)。大正刑訴法(1922年)ではこの期間は15日間に延長された(353条)。戦後の刑訴法は、公判期日の間隔の日数制限を削除した。政府委員は「今後の訴訟手続は、迅速な裁判という趣旨に基きまして、どんどんと行われるということも考え」て、この規定を削ったのだと説明した((参議院司法委員会会議録45号4頁)。ところが、事態は全く逆の方向に行ってしまったのである。

この「ガラパゴス的進化」にともなって、現在の裁判所の人的体制そのものが「連続開廷」を困難なものにしてしまった。裁判官が一つの事件の公判に集中的に取り組むことがそもそも難しくなってしまったのである。そして、これが公判前整理手続の長期化に大きく寄与しているのである。裁判所の合議部は、通常数十件以上の事件を抱えている。複数の裁判員裁判の公判前整理手続が併行して進んでいることも珍しくない。そして、合議部を構成する3人の裁判官のうち2人(裁判長と右陪席)は合議事件の他に、それと同じ数あるいはそれ以上の数の単独事件を持っている。

裁判員裁判は連日開廷することが他の事件よりも強く要請される。したがって、公判前整理手続の過程で、裁判員事件の審理に見込まれる期間――1週間とか2週間とか――の日程を予め抑えておく必要がある。別の事件の公判予定がすでに入っているので、1週間や2週間の連日開廷日を確保できるのは数カ月以上先である。そして、裁判官は、他の事件も出来るだけ早く処理したいと考えている。だから、本来であれば週5日連日開廷すべきところを、3日とか4日に限定して、空いた日に別の事件の公判期日を入れるのである。

裁判官は「週5日開廷したら、裁判員が疲れる」とか「裁判員も他の仕事がある」などという言い訳をしているが、これは実態に反する見苦しいいい訳である。「裁判員の負担」を口実に自分たちの仕事を効率的に処理したいだけである。普通の大人の市民(会社員、経営者、家庭人、学生)にとって、週に3日、一日おきに3週間拘束されるよりも、9日連続で(1週間と4日)仕事に集中して早く開放される方が望ましいことは常識である。そして、多くの市民は裁判員という職責を真剣に考えている。彼らはそれに集中したいと考えている。1日おきに証言を聞くより、毎日証言を聞くほうが証言の内容を鮮明に記憶することができ、事件の真相をより深く理解できるに違いない。

現在の事態を根本的に改善するためには裁判迅速化法が言うように「法曹人口の大幅な増加、裁判所***の人的体制の拡充」が必要なのかもしれない(裁判迅速化法2条2項)。しかし、現在の体制を前提にしても幾つかの改善策がありうる。一つは先程述べた、自白事件と否認事件の選別を早期に行い、合意書面を活用して自白事件の審理時間を大幅に短縮することである。

もう1つは、現在全く死文と化している、裁判官1名・裁判員4名による公判(裁判員法2条3項)を活用することである。自白事件のうち量刑に関する事実関係についても争いがあまりない事件については、この裁判官1名・裁判員4名の合議体(「1・4制」)で審理をすべきである。例えば、午前中に裁判員の選任から証人尋問と論告弁論までを行い、午後に評議と判決言渡しまでを行うということも不可能ではない。いずれにしても、1・4制による公判を行うことを法は予定していたのであるから、裁判所にはこの制度を使う責任があるはずである。

裁判員裁判の半数以上を占める自白事件の審理が1・4制によって処理されることのメリットは、裁判官の人員配置という点でも、非常に大きいと思う。例えば、3人の合議部に10件の裁判員裁判が係属しおり、そのうち5件が1・4制適合事件だとすると、裁判長と右陪席がこの5件を手分けして1週間で処理すれば、残り5件の否認ないし複雑な事件だけを3人で処理すれば済む。このメリットを最大限に活かすには、一つの合議部に4人の裁判官を配置して、そのうちの1人は1・4制の裁判を専属的に扱うというローテーションを組むことである。

詳細な審理予定の策定

裁判員裁判を担当する裁判官はとにかく詳細な審理予定を定めたがる。双方の冒頭陳述の時間から、書証や証拠物の取調べ時間、証人に対する主尋問、反対尋問、補充尋問の時間、最終弁論の時間まで、そしてさらに、評議の時間まで、分刻みで決めようとする。こうした詳細を極めた審理予定を作るために、当事者に細かい認否をさせたり、証拠の立証趣旨を細かく釈明したりする。要するに、事件の心証が採れるくらいでなければ、詳細で正確な審理予定など作れないのである。いずれにしても、当事者の意向を確認し、調整しながら、こうした予定を作るために何週間もの時間をかけるのである。

そして、公判ではこの予め定められたシナリオのとおりに手続が進行することを極力確保しようとする。弁護人の弁論が予定時間に近づくにつれて裁判長は苛立ちを隠さず、法廷の時計を凝視する。ストップウォッチを弁護人に向けて差し出すしぐさをした裁判長もいた。こうした極端なまでの「事前準備主義」とその「励行」が公判前整理手続の肥大化と公判の形骸化をもたらす元凶の一つであることはすでに述べたとおりである。

予定は予定であり予定に過ぎないのである。公判を真に生き生きとした実体審理の場にするためには、訴訟関係人がその場で思うとことを心置きなく主張し、かつ、その証明を行う機会を十分に与えられるべきである。その場ですべてを出さないかぎり後がないという「一回性」の緊張感のなかで、臨機応変に口頭での法廷技術を駆使できるようにしなければならない。「時刻表」から外れることは許さないというような状態ではそうした審理は期待できない。予定よりも尋問が延びたとしても、その尋問が関連性のあるものであるならば、それを許さなければならない。弁論が予定の時刻を過ぎても、裁判員がそれを熱心に聞いており、それが聞くに値する内容であるならば、それを遮る理由はない。これを遮ることは不当な弁論制限である。現代の日本の裁判官に、多少の逸脱や回り道を許容するいわば「大人」のゆとりや寛容の精神と呼べるものを期待することはほとんど不可能であるとしても、証拠法上の関連性の法則に従い、憲法上の弁護権を保障する職責があることは否定できないのである。

審理予定は分刻みで決めるべきではない。ざっくりと決めるべきである。例えば、証人尋問の時間は日にち単位あるいはせいぜい午前か午後かという範囲で決めるべきである。時には複数日にわたる予定を決めて、証人にはその両日の日程を確保することを要求するべきである。証人の出頭義務や証言義務は、憲法体制のもとにおける統治機構を支える根本的な義務である。それと当時に、それは個人の基本的権利である正義と自由を実効的に保障するために必須の義務なのである。日本の裁判所は国民に対して証人としての義務が、この国が自由で秩序ある国であるために必要不可欠な崇高な義務であることをきちんと説明するべきである。

公判日程はおおむねの期間として指定され、裁判員予定者に告知されるべきである。判決宣告日すなわち評議時間をあらかじめ決めることは、許されるべきではない。評議のプロセスは裁判官と対等の事実認定者である裁判員が協議して決めらなければならない。

あるべき公判前整理手続のイメージ

以上のことを踏まえて、あるべき公判前整理手続の流れを提案したい。

1 起訴と同時に検察官は手持ち証拠の一覧表を弁護人に交付する。
2 弁護人は一覧表の中から訴因に対する態度決定をするのに必要と思われる証拠の開示を検察官に要求し、検察官はそれを開示する。
3 裁判所は起訴から2〜3週間程度の後に罪状認否のための公判前整理手続期日を指定する。この期日は必ず公開法廷で行い、被告人は必ず出席する。
4 罪状認否期日において、裁判所は被告人と弁護人に訴因に対する答弁を求める。答弁は、1)有罪、2)無罪、そして、3)沈黙あるいは留保の3種類とする。
5 被告人と弁護人が有罪を自認したときは、
(1)検察官と弁護人は、訴因の内容が関係証拠から真実であると認められる旨を記載した合意書面を作成する。
(2)裁判所は、合意書面の採用決定と、事件を裁判官1名・裁判員4名の合議体で審理する旨の決定を行い、双方の意見を聞いたうえで、双方が量刑に関する証拠調べ請求を行う期限を決定し告知する。
(3)検察官、弁護人双方とも、できる限り証人尋問の請求を行い、書証の請求は避ける。
(4)裁判所は上記期限の後に、証人等の採否決定を行い、裁判員選任手続期日と公判期日を指定する。
6 第4項の期日に被告人又は弁護人が無罪あるいは留保の答弁を行ったときは、
(1)裁判所は、双方の意見を聴いて、検察官の証明予定事実記載書の提出及び証拠請求の期限を定める。
(2)検察官は、供述証拠に関しては、できる限り証人尋問の請求をする。
(3)弁護人は第1項で交付された一覧表にもとづいて、証拠開示請求を行う。
(4)弁護人は、積極抗弁を提出するときは予定主張記載書を提出し、証拠調べ請求書を提出する。積極抗弁がない事件では証拠調べ請求書のみ提出する。
(5)裁判所は、証拠決定を行い、公判期日を指定する。

これらの手続は現行法のもとでも実施可能である。


plltakano at 21:23コメント(0)トラックバック(0)裁判員制度刑事裁判 

2016年04月11日

*これは2011年6月23日弁護士会館(東京)で行われた刑事弁護フォーラム主催「若手ゼミ」において、若い弁護士と司法修習生向けに行った講演の記録に加筆したものである。

はじめに

皆さん、こんばんは。高野です。刑弁フォーラムの若手ゼミというと、私はもう3度目か4度目になるかな、毎回、毎回、反対尋問の話をしてくれと言われて反対尋問の話ばかりしてきました。私は反対尋問の話ししかできないんじゃないかと、そういう評価が固まりつつあるので、ほかの話もできるんだよということ示したいということで今回このテーマを選びました。

このテーマを選んだ第二の理由は、私自身、この制度が導入されて以来、何度も公判前整理手続を体験しましたけれども、その結果、この手続は最悪だという確信をいだきました。それは私個人の体験だけではなくて、私にいろいろな相談を寄せてくれる若い弁護士の体験でもあります。むしろ、私のような人間は、裁判官からいじめられたり要求されても、それを無視したり突っぱねたりしますし、そういうことを裁判官も知っているものですから、あまり強く言わない。ところが、若い弁護士は、生まれたばかりの、ふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、カモメに簡単に食べられちゃう感じですね。若い弁護士が裁判官からああしろこうしろと言われて、泣きながらいろんなことをやっている、こんなんで良いのでしょうか、という相談を何度も何度も受けています。

そうした運用が一つのスタンダードになりながら、徐々に、本来あるべき公判前整理手続の姿というものも変質していき、本来公判手続を充実したものにしようとして生まれた制度なのに、かえって公判を形がい化しているのではないか。何とか若い皆さんに、ここは踏ん張ってもらわなきゃいけない。公判前整理手続というのをちゃんとしたものに作り変えていくのは皆さんですから、皆さんがそれなりの技量を身に付けて、裁判官の職権的な訴訟運営に対してノーと言える弁護人になってもらいたいなというふうに思っているわけです。それが、今回、公判前整理手続の話をしようと思った第二の理由です。

公判前整理手続の肥大化

最初に私がお話しするのは、現実に行われている公判前整理手続はどんなものかということです。公判前整理手続というのは、条文に書いてあるように、「充実した公判審理を継続的、計画的かつ迅速に行うため」に行うものです(刑事訴訟法316条の2第1項)。これは、平成 16年の刑訴法の改正でできたわけですけれども、その前に、「裁判の迅速化に関する法律」(平成15年)ができまして、「第1審の訴訟手続については2年以内のできるだけ短い期間内にこれを終局させ[る]」という目標を掲げました。そのために、「法曹人口の大幅な増加、裁判所及び検察庁の人的体制の充実」などと並んで「訴訟手続その他の裁判所における手続の整備」を要求したこと(裁判迅速化法2条1項、2項)から刑訴法の改正に至ったものです。しかし、結論から言うと、現実の公判前整理手続というのは、公判審理の充実にも迅速化にも全く役に立っておりません。

公判前整理手続によって事件はどんどん長くなっています。私がやっている否認事件などでは、公判前整理手続だけで2年もやっています。そういう事件は決して珍しくありません。いつになっても公判が始まらない。そして、裁判員裁判ならまだ公判それ自体は集中的に迅速に行われますけれども、裁判員裁判以外を見ますと、そのようにして1年以上公判前整理手続をやりながら、公判は全然集中してないです。2週間に1回とか、下手をすると1カ月に1回ぐらいのペースで公判をやる。一体何のための公判前整理だったのかというような事態になっているんですね。このように、公判前整理手続が量的に肥大化している。

それから、さらに問題なのは質的な肥大化です。本来、公判前整理手続というのは、公判で決着をつける、公判を充実したものにするためにやるものです。法律にも書いてありますね。「充実した公判審理」と書いてあります。それを計画的に迅速にやるということになっているわけですけども、この目的も全然達成されていません。公判前整理手続をやった結果どういうことが行われているかというと、裁判の本体である公判手続が形がい化している。公判前整理手続の中でほとんどのことがもう決められてしまって、公判自体はもう付け足しになってしまっている。公判前整理手続の中で、すべてがもうほとんど終わってしまっているという状況になっているわけですね。それが現実です。

公判前整理手続というのは公開の法廷でやるものではないんですね。身柄拘束された被告人が参加したいという時には、裁判所の警備の都合上法廷でやりますけれども、非公開ですね。こちらが公開でやれと言っても、裁判官は公開でやらないです。つまり、非公開の場所で当事者がさまざまな書類のやりとりをしたり、言葉でやりとりをする。このやりとりを通じて事実認定が事実上おこなわれています。公開の場で「公判」という形式でやられるのは、その抜け殻だけです。

認否・反論の強要

その中身を少しずつお話ししていきたいと思います。まず、刑事訴訟法 316 条の 14 にあるように、検察官が証明予定事実というのを出します。検察官が公判で証明しようとする事実を出すということ。公開の法廷で行われる冒頭陳述というのがありますけども、冒頭陳述で述べるようなことを非公開の公判前整理手続でまず出して、それを支える証拠の請求までさせる。関連して弁護人が検察官の手持ち証拠のうち一定の類型にあてはまる証拠の開示請求(これを類型証拠開示請求と言います)をします。これに応じて検察官が、自分が法廷に出したい証拠(請求証拠)以外の手持ち証拠のうち法律の要件を満たす一定の証拠を弁護人に開示します。弁護人はこれらの証拠を検討して、その段階で検察官の請求証拠に対する意見を述べる。そうすると、今度は弁護側が、自分の側が公判で主張する予定の事実上法律上の主張があるならばそれを書面(予定主張記載書)にして出す。弁護人はこの書面を出すと、その主張に関連する検察官手持ち証拠の開示を請求できます(主張関連証拠開示請求)。弁護人も公判で取調べて欲しい証拠を請求する。裁判所はこれらを受けて公判で取調べる証拠の採用決定をする。そういう流れになっています。

しかし、現実にはこのようにスムーズには行きません。検察官は証明予定事実記載書というものを繰り返し何通も提出します。1回で終わることはないです。非公開の密室で裁判官は何度も冒頭陳述を聞かされるようなものです。検察官は訴因を構成する事実関係を主張するというだけではありません。その訴因を支える「間接事実」と呼ばれる事実を主張します。検察官がそれを主張しないと裁判官がその主張を促します。検察官は訴因を構成する事実、「要証事実」などと言いますが、それを主張するだけではなく、それを推測させるような事実実、「間接事実」というふうに日本の裁判官は言っていますけれども、それを主張するのです。弁護側も、それに対して、自らの間接事実を主張する。ちょうど民事の準備書面のやりとりのようなことが公判前整理手続の中で行われています。民事の準備書面でも、皆さんはいろいろな事実を主張しますよね。いわゆる要件事実だけではなくて、それを支える「間接事実」というやつを書面に書いて主張し、相手方はそれに対して「認める」「知らない」「否認する」などといわゆる「認否」をしたり、あらたな主張をして反論したりすることが行われます。刑事裁判の公判前整理手続の中でも同じようなことが行わているのです。検察官の「証明予定事実記載書1」に対して、弁護人が「予定主張記載書1」、それに対して検察官側が「証明予定事実記載書2」さらに弁護人が「予定主張記載書2」、そしてさらに検察官が・・・みたいなことで、延々と文書のやりとりをするんですね。

民事裁判ではそうした準備書面のやり取りを繰り返すことで裁判官は事件の心証を形成します。刑事でもおなじです。検察官の間接事実に対して、弁護側がそれを認否したり反論したりして、反対の間接事実を主張する。それが繰り返し行われる。時には、検察官が請求する供述調書の作成過程、捜査官の取り調べの経過についてまで双方が事実を主張し、それに対する認否や反論を書いた書面のやりとりが延々と繰り返される。
私のように、「検察官の主張に対する認否とか反論なんかしません」と宣言する弁護士もいます。そういう弁護士に対しては、裁判所は「求釈明」という形で認否や反論を促します。検察官のこういう主張に対して被告側はどう考えるのかみたいなことを訊いてきます。釈明までされると、普通の弁護士は答えなきゃいけないと考えます。書面を書いて答えるんですね。応えを渋る弁護士に対しては裁判官はさまざまなプレッシャーをかけてきます。

こうした間接事実の主張とそれに対する認否反論をさせることによって検察官の主張する訴因と間接事実について、争いのない部分と争いのある部分というのが出てくるわけです。事件の筋のようなのが当然そこに見えてくるんです。そうすると、検察官が請求した証拠書類がありますね、それに対して弁護側は、単に「不同意」というだけでは済まなくなる。裁判所は、ああ、ここは争いがないんだな、本当の争点はここなんだなというふうに分かるわけです。そうすると、争点でない部分については、検察官の証拠を争う意味はないじゃないかと言ってくるのです。検察官が請求する証拠書類に対して、弁護人に326 条の同意をするように迫るわけです。「不同意です」なんていうと、裁判長が身を乗り出してきて、「何で不同意なんですか。あなたは放火があったこと自体は争わないわけでしょう。だったらいいじゃないか」みたいなことを言うわけですね。

そうすると、新しい弁護士で、まだ初々しい、要するに、汚れていない皆さんは、うーんと悩むわけですね。「どんな放火だか分からないけれど、別に放火があったことを争っているわけじゃない。これは犯人性を争っているわけだから、同意してもいいんじゃないか」「裁判官がいうのも一理あるな」と思ってしまうわけです。それで、どんどん書証は採用されていく。「不同意」を「一部不同意」に改めさせるということも良くやられます。
そうすることによって法廷で尋問する証人の数はどんどん減っていくわけですね。尋問時間も減らされる。公判廷で行われる出来事はどんどん少なくなっていくことになります。

僕とかは、裁判長に「なぜ同意しないんですか」と訊かれても、「同意する理由が見当たらなかったので同意しないんです」などと木で鼻を括ったような返事をします。「なぜ、同意する理由が見当たらないのか」、「いや、法廷で尋問する権利を放棄する理由が見当たらなかったんです。」「それじゃ理由にならない」とか言って、論争したりするわけですけれども、そういう論争をするような弁護士は、不良と見なされるわけですね。大抵の弁護士はよい子になろうとするわけです。ちゃんと説明するわけです。「いや、そこはちょっと事実が違うので不同意にします」。「どう違うの」みたいな話になって、どんどん事実の話、証拠の中身の話が前倒しに出てくるわけです。そうすることによって書証がどんどん採用されていって、その結果、法廷でやることはあまりなくなってしまうことになります。

この仕組みは裁判官の姿勢とそれに対する弁護側の対応によって作り上げられているわけですけれども、それだけではありません。皆さんよくご存じのように、書証に同意しないあるいは検察官の証明予定事実に対してちゃんとした意見を言わない結果、被告人は非常な不利益を受けます。どういう不利益かというと、身柄が拘束される期間が伸びるということです。保釈が認められないということです。われわれの依頼人が人質にとられていることでこの仕組みは強化されているんです。

「コンパクト」で予測可能な公判を目指す裁判官

ちょっと違う話をしましょう。このように裁判所は間接事実の出し合いを促進し、それに伴って検察官側の証拠書類を採用する範囲をどんどん広げていくことによって、法廷審理の量を圧縮しようとします。ある裁判員裁判で裁判長は盛んに「公判をコンパクトにしたい」と言っていました。その理由として彼は何度も「裁判員の負担を軽くするため」と言いました。

さらに裁判官は、法廷で何が行われるのかについて詳細に計画を立てようとします。特に裁判員裁判の場合はそうです。公判日程を分刻みで計画を立てます。法が言う「計画的に」というのはそういう意味だと裁判官は理解しているのかもしれません。当事者の弁論や意見陳述、証人尋問の時間について、非常に厳格なスケジュールを作ります。法廷で何か不測の事態が起こった、あるいは予想外に尋問に手間取ったとしても、裁判所はとにかく予定された時間内に収めることを要求します。あらかじめ定めた時間内に収めるということに最大の価値を彼らは置いています。弁論の時間が長引いたりすることに対しては非常に不寛容です。

公判の時刻表を定めるだけでは気がすまず、一人一人の証人尋問の際にどういう書面を見せるかとか、どういう図面を使って尋問するかということまで、いちいち公判前整理手続の中で決めたがる裁判官もいます。刑事訴訟規則には、証人尋問を分かりやすくするために、図面、写真、書類、装置、模型などを利用して尋問できるという規定があります。50年前にその規則を定めた人たちは、尋問の中でそれを判断しましょう、必要だと思えば裁判長はその場で許可するでしょうし、不必要なら許可しないだろう、というようなことを考えたはずです。しかし、現在の裁判官は、法廷のその場でそのときの判断で決めるのではなく、あらかじめ公判がはじまる前に決めておきたいのですね。まだ、証人尋問はおろか、起訴状の朗読すらやられていないのに、そのずっと前に特定の証人にどういう尋問が行われて、そこで、どういう図面が示されるかも決めておきたい。芝居の台本のようなものを裁判が始まるずっと前に決めておきたい。そんなことは尋問の時に決めたらいいんじゃないですかなんて発言しようものなら、何を言っているんですかっていう感じで真顔で批判されます。もう全部決めておきたいというのが今の裁判官の姿勢です。

裁判員裁判では、公判前整理手続で判決の言い渡しの日まで決めてしまうのです。まだ裁判は始まってすらいないんですよ。始まっていないにもかかわらず、判決言い渡しは何日の何時ですよって決めてしまうわけです。これほどおかしなことはないですよね。だって、事実認定というのは、法廷で証拠調べをやって、裁判員と一緒にそれを聞いて、裁判員と評議をして決めるわけでしょう。裁判員の選任すら行われていない、誰が裁判員かも分からない、彼らと会ってもいないのに、評議にどのぐらい時間がかかるか分かるわけがないじゃないですか。であるにもかかわらず、もういつが判決の言い渡しかって決めちゃっているわけですよ。

彼らは一度決めたらそれに従って行動します。今までの裁判員裁判で、あらかじめ決められた判決言い渡し期日が延びたことは皆無に近いです。予定よりも早く判決が言い渡されたということも聞いたことがありません。つまり、裁判員裁判において、実際の公判は公判前整理手続で作られたシナリオどおりに行われている。そして、裁判員と裁判官の評議も予定されたスケジュールに沿って行われているということです。一言で言うならば、裁判という舞台の完ぺきなシナリオが、公判前整理手続で作られてしまっているということになります。

公判の形骸化

これは、私のような弁護士にとっては非常につまらないことです。あらかじめ決められたことを決められたとおりに法廷でやるなんていうことは、これほどつまらない仕事はないです。法廷というのはそういうものではない。何が起こるか分からない。自分のその場の判断で、挙手一投足によって何かが変わると、そういうスリルといいますか、そういう興奮といいますか、そういうものがなければ公判をやる意味がない。そのために弁護士になったようなものですから。

しかし、問題は私個人の生きがいという小さなものだけではありません。もっと大きな問題がそこにはあります。まず、第一の問題は、事実認定が公判前整理手続によって先取りされてしまっているということです。先ほども言いましたように、公判前整理手続の中で、検察官と弁護人は「間接事実」をめぐって詳細なやりとりをします。間接事実のやりとりが行われるということはどういうことかというと、証拠の中身を裁判官は先取りしてしまうということです。間接事実が分かれば、それはもう証拠の現物をみるのとあまり変わらないぐらいに証拠の内容を理解(予測)することができます。なぜなら、間接事実とは実質的には証拠の内容にほかならないからです。当事者双方が詳細な間接事実を主張し合えばし合うほど、裁判官は生の証拠を見たのと同じ心理状態に近づくことができるのです。

例えば、殺人の訴因で殺意が争われているとしましょう。検察官が、被告人は刃渡り 20 センチの柳刃包丁で、被害者のお腹を刺したという間接事実を主張したとします。で、弁護側が、被告人が刃渡り 20 センチの柳刃包丁を持っていたことは間違いなし、それで被害者のお腹が切られていたことも間違いない、しかし、それは、意図的に刺したんじゃなくて、包丁の取り合いをして包丁が刺さっちゃったんだというふうな間接事実を主張したとします。

そうすると裁判官は、「ああ、柳刃包丁がお腹に刺さったんだ。被告人は、刺さっちゃったという弁解を法廷でするんだ」というようなふうに、もう証拠の中身を理解してしまう。それが理解できない人間なんて恐らく存在しない。つまり、間接事実のやりとりというのは、証拠のやりとりとほとんど変わらないのです。

もっとひどい場合は、被告人や証人予定者の供述をそのまま間接事実として主張する場合もあります。被告人は何月何日に、包丁でお腹を刺したと供述していた。被告人の何月何日付けの供述調書にはこういう記載があるというようなことを、正々堂々と証明予定事実の中に記載してくる検察官もいます。それに対して弁護側が予定主張として、いや、被告人はその前々日にはこういうことを言っていたと「反論」する場合もあります。随分熱心な弁護士のように見えます。当の本人もそう思っているのかもしれません。しかし、これは要するに証拠の中身を非公開の場所で裁判官に披瀝しているのと同じことです。裁判官が調書を読むの全然違わない。もう証拠調べをしたのと同じ状態になってしまっているわけです。

こうして、公判前整理手続が終わった段階で裁判官は判決が書ける状態になっているのです。実際、そういうふうに修習生に言っている裁判官もいますい。公判前整理手続というのはもう判決が書ける状態までやらなきゃいけないんだということを教育の一環として修習生に教えている。判決文の中に何カ所かブランクがある状態、あるいは、判決という名のジグソーパズルがあって、ちょこっと抜けたピースがある状態、それが公判前整理手続の理想の姿だと裁判官は考えているのです。

あとは公判で判決文のブランクにいれる言葉を見つければいいんですね。パズルのピースを法廷で埋めていけばいい。それだけが公判に課せられた使命だと。それこそが優秀な刑事裁判官による理想的な公判前整理手続と公判との関係だということになります。

このように、事実認定が先取りされて、そして、公判が極限的なまでに矮小化されていく、形骸化していく。これが裁判員裁判で行われるとより深刻な問題を招くことになります。それは第一には、裁判官と裁判員との間に、圧倒的な情報の格差が生まれることです。公判前整理手続が終わった段階で、裁判官はもう証拠調べが終わったのと同じ心証を持っています。事件のことは何でも分かっている状態になっています。証拠の中身を見たのとほぼ同じ状態になっている。他方、裁判員の方はどうかというと、何も分かっていません。事件の筋も証拠も何も分かっていない。当事者がどういう主張をしているのかも分からない。どういう証拠があるのかも分からない。

これほど大きな情報格差のある人たちが平等な審理と評議をすることができるでしょうか。できるわけがありません。事件の真相をほとんどと理解している裁判官は、何も知らない裁判員に対して圧倒的に有利な立場に立てるでしょう。あからさまな方法で裁判員を説得したり誘導したりすることもできるでしょうが、もっとわかりにくい方法で巧妙に評議を方向づけることが可能になります。例えば公判で、証人尋問をやっていて、証人が公判前に予想したこととは違う証言をしたとしますよね。そういうことはよくありますよね。要するに、検事が尋問に失敗しているわけです。そういう場合に、裁判官はそっと誰にも気づかれないようにその証言を違う方向に誘導していく。そして、公判前で見た間接事実のほうに、つまり、いったん納まったパズルがちょっと外れかかったわけだけども、もう一回それを戻すというような尋問をするでしょう。

それから、評議室での議論の中で、裁判官の心証と外れたような議論が行われたとしても、その場で説得するような、そんなあからさまなことをすれば、それは裁判員から反発を感じるわけですね。そうじゃなくて、もうじきこういう証拠が出てくるから、ここはこれでいいかみたいな感じで、大人として振る舞う余裕があるわけですね。そして、最終的に評議の中で、「じゃ、こういう証拠はどうですか」みたいな、ぽんと出す。そうすることで、裁判員は「ああ、そうか」ということで裁判官が考えている方向に一気に流れていく。情報さえもっていれば、何も知らない人を誘導することは簡単です。いくらでも方法があるわけです。あからさまに説得するなんていうのは、賢い裁判官はやらないと思います。そんなことをやればかえって反発を受けるし、それは下手な方法です。

裁判官はもう事実関係を誰よりも知っているわけですね。そして、裁判員は全然知らない。だから、裁判員は裁判官に質問するわけですね。「この人はどういう証人なんですか」「これからどういう証人が出てくるんですか」と。裁判官はこうした質問に的確に答え、裁判員を指導することができる。こうしたコミュニケーションを通じて、裁判員は、「裁判官は何でも知っている」と考えます。裁判官は権威者として振る舞うことができる。裁判員はとにかく裁判官を信頼し、尊敬するわけですね。裁判官がどう考えているのかということを考えるようになる。そうなればあとは簡単なことですよね。裁判員がみんな裁判官を信じてしまえば、あとは極めて簡単な話になるんです。職業裁判官と一般市民が対等の立場で証拠を評価し事実を認定するという裁判員制度の中心的な価値は全く無効にされる。裁判員は職業裁判官の決定に民主的なお墨付きを与えるだけの存在になってしまうのです。

「裁判所への協力義務」

公判前整理手続は職業裁判官の権限を強化する制度です。言い換えると、当事者主義の仕組みを職権探知主義に変えてしまう仕組みにほかなりません。裁判官は積極的に検察官と弁護人の尻を叩いて「間接事実の交換」をさせようとします。これは、要するに、検察官と弁護人を使って事件の「真相」を追求しようというものです。これが職権主義でなくて、何が職権主義と言えるでしょうか。

しかも、裁判官は職権主義を進める強力な武器を持っています。それに協力しない弁護士を処罰することができます。保釈を認めないとか、請求した証拠を「必要性がない」と言って却下したりします。彼らはさらに自分たちに従うのは法律上の義務だと言います。刑事訴訟法 316 条の3にこう書いてあります――「訴訟関係人は、充実した公判の審理を継続的、計画的かつ迅速に行うことができるよう、公判前整理手続において、相互に協力するとともに、その実施に関し、裁判所に進んで協力しなければならない」。さらに裁判員法51条にも「裁判官、検察官及び弁護人は、裁判員の負担が過重なものとならないように」しなさい、と書いてある。裁判官はこうした条文を盾にとって、「何で争点を絞ることに協力しないんだ」「何で、そんな書証に『不同意』なんて言うんだ」と迫ってきます。裁判員に余分な負担をかけちゃいけないんだ、だから、われわれ法曹が協力し合って、できるだけ争点を少なくして、できるだけ公判で聞く証人の人数を減らさなければいけないんだ、あなたのような原理主義的な頑迷な弁護士がいるから、裁判員の皆さんは迷惑を被るんだというわけです。さらに「それは被告人の利益にもならないでしょう」なんて言う。暗に公判が長期化してその分被告人の身柄拘束が長引くことをほのめかすのです。

よい子の皆さんは、そういうことを言われると、「間違ってました、分かりました、もう一回出直してきます」と言って、できるだけ証拠書類の取調べに同意して証人の数を減らそうと努力する。その結果、裁判員の負担が減るかというと、決してそんなことはない。彼らは証人から直に話を聞くことができると思って法廷に来ているのです。ところが実際には、延々と退屈な調書の朗読を聞くことになるわけです。加重な負担どころか拷問ですよね、調書の朗読を何時間も聞かされて。

検事が請求する証拠書類の取調べに同意すれば、「罪証隠滅の恐れが減った」とか言って保釈を認めてくれる――逆に、証拠書類のほとんどに不同意の意見を言うと保釈を認めない――そういう裁判官がいるのは事実です。この運用が保釈を自白強要の道具にしてしまっていることは常識を備えた人間ならだれでもわかることです。実際、警察は「いつまでも否認していると保釈が認められないぞ」と言って自白を求めます。皆さんのような若い弁護士がこうした裁判官の脅しに屈して唯々諾々と調書に同意することはこの現状をますます固定することになるでしょう。調書を不同意にしたからと言って被告人による証拠隠滅の可能性が高くなるなどとうのは全く現実離れした議論です。われわれはそのことを一つ一つの事件のなかで保釈担当裁判官や準抗告審裁判官に説明すべきです。1回や2回であきらめてはいけない。何回でも何十回でも保釈請求、準抗告申立を続けるべきです。そうして改善していくしかない。

公判前整理手続というのは、弁護人が被告人の身代わりとして、ものすごく糾問的な(自白追及的な)勾留質問を受けているようなものですね。被告人の代わりに、弁護人が尋問を受けている。どんどんしゃべらなきゃいけない状態になっている。前に言ったことと違ったことを言うと、「あんたは前にこう言っていたじゃないか」みたいに、法廷でいじめられている被告人のような状態に、弁護人がなっている。これはどういうことかというと、黙秘権がなくなっているということです。供述しない権利が被告人にあるわけですけれども、弁護人がどんどん供述させられることによって、被告人の権利は無意味になっているということです。黙秘権、供述拒否権が空洞化しているということです。

証拠書類の取調べに同意するということは、証人審問権の放棄です。公開の法廷で自分の目の前に検察側の証人を呼んできて宣誓をさせる;弁護人を通じて反対尋問をするという憲法上の権利を放棄したということです。

要するに、黙秘権も証人尋問権も反対尋問権も、そして、公開裁判を受ける権利すらも放棄させられている。これが現在行われている公判前整理手続の実態なのです。裁判官は、われわれの依頼人である被告人と裁判員を人質にとって、彼らのためだという口実――全く嘘っぽい口実――を使って、実際には自分たちの権限を温存して自分たちに好都合な訴訟運営を効率的にやろうとしています。公判前整理手続は量的にも質的にも肥大化し、いわば職権主義の化け物のようになっている。その反面で、公判で証人から話を聞いてすべて決めようという公判中心主義が形がい化し、被告人の権利が空洞化している。

法への回帰を

じゃあどうすべきかという話をしたいと思います。それは簡単なことではないですね。裁判所が組織ぐるみで一体として公判前整理手続を職権主義的に運用しようとしているんですから。国民の税金を使って「司法研究」を発表して事実上の「模範解答」を示したり、「勉強会」と称する非公式の意思伝達機構を使って、この現状を固定しようと躍起になっているのですから、これを変えるというのは容易なことではないでしょう。しかし、どんなに困難であっても、これは変えなければいけないと思います。なぜなら、事態はあまりにも深刻だからです。公判前整理手続の肥大化によって、大切なものが失われつつあるからです。われわれはいま何が失われつつあるのかをしっかりと確認しておく必要があります。

黙秘権

被告人には黙秘権があります。知っていますか、被告人には黙秘権があるんです。黙秘権、知ってる?ああ、よかった!黙秘権があるというのはどういうことかというと、犯罪の訴追を受ける人は何人も自分で自分の無罪を証明しなくていいということです。被告人は黙っていれば良い。自分が無実であることを説明したり、その証拠を提出しなくても良い。検察官が訴因――起訴状に「公訴事実」として書かれていること――を合理的な疑問を容れない程度まで証明しなければならない。検察官がその証明に失敗したら被告人は無罪にされなければならない。そういうことです。

刑事訴訟法291 条3項はこう言ってます――「裁判長は、***被告人及び弁護人に対し、被告事件について陳述する機会を与えなければならない」。これは陳述する機会なのであって、陳述する義務ではない。これは権利なんですよ。言いたいことがあるなら言える権利があるということです。何かを言わなきゃいけない義務ではないのです。法律の条文と憲法からしてこれはあまりにも当然なことです。

アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどのコモンロー系の刑事裁判では、被告人は訴因に対して3種類の答弁をすることになっています。「有罪」(guilty)、「無罪」正確には「有罪ではない」(not guilty)、そして「争わない」(nolo contendere; no contest)、この3つです。これ以上に細かい答弁を要求したり、事実に関する認否を要求することは許されません。それは黙秘権を侵害すると同時に、陪審が権限をもつ事実認定の領域を侵食することになるからです。被告人が「有罪」の答弁あるいは「争わない」という答弁をすれば、その段階で――証人尋問などの証拠調べは省略されて――直ちに有罪が宣告されて、量刑を決めるための公判が行われます。被告人が「無罪」の答弁をすれば、有罪か無罪かを決めるための公判(trial)が行われます。

裁判官は無罪の答弁をした被告人に対して、「現場に居たことは間違いなのか」とか「バッグの中に覚せい剤が入っていたことは争わないのか」などと質問してはいけない。そんなことをすれば、確実に上訴されるでしょうし、その前に裁判官に対する忌避申立てが行われ、それは認められるでしょう。検察官がそうした「釈明」をしたとしたら、裁判官が直ちに公訴棄却(dismissal)の決定をするでしょう。被告人が「無罪」と一言言えば、検察官は訴因を構成するすべての事実を公判廷で証明しなければなりません。どれか一つの事実について「合理的な疑問を容れない」程度に証明できなかったとすれば、被告人は無罪です。例えば、覚せい剤密輸の訴因に対して被告人が無罪の答弁をしたとします。検察官が、税関検査で発見された覚せい剤が被告人が搭乗した飛行機に預託した荷物のなかに最初から入っていたこと(証拠物の同一性、いわゆる「保管の連鎖」)を証明できなかったとすれば、当然無罪とされなければなりません。

いま言ったように英米では「有罪」答弁によって公判は省略できる。だから罪状認否手続には重大な意味があるわけです。日本の場合はどうでしょうか?日本刑事訴訟法319条2項はこう言っています――「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」。第3項によればこの「自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む」。だから、罪状認否手続で被告人が「有罪」と答弁しようがなんと言おうが、検察官は有罪立証を省略することができないのです。つまり、日本の刑事裁判では、被告人に罪状認否をさせることは法的にはなんの意味もないのです。ではなぜ、現実の刑事裁判では、裁判官は一所懸命被告人に罪状認否を求めるのでしょうか。罪状認否どころか、検察官が主張する周辺事実(間接事実)一つ一つについてまで、認否するように求めるのでしょうか?それは、先ほど説明したように、その答弁によって心証をとることができるからです。法廷でやることを局所的・断片的なものに絞り込んで自分たちの仕事を効率的にすすめることができるからです。

しかし、これは明らかに法律の建前に反しています。法律は自白だけで有罪の認定をしてはいけないと言っているのです。自白どころか実際には弁護人が作成した文書にすぎない「予定主張記載書」の文言によって事実を認定してしまうのです。刑事裁判の判決文を読むと、事実認定の説明の中に「以下の事実は当事者も争っておらず、矛盾する証拠もないので、事実と認められる」というような記載がよくあります。これは有罪判決の事実認定が法廷で取調べられた証拠によってではなく、当事者の態度――事実を争っていないという態度――によってなされていることを物語っています。しかし、これは刑事訴訟法の明文に反しているのです。

主張明示義務

刑事訴訟法316条の17第1項はこう言ってます――「被告人又は弁護人は、***公判期日においてすることを予定している事実上及び法律上の主張があるときは、裁判所及び検察官に対し、これを明らかにしなければならない」。法律家はこれを「主張明示義務」と呼んでいます。公判廷で予定している事実上・法律上の主張があるときは、それを公判前整理手続のなかで予告しておかなければならない、ということです。これはどういう意味でしょうか?

繰り返し言いますが、被告人には自分が無罪であることを説明する義務はない。訴因の立証責任は検察官にある。だから、弁護側が公判廷で提出する証拠は原則として「反証」ということになる。この反証を提出するかどうかは被告人の自由です。あらかじめ何か積極的な主張をしなければ証拠が提出できないというわけではないのです。但し、平成16年改正刑事訴訟法は、それまで当事者は公判廷で随時証拠請求ができるという建前だったもの(刑訴法298条1項)を改めて、公判前整理手続に付された事件では公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」がない限り証拠調べ請求ができないとしてしまいました(316条の32第1項。この立法が賢明な立法だったかについては大いに疑問がありますが、それには今回は触れないことにします)。ですから、公判前整理手続に付されたケースでは、弁護側も原則としてその手続中に証拠の取調べを請求しなければならないということになります。そして、裁判所にその証拠を採用してもらうためには、その証拠が関連性のある証拠であること――その存在によって事件の結果に影響を及ぼす蓋然性があること――を示さなければなりません。そうすると、弁護人は証拠の関連性を示すためにその証拠によってどのようなことが証明されるのか(立証趣旨)を裁判所に示さなければならないということになります。これは刑事訴訟法の改正を待つまでもなく、それまでの手続でも行われていたことです(刑事訴訟規則189条1項)。

改正法が弁護側にあらかじめ主張することを求めているのは、こうした「反証」を超える主張を弁護側がする場合のことです。あらかじめ主張させ、検察側に反証の機会を与えなければならない事実のことだと思います。つまり、いわゆる証拠提出責任を負う主張のことです。「積極抗弁」(affirmative defense)と言われる主張、例えば、正当防衛とか緊急避難というような違法性阻却事由、心神喪失や心神耗弱のような責任阻却事由、さらにアリバイ主張がこれに当たるでしょう。また、証拠法上の主張として、自白の任意性を争うとか違法収集証拠の排除の主張も、わが国の判例や実務では弁護側が証拠提出責任を負うとされています。こうした事実上及び法律上の主張をするときには、公判前整理手続が行われている間にしなさいというのが法の趣旨です。

無罪の説明や検察官の主張する「間接事実」に対する反論をあらかじめすることを求める規定ではないのです。あらかじめ「争う」と言わなければ公判で争えなくなるとか、反論の中身を事前に予告しなければならないというようなものではないのです。

ところで、改正法は「主張明示義務」に違反した場合の制裁を何ももうけませんでした。あらかじめ主張しておかなければ公判の途中で主張できなくなるというような主張制限を定めた規定はどこにもありませんし、また、そのための証拠を請求できなくなるという証拠制限の規定もありません。先ほども言ったように、公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」のために公判前整理手続中に請求できなかった場合を除いて証拠請求できないという一般的な制限があるだけです。そうすると、公判前整理手続の間に主張していなかった積極抗弁を公判中に展開することが一律に許されないというわけではなく、それが訴訟上の権利の濫用に当たるとか信義誠実義務違反だと言える場合(刑訴規則1条2項)を除いて、新しい主張をすることは可能だということになります。目撃証人や法医学者の証言を聞いてみたら、正当防衛が成立しそうであることが改めて分かったのであれば、公判の途中でその主張をしてもよい、そして、新しい証拠を請求することも許される(「やむを得ない事由」があるから)ということになります。

証人審問権

有罪の人であれ無罪の人であれ、被告人はすべての証人を公判廷の自分の前に連れて来させる権利があります。証言台で公衆の面前で宣誓させたうえで、尋問する権利がある。これも憲法に書いてあります――「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」と(憲法37条2項)。前半は検察側証人に対して反対尋問する権利、後半は自分に有利な証言をする予定の証人を公費で強制的に法廷に召喚する権利です。捜査機関が関係者の話をまとめたにすぎない供述調書を被告人に不利な証拠として採用することは被告人の反対尋問の権利を侵害するから許されない。

供述調書の取調べに同意するということはこの反対尋問の権利を放棄することにほかなりません。当事者が明確に「同意しない」という意見を表明した以上、裁判官が権利放棄を慫慂することは許されないはずです。ましてや、当事者に対する不利益――公判の長期化――を仄めかして権利放棄を強要することなど言語道断というべきです。法律は疑問の余地のない言葉で「審理に2日以上を要する事件については、できる限り、連日開廷し、継続して審理を行わなければならない」と定めています(刑訴法281条の6第1項)。調書がすべて不同意になっても証人の数は、たいていのばあい10人以下です。どんなに多くても40人ぐらいでしょう。そして、1人の尋問時間が3時間を超えることはほとんどない。30分で終わることなど珍しくありません。仮に2時間の証人を10人取調べるとして、この法律の規定にしたがって1日6時間(午前2時間、午後4時間)の開廷時間で連日開廷すれば、冒頭陳述や最終弁論を入れても4日間で公判は終了するはずです。

ところが、裁判官たちはこの法律はただの努力規定にすぎないと言って、むかしとあまり変わらない期日指定をします。とりわけ裁判員裁判でない事件の公判は2週間に1回とかひどい場合には2ヶ月に1回などということもあります。彼らは「他の事件の公判が入っている」とか「別の用事がある」と言って連日開廷を拒否します。裁判員裁判では流石に1周間に1回などということはありません。しかし、「連日開廷」にはほど遠いものです。週に3日しか期日を入れません。しかも、1時間尋問したら30分休みというように、1日の開廷時間は実質4時間程度に抑えられています。彼らはここでも「裁判員の負担の軽減」を持ち出します。しかし、本当に裁判員はそんな風に休み時間ばっかりの仕事を望んでいるでしょうか。そうは思いません。実際、もっと沢山の証人から多くの証言を聞きたかった、という裁判員の感想を聞いたことがあります。少なくとも、最初から休み時間を決めるのではなく、実際の公判の進行ぶりを見て休廷を決めるべきでしょう。

要するに、裁判迅速化法にもとづいて改正された法律の明文は、裁判官の勝手な解釈と運用によって死文と化しているのです。もしも、沢山の事件を抱えているために連日開廷の日程確保ができないというのであれば、法の実現のために刑事裁判官の数を増やすべきです。裁判迅速化法も「裁判所***の人的体制の充実」を要求しているじゃないですか(同法2条2項)。さらに、何でもかんでも3人の裁判官が一緒に仕事する必要はそもそもないのです。裁判員法は、「公訴事実について争いがないと認められ、事件の内容その他の事情を考慮して適当と認められる」事件については、裁判官1人裁判員4人の合議体で裁判できるとしています(2条3項)。裁判員裁判のうちおそらく3分の2以上は公訴事実に争いのない事件です。こうした事件では裁判官は1人で良いのです。この法律を使えば、裁判員裁判の期日が渋滞する事態を少なくすることができます。しかし、この法律も死文化しています。一度も使われたことがありません。公訴事実に争いのない事件でも全件で裁判官は3人参加しています。あれだけ議論して熟慮を重ねて制定された法律が、法を執行する責任のある裁判官たちの一存で無効化されてしまっているのです。

話が少しずれてしまいましたが、要するに、供述調書を拒否して供述者を法廷に呼ぶという被告人の権利は、裁判官の役人的な都合よりも大事なものです。連日開廷や裁判官1・裁判員4の合議体など、法をきちんと運用すれば、相当数の証人尋問を行っても迅速な裁判を実現することは可能なのです。これを実施しないのは裁判官の怠慢であり、責任放棄としか言いようがありません。

そして、これは憲法上の権利ではないけれども、事実認定の権限が与えられている裁判員にとっても法廷で宣誓した証人の生の声を聞き、その供述態度を直接観察するというのはとても重要なことだと思います。調書の朗読を延々と聞き続けるというのは非常に退屈であるだけではなく、供述を正確に理解して真相に近づくという観点からも、調書を使うことには問題があります。

公開裁判の権利

この国で刑事訴追されたすべての被告人は公開の法廷で裁判を受ける憲法上の権利があります(憲法37条1項)。有罪か無罪かという事実認定や量刑の決定が公開の法廷で、誰でも視聴できる状態で行われなければならないことはいうまでもありません。非公開の公判前整理手続で、検察官に訴因とその周辺事実(「間接事実」)を主張させ、弁護人にそれに対する認否や反論をさせて、事実認定をしてしまうのは、裁判の公開に反します。

公開の法廷で行われなければならないのは、事実認定や量刑だけではありません。刑事裁判というのは犯罪と治安という国家統治の最も基礎的な事柄を規制する手続であり、国民主権の国家においてその手続が国民の監視下で行われなければならないのは当然です。それと同時に、刑事裁判は市民の生命や自由に対する国家権力による侵害・介入の手続ですから、自由主義の国家においてはそれが被告人の同胞の関与と監視のもとで行われなければならないのも当然です。これこそが裁判公開の保障の意味です。そうすると、単に事実認定や量刑だけではなく、その前提となる重要な手続や決定も公開の場所で行われることを憲法は要請しているということになります。

アメリカやイギリスでは、逮捕された被疑者の拘禁を継続するか保釈を認めるかという手続は公開の法廷で行われます。陪審員の選任手続(陪審候補者への質問手続)も公開の法廷で行われます。自白や押収物などの証拠能力が問題となったときの証拠採否のための証人尋問も公開されます。陪審が事実認定を行うときの証明基準や適用される法律を裁判長が説明する手続(陪審への説示)も誰でも傍聴できる公開法廷で行わなければなりません。もしもここに挙げた手続を裁判官と当事者だけしか参加できない密室で行ったとすれば、それは裁判公開の権利を侵害する違法な手続だとされるでしょう(事実、連邦最高裁はそうした判断をしています)。

日本ではどうでしょうか?現在の日本では、これらのうち、自白や証拠物の許容性判断の場合を除いて、すべて非公開の密室で行われているのです。逮捕された被疑者を拘禁する手続(勾留質問)は、裁判所の中の「勾留質問室」という部屋で被疑者本人のほかは裁判官と書記官と警察官しかいないところで行われます。弁護人の立会も認められません。保釈の審査は裁判官が自分の部屋で検察官から送られた一件記録を読むだけで行われます。裁判官は被告人の顔を見ることすらせずに、保釈を却下します。裁判員選任手続は、法律自体が「公開しない」と定めています(裁判員法33条1項)。そして、裁判長による裁判員への法令の説明(説示)は、裁判官と裁判員以外に参加できない評議室の中で行われます(裁判員法66条3項)。こうして見ると、日本の刑事裁判の実際は、中世のヨーロッパや現在のどこかの独裁国家で行われている「秘密の審問」(secret inquisition)とあまり大差がないのではないかと思えてきます。現状に対して、われわれ弁護士は裁判公開の保障の観点から異議申し立てをすべきではないかと私は考えています。

先ほど言ったように、これまでの刑事裁判では自白の任意性であるとか違法収集証拠の問題などは公開の法廷で、公判手続の一環として、捜査官の証人尋問や被告人質問などを行って判断されてきました。ところで、公判前整理手続を導入した平成16年改正刑事訴訟法は、公判前整理手続のなかで証拠の採否の決定ができると定めました(刑訴法316条の5第7号)。そして、この決定のために「事実の取調べ」(刑訴法43条3項)すなわち証人尋問や鑑定(刑訴規則33条2項)をすることができます。法は公判前整理手続を公開すべきかどうかについて沈黙していますが、現在の裁判官はみな原則非公開だと理解しているようです。私は公判前整理手続が公開されたという話を聞いたことがありません。そうすると、自白の任意性や違法収集証拠、同一性や真正が争われている証拠物や文書の許容性を判断するために、裁判官は非公開の場所で、もちろん裁判員もいない場所で、捜査官や被告人を尋問して決定してしまう可能性があります。私自身はその経験はありませんが、実際にこれが行われているという話を聞いたことがあります。公判が開かれないまま、延々と密室で証人尋問が行われているということです。これは裁判公開原則から考えて本当に由々しき事態だと言わなければなりません。その事件の弁護人がその手続に異議を唱えたかどうか分かりませんが、皆さんが仮にそうした事態に遭遇したなら絶対に異議を述べて阻止して下さい。阻止できなかったら、上訴して下さい。最高裁まで争って下さい。

証拠の決定や裁判員への説示のほかにも、公判前整理手続という密室の中で世間の誰も知らないうちに大事なことが次々に決められていってしまいます。事件の争点や証拠の採否の他、被害者を匿名にするとか、証人と被告人や傍聴人との間の遮へいであるとか、論告や弁論の予定時間、そして評議の時間、判決をいつ言い渡すかなどです。起訴された後何か月間もときには1年以上にわたって密室での手続が続きます。そのことに日本のマスコミは不思議なくらいに寛容ですね。著名な事件では被告人の逮捕から起訴までは本当に時々刻々細部にわたって警察や検察の発表に基づいて報道が行われるのに、起訴された途端に情報がなくなる。そして、突然裁判が始まる。なぜ日本のマスコミは「公判前整理手続を公開せよ」と要求しないのか。私には理解できません。

「間接事実による認定」と裁判員制度

とにかく日本の裁判官は「間接事実による認定」ということを金科玉条にしています。検察官もそれに追随しています。司法研修所では、証拠法とか憲法と刑事手続とかはほとんど全く教えられませんが、事実認定の方法として「間接事実」が重要だということを盛んに教えます。ロースクールに派遣されている裁判官や検察官もこればっかりです。「間接事実による事実認定」の技術こそ、法律家の法律家たる所以であるなどと言っていますね。

間接事実による事実認定とは何でしょうか?それは例えばこういうことです。ある時ある場所の天気が晴れだったか雨だったかが問題となったとしましょう。そのとき街の歩道を傘をさした人が歩いていたという事実があれば、雨だったということが推測できますね。この論理において、傘をさして歩いている人がいたという事実が間接事実です。コモンローの伝統的な用語法によればこれは「状況証拠による証明」(proof by circumstantial evidence)ということです。状況証拠と対立する概念が「直接証拠」(direct evidence)です。直接証拠はそれが100%信用できるならば、直ちに事実を認定できるのです。これに対して状況証拠は、それが100%信頼できるとしても、事実を認定するためには事実と証拠との関係を推論によって補強しなければなりません。例えば、目撃証人の田中が「加藤が包丁で山田の胸のあたりを刺した;山田は血だらけで倒れた;そして息絶えた」と証言したとします。これは加藤が殺人を実行したという事実についての直接証拠です。田中の証言が100%信頼できるとすれば、特に推論を加えなくても殺人を認定できます。一方、田中の証言がこうだったとします――「加藤と山田が奥の別室に消えた;二人の口論が聞こえた;加藤が包丁を持って部屋から飛び出してきた;部屋の様子を見に行ったら、山田が血の海の中に横たわっていた」。この場合、田中の証言が100%正しかったとしても、加藤が殺人者だとは限りません。例えば、最初から加藤以外の人物(高橋)がその部屋にいて、高橋が山田を刺して、加藤はその包丁を取り上げて部屋から出てきたのかもしれないからです。田中の証言と加藤の殺人を結びつけるためには、第三者はいなかったに違いないというような一定の推論を加える必要があるのです。指紋とかDNAなどの科学的証拠や証拠物も状況証拠です。

状況証拠と要証事実との間の推論の過程は事実認定者の専権事項であり、彼らの自由な判断に任せられています。これがすなわち「自由心証主義」というものです。裁判官裁判について刑事訴訟法318条がこれを定めています。裁判員裁判についても、裁判員法62条が「裁判員の関与する判断に関しては、証拠の証明力は、それぞれの裁判官及び裁判員の自由な判断にゆだねる」と、これを明言しているのです。ここまでは日本の裁判とコモンローの裁判とで違いはありません。

ところが、日本の刑事裁判ではこの推論の過程を専門家にしかわからないルールによって規制しようとしています。それを「経験則」と呼んだりして、法的なルールに昇格させようとしているのです。このルールに反する推論は違法だと決めつけています。例えば、覚せい剤の密輸事件の有罪判決をみると、‖梢佑ら渡航費を負担してもらったうえ、小遣いをもらえるというような「報酬約束」があり、品物が何か良く分からない状態でスーツケースの中に入れられていたという事情があれば、そうした多額の費用を負担してまでして運ぶ価値のある物として覚せい剤などの違法薬物が思い浮かぶはずであるから、特段の事情のない限り覚せい剤などの違法薬物の認識があったと推認できる、というパターンの判決がたくさんあります。そして、薬物密輸事件の公判前整理手続では、裁判官は、報酬約束とか荷物の隠匿状況に関する間接事実を検察官に主張させ、弁護人にそれに対する認否を迫ります。「自分は違法薬物を運ばされるなんて考えてもいなかった」と被告人が言っているケースでも、荷物を彼女に託した人が渡航費用や小遣いを負担する(裁判所に言わせれば「報酬約束」)という場合がほとんどですし、荷物の中身は被告人自身にはわからないようになっていますから、公判前整理の段階で検察官が主張する間接事実は「争いがない」という具合に整理されます。そうすると、被告人は「特段の事情」を法廷で証明しない限り有罪になってしまうのです。

こうした実務が違法であることは明白だと私は思います。第1に、これは自由心証主義に反します。費用負担や荷物の梱包の状態と「薬物の認識」という要証事実の間にどのような推論をするかは、一人一人の裁判官や裁判員の自由にゆだねられなければならないはずです。それを規制し「経験則」という名のルールに仕立て上げ、事実認定者を拘束することは許されません。

第2に、これは裁判官による裁判員の権限の侵害です。裁判員法は、裁判官と裁判員が対等の立場で評議を行って事実を認定するとしています(裁判員法6条1項)。裁判員が裁判に関与する前に、公判前整理手続のなかで、事実認定に影響を与える「間接事実」(状況証拠)がなんであるかを裁判官が勝手に選別してしまうというのは、裁判員の事実認定の権限を侵害しています。何が重要な間接事実であるかを決めることは、事実認定という作業の中核の一つです。それはすべての証拠を見聞し、当事者双方の最終弁論を聞いた後で、裁判員と裁判官がそれぞれ自由な立場で意見交換をした後で決められなければなりません。裁判員の仕事は、あらかじめ決められた、欠けたパズルのピースを見つけるだけというようなものであってはなりません。実際の法廷で見聞した状況証拠の数々を、裁判員それぞれの社会経験に基づく良識によって選別し評価すること、これこそ裁判員制度の本質的部分です。裁判官には事実認定について裁判員を指導する権限などないのですから。

第3に、職業裁判官による事実認定のルール化は実際にも不当な結果を生み出します。先ほどの覚せい剤密輸事件を例にあげましょう。実際に起こる出来事は千差万別です。無限のバリエーションがあるのです。「報酬約束」と一言でくくることなど到底不可能です。荷物の梱包状況もいろいろです。そして、「認識」の主体である被告人のバックグランドや性格も様々です。これらを一括りにして「特段の事情のない限り」有罪だというのはあまりにも乱暴な議論ではないでしょうか。実際のところ、今の日本の刑務所では、国際麻薬密輸組織に騙されて運び屋にされた、お人好しの老人や軽率な大人たち、そして冒険好きの若者たちが、無実の罪で非常に長期の懲役刑を務めています。薬物の認識を巡る「経験則」は実際には冤罪製造の道具にほかならないのです。

「争点整理」とは何か

刑事訴訟法は公判前整理手続において「事件の争点を整理」することを求めています(316条の2第1項、同条の5第3号)。これまでの話から明らかなように、検察官に「間接事実」を主張させるとか、これに対して弁護人に認否をさせるというようなことは、法の要求ではありません。それでは法が言う「争点の整理」とは何でしょうか?

訴因を構成する事実について被告人には「陳述の機会」が与えられます。先ほど言ったように、これは権利であって義務ではありません。陳述を強制することは許されません。被告人は終始黙っていることもできるし、「無罪です」と一言いうこともできます。この場合は検察官が主張する訴因(公訴事実)が争点ということになります。これは非常に明確です。これ以上明確な争点はないと言っても良いくらいです。

被告人には陳述の義務はありませんが、しかし、陳述する自由があります。したがって、被告人は自分はやってないと言ったうえで、その理由を説明することができます。自分は犯人ではないとか、覚せい剤が入っているとは知らなかったという陳述を積極的に行うことができます。あるいは、あえて訴因の一部を認めるということもあるでしょう。さらには有罪を認めたうえで罪を犯した事情を訴えたいという被告人もいるでしょう。こうした陳述によって、訴因事実の一部だけが争いの対象であることが浮き彫りにされることもあります。

さらに、主張明示義務の対象である積極抗弁――正当防衛とか心神喪失とか――が主張される場合があります。この場合には訴因の一部または全部が弁護側の主張の前提になる場合がほとんどです。この場合は弁護側が主張する積極抗弁の成否が争点ということになります。

このように、「争点の整理」というのは、被告人には陳述の義務がないことを前提にして、その陳述態度に応じて訴訟における当事者の攻防の中核がどこにあるのかを明らかにする作業にほかなりません。被告人が何も言わないという供述態度であれば、検察官の主張のすべてが争点だということです。これも「争点の整理」に他ならないのです。

弁護戦略はどうあるべきか

最後に、現実の公判前整理手続において、われわれ弁護人はどのような立ち居振る舞いをすべきなのかというお話を少しだけしたいと思います。

現実に行われている公判前整理手続は、私が今お話した適法な形では運営されていません。間接事実の交換を強制し、事実認定を先取りして、公判を形骸化してしまうようなものが横行しています。「職権主義のお化け」と言っても言い過ぎではありません。皆さんが公判前整理手続に出かけて行って非公開の部屋に入ると、こういうことをやろうと裁判官や検察官が待ち構えているんですね。皆さんはまるで卵からふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、海に向かっていく途中で、トンビのようなカモメのような裁判官に狙われているわけです。そういう状況で生き延びるのは決して生やさしいことではありません。しかし、皆さんは生き延びる必要があります。一歩一歩現実を改善していき、法を実現する努力を重ねる必要があります。

私は、公判前整理手続における弁護戦略の指針として3つの原則を提案します。
第1の原則は「利益がなければ権利放棄するな」ということです。検察官請求の書証に同意をするということは、憲法が保障する証人審問権の放棄なわけです。検察官の立証に協力することです。ですから、書証に対する意見は原則「全部不同意」であるべきです。例外的に、証拠書類が被告人側の証明に役に立つという場合には、同意してもよい。そういうことです。権利放棄するからには、それに見合う見返りがなければいけない。それは当たり前のことですね。見返りがある時には書証に同意してもいい。だけれども、見返りがない時にはそれはやめましょう。

第2の原則、それは「知らない事実を認めるな」ということです。例えば、共犯事件で依頼人は犯罪の実行には加担していないが、共謀をしたと言われている事件です。数人の実行犯が被害者をぼこぼこに殴って殺してしまった;その遺体をばらばらにして山の中に捨てたという事件。依頼人は、その現場の何カ所かで実行犯と一緒に行動はしていたけれども、まさかそんなことになるとは知らなかったというような事件です。こういう事件に出会うと、すぐに「共謀が争点だ」と思いがちです。そして、共謀が争点なんだから、そのほかの実行犯の3人が被害者をぼこぼこにして、首を絞めて殺して、死体を切り刻んで川に捨てたということは「争いがない」というふうにまとめられてしまう。

実行犯たちと依頼人がどういうコミュニケーションをしたかが争点であって、被害者が彼らにぼこぼこにさせられて、殺されて切り刻まれたというのは、もう争わないんだというふうに決め付けちゃう。その結果、死体の損傷状態とか死因についての鑑定書とか、実行犯が自分たちの行為について語っている調書とか、そういうものを全部同意しちゃう。共謀に関する部分だけ不同意にする。これは大間違いです。その結果冤罪が起こるのです。なぜ冤罪なのかといったら、依頼人の知らない事実を認めているからです。本当に共謀がないんだったら、被害者が死んだことすら分からない;死体を切り刻まれたことすら分からない;実行犯どうしがどういう話し合いの結果それをやったのかも分からないわけです。だとしたら、解剖も、現場の状況に関する供述も、全部不同意にしなきゃ駄目でしょう。そうすることによって初めて、実際に何が行われたのか、実際の暴行の状態がどうだったのかということを、一から法廷で証言させることができるわけです。そのことが、実は共謀にとても大きな影響を与えるんです。実行犯が法廷で供述調書に書いてあることと違う行為していた、あるいは違うプロセスで被害者が亡くなっていたとすれば、そういう食い違いは共謀の成否に影響を与えざるを得ないのです。だから、依頼人が知らない事実を認めるのは絶対にやめましょう。

第3の原則は「利益がなければ主張するな」ということです。主張するということにはリスクが伴います。公判が主張通りに行くとは限らない。訴因については検察官が立証責任を負うわけですから、被告人の言い分が間違っていたというだけで有罪になるのはおかしい。しかし、職業裁判官のなかには、被告人の主張は信頼できない、だから有罪だというような認定をする人がたくさんいます。いずれにしても、弁護側が主張したことが証拠によって否定されるという事態は、弁護側の訴訟活動に対する信頼性を揺るがすことにつながります。

認否をしたり、反論をしたり、あるいは検察側に求釈明をすると、検察官に問題に気付かせ、立証のターゲットを絞る手助けになることが多いのです。ベテランの弁護士のなかには、相手の弱みを追及しているつもりになって細かい「求釈明」をする人がいます。これは逆効果です。

しかし、繰り返し言うように積極抗弁は主張しなければ勝てません。また、いわゆる「主張関連証拠」の開示を受けるためにはそれの根拠となる主張をする必要があります。積極抗弁を提出する事件などでは、物語性のある主張を公判前整理手続の段階で主張した方が得策な場合もあります。
要するに、われわれ弁護人はリスクと利益をはかりにかけて、利益があるというときには、主張を提出する。利益がなければ主張しない。こうした戦略的な判断をしなければなりません。これこそ、刑事弁護の醍醐味の一つと言えます。

裁判官は人を見て態度を変えます。私のようなすれっからしには「認否してください」なんて言いません。けれども、研修所を出たての若い弁護士にはどんどんプレッシャーをかけてくる。そこが彼らのずるいところですね。ヒトによってルールを変えるなんて言うのは「法の支配」の対極ですよね。そうした恣意的な訴訟運営に対して皆さんは堂々と異議申し立てをすべきです。「認否なんてしませんよ。金輪際」そう宣言してください。

刑事弁護というのは、孤独なものです。孤独に耐えプレッシャーに耐えて、依頼人の最善の利益のために全力を尽くすこと。そういう実践の繰り返しが皆さんを磨くはずです。重要なのはこういうことです。誰のために弁護をやっているのかを常に考える。弁護は裁判官を喜ばせるためにやっているわけじゃない。ときにはこういう言い訳をしたくなります――この裁判官とけんかをすれば、依頼人が困るんじゃないか。だから、自分は裁判官とうまくやっているだけだ、依頼人のために裁判官にへいこらしているだけなんだと。これは負け犬の発想です。いいですか。刑事弁護というのはそういう仕事じゃないです。刑事弁護というのは、にこにこしながら、相手に何かやってもらおうというお仕事じゃない。そうではなくて、相手の首根っこをつかんで、「どうだ、おまえ」と言うのが刑事弁護です。そのために、われわれは技術を磨かなければいけない。決して裁判官を喜ばせようなどと思ってはいけません。

質疑応答

――――20 年ぐらい前に著名な刑事弁護士の座談会で、いかに証拠を入手するか、いかに、得るかということを延々と議論しているのを見たことがあります。そういう意味では、証拠開示のところは劇的に、20 年ぐらい前に比べれば良くなったのではないかと思うんですが、この点について、ちょっと一言お話しいただけますか。

高野:私は、公判前整理手続と証拠開示制度というのを一体のものとして理解する必要はないんじゃないかと思います。証拠開示というのは独立した仕組みとして理解すればいい。今 20 年前と言いわれましたけど、ほんの 10 年足らず前と比べれば、これは劇的に改善しました。10 年前にどういうことが行われていたかというと、否認事件では、検察官側証人の検察官調書しか検事は開示しませんでした。検察官調書と言っても、最後のまとめの調書を1通開示するだけです。ほかの調書の証拠開示請求をしても検察官は、「請求予定がありませんので、開示しません」、この一言ですよ。それで、裁判官に証拠開示命令の申立てをします。裁判官は何と言うかというと、「現段階では職権は発動しません」、これだけです。

最高裁判所の判例によれば、主尋問が終わって反対尋問の段階で、証人の検察官調書を開示することが義務的になる場合があるということでした。検察官の主尋問が終わるまでは調書は1通しか開示されない。最後のまとめの検察官の作文の完成版だけですよ。さらにひどい場合もあります。私のやった否認事件で調書を一通も開示しないのがありました。検察官は証人請求をする、調書は証拠請求しないから開示しないというわけです。

供述調書以外の証拠、証拠物であるとか、検証調書であるとか、鑑定書であるとか、そういうものが開示されるなんていうことはほとんどなかった。最終的な鑑定書以外にもいろんな専門家の意見を検察官が聞いていることはあるわけですね。それは必ずしも検察官の意見を支えるような鑑定結果ではない場合がある。そういうものは全部隠されていた。検察庁の倉庫の中に眠っているわけ。それを開示しろと言っても開示しない。なぜかといったら、請求する予定がないからという。そういう状況で私は 20 年以上も刑事弁護をやってきました。最近それが劇的に変わって、天国みたいなものです。

――――今日お話を伺っていて、公判前整理手続の段階で、主張の取捨選択が厳密に行われ、審理時間等、尋問時間をきちんと決めるということが弊害であるということなんですけれども、そういう場面を任されている裁判官にとって、ある程度審理が計画的にできて、裁判員にも過重な負担をかけることなく審理に参加してもらえているという一面もあるのかなと思っているんです。

高野:計画的な審理、間接事実の争点を絞った審理によって、裁判員が利益を受けているかといったら全然受けていないと思います。その審理の結果、裁判員は、ある意味で細切れの事実を聞かされるんです。細切れの証言を聞かされる。そして、不十分な尋問で打ち切られる。つまり、裁判員は欲求不満な状態になっているわけですね。そして、長々とした調書の朗読を聞かされる。詳細な争点整理によって、裁判官と裁判員の情報格差が広がっていきます。その結果、裁判員は裁判官を頼りにする。裁判官に説明を求めることが多くまります。裁判官と裁判員は対等な事実認定者ではなく、裁判官は裁判員を導く指導者ということになってしまいます。

実際のとこと、裁判員はもっと重複した証拠を聞きたいはずです。同じことを別の証人から聞きたいはずです。あるいは同じ証人に繰り返し聞きたいはずです。つまり、重複というのは必要なんです。争点でない事実、つまり、一致している事実でも、それは発言する人によって違う色合いがあるはずです。裁判官はその事実を抽象化して、この事実は一致している、包丁を持っていたという事実は一致している。だから、そこの証言を繰り返す必要はないと言うかもしれないけども、まさに、その包丁を持っていた時のその人はどういうことだったのか、何をしていたのか、包丁をどのように持っていたのか、包丁とは何なのかということを別の人から繰り返し聞くということが、事実認定にとって実は大きな意味を持つことがある。そういうことによって人はある事実に納得できたり、あるいは納得できなかったり、疑問を感じたりするわけですね。

ですから、パズルのように事実認定をすることは不可能なんです。本当は合わないピースがたくさんあって、それがぐしゃぐしゃになった状態で事実というのを認定する、それが本当の事実認定だと、人間社会における事実の見方というのはそういうものだと思うんですね。そういうプロセスが保障されることで、様々なバックグラウンドを持った裁判員たちが常識を発揮できるんだと思う。実際には証拠が厳選されて、重複証拠がきれいに排除されて、尋問時間がきっちり守られことによって、裁判員はそういう人間的な部分を発揮できなくさせられていると私は思います。

――――公判前手続で裁判員の人に何も見せていないうちから期日まで指定されてしまっておかしいという話があったんですけれども、期日を仮に決めないと、結局だらだら延びていってしまうんじゃないかと思うんですが。だから、その期日を決めることは悪くはないんじゃないですか。

高野:裁判所の期日指定の仕方というのは、何月何日の何時から冒頭陳述をやると、検察 30 分、弁護が 30 分、で、その後 10 分間休憩をして、書証の取り調べを何時何分までやる。その後、だれだれ証人を何分間聞きます。論告30分、弁論は1時間。で、判決は何月何日何時に言い渡します。こういう決め方は変じゃないのということです。だって、まだ何もやっていないのに、どうして、その証人の尋問が30分で終わるとか、2時間で終わるとか、厳密に決めることができるんですか。1時間ぐらいとか2時間ぐらいというなら、話は分かりますよ。だからもうちょっとフレキシブルにやったらどうかと思います。

判決の言い渡しまで決めるのは決定的に間違っている。それは評議時間を決めていることになる。まだ裁判員の顔も知らないのに、なぜ、その人たちの評議が何日間で終わるなんて言えるのか。1時間で終わっちゃうかもしれないし2時間で大丈夫かもしれない。それなのに何で1週間もとらなきゃいけないのか。そういう話です。それは裁判員が来て初めて決められるべき話であって、裁判官に評議時間を決める権限なんかどこにもないでしょうというのが、私の意見です。

裁判員裁判にしろ裁判官だけの刑事裁判にしろ、法は連日開廷ということを言っています。連日開廷というのはまさにあなたが言ったように、「だらだらやる」ものなんですよ。公判というのはだらだらやらなきゃいけないんです。いつ終わるか分からないというのが連日開廷ということです。いつ終わるか分からないけれども、みんなが納得できるまでやりましょうというのが、本来あるべき姿です、違いますか。だって、結局やってみないと分からないでしょう。証人が予定したとおり、証言要旨記載書のとおりしゃべるなんて、誰が保証できますか。全く違う話をするかもしれない。証人からあることを聞き出すのに、5回言わなきゃ聞き出せないかもしれない。あるいは一瞬で終わるかもしれない。誰にも分からない。だから、だらだらやりましょうというのが集中審理です。

アメリカでもイギリスでも公判審理はそのように行われています。そして、日本でも昔はそのように行われていた。治罪法(1882年)の時からだらだらやりましょうと法律に書いてありました。明治刑訴(1890年)にも書いてあった。明治刑訴には、5日間法廷の期間が空いたら、もう一回最初からやり直せと書いてある。大正刑訴(1922年)には 15 日間空いたら、もう一回やり直せと書いてある。戦後の刑訴法(1949年)でそれはなくなったんです。その立法の際の政府委員の説明はこうです――「旧刑訴には 15 日と書いてありますけども、もうこれからは確実に毎日やりますから、この 15 日という規定は入れる必要はないのです」と。それが、議会で新しい刑訴法を議論した時の政府委員の説明です。

その結果どうなりましたか?5日間ですか、15 日ですか、1カ月ですか、2カ月ですか。なぜ、そうなっちゃったんですか?答えは簡単です。裁判官が悪いんです。裁判官が法廷で人の話を聞いてそこで判断するという仕事をやめちゃったからです。法廷で話を聞いて決めるんじゃなくて、その人がしゃべったことを記録した文書を後で読んで決めるというふうにしちゃったからです。だけれども、日本の法律にはそんなことどこにも書いてないですよね。速記録を読んで判決を書きなさいなんてどこにも書いてない。だけれども、裁判官は一切の法を無視して、そのほうが仕事が楽だから、そういうふうにしちゃったんです。だから、1カ月空いても2カ月も空いても平気で、途中で裁判官が変わっても平気で、判決を言い渡す。そういう仕組みを勝手に作っちゃったんですね。これは日本に近代的な刑事訴訟法が輸入された時の考えと全く違います。だから、松尾浩也先生は「ガラパゴス的な進化を遂げたんだ」と言っているわけです。近代的な刑訴の種が日本にまかれたけれども、戦後の日本の仕組みの中で全く違うものに生まれ変わっちゃったということです。

裁判員裁判は、それを本来あるべき姿にしましょうよという試みです。だらだらやりましょうよというのがまさに裁判員裁判の一つの目的だったと私は思います。

――――普段から裁判官に迎合するということ、裁判官に信頼されるということの違いというか、どこに境界があるのかということをよく考えるんですけれど、今日のお話だと、もちろん、徹底的に争うんだけれども、裁判官に信頼されるのは、自分でお勉強をして、ちゃんとした知識を身に付けて裁判官を説得するぐらいやれということだと聞こえたんですけど、先生の理解もそれでいいんでしょうか。

高野:すごくきれいにまとめていただいてありがとうございます。私は裁判官のことをすごく批判していますけれども、これは裁判官という職業がくだらないんだとか、裁判官という人たちはとても駄目なんだということを言っているわけではもちろんないんです。裁判官というのはとても大事な仕事だと思います。裁判官は刑事裁判がフェアに運営されるためにはなくてはならない人たちですし、彼らには一所懸命仕事をやってもらわなければいけないと思います。しかし、現実は法の理想とあまりにも違い過ぎて、裁判官の生活のしやすさ、裁判官の仕事のしやすさというようなものが、あらゆる価値よりも上に置かれているとしか思えないです。

先ほど、期日の話がありましたけれども、期日を先に延ばすことによって不利益を被るのは被告人なわけですよね。ほかの仕事がある、裁判員裁判があるから期日がここにしか入りませんというようなことを当然のように言われると、おまえ、何考えているんじゃと言いたくなるわけですね。やはり何が大事なのかという価値の序列の考え方がどこか狂ってしまっているような気がします。裁判所がスムーズに仕事ができるようにするということが、すべての価値を超えているような運用の仕方になっている。そうじゃないんでということを、裁判の価値というのは別のところにあるんだと、もっと守らなければならない価値があるんだということを、弁護士は彼らに分からせてあげないといけないんじゃないかというふうに私は思っています。

(完)



plltakano at 15:10コメント(0)トラックバック(0)刑事裁判裁判員制度 

2016年01月30日

昨日、東京高裁第11刑事部(裁判長栃木力氏)あてに弁護人4名連名の控訴趣意書を提出しました。

趣意書で取り上げた破棄理由は、各事件に関する事実誤認、法令適用の誤りのほか、原審の証人の不採用やその手続が法律や憲法、人権規約に違反するというもので、全部で17項目を取り上げています。

2016年1月30日

高橋克也氏の弁護人を代表して
弁護士 高野隆



【付記】
参考までに第1審判決を掲載します。
2016年7月9日

plltakano at 10:40コメント(0)トラックバック(0) 

2015年07月05日

10日前、アメリカ合衆国最高裁判所は5対4で同性カップルによる婚姻届出を受理しないミシガン州など複数の州の法律を憲法に違反し無効であると宣言した。オバマ大統領はこの判決を「アメリカにとっての勝利」だと言って賞賛した(https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/06/26/remarks-president-supreme-court-decision-marriage-equality)。私の「リベラル」な友人たちもみな、この判決を喜び、フェイスブックの写真を虹色にしたりしていた。私は早速合衆国最高裁判所のサイトにアクセスして判決文(http://www.supremecourt.gov/opinions/14pdf/14-556_3204.pdf)を読んでみた。

その判決内容は、しかし、私の予想していたものとやや違っていた。私は、連邦最高裁は同性カップルの婚姻届を認めないのは平等保護条項に違反すると言ったのだと思っていた。オバマ大統領もコメントの冒頭で「全ての人は平等に創造された」というアメリカ独立宣言の一節を引いている。法廷意見は確かに平等保護条項にも言及している。しかし、その判断の主要な根拠は、平等保護条項ではなく、デュー・プロセス条項である。

合衆国憲法第14修正(1868年)はこう定めている――「いかなる州も、法の正当な過程(due process of law)によらずにいかなる個人の生命、自由または財産をも奪ってはならない」。同修正は、この文章に続けて、「また、その法域内にあるいかなる個人に対しても法の平等な保護(equal protection of laws)を拒絶してはならない」と定めている。前者をデュー・プロセス条項、後者を平等保護条項と言う。ケネディー裁判官が執筆しギンズバーグ、ブライアー、ソトマイヤー、ケーガン各裁判官が賛同した法廷意見は、異性であれ同性であれ、カップルが政府に自分たちの結婚を承認させる(婚姻届を受理させる)ことは、デュー・プロセス条項がいう「自由」(liberty)に当たるというのだ。法廷意見は、同条項が言う「自由」は、拘束されずに自由に行動するというような狭い意味ではなく、また、表現の自由とか宗教の自由というような憲法が明文で保障している自由に限られるのでもないという。「これらの自由に加えて、個人のアイデンティティや信念を規定する親密な選択を含む、個人の尊厳と自律を中心とするある種の個人的選択にも及ぶ」と言う。(Obergefell v. Hodges, 576 U.S. ___ (2015). Slip op., at 10)結婚におけるパートナーの選択はこうした個人の尊厳と自律に関わる基本的な権利である、と。

生涯にわたる親密な関係を結び、子どもの養育を含む家族生活を行うという選択が、個人の尊厳と自律に関わる基本的な権利であり、個人の自由に任せられるべきだというのは理解できる。こうした関係を結ぶパートナーとして、異性ではなく同性を選ぶ人が事実として存在し、そうした選択の自由は保護されるべきだというのも分る。かつてアメリカの多くの州では同性間の性的な交渉を犯罪として処罰していた(反ソドミー法)が、2003年、合衆国最高裁判所は、こうした法をデュー・プロセス条項に違反して無効だと宣言した。(Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 (2003))。この判決の法廷意見(ケネディ裁判官執筆)はこう言っている。
この事件には未成年者は登場しない。傷つけられたり脅されたりする人もいないし、同意を拒めない状況に置かれた人もいない。同性愛者が結ぼうとする関係に対して政府が公式の承認(formal recognition)を与えるべきかどうかという問題でもない。この事件は、二人の大人が相互に同意のうえで同性愛者のライフスタイルにとってありふれた性的交渉をしたというだけである。上告人らには彼らの私生活を尊重してもらう資格がある。州政府は、彼らの私的な性行動を犯罪とすることによって、彼らの存在を貶め彼らの運命をコントロールすることはできない。デュー・プロセス条項のもとにおける彼らの自由への権利は、彼らに対して、政府の介入なしに彼らがそうした行動をとる完全な権利を与えている。(539 U.S., at 578.強調は引用者)

結婚は私的な空間における性行動ではない。それは個人の選択を政府が公式に承認し、その当事者に特別な権利や利益を与えあるいは義務を課すものである。本件の上告人たちは、自分たちが選択した親密な関係に政府が介入することを排除することを求めているのではなく、むしろ政府の介入を要請しているのである。これを「自由」と呼ぶのは自由というコンセプトを破壊することにつながる危険性はないだろうか。

法廷意見は、「政府の公式の承認」が必要な理由を主として子供の福祉の観点から説明している。
結婚というものが与える承認、安定、予測可能性がなければ、彼らの子どもたちは、自分たちの家族は下等なものであるというスティグマを感じることになる。さらに、彼らは未婚の親に育てられ、自らの落ち度なくしてより困難で不確かな家族生活へと落ち込むという重大なコストを負担することになる。こうして、問題の婚姻法は、同性カップルの子供に害を及ぼし、屈辱を与える。(Slip op., at 15)

おそらくアメリカ国内にも日本と同じくらい多くの未婚カップル(いわゆる事実婚)がいるだろう。私の回りにもそうした選択をしているカップルがいる。その中には子供を育てている人もいる。彼ら自身もまたその周囲の人々も、彼らが「下等」だとか「困難で不確か」だと感じているようには全く見えない。むしろ彼らは積極的に自らの自由な選択として「事実婚」を選んでいるように見える。仮に、未婚の親に育てられている子供たちが何らかのスティグマや困難をかかえているとして、それは親が未婚だからというわけではないだろう。何か他の原因があるはずである。そして、その原因は親が法律婚をしたからといって解消できるものではないだろう。未婚カップルとその子供に対する法廷意見の理解は、はなはだ一面的であり、実証的根拠のないものであり、そして、差別的ですらある。政府の承認に必要以上の価値を与えようとしている点で、それは権威主義的でもある。

現代において結婚という制度は、個人の尊厳と自律に基づく選択の保護という側面では、特別の役割を果たしてはいない。それはむしろ、政府による人民統治の基礎的な単位として機能している。それは財産関係や親族関係、相続から医療、教育、福祉などまで、あらゆる場面に複雑に入り組んだ権利義務の体系をなしている。これは「自由」の問題というよりは、政府の統治権限行使の在り方の問題であり、富の再分配の問題でもある。同性婚であれ異性婚であれ、事実婚のカップルやその子どもたちが法律婚の家族が得ている法的利益を享受していないという現実が問題なのである。この差別に合理的理由はあるのか、差別をなくすためには何をすべきか、差別をなくす方策の一つとして同性同士の法律婚を認めるという方策は正しいのか、そして、それは憲法上の権利なのかという議論をするなら理解できる。しかし、これは個人の自律とか尊厳の問題ではない。政府の介入がなければ存在し得ない「尊厳」とか「自由」というものは尊厳でも自由でもない。
(2015年7月5日)


plltakano at 21:34コメント(0)トラックバック(0)憲法論自由論 

2015年05月02日

高橋克也氏とわれわれ弁護人は、昨日の有罪判決に対して、本日控訴しました。

判決の事実認定は、その手法もその結果もとうてい納得できるようなものではありません。裁判所は、高橋さんに「サリンを撒くので運転手役をやるように」と指示したという井上嘉浩氏の証言は信用できないと言いました。また、高橋さんがいる部屋で「サリン」という言葉を聞いたり言ったりしたという林郁夫氏と広瀬健一氏の証言はいずれも信用できないと言いました。判決は、サリンを地下鉄に撒くという計画を高橋さんは誰からも告げらなかったと判断したのです。にもかかわらず、鼻水と涙が出たので自動車の窓を開けたとか、渋谷の拠点にもどって林郁夫氏から注射をしてもらったというような、さまざまに解釈できる事情を恣意的に取り上げ、推論を重ねて、「サリンの可能性を含む、人を死亡させる危険性の高い揮発性の毒物を撒くと認識していた」などと認定しました。

裁判所は弁護人が指摘した無罪方向の証拠を無視することすらしました。例えば、「高橋の方から『中毒が心配だから治療して欲しい』と言って寄ってきた」という林郁夫氏の証言について、林氏は事件直後には警察から写真を示されて「高橋はサリン事件のメンバーの中にいなかった」と述べていたのです。いなかったと思う人間から「中毒が心配だから治療して欲しい」と言われたと記憶することなど不可能です。しかし、裁判所はこの重大な証拠を黙殺しました。そして、林郁夫は「被告人が争っているサリンの認識に関わることについて、特に慎重に証言している」などと全く根拠のない、むしろ真実とは真逆の評価を行いました。そもそも、「人を死亡させる危険性の高い揮発性の毒物」のせいで急に鼻水と涙が出たと感じている人が、わざわざ遠回りして時間を潰してから拠点に帰るでしょうか?

VX事件では、事件にかかわった出家信者の多くが教団製の「VX」なるものの効力に大いに疑問を持っていました。その疑問には根拠がありました。実際に最初の実行では何らの効果もありませんでした。判決は、あえて従来品とは異なる「新しいVX」が濱口さんに使われたと言いました。しかし、そのことが高橋さんには知らされていなかったという事実を無視しました。高橋さんが井上の指示で病院に行ったという事実を無視して、病院に行ったという点だけを取り出して、「殺傷力があることを当然の前提としたもの」と決めつけました。

假谷事件では、「すでに麻酔薬の影響を脱していた」「心不全のような突発的なこと以外に死亡の危険はなかった」という林郁夫の証言にあえて目をつぶり、假谷清志さんの死因を「麻酔薬の過量投与による副作用」だと決めつけました。他方で判決は、麻酔薬が使われることについて高橋氏が知らなかったことを認めました。そうであるにもかかわらず、麻酔薬の投与は「主要部分(骨格)」ではないと言って致死の責任まで認めてしまいました。

都庁事件では、裁判所は世界中の科学者が依拠する爆風圧の定義を無視しました。そのうえで、爆発物の人体への影響に関する研究者が具体的な数値と症例を示して、この程度の爆薬の量では人が死ぬことはないと証言しているのを過小評価しました。そして、実際に人が死んでおらず、事件に関与した関係者が口を揃えて「人の死は望んでいなかった」、「鉛玉を入れるのをやめた」と証言しているのを無視して、「大きなことを起こす」とはすなわち「要人を殺すこと」に他ならないと決めつけました。

これらはほんの一部です。刑事6部の証拠評価、事実認定の問題点は枚挙に暇がありません。

地裁の判断の問題点はその訴訟手続にもありました。事件の「首謀者」とされる人物の証人尋問の請求を裁判官たちは「必要性がない」と言い張って却下しました。「サリン」や「VX」の製造を担当していたとされた人物の証人尋問も却下しました。製造者本人の証言も聞かずに、使用されたのは「新しいVX」であるとか、その「殺傷力は明らか」などと断定しました。裁判所はさらに、全く必要性がなく当の証人が嫌がっているにもかかわらず、法の要件とその立法経緯を無視して、「死刑囚」が証言する姿を傍聴人に見せないようにする「遮へい措置」を実行しました。さらには、証人がそれを希望しているというだけの理由で公判期日を取り消して同じ日の同じ時刻に「期日外尋問」をするという明白な脱法行為までしました。こうした裁判所の措置は、刑事被告人の憲法上の権利を直接侵害するものです。

われわれは一方的で不正確な情報だけを伝えるマスコミ報道が裁判官や裁判員の判断にどの程度の影響を与えたのか分かりません。また、評議室のなかで市民の代表である裁判員がどの程度活発に意見を延べ、それが判決にどの程度反映したのかも分かりません。全ては「守秘義務」のベールに包まれています。裁判員や補充裁判員は判決言い渡し後も自ら体験した事実を表現する自由を奪われたままです。しかし、いつか必ずこの理不尽な状況は改善されるだろうと思います。裁判員が評議室のなかで体験した真実を語ることができる日がくるでしょう。

高橋克也氏の弁護人を代表して、
弁護士高野隆



plltakano at 16:25コメント(1)トラックバック(0)高橋事件刑事裁判 

2015年02月16日

本日行われた廣瀬健一氏の証人尋問について、テレビ朝日は次のように報道しました:廣瀬氏は「事件前日に井上嘉浩死刑囚(45)から『サリンをまく量を増やす、一人1リットルだ』と説明があった時、高橋被告もその場にいたと証言しました。広瀬死刑囚はサリン散布後、足が痙攣(けいれん)したために薬を打ってもらいましたが、高橋被告も同じように薬を打っていたと振り返りました。さらに、高橋被告が犯行後にテレビの報道を見ながら『やりましたね』と発言したと証言しました」と。http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000044605.html

この報道は全く事実に反します。廣瀬氏はそのような証言をしていません。
彼の証言は次のようなものです:

1)井上嘉浩氏は渋谷のマンションで「部屋に散らばっている人」に向かって「一人1リットル」と言った。廣瀬氏は、その中に高橋克也氏がいたとは証言していません。
2)事件後ニュースを見ていて、井上氏が林泰男氏に向かって「イシディンナ師(林泰男氏のこと)、やりましたね」と言ったと証言しました。高橋氏が言ったなどとは彼は証言していません。
3)事件後自分は林郁夫氏にパムを打ってもらった。林泰男氏も打ってもらったかもしれない、と証言しました。高橋氏が打ってもらったなどとは全然証言していません。

また、フジテレビは、廣瀬氏が「高橋被告の車のなかでサリンを撒く話をした」と証言した、と報じました。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00286491.html

これも事実ではありません。廣瀬氏はそのような証言を全然していません。

本日まで約1ヶ月間この事件の公判についてマスコミは誤った報道を毎日のように繰り返し行っています。専門家が「VXは液体であり、揮発性はない」と証言しているのに、いまだに「VXガス事件」などと報じている新聞もあります。これが日本の裁判報道の現実です。午前中の検察官の尋問を聞いただけで、バタバタと慌ただしく法廷を抜けだした記者が記事を書いているわけですから、誤報だらけなのは仕方がないと思います。いちいちクレームをつけていったらキリがありません。われわれは日本のマスコミがこの事件のような刑事裁判について公正な報道をすることはほとんど全く期待できないと諦めています。

しかし、せっかく裁判所が一般市民の入場を制限してまでして、マスコミのために多数の特別席を用意しているのですから、証言を傍聴した報道機関には責任ある報道をしていただきたいと思います。われわれは諦めてはいますが、許してはいません。念のため。

高橋克也氏の弁護人を代表して、
弁護士 高野隆


plltakano at 21:14コメント(0)トラックバック(0)高橋事件刑事裁判 

2015年01月10日

昨日の新聞報道に「497人に選任手続きの呼び出し状を送ったが、8日午後、同地裁に集まった候補者は86人だった」とか「辞退が相次いだ」などというものがありました(日本経済新聞朝刊 讀賣新聞朝刊 朝日新聞朝刊)。これらの記事は、大部分の候補者は自身に振りかかる負担や不利益を心配して、呼出状を黙殺したかのような印象を与えます。しかし、これは非常にミスリーディングな記事であると言わなければなりません。

裁判所は、多くの候補者には法律上の辞退事由があると認め、あらかじめ呼び出しそのものを取り消したのです。最終的に裁判所に呼び出されたのは132人の候補者です。そのうち、86名の方が出頭されました。そのなかには、幼子をベビーカーに乗せて来られた若い女性や不自由な体をおして杖をつきながら霞ヶ関の裁判所に来られた方もおられました。

出頭された候補者の皆さんは、どなたも選任手続に真摯に取り組んでおられました。最終的に辞退された方々も、できるだけ参加して職務を果たしたいという希望を述べておられました。

弁護団を代表して
2015年1月10日
弁護士 高野隆


plltakano at 13:21コメント(0)トラックバック(0)裁判員制度高橋事件 

2014年11月21日

高橋事件弁護団広報2014年11月21日
死刑囚証人と傍聴人との間の遮へいについて

本日午前11時から行なわれた第10回公判前整理手続において、東京地方裁判所刑事第6部(中里智美裁判長)は、死刑囚5名を含む検察側証人6名について、検察官の請求どおり傍聴人と証人との間の遮へい措置をとるとの決定をしました。この決定に対してわれわれは「公開裁判を受ける被告人の権利を侵害する」「刑事訴訟法が要求する必要性は立証されていない」と異議申立てを行いましたが、裁判所はわれわれの異議を棄却しました。その際に行なわれた主なやりとりは以下のとおりです。

裁判長:検察官から申出のあった遮へい措置について、次のとおり決定します。6名の証人の尋問に際しては、傍聴人と証人との間で相互に相手の状態を認識することができないようにするための措置をとることにします。

高野弁護人:裁判長、なぜ遮へい措置が必要なんでしょうか。

裁判長:異議ですか。

高野弁護人:異議をこれから述べますが、異議の理由をきちんと述べるためには、決定の理由を知る必要があります。遮へい措置の決定の理由を教えて下さい。検察官の主張を全部認めるということですか。

裁判長:刑訴法がいう「相当と認めるとき」に当たるということです。

高野弁護人:それは法律に書いてあるので分かります。なぜ「相当」なのかご説明いただけないですか。

裁判長:法律の要件に当たるということです。

高野弁護人:……それでは、裁判所の決定に対して異議を申し立てます。遮へい措置は被告人の公開裁判を受ける憲法上の権利に対する重大な制約です。したがって、その措置をとる場合には、それが必要であることが説明される必要があります。法律の条文をオウム返しに言うだけでは理由を述べたことにはなりません。行政処分に関する最高裁判所の判例は、国民の権利を制約する処分を行うときは単に法律の条文に該当するというだけでは足りない;それを基礎づける事実の説明が必要だと言っています。憲法上の権利を制約するためには、その必要性を基礎づける事実が証明されなければなりません。裁判所の今回の決定をするにあたって、そのような事実は何一つ証明されませんでした。今回の遮へい措置の決定は、被告人の憲法上の権利を侵害するものであり、最高裁判所の判例の趣旨にも反します。

裁判長:弁護人の異議に対するご意見は。

神田検察官:異議には理由がないものと思料します。

裁判長:異議は棄却します。

坂根弁護人:ひとこと述べます。この間われわれ弁護人は裁判所からの様々な要請に対して誠実に対応してきました。釈明や書面の提出要求に対して迅速に応じてきました。法曹三者が協力して裁判員にとって分かりやすい裁判を実現するために最大の努力をしてきました。ところが裁判所は遮へい措置という重大な決定をするに当って理由をなにも説明しないという態度をとるというのは三者の信頼関係を損なうものと言わざるを得ません。

裁判所は本日の手続について報道機関に配布する広報用メモの案を配布しました。そこには「本日、第10回公判前整理手続期日を、被告人出席の上で開いた」とあるだけで、あとは次回期日の日程しか書かれていませんでした。そこで、次のやりとりがありました。

高野弁護人:この広報メモには遮へい措置を採る決定をしたことが書かれていません。これは裁判の公開に関する重要な決定ですから、広報する必要があると思います。

裁判長:遮へい措置を採ることについて裁判所から広報することはしません。

結局、なぜ遮へい措置をとるのかについて、裁判所は一切明らかにしませんでした。われわれはこの事件において証人と傍聴人との間の遮へい措置を採ることは刑事被告人の公開裁判を受ける権利を侵害すると同時に、公開裁判への公衆の権利=裁判を傍聴する公衆の権利を侵害すると考えます。なぜそのような重大な決定をしたのかわれわれには知る権利があります。この問題を訴訟当事者限りで議論すべきだとは思いません。そこで、遮へい措置を要求した検察官の申出書とわれわれの反対意見書の全文を公開することにします。

検察官の10月27日付証人尋問に関する申出書

弁護人の10月30日付遮へい申し出に対する意見書
弁護人の11月5日付遮へい措置申し出に対する補充意見書

高橋克也氏の弁護人を代表して
弁護士 高野隆

追伸:われわれ弁護団はこれまでマスコミ関係者の個別取材には一切応じてきませんでした。その姿勢は今後も維持します。ただ、東京地裁によるメディア向けの広報では不十分な点があり、一部で誤った報道がなされるという事態が生じました。そこで、必要に応じて手続の重要な出来事について広報をすることにしました。


plltakano at 21:45コメント(0)トラックバック(0)刑事裁判高橋事件 

2014年10月31日

高橋事件弁護団広報2014年10月31日
死刑囚証人と傍聴人との間の遮へいについて

東京地方裁判所刑事第6部が証人尋問を決定した井上嘉浩氏らについて、検察官は、10月27日付書面で、刑事訴訟法157条の3第2項に基づき、各証人と傍聴人との間に遮へい措置を講じることを求める申出をしました。検察官は、これらの証人がいずれも死刑確定者であることから、多数の傍聴人の見守る法廷に出頭することで「再び社会に戻りたいという気持ち」から「自暴自棄になって第三者を巻き添えに生命を賭して逃走を図るなど、裁判員、裁判官その他の裁判所職員、弁護人、検察官、さらには一般市民である多数の傍聴人等に対する殺傷事案を引き起こすことになりかねない」と述べています。また、彼らを「奪還」したり「襲撃」する者が出てくる危険性があると検察官は主張しています。

われわれ弁護団は、検察官の要求は理由がないとして遮へい措置を講じることに反対しており、10月30日、反対の意見書を提出しました。われわれは、裁判公開原則を定める憲法82条1項や刑事被告人の公開裁判を受ける権利を保障する憲法37条1項にもとづいて、裁判を傍聴する市民には証人の証言を音声で聞くだけではなく、証人の証言態度やその表情、しぐさを観察する権利があると考えます。そうでなければ、刑事裁判を市民が監視し裁判が公正に運用されることを保障しようという憲法の趣旨は全うされません。

「殺傷事案」とか「奪還」「襲撃」などという検察官の見込みにはなんらの具体性もなく、刑事訴訟法157条の3の要件は全く立証されていません。仮に万が一そうした犯罪行為が行われる危険性があるとしたら、証人と傍聴席の間にスクリーンを設置するようなことでそれを防ぐことなど不可能です。

さらに、遮へいは井上氏ら証人自身が望んでいるわけでもありません。彼らはむしろ、公開の法廷できちんと証言することを希望しています。検察官による遮へいの要求は、彼ら証人のためというよりは、死刑囚を衆目にさらすことを極力厭う拘置所の前近代的な体質によるものです。

この遮へい要求は、刑事被告人の権利を侵害するというだけではなく、国民の知る権利や報道機関の報道の自由を侵害する、極めて重大な憲法問題です。この要求が認められ遮へいが実施されたら、傍聴人はこの事件の事実関係を語る証人の様子を全く観察することができなくなります。この事件の公判の一部がこうした秘密の審問の様相を呈して行われることは、わが国の刑事裁判の歴史に大きな汚点を残すことになると考えます。こうした措置が、国民の目から閉ざされた非公開の手続(公判前整理手続)のなかで決定されようとしていることに、われわれは大きな危惧を感じます。そこで、裁判所が誤った決定をする前にこの出来事を国民に伝えるべきだと判断しました。

高橋克也氏の弁護人を代表して
弁護士 高野隆

追伸:われわれ弁護団はこれまでマスコミ関係者の個別取材には一切応じてきませんでした。その姿勢は今後も維持します。ただ、東京地裁によるメディア向けの広報では不十分な点があり、一部で誤った報道がなされるという事態が生じました。そこで、必要に応じて手続の重要な出来事について広報をすることにしました。


plltakano at 18:05コメント(0)トラックバック(0)刑事裁判高橋事件 
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