裁判員制度

2016年04月26日

公判前整理手続がむやみに長くなる原因を整理しておこう。それとともに、その原因を取り除いて手続を短縮し、充実した公判を早期に開始するための方策を考えてみたい。

「間接事実の交換」

検察官が詳細な間接事実の主張を行う;弁護側がそれに対する認否や反論をする;それを踏まえて検察官がさらに書面で反論をする、というような、民事の準備書面の交換に類比される「間接事実の交換」を繰り返すことが、公判前整理手続を長期化させる最も大きな原因の一つである。そもそも、法はそうしたことを要求しておらず、これが公判を形骸化させ、裁判員と裁判官との間の情報格差、裁判官による裁判員の誘導の原因となっていることはすでに述べたとおりである。

刑事訴訟規則193条1項は「検察官は、まず、事件の審判に必要と認めるすべての証拠の取調を請求しなければならない」と定めている。また、刑事訴訟法は、裁判所は検察官の証明予定事実記載書と証拠請求の期限を定めるものとし(316条の13第4項)、同規則はその期限の遵守義務を定めている(217条の22)。しかし、これらの規制は事実上死文と化している。裁判所は、公判前整理手続に付する決定をするのと同じ頃に、検察官に対して、法にしたがって証明予定事実記載書の提出と証拠調べ請求をする期限を指定はする。しかし、この期限は検察官の主張と証拠請求のタイムリミットとしての機能を全く果たしていない。なぜなら、この期限はあくまでも検察官が「最初の」証明予定事実記載書と証拠調べ請求をする「期限」の意味しかなく、そのあとでも検察官は第2、第3の証明予定事実や証拠の請求ができると理解されているからである。

検察官は、「弁護人の主張を見なければ、争点が明らかではなく、十分な主張立証はできない」などと言う。弁護人が正当防衛とか心神喪失というような積極抗弁(affirmative defense)を主張する場合は、確かに、弁護人の主張と証拠提出を待たなければ検察側の有罪立証は困難であると言える。しかし、訴因の成否だけが問題となるケースでは、検察官は弁護側の主張がどのようなものであれ、訴因を構成するすべての事実を合理的な疑問を超える程度まで立証しなければならないのである。そして、検察官は捜査の過程を通じその強制権限を駆使して、有罪立証に必要な証拠を収集できるはずであり、それができたと考えたから起訴したのである。起訴と同時に、訴因の組み立てに必要な事実関係を主張し、その立証に必要な全ての証拠の取調べを請求することは容易にできるはずである。弁護人の主張立証を待たなければこれができないという理由は全然ない。

書面による「間接事実」の交換をむやみに繰り返させないためには、まず、刑訴法と刑訴規則による期間制限を厳格に適用する必要がある。裁判所が設定した期限のあとに検察官が証明予定事実記載書や証拠調べ請求を追加提出しようとするときは、裁判所が設定した期日まで提出できなかったことがやむを得ないと言える事情がある場合でなければならないであろう。

弁護側が主張明示義務を負うのは、積極抗弁を提出する場合だけであり、訴因事実について「認否」や「反論」を予め主張する義務はないということを三者が理解していれば、「間接事実」を巡っていつまでも書面のやり取りを続けることはなくなるはずである。積極抗弁を提出しない場合、弁護側は検察側立証に対する反証をするための証拠調べ請求だけをすれば良い。そのために予定主張記載書を提出する必要はない。証拠の関連性が分かる程度の立証趣旨を記載した証拠調べ請求を行えば足りるのである。

そもそも、検察官の証明予定事実記載書は必要なんだろうか?わが国の刑事裁判においては、検察官による訴追内容すなわち裁判の対象は「訴因」に明示されるのである。訴因はそれ自体において明確でなければならないのである(刑訴法256条3項)。訴因を明確にするために、その背景事情を説明する必要はないし、むしろ、法はそれを禁じているのである。すなわち、「起訴状には、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用してはならない」のである(同条6項)。

公判が開始される前に、請求証拠との関係を「具体的に明示」しながら(刑訴規則217条の20)、訴因を立証する「間接事実」(情況証拠)を主張するというのは、起訴状とともに証拠の抜粋を裁判官に交付しているのとほとんど同じことである。経験を積んだ裁判官であれば、こうした証明予定事実記載書を読めば、検察官がどのような証拠を持っており、その立証活動がどのように展開するのかを手に取るように理解できるであろう。要するに、証明予定事実記載書は裁判官に事実について予断を与える文書に他ならないのである。

検察官が取調べ請求する証拠の関連性を判断するために証明予定事実記載書が必要だということもない。証拠調べ請求をするときには、その証拠の立証趣旨を明示することが必要であり(刑訴規則189条1項)、それで十分である。実際のところ、平成16年の刑訴法改正まではわれわれはそうしてきたし、公判前整理手続が行われない事件ではいまでもわれわれはそうしているのである。

証明予定事実記載書は裁判員のためには全く役に立たない。裁判員は公判前整理手続が終わった後に登場するのである。そして、彼らはそれを読まない。そうすると、結局のところ、検察官の証明予定事実記載書は、裁判官に事件についての予断を与え、彼らが検察の立証の展開を予測する手助けをするだけである。全くそうした情報を持たない裁判員とこうした情報をふんだんに得られる裁判官との間の情報格差は、ほとんど絶対的と言って良い。こうした絶対的な情報の非対称性を温存したまま、「意見の重みは同じです」などと言ってみたところで、裁判官と裁判員との間で平等かつ公正な評議ができるだろうか。できるわけがない。しかも、職業裁判官は当事者双方に「証拠の厳選」を要求し(刑訴規則189条の2)、あとから来た裁判員たちが見聞できる証拠の量を極力少ないものにしようとしている。情報格差は広がるばかりである。

検察官に証明予定事実記載書を提出させる法律は一刻も早く廃止されるべきである。法改正が行われるまでわれわれにできることはなんだろうか。まず、裁判官に予断を与える危険性が高い書面――例えば、証拠の内容を引用しているあるいは引用と変わらないような記載に対しては、異議を申立て削除させることである。それから、認否や反論、求釈明などをしないことである。そうした反応をすることで、裁判官はますます予断をもつことが可能となるからである。認否や反論は法的な義務ではない、ということを肝に命じて、裁判官の理不尽な要求を跳ね返すべきである。

証拠開示までの時間

現行法上弁護側は検察官の証拠調べ請求を待たなければ証拠開示請求をすることができない(刑訴法316条の15第1項)。検察官が証拠調べ請求をするのは、起訴から2、3週間後であることが多い。ときには「証拠の整理に時間が掛かる」などと言って、1ヶ月も2ヶ月も証拠調べ請求をしないことがある。弁護側はその間ただ待つだけである。検察官によっては、「任意開示」をしてくる場合もあるが、全証拠を開示するわけではなく、証拠のリストの開示も行われない。現在国会で審議中の刑訴法改正案では、弁護人の請求によって「検察官が保管する証拠の一覧表」の交付が行われることになっている。しかし、それができるのは、やはり、検察官が証拠調べ請求をした後である。

検察官は起訴の段階で全証拠の内容を把握しているはずであり、当然に、全証拠のリストを持っているはずである。そうでなければ、証拠を管理することもできないだろう。起訴と同時に証拠のリストを弁護人に交付することは簡単にできるだろう。「任意開示」というならば、むしろ任意の証拠リストの開示を行うべきである。起訴から間がない段階で全証拠のリストの開示を受け、適宜その中から必要な証拠を閲覧することができるならば、弁護側は早い段階で――検察官による証明予定事実記載書の提出や証拠請求が行われるのを待つまでもなく――訴因に対する態度――有罪を認めるのか、無罪を主張するのか――を決定することができる。訴因に対する態度決定こそが本来の意味の「争点の整理」である。これがいち早く行なわれ、後述するように、自白事件の審理を迅速に進める方策をとるならば、否認事件も含めて、公判前整理手続の期間は大幅に短縮されることになるだろう。

書証を請求すること

ほとんど全ての事件で、検察官は、間接事実の主張を伴う証明予定事実記載書とともに、その全事実関係と情状関係を証明する証拠書類の取調べを請求する。しかし、それらがそのまま採用されるケースは殆どない。否認事件では多くの証拠書類の取調べに弁護人は同意しない。証拠書類は基本的に伝聞証拠であるから、弁護人が取調べに同意しない限り証拠にはならない。その結果、検察官はあらためて、その供述者の証人尋問を請求することになる。この間のやり取りだけで数ヶ月の時間が経過してしまう。

自白事件でも、裁判員裁判では、最終的には証人尋問を主体とする立証が行われるのであり、検察官が最初に請求した書証がそのまま公判で採用されることはそれほど多くない。ここでも最初の証拠請求の段階で証人尋問の請求をしておけば、時間を短縮することができるのである。

最初の証拠請求の段階から人証中心にするためには、起訴後の早い段階で、自白事件なのか否認事件なのかという選別を行うことが不可欠である。そのためには、起訴から間がない時期に十分な証拠の開示が行われ、「否認」なのか「自白」なのかの選別だけを行うための期日(罪状認否期日)を開く必要があるだろう。

統合捜査報告書の作成

裁判官は、弁護人に対して、自白事件でも否認事件でも、検察官請求の書証の一部に同意するように迫る。これが不当なことは既に述べたとおりである。裁判員裁判では、こうして同意された書証をそのまま採用するのではなく、検察官がそれらを検察官作成の報告書――「統合捜査報告書」と言う――にまとめ、それを証拠として採用し、オリジナルの書証は撤回するという運用が多い。これにも時間がかかる。

統合捜査報告書は当事者の一方である検察官が作成する書類である。実質的にも形式的にも、それは検察官の主張するところをなぞったものとなる。現在の実務では、検察官は冒頭陳述を行う際に、事案の概要や検察官の立証の概要を書いたA3サイズの書面を提出する。その後に検察官が提出して取調べられる「統合捜査報告書」は、このA3の書面と形式的にも内容的にもマッチしたものになっていることが多い。その朗読を聞かされ、書面を見た裁判員は、検察官が捜査を行い、それが正しかったのだという経験を繰り返すことになる。統合捜査報告書の内容が、実は、弁護人と検察官の合意した事項なのだという実質はどこにも現れず、裁判員はそれを理解できないまま審理をすすめることになる。

検察官が作る捜査報告書に弁護側が同意するという実務はやめるべきである。争いのない事実関係は、多くの場合、弁護側の主張立証にとっても有用な事項である。そうであれば、検察官と弁護人が協議して合意書面を作成し、それを証拠として採用する(刑訴法327条)という方策が採れる。その方が公正であり、実態を反映した証拠と言える。書証の請求→一部同意→統合捜査報告書の作成→同意というプロセスを回避して、最初から供述関係は人証を請求し、現場の客観的な状況を示す見取図や写真、あるいは、電話やEメールの通信記録、銀行の送金記録、身分関係などについては、双方の協議で合意書面を作成する、ということにすれば、時間の大幅な節約になるだろう。

公訴事実に争いがない事件では、公訴事実の内容を1通の合意書面に作成して、この合意書面のみで有罪立証することができる。このことに法的な問題は何もない。被告人の自白や有罪の自認(有罪答弁)だけで有罪を宣告するわけではないから(刑訴法319条2項3項)、これは完全に適法な手続である。これによって、公判前整理手続も公判自体も大幅に短縮される。そして、公判では本来の「争点」である量刑に関する事実認定のための証拠調べに焦点をあてることができる。

裁判官の不足・1-4制公判の不活用

刑事裁判の公判は本来連続的に行われるべきものである(刑事訴訟法281条の6)。一度開始したら判決言渡しまで連続して行われなければならない。治罪法(1880年)では公判が5日間以上中断したときは裁判のやり直し(更新)が必要であった(268条2項)。明治刑訴法(1890年)も同じである(183条2項)。大正刑訴法(1922年)ではこの期間は15日間に延長された(353条)。戦後の刑訴法は、公判期日の間隔の日数制限を削除した。政府委員は「今後の訴訟手続は、迅速な裁判という趣旨に基きまして、どんどんと行われるということも考え」て、この規定を削ったのだと説明した((参議院司法委員会会議録45号4頁)。ところが、事態は全く逆の方向に行ってしまったのである。

この「ガラパゴス的進化」にともなって、現在の裁判所の人的体制そのものが「連続開廷」を困難なものにしてしまった。裁判官が一つの事件の公判に集中的に取り組むことがそもそも難しくなってしまったのである。そして、これが公判前整理手続の長期化に大きく寄与しているのである。裁判所の合議部は、通常数十件以上の事件を抱えている。複数の裁判員裁判の公判前整理手続が併行して進んでいることも珍しくない。そして、合議部を構成する3人の裁判官のうち2人(裁判長と右陪席)は合議事件の他に、それと同じ数あるいはそれ以上の数の単独事件を持っている。

裁判員裁判は連日開廷することが他の事件よりも強く要請される。したがって、公判前整理手続の過程で、裁判員事件の審理に見込まれる期間――1週間とか2週間とか――の日程を予め抑えておく必要がある。別の事件の公判予定がすでに入っているので、1週間や2週間の連日開廷日を確保できるのは数カ月以上先である。そして、裁判官は、他の事件も出来るだけ早く処理したいと考えている。だから、本来であれば週5日連日開廷すべきところを、3日とか4日に限定して、空いた日に別の事件の公判期日を入れるのである。

裁判官は「週5日開廷したら、裁判員が疲れる」とか「裁判員も他の仕事がある」などという言い訳をしているが、これは実態に反する見苦しいいい訳である。「裁判員の負担」を口実に自分たちの仕事を効率的に処理したいだけである。普通の大人の市民(会社員、経営者、家庭人、学生)にとって、週に3日、一日おきに3週間拘束されるよりも、9日連続で(1週間と4日)仕事に集中して早く開放される方が望ましいことは常識である。そして、多くの市民は裁判員という職責を真剣に考えている。彼らはそれに集中したいと考えている。1日おきに証言を聞くより、毎日証言を聞くほうが証言の内容を鮮明に記憶することができ、事件の真相をより深く理解できるに違いない。

現在の事態を根本的に改善するためには裁判迅速化法が言うように「法曹人口の大幅な増加、裁判所***の人的体制の拡充」が必要なのかもしれない(裁判迅速化法2条2項)。しかし、現在の体制を前提にしても幾つかの改善策がありうる。一つは先程述べた、自白事件と否認事件の選別を早期に行い、合意書面を活用して自白事件の審理時間を大幅に短縮することである。

もう1つは、現在全く死文と化している、裁判官1名・裁判員4名による公判(裁判員法2条3項)を活用することである。自白事件のうち量刑に関する事実関係についても争いがあまりない事件については、この裁判官1名・裁判員4名の合議体(「1・4制」)で審理をすべきである。例えば、午前中に裁判員の選任から証人尋問と論告弁論までを行い、午後に評議と判決言渡しまでを行うということも不可能ではない。いずれにしても、1・4制による公判を行うことを法は予定していたのであるから、裁判所にはこの制度を使う責任があるはずである。

裁判員裁判の半数以上を占める自白事件の審理が1・4制によって処理されることのメリットは、裁判官の人員配置という点でも、非常に大きいと思う。例えば、3人の合議部に10件の裁判員裁判が係属しおり、そのうち5件が1・4制適合事件だとすると、裁判長と右陪席がこの5件を手分けして1週間で処理すれば、残り5件の否認ないし複雑な事件だけを3人で処理すれば済む。このメリットを最大限に活かすには、一つの合議部に4人の裁判官を配置して、そのうちの1人は1・4制の裁判を専属的に扱うというローテーションを組むことである。

詳細な審理予定の策定

裁判員裁判を担当する裁判官はとにかく詳細な審理予定を定めたがる。双方の冒頭陳述の時間から、書証や証拠物の取調べ時間、証人に対する主尋問、反対尋問、補充尋問の時間、最終弁論の時間まで、そしてさらに、評議の時間まで、分刻みで決めようとする。こうした詳細を極めた審理予定を作るために、当事者に細かい認否をさせたり、証拠の立証趣旨を細かく釈明したりする。要するに、事件の心証が採れるくらいでなければ、詳細で正確な審理予定など作れないのである。いずれにしても、当事者の意向を確認し、調整しながら、こうした予定を作るために何週間もの時間をかけるのである。

そして、公判ではこの予め定められたシナリオのとおりに手続が進行することを極力確保しようとする。弁護人の弁論が予定時間に近づくにつれて裁判長は苛立ちを隠さず、法廷の時計を凝視する。ストップウォッチを弁護人に向けて差し出すしぐさをした裁判長もいた。こうした極端なまでの「事前準備主義」とその「励行」が公判前整理手続の肥大化と公判の形骸化をもたらす元凶の一つであることはすでに述べたとおりである。

予定は予定であり予定に過ぎないのである。公判を真に生き生きとした実体審理の場にするためには、訴訟関係人がその場で思うとことを心置きなく主張し、かつ、その証明を行う機会を十分に与えられるべきである。その場ですべてを出さないかぎり後がないという「一回性」の緊張感のなかで、臨機応変に口頭での法廷技術を駆使できるようにしなければならない。「時刻表」から外れることは許さないというような状態ではそうした審理は期待できない。予定よりも尋問が延びたとしても、その尋問が関連性のあるものであるならば、それを許さなければならない。弁論が予定の時刻を過ぎても、裁判員がそれを熱心に聞いており、それが聞くに値する内容であるならば、それを遮る理由はない。これを遮ることは不当な弁論制限である。現代の日本の裁判官に、多少の逸脱や回り道を許容するいわば「大人」のゆとりや寛容の精神と呼べるものを期待することはほとんど不可能であるとしても、証拠法上の関連性の法則に従い、憲法上の弁護権を保障する職責があることは否定できないのである。

審理予定は分刻みで決めるべきではない。ざっくりと決めるべきである。例えば、証人尋問の時間は日にち単位あるいはせいぜい午前か午後かという範囲で決めるべきである。時には複数日にわたる予定を決めて、証人にはその両日の日程を確保することを要求するべきである。証人の出頭義務や証言義務は、憲法体制のもとにおける統治機構を支える根本的な義務である。それと当時に、それは個人の基本的権利である正義と自由を実効的に保障するために必須の義務なのである。日本の裁判所は国民に対して証人としての義務が、この国が自由で秩序ある国であるために必要不可欠な崇高な義務であることをきちんと説明するべきである。

公判日程はおおむねの期間として指定され、裁判員予定者に告知されるべきである。判決宣告日すなわち評議時間をあらかじめ決めることは、許されるべきではない。評議のプロセスは裁判官と対等の事実認定者である裁判員が協議して決めらなければならない。

あるべき公判前整理手続のイメージ

以上のことを踏まえて、あるべき公判前整理手続の流れを提案したい。

1 起訴と同時に検察官は手持ち証拠の一覧表を弁護人に交付する。
2 弁護人は一覧表の中から訴因に対する態度決定をするのに必要と思われる証拠の開示を検察官に要求し、検察官はそれを開示する。
3 裁判所は起訴から2〜3週間程度の後に罪状認否のための公判前整理手続期日を指定する。この期日は必ず公開法廷で行い、被告人は必ず出席する。
4 罪状認否期日において、裁判所は被告人と弁護人に訴因に対する答弁を求める。答弁は、1)有罪、2)無罪、そして、3)沈黙あるいは留保の3種類とする。
5 被告人と弁護人が有罪を自認したときは、
(1)検察官と弁護人は、訴因の内容が関係証拠から真実であると認められる旨を記載した合意書面を作成する。
(2)裁判所は、合意書面の採用決定と、事件を裁判官1名・裁判員4名の合議体で審理する旨の決定を行い、双方の意見を聞いたうえで、双方が量刑に関する証拠調べ請求を行う期限を決定し告知する。
(3)検察官、弁護人双方とも、できる限り証人尋問の請求を行い、書証の請求は避ける。
(4)裁判所は上記期限の後に、証人等の採否決定を行い、裁判員選任手続期日と公判期日を指定する。
6 第4項の期日に被告人又は弁護人が無罪あるいは留保の答弁を行ったときは、
(1)裁判所は、双方の意見を聴いて、検察官の証明予定事実記載書の提出及び証拠請求の期限を定める。
(2)検察官は、供述証拠に関しては、できる限り証人尋問の請求をする。
(3)弁護人は第1項で交付された一覧表にもとづいて、証拠開示請求を行う。
(4)弁護人は、積極抗弁を提出するときは予定主張記載書を提出し、証拠調べ請求書を提出する。積極抗弁がない事件では証拠調べ請求書のみ提出する。
(5)裁判所は、証拠決定を行い、公判期日を指定する。

これらの手続は現行法のもとでも実施可能である。


plltakano at 21:23コメント(0)トラックバック(0) 

2016年04月11日

*これは2011年6月23日弁護士会館(東京)で行われた刑事弁護フォーラム主催「若手ゼミ」において、若い弁護士と司法修習生向けに行った講演の記録に加筆したものである。

はじめに

皆さん、こんばんは。高野です。刑弁フォーラムの若手ゼミというと、私はもう3度目か4度目になるかな、毎回、毎回、反対尋問の話をしてくれと言われて反対尋問の話ばかりしてきました。私は反対尋問の話ししかできないんじゃないかと、そういう評価が固まりつつあるので、ほかの話もできるんだよということ示したいということで今回このテーマを選びました。

このテーマを選んだ第二の理由は、私自身、この制度が導入されて以来、何度も公判前整理手続を体験しましたけれども、その結果、この手続は最悪だという確信をいだきました。それは私個人の体験だけではなくて、私にいろいろな相談を寄せてくれる若い弁護士の体験でもあります。むしろ、私のような人間は、裁判官からいじめられたり要求されても、それを無視したり突っぱねたりしますし、そういうことを裁判官も知っているものですから、あまり強く言わない。ところが、若い弁護士は、生まれたばかりの、ふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、カモメに簡単に食べられちゃう感じですね。若い弁護士が裁判官からああしろこうしろと言われて、泣きながらいろんなことをやっている、こんなんで良いのでしょうか、という相談を何度も何度も受けています。

そうした運用が一つのスタンダードになりながら、徐々に、本来あるべき公判前整理手続の姿というものも変質していき、本来公判手続を充実したものにしようとして生まれた制度なのに、かえって公判を形がい化しているのではないか。何とか若い皆さんに、ここは踏ん張ってもらわなきゃいけない。公判前整理手続というのをちゃんとしたものに作り変えていくのは皆さんですから、皆さんがそれなりの技量を身に付けて、裁判官の職権的な訴訟運営に対してノーと言える弁護人になってもらいたいなというふうに思っているわけです。それが、今回、公判前整理手続の話をしようと思った第二の理由です。

公判前整理手続の肥大化

最初に私がお話しするのは、現実に行われている公判前整理手続はどんなものかということです。公判前整理手続というのは、条文に書いてあるように、「充実した公判審理を継続的、計画的かつ迅速に行うため」に行うものです(刑事訴訟法316条の2第1項)。これは、平成 16年の刑訴法の改正でできたわけですけれども、その前に、「裁判の迅速化に関する法律」(平成15年)ができまして、「第1審の訴訟手続については2年以内のできるだけ短い期間内にこれを終局させ[る]」という目標を掲げました。そのために、「法曹人口の大幅な増加、裁判所及び検察庁の人的体制の充実」などと並んで「訴訟手続その他の裁判所における手続の整備」を要求したこと(裁判迅速化法2条1項、2項)から刑訴法の改正に至ったものです。しかし、結論から言うと、現実の公判前整理手続というのは、公判審理の充実にも迅速化にも全く役に立っておりません。

公判前整理手続によって事件はどんどん長くなっています。私がやっている否認事件などでは、公判前整理手続だけで2年もやっています。そういう事件は決して珍しくありません。いつになっても公判が始まらない。そして、裁判員裁判ならまだ公判それ自体は集中的に迅速に行われますけれども、裁判員裁判以外を見ますと、そのようにして1年以上公判前整理手続をやりながら、公判は全然集中してないです。2週間に1回とか、下手をすると1カ月に1回ぐらいのペースで公判をやる。一体何のための公判前整理だったのかというような事態になっているんですね。このように、公判前整理手続が量的に肥大化している。

それから、さらに問題なのは質的な肥大化です。本来、公判前整理手続というのは、公判で決着をつける、公判を充実したものにするためにやるものです。法律にも書いてありますね。「充実した公判審理」と書いてあります。それを計画的に迅速にやるということになっているわけですけども、この目的も全然達成されていません。公判前整理手続をやった結果どういうことが行われているかというと、裁判の本体である公判手続が形がい化している。公判前整理手続の中でほとんどのことがもう決められてしまって、公判自体はもう付け足しになってしまっている。公判前整理手続の中で、すべてがもうほとんど終わってしまっているという状況になっているわけですね。それが現実です。

公判前整理手続というのは公開の法廷でやるものではないんですね。身柄拘束された被告人が参加したいという時には、裁判所の警備の都合上法廷でやりますけれども、非公開ですね。こちらが公開でやれと言っても、裁判官は公開でやらないです。つまり、非公開の場所で当事者がさまざまな書類のやりとりをしたり、言葉でやりとりをする。このやりとりを通じて事実認定が事実上おこなわれています。公開の場で「公判」という形式でやられるのは、その抜け殻だけです。

認否・反論の強要

その中身を少しずつお話ししていきたいと思います。まず、刑事訴訟法 316 条の 14 にあるように、検察官が証明予定事実というのを出します。検察官が公判で証明しようとする事実を出すということ。公開の法廷で行われる冒頭陳述というのがありますけども、冒頭陳述で述べるようなことを非公開の公判前整理手続でまず出して、それを支える証拠の請求までさせる。関連して弁護人が検察官の手持ち証拠のうち一定の類型にあてはまる証拠の開示請求(これを類型証拠開示請求と言います)をします。これに応じて検察官が、自分が法廷に出したい証拠(請求証拠)以外の手持ち証拠のうち法律の要件を満たす一定の証拠を弁護人に開示します。弁護人はこれらの証拠を検討して、その段階で検察官の請求証拠に対する意見を述べる。そうすると、今度は弁護側が、自分の側が公判で主張する予定の事実上法律上の主張があるならばそれを書面(予定主張記載書)にして出す。弁護人はこの書面を出すと、その主張に関連する検察官手持ち証拠の開示を請求できます(主張関連証拠開示請求)。弁護人も公判で取調べて欲しい証拠を請求する。裁判所はこれらを受けて公判で取調べる証拠の採用決定をする。そういう流れになっています。

しかし、現実にはこのようにスムーズには行きません。検察官は証明予定事実記載書というものを繰り返し何通も提出します。1回で終わることはないです。非公開の密室で裁判官は何度も冒頭陳述を聞かされるようなものです。検察官は訴因を構成する事実関係を主張するというだけではありません。その訴因を支える「間接事実」と呼ばれる事実を主張します。検察官がそれを主張しないと裁判官がその主張を促します。検察官は訴因を構成する事実、「要証事実」などと言いますが、それを主張するだけではなく、それを推測させるような事実実、「間接事実」というふうに日本の裁判官は言っていますけれども、それを主張するのです。弁護側も、それに対して、自らの間接事実を主張する。ちょうど民事の準備書面のやりとりのようなことが公判前整理手続の中で行われています。民事の準備書面でも、皆さんはいろいろな事実を主張しますよね。いわゆる要件事実だけではなくて、それを支える「間接事実」というやつを書面に書いて主張し、相手方はそれに対して「認める」「知らない」「否認する」などといわゆる「認否」をしたり、あらたな主張をして反論したりすることが行われます。刑事裁判の公判前整理手続の中でも同じようなことが行わているのです。検察官の「証明予定事実記載書1」に対して、弁護人が「予定主張記載書1」、それに対して検察官側が「証明予定事実記載書2」さらに弁護人が「予定主張記載書2」、そしてさらに検察官が・・・みたいなことで、延々と文書のやりとりをするんですね。

民事裁判ではそうした準備書面のやり取りを繰り返すことで裁判官は事件の心証を形成します。刑事でもおなじです。検察官の間接事実に対して、弁護側がそれを認否したり反論したりして、反対の間接事実を主張する。それが繰り返し行われる。時には、検察官が請求する供述調書の作成過程、捜査官の取り調べの経過についてまで双方が事実を主張し、それに対する認否や反論を書いた書面のやりとりが延々と繰り返される。
私のように、「検察官の主張に対する認否とか反論なんかしません」と宣言する弁護士もいます。そういう弁護士に対しては、裁判所は「求釈明」という形で認否や反論を促します。検察官のこういう主張に対して被告側はどう考えるのかみたいなことを訊いてきます。釈明までされると、普通の弁護士は答えなきゃいけないと考えます。書面を書いて答えるんですね。応えを渋る弁護士に対しては裁判官はさまざまなプレッシャーをかけてきます。

こうした間接事実の主張とそれに対する認否反論をさせることによって検察官の主張する訴因と間接事実について、争いのない部分と争いのある部分というのが出てくるわけです。事件の筋のようなのが当然そこに見えてくるんです。そうすると、検察官が請求した証拠書類がありますね、それに対して弁護側は、単に「不同意」というだけでは済まなくなる。裁判所は、ああ、ここは争いがないんだな、本当の争点はここなんだなというふうに分かるわけです。そうすると、争点でない部分については、検察官の証拠を争う意味はないじゃないかと言ってくるのです。検察官が請求する証拠書類に対して、弁護人に326 条の同意をするように迫るわけです。「不同意です」なんていうと、裁判長が身を乗り出してきて、「何で不同意なんですか。あなたは放火があったこと自体は争わないわけでしょう。だったらいいじゃないか」みたいなことを言うわけですね。

そうすると、新しい弁護士で、まだ初々しい、要するに、汚れていない皆さんは、うーんと悩むわけですね。「どんな放火だか分からないけれど、別に放火があったことを争っているわけじゃない。これは犯人性を争っているわけだから、同意してもいいんじゃないか」「裁判官がいうのも一理あるな」と思ってしまうわけです。それで、どんどん書証は採用されていく。「不同意」を「一部不同意」に改めさせるということも良くやられます。
そうすることによって法廷で尋問する証人の数はどんどん減っていくわけですね。尋問時間も減らされる。公判廷で行われる出来事はどんどん少なくなっていくことになります。

僕とかは、裁判長に「なぜ同意しないんですか」と訊かれても、「同意する理由が見当たらなかったので同意しないんです」などと木で鼻を括ったような返事をします。「なぜ、同意する理由が見当たらないのか」、「いや、法廷で尋問する権利を放棄する理由が見当たらなかったんです。」「それじゃ理由にならない」とか言って、論争したりするわけですけれども、そういう論争をするような弁護士は、不良と見なされるわけですね。大抵の弁護士はよい子になろうとするわけです。ちゃんと説明するわけです。「いや、そこはちょっと事実が違うので不同意にします」。「どう違うの」みたいな話になって、どんどん事実の話、証拠の中身の話が前倒しに出てくるわけです。そうすることによって書証がどんどん採用されていって、その結果、法廷でやることはあまりなくなってしまうことになります。

この仕組みは裁判官の姿勢とそれに対する弁護側の対応によって作り上げられているわけですけれども、それだけではありません。皆さんよくご存じのように、書証に同意しないあるいは検察官の証明予定事実に対してちゃんとした意見を言わない結果、被告人は非常な不利益を受けます。どういう不利益かというと、身柄が拘束される期間が伸びるということです。保釈が認められないということです。われわれの依頼人が人質にとられていることでこの仕組みは強化されているんです。

「コンパクト」で予測可能な公判を目指す裁判官

ちょっと違う話をしましょう。このように裁判所は間接事実の出し合いを促進し、それに伴って検察官側の証拠書類を採用する範囲をどんどん広げていくことによって、法廷審理の量を圧縮しようとします。ある裁判員裁判で裁判長は盛んに「公判をコンパクトにしたい」と言っていました。その理由として彼は何度も「裁判員の負担を軽くするため」と言いました。

さらに裁判官は、法廷で何が行われるのかについて詳細に計画を立てようとします。特に裁判員裁判の場合はそうです。公判日程を分刻みで計画を立てます。法が言う「計画的に」というのはそういう意味だと裁判官は理解しているのかもしれません。当事者の弁論や意見陳述、証人尋問の時間について、非常に厳格なスケジュールを作ります。法廷で何か不測の事態が起こった、あるいは予想外に尋問に手間取ったとしても、裁判所はとにかく予定された時間内に収めることを要求します。あらかじめ定めた時間内に収めるということに最大の価値を彼らは置いています。弁論の時間が長引いたりすることに対しては非常に不寛容です。

公判の時刻表を定めるだけでは気がすまず、一人一人の証人尋問の際にどういう書面を見せるかとか、どういう図面を使って尋問するかということまで、いちいち公判前整理手続の中で決めたがる裁判官もいます。刑事訴訟規則には、証人尋問を分かりやすくするために、図面、写真、書類、装置、模型などを利用して尋問できるという規定があります。50年前にその規則を定めた人たちは、尋問の中でそれを判断しましょう、必要だと思えば裁判長はその場で許可するでしょうし、不必要なら許可しないだろう、というようなことを考えたはずです。しかし、現在の裁判官は、法廷のその場でそのときの判断で決めるのではなく、あらかじめ公判がはじまる前に決めておきたいのですね。まだ、証人尋問はおろか、起訴状の朗読すらやられていないのに、そのずっと前に特定の証人にどういう尋問が行われて、そこで、どういう図面が示されるかも決めておきたい。芝居の台本のようなものを裁判が始まるずっと前に決めておきたい。そんなことは尋問の時に決めたらいいんじゃないですかなんて発言しようものなら、何を言っているんですかっていう感じで真顔で批判されます。もう全部決めておきたいというのが今の裁判官の姿勢です。

裁判員裁判では、公判前整理手続で判決の言い渡しの日まで決めてしまうのです。まだ裁判は始まってすらいないんですよ。始まっていないにもかかわらず、判決言い渡しは何日の何時ですよって決めてしまうわけです。これほどおかしなことはないですよね。だって、事実認定というのは、法廷で証拠調べをやって、裁判員と一緒にそれを聞いて、裁判員と評議をして決めるわけでしょう。裁判員の選任すら行われていない、誰が裁判員かも分からない、彼らと会ってもいないのに、評議にどのぐらい時間がかかるか分かるわけがないじゃないですか。であるにもかかわらず、もういつが判決の言い渡しかって決めちゃっているわけですよ。

彼らは一度決めたらそれに従って行動します。今までの裁判員裁判で、あらかじめ決められた判決言い渡し期日が延びたことは皆無に近いです。予定よりも早く判決が言い渡されたということも聞いたことがありません。つまり、裁判員裁判において、実際の公判は公判前整理手続で作られたシナリオどおりに行われている。そして、裁判員と裁判官の評議も予定されたスケジュールに沿って行われているということです。一言で言うならば、裁判という舞台の完ぺきなシナリオが、公判前整理手続で作られてしまっているということになります。

公判の形骸化

これは、私のような弁護士にとっては非常につまらないことです。あらかじめ決められたことを決められたとおりに法廷でやるなんていうことは、これほどつまらない仕事はないです。法廷というのはそういうものではない。何が起こるか分からない。自分のその場の判断で、挙手一投足によって何かが変わると、そういうスリルといいますか、そういう興奮といいますか、そういうものがなければ公判をやる意味がない。そのために弁護士になったようなものですから。

しかし、問題は私個人の生きがいという小さなものだけではありません。もっと大きな問題がそこにはあります。まず、第一の問題は、事実認定が公判前整理手続によって先取りされてしまっているということです。先ほども言いましたように、公判前整理手続の中で、検察官と弁護人は「間接事実」をめぐって詳細なやりとりをします。間接事実のやりとりが行われるということはどういうことかというと、証拠の中身を裁判官は先取りしてしまうということです。間接事実が分かれば、それはもう証拠の現物をみるのとあまり変わらないぐらいに証拠の内容を理解(予測)することができます。なぜなら、間接事実とは実質的には証拠の内容にほかならないからです。当事者双方が詳細な間接事実を主張し合えばし合うほど、裁判官は生の証拠を見たのと同じ心理状態に近づくことができるのです。

例えば、殺人の訴因で殺意が争われているとしましょう。検察官が、被告人は刃渡り 20 センチの柳刃包丁で、被害者のお腹を刺したという間接事実を主張したとします。で、弁護側が、被告人が刃渡り 20 センチの柳刃包丁を持っていたことは間違いなし、それで被害者のお腹が切られていたことも間違いない、しかし、それは、意図的に刺したんじゃなくて、包丁の取り合いをして包丁が刺さっちゃったんだというふうな間接事実を主張したとします。

そうすると裁判官は、「ああ、柳刃包丁がお腹に刺さったんだ。被告人は、刺さっちゃったという弁解を法廷でするんだ」というようなふうに、もう証拠の中身を理解してしまう。それが理解できない人間なんて恐らく存在しない。つまり、間接事実のやりとりというのは、証拠のやりとりとほとんど変わらないのです。

もっとひどい場合は、被告人や証人予定者の供述をそのまま間接事実として主張する場合もあります。被告人は何月何日に、包丁でお腹を刺したと供述していた。被告人の何月何日付けの供述調書にはこういう記載があるというようなことを、正々堂々と証明予定事実の中に記載してくる検察官もいます。それに対して弁護側が予定主張として、いや、被告人はその前々日にはこういうことを言っていたと「反論」する場合もあります。随分熱心な弁護士のように見えます。当の本人もそう思っているのかもしれません。しかし、これは要するに証拠の中身を非公開の場所で裁判官に披瀝しているのと同じことです。裁判官が調書を読むの全然違わない。もう証拠調べをしたのと同じ状態になってしまっているわけです。

こうして、公判前整理手続が終わった段階で裁判官は判決が書ける状態になっているのです。実際、そういうふうに修習生に言っている裁判官もいますい。公判前整理手続というのはもう判決が書ける状態までやらなきゃいけないんだということを教育の一環として修習生に教えている。判決文の中に何カ所かブランクがある状態、あるいは、判決という名のジグソーパズルがあって、ちょこっと抜けたピースがある状態、それが公判前整理手続の理想の姿だと裁判官は考えているのです。

あとは公判で判決文のブランクにいれる言葉を見つければいいんですね。パズルのピースを法廷で埋めていけばいい。それだけが公判に課せられた使命だと。それこそが優秀な刑事裁判官による理想的な公判前整理手続と公判との関係だということになります。

このように、事実認定が先取りされて、そして、公判が極限的なまでに矮小化されていく、形骸化していく。これが裁判員裁判で行われるとより深刻な問題を招くことになります。それは第一には、裁判官と裁判員との間に、圧倒的な情報の格差が生まれることです。公判前整理手続が終わった段階で、裁判官はもう証拠調べが終わったのと同じ心証を持っています。事件のことは何でも分かっている状態になっています。証拠の中身を見たのとほぼ同じ状態になっている。他方、裁判員の方はどうかというと、何も分かっていません。事件の筋も証拠も何も分かっていない。当事者がどういう主張をしているのかも分からない。どういう証拠があるのかも分からない。

これほど大きな情報格差のある人たちが平等な審理と評議をすることができるでしょうか。できるわけがありません。事件の真相をほとんどと理解している裁判官は、何も知らない裁判員に対して圧倒的に有利な立場に立てるでしょう。あからさまな方法で裁判員を説得したり誘導したりすることもできるでしょうが、もっとわかりにくい方法で巧妙に評議を方向づけることが可能になります。例えば公判で、証人尋問をやっていて、証人が公判前に予想したこととは違う証言をしたとしますよね。そういうことはよくありますよね。要するに、検事が尋問に失敗しているわけです。そういう場合に、裁判官はそっと誰にも気づかれないようにその証言を違う方向に誘導していく。そして、公判前で見た間接事実のほうに、つまり、いったん納まったパズルがちょっと外れかかったわけだけども、もう一回それを戻すというような尋問をするでしょう。

それから、評議室での議論の中で、裁判官の心証と外れたような議論が行われたとしても、その場で説得するような、そんなあからさまなことをすれば、それは裁判員から反発を感じるわけですね。そうじゃなくて、もうじきこういう証拠が出てくるから、ここはこれでいいかみたいな感じで、大人として振る舞う余裕があるわけですね。そして、最終的に評議の中で、「じゃ、こういう証拠はどうですか」みたいな、ぽんと出す。そうすることで、裁判員は「ああ、そうか」ということで裁判官が考えている方向に一気に流れていく。情報さえもっていれば、何も知らない人を誘導することは簡単です。いくらでも方法があるわけです。あからさまに説得するなんていうのは、賢い裁判官はやらないと思います。そんなことをやればかえって反発を受けるし、それは下手な方法です。

裁判官はもう事実関係を誰よりも知っているわけですね。そして、裁判員は全然知らない。だから、裁判員は裁判官に質問するわけですね。「この人はどういう証人なんですか」「これからどういう証人が出てくるんですか」と。裁判官はこうした質問に的確に答え、裁判員を指導することができる。こうしたコミュニケーションを通じて、裁判員は、「裁判官は何でも知っている」と考えます。裁判官は権威者として振る舞うことができる。裁判員はとにかく裁判官を信頼し、尊敬するわけですね。裁判官がどう考えているのかということを考えるようになる。そうなればあとは簡単なことですよね。裁判員がみんな裁判官を信じてしまえば、あとは極めて簡単な話になるんです。職業裁判官と一般市民が対等の立場で証拠を評価し事実を認定するという裁判員制度の中心的な価値は全く無効にされる。裁判員は職業裁判官の決定に民主的なお墨付きを与えるだけの存在になってしまうのです。

「裁判所への協力義務」

公判前整理手続は職業裁判官の権限を強化する制度です。言い換えると、当事者主義の仕組みを職権探知主義に変えてしまう仕組みにほかなりません。裁判官は積極的に検察官と弁護人の尻を叩いて「間接事実の交換」をさせようとします。これは、要するに、検察官と弁護人を使って事件の「真相」を追求しようというものです。これが職権主義でなくて、何が職権主義と言えるでしょうか。

しかも、裁判官は職権主義を進める強力な武器を持っています。それに協力しない弁護士を処罰することができます。保釈を認めないとか、請求した証拠を「必要性がない」と言って却下したりします。彼らはさらに自分たちに従うのは法律上の義務だと言います。刑事訴訟法 316 条の3にこう書いてあります――「訴訟関係人は、充実した公判の審理を継続的、計画的かつ迅速に行うことができるよう、公判前整理手続において、相互に協力するとともに、その実施に関し、裁判所に進んで協力しなければならない」。さらに裁判員法51条にも「裁判官、検察官及び弁護人は、裁判員の負担が過重なものとならないように」しなさい、と書いてある。裁判官はこうした条文を盾にとって、「何で争点を絞ることに協力しないんだ」「何で、そんな書証に『不同意』なんて言うんだ」と迫ってきます。裁判員に余分な負担をかけちゃいけないんだ、だから、われわれ法曹が協力し合って、できるだけ争点を少なくして、できるだけ公判で聞く証人の人数を減らさなければいけないんだ、あなたのような原理主義的な頑迷な弁護士がいるから、裁判員の皆さんは迷惑を被るんだというわけです。さらに「それは被告人の利益にもならないでしょう」なんて言う。暗に公判が長期化してその分被告人の身柄拘束が長引くことをほのめかすのです。

よい子の皆さんは、そういうことを言われると、「間違ってました、分かりました、もう一回出直してきます」と言って、できるだけ証拠書類の取調べに同意して証人の数を減らそうと努力する。その結果、裁判員の負担が減るかというと、決してそんなことはない。彼らは証人から直に話を聞くことができると思って法廷に来ているのです。ところが実際には、延々と退屈な調書の朗読を聞くことになるわけです。加重な負担どころか拷問ですよね、調書の朗読を何時間も聞かされて。

検事が請求する証拠書類の取調べに同意すれば、「罪証隠滅の恐れが減った」とか言って保釈を認めてくれる――逆に、証拠書類のほとんどに不同意の意見を言うと保釈を認めない――そういう裁判官がいるのは事実です。この運用が保釈を自白強要の道具にしてしまっていることは常識を備えた人間ならだれでもわかることです。実際、警察は「いつまでも否認していると保釈が認められないぞ」と言って自白を求めます。皆さんのような若い弁護士がこうした裁判官の脅しに屈して唯々諾々と調書に同意することはこの現状をますます固定することになるでしょう。調書を不同意にしたからと言って被告人による証拠隠滅の可能性が高くなるなどとうのは全く現実離れした議論です。われわれはそのことを一つ一つの事件のなかで保釈担当裁判官や準抗告審裁判官に説明すべきです。1回や2回であきらめてはいけない。何回でも何十回でも保釈請求、準抗告申立を続けるべきです。そうして改善していくしかない。

公判前整理手続というのは、弁護人が被告人の身代わりとして、ものすごく糾問的な(自白追及的な)勾留質問を受けているようなものですね。被告人の代わりに、弁護人が尋問を受けている。どんどんしゃべらなきゃいけない状態になっている。前に言ったことと違ったことを言うと、「あんたは前にこう言っていたじゃないか」みたいに、法廷でいじめられている被告人のような状態に、弁護人がなっている。これはどういうことかというと、黙秘権がなくなっているということです。供述しない権利が被告人にあるわけですけれども、弁護人がどんどん供述させられることによって、被告人の権利は無意味になっているということです。黙秘権、供述拒否権が空洞化しているということです。

証拠書類の取調べに同意するということは、証人審問権の放棄です。公開の法廷で自分の目の前に検察側の証人を呼んできて宣誓をさせる;弁護人を通じて反対尋問をするという憲法上の権利を放棄したということです。

要するに、黙秘権も証人尋問権も反対尋問権も、そして、公開裁判を受ける権利すらも放棄させられている。これが現在行われている公判前整理手続の実態なのです。裁判官は、われわれの依頼人である被告人と裁判員を人質にとって、彼らのためだという口実――全く嘘っぽい口実――を使って、実際には自分たちの権限を温存して自分たちに好都合な訴訟運営を効率的にやろうとしています。公判前整理手続は量的にも質的にも肥大化し、いわば職権主義の化け物のようになっている。その反面で、公判で証人から話を聞いてすべて決めようという公判中心主義が形がい化し、被告人の権利が空洞化している。

法への回帰を

じゃあどうすべきかという話をしたいと思います。それは簡単なことではないですね。裁判所が組織ぐるみで一体として公判前整理手続を職権主義的に運用しようとしているんですから。国民の税金を使って「司法研究」を発表して事実上の「模範解答」を示したり、「勉強会」と称する非公式の意思伝達機構を使って、この現状を固定しようと躍起になっているのですから、これを変えるというのは容易なことではないでしょう。しかし、どんなに困難であっても、これは変えなければいけないと思います。なぜなら、事態はあまりにも深刻だからです。公判前整理手続の肥大化によって、大切なものが失われつつあるからです。われわれはいま何が失われつつあるのかをしっかりと確認しておく必要があります。

黙秘権

被告人には黙秘権があります。知っていますか、被告人には黙秘権があるんです。黙秘権、知ってる?ああ、よかった!黙秘権があるというのはどういうことかというと、犯罪の訴追を受ける人は何人も自分で自分の無罪を証明しなくていいということです。被告人は黙っていれば良い。自分が無実であることを説明したり、その証拠を提出しなくても良い。検察官が訴因――起訴状に「公訴事実」として書かれていること――を合理的な疑問を容れない程度まで証明しなければならない。検察官がその証明に失敗したら被告人は無罪にされなければならない。そういうことです。

刑事訴訟法291 条3項はこう言ってます――「裁判長は、***被告人及び弁護人に対し、被告事件について陳述する機会を与えなければならない」。これは陳述する機会なのであって、陳述する義務ではない。これは権利なんですよ。言いたいことがあるなら言える権利があるということです。何かを言わなきゃいけない義務ではないのです。法律の条文と憲法からしてこれはあまりにも当然なことです。

アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどのコモンロー系の刑事裁判では、被告人は訴因に対して3種類の答弁をすることになっています。「有罪」(guilty)、「無罪」正確には「有罪ではない」(not guilty)、そして「争わない」(nolo contendere; no contest)、この3つです。これ以上に細かい答弁を要求したり、事実に関する認否を要求することは許されません。それは黙秘権を侵害すると同時に、陪審が権限をもつ事実認定の領域を侵食することになるからです。被告人が「有罪」の答弁あるいは「争わない」という答弁をすれば、その段階で――証人尋問などの証拠調べは省略されて――直ちに有罪が宣告されて、量刑を決めるための公判が行われます。被告人が「無罪」の答弁をすれば、有罪か無罪かを決めるための公判(trial)が行われます。

裁判官は無罪の答弁をした被告人に対して、「現場に居たことは間違いなのか」とか「バッグの中に覚せい剤が入っていたことは争わないのか」などと質問してはいけない。そんなことをすれば、確実に上訴されるでしょうし、その前に裁判官に対する忌避申立てが行われ、それは認められるでしょう。検察官がそうした「釈明」をしたとしたら、裁判官が直ちに公訴棄却(dismissal)の決定をするでしょう。被告人が「無罪」と一言言えば、検察官は訴因を構成するすべての事実を公判廷で証明しなければなりません。どれか一つの事実について「合理的な疑問を容れない」程度に証明できなかったとすれば、被告人は無罪です。例えば、覚せい剤密輸の訴因に対して被告人が無罪の答弁をしたとします。検察官が、税関検査で発見された覚せい剤が被告人が搭乗した飛行機に預託した荷物のなかに最初から入っていたこと(証拠物の同一性、いわゆる「保管の連鎖」)を証明できなかったとすれば、当然無罪とされなければなりません。

いま言ったように英米では「有罪」答弁によって公判は省略できる。だから罪状認否手続には重大な意味があるわけです。日本の場合はどうでしょうか?日本刑事訴訟法319条2項はこう言っています――「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」。第3項によればこの「自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む」。だから、罪状認否手続で被告人が「有罪」と答弁しようがなんと言おうが、検察官は有罪立証を省略することができないのです。つまり、日本の刑事裁判では、被告人に罪状認否をさせることは法的にはなんの意味もないのです。ではなぜ、現実の刑事裁判では、裁判官は一所懸命被告人に罪状認否を求めるのでしょうか。罪状認否どころか、検察官が主張する周辺事実(間接事実)一つ一つについてまで、認否するように求めるのでしょうか?それは、先ほど説明したように、その答弁によって心証をとることができるからです。法廷でやることを局所的・断片的なものに絞り込んで自分たちの仕事を効率的にすすめることができるからです。

しかし、これは明らかに法律の建前に反しています。法律は自白だけで有罪の認定をしてはいけないと言っているのです。自白どころか実際には弁護人が作成した文書にすぎない「予定主張記載書」の文言によって事実を認定してしまうのです。刑事裁判の判決文を読むと、事実認定の説明の中に「以下の事実は当事者も争っておらず、矛盾する証拠もないので、事実と認められる」というような記載がよくあります。これは有罪判決の事実認定が法廷で取調べられた証拠によってではなく、当事者の態度――事実を争っていないという態度――によってなされていることを物語っています。しかし、これは刑事訴訟法の明文に反しているのです。

主張明示義務

刑事訴訟法316条の17第1項はこう言ってます――「被告人又は弁護人は、***公判期日においてすることを予定している事実上及び法律上の主張があるときは、裁判所及び検察官に対し、これを明らかにしなければならない」。法律家はこれを「主張明示義務」と呼んでいます。公判廷で予定している事実上・法律上の主張があるときは、それを公判前整理手続のなかで予告しておかなければならない、ということです。これはどういう意味でしょうか?

繰り返し言いますが、被告人には自分が無罪であることを説明する義務はない。訴因の立証責任は検察官にある。だから、弁護側が公判廷で提出する証拠は原則として「反証」ということになる。この反証を提出するかどうかは被告人の自由です。あらかじめ何か積極的な主張をしなければ証拠が提出できないというわけではないのです。但し、平成16年改正刑事訴訟法は、それまで当事者は公判廷で随時証拠請求ができるという建前だったもの(刑訴法298条1項)を改めて、公判前整理手続に付された事件では公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」がない限り証拠調べ請求ができないとしてしまいました(316条の32第1項。この立法が賢明な立法だったかについては大いに疑問がありますが、それには今回は触れないことにします)。ですから、公判前整理手続に付されたケースでは、弁護側も原則としてその手続中に証拠の取調べを請求しなければならないということになります。そして、裁判所にその証拠を採用してもらうためには、その証拠が関連性のある証拠であること――その存在によって事件の結果に影響を及ぼす蓋然性があること――を示さなければなりません。そうすると、弁護人は証拠の関連性を示すためにその証拠によってどのようなことが証明されるのか(立証趣旨)を裁判所に示さなければならないということになります。これは刑事訴訟法の改正を待つまでもなく、それまでの手続でも行われていたことです(刑事訴訟規則189条1項)。

改正法が弁護側にあらかじめ主張することを求めているのは、こうした「反証」を超える主張を弁護側がする場合のことです。あらかじめ主張させ、検察側に反証の機会を与えなければならない事実のことだと思います。つまり、いわゆる証拠提出責任を負う主張のことです。「積極抗弁」(affirmative defense)と言われる主張、例えば、正当防衛とか緊急避難というような違法性阻却事由、心神喪失や心神耗弱のような責任阻却事由、さらにアリバイ主張がこれに当たるでしょう。また、証拠法上の主張として、自白の任意性を争うとか違法収集証拠の排除の主張も、わが国の判例や実務では弁護側が証拠提出責任を負うとされています。こうした事実上及び法律上の主張をするときには、公判前整理手続が行われている間にしなさいというのが法の趣旨です。

無罪の説明や検察官の主張する「間接事実」に対する反論をあらかじめすることを求める規定ではないのです。あらかじめ「争う」と言わなければ公判で争えなくなるとか、反論の中身を事前に予告しなければならないというようなものではないのです。

ところで、改正法は「主張明示義務」に違反した場合の制裁を何ももうけませんでした。あらかじめ主張しておかなければ公判の途中で主張できなくなるというような主張制限を定めた規定はどこにもありませんし、また、そのための証拠を請求できなくなるという証拠制限の規定もありません。先ほども言ったように、公判前整理手続終結後は「やむを得ない事由」のために公判前整理手続中に請求できなかった場合を除いて証拠請求できないという一般的な制限があるだけです。そうすると、公判前整理手続の間に主張していなかった積極抗弁を公判中に展開することが一律に許されないというわけではなく、それが訴訟上の権利の濫用に当たるとか信義誠実義務違反だと言える場合(刑訴規則1条2項)を除いて、新しい主張をすることは可能だということになります。目撃証人や法医学者の証言を聞いてみたら、正当防衛が成立しそうであることが改めて分かったのであれば、公判の途中でその主張をしてもよい、そして、新しい証拠を請求することも許される(「やむを得ない事由」があるから)ということになります。

証人審問権

有罪の人であれ無罪の人であれ、被告人はすべての証人を公判廷の自分の前に連れて来させる権利があります。証言台で公衆の面前で宣誓させたうえで、尋問する権利がある。これも憲法に書いてあります――「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」と(憲法37条2項)。前半は検察側証人に対して反対尋問する権利、後半は自分に有利な証言をする予定の証人を公費で強制的に法廷に召喚する権利です。捜査機関が関係者の話をまとめたにすぎない供述調書を被告人に不利な証拠として採用することは被告人の反対尋問の権利を侵害するから許されない。

供述調書の取調べに同意するということはこの反対尋問の権利を放棄することにほかなりません。当事者が明確に「同意しない」という意見を表明した以上、裁判官が権利放棄を慫慂することは許されないはずです。ましてや、当事者に対する不利益――公判の長期化――を仄めかして権利放棄を強要することなど言語道断というべきです。法律は疑問の余地のない言葉で「審理に2日以上を要する事件については、できる限り、連日開廷し、継続して審理を行わなければならない」と定めています(刑訴法281条の6第1項)。調書がすべて不同意になっても証人の数は、たいていのばあい10人以下です。どんなに多くても40人ぐらいでしょう。そして、1人の尋問時間が3時間を超えることはほとんどない。30分で終わることなど珍しくありません。仮に2時間の証人を10人取調べるとして、この法律の規定にしたがって1日6時間(午前2時間、午後4時間)の開廷時間で連日開廷すれば、冒頭陳述や最終弁論を入れても4日間で公判は終了するはずです。

ところが、裁判官たちはこの法律はただの努力規定にすぎないと言って、むかしとあまり変わらない期日指定をします。とりわけ裁判員裁判でない事件の公判は2週間に1回とかひどい場合には2ヶ月に1回などということもあります。彼らは「他の事件の公判が入っている」とか「別の用事がある」と言って連日開廷を拒否します。裁判員裁判では流石に1周間に1回などということはありません。しかし、「連日開廷」にはほど遠いものです。週に3日しか期日を入れません。しかも、1時間尋問したら30分休みというように、1日の開廷時間は実質4時間程度に抑えられています。彼らはここでも「裁判員の負担の軽減」を持ち出します。しかし、本当に裁判員はそんな風に休み時間ばっかりの仕事を望んでいるでしょうか。そうは思いません。実際、もっと沢山の証人から多くの証言を聞きたかった、という裁判員の感想を聞いたことがあります。少なくとも、最初から休み時間を決めるのではなく、実際の公判の進行ぶりを見て休廷を決めるべきでしょう。

要するに、裁判迅速化法にもとづいて改正された法律の明文は、裁判官の勝手な解釈と運用によって死文と化しているのです。もしも、沢山の事件を抱えているために連日開廷の日程確保ができないというのであれば、法の実現のために刑事裁判官の数を増やすべきです。裁判迅速化法も「裁判所***の人的体制の充実」を要求しているじゃないですか(同法2条2項)。さらに、何でもかんでも3人の裁判官が一緒に仕事する必要はそもそもないのです。裁判員法は、「公訴事実について争いがないと認められ、事件の内容その他の事情を考慮して適当と認められる」事件については、裁判官1人裁判員4人の合議体で裁判できるとしています(2条3項)。裁判員裁判のうちおそらく3分の2以上は公訴事実に争いのない事件です。こうした事件では裁判官は1人で良いのです。この法律を使えば、裁判員裁判の期日が渋滞する事態を少なくすることができます。しかし、この法律も死文化しています。一度も使われたことがありません。公訴事実に争いのない事件でも全件で裁判官は3人参加しています。あれだけ議論して熟慮を重ねて制定された法律が、法を執行する責任のある裁判官たちの一存で無効化されてしまっているのです。

話が少しずれてしまいましたが、要するに、供述調書を拒否して供述者を法廷に呼ぶという被告人の権利は、裁判官の役人的な都合よりも大事なものです。連日開廷や裁判官1・裁判員4の合議体など、法をきちんと運用すれば、相当数の証人尋問を行っても迅速な裁判を実現することは可能なのです。これを実施しないのは裁判官の怠慢であり、責任放棄としか言いようがありません。

そして、これは憲法上の権利ではないけれども、事実認定の権限が与えられている裁判員にとっても法廷で宣誓した証人の生の声を聞き、その供述態度を直接観察するというのはとても重要なことだと思います。調書の朗読を延々と聞き続けるというのは非常に退屈であるだけではなく、供述を正確に理解して真相に近づくという観点からも、調書を使うことには問題があります。

公開裁判の権利

この国で刑事訴追されたすべての被告人は公開の法廷で裁判を受ける憲法上の権利があります(憲法37条1項)。有罪か無罪かという事実認定や量刑の決定が公開の法廷で、誰でも視聴できる状態で行われなければならないことはいうまでもありません。非公開の公判前整理手続で、検察官に訴因とその周辺事実(「間接事実」)を主張させ、弁護人にそれに対する認否や反論をさせて、事実認定をしてしまうのは、裁判の公開に反します。

公開の法廷で行われなければならないのは、事実認定や量刑だけではありません。刑事裁判というのは犯罪と治安という国家統治の最も基礎的な事柄を規制する手続であり、国民主権の国家においてその手続が国民の監視下で行われなければならないのは当然です。それと同時に、刑事裁判は市民の生命や自由に対する国家権力による侵害・介入の手続ですから、自由主義の国家においてはそれが被告人の同胞の関与と監視のもとで行われなければならないのも当然です。これこそが裁判公開の保障の意味です。そうすると、単に事実認定や量刑だけではなく、その前提となる重要な手続や決定も公開の場所で行われることを憲法は要請しているということになります。

アメリカやイギリスでは、逮捕された被疑者の拘禁を継続するか保釈を認めるかという手続は公開の法廷で行われます。陪審員の選任手続(陪審候補者への質問手続)も公開の法廷で行われます。自白や押収物などの証拠能力が問題となったときの証拠採否のための証人尋問も公開されます。陪審が事実認定を行うときの証明基準や適用される法律を裁判長が説明する手続(陪審への説示)も誰でも傍聴できる公開法廷で行わなければなりません。もしもここに挙げた手続を裁判官と当事者だけしか参加できない密室で行ったとすれば、それは裁判公開の権利を侵害する違法な手続だとされるでしょう(事実、連邦最高裁はそうした判断をしています)。

日本ではどうでしょうか?現在の日本では、これらのうち、自白や証拠物の許容性判断の場合を除いて、すべて非公開の密室で行われているのです。逮捕された被疑者を拘禁する手続(勾留質問)は、裁判所の中の「勾留質問室」という部屋で被疑者本人のほかは裁判官と書記官と警察官しかいないところで行われます。弁護人の立会も認められません。保釈の審査は裁判官が自分の部屋で検察官から送られた一件記録を読むだけで行われます。裁判官は被告人の顔を見ることすらせずに、保釈を却下します。裁判員選任手続は、法律自体が「公開しない」と定めています(裁判員法33条1項)。そして、裁判長による裁判員への法令の説明(説示)は、裁判官と裁判員以外に参加できない評議室の中で行われます(裁判員法66条3項)。こうして見ると、日本の刑事裁判の実際は、中世のヨーロッパや現在のどこかの独裁国家で行われている「秘密の審問」(secret inquisition)とあまり大差がないのではないかと思えてきます。現状に対して、われわれ弁護士は裁判公開の保障の観点から異議申し立てをすべきではないかと私は考えています。

先ほど言ったように、これまでの刑事裁判では自白の任意性であるとか違法収集証拠の問題などは公開の法廷で、公判手続の一環として、捜査官の証人尋問や被告人質問などを行って判断されてきました。ところで、公判前整理手続を導入した平成16年改正刑事訴訟法は、公判前整理手続のなかで証拠の採否の決定ができると定めました(刑訴法316条の5第7号)。そして、この決定のために「事実の取調べ」(刑訴法43条3項)すなわち証人尋問や鑑定(刑訴規則33条2項)をすることができます。法は公判前整理手続を公開すべきかどうかについて沈黙していますが、現在の裁判官はみな原則非公開だと理解しているようです。私は公判前整理手続が公開されたという話を聞いたことがありません。そうすると、自白の任意性や違法収集証拠、同一性や真正が争われている証拠物や文書の許容性を判断するために、裁判官は非公開の場所で、もちろん裁判員もいない場所で、捜査官や被告人を尋問して決定してしまう可能性があります。私自身はその経験はありませんが、実際にこれが行われているという話を聞いたことがあります。公判が開かれないまま、延々と密室で証人尋問が行われているということです。これは裁判公開原則から考えて本当に由々しき事態だと言わなければなりません。その事件の弁護人がその手続に異議を唱えたかどうか分かりませんが、皆さんが仮にそうした事態に遭遇したなら絶対に異議を述べて阻止して下さい。阻止できなかったら、上訴して下さい。最高裁まで争って下さい。

証拠の決定や裁判員への説示のほかにも、公判前整理手続という密室の中で世間の誰も知らないうちに大事なことが次々に決められていってしまいます。事件の争点や証拠の採否の他、被害者を匿名にするとか、証人と被告人や傍聴人との間の遮へいであるとか、論告や弁論の予定時間、そして評議の時間、判決をいつ言い渡すかなどです。起訴された後何か月間もときには1年以上にわたって密室での手続が続きます。そのことに日本のマスコミは不思議なくらいに寛容ですね。著名な事件では被告人の逮捕から起訴までは本当に時々刻々細部にわたって警察や検察の発表に基づいて報道が行われるのに、起訴された途端に情報がなくなる。そして、突然裁判が始まる。なぜ日本のマスコミは「公判前整理手続を公開せよ」と要求しないのか。私には理解できません。

「間接事実による認定」と裁判員制度

とにかく日本の裁判官は「間接事実による認定」ということを金科玉条にしています。検察官もそれに追随しています。司法研修所では、証拠法とか憲法と刑事手続とかはほとんど全く教えられませんが、事実認定の方法として「間接事実」が重要だということを盛んに教えます。ロースクールに派遣されている裁判官や検察官もこればっかりです。「間接事実による事実認定」の技術こそ、法律家の法律家たる所以であるなどと言っていますね。

間接事実による事実認定とは何でしょうか?それは例えばこういうことです。ある時ある場所の天気が晴れだったか雨だったかが問題となったとしましょう。そのとき街の歩道を傘をさした人が歩いていたという事実があれば、雨だったということが推測できますね。この論理において、傘をさして歩いている人がいたという事実が間接事実です。コモンローの伝統的な用語法によればこれは「状況証拠による証明」(proof by circumstantial evidence)ということです。状況証拠と対立する概念が「直接証拠」(direct evidence)です。直接証拠はそれが100%信用できるならば、直ちに事実を認定できるのです。これに対して状況証拠は、それが100%信頼できるとしても、事実を認定するためには事実と証拠との関係を推論によって補強しなければなりません。例えば、目撃証人の田中が「加藤が包丁で山田の胸のあたりを刺した;山田は血だらけで倒れた;そして息絶えた」と証言したとします。これは加藤が殺人を実行したという事実についての直接証拠です。田中の証言が100%信頼できるとすれば、特に推論を加えなくても殺人を認定できます。一方、田中の証言がこうだったとします――「加藤と山田が奥の別室に消えた;二人の口論が聞こえた;加藤が包丁を持って部屋から飛び出してきた;部屋の様子を見に行ったら、山田が血の海の中に横たわっていた」。この場合、田中の証言が100%正しかったとしても、加藤が殺人者だとは限りません。例えば、最初から加藤以外の人物(高橋)がその部屋にいて、高橋が山田を刺して、加藤はその包丁を取り上げて部屋から出てきたのかもしれないからです。田中の証言と加藤の殺人を結びつけるためには、第三者はいなかったに違いないというような一定の推論を加える必要があるのです。指紋とかDNAなどの科学的証拠や証拠物も状況証拠です。

状況証拠と要証事実との間の推論の過程は事実認定者の専権事項であり、彼らの自由な判断に任せられています。これがすなわち「自由心証主義」というものです。裁判官裁判について刑事訴訟法318条がこれを定めています。裁判員裁判についても、裁判員法62条が「裁判員の関与する判断に関しては、証拠の証明力は、それぞれの裁判官及び裁判員の自由な判断にゆだねる」と、これを明言しているのです。ここまでは日本の裁判とコモンローの裁判とで違いはありません。

ところが、日本の刑事裁判ではこの推論の過程を専門家にしかわからないルールによって規制しようとしています。それを「経験則」と呼んだりして、法的なルールに昇格させようとしているのです。このルールに反する推論は違法だと決めつけています。例えば、覚せい剤の密輸事件の有罪判決をみると、‖梢佑ら渡航費を負担してもらったうえ、小遣いをもらえるというような「報酬約束」があり、品物が何か良く分からない状態でスーツケースの中に入れられていたという事情があれば、そうした多額の費用を負担してまでして運ぶ価値のある物として覚せい剤などの違法薬物が思い浮かぶはずであるから、特段の事情のない限り覚せい剤などの違法薬物の認識があったと推認できる、というパターンの判決がたくさんあります。そして、薬物密輸事件の公判前整理手続では、裁判官は、報酬約束とか荷物の隠匿状況に関する間接事実を検察官に主張させ、弁護人にそれに対する認否を迫ります。「自分は違法薬物を運ばされるなんて考えてもいなかった」と被告人が言っているケースでも、荷物を彼女に託した人が渡航費用や小遣いを負担する(裁判所に言わせれば「報酬約束」)という場合がほとんどですし、荷物の中身は被告人自身にはわからないようになっていますから、公判前整理の段階で検察官が主張する間接事実は「争いがない」という具合に整理されます。そうすると、被告人は「特段の事情」を法廷で証明しない限り有罪になってしまうのです。

こうした実務が違法であることは明白だと私は思います。第1に、これは自由心証主義に反します。費用負担や荷物の梱包の状態と「薬物の認識」という要証事実の間にどのような推論をするかは、一人一人の裁判官や裁判員の自由にゆだねられなければならないはずです。それを規制し「経験則」という名のルールに仕立て上げ、事実認定者を拘束することは許されません。

第2に、これは裁判官による裁判員の権限の侵害です。裁判員法は、裁判官と裁判員が対等の立場で評議を行って事実を認定するとしています(裁判員法6条1項)。裁判員が裁判に関与する前に、公判前整理手続のなかで、事実認定に影響を与える「間接事実」(状況証拠)がなんであるかを裁判官が勝手に選別してしまうというのは、裁判員の事実認定の権限を侵害しています。何が重要な間接事実であるかを決めることは、事実認定という作業の中核の一つです。それはすべての証拠を見聞し、当事者双方の最終弁論を聞いた後で、裁判員と裁判官がそれぞれ自由な立場で意見交換をした後で決められなければなりません。裁判員の仕事は、あらかじめ決められた、欠けたパズルのピースを見つけるだけというようなものであってはなりません。実際の法廷で見聞した状況証拠の数々を、裁判員それぞれの社会経験に基づく良識によって選別し評価すること、これこそ裁判員制度の本質的部分です。裁判官には事実認定について裁判員を指導する権限などないのですから。

第3に、職業裁判官による事実認定のルール化は実際にも不当な結果を生み出します。先ほどの覚せい剤密輸事件を例にあげましょう。実際に起こる出来事は千差万別です。無限のバリエーションがあるのです。「報酬約束」と一言でくくることなど到底不可能です。荷物の梱包状況もいろいろです。そして、「認識」の主体である被告人のバックグランドや性格も様々です。これらを一括りにして「特段の事情のない限り」有罪だというのはあまりにも乱暴な議論ではないでしょうか。実際のところ、今の日本の刑務所では、国際麻薬密輸組織に騙されて運び屋にされた、お人好しの老人や軽率な大人たち、そして冒険好きの若者たちが、無実の罪で非常に長期の懲役刑を務めています。薬物の認識を巡る「経験則」は実際には冤罪製造の道具にほかならないのです。

「争点整理」とは何か

刑事訴訟法は公判前整理手続において「事件の争点を整理」することを求めています(316条の2第1項、同条の5第3号)。これまでの話から明らかなように、検察官に「間接事実」を主張させるとか、これに対して弁護人に認否をさせるというようなことは、法の要求ではありません。それでは法が言う「争点の整理」とは何でしょうか?

訴因を構成する事実について被告人には「陳述の機会」が与えられます。先ほど言ったように、これは権利であって義務ではありません。陳述を強制することは許されません。被告人は終始黙っていることもできるし、「無罪です」と一言いうこともできます。この場合は検察官が主張する訴因(公訴事実)が争点ということになります。これは非常に明確です。これ以上明確な争点はないと言っても良いくらいです。

被告人には陳述の義務はありませんが、しかし、陳述する自由があります。したがって、被告人は自分はやってないと言ったうえで、その理由を説明することができます。自分は犯人ではないとか、覚せい剤が入っているとは知らなかったという陳述を積極的に行うことができます。あるいは、あえて訴因の一部を認めるということもあるでしょう。さらには有罪を認めたうえで罪を犯した事情を訴えたいという被告人もいるでしょう。こうした陳述によって、訴因事実の一部だけが争いの対象であることが浮き彫りにされることもあります。

さらに、主張明示義務の対象である積極抗弁――正当防衛とか心神喪失とか――が主張される場合があります。この場合には訴因の一部または全部が弁護側の主張の前提になる場合がほとんどです。この場合は弁護側が主張する積極抗弁の成否が争点ということになります。

このように、「争点の整理」というのは、被告人には陳述の義務がないことを前提にして、その陳述態度に応じて訴訟における当事者の攻防の中核がどこにあるのかを明らかにする作業にほかなりません。被告人が何も言わないという供述態度であれば、検察官の主張のすべてが争点だということです。これも「争点の整理」に他ならないのです。

弁護戦略はどうあるべきか

最後に、現実の公判前整理手続において、われわれ弁護人はどのような立ち居振る舞いをすべきなのかというお話を少しだけしたいと思います。

現実に行われている公判前整理手続は、私が今お話した適法な形では運営されていません。間接事実の交換を強制し、事実認定を先取りして、公判を形骸化してしまうようなものが横行しています。「職権主義のお化け」と言っても言い過ぎではありません。皆さんが公判前整理手続に出かけて行って非公開の部屋に入ると、こういうことをやろうと裁判官や検察官が待ち構えているんですね。皆さんはまるで卵からふ化したばかりのウミガメの赤ちゃんのように、海に向かっていく途中で、トンビのようなカモメのような裁判官に狙われているわけです。そういう状況で生き延びるのは決して生やさしいことではありません。しかし、皆さんは生き延びる必要があります。一歩一歩現実を改善していき、法を実現する努力を重ねる必要があります。

私は、公判前整理手続における弁護戦略の指針として3つの原則を提案します。
第1の原則は「利益がなければ権利放棄するな」ということです。検察官請求の書証に同意をするということは、憲法が保障する証人審問権の放棄なわけです。検察官の立証に協力することです。ですから、書証に対する意見は原則「全部不同意」であるべきです。例外的に、証拠書類が被告人側の証明に役に立つという場合には、同意してもよい。そういうことです。権利放棄するからには、それに見合う見返りがなければいけない。それは当たり前のことですね。見返りがある時には書証に同意してもいい。だけれども、見返りがない時にはそれはやめましょう。

第2の原則、それは「知らない事実を認めるな」ということです。例えば、共犯事件で依頼人は犯罪の実行には加担していないが、共謀をしたと言われている事件です。数人の実行犯が被害者をぼこぼこに殴って殺してしまった;その遺体をばらばらにして山の中に捨てたという事件。依頼人は、その現場の何カ所かで実行犯と一緒に行動はしていたけれども、まさかそんなことになるとは知らなかったというような事件です。こういう事件に出会うと、すぐに「共謀が争点だ」と思いがちです。そして、共謀が争点なんだから、そのほかの実行犯の3人が被害者をぼこぼこにして、首を絞めて殺して、死体を切り刻んで川に捨てたということは「争いがない」というふうにまとめられてしまう。

実行犯たちと依頼人がどういうコミュニケーションをしたかが争点であって、被害者が彼らにぼこぼこにさせられて、殺されて切り刻まれたというのは、もう争わないんだというふうに決め付けちゃう。その結果、死体の損傷状態とか死因についての鑑定書とか、実行犯が自分たちの行為について語っている調書とか、そういうものを全部同意しちゃう。共謀に関する部分だけ不同意にする。これは大間違いです。その結果冤罪が起こるのです。なぜ冤罪なのかといったら、依頼人の知らない事実を認めているからです。本当に共謀がないんだったら、被害者が死んだことすら分からない;死体を切り刻まれたことすら分からない;実行犯どうしがどういう話し合いの結果それをやったのかも分からないわけです。だとしたら、解剖も、現場の状況に関する供述も、全部不同意にしなきゃ駄目でしょう。そうすることによって初めて、実際に何が行われたのか、実際の暴行の状態がどうだったのかということを、一から法廷で証言させることができるわけです。そのことが、実は共謀にとても大きな影響を与えるんです。実行犯が法廷で供述調書に書いてあることと違う行為していた、あるいは違うプロセスで被害者が亡くなっていたとすれば、そういう食い違いは共謀の成否に影響を与えざるを得ないのです。だから、依頼人が知らない事実を認めるのは絶対にやめましょう。

第3の原則は「利益がなければ主張するな」ということです。主張するということにはリスクが伴います。公判が主張通りに行くとは限らない。訴因については検察官が立証責任を負うわけですから、被告人の言い分が間違っていたというだけで有罪になるのはおかしい。しかし、職業裁判官のなかには、被告人の主張は信頼できない、だから有罪だというような認定をする人がたくさんいます。いずれにしても、弁護側が主張したことが証拠によって否定されるという事態は、弁護側の訴訟活動に対する信頼性を揺るがすことにつながります。

認否をしたり、反論をしたり、あるいは検察側に求釈明をすると、検察官に問題に気付かせ、立証のターゲットを絞る手助けになることが多いのです。ベテランの弁護士のなかには、相手の弱みを追及しているつもりになって細かい「求釈明」をする人がいます。これは逆効果です。

しかし、繰り返し言うように積極抗弁は主張しなければ勝てません。また、いわゆる「主張関連証拠」の開示を受けるためにはそれの根拠となる主張をする必要があります。積極抗弁を提出する事件などでは、物語性のある主張を公判前整理手続の段階で主張した方が得策な場合もあります。
要するに、われわれ弁護人はリスクと利益をはかりにかけて、利益があるというときには、主張を提出する。利益がなければ主張しない。こうした戦略的な判断をしなければなりません。これこそ、刑事弁護の醍醐味の一つと言えます。

裁判官は人を見て態度を変えます。私のようなすれっからしには「認否してください」なんて言いません。けれども、研修所を出たての若い弁護士にはどんどんプレッシャーをかけてくる。そこが彼らのずるいところですね。ヒトによってルールを変えるなんて言うのは「法の支配」の対極ですよね。そうした恣意的な訴訟運営に対して皆さんは堂々と異議申し立てをすべきです。「認否なんてしませんよ。金輪際」そう宣言してください。

刑事弁護というのは、孤独なものです。孤独に耐えプレッシャーに耐えて、依頼人の最善の利益のために全力を尽くすこと。そういう実践の繰り返しが皆さんを磨くはずです。重要なのはこういうことです。誰のために弁護をやっているのかを常に考える。弁護は裁判官を喜ばせるためにやっているわけじゃない。ときにはこういう言い訳をしたくなります――この裁判官とけんかをすれば、依頼人が困るんじゃないか。だから、自分は裁判官とうまくやっているだけだ、依頼人のために裁判官にへいこらしているだけなんだと。これは負け犬の発想です。いいですか。刑事弁護というのはそういう仕事じゃないです。刑事弁護というのは、にこにこしながら、相手に何かやってもらおうというお仕事じゃない。そうではなくて、相手の首根っこをつかんで、「どうだ、おまえ」と言うのが刑事弁護です。そのために、われわれは技術を磨かなければいけない。決して裁判官を喜ばせようなどと思ってはいけません。

質疑応答

――――20 年ぐらい前に著名な刑事弁護士の座談会で、いかに証拠を入手するか、いかに、得るかということを延々と議論しているのを見たことがあります。そういう意味では、証拠開示のところは劇的に、20 年ぐらい前に比べれば良くなったのではないかと思うんですが、この点について、ちょっと一言お話しいただけますか。

高野:私は、公判前整理手続と証拠開示制度というのを一体のものとして理解する必要はないんじゃないかと思います。証拠開示というのは独立した仕組みとして理解すればいい。今 20 年前と言いわれましたけど、ほんの 10 年足らず前と比べれば、これは劇的に改善しました。10 年前にどういうことが行われていたかというと、否認事件では、検察官側証人の検察官調書しか検事は開示しませんでした。検察官調書と言っても、最後のまとめの調書を1通開示するだけです。ほかの調書の証拠開示請求をしても検察官は、「請求予定がありませんので、開示しません」、この一言ですよ。それで、裁判官に証拠開示命令の申立てをします。裁判官は何と言うかというと、「現段階では職権は発動しません」、これだけです。

最高裁判所の判例によれば、主尋問が終わって反対尋問の段階で、証人の検察官調書を開示することが義務的になる場合があるということでした。検察官の主尋問が終わるまでは調書は1通しか開示されない。最後のまとめの検察官の作文の完成版だけですよ。さらにひどい場合もあります。私のやった否認事件で調書を一通も開示しないのがありました。検察官は証人請求をする、調書は証拠請求しないから開示しないというわけです。

供述調書以外の証拠、証拠物であるとか、検証調書であるとか、鑑定書であるとか、そういうものが開示されるなんていうことはほとんどなかった。最終的な鑑定書以外にもいろんな専門家の意見を検察官が聞いていることはあるわけですね。それは必ずしも検察官の意見を支えるような鑑定結果ではない場合がある。そういうものは全部隠されていた。検察庁の倉庫の中に眠っているわけ。それを開示しろと言っても開示しない。なぜかといったら、請求する予定がないからという。そういう状況で私は 20 年以上も刑事弁護をやってきました。最近それが劇的に変わって、天国みたいなものです。

――――今日お話を伺っていて、公判前整理手続の段階で、主張の取捨選択が厳密に行われ、審理時間等、尋問時間をきちんと決めるということが弊害であるということなんですけれども、そういう場面を任されている裁判官にとって、ある程度審理が計画的にできて、裁判員にも過重な負担をかけることなく審理に参加してもらえているという一面もあるのかなと思っているんです。

高野:計画的な審理、間接事実の争点を絞った審理によって、裁判員が利益を受けているかといったら全然受けていないと思います。その審理の結果、裁判員は、ある意味で細切れの事実を聞かされるんです。細切れの証言を聞かされる。そして、不十分な尋問で打ち切られる。つまり、裁判員は欲求不満な状態になっているわけですね。そして、長々とした調書の朗読を聞かされる。詳細な争点整理によって、裁判官と裁判員の情報格差が広がっていきます。その結果、裁判員は裁判官を頼りにする。裁判官に説明を求めることが多くまります。裁判官と裁判員は対等な事実認定者ではなく、裁判官は裁判員を導く指導者ということになってしまいます。

実際のとこと、裁判員はもっと重複した証拠を聞きたいはずです。同じことを別の証人から聞きたいはずです。あるいは同じ証人に繰り返し聞きたいはずです。つまり、重複というのは必要なんです。争点でない事実、つまり、一致している事実でも、それは発言する人によって違う色合いがあるはずです。裁判官はその事実を抽象化して、この事実は一致している、包丁を持っていたという事実は一致している。だから、そこの証言を繰り返す必要はないと言うかもしれないけども、まさに、その包丁を持っていた時のその人はどういうことだったのか、何をしていたのか、包丁をどのように持っていたのか、包丁とは何なのかということを別の人から繰り返し聞くということが、事実認定にとって実は大きな意味を持つことがある。そういうことによって人はある事実に納得できたり、あるいは納得できなかったり、疑問を感じたりするわけですね。

ですから、パズルのように事実認定をすることは不可能なんです。本当は合わないピースがたくさんあって、それがぐしゃぐしゃになった状態で事実というのを認定する、それが本当の事実認定だと、人間社会における事実の見方というのはそういうものだと思うんですね。そういうプロセスが保障されることで、様々なバックグラウンドを持った裁判員たちが常識を発揮できるんだと思う。実際には証拠が厳選されて、重複証拠がきれいに排除されて、尋問時間がきっちり守られことによって、裁判員はそういう人間的な部分を発揮できなくさせられていると私は思います。

――――公判前手続で裁判員の人に何も見せていないうちから期日まで指定されてしまっておかしいという話があったんですけれども、期日を仮に決めないと、結局だらだら延びていってしまうんじゃないかと思うんですが。だから、その期日を決めることは悪くはないんじゃないですか。

高野:裁判所の期日指定の仕方というのは、何月何日の何時から冒頭陳述をやると、検察 30 分、弁護が 30 分、で、その後 10 分間休憩をして、書証の取り調べを何時何分までやる。その後、だれだれ証人を何分間聞きます。論告30分、弁論は1時間。で、判決は何月何日何時に言い渡します。こういう決め方は変じゃないのということです。だって、まだ何もやっていないのに、どうして、その証人の尋問が30分で終わるとか、2時間で終わるとか、厳密に決めることができるんですか。1時間ぐらいとか2時間ぐらいというなら、話は分かりますよ。だからもうちょっとフレキシブルにやったらどうかと思います。

判決の言い渡しまで決めるのは決定的に間違っている。それは評議時間を決めていることになる。まだ裁判員の顔も知らないのに、なぜ、その人たちの評議が何日間で終わるなんて言えるのか。1時間で終わっちゃうかもしれないし2時間で大丈夫かもしれない。それなのに何で1週間もとらなきゃいけないのか。そういう話です。それは裁判員が来て初めて決められるべき話であって、裁判官に評議時間を決める権限なんかどこにもないでしょうというのが、私の意見です。

裁判員裁判にしろ裁判官だけの刑事裁判にしろ、法は連日開廷ということを言っています。連日開廷というのはまさにあなたが言ったように、「だらだらやる」ものなんですよ。公判というのはだらだらやらなきゃいけないんです。いつ終わるか分からないというのが連日開廷ということです。いつ終わるか分からないけれども、みんなが納得できるまでやりましょうというのが、本来あるべき姿です、違いますか。だって、結局やってみないと分からないでしょう。証人が予定したとおり、証言要旨記載書のとおりしゃべるなんて、誰が保証できますか。全く違う話をするかもしれない。証人からあることを聞き出すのに、5回言わなきゃ聞き出せないかもしれない。あるいは一瞬で終わるかもしれない。誰にも分からない。だから、だらだらやりましょうというのが集中審理です。

アメリカでもイギリスでも公判審理はそのように行われています。そして、日本でも昔はそのように行われていた。治罪法(1882年)の時からだらだらやりましょうと法律に書いてありました。明治刑訴(1890年)にも書いてあった。明治刑訴には、5日間法廷の期間が空いたら、もう一回最初からやり直せと書いてある。大正刑訴(1922年)には 15 日間空いたら、もう一回やり直せと書いてある。戦後の刑訴法(1949年)でそれはなくなったんです。その立法の際の政府委員の説明はこうです――「旧刑訴には 15 日と書いてありますけども、もうこれからは確実に毎日やりますから、この 15 日という規定は入れる必要はないのです」と。それが、議会で新しい刑訴法を議論した時の政府委員の説明です。

その結果どうなりましたか?5日間ですか、15 日ですか、1カ月ですか、2カ月ですか。なぜ、そうなっちゃったんですか?答えは簡単です。裁判官が悪いんです。裁判官が法廷で人の話を聞いてそこで判断するという仕事をやめちゃったからです。法廷で話を聞いて決めるんじゃなくて、その人がしゃべったことを記録した文書を後で読んで決めるというふうにしちゃったからです。だけれども、日本の法律にはそんなことどこにも書いてないですよね。速記録を読んで判決を書きなさいなんてどこにも書いてない。だけれども、裁判官は一切の法を無視して、そのほうが仕事が楽だから、そういうふうにしちゃったんです。だから、1カ月空いても2カ月も空いても平気で、途中で裁判官が変わっても平気で、判決を言い渡す。そういう仕組みを勝手に作っちゃったんですね。これは日本に近代的な刑事訴訟法が輸入された時の考えと全く違います。だから、松尾浩也先生は「ガラパゴス的な進化を遂げたんだ」と言っているわけです。近代的な刑訴の種が日本にまかれたけれども、戦後の日本の仕組みの中で全く違うものに生まれ変わっちゃったということです。

裁判員裁判は、それを本来あるべき姿にしましょうよという試みです。だらだらやりましょうよというのがまさに裁判員裁判の一つの目的だったと私は思います。

――――普段から裁判官に迎合するということ、裁判官に信頼されるということの違いというか、どこに境界があるのかということをよく考えるんですけれど、今日のお話だと、もちろん、徹底的に争うんだけれども、裁判官に信頼されるのは、自分でお勉強をして、ちゃんとした知識を身に付けて裁判官を説得するぐらいやれということだと聞こえたんですけど、先生の理解もそれでいいんでしょうか。

高野:すごくきれいにまとめていただいてありがとうございます。私は裁判官のことをすごく批判していますけれども、これは裁判官という職業がくだらないんだとか、裁判官という人たちはとても駄目なんだということを言っているわけではもちろんないんです。裁判官というのはとても大事な仕事だと思います。裁判官は刑事裁判がフェアに運営されるためにはなくてはならない人たちですし、彼らには一所懸命仕事をやってもらわなければいけないと思います。しかし、現実は法の理想とあまりにも違い過ぎて、裁判官の生活のしやすさ、裁判官の仕事のしやすさというようなものが、あらゆる価値よりも上に置かれているとしか思えないです。

先ほど、期日の話がありましたけれども、期日を先に延ばすことによって不利益を被るのは被告人なわけですよね。ほかの仕事がある、裁判員裁判があるから期日がここにしか入りませんというようなことを当然のように言われると、おまえ、何考えているんじゃと言いたくなるわけですね。やはり何が大事なのかという価値の序列の考え方がどこか狂ってしまっているような気がします。裁判所がスムーズに仕事ができるようにするということが、すべての価値を超えているような運用の仕方になっている。そうじゃないんでということを、裁判の価値というのは別のところにあるんだと、もっと守らなければならない価値があるんだということを、弁護士は彼らに分からせてあげないといけないんじゃないかというふうに私は思っています。

(完)



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2015年01月10日

昨日の新聞報道に「497人に選任手続きの呼び出し状を送ったが、8日午後、同地裁に集まった候補者は86人だった」とか「辞退が相次いだ」などというものがありました(日本経済新聞朝刊 讀賣新聞朝刊 朝日新聞朝刊)。これらの記事は、大部分の候補者は自身に振りかかる負担や不利益を心配して、呼出状を黙殺したかのような印象を与えます。しかし、これは非常にミスリーディングな記事であると言わなければなりません。

裁判所は、多くの候補者には法律上の辞退事由があると認め、あらかじめ呼び出しそのものを取り消したのです。最終的に裁判所に呼び出されたのは132人の候補者です。そのうち、86名の方が出頭されました。そのなかには、幼子をベビーカーに乗せて来られた若い女性や不自由な体をおして杖をつきながら霞ヶ関の裁判所に来られた方もおられました。

出頭された候補者の皆さんは、どなたも選任手続に真摯に取り組んでおられました。最終的に辞退された方々も、できるだけ参加して職務を果たしたいという希望を述べておられました。

弁護団を代表して
2015年1月10日
弁護士 高野隆


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2014年02月17日

現代人文社から『DVDで学ぶ裁判員裁判のための法廷技術(基礎編) 第3巻』が発売されました。
今回は「異議」の技術を取り上げています。
第1巻、第2巻とおなじコンセプトで、「良い例」と「悪い例」を対比して、解説をしています。
今回は練習用のDVD(異議理由が字幕で付いているものと字幕なしのものの2枚組)が付録でついてます。
全国の書店でご購入ください。現代人文社あてに直接注文することもできます。

これで、日弁連法務研究財団法務研究基金の援助を受けて3年にわたって行われた「法廷技術教育のための教材の開発研究」は終了しました。3巻のDVDという成果物を世に問うことができました。日弁連法務研究財団法務研究基金の関係者の皆さん、DVD制作を担当してくださったNPO法人フロンティア・アソシエイツの皆さん、そして出版を引き受けてくださった現代人文社の皆さんに、研究員一同を代表して心より御礼申し上げます。

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2013年11月04日

推定と証明責任の転換

検察官は訴因を構成する全ての事実について適法に採用された証拠によって合理的な疑問を容れない程度にその存在を証明しなければならない。その証明に失敗すれば被告人は無罪とされなければならないのである。ところで、訴因を構成する事実そのものではないが、その存在を伺わせる別の事実が立証されたら、特段の事情がない限り、訴因を構成する事実を認定すべきであるというルールを裁判官が定め、全ての事実認定者(裁判官と裁判員)はそのルールに従わなければならないとしたらどうだろう。それは、無罪の証明責任を被告人に負わせることに他ならない。また、それは犯罪構成要件を定めた法律を裁判官が書き換えたことになる。覚せい剤密輸事件の訴因の構成要件には「共謀」と「薬物の認識」がある。被告人を有罪とするためには、彼が密輸組織の関係者と共謀して、自分の荷物の中に覚せい剤等の違法薬物が存在することを知りながら荷物を日本に運び込んだことについて、合理的な疑問を容れない程度に証明される必要がある。もしも、覚せい剤を仕込んだスーツケースを日本に持ってきたという事実さえあれば、密輸組織の関係者から運搬を依頼され、物の回収方法について指示があったと認定すべきである;第三者が渡航費等を負担した事実があれば、荷物の中に違法薬物があるかもしれないと認識していたと認定すべきである、というルールを最高裁が作り、同種の事案を担当する裁判官も裁判員もこのルール従わなければならないのだとしたら、覚せい剤密輸罪の訴因として「共謀」や「認識」はもはや要求されず、検察官はスーツケースの中に覚せい剤があったという事実と被告人の渡航費を第三者が負担したという事実だけを証明すれば良いということになる。そして、この2つの事情が証明されれば(その証明はきわめて容易である)、被告人の方が誰とも覚せい剤密輸を共謀していないことと、スーツケースの中に覚せい剤があることは知らなかったことを示す事情(「特段の事情」)を証明できない限り、有罪とされてしまうのである。これは立法機関ではない裁判所による覚せい剤密輸罪の法律の書き換えに他ならず、また、憲法や国際人権法に違反して無罪の証明責任を被告人に転換するものである。

かつてアメリカでもこの問題が生じたことがあった。しかし、連邦最高裁判所は一連の判例を通じてこうしたルール・メイキングは許されないとして、この問題に決着をつけた。その経過をみてみることにしよう。

マラニー対ウィルバーMullaney v Wilbur, 421 U.S. 684(1975) メイン州法では、殺人は謀殺(murder)と故殺(manslaughter)に分類されている。謀殺罪は事前の悪意(malice aforethought)に基づく殺人であり、法定刑は終身刑である。これに対して、故殺は、事前の悪意なく、突然の挑発による激情に基づく(in the heat of passion on sudden provocation)殺人とされ、法定刑は1000ドル以下の罰金又は20年以下の拘禁刑である。同州の判例ではこの二つは別々の犯罪ではなく、一つの犯罪類型の程度の違いだとされてきた。ウィルバー氏は謀殺罪で起訴された。公判裁判官は陪審員に対して謀殺と故殺の区別を説明したうえで、こう説示した――「事前の悪意は、謀殺罪の必要不可欠の要素であり、これが認められなければ殺人は故殺罪になります。……しかし、その殺人が意図的なものでありかつ不法なものであることを検察官が証明したときには、被告人の側が突然の挑発による激情に基づく行動であることを証拠の優越の程度まで証明しない限り、事前の悪意は最終的に推定されます」。Id., at 686.

連邦最高裁は、この説示はウィンシップ判決が確認したデュー・プロセス条項の保障――「訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実が合理的な疑いを超える程度に証明されない限り有罪とされない」――に違反するとした。連邦最高裁はメイン州の判例法の立場(謀殺と故殺は同一の犯罪の程度の差に過ぎないという立場)に立つとしても、検察官が「突然の挑発による激情」の不存在を合理的な疑いを超える程度に証明しない限り謀殺罪で有罪とされてはならないと結論した。Id., at 700-701.

アルスター・カウンティ裁判所対アレンUlster County Court v Allen, 442 U.S. 140 (1979) 3人の成人男性と16歳の少女が乗った自動車がスピード違反で検問を受けた。助手席に置かれた少女のハンドバッグの口が開いており、中に実装された拳銃が2丁置かれていた。少女はハンドバッグが自分のものであることを認めた。車は運転者の兄弟からの借り物であり、4人ともトランクの鍵をもっていなかった。警察官がトランクをこじあけたところ、中からマシンガンとヘロインが発見された。4人は拳銃とマシンガンとヘロインの不法所持で起訴された。ニュー・ヨーク州の制定法には「自動車の中に銃火器が存在することは、その銃火器が当該自動車の乗員全員によって所持されたものと推定できる証拠である」という規定があった。公判裁判官は陪審員に対して次のような説示を行った――「われわれの刑法はまた、自動車の中にマシンガンや拳銃や火器があることはそれらの違法な所持を推定する証拠だと定めています。言い換えると、マシンガンや拳銃が存在するという証拠によって、皆さんは、それらの道具が見つかったとき車内にいた被告人たちがそうした規制対象武器を所持していたという結論を導いても良いということです。この推定は、その結論と実質的に矛盾する証拠がない限り有効です。そして、そうした矛盾証拠が提出されたときは推定は消滅すると言われています。本件における薬物や武器に関して今日私が陪審に示した推定は、必ずしも積極的な証明や証拠によって反論される必要はありませんし、いかなる証拠や証拠の欠落によっても反論は可能です。」陪審は4人に対し拳銃の所持については有罪、マシンガンとヘロインの所持については無罪の評決をした。id., at 143-147,161 n.20.

連邦最高裁は、刑事裁判における推定が合憲であるためには、その推定が「公判における事実認定者の責任――州政府が提出した証拠に基づいて最終的な事実を合理的が疑問を容れない程度に認定するという責任――を掘り崩すものであってはならない」と宣言した。Id., at 156.そのうえで、最高裁は、推定には「許容的推定」(permissive presumption)と「義務的推定」(mandatory presumption)があることを指摘する。許容的推定は、検察側が証明したある事実から訴因を構成する別の事実を推測することを事実認定者に許す一方で、被告側にいかなる挙証責任も負担させない。事実認定者はこの推定を受け入れるか拒絶するかの自由を持っている。この場合は、推定の基礎となる事実と推定される事実との間に合理的な連結(reasonable connection)――前者の存在によって後者の存在の可能性が高められる関係(more likely than not)――が認められれば、合理的な事実認定者が事実誤認をする危険性はなくなるから、それはデュー・プロセス違反とはならない。Id., at 157.これに対して、義務的推定は、合理的な疑いの基準の強度のみならず証明責任の分配にも影響を及ぼす。すなわち、それはある事実から訴因を構成する別の事実を推認することを陪審に要求するものであり、この推認を覆すためには被告側が何らかの証拠を提出しなければならないとするものである。Id., at 157.

「本件での裁判長の説示は、武器所持の推定を可能な一つの証拠評価として提示しただけであって、所持の結論を必須の結論として要求してはいない。たとえ被告人が反証としていかなる積極的な証拠を提出しなかったとしても、陪審はその推定を無視することができた。」

こう述べて最高裁は、本件は許容的推定のケースであると判断した。Id., at 160-161.そして、事件の証拠関係を詳細に検討して、本件の事実関係のもとでは、3人が武器の存在した自動車に同乗していた事実と3人による武器の所持との間には合理的な連結があると結論した。Id., at 163-167.

サンドストロム対モンタナSandstrom v Montana, 442 U.S. 510 (1979) サンドストロム氏はモンタナ州法の「熟慮の殺人」(deliberate homicide)で起訴された。熟慮の殺人は「意図的に又は知りながら」(purposely or knowingly)他人を死なせることと定義されている。被告人は被害者を死なせてしまったことは認めたが、それは意図的な又は知りながらの行動によるものではなかったと主張して争った。弁護側証人として精神科医が被告人の人格障害を証言した。検察官は裁判長に次の説示を行うことを請求した――「人は彼の自発的な行動がもたらす通常の結果を意図していると、法は推定します。」弁護人はこの説示は意図と知識に関する証明責任を被告人に移転するものだとして異議を述べた。裁判長は、異議を棄却して陪審にこの説示を行った。被告人は熟慮の殺人で有罪となった。

連邦最高裁は、まず、推定の性質を分析するにあたっては、実際の裁判長の説示を注意深く検討することが必要であり、「合理的な陪審員がその説示を解釈したかもしれない」性質に依拠して判断すべきだという。Id., at514.そのうえで、この説示は「許容的推定」ではなく「義務的推定」の説示であると言う。

「サンドストロムの陪審員たちは「人は彼の自発的な行動がもたらす通常の結果を意図していると、法は推定します」とだけ言われた。彼らは、彼らに選択の余地があること、すなわち、その結論に従わなくてもよいということを告げられなかった。彼らは法はそれを推定するとしか言われなかった。合理的な陪審がそうした説示を容易に義務的なものと見なしてしまっただろうことは明らかである。」Id., at 515.

連邦最高裁はさらに、この説示には被告側が反証できることも述べられていないので、単に被告人に「証拠提出責任」(burden of production;被告人が何らかの証拠を提出するだけで、推定を覆すことができる)を科すのみならず、より強い意味で陪審を拘束した可能性があると指摘する。第1に、合理的な陪審はこの説示を結論的なもの(conclusive presumption)と理解した可能性がある。すなわち、一旦推定の前提となる事実(被告人の行動が自発的であった)が認められれば、推定される事実(その通常の結果である死を意図したこと)を認めなければならないと裁判所は命じていると陪審は理解した可能性がある。これは推定というよりは、反証すら許さない有罪の指示評決である。第2に、合理的な陪審は、被告人の自発的な行動が証明されれば、被告人側が相当量の証拠を提出してその反証に成功しない限り、殺人の意図を認めなければならないと裁判所に指示されたと理解した可能性がある。これは意図に関する「説得責任」(burden of persuasion)を被告人に科すものである。Id., at 518-519.そして、連邦最高裁はこのいずれの推定も、ウィンシップ判決が明示したデュー・プロセスの要請に違反するものであると結論した。

「この事件における結論的推定は、法が被告人に付与し、犯罪のすべての要素に適用されるべき、一貫した無罪の推定と矛盾するものであり、かつ、刑事事件では法が陪審にだけ託した事実認定の権限を侵害するものである。……犯罪の第1の要素(死をもたらしたこと)と、第2の要素(被告人の行動の自発性とその「通常の結果」)を証明するのに十分な事実があれば、サンドストロムの陪審は意図という要素について被告人の主張を排斥する結論をとることを命じられていると合理的に結論することができたのである。州政府は、こうして、「訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実について合理的な疑いを容れない証明」を強制されずに済んだのであり、被告人はウィンシップ判決が宣明した憲法上の権利を奪われたのである。

「結論的なものではなく、説得責任を被告人に移転する効果をもつ推定も同様の欠陥を持っている。もしもサンドストロムの陪審が推定をそのようなものと解釈したのだとすると、州政府による、殺人の事実とそれ自身では意図の要素を証明できないいくつかの追加的事実の証明によって、有罪に必要な精神状態を欠いていたことの証明責任が被告人に移転することになる。こうした推定はマラニー対ウィルバーにおいてその憲法上の欠陥が認定されたものである。」Id., at 523-524.

フランシス対フランクリンFrancis v Franklin, 471 U.S. 307 (1985). 受刑者フランクリンは施設外の歯科医院で治療を受けている際に、刑務官の拳銃を奪って逃げた。付近の民家の玄関先で家人に車の鍵を要求したところ、家人はドアをいきなり閉めた。フランクリンは拳銃を2発発射した。1発は玄関ドアを貫き、家人の心臓を貫通した。もう1発はドアを突き抜けて天井に当たった。フランクリンはジョージア州法の「悪意の謀殺罪」(malice murder)で起訴された。同州法によると、悪意の謀殺は「不法なかつ事前の悪意に基づく」殺人とされる。フランクリンは人を殺す意思(intention to kill) はなかったとして無罪を主張した。公判で裁判長は次の説示を行った――「健常な精神と分別のある人の行動は、その人の意思の産物であると推定される。しかし、この推定は反証されるかも知れない。健常な精神と分別のある人は、彼の行動のもたらす自然なそして相当な結果を意図していると推定される。しかし、この推定は反証されるかもしれない。人は犯罪的な意図を持って行動すると推定さるわけではないが、事実認定者すなわち陪審は、言葉、行動、態度、動機など、被告人が訴追された行為に付随する全ての状況を考慮して犯罪的な意図を認定することができる」。

連邦最高裁は、この説示は、殺意に関して被告人に説得責任を移転する効果を持つ義務的推定であって、デュー・プロセス条項に違反するとした。「健常な精神と分別のある人」で始まる2つのセンテンスは、サンドストロム事件における説示とおなじように、合理的な陪審が裁判所によって推定を命じられたものと理解する可能性がある。Id., at 316.サンドストロム事件と異なって本件では「この推定は反証されるかもしれない」という言葉が付け加えられている。この文言によって推定は反証が不可能な結論的な推定(mandatory irrebuttable presumption) ではなくなるとしても、サンドストロム判決が違憲と断じたもう一つの推定、すなわち反証可能な義務的推定(mandatory rebuttable presumption)――州政府は推定の基礎となる事実を証明しさえすれば推定される事実について説得する責任を解除され、その事実に関する説得責任は被告人に移転する――となる可能性がある。

「反証可能な義務的推定は多分被告人にとって[反証不可能な結論的推定] よりも軽い負担ではあろう。しかし、それでも違憲の程度がより軽いということにはならない。われわれの先例は、州政府が証拠や推定で立証しなければならないほどに重要と考える事実に関する説得責任を移転することは、デュー・プロセス条項のもとでは許されないことを明確にしているのである。‥‥それに先立つ義務的言語と合わせられることで、「反証されるかもしれない」という説示は、陪審に対して、被告人がその推認が必須のものではないことについて陪審を説得しない限り、拳銃を発砲する行為の自然かつ相当な結果として殺意を認定すべきことを命じられているものであると解釈される合理的な可能性がある。推定は「反証されるかもしれない」という言説そのものが、合理的な陪審員に対して、州政府が推定の基礎となる行為を証明しさえすれば、被告人は積極的に説得する責任を負担しなければならないと示唆したかもしれない。」Id., at 317-318.

連邦最高裁は、裁判長が問題の説示の前に無罪の推定や訴因のすべての要素について政府は合理的な疑いを容れない程度の証明責任を負うことを一般論として述べていることについて、これは問題の説示の違憲性に影響を与えないという。

「州政府の説得責任や被告人の無罪推定を述べる一般的説示は、結論的推定あるいは責任移転型推定と言語表現として矛盾してはいない。なぜなら、陪審はこれら2組の説示を、推定は意図についての合理的な疑いを容れない証明の手段であることを示していると解釈するかもしれないからである。本件における意図に関する説示に即して言うと、合理的な陪審員は、意図は合理的な疑問を容れない程度に証明されなければならないが、銃を発射したこととその通常の結果の証明は、被告人が陪審を別の方向に説得しない限り、合理的な疑問を容れない程度の意図の証明となると考えたかもしれないのである」。Id.,at 319-320.

また、問題の説示に続く「犯罪的な意図」についての説示は、本件で問題となっている「殺す意思」(intention to kill)とは別の事柄――事前の悪意(malice aforethought)−−に関する説示と理解された可能性がある。したがって、「人は犯罪的な意図を持って行動すると推定さるわけではない」との表現は、人を殺す意図に関する反証可能な義務的推定と両立しうるものであって、この義務的推定の違憲性を解消させることはない。Id.,at 320-321.

今回の最高裁第1小法廷の決定を、同種の事案を担当する全国の事実認定者に対して、最高裁が是認した「経験則」にしたがった認定をすべきことを要求するものと解釈することは、アメリカ連邦最高裁が憲法違反であることを宣言した「義務的推定」を認めることに他ならないであろう。第1小法廷は「特段の事情」が証明されれば推定は覆ると言っているようであるから、それは「反証を許さない結論的推定」ではない。しかし、持参したスーツケースから覚せい剤が発見された事実と渡航費を第三者が負担した事実があれば、組織関係者からの委託と違法薬物の認識を「認定するのが相当である」と言っているのであるから、それは説得責任を被告人に移転する効果を持つ義務的推定を表現したものと理解することもできなくはない。しかし、そうした判例解釈は、訴追の対象である犯罪を構成する全ての事実について合理的な疑いを超える証明がなされない限り、有罪とされないという権利を保障している日本国憲法と国際人権規約に違反するのである。

裁判員の事実認定権限の侵害

事実認定とは証拠の評価である。ある証拠を信用するかどうか、そして、その証拠から何が認められるか、こうした判断の積み重ねが事実認定である。裁判員法は「証拠の証明力は、それぞれの裁判官及び裁判員の自由な判断にゆだねる」と定めている(裁判員法63条)。すなわち、どの証拠を信頼しどの証拠を信頼しないか、そしてある証拠から何を認定するかは、裁判官と裁判員の自由な判断に委ねられなければならない。この点に関する裁判官と裁判員の判断には優劣の差がないということである。あらかじめ一定の情況証拠に特別の地位を与え、それが認められるならば別の事実が認められるというルール(経験則)を裁判官が設定することは、裁判官の証拠評価に優越的な地位を与え裁判員の自由心証を侵害するものであるから許されないのである。

陪審裁判と裁判員裁判の違いは、前者では裁判官は評議に参加できず事実認定の権限が与えられていないのに対して、後者では裁判官も評議室に入り、裁判員と一緒に事実認定を行う権限があるということである。しかし、この違いは刑事裁判における義務的推定の違憲性に影響を与えることはない。確かに、裁判官は評議室の中で、スーツケースの中に覚せい剤が隠匿されており、かつ渡航費用を第三者が負担した事実があれば特別の事情がない限り薬物の認識を認定すべきだという個人的な信念を表明することは許されるかもしれない。その発言が裁判員たる市民の発言の自由に何らの制約も及ばさず、純然たる「許容的推定」――情況証拠の解釈の一つに過ぎず、証明責任の分配に影響を与えない意見――の表明に過ぎないのであれば、それは許されるだろう。

しかし、問題は、実際に裁判官のその発言を聞いた裁判員がそれを裁判官の個人的な信念の表明にすぎないと受け取れるのかということである。サンドストロム判決が言うように、推定が許容的推定なのか義務的推定なのかは、単に裁判官の主観的な意図によってではなく、それが現実になされた文脈を注意深く観察して「合理的な裁判員がその説示を解釈したかもしれない」性質に依拠して判断すべきである。評議室の中で裁判官から「薬物隠匿と費用負担の事実があれば特別の事情がない限り薬物の認識があったと認定できる」と言われれば、普通の裁判員はそれが刑事裁判のルールなのだと考えてしまうであろう。刑事裁判のルールであるから、裁判員はそれに従う義務があると考えるであろう。仮に、法律がそれを要求していると考えなかったとしても、法的訓練を受けた裁判官が長年に渡る事実認定経験に裏打ちされた意見として述べているのであるから、それは大きな権威を持ち、事実上裁判員はその意見に反論できなくなるだろう。裁判官と裁判員の意見の重みは同等であるという一般的な説明が仮にあったとしても、このような一般命題として述べられた、いわばルール化した意見の表明に対して、素人がその場で反駁することは不可能である。

そうすると、裁判官が裁判員に対して経験則や推定――情況証拠を差別的に扱い、ある事実が認定できるときは、訴因を構成するある別の事実を認定できるという考え方――を表明するときは、それが他の裁判員や裁判官を拘束するもものではなく、被告側に何らの証明責任も負担させるものではないこと、それは裁判官の個人的な意見に過ぎず法的なルールでもなく、他の人の意見とその重みにおいて差はないことを裁判員に十分理解させるための特別の措置を採る必要があるだろう。例えば、経験則や推定に関する意見を述べるときには予めその内容について当事者双方に意見を求め、そこで決まったとおりに述べる;評議室内で意見を述べる際にもそれが法的なルールや義務的推定ではなく、裁判官の個人的な意見に過ぎないことを必ず説明する、というようことが考えられる。裁判員法66条5項は評議の際の裁判長の職務として「裁判員が発言する機会を十分に設けるなど、裁判員がその職責を十分に果たすことができるように配慮しなければならない」と定めている。この規定からも、裁判官が証拠の評価とりわけ推定や経験則に関する意見を表明することは抑制的でなければならないことが導かれる。裁判員の意見表明を萎縮させるような裁判官の発言はこの規定に違反するだけでなく、裁判員の証拠評価の自由(裁判員法62条)を侵害するものであり、裁判官と裁判員が事実認定を共同して行うという裁判員制度の根本理念に悖るものである。

【続く】



plltakano at 17:44コメント(0)トラックバック(0) 
一つの最高裁決定

ウガンダ在住のイギリス人地質学者ロバート・ジェフリー・ソウヤーさん(53歳)は、2010年5月末にウガンダを出国し、ケニアとベナンに立ち寄ったのち、パリ経由で成田空港に降り立った。空港での税関検査の際、彼が持っていたスーツケースの側面に細工が施されており、その中から粘着テープなどで2包に小分けされた覚せい剤約2.5kgが発見された。彼は覚せい剤密輸の罪(覚せい剤取締法違反と関税法違反)で起訴された。ソウヤーさんは、仕事で使う自動車やPCなどを買うために来日した;ウガンダの自宅を出発する際にメイドのエリザベスに荷造りを頼み、そのままスーツケースを持ってきた;中に覚せい剤が入っていることなど知らなかった、と言った。さらにソウヤーさんは、スーツケース内の荷物を日本に運ぶことを誰かから依頼されたということもないし、また、日本についたら誰かに連絡するなど荷物の回収方法について誰かに指示されたこともないと述べた。

千葉地方裁判所は、裁判官3名(後藤眞理子裁判長、裁判官角谷比呂美、同土倉健太)と6人の裁判員で公判審理を行い、ソウヤーさんを無罪とした。判決は、スーツケースの外観や重さなどから、中を開けてみたりしても異常に気づいたはずだとは言えない;税関検査時のソウヤーさんの態度は色々な意味に解釈できるのであって、直ちに薬物の認識に結びつくとは言えない、とした。また、荷物の委託や回収方法の指示がなかったという被告人の供述については、次のように述べて虚偽とは断定できないと指摘した。

「覚せい剤密輸組織は、目的地到着後に運搬者から覚せい剤を回収するために必要な措置を、予め講じているはずであると考えられる。しかしながら、そのような措置としては、様々なものが考えられるのであって、運搬者に事情を知らせないまま、同人から回収する方法がないとまではいえない。」(千葉地判平23・6・17未公刊・同裁判所平成22年(わ)第1190号)

検察官が控訴した。東京高等裁判所第3刑事部(裁判長金谷暁、裁判官土屋靖之、同伊東顕)は、原判決を破棄してソウヤーさんを懲役10年と罰金500万円に処する有罪判決を言い渡した。千葉地裁が指摘した、覚せい剤の回収方法には様々なものがあり、運搬者に知らせないで回収する方法がないとはいえないという点について、東京高裁は「現実に想定することが困難な、机上の論理」だと言った。東京高裁の裁判官は、密輸組織は必ず覚せい剤を回収する手立てを講じているはずであり、「運搬者が、覚せい剤密輸組織の者からにしろ、一般人を装った者からにしろ、誰からも何らの委託も受けていないとか、受託物の回収方法について何らの指示も依頼も受けていないということは、現実にはありえない」と言い、これを「回収措置に関する経験則」と名づけた。この「経験則」に照らせば、被告人の供述が虚偽であることは明らかであり、彼がスーツケースの回収に関し密輸組織から何らかの指示または依頼を受けていたことは明らかである、と断定した。

千葉地裁は、ソウヤーさんの渡航費用を誰が負担したかについて判断していない。しかし、東京高裁は「被告人が自ら渡航費用等の経費を負担したとは考え難く」密輸組織が負担したと考えるのが合理的だとした。そのうえで、東京高裁の裁判官はこう推論した――「そのような費用を掛け、かつ、発覚の危険を犯してまで秘密裏に本邦に持ち込もうとする物、しかも本件スーツケースに隠匿しうる物としてまず想定されるのは、覚せい剤等の違法薬物であるから、特段の事情のない限り、被告人において、少なくとも、本邦に持ち込むことを指示又は依頼された本件スーツケースの中に覚せい剤等の違法薬物が隠匿されているかもしれないことを認識していたものと推認される。」(東京高判平24・4・4未公刊・同裁判所平成23年(う)第1158号。強調は引用者)

ソウヤーさんは上告した。最高裁判所第1小法廷(裁判長横田尤孝、裁判官櫻井龍子、同金築誠志、同白木勇、同山浦善樹)は、ソウヤーさんの上告を棄却する決定をした。第1小法廷は、東京高裁が言う「回収措置に関する経験則」(覚せい剤を運搬した者が、誰からも委託を受けていないとか物の回収方法について指示や依頼も受けていないということはありえない)について、「例外を認める余地がないという趣旨であるとすれば、……適切なものとはいえないが」という留保を付けつつ、それを概ね肯定した。

「[密輸]組織にとってみれば、引き受け手を見付けられる限り、報酬の支払いを条件とするなどしながら、運搬者に対して、荷物を引き渡すべき相手や場所等を伝えたり、入国後に特定の連絡先に連絡するように指示したりするなど、荷物の回収方法について必要な指示等をした上、覚せい剤が入った荷物の運搬を委託するという方法が、回収の確実性が高く、かつ、準備や回収の手間も少ないという点で採用しやすい密輸方法であることは明らかである。これに対し、そのような荷物の運搬委託を伴わない密輸方法は、目的地に確実に到着する運搬者となる人物を見つけ出した上、同人の知らない間に覚せい剤をその手荷物の中に忍ばせたりする一方、目的地到着後に密かに、あるいは、同人の意思に反してもそれを回収しなければならないなどという点で、準備や実行の手間が多く、確実性も低い密輸方法といえる。そうすると、密輸組織としては、荷物の中身が覚せい剤であることまで打ち明けるかどうかはともかく、運搬者に対し、荷物の回収方法について必要な指示等をした上で覚せい剤が入った荷物の運搬を委託するという密輸方法を採用するのが通常であるといえ、荷物の運搬の委託自体をせず、運搬者の知らない間に覚せい剤をその手荷物の中に忍ばせるなどして運搬させるとか、覚せい剤が入った荷物の運搬の委託はするものの、その回収方法について何らの指示等もしないというのは、密輸組織において目的地到着後に運搬者から覚せい剤を確実に回収することができるような特別の事情があるか、あるいは確実に回収することができる措置を別途講じているといった事情がある場合に限られると言える。したがって、この種事案については、上記のような特段の事情のない限り、運搬者は、密輸組織の関係者等から、回収方法について必要な指示等を受けた上、覚せい剤が入った荷物の運搬の委託を受けていたものと認定するのが相当である。」最1小決平25・10・21裁判所ウェブサイトhttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20131023092307.pdf、6頁(強調は引用者)

第1小法廷の裁判官は、本件にはこのような「特段の事情」がないから、被告人は密輸組織の関係者から回収方法について必要な指示等を受けたうえで日本に運搬する委託を受けていたと認定するのが相当だとした(同前)。さらに、第1小法廷は、東京高裁が有罪認定に利用したもう一つの「経験則」――渡航費等の費用をかけ、かつ、スーツケースに隠匿できる物として想定できるのは覚せい剤等の違法薬物であるから、これらの事情があるときは、特段の事情がない限り、スーツケースの中に覚せい剤等の違法薬物が隠匿されているかもしれないことを認識していたと推認できる(「費用+隠匿=認識」の経験則)――についても「合理的で、誤りはない」と結論した(同、8頁)。こうして、6人の市民と3人の裁判官が証人や被告人の発言や態度を目の当たりにしたうえで数日間評議をした結果、被告人が自分のスーツケースの中に覚せい剤が入っているのを知っていたということには疑問が残るとした判断は、高裁と最高裁の合計8人の裁判官の書面審理によって覆された。初老の学者は言葉も通じない東洋の異国の地で長期間の拘禁刑に服することになった。

 最高裁決定をどう読むか

日本の刑事訴訟法では、最高裁判所は憲法判断をしたり法令解釈を統一したりする役割を果たすだけではなく、裁判所に提出された証拠を吟味して事実を認定する機能も与えられている。控訴裁判所の事実認定に重大な誤りがありそれが著しく正義に反すると考えるときは原判決を破棄することができる(刑訴法411条3号)。ソウヤー事件も、東京高裁の事実認定に重大な事実誤認があるという被告人の上告理由に対して、最高裁は証拠を検討した結果事実誤認はないという判断をしたものと理解できる。特定の事件で提出された特定の証拠を検討して、原審の事実認定が正しかったと言っているだけである;だから、この決定で述べられていることが他の事件に影響を与えることはありえない、そう考えることができる。けれども、この決定はこうした「事例判断」を超えた、今後の別の刑事裁判にも適用されるべき事実認定のルールを定めたものだという理解があり得る。決定文自身の中に「この種事案については‥‥と認定するのが相当である」という表現がある。これは、本件と同様の覚せい剤密輸事件については、本決定が是認した「経験則」――「回収措置に関する経験則」と「費用+隠匿=認識」の経験則――を適用すべきだという、事実認定上のルールを設定したものだという理解である。第1小法廷の裁判官がいわゆる三行半の決定ではなく、理由を詳細に説明していることは、この理解を裏付けるかもしれない。しかし、この決定をそうしたルール・メーキングな決定だと理解することは、刑事裁判の鉄則についての重大な憲法問題を引き起こし、そして、裁判員制度を骨抜きにする危険性をはらんでいるのである。この最高裁決定をどう読むかによって、この国の刑事司法の将来の方向は全く違ったものになるであろう。その理由を説明しよう。

検察官の証明責任の程度と範囲

刑事裁判においては、被告人は自分の無罪を証明する責任を負担しない。無罪の証拠を提出する責任も負わないし、無罪であることについて事実認定者を説得する責任もない。犯罪の有無に関する証明責任――有罪の証拠を提出し、被告人が有罪であることについて事実認定者を納得させる責任――は全て被告人を刑事訴追した政府の側が負うのである。被告人が「有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する」(世界人権宣言11条1項、市民的及び政治的権利に関する国際規約14条3項)というのはそういうことである。

有罪の立証に必要な証明の程度を具体的に定めた法律の規定はない。しかし、個人の生命や自由の剥奪につながる有罪の認定に必要な証明の程度が非常に高度なものでなければならないことは言うまでもない。18世紀イギリスの偉大な法律家サー・ウィリアム・ブラックストンは「重罪を推認する証拠を受け入れることは慎重でなければならない。なぜなら、法は、10人の有罪の者を逃がす方が1人の無実の者を罰するよりも良いことと定めているからである」と述べた(4 William Blackstone, Commentaries, 352)。今日の文明国では、刑事裁判における有罪の証明は、民事裁判における証明基準――「証拠の優越」(preponderance of evidence)――をはるかに凌駕するもの、すなわち、「合理的な疑いを容れない程度の証明」(proof beyond a reasonable doubt)でなければならないとされている。アメリカ連邦最高裁判所は、1970年のウィンシップ事件(In Re Winship, 397 U.S. 358 (1970))において、刑事裁判における有罪の証明が「合理的な疑いを容れない」ものでなければならないことは憲法が保障するデュー・プロセスの要請であるとした。

「合理的な疑いの基準は、アメリカの刑事手続の機構のなかで必須の役割を演じている。それは事実誤認に基づく有罪認定の危険を減少するための第一の道具である。この基準は無罪の推定――それは根源的にして「定理のごとき初歩的な」原則であって、「その活力が我々の刑罰法の運営の基礎に横たわっている」――に具体的な実質を付与するものである。id., at 363.

「更に言えば、合理的な疑いの基準を採用することは、刑罰法の適用において地域社会が尊厳と自信を獲得するために必要なことである。無実の人が罰せられたかもしれないとの疑惑を人々に残すような証明の基準によって刑罰法の道徳的な力が弱められないということは、きわめて重要なことである。そしてまた、われわれの自由な社会においては、政府は適切な事実認定者を究極的な確実さをもって説得しない限り、個人を有罪と認定できないことについて、日常生活をおくるいかなる個人も自信を持っていられるということが大切なのである。id., at 365.

「合理的な疑いの基準の憲法上の価値に関していかなる疑問も残さないために、われわれは次のとおり明示的に判示する――デュー・プロセス条項は、被告人が訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実について合理的な疑いを容れない程度の証明がなされない限り有罪とされないという保護を被告人に与えている。Id.(強調は引用者)」

わが国の最高裁判所も、有罪の立証のためには非常に高度の証明が必要だと言っている。最高裁判所昭和23年8月5日判決は、刑事裁判における有罪の証明の程度は「通常人ならば誰でも疑いを差挟まない程度に真実らしいとの確信を得ること」でなければならないとした(最1小判昭23・8・5刑集2‐9‐1123、1124)。最高裁判所昭和48年12月13日判決は、「反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの『犯罪の証明は十分』であるという確信的な判断に基づくものでなければならない」と言った。(最1小判昭48・12・13判時724-104、111)。そして、最高裁判所第1小法廷平成19年10月16日決定は、「刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要である」とした(最1小決平19・10・16刑集61‐7‐677)。前述のようにウィンシップ判決は合理的な疑いの基準が「訴追された犯罪を構成するのに必要な全ての事実」に当てはまることを明言した。日本の最高裁はこの点について明言はしていないが、犯罪の主観的な要素については高度な立証は要求されないなどと言ったことはない。日本の最高裁判例も、主観的要素であれ客観的要素であれ、訴因となっている犯罪を構成する全ての事実について合理的な疑いを容れない程度の証明が必要であり、それは憲法の要請であると解しているというべきである。この点で日米の憲法解釈に差異があるという根拠はどこにもない。

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2013年02月09日

友人と一緒に「東京法廷技術アカデミー」(Tokyo Academy of Trial Advocacy: TATA)を開校しました。
開校の言葉です。

ロゴ03
写真02

わが国の法律は、刑事裁判が公開の法廷で双方の法律家の口頭弁論と証人の口頭証言を中心に行われなければならないと定めている。しかし、いつの間にか、わが国の法律家は口頭弁論の仕方を忘れ、裁判官は口頭証言よりも供述調書を重用するようになった。証人の声も表情も態度も知らない裁判官が乾いた活字を法廷の外で読むことを、専門家は「事実認定」と呼んで憚らない。法廷は生きた人間の声を聞き、当事者の赤裸々な訴えを吟味する場所ではもはやない。法廷は書類を作り受け渡す場所と化してしまった。実務教育は書類の書き方を教えるだけであり、法廷での立ち居振舞いや尋問の方法が教えられることはない。法律家の道具箱のなかから「法廷技術」という道具は消え去ろうとしている。

しかし、いままさに、この法廷技術滅亡の歴史に終止符が打たれようとしている。裁判員裁判が産声をあげたこのとき、わが国の法廷技術は長い眠りから覚め、新たな歩みを踏み出さねばならないのである。普通の市民である裁判員は調書や意見書を読んで判断することはない。彼らが仕事や家事や学業を休んで法廷に参集するのは、証人や被告人の顔を見、声を聞くためである。法律家の口頭弁論を聞くためである。誘導ばかりの主尋問や行きつ戻りつの要領をえない反対尋問では、事件の真相は何も分からない。複雑な文章を棒読みしたのでは、当事者の訴えはけっして伝わらない。法律家は主尋問によって自分の証人に印象的な物語を語らせなければならない。相手方の証人に対する反対尋問を通じて、その証言が信ずるに足りないことをつぶさに示さなければならない。法律家は、口頭表現によって証拠と理性と正義が自己の勝訴を求めていることを説得的に弁じなければならない。まさに、裁判員裁判の死活は、法律家の法廷技術にかかっているのである。

本校はわが国の法律家の間に法廷技術を普及させ、その技量を向上発展させ、全国津々浦々に、高度の法廷技術を身につけた刑事裁判の専門家たる法律家を十分に行き渡らせることを目的として開校される。この目的を達成するため多くの若い弁護士に法廷技術を研鑽する場を提供する。こうして本校はわが国における刑事司法改革の要を担うのである。

2013年1月
   東京法廷技術アカデミー
校長 高   野    隆


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2013年02月02日

「裁判員裁判のための法廷技術(基礎編)第2巻」が、第1巻に続いて現代人文社から刊行されました。

法廷弁護士を志すすべての人びとに、法廷技術の基本を効果的に学べるDVDを贈ります。
弁護士はもちろん、検察官や裁判官、司法修習生、学生、研究者など法廷技術を考える人にぜひ利用していただきたい。


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2012年01月06日

1月10日からさいたま地裁ではじまる木嶋佳苗さんに対する殺人事件の公判審理について、裁判員の在任期間――裁判員選任から判決言渡しまで――が100日もあることが話題になっている。マスコミは「裁判員100日の重圧」などと言って、裁判員の負担の重さを強調したり(日本経済新聞2012年1月6日朝刊、38頁)、選ばれなかった候補者にわざわざインタビューして「選ばれなくて良かった」というコメントを載せたりしている(毎日新聞同日朝刊、23頁)。しかし、この事件の公判審理の予定を見てみると、この「100日」というのはかなり水増しされた数字であることがわかる。

公判の開始(1月10日)から判決言渡し(4月13日)まで3ヶ月以上の期間があるのは確かである。しかし、裁判員が公判審理に参加するのは34日間に過ぎない。公判審理は毎日行われるのではなく、週に4日(月、火、水、金)であり、午前10時にはじまり午後5時までには終わる。午後3時前に終了する日もある。開廷日には1時間半の昼食休憩のほかに、随所に15分程度の休憩が入る。確かに証人の数は63人と多いが、1日に聴く証人の数は2、3人である。

戦前の陪審裁判では、公判は週6日連日ぶっ通しで行われた。開廷はだいたい午前9時であり、閉廷は早くて午後5時、午後8時を過ぎても尋問が行われることは珍しくなかった。1日に10人以上の証人を尋問することもあった。昭和3年に行われた東京地裁最初の陪審裁判(放火事件)では3日間の公判で28人の証人を尋問した(塚崎直義「寒子放火事件の陪審裁判」改造昭和4年2月号49頁;熊谷弘「新聞報道を通じてみた東京最初の陪審裁判」判例タイムズ229号50頁(1969))。4日目には被告人の予審調書が朗読され、同日の午後から検察官の論告と弁護人の弁論が行われた。その日の閉廷は午後9時30分だった(塚崎・前掲、52頁)。そして5日目、裁判長の説示と問書の朗読の後、直ちに陪審は評議に入り、同日午後4時30分に陪審は評議を終えて「然らず」の答申を提出した。続けて裁判長が「被告を無罪とす」と宣言した(同前)。昭和4年長崎地裁で行われた被告人8名被害者5名の殺人教唆、強盗殺人事件の陪審裁判でも、4日間で8人の被告人と21人の証人の尋問が行われた。5日目に双方の弁論と裁判長の説示が行われ、直ちに陪審は評議に入った。答申が出たのは、翌日の午前2時(!)であった(三浦順太郎『陪審裁判:松島五人斬事件之弁論』(藤木博英社1931)、33-34頁)。

こうした文字通りの「集中審理」に当時の陪審員(引き続き2年以上直接国税3円以上納め読み書きができる30歳以上の帝国臣民たる男子――陪審法12条)はどのように取り組んだのだろうか。次から次に登場する多数の証人への問いと答えをただ呆然と聞き流し、相矛盾し錯綜する証拠と争点の渦に飲み込まれ混沌の淵へと埋没していったのだろうか。断じてそんなことはない。当時の新聞報道などによれば、こうした過酷とも言える審理日程にもかかわらず、陪審員は熱心にそして積極的に審理に参加し、評議を行なっている。東京地裁第1号事件では、被告人の自白の任意性が問題になり、自白をとった駐在所の巡査が証人に呼ばれた。陪審員はこの巡査にこう質問した――「簡単に誘導尋問はしないとか、被告の云うところと違うと片付けてしまうけれども、被告の陳述の秩序立っているのに反し、それでは余りに物足らない。もっと吾々が成る程とうなづけるようには答弁できぬものか」(熊谷・前掲、54頁)。午後9時半まで続いた最終弁論のとき「陪審員は夕食を延期し空腹をこらへながらもノートを取る。其熱心さには満廷一人として感激せぬものはなかった」(塚崎・前掲、52頁)。さらに、裁判長の問書のなかに一部矛盾があるとして弁護人が訂正を求めたのに対して、裁判長が口頭で説明を加えただけで済まそうとすると、陪審員の一人(前出の陪審員とは別)は「説明付の問書では困る」としてあくまで訂正することを要求した(同前、55頁)。

戦前の徹底した集中審理と比較して、現代の裁判員裁判の公判審理は明らかに間延びしている。その審理日程はむやみに水増しされている。法律は「できるかぎり、連日開廷し、継続して審理を行わなければならない」と定めている(刑事訴訟法281条の6第1項)。それにもかかわらず、週5日連日開廷されることはまずない。木嶋事件では週4日開廷されるが、週3日しか開廷しない例すらある。そして、証人尋問が終わっても直ちに最終弁論が行われないし、最終弁論から判決までの期間――つまり評議の時間と判決書作成の時間――があらかじめ定められている。木嶋事件では、証人尋問から最終弁論まで10日間の空白があるし、最終弁論から判決まで1ヶ月(!)も間が開いている。証人尋問が終わったら直ちに最終弁論を行い、最終弁論が終わったら直ちに評議を行い、評議が整ったら直ちに答申そして判決宣告を行った戦前の陪審裁判とは、ここが最も違うところである。

なぜ、最終弁論の前に10日も時間をとり、判決の前に1ヶ月も空白を設ける必要があるのだろうか?これは「裁判員の負担の軽減」という理屈では説明がつかない。この冗長な幕間は決して裁判員のためにあるのではない。こんなに長い間何もしないで待たされているというのは、社会人にとってひどく迷惑な話だ。戦前の市民は被告人8人・被害者5人の殺人教唆及び強盗殺人事件の評決を17時間の評議で達成した(三浦・前掲、34頁)。どうして現代の市民が3人の被害者の殺人事件の評議を1ヶ月もかけてやる必要があろうか。この長大なる時間は決して裁判員のためにあるのではない。この長々しい空白は法律家と裁判官のためにあるのである。かれらの無能に市民が付き合わされているのである。

陪審法が停止され、戦争が終わり、新しい刑事訴訟法による刑事裁判がはじまって、時が経つにつれて、日本の公判審理はどんどん間延びしていった。証人尋問の期日の間隔が1日空き、5日空き、ついには1ヶ月以上も間が空くようになった。そして、審理が終結するまで何年もかかるようになった。そうすると、法律家はだれがどのような証言をしたのか記憶がなくなり、証言録を読んで文章を書かなければ最終弁論をすることすらできなくなってしまった。裁判官も、長い審理の間に、当然記憶がなくなるし、ときには転勤によって裁判官が交代することも珍しくなくなった。そうすると、裁判官は訴訟記録を読んで判決文を書く以外に判決言渡をすることができなくなった。法律の上では判決は口頭で言い渡せば良いことになっている(刑事訴訟法342条)。しかし、現代の裁判官は口頭だけで判決の理由を説明する能力がない。例外なく、宣告前に判決文を作成してそれを朗読する。戦後の司法研修所の教育は、事件記録を読んで最終弁論を書いたり判決文を書いたりする訓練ばかりするようになった。こうして、日本の法律家や裁判官は、生の証言を聞いて直ちにその場で弁論をする能力や、その弁論を聞いて評議をして口頭で判決を言い渡すという能力を失ってしまったのである。ガラパゴス諸島の動物が独自の進化を遂げたように、日本の法曹は書類を読んで書類を作成し書類を読み上げるという書類に特化した独自の進化を遂げたのである。それと引き換えに、光のない深海や洞窟の奥に生きる動物が視力を失ったように、彼らは、生の証言を聞いて口頭で弁論をし、口頭弁論を聞いてすぐに評議して口頭で判決宣告するという能力――口頭弁論能力あるいは法廷技術――を退化させてしまったのである。

木嶋事件の裁判員が100日間も裁判員をやらなければならないのは、要するに、現代の法律家と裁判官の都合によるのである。法律家と裁判官が80年前と同程度の能力をもっていたならば、裁判員たちは――戦前の陪審員たちと同じように――集中的に熱心にそして積極的に公判審理に取り組み、この事件を遅くとも数週間以内に判決に導くことができたであろう。現代の裁判員が戦前の陪審員と比較して、その能力や熱意において劣っているという証拠はどこにもないからである。戦前よりも劣っているのは市民ではなく、法曹の方なのである。しかも、卑劣なことに、彼らは「裁判員の負担の軽減」と言って自分たちの無能ぶりをごまかそうとしているのである。


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2011年07月28日

あなたは、相手が目の前にいるのに、相手に尋ねたいことをわざわざ紙に書いてそれを相手に渡して、別室で「はい」か「いいえ」を丸で囲んできてくださいと言うだろうか。そんなことをするのは対人恐怖症の人か耳の聞こえない人ぐらいだろう。対人恐怖症でもなく、正常な聴覚を持っている普通の人は、端的に、目の前にいる相手に口頭で尋ねたいことを尋ねるのではないだろうか。その方が相手の応答態度をつぶさに観察できるので、相手の真意を知るという意味でも効果的ではないだろうか。ところが、東京地方裁判所の裁判官たちは違うのである。彼らは、重大な刑事裁判の審理を担当する裁判員の候補者をわざわざ自分たちの職場である裁判所に呼び出しながら、その場で口頭で質問できることをわざわざ紙に書いて渡し、「はい」か「いいえ」を丸で囲ませるのである。その結果、この国で最も重大とされる刑事事件の審理を担当する裁判員は、裁判長から口頭で質問を受けることもなく、訴訟関係者の前で一言も言葉を発することもなしに、くじで選ばれ法壇の椅子に座るのである――法律によれば裁判長は裁判員を選ぶ前に裁判員候補者に対して「必要な質問」をすることになっているのに。

裁判員法は「裁判員選任手続に先立ち」候補者に対して「質問票」を郵送して、一定の事項――候補者が有資格者かどうか、欠格事由、辞退事由及び不適格事由があるかどうか、並びに不公平な裁判をするおそれがないかどうかを判断するのに必要な事項――を答えさせるという手続を定めている(30条1項)。この質問票に答えた候補者の中から裁判所に呼び出す者を選別するのである。これはいわば面接試験を受ける応募者を書類で選考するのと同じ手続である。法は、こうして「裁判員等選任手続期日」に呼び出された候補者に対して、さらに「必要な質問」をして、その答えを聞いたうえで裁判員や補充裁判員を選任するとしている(34条1項)。書類選考と面接試験の例を持ち出すまでもなく、この2段階の選考方法の趣旨は明らかであろう。

裁判員法が制定された半年後2006年11月に、最高裁判所は、「裁判員選任手続のイメージ案」を公表した。それによれば、「選任手続の当日の手続」は次のようなものであった。

「(1) 呼出状を受け取った裁判員候補者には、裁判員選任手続期日当日、裁判所にお越しいただきます。裁判所では、まず、御本人であることを確認させていただいた上、裁判員候補者待合室(大部屋)でお待ちいただきます。 担当の係員が、これから行われる手続について、ビデオなどを利用しながら説明を行います。
「(2) また、裁判所にお越しいただいた裁判員候補者には、当日用質問票が交付されます。当日用質問票では、事件の関係者でないかどうかなどについてお聞きします。
「(3) その後、裁判員候補者は、別室の裁判員質問手続室(小部屋)で裁判長から質問を受けることになります。質問手続室には、裁判官3人と書記官のほか、検察官と弁護人(裁判所が必要と認める場合に限り被告人も)が立ち会います(裁判員法32条) 。候補者のプライバシーを保護するため第三者が傍聴することはありません(裁判員法33条1項 ) 。
裁判長は、裁判員候補者が記入した質問票を読んだ上で、補充的に質問をします。検察官と弁護人も質問票を見ることはできますが、検察官と弁護人の手元にある質問票は、手続終了後、裁判所が回収します。陪席の裁判官、検察官又は弁護人(被告人)も、裁判長に質問をしてもらうよう求めることができます(裁判員法34条2項) 。
「既に第1段階の手続で、法律上裁判員となることができない人や辞退が認められることが明らかな人は、そもそも呼出しがされないか、すでに取り消されていることになります 。 したがって、 この段階では 、裁判長は、主に、仕事や家庭を理由として辞退が認められるか微妙なケースについて、候補者に事情を確認する質問や、候補者が公平な裁判をしてくれるかどうかを確かめる質問などをすることになります (最高裁判所「裁判員選任手続のイメージ案」http://www.saibanin.courts.go.jp/topics/pdf/06_11_17_tetuzuki_image/tetuzuki_image.pdf 強調は引用者)。」

最高裁判所が制作した裁判員制度の広報映画にも、裁判員候補者が1人ずつ小部屋に入って裁判長から質問を受けるシーンがある。例えば、「裁判員〜選ばれ、そして見えてきたもの〜」には、まさに面接と呼ぶにふさわしい裁判長と候補者のやり取りが描かれている(http://www.saibanin.courts.go.jp/news/video4/chapter2_erabare_bb_sub.html)。ところが、現在東京地方裁判所で日々行われている「質問手続」はこれとは似ても似つかぬ代物である。既に事前に「質問票」の答えを返送したうえで、裁判所に出頭してきた候補者に対して、裁判所は次の4つの問いを記載した「質問票(当日用)」なる紙を渡す。

問1 あなたは、被告人と関係があったり、事件の捜査に関与するなど、事件と特別な関係がありますか。
問2 今回の事件について報道などを通じて知っていますか。
問3 事前に提出した質問票に記載した事項について、今日までの間に何か変更はありますか。
問4 特に裁判官に話しておきたい事情があるなど、個別に質問を受けることを希望しますか。

裁判員候補者は、これらの問いの下にある「ある・ない」「ある程度知っている・くわしく知っている・知らない」「ある・ない」「希望する・希望しない」の答えを丸で囲んで署名することになる。ほとんどの候補者は、「ない」「知らない」「ない」「希望しない」に丸をする。それで終わりである。「裁判員選任手続のイメージ案」によれば、当日質問票に記入した後、候補者は「別室の裁判員質問手続室(小部屋)で裁判長から質問を受ける」はずであるが、質問票の「ない」「知らない」「希望しない」に丸をした候補者が質問手続室に呼ばれることは全くない。その答えを直接候補者と問答して個別に確認する作業すら行われないのである。要するに、大部分の候補者に対して誰かが何かを尋ねるということは行われないのである。そしてあとは、くじ引き(パソコンのマウスを書記官が1回クリックするだけ)で6人の裁判員と1人ないし2人の補充裁判員が選ばれるのである。

裁判員法によると、当事者は裁判員候補者に質問してほしい事項を裁判長に質問するように請求することができ、裁判長は「相当と認めるときは」その質問をすることになっている(裁判員法34条2項)。しかし、裁判長が当事者の質問請求を「相当と認め」て質問をすることはほとんど全くない。私は、統合失調症を発病した青年が幻覚と妄想に突き動かされて知人を包丁でめった刺しにして殺したという殺人事件の裁判員選任手続で、候補者に対してこう質問してほしいと裁判長に請求したことがある――「あなたは、殺人犯が精神障害のために無罪となることに、抵抗がありますか」。この要求に対して、裁判長は、当日質問票の問4があるからこのような質問は要らないと言って、私の質問請求を却下した。問4というのは前述したとおり「特に裁判官に話しておきたい事情があるなど、個別に質問を受けることを希望しますか」という問いである。そもそも、当日裁判所に出頭したばかりの人たちはまだ事件の内容を知らされていない。自分の担当する事件が被告人の精神障害が問題となる事案だということを知らないのである。そのような人たちが、「自分は精神障害を理由に無罪となることに抵抗があるのだが、それでも裁判員になってもいいでしょうか」と裁判長に申し出ることなどあり得るだろうか。事件の争点――心神喪失かどうか――を理解した裁判員であっても、わざわざ自分の信条と法制度の関係に思いをはせ、その信条を自ら進んで裁判長に申し出ることなど、期待できるだろうか。常識で考えれば分かりそうなことである。しかし、東京地裁の裁判長たちは、最高裁の映画の裁判長のように1人1人の候補者と親しく口頭のやり取りをすることを頑なに拒否するのである。4つの、おそろしく抽象的な型どおりの問いを記載した「質問票」への回答以外の情報を、いまそこにいる候補者――わざわざ職場や家庭や学業を犠牲にして裁判所にやってきた人々――から得えようとはしないのである。やろうと思えばすぐにできるのに。彼らはやはり対人恐怖症なのだろうか。

実質的に考えて、裁判員候補者に対して個別の口頭質問を行うことは、公正かつ適格な裁判員を選出するためには必要不可欠なことである。先日千葉地裁で行われた女子大生殺害事件の裁判員裁判で、1人の裁判員が公判の冒頭から毎回法壇上で居眠りをしていたということがあった(日本経済新聞2011年6月23日夕刊、15頁)。証人尋問が終わり弁論が終結された後になってこの裁判員は解任されたが、そもそもこのような人は「心身の故障のために裁判員の職務の遂行に著しい支障がある者」(法14条3号)、あるいは「不公平な裁判をするおそれがある」者(法18条)なのであって、裁判員に選任されるべきではなかったのである。この事件でも、裁判長は「質問票」の配布と回収だけを行い、候補者への口頭の個別質問を行わなかった。もしも、裁判員選任手続において「質問票」を回収するなどという安直な方法に頼らず、1人1人の候補者に対して個別の口頭質問を行い、その応答態度をつぶさに見ていたならば、このような人物の不適格性を当事者や裁判所が見逃すとはとうてい思えないのである。死刑事件の冒頭から居眠りをするような特異な人物は、質問手続室(小部屋)の中で行われる個別質問の際にも特異な反応や様子を示す可能性が高いからである。

法が要求する「質問」というのは、最高裁判所がイメージしたような個別の口頭の質問を意味するというべきである。裁判官は、たとえ対人恐怖症で書面を通じてでないと人とコミュニケートできない体質だとしても、この手続を形骸化する権利はないはずである。どうしても広報映画に登場する裁判長のような面接が自分にはできないというのであれば、潔く裁判員裁判の担当を自主的に外れるべきである。裁判官は法を実践する公務員として国民から給与の支払いを受けているのであって、法を自分に都合の良いように骨抜きにするために国民から雇われているのではない。


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