身体拘束

2016年09月13日

刑法21条は「未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる」と定めている。これは裁判で刑の言い渡しを受けるまでに警察署や拘置所に拘禁されていた被告人に対して、その期間の全部または一部を刑期に算入して刑の執行を受け終わったものとみなす制度である。未決勾留は刑罰そのものではないが、社会から隔離され自由を拘束されるという意味で、刑罰と異ならない。犯罪に対する制裁は予め法律に定められた刑罰に限られるというのが近代法治国家の大原則である。未決拘禁期間を刑期に算入するという制度は、この原則にしたがって個人に対して裁判所が適法に宣告する刑罰以上の苦しみを与えないようにする制度であると言える。言い換えると、適正な裁判を実現するために未決拘禁という苦痛・害悪を被った個人に対して、裁判終結時にその害悪に対する補償をする制度である。無罪の裁判を受けた被告人には未決拘禁期間に応じた金銭的補償を受ける制度がある(憲法40条、刑事補償法1条)。未決算入制度は、有罪の被告人に対してこの補償を与えようという制度である。

刑法は「その全部又は一部」と言っている。しかし、わが国の現代の裁判実務では、未決勾留日数の「全部」が刑に算入されることは全くない。皆無である。それは、現代の圧倒的多数の裁判官が、いわゆる「一部算入説」にしたがって、「事件の捜査・審理に必要な期間」を除いた未決勾留日数しか刑期に算入しないからである。そして、この「事件の捜査・審理に必要な期間」については、司法研修所が作成したマニュアルに掲載された計算式 (1)を使うのが一般的であった。裁判員法が施行されててから、刑事裁判の審理スケジュールが従来のものと異なるものとなったので、最近は「司法研修所方式」とは異なる計算式が考案されるに至っている (2)。いずれにしても、実務が「一部算入説」で運用されていることは変わりない。

60年ほど前に、この実務に異論を唱え、未決勾留日数は原則として全部本刑に算入されるべきであるという「全部算入説」を提案する裁判官が現れた(3) 。この考え方に追随する裁判官もいた(4) が、彼らは多数派にはならなかった。2009年に日本の刑法に強い影響を受けた刑法典を持つ韓国の憲法裁判所が、未決拘禁日数の全部を算入しないのは同国憲法が定める適法手続条項や無罪推定原則に違反するとして、「全部又は一部を本刑に算入する」と定める同国刑法57条1項のうち「又は一部」の部分は無効であると宣言した(5) 。この違憲判決はわが国の実務には全く影響を与えなかった。

一部算入説が実務上盤石の地位を占めていることは疑いがない。しかし、その正当性の根拠については、これまでほとんど議論されてこなかった。われわれ実務家は実務の大勢がそうだからというだけの理由でこれに従ってきたのである。このままわが国の実務を支配し続けることは正しいのか。裁判員裁判では、普通の市民がこの判断に加わるのである。「これまでの実務がこれだ」というだけで市民をそれに従わせるのは不当である。原点に帰ってこの問題を考え直す必要がある。

“未決拘禁の不利益は甘受されるべきだ”という考え方

一部算入説は、適正な刑事裁判の実現のために必要があるとして未決拘禁された人々はそれによる不利益を甘受すべきであり、刑事裁判終結の際にその不利益を精算されるのは当然だとは言えない;だから、全部算入説には無理がある、という (6)。しかし、未決拘禁の要件が認められた者はそれによる不利益を甘受すべきだというのあれば、無罪となった場合に未決拘禁期間に対する補償が受けられること(憲法40条)の説明がつかないであろう。有罪の者と無罪の者との間に、未決拘禁がなされる根拠において差異があるわけではない。いずれの場合も犯罪の嫌疑があり、逃亡や罪証隠滅のおそれも認められる(と裁判官が判断した)という点も同じである。あとで無罪になったらといって、未決拘禁の判断が間違っていたということにはならない。無罪の者が被った不利益は補償されるが、有罪の者には補償がなされず、犯罪の法的効果である刑罰に加えて未決拘禁による不利益も耐え忍ばなければならないという差別を設ける根拠はどこにもない。未決勾留を本刑に算入するという考え方を最初に示した明治34年刑法改正案30条を審議した帝国議会貴族院特別委員会(1901年)において、富井政章は、こうした規定を設けるならば「犯人ガ若シ無罪ノ宣告ヲ受ケタ場合ニハ、賠償シテヤラナケレハナラヌトイウコトニナッテ来テ、其場合ト権衡ヲ得ナイ」と言って反対した。これに対して、政府委員石渡敏一は「公用徴収ノ如ク國ノ必要ニ応シテ取ルモノテモ、其土地相当ノ代償ヲ払フノハ素ヨリ認メテ居ルノテ、被告人ハ國ノ必要ノ為ニ未決勾留ヲサレルト云フケレトモ、出来ルナラハソレ相当ノ倍賞ヲスルカ至当テハナイカ」と言って反論した (7)。現行刑法成立(1907年)の24年後、1931年に制定された旧刑事補償法(昭和6年4月2日法律60号)によって無罪の者に対する補償制度が実現した。未決勾留日数の本刑算入という概念にも刑事補償という考えにも、公共の利益のために私権が犠牲にされた個人に対する正当な補償(日本国憲法29条3項参照)と共通する公正の理念があるのである。

未決拘禁の理由である犯罪の嫌疑――罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由――があるということは、拘禁による不利益を最終的に個人に帰属させることを正当化しない。それを認めることは「一種の嫌疑罰ないし不従順罰を容認することとなるからである」 (8)。そして、未決拘禁のもう1つの根拠である逃亡のおそれや罪証隠滅のおそれも、未決拘禁の不利益を個人に負担させる理由とはならない。

事件が重罪である場合には判決の結果として重い刑罰が予想されるから、一般的には、逃亡のおそれはかなり高いと考えられるであろう。しかし事件が重罪であることから、直ちに被告人が未決勾留を甘受すべきであるという結論はでてこない。又被告人は定まった住居がないとか、独身であるとか、定職がないとか、船員のような転々する職業を持つとか、無産者であるとか等が、しばしば逃亡のおそれを理由づけるであろう。これらの事情のために、被告人が未決勾留を甘受しなければならないとすることは法の前の平等の原則に反するから、これまた、到底許されない。***罪証隠滅のおそれの判断は逃亡のおそれの判断に比べるといっそう困難である。これを直接認めるべき資料が非常に少ないことが普通であるといっても決して過言ではないであろう。罪証隠滅のおそれは、結局、被疑者、被告人の年齢、境遇、犯罪の軽重、態様、証拠関係その他諸般の事情から推認するほかない。従って、罪証隠滅のおそれ自体に被告人の責任を認めることは、逃亡のおそれの場合よりも、さらに不当であるといわなければならない 。(9)


要するに、有罪であること(罪を犯したこと)に対する制裁は刑罰に尽きるのであり、有罪者に対して刑罰を超える自由の剥奪を正当化することはできないのである。無罪の者に対して未決拘禁期間の補償を与える以上、有罪の者に対しても未決拘禁期間の補償をするのは当然である。

この論理に対して、全部算入が正しいのであれば、未決勾留期間が刑を超過する場合には超過部分を補償しなければならないが、わが実定法上そのような法規は存在しないとか、執行猶予判決(猶予が取り消されない場合)についても同様の問題が生じるという反論がなされている(10) 。しかし、これは反論になっていない。未決拘禁期間が刑期を超越する場合というのは、要するに、未決拘禁の害悪を全部補償するための通貨(原資)である刑期が足りないということである。返済資金が足りないからと言って債務の一部しか弁済しないことが正当化されるいわれはない。未決勾留期間が宣告刑を超過する場合に、算入しきれない部分を、未決算入以外の方法で補償するというのは正しい。その実現のために立法が必要であるというのなら、そうすべきである。

“捜査・審理に必要な期間は算入されない”という考え方

一部算入説は、起訴前の拘禁期間は「捜査に必要な期間」であるから算入されないという(11) 。そして、起訴後の拘禁についても「当該事件の審理に必要と認められる期間」は――その計算方法については様々な考えがあるが――算入されないという (12)。なぜ事件の捜査や審理に必要な期間は当然に被拘禁者の負担とされなければならないのだろうか。戦後に公刊された文献でこの点を説明するものは皆無である。「われわれは現在のところ、***これを被告人の負担に帰せしめたとしても、公平の理念に反するものとは考えない」という宣言(13) 以上の説明をする論者はいない。裁判官の多くは、司法研修所が定めた方式だからとか、東京地裁の多く裁判官が行っているからなどという、法令の解釈として通用するはずのない、いわば惰性によってこの説にしたがっているのである。

ところで、“事件の捜査・審理に必要な期間は算入されない”という説は、横川敏雄判事が1943年に発表した論文 (14)で提案したものである。横川判事は「我が国文化の現段階及その現に当面する情勢下に於いて、通常の設備ありと看做さるべき裁判所並に普通の能力ありと信ぜられるべき司法官を標準とし、当該事件の捜査及審理に付、通常一般の例として、幾何の勾留期間を不可欠なりやと判断し、現実の勾留日数より、右日数を控除して、その残余の日数を算入すべし」と提案した(15) 。横川氏は、この説の根拠を説明するために10ページ(連載頁割り当ての半分!)を割いている。彼は、国家(統治する者)と国民(統治される者)とを対立的に捉えるのは誤謬であり、両者は「二にして一、対偶にして調和たるを本質とする」「不可分的全一体」である(16) ;とりわけ「国家の道義的、政治的、法律的中心として、他国に比なき万世一系の天皇がおはしまし、国家的統一、国民的一体感が特に強固」な我が国においてはそうあらねばならないと、説く(17) 。

かくの如くして、両者間の対立と摩擦を最小限度に食い止めつゝ、しかも尚国家の存立と発展のために、国民に対し或程度犠牲の強要がやむを得ざるものであり、その結果を国家或は国民のいづれかに負担乃至還元せしめなければならぬとすれば、かゝる犠牲はよろしく国民の側に負担せしむるのが、この場合、法の要請する最も妥当なる解決と信ずるものである。蓋し、国民が国家、否自らの存立と発展のために、この程度の犠牲を負担するは当然だからである。***かく考へるならば、国家の名に於て捜査審理の衝にあたるものは、常に国家の要請、司法本然の使命及国民の立場に深く思を致し、国家の現に当面する政治的、経済的乃至文化的諸状勢或は治安の状況に照し、能ふ限り国民の人格を尊重し、その権利を保障するやう努むると共に、不幸犯罪の嫌疑に問はれたるものも、自ら国家の要員たる光栄と義務に徹し、夢寝にも、国家の要請、司法の使命が奈辺に存するかを忘るゝことなく、被疑者又は被告人として、なし得る限度に於て、すゝんでその行動に協力し、以て、共々「正しき刑罰権」の実現を期するべきであるが、しかも尚捜査審理の過程に於てまぬかれ得ざる不利益は、萬やむを得ざるものとして後者に負担せしめるのが相当であると思ふのである 。(18)

横川判事は、こうした「国家観」に基づく「純理」に立脚するだけではなく、「更に現実的にも、現に捜査審理に携はりつゝあるものが、しかくその権力を濫用するの虞なしと信ぜられることと犯罪の嫌疑を受けて勾留せられるものが、ほとんど大半有罪者と認定せられつゝある現実を斟酌した結果でもある」という(19) 。

横川判事の提案は、明治憲法体制の末期に横行した「君臣一如」の天皇制国家論(20) にもとづき、被告人は「正しき刑罰権」の実現のために自ら進んで奉仕すべきであるという国家主義的訴訟観を反映するものである。それと同時に、捜査訴追機関による権力濫用はないという権力への盲信と、大部分の被疑者被告人は有罪であるという有罪推定論を基礎にしているのである。いずれの議論も、日本国憲法を採択し、かつ、国際人権規約を批准した現在のわが国において成り立つようなものではないことは多言を要しないであろう。

「捜査・審理に必要な期間は算入しない」という考え方には、こうした根本的な問題点のほかにも、様々な問題がある。そもそも、捜査・審理に必要な期間がどれくらいなのかを決定することはほとんど不可能である。司法研修所方式にしても東京地裁方式にしても、恣意的であり、根拠は薄弱である。第1回公判前の30日あるいは期日間の10日というのは「近時多くの地方裁判所」における「申し合わせ」が根拠であるに過ぎない(21) 。こうした様々な計算方式が提案されていることからも分かるように、実際にはそれは1つのフィクションであり、単なる「想定」に過ぎないのである。そのうえさらに、実際に行われた捜査や審理期間と拘禁が正当化される期間が同一であるという保証もないのである。

勾留の要件は、かなり漠然としたものであり、これを判断する資料も限られており、又その要件の判断はその時々において急速に行われるものであるから、そこにはある程度の裁量の余地がある。従って勾留はすべて客観的に捜査・審理に絶対不可欠なものであるとはいえない場合もあることは否定できないであろう。このことは次のようなことを考えれば明らかである。勾留された被疑者に対し公訴が提起されないことがあり又起訴されても無罪となるものも皆無ではない。さらに有罪とされた者の中にも実際逃亡又は罪証隠滅により訴追を免れようなどとは夢想だにしない者も含まれているであろう。他方いわゆる在宅のまま起訴される者もいる。又保釈保証金を調達できないため権利保釈の権利を有しながら勾留を甘受しなければならない者も決して少なくはない。かようにして未決勾留自体は、必ずしも、捜査・審理のために必要不可避のものではなく、捜査・審理という「合目的的性のための手段であり一種の応急措置(eine Art Notbehelf)」に過ぎないものといわなければならない。従って未決勾留を捜査・審理のために必要不可避なものとして被告人の負担に帰せしめる実質的根拠は薄弱である 。(22)

自白事件よりも否認事件の方が審理期間は長くなる。検察官が証拠請求した証拠書類の取調べに同意しなければ、その供述者を公判廷で尋問することになるので、その分審理期間は長くなる。被告側の請求により尋問や鑑定が行われる場合も、その分審理期間は長くならざるをえない。審理に必要な期間は算入されないというのであれば、被告側は審理期間をできる限り短くしようとするだろう。検察官請求の書証に同意したり、弁護側の証拠請求を控えたりするだろう。そして、たとえ無実であっても、自白に転じようとする人がでてこないとも限らない。要するに、一部算入説は、刑事被告人に憲法上法律上の権利を放棄させる圧力として作用するのである。

“被告人の責に帰すべき事由により延長した勾留期間は算入しない”という考え

わが国においては、一部算入説だけではなく、「全部算入説」と呼ばれる論者も、被告人自身の責に帰すべき事由で勾留期間が伸びた場合はこれを算入しないと言っている(23) 。これに対して一部算入説に立つ谷口正孝判事がこう批判していた。

然し、この場合であっても、これを除外する論理上の必然性はないとしなければならない。被疑者、被告人に対し、犯罪に対する法律効果としての刑罰を超過する害悪を加うべき合理性がないことは、この場合であっても、同様であるからである。捜査、審理を遅延させたことにより生ずる勾留期間の延長は当然、被疑者、被告人において甘受すべしというのであれば、それは審理を遅延させたことに対する制裁を法によらずして科するにひとしい 。(24)

韓国憲法裁判所は、まさにこれと同じ考え方から、被告人の責に帰すべき事由によって増加した拘禁期間も含めて全期間を算入しないことは憲法に違反するとしたのである。

たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反するというべきである 。(25)


刑法21条は「全部」算入を規定している

「捜査・審理に必要な期間」がゼロということはあり得ない。そうすると、一部算入説に立つ限り未決勾留期間が全部刑期に算入されることはないことになる。刑法21条の「全部」という文言は死文と化する。これは刑法21条の明文に相反する解釈である(26) 。

谷口判事は「事後的に勾留の必要が勾留当時存在しなかったと認められる場合」とか「一部通算の結果残刑が極めて僅少であって、刑の執行の目的が無意味となるが如き場合」には全部算入されるべきだという(27) 。しかし、事後的に勾留の必要がないことが判明した場合は、勾留自体を取り消すべきであり(刑訴法87条)、未決勾留の本刑算入によって解消する問題ではない。また、勾留の必要がない場合というのは、無罪でなければ執行猶予か罰金になる可能性が高く、こうした場合にむしろ、未決通算を全くしないか、既に保釈されていて通算すべき未決勾留期間が少ないのが大半であって、これを理由に全部算入した例は皆無である(28) 。一部通算では「残刑が僅少」というのは、全部算入すればもっと残刑は僅少となるはずである。これは結局、算入の対象となる未決勾留の期間が宣告刑よりも長くなる場合に「刑に満つるまで」算入せよと言っているだけであり、むしろ「全部算入」が不可能な場合に他ならない。いずれにしても、残刑が僅少だから全部算入したという事例も皆無であり(29) 、一部算入説では刑法21条が死文化することに変わりはない。

逮捕留置期間が算入されないこと

一部算入説は起訴前の未決拘禁は無条件に「捜査に必要な期間」と考えるから、逮捕留置の期間(最大72時間=3日間)は当然に算入しない。この点は全部算入説も同じである(30) 。その理由は刑法21条が「未決勾留の日数」と言っているからであろう。しかし、逮捕と勾留で差別する理由はない。勾留という身柄拘束による害悪を最終的に被告人に負担させることが不合理であるならば、逮捕による不利益を被告人に負担させることも不合理であろう。無罪になった者に対してはその「抑留又は拘禁」すなわち逮捕留置期間を含む全未決拘禁期間に対して補償がなされる(憲法40条、刑事補償法1条)。有罪となった者に対する補償制度である未決算入において逮捕留置期間を除く理由はどこにもない。これは不合理な差別と言わなければならない。

刑法21条は「未決勾留の日数」と言っているのであるが、刑法の制定者がこの日数から逮捕留置期間を除く意思であったとは考えられないのである。そのことは、刑法制定の歴史的経緯を考えれば明らかである。刑法典が制定されたのは明治40年(1907年)である。その当時、現行刑事訴訟法(昭和23年(1948年)制定)はおろか、大正刑訴法(大正11年(1922年)制定)も存在しなかった。当時存在したのは明治23年(1890年)制定の刑事訴訟法である。この明治刑訴法には「逮捕留置」という概念が存在しなかったのである。被告人を逮捕した巡査らは「速ニ」司法警察官に被告人を引致することになっていたが(59条1項)、起訴権限のある検事に事件送致すべき期間の定めはない。検事から予審請求を受けた判事は被告人に召喚状を発して尋問するか、逃亡や罪証隠滅のおそれがあるときに勾引状を発して尋問する(69条、72条)。勾引状が執行されて引致されてきた被告人を尋問し、禁錮以上の刑にあたる罪を犯したと考える時に勾留状が発せられる(75条)。現行刑訴法の下で警察や検察の「持ち時間」と考えられているような「逮捕留置」期間に相当するような仕組みは刑法典制定当時には存在しなかったのである。

憲法と国際人権法

未決勾留日数の本刑算入を定めた刑法21条は「未決勾留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる」と言っているが、どのような方針や基準に基づいて算入するのかについて何も述べていない。『政府提案理由書』によれば、「全ク之ヲ判事ノ自由裁量ニ委スルコトトセリ」ということである(31) 。法はこれらの事項についてルールを作ることを最高裁判所や司法研修所などに委任してはいない。それは「判事ノ自由裁量」とした法の趣旨に反する。裁判員裁判においては、法の適用と量刑は裁判官と裁判員が対等の権限で評議して決めるべき事柄であるから、裁判員と裁判官の自由裁量というのが法の趣旨ということになる。最高裁や司法研修所には、算入方式を制定してこれを全国の裁判官や裁判員に適用することを求める権限などない。それは越権行為である。

刑法21条の解釈適用の指針とされるべきなのは、最高裁や司法研修所などの組織の定めた通達やルールではなく、また、大方の裁判官が依拠している「実務感覚」や「実務慣例」でもない。国民の量刑感覚などでももちろんない。現在のわが国の憲法秩序と法体系においてわれわれが依拠すべき解釈基準は、刑法より上位の法である憲法と国際人権法でなければならない。そして、刑法21条をいかに合理的に解釈してもこれら上位の法と整合しないというのであれば、刑法21条の全部または一部は無効とされなければならないのである。

昭和20年代の最高裁判例

最高裁判所は、日本国憲法が施行されて数年の間に一連の判決を通じて、刑法21条は未決拘禁期間を刑期に算入するかどうか、算入するとして何日算入するかを裁判官の裁量に委ねているのであり、そのことは新憲法下においても変わらないと宣言した。曰く、「原則として未決勾留日数の全部を本刑に通算するのが憲法の精神であるということは、憲法の何れの条規からも推論し得ない」(最大判昭23・4・7刑集2-4-298、302頁);「刑法21条は、未決勾留日数の全部又は一部を本刑に算入することは、裁判所の任意であることを規定している。***新憲法下においても、右刑法規定を所論のように必ず算入することを要するものと解すべき理由はない」(最1小判昭24・2・17集刑7−419、420頁);「刑法21条は、裁判所に対し諸般の事情を参酌してその勾留日数の全部又は一部を本刑に算入することを許容するに過ぎない。そして、その法理は新憲法下においても毫も変更を認めることはできない」(最1小判昭24・10・13集刑14-187);「憲法36条にいわゆる残虐な刑罰とは不必要な精神的肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰を指称すること当裁判所の判例とするところであって原判決が未決勾留日数を本刑に通算しないことが右にいわゆる残虐な刑罰に当たらないこと亦明らかである」(最3小判昭26・2・27刑集5-4-475、476頁)。

しかし、これらの判例は単に結論を述べているだけであり、理由と呼べるようなものをほとんど述べていない。憲法のテキストとその背後にある歴史や政策についての洞察を展開した判例は存在しない。これは上告趣意があまりにも簡潔であるために (32)、最高裁もそれに対して短く応答せざるをえなかったのかもしれない。

いずれにしても、憲法施行から70年が経過し、その間に、世界人権宣言を採択した国連に加盟し、国際人権規約を批准し、主要先進国(G8)の一員として国際社会において責任ある地位にある現在のわが国の憲法判例としてふさわしいとはとうてい思えない。少なくとも、現代の人権論とりわけ国際人権法の観点からこれらの先例には見直しが必要である。これらの先例は、われわれ21世紀の日本の法律家が「これがわが国の憲法判例だ」と国際社会に胸を張って語れるような内実を備えているとはとうてい思えない。単なる惰性で「一部算入説」に寄り添い続けるのは、法曹としての堕落以外の何ものでもない。

韓国憲法裁判所の判決

韓国刑法57条1項は「判決宣告前の拘禁日数はその全部または一部を有期懲役、有期禁固、罰金もしくは科料に関する留置または拘留に算入する」と定めている。日本刑法21条と異なり、「拘禁日数」を算入する点及び必ず算入しなければならないとする点で違いがあるとはいえ、条文上一部算入を肯定している点は同じである。韓国憲法裁判所は、2009年6月25日、未決拘禁の日数は憲法上全部算入しなければならないのであり、刑法57条1項の「または一部」という部分は違憲無効であると判示した(33) 。この違憲判決によって、韓国では未決拘禁期間は全部刑期に算入されることになった。この判例はわが国の未決算入制度と憲法・国際人権法との関係を考えるうえで、極めて示唆に富むものである。

韓国憲法裁判所は、同国憲法が規定する適法手続条項(34) と立法限界条項(35) から、「法律による刑罰権の行使であるといっても、身体の自由の本質的な内容を侵害し得ないだけでなく、比例の原則過剰立法禁止の原則に反しない限度内においてのみその適正性と合憲性が認められる」とした。そして、同裁判所は、同国憲法27条4項が規定する無罪推定原則(36) は、単なる証拠法上の規定ではなく、「捜査手続から公判手続に至るまで刑事手続の全過程を支配する指導原理として、人身の拘束自体を制限する原理として作用する」という。

有罪の確定判決があるまで、国家の捜査権はもちろん、公訴権、裁判権、行刑権等の行使において被疑者または被告人は無罪と推定され、その身体の自由を保障しなければならないという無罪推定の原則は、人間の尊厳性を基本権秩序の中心として保障している憲法秩序内において刑罰作用の必然的な羈束原理になるばかりでなく、このような原則が制度的に表現されたものとしては、公判手続の立証段階において挙証責任を検事に負担させる制度、保釈および拘束適否審等の人身拘束の制限のための制度、そして被疑者および被告人に対する不当な待遇の禁止等がある。

そうして、この適法手続条項(比例の原則と過剰立法禁止)と無罪推定原則(有罪確定前の身柄拘束の制限)から、未決拘禁の通算が憲法上の要請として求められるのである。

捜査の必要上または裁判手続の進行上不可避に被告人を拘禁するとしても、このような未決拘禁は無罪推定の原則にもかかわらず身体の自由という重要な基本権を制限するものであるから、先に見たように適法手続の原則により身体の自由の本質的な内容を侵害し得ないだけでなく、過剰禁止原則に反しない正当な限度内に制限すべきである。

さらに被疑者や被告人が上のような国家の刑事訴訟的必要によって適法に拘禁されたとしても、未決拘禁は被疑者または被告人の身体の自由を剥奪している点で実質的に自由刑の執行と類似するので、無罪推定の原則によりその拘禁期間に対する正当な評価と補償がなされなければならない。すなわち、拘禁された被告人が無罪判決を受ける場合、刑事補償法等によって未決拘禁日数による金銭的補償を受けることができ、有罪判決を受ける場合には未決拘禁日数を本刑に通算することになる。

濫訴や訴訟遅延行為を予防するために被告人の責に帰すべき事由によって裁判が遅延した場合には未決算入をしないことができるという主張に対して、法廷意見は次のように反論している。

刑事訴訟手続上の事由によって左右される拘禁期間の長短を被告人の帰責事由に正確に対応させることも容易ではないばかりか、たとえ拘束被告人が故意に裁判を遅延させたり不当な訴訟行為をしたとしても、これを理由に未決拘禁期間のうちの一部を刑期に算入しないのは処罰されない訴訟上の態度に対して刑罰的要素を導入して制裁を科するものであって、適法手続の原則および無罪推定の原則に反するというべきである。
***
被告人の上訴権は憲法第27条の裁判請求権に含まれる被告人の正当な権利として憲法第37条第2項の比例の原則によってのみこれを制限し得るところ、刑法第57条第1項部分が上訴提起後の未決拘禁日数の一部が法院の裁量で算入されないようにして被告人の上訴意思を萎縮させることをもって濫上訴を防止しようとするのは、立法目的達成のための適切な手段であるということはできない。
すなわち、刑事裁判において人身が拘束され、検事に比べて不利な状態にある被告人としては、裁判手続で自分に有利な弁論や証拠申請をしようとしても、上の刑法第57条第1項部分のせいで正当な証拠申請を諦めることもありうる。***原審判決に不服がある拘束被告人が、上訴審で未決拘禁日数のうち一部のみが算入され、事実上拘禁期間が延長される不利益を被らないために上訴を躊躇することにもなり得る。これは結局、濫上訴を防止するという名目で、むしろ拘束被告人の裁判請求権や上訴権の適正な行使を阻害することになるのである。
***拘束の目的は刑事訴訟手続の実効性、すなわち適正な事実調査および訴訟手続での出席確保と判決後の刑罰の執行を担保しようとすることにあり、このような目的以外の他の目的を追求することは許されない。それゆえ被疑者や被告人が拘束された状態を利用して訴訟の遅延や濫上訴の防止という司法運営上の目的を達成しようとするのは拘束制度の本来の目的に符合しないというべきである。

無罪推定の権利、適法手続の保証

わが国の憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定し、適法手続の保障を明言している。この規定によって罪刑法定主義――国会が制定した明文の法律によって宣言された犯罪とそれに対応する刑罰によるのでなければいかなる刑罰をも科せられない――が保障されることは明らかである。さらに、憲法34条が正当な理由のない身体拘束を受けない権利を保障しており、わが国においても、比例原則や身体不拘束原則が保障されていることも明らかであろう。

日本国憲法には無罪推定原則を定めた明文規定はない。しかし、国連が採択した世界人権宣言11条1項は「犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律にしたがって有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する」と定めている。そして、わが国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約14条2項は「刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する」と定めている。この国際人権法上の無罪推定の権利は、単なる証拠法上のルールではなく、有罪の裁判が確定する前に官憲が個人を犯罪者として扱うことを禁止しようとする規定である(37) 。過剰な未決拘禁が人権規約14条2項に違反するとされた例もある(38) 。条約と確立した国際法規の誠実順守を宣言する日本国憲法(98条2項)の下において、これらの権利は憲法と同等の法的拘束力をもつというべきであり、これに違反する法律や官憲の処分は無効とされなければならない。

日本国憲法40条は、裁判の結果無罪とされた者に対してその受けた未決拘禁に対する補償を受ける権利を規定している。これは無罪の場合は刑期に算入する仕方で未決拘禁に対する補償をすることができないので、別途金銭による補償が必要であることを憲法上の補償として明記したものである。韓国憲法裁判所が指摘するように、無罪推定原則と法定手続の保障の趣旨からすれば、無罪の者に対して刑事補償をするのと同じように有罪の者に対しても未決拘禁に対する補償をしなければならないのである。

結論

日本国憲法の施行から70年が経ち、日本が国連に加盟して60年が経ち、人権規約を批准して40年が経った。現代においてこの国の圧倒的多数の裁判官は、「被告人が犯罪を犯し、このような事態を招いた以上当該事件の捜査・審理に通常必要な身柄拘束は甘受すべきである」 (39)などという単純素朴な感情論にしたがって、未決拘禁期間の全部算入を拒み続けている。そして、法令上の根拠がまるでないにもかかわらず、算入の計算式を勝手に作り、それを、刑事裁判における対等の判断者であるはずの裁判員に一方的に押し付けようとしている。

未決拘禁は被疑者被告人が招いたものでもなく、罪を犯した結果とも言えないことは、先に引用したとおり、中島卓児裁判官が60年前に指摘したとおりである。彼の言葉をもう一度引用しよう。

犯罪の法律的結果は刑罰である。そして未決勾留は、断じて刑罰ではない。従って有罪と認定された者に対しては刑罰を科すれば足りる。かような者に加えられた未決勾留は過剰な害悪といわなければならない。国家はかような害悪に対し補償をなすべきである 。(40)

現代の裁判官の単純素朴な感情論の起源は何か。それも既に論じた。横川敏雄裁判官の戦前の論稿が雄弁に語っているもの、それこそが起源である。

***不幸犯罪の嫌疑に問はれたるものも、自ら国家の要員たる光栄と義務に徹し、夢寝にも、国家の要請、司法の使命が奈辺に存するかを忘るゝことなく、被疑者又は被告人として、なし得る限度に於て、すゝんでその行動に協力し、以て、共々「正しき刑罰権」の実現を期するべきである 。(41)


刑事被告人として国家から訴追されている個人に対して、訴訟当事者として防御の権利を付与するのではなく、崇高な国家目的に進んで協力し犠牲となることを求める、そうした国家観が、現代のわが国の裁判実務を支える「公平の理念」の正体なのである。

【注】
(1) 「起訴後の勾留日数−{30+10×(公判期日の回数−1)}」。司法研修所『刑事第1審公判手続の概要(解説)(平成19年版)』92-93頁。

(2) 例えば、「起訴後の未決勾留日数−(仝判前整理手続の定型的審理必要期間[自白事件では40日ないし60日程度。一般的な否認事件では80日ないし90日程度]+公判期日の日数)」。芦澤政治「第1審における未決勾留日数の本刑算入の在り方」『植村立郎判事退官記念論文集:現代刑事法の諸問題(第2巻)』(立花書房2011)19、38頁。

(3) 中島卓児『勾留及び保釈に関する諸問題の研究』司法研究報告書第8輯第9号(司法研修所1957)、470頁以下。

(4) 仲戸川隆人「未決勾留日数の算入について――全部算入説への展開」『小野慶二判事退官記念論文集:刑事裁判の現代的展開』(勁草書房1988)、59頁以下。

(5) 大韓民国憲法裁判所2009年6月25日判決(山本宜成訳)。原文及び英訳は韓国憲法裁判所のウェブサイトで読める。山本宜成氏による全訳は、同判決を解説するものとして、石田倫識「未決勾留日数の全部算入――韓国憲法裁判所の違憲決定を手がかりに」季刊刑事弁護61-113(2010)。

(6) 谷口正孝「未決勾留日数の本刑通算」河村澄夫・柏井康夫編『刑事実務ノート(第2巻)』(判例タイムズ社1969)、256、264頁;芦澤・前注2、23-24頁。

(7) 松尾浩也増補解題『増補刑法沿革総覧』(信山社1990)675-676頁。強調は引用者。

(8)中島・前注3、463頁。

(9)同前、463-464頁。

(10)谷口・前注6、262頁;

(11)小林充「未決勾留日数の本刑算入の基準」『岩田誠先生傘寿祝賀――刑事裁判の諸問題』(判例タイムズ1982)、98、105-106頁

(12) 谷口・前注6、264頁;小林・前注、106-107。

(13)谷口・前注6、264頁。強調は引用者。

(14)横川敏雄「刑事裁判に於ける二・三の基礎的問題に就いて(5)」法学志林45-12-936(1943)。

(15)同前、943頁。旧漢字を当用漢字に改めた(以下同じ)。

(16) 同前、944-945頁。

(17) 同前、946-947頁。

(18) 同前、948-951頁。強調は原文。

(19) 同前、951頁。強調は原文。

(20)例えば、「臣民ハ絶対ニ、無限ニ、国権ニ服従ス。此ノ完全ナル服従アルカ故ニ、亦完全ナル保護ヲ受ケ、完全ナル保護アルニ由リテ権能ノ享有ヲ全ウスルコトヲ得ルナリ。権力ナケレバ服従ナシ、服従ナケレバ保護ナシ、保護ナケレバ権能ナシ」。穂積八束『憲法提要』(有斐閣、修正増補5版、1935年)201頁。

(21) 小林・前注11、106頁。

(22) 中島・前注3、461-462頁。

(23) 中島・前注3、472-475頁;仲戸川・前注4、71-72頁。

(24)谷口・前注6、262-263頁。

(25)前注5の大韓民国憲法裁判所2009年6月25日判決。

(26)中島・前注3、471頁。

(27)谷口・前注6、265−266頁。

(28) 仲戸川・前注4、66頁。

(29)同前。

(30)中島・前注3、475頁。

(31) 松尾・前注7、2133頁。

(32)昭和23年大法廷判決の上告趣意は「原則として未決勾留日数の全部を本刑に通算するのが憲法の精神なりと思う」というだけである。刑集2-4、302頁。昭和24年の二つの判決の上告趣意も同様に新憲法の精神を語るだけで、憲法の具体的な条文を引用すらしていない。集刑7、423頁;集刑14、189-190頁。昭和26年判決の上告趣意は、憲法11条と36条を引用するだけで、根拠を示して解釈論を展開することもしていない。刑集5-4、477頁。

(33) 前注5の韓国憲法裁判所2009年6月25日判決。

(34)憲法12条1項後文「何人も法律によらなくては逮捕・拘束・押収・捜索または尋問を受けず、法律と適法な手続によらなくては処罰・保安処分または強制労役を受けない」;同条3項「逮捕・拘束・押収または捜索をするときは、適法な手続により検事の申請によって裁判官が発付した令状を提示しなければならない」。

(35)憲法37条2項「国民の全ての自由と権利は国家安全保障・秩序維持または公共の福利のために必要な場合に限り法律で制限することができ、制限する場合にも自由と権利の本質的な内容を侵害することができない」。

(36) 憲法27条4項「刑事被告人は有罪の判決が確定するまでは無罪と推定される」。

(37)規約人権委員会の一般的見解General Comment 13/21 §7(1984).

(38)Cagas et al. v. The Philippines, No. 788/1997, §7.3.

(39)和田真「刑事訴追に必然的に伴う負担と量刑」判タ1269-84(2008)、88頁。強調は引用者。

(40)中島・前注3、464頁。

(41)横川・前注14、951頁。



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2013年03月02日

ある人がある犯罪を行った犯人ではないかと信じる相当の根拠(相当の嫌疑probable cause )があるならば、その人を逮捕することは正しい。相当の嫌疑があれば裁判官は逮捕状を発行すべきだし、その令状に基づいて警察官が個人を逮捕することは極めて正しい。あとでその人が犯人ではないことが分かって不起訴になったり、裁判で無罪になったりしても、だからと言って遡って逮捕が間違いだったということにはならない。こうした場合に「誤認逮捕だ」と言って警察を批判するのは、逮捕という制度の目的と機能を無視した議論であり、誤りである。

逮捕というのは政府が個人を訴追するための手続の1つに過ぎない。個人を刑事司法のシステムに乗せるためにその個人の身柄を確保して裁判官の前に連れて行くというのが逮捕の意味である。何のために裁判官の前に連れて行くのか。それは、第1に政府が個人に訴追の用意があることを知らせるためであり、第2にそれに対する個人の弁解を聞くためであり、第3にその逮捕が相当の嫌疑に基づく正しいものだったのかを審査するためであり、そして第4に、その個人を身体拘束すべきか釈放すべきかを決定するためである。

要するに、逮捕は刑事訴追のスタートであって、ゴールではないのである。逮捕された個人(被疑者)のうちにその後の手続の過程で刑事訴追の対象から外され、無罪放免される者がいることを前提としているのである。実際問題として、逮捕をゴールとすることには無理がある。警察には強力な捜査権限が与えられているが、それでも彼らに無罪の証拠を含むあらゆる証拠を収集し、かつ、それらを公正無私な視点から冷静に評価して被疑者が有罪か無罪かを正しく判断する、などということを期待することはできない。そのようなことができる人間はそもそも存在しない。捜査――証拠の収集――というものは、人間がやる以上、一定の仮説に立ってそれに沿うものを探すということにならざるを得ない。被疑者の言い分を聞く前に無罪方向の証拠を集めろなどというのは無理な注文である。また、警察が集めた証拠の中に無罪を示す証拠があったとしても、逮捕状を請求する段階でそのことに気がつかない警察官を無能であるとか、一方的であるなどといって非難することはできない。人間はそれほど万能ではない。

逮捕は個人を刑事システムに正式に乗せるために被疑者を裁判官の前に連れてくる手続きである。被疑者を受け取った裁判官はここで最初の重要な選別を行わなければならない。すなわち、被疑者には刑事訴追を行うに足りるだけの「相当の嫌疑」があるのか、これがあるとして、刑事裁判を適正に行うために彼/彼女の身柄を拘束すべきなのか、を決定する仕事である。ここの場面で、欧米の実務と日本の実務は大きく異なる。

欧米とりわけコモンロー系諸国(英米やカナダ、オーストラリアなど英連邦諸国)では、この手続は公開の法廷で行われる。逮捕された被疑者は速やかに――通常は24時間ないし48時間以内に――公開の法廷に連れて来られなければならない。この手続をイニシャル・アピアランス(initial appearance最初の出頭)という。この法廷には検察官と弁護人が立ち会う。検察官は逮捕が相当な嫌疑に基づくことを示す警察官の宣誓供述書などを裁判官に提出する。そのうえで、嫌疑の内容が告げられる。被疑者は弁護人の助言を得ながら、嫌疑に対して答弁をする。答弁の内容は「有罪」(guilty)か「有罪ではない」(not guilty)である。検察官が反対しない限りここで保釈が決定される。双方が提出した資料と弁論に基いて裁判官が保釈金や条件(定期的に一定の場所に出頭するとか、「被害者」宅の何メートル以内に近づかないとか、GPS装置を装着するとか)を設定して、保釈を決定する。お金のある人は即金で保釈金を納めて釈放される。お金のない被疑者は、裁判所の近くにある保釈金立替業者(bondsman)に手数料を払って保釈金を立て替えてもらう。手数料すら用意できない被疑者は拘束されることになる。アメリカやイギリスの統計によると、重罪で逮捕された被疑者の7割以上が逮捕から48時間以内に釈放される。

「相当の嫌疑」に疑問を感じている被疑者は、予備審問(preliminary hearing)という公開審理手続を開いて検察官に相当の嫌疑の存在を証明することを要求できる。検察官は証人を呼んで相当の嫌疑を証明しなければならない。弁護人は検察側の証人を反対尋問することができる。この審問は陪審ではなく裁判官だけの法廷で行われる。裁判官が被疑者を訴追して公判手続を行うのに充分な嫌疑がないと判断すれば、この段階で公訴は棄却される。

被疑者が保釈によって釈放されるべきではない――逃亡するおそれがあるとか、証人予定者に危害を加える可能性があるので勾留すべきである――と考える検察官は、そのための審問手続(detention hearing勾留審問)を要求して、被疑者の勾留をすべき理由を証明しなければならない。公開の法廷で証人尋問が行われる。この審問が行われて勾留されるのは、死刑や終身刑が予想されるような極めて重大な事案に限られる。
要するに、英米では逮捕された被疑者の多くは、数日以内に釈放され、それまでと変わらない社会生活を送ることができる。家族とともに生活し、仕事を続けながら、刑事裁判に臨むことができる。名実ともに逮捕は刑事システムのスタートに過ぎず、ゴールではない。「有罪判決を受けるまでは無罪と推定される権利」が実質的に保障されたシステムだといえる。たとえ警察が無実の人を逮捕したとしても、彼女の悲劇は1日か2日で終わる。裁判で有罪になるまではそれまでと変わらない生活を送れるのだ。

日本ではどうか。日本でも逮捕された被疑者はやや長いが一定の時間(72時間)以内に裁判官の下に連れて行かなければならないことになっている。しかし、そこで釈放される被疑者ほとんどいない。逮捕された被疑者の99%以上がその後20日間身体拘束されることになる。この審査は公開されない。弁護人も立ち会わない。証人尋問も行われない。検察官が用意した書類を読んだ裁判官が裁判所の一室で被疑者と5分くらい面談して勾留を決める。保釈も認められない。すなわち、日本では、お金持ちも貧乏人も、一旦逮捕されたら最低20日間は社会から隔離されることになる。

勾留された個人のうち正式に訴追されるのは6割弱である。起訴されると制度上は保釈の権利が与えられている。しかし、起訴と同時に保釈される人は殆どいない。それどころか、起訴されて1年たっても2年たっても保釈されない人が8割以上いる。この保釈の審査も非公開の書面審理である。裁判官は検察官が送ってきた書類にざっと目を通すだけで――被告人の顔を見ることもなく――「被告人には罪証を隠滅すると疑うに足りる相当の理由がある」と判断して被告人の保釈請求を却下するのである。

こうして、この国で逮捕された個人の多くは、家族から切り離され、仕事を失い、人生における時間を奪われる。日本でもアメリカでもイギリスでも、逮捕は罪を犯したという「相当の嫌疑」を根拠として行われる。それは個人を刑事司法のシステムに乗せるための手続に過ぎない。逮捕は刑事システムのスタートにすぎない。決してゴールではない。この点も同じである。ところが、日本の現実では刑事システムの始まりは人生の終わりなのである。ここに日本における「誤認逮捕」問題の深刻さの根源がある。

「誤認逮捕」問題の根源は警察や検察にあるではない。「誤認逮捕」問題を作っているのは裁判官なのである。公開の法廷で検察官に勾留の要件を証明させることをせずに、捜査書類を読むだけで勾留状を発行する裁判官。保釈を権利として保障している法律や国際人権規約の条文を無視して「罪証隠滅のおそれ」という曖昧な例外規定を極限的にゆるやかに解釈する裁判官。検察官の言いなりに接見禁止決定を乱発する裁判官。こうした現代の裁判官たちが「誤認逮捕」問題を作っているのである。

彼らはその気になりさえすれば、英米の勾留審問や予備審問と同じように、勾留審査や保釈審査のために公開の法廷で証人尋問をしたり、被告人や弁護人の意見陳述を聞いたりすることができる。刑事訴訟法や刑事訴訟規則にはそれを認める規定がある。誰もそれを違法だと言って止めることはできないはずだ。ところがそれをやろうという裁判官は日本には一人もいない。周りの裁判官がやらないから、自分もそれをやらない。こうした小役人的な官僚裁判官しかいないことが「誤認逮捕」問題の根源的な原因なのである。


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2011年06月10日

【三行半・三下半】江戸時代、簡略に三行半で書いたからいう、夫から妻に出す離縁状の俗称。(広辞苑第3版)

最高裁から薄い封筒が届いた。
「ああ、やっぱりね。ちょうど2週間じゃねえか。予想通りだ!」
と嘯いてみたものの、胸の奥の方で小さな筋肉が収縮するのを感じる。顔の表面がざわざわする。

確かにこれは今まで何百回も繰り返してきたことである。しかし、毎回毎回何がしかの期待を抱き、ダメに違いないと思い、けれど、「もしかして」と期待する。そして、結局ダメなのだ。

クリニックの学生と一緒に何日もかけて調査をし、議論を重ねて、睡眠時間を削って、精魂込めて書いた特別抗告申立書に対する最高裁判所第1小法廷の返事は、ワン・センテンスであった。
「……所論引用の判例は事案を異にするもので本件に適切でなく、憲法違反の主張は、実質は単なる法令違反の主張であって、刑訴法433条の抗告理由に当たらない。」

原決定は、刑訴法89条1号と4号は合憲であると判断した。そして、われわれはこれらの条文の立法の経緯を詳しく調べ、その立法目的からしてとうてい憲法が容認しうるような自由制限規定ではなく、憲法34条に違反すると主張した。イギリスの類似の規定を人権条約違反としたヨーロッパ人権裁判所の判例も引用した。同じ文言の自由権規約9条3項に違反するとも主張した。どうしてこれが「単なる法令違反の主張」なんだろうか。

毎度のことながら最高裁の三行半決定には心の底から怒りを覚える。この怒りは何に対してなんだろうか。最高裁判事の知的不正直に対して。彼らの「自由」というものへの不感症ぶりに対して。彼らの税金の無駄遣いに対して。彼らの無能に対して。

アメリカ連邦最高裁の9人の老人は、1人の浮浪者が刑務所の図書館で鉛筆で便箋3枚に書いた申立てに答えるようにと、フロリダ州知事に督促し、浮浪者のためにニュー・ヨークの著名な弁護士を国選弁護人に選任して口頭弁論を開いた。そして、40ページの憲法解釈論を書いて、刑事司法の歴史を作った。

日本の最高裁の老人たちは、私とロースクールの学生が何日もかけてパソコンで書いた23頁の申立てに対して、まるで暑中見舞いに対する返事のように、三行半の一文を送ってきた。

これでは才能のある人が刑事弁護から去ってしまい、変わり者か閑人だけしかこの業界に残らなくなってしまうだろう。

もう20年以上こんなことをやってきたが、あと何年やれるんだろうか。
【2005年10月5日記】


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2008年08月14日

私:「共犯者とされるAは私の依頼人に敵対する供述をしており、弁護人もいますから、彼に働きかけて自分に有利な供述をさせるというのはあり得ないでしょう。」
裁判官:「……」
私:「BとCにも弁護人がついています。しかも、彼らの供述と被告人の供述とは矛盾しません。」
裁判官:「……」
私:「ですから、被告人が関係者に働きかけて口裏を合わせるというのは非現実的な話です。」
裁判官:「……しかし、それ以外の誰かと口裏を合わせて有利な話を作出する可能性はあるんじゃないですか。」
私:「一体誰とどんな話をすると言うんですか?」
裁判官:「(保釈を却下するために)そこまでの具体性は要求されないでしょう。」
私:「空想は自由です。しかし、『罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由』があるというためには、単なる可能性ではなく、少なくとも具体的な事実の蓋然性が必要なんではないでしょうか?」
裁判官:「……」

何度も繰り返された不毛な対話である。保釈担当裁判官と面接していると、習い初めの外国語で会話しているようなもどかしさを感じる。同じ法律で飯を食っている同じ国の法曹同士の会話とはとうてい思えない。

わが国は、「無罪と推定される権利」を保障し、「裁判に付される者を抑留することが原則であってはならな[い]」と定めている国際人権規約を批准したはずである(自由権規約9条3項、14条2項)。日本国憲法は「正当な理由」がないかぎり何人も拘禁されないと宣言したはずである(憲法34条)。そして、刑事訴訟法は、刑事被告人に保釈の権利を与えたはずである(刑事訴訟法89条)。

しかし、多くの被告人が拘禁されたまま裁判を受けることを強いられている。勾留されたまま起訴された被告人のうち保釈が認められるのは15%ほどに過ぎない。しかもこれは、有罪を認めている被告人を含み、かつ、裁判が終わるまでの全過程のどこかで保釈が認められた場合を含む割合である。無罪を主張する被告人が保釈を認められることは非常に珍しいし、公判開始前にそれが認められることなど皆無に近い。公刊されている司法統計には保釈が認められた時期や否認・自白の種別に関する数字はない。しかし裁判所にはこれらに関する資料があるようである。内部の資料によったと思われる裁判官の論文によると、罪を否認する被告人が保釈される割合は12%である。そして、第1回公判前に保釈される割合は4.4%である(松本芳希「裁判員裁判と保釈の運用について」ジュリスト1312-128、140(2006))。

この現状は、要するに、保釈制度が自白強要の装置に他ならないことを示している。捜査官は被疑者に向かって「認めないといつまでも出られないぞ」と脅迫して自白を迫る。これは嘘でもはったりでもない。現実の保釈裁判の有り様を正確に述べているにすぎない。他人の犯罪行為を知りながらそれを容認し手助けする人は、たとえ自ら直接犯罪の実行行為を行わなくとも正犯と同じ責任を負う。この共謀共同正犯の理論に依れば、全ての保釈裁判官は自白強要の共犯者に他ならない。

30年くらい前には半分以上の被告人に保釈が認められていた。私が弁護士になって間がないころ、保釈にこんなに苦労したという記憶はない。弁護士会館の売店には、委任状の用紙などと並んで、50枚綴りの保釈申請用紙が売られていた。そこに被告人の名前と罪名を記入して出せば、保釈はたいてい認められた。司法統計に依れば、1970代初頭には約6割の被告人に保釈が認められていた。年を追うごとに保釈率は下がり2003年には13%を割った。最近ほんの少しだけ持ち直した。「保釈申請書用紙」はいつのまにか売店から姿を消した。

現代の裁判官が保釈を拒否する最大の拠り所は、保釈の権利を例外的に制限することをみとめた「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」という条文(刑事訴訟法89条4号)である。しかし、驚くべきことに、この条文はもともと保釈が緩やかに認められることを目指して提案されたものなのである。

1948年夏に政府が提出した刑事訴訟法改正案の89条4号は「被告人が罪証を隠滅する虞があるとき」となっていた。これに対して衆議院で異論が出された。たとえば衆院司法委員会では次のようなやり取りがなされた。

「中村俊夫委員 ***私が最もおそれるのは、やはりこの『被告人が罪証を隠滅する虞あるとき。』という場合です。というのは、御承知の通りこの改正では被告人の黙秘権を強く認めております。從つて今より否認事件が続出してくるだろうということが想像されるのです。そうすると今までの取扱いは事件を否認するものは絶対に保釈を許してくれませんでした。それとこの第四号とは相結んで被告人が罪証を隠滅するおそれがあるということにして、許されないようになりはしないか。それから第四号は、そういう簡單な言葉になつておるのですが、保釈の取消しの場合に、九十六條の被告人が逃亡したとき、逃亡もしくは罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき取消すことができるいう意味の規定は、四号を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があると保釈を許さないという規定にする。ここにこういう規定がむしろ必要であつて、その方が取扱い方が丁寧じやないかと考えられるのですが、この点について重ねて政府の御意見を承りたいと思うのであります。***
野木新一政府委員 ***なるほど八十九條第四号におきまして、被告人が罪証を隠滅するおそれがあるときは必ずしも保釈を許さなくてもいいという建前になつておりまして、この運用のいかんによつては、保釈ということはほとんどなくなるだろうという御心配も一應ごもつとものように存じますが、刑事訴訟法の應急措置法の施行された後においては、格別八十九條のような規定がなかつたわけでありますけれども、すでに保釈に対する裁判官の考え方が大分違つておりまして、昔よりも保釈の数がずつと殖えている。從いまして、今度この案によりまして、八十九條のような規定がおかれまするならば、『罪証を隠滅する虞があるとき。』という解釈も、実際の適用面におきましては、ずつと今までと違つてきまして、現行刑事訴訟法当時のような運用には万々なることはないのではないかと思つておる次第であります。」(昭和23年6月21日第2回国会衆院司法委員会議事録37号)

「榊原千代委員 ***第八十九條の第四号『被告人が罪証を隠滅する虞があるとき。』という規定でございますが、これは裁判官の主観的な判断によるものでございましようか。お伺いいたします。
野木政府委員 判断は主観的と申しましようか、裁判官が判断することになるわけでありますけれども、その判断は少くとも合理的でなければならない。その資料とするところのものは、だれが見てもその資料に基けば大体罪証を隠滅すると認められる場合というような場合でありまして、そういう場合においてはある意味で客観的と申せるかと思います。」(昭和23年6月24日第2回国会衆院司法委員会議事録40号)

このように、議員たちは「罪証を隠滅するおそれ」という表現では否認事件では保釈が認められないというような運用になってしまうことを恐れた。これに対して提案者である政府当局は、「罪証を隠滅するおそれ」というのは、「誰が見ても大体罪証を隠滅すると認められる」場合のことであって、心配はないと言ったのである。

しかし、議員たちは政府委員の答弁に満足せず、超党派の修正案を提出して89条4号を「***と疑うに足りる相当な理由があるとき」と改めた。提案者の一人である鍛治良作議員(弁護士)は提案理由をこう説明している。

「***この虞れありというだけでありますと、あらゆる場合が含まれますので、これを理由に保釈を拒絶せられることが多いと考えましたので、でき得るだけこれを嚴格に定むべきものだと考えまして、『隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき』と改めて、相当な理由を明示し得るとき、または明示するにあらざれば拒否できないということに改めたのであります。」(昭和23年6月30日衆院司法委員会議事録46号)

この修正案が可決採択されて、現行法の条文となった。それからちょうど60年を経て、裁判所の保釈面接室で弁護人と保釈裁判官との間で冒頭のような対話がなされているのである。

学者はよく「新刑事訴訟法は定着し運用は安定している」などと言う。

立案当局が「誰が見ても罪証を隠滅するとき」以外は保釈は認められるから大丈夫と言った条文をさらに厳しく修正して、「相当な理由を明示するにあらざれば拒否できない」ようにするべく定められた条文が、いつのまにか、誰がどんなことをするとは具体的には言えないが、とにかく証拠隠滅の可能性があると感じれば裁判官は保釈を拒否して良いという根拠になってしまった。これを「定着」と言い、「安定」というのならば、どんな法律でも定着し安定する以外にないであろう。


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