March 09, 2008
随想/『他者意識に関するブログを題材とした考察』
[0]
他者を100%無視する。他者の言うことは聞かない。
「他人に極めて厳しく自分に甘く」
そういった考えの立場を僕は取っているが、これに対する「ブログ」というものはどうなのであろう。日記だが他者が見られるという点で立場に反してはいないだろうか。
この意見は全く的外れではない。
確かに、ネットではなくメモ帳にだって日記は書ける。
ネットに載せている時点で他者意識は少なからず内面に生じているということになる。
しかしブログというものは日常に比べたら相対的に随分非公式な形式である。
[1]
日常的な他者意識、つまり一般の他者意識――普段僕が批判しているものであるが――は、いわゆる多種多様な肩書きである。学歴、企業名、偏差値、収入、権力、ブランド、資格、さらに日常的なレベルに落とせば、結婚しているという肩書き、自家用車を持っている肩書き、マイホームを持っている肩書き、実家が金持ちという肩書きなどなど、ありとあらゆる肩書きが存在し、大きく見れば細かいことにさえ肩書き、すなわち他者意識性が見受けられるのである。例えば僕が今現在Win98を使用しているといったとき、友達がせせら笑ったとしよう。たとえそれが場の空気で笑ったとしても、冗談で笑ったとしても、そこには10年前の古臭い機種を使っているというレッテルが貼られているのである。そういうとたいそう大袈裟に聞こえるかもしれないが本質は同様なのだ。レッテルは肩書きの裏返しである。人が人を差別していないと認識する無意識の領域にさえレッテルや肩書き、つまり他者意識は存在している。
とにもかくにも他者と関わるだけで他者意識は生じてしまう。日常は他者で溢れている。ゆえに日常は他者意識とはどうしても切り離せない不可分な形式なのだ。
「他人に極めて厳しく自分に甘く」という言葉は五味太郎師の語録の一つであるが、これはそういった他者意識を木っ端微塵に吹き飛ばし、全て自分で考え行動し経験し責任も負うという独善の道を示していると僕は解釈している。生きて生活していく以上不可分である他者意識、それをなぎ倒すのである。これを僕は、孤立ではなく他者孤立と表現したい。
自然と他者から隔絶されていってしまう孤立に対し、他者意識を圧倒するのは、絶えず他者と関わり日常と格闘し日々自分で考え続け多様な経験をし、その経験のフィードバックから地道に辿り着くべき境地なるものに近いからである。これは単なる独りよがりではない。他者への愛を持ち、自己の中に道徳を築き、綺麗で堅固な論理体系を持つ――自分が孤立するというより自分が独立した一人の人間であるという他者を孤立させた状態といえる。
人は不思議なものである。多くの人間は、他者意識が強い。それは小さい頃から受け続けた教育や社会風潮といったものに培われてしまったのだろう。
人より優れ、出来るだけ高く。出来るだけとはいわない、あとちょっとで一段階上にいけるのだから頑張りなさいといわれてきたのだ。努力は競争を生む。気付かないうちに、人は受験でより上の大学へ、就職活動でより上の企業へと急かされている。そういう社会では他者意識が強くなるのが当たり前である。
だが、どうだろう。例えば僕が大企業の御曹司だとして、道端ですれ違った人にとってはそんなことは極めてどうでもいいことなのだ。そればかりではない、たとえ知り合いであっても、いや友達であってでさえ、結局は他人でありどうでもいいという結論に導かれるのである。
大衆、他者の集団は、”わたし”に無関心である。しかし”わたし”の中には他者意識が強く芽生えているのだ。他者が自分に興味がないのに、自分は他者を大いに気にしているのだ。文面でとらえればその不一致はあまりに明白で愚かに見えるが、実際多くの人の実情なのである。
では、他者意識を絶やす、究極でいうところの「他人に極めて厳しく自分に甘く」の域に達するにはどうすればよいのだろうか。これに関しては、「どうすればよいのだろうか」と問われてこうすればよいのであるなどという答えは存在しないだろう。だからこその「他者に極めて厳しく自分に甘く」である。つまり自分で考え続けるしかないのだ。そもそも五味太郎師のこの言葉の単純な意味は「自分で考える」ということである。自分で考え続けて、自分の居所や立場といったものを模索していくのである。手始めに常識を捨てよう。社会通念を捨てよう。次は自尊心を捨てる試みをしよう。そして自分の過去を疑ってみよう。その際これからどうすればいいかという単純な結論は出さないことである。そうすると結論に縛られることになるから。そのあとはただ、自分で考えるだけである。そして沢山のことを経験し、徐々に血肉となっていくのだろう。あらゆる肩書きやレッテルが取るに足らないものだと身体で感じ始めるだろう。
[2]
さて、日常の他者意識に関することは今まで述べた通りだが、では非日常ではどうであろうか。元の命題に戻ってみよう。
そもそもブログは日記である。ブログとただ単純に眺めるとネットに載せるか載せないかに論点が置かれそうになるが、もう少し大きな目で見ればそもそも日記には他者意識が存在しないのかというところに初めに論点を置くべきだろう。日記は「書くという行為」と「内容」の二つの要素がある。「内容」に関して言えば日記の内容が他者意識をしてるかどうかは書き手次第であるのだからポイントではなく、「書く行為」が一体何なのかに重点が置かれる、と言いたいところだが実際はそんなに甘い論述は出来なさそうである。
日記を書くということは、日常経験とそれに付随する自分の変化を書き留めるということだ。自分の変化とは、要するに経験に対する経験を受けた後の自分の感想や思索である。経験を記さない随想だって、そもそも考えや思いはこれまでの自分の経験からフィードバックされたものなのであるから、経験に付随する自分の変化とまとめて問題はないだろう。では経験と変化を書き留めることに他者意識はないのか。
「内容」がなければ「書く行為」はありえない。二つの要素は一体である。ゆえに、「書く行為」だけを切り離して考え、例えばただ一人の独白には他者意識が存在しないから日記には他者意識性がないとまとめることは出来ない。「内容」ありきである。
「内容」を考えたとき、それがたとえどんな内容であったとしても、他者意識は存在すると考えられないだろうか。「内容」は経験であり、ゆえに他者の存在は避けることができない。幅を広げて考えれば、独善だってとどのつまり他者意識の副次的産物、もしくは賜物ではないだろうか。人は初めから独善ではありえない。生まれたときから他者に囲まれているから、思考は他者意識から始まると考えられる。色々な他者意識の経験の結果、他者意識を廃絶する独善が生まれるのだから、独善だって他者意識とは一つのネットワークを持っているといえる。つまり「内容」は他者意識性を含まぬ何ものでもない。だから「書く行為」だって他者意識とは繋がりがある。日記は他者意識を元々含むのである。
次に、ブログについて考えてみよう。先ほど述べたとおり、ブログは日記なのだから他者意識を含む。日記との違いはオンラインで他者が見られる状態にするか否かである。他者に見せるということは自己主張性があるということだろう。ではこれは日常でいう肩書きやレッテルといったものに類するものなのだろうか。
ひとまとめに他者意識という言葉を容易く用いて述べてきたが、意味はひとくくりにはできない。例えば肩書きやレッテルといった意味のあまりに日常的な”他者意識”という言葉もあれば、独善にはそもそも他者意識から生まれたものだとする”他者意識”という言葉もあり、これら色々な「他者意識」を混同してはいけない。前者は実用的な固執という意味合いがあり、後者は他者意識といいながら”他者意識性”という意味で使われている。
他者意識そのものを間違った下らなく醜いものだとする主張は根本から論理破綻していることになる。つまり他者意識は必然的に絶対的に存在しているので、批判すべきは社会風潮で培われた実用的な固執、肩書きやレッテルといった類の他者意識である。他者意識そのものを批判することは不可能で、それは日記や独善の存在も批判することになるのだ。
話は戻って、ブログに潜む自己主張性が批判されるべきかどうかということになる。批判というよりも、「他人に極めて厳しく自分に甘く」の他者100%無視の性格に不一致しているのではないかという指摘である。それにはまず、自分の日記を読む他者の存在から考えていかねばなるまい。
人には他者から認められたいという他者意識がある。この他者意識は肩書きやレッテルの他者意識とは異なるものの性質はとても似ている。他者から認められたいという願望は簡単に肩書きやレッテルに転化するからだ。他人にわかってもらいたい、理解してもらいたいという気持ちは、他者意識と自己主張の相乗に近い。他者に囲まれて生きてきて、それなのに自分は一人なのではないかという不安がそれを強くする。そうして、例えば家族のみならず友達というものを他者意識と自己主張の矛先として扱ってしまう人もいるのだ。
しかし、例外を多様に含むのだが、友達とは実際は気休めと享楽である。それが納得出来ない多数の人間は、友達を自己証明のための何かとしてしまう。他者意識が強いがために、自分は一人だという考えを頭から抹消するのである。これは、社会の全体性や均一性といった生活習慣が、人が成長していく過程で助長させてきたと考えられる。皆一緒、普通がよいという通念である。先にも述べたように、ここから脱するには独善を貫く他ない。実際友情をはじめとする愛は美しい。だがそれとは別に自己証明などの全ては自分の自己決定であるという認識を持たねばならないのだ。
では日記を他人が見られる状態にするブログは、他者から認められたいという他者意識の非日常の形式なのだろうか。しかし、ひとえにブログの自己主張性を単なる自己主張と判断するのは早計だ。非日常の場合、日常に比べて経験のフィードバックというものが少ない。直に他者と経験に接していない。つまりそこでの自己主張は日常、すなわち実際に生活している場でのそれとは全く異なっている。例えば実生活で誰からも認められない人がいて、その人のブログでの自己主張は行き場のない憤りといった性質を持った他者意識性かもしれない。また、単純に匿名の他者に対して自分の内に潜めた心情を吐露することで露出的な快感を得ているものも多いのではないだろうか。そこでの他者を、享楽とするかそれとも自己証明の何かにはき違えるかはやはりその人次第である。享楽からの娯楽的自己主張性か、それとも固執的な他者意識による自己主張かはその人次第なのである。
初めの論点に戻るが、固執的な他者意識は他者100%無視のスタンスに当然反するが、たとえブログの自己主張性が吐露を楽しむ享楽からの自己主張性だったとしても、他者意識を多分に含んでいるのだから他者100%無視のスタンスに反していると言われるかもしれない。だが、このスタンスは別段享楽を排除するスタンスでは決してない。もしそうであるならば独善のスタンスを取った者は友達が完全にいなくなるのだ。友達は気休めと享楽なのだから。しかし友達を全く持たない過去の独善者は一人もいないだろう。何故なら、享楽は享楽であり、「他者に極めて厳しく自分に甘く」とはねじれの関係性に近いからだ。他者からの情報を遮断したところで、享楽はなくならないのである。全てを自分で考え経験したとして、だから友達がいないということにはならないのだ。明らかに友情をはじめとする享楽は生きていくうえで不可欠なものだといわざるを得ないだろう。前にも述べたように、独善とは孤立ではない。そこには他者への愛があり道徳もある。享楽とは、他者の完全無視、独善を持ったからこその他者へのつながりといえる。以前には、自己証明の何かや重大な何かにはき違えていた、理解してもらいたくて仕方がなかった他者の存在が、独善に目覚めることによって享楽へと昇華されたのである。ゆえにブログを書くという行為自体は「他者に極めて厳しく自分に甘く」のスタンスに反することはない。過去の独善たるものたちが様々な著書を残してきたことは、何も本を他人に読んでもらうことで理解を求めているわけでは当然全くないのである。
なお、僕が使用する「独善」や「享楽」といった言葉には読み手との間に語弊が生じうることを書いておく。「独善」は独りよがりの意味ではなく、「享楽」は単なる快楽ではない。「独善」は「他者に極めて厳しく自分に甘く」の五味太郎師の言葉に近い意味であり、「享楽」は生活を営む上で美学的に趣があるということである。
2008年3月7日
他者を100%無視する。他者の言うことは聞かない。
「他人に極めて厳しく自分に甘く」
そういった考えの立場を僕は取っているが、これに対する「ブログ」というものはどうなのであろう。日記だが他者が見られるという点で立場に反してはいないだろうか。
この意見は全く的外れではない。
確かに、ネットではなくメモ帳にだって日記は書ける。
ネットに載せている時点で他者意識は少なからず内面に生じているということになる。
しかしブログというものは日常に比べたら相対的に随分非公式な形式である。
[1]
日常的な他者意識、つまり一般の他者意識――普段僕が批判しているものであるが――は、いわゆる多種多様な肩書きである。学歴、企業名、偏差値、収入、権力、ブランド、資格、さらに日常的なレベルに落とせば、結婚しているという肩書き、自家用車を持っている肩書き、マイホームを持っている肩書き、実家が金持ちという肩書きなどなど、ありとあらゆる肩書きが存在し、大きく見れば細かいことにさえ肩書き、すなわち他者意識性が見受けられるのである。例えば僕が今現在Win98を使用しているといったとき、友達がせせら笑ったとしよう。たとえそれが場の空気で笑ったとしても、冗談で笑ったとしても、そこには10年前の古臭い機種を使っているというレッテルが貼られているのである。そういうとたいそう大袈裟に聞こえるかもしれないが本質は同様なのだ。レッテルは肩書きの裏返しである。人が人を差別していないと認識する無意識の領域にさえレッテルや肩書き、つまり他者意識は存在している。
とにもかくにも他者と関わるだけで他者意識は生じてしまう。日常は他者で溢れている。ゆえに日常は他者意識とはどうしても切り離せない不可分な形式なのだ。
「他人に極めて厳しく自分に甘く」という言葉は五味太郎師の語録の一つであるが、これはそういった他者意識を木っ端微塵に吹き飛ばし、全て自分で考え行動し経験し責任も負うという独善の道を示していると僕は解釈している。生きて生活していく以上不可分である他者意識、それをなぎ倒すのである。これを僕は、孤立ではなく他者孤立と表現したい。
自然と他者から隔絶されていってしまう孤立に対し、他者意識を圧倒するのは、絶えず他者と関わり日常と格闘し日々自分で考え続け多様な経験をし、その経験のフィードバックから地道に辿り着くべき境地なるものに近いからである。これは単なる独りよがりではない。他者への愛を持ち、自己の中に道徳を築き、綺麗で堅固な論理体系を持つ――自分が孤立するというより自分が独立した一人の人間であるという他者を孤立させた状態といえる。
人は不思議なものである。多くの人間は、他者意識が強い。それは小さい頃から受け続けた教育や社会風潮といったものに培われてしまったのだろう。
人より優れ、出来るだけ高く。出来るだけとはいわない、あとちょっとで一段階上にいけるのだから頑張りなさいといわれてきたのだ。努力は競争を生む。気付かないうちに、人は受験でより上の大学へ、就職活動でより上の企業へと急かされている。そういう社会では他者意識が強くなるのが当たり前である。
だが、どうだろう。例えば僕が大企業の御曹司だとして、道端ですれ違った人にとってはそんなことは極めてどうでもいいことなのだ。そればかりではない、たとえ知り合いであっても、いや友達であってでさえ、結局は他人でありどうでもいいという結論に導かれるのである。
大衆、他者の集団は、”わたし”に無関心である。しかし”わたし”の中には他者意識が強く芽生えているのだ。他者が自分に興味がないのに、自分は他者を大いに気にしているのだ。文面でとらえればその不一致はあまりに明白で愚かに見えるが、実際多くの人の実情なのである。
では、他者意識を絶やす、究極でいうところの「他人に極めて厳しく自分に甘く」の域に達するにはどうすればよいのだろうか。これに関しては、「どうすればよいのだろうか」と問われてこうすればよいのであるなどという答えは存在しないだろう。だからこその「他者に極めて厳しく自分に甘く」である。つまり自分で考え続けるしかないのだ。そもそも五味太郎師のこの言葉の単純な意味は「自分で考える」ということである。自分で考え続けて、自分の居所や立場といったものを模索していくのである。手始めに常識を捨てよう。社会通念を捨てよう。次は自尊心を捨てる試みをしよう。そして自分の過去を疑ってみよう。その際これからどうすればいいかという単純な結論は出さないことである。そうすると結論に縛られることになるから。そのあとはただ、自分で考えるだけである。そして沢山のことを経験し、徐々に血肉となっていくのだろう。あらゆる肩書きやレッテルが取るに足らないものだと身体で感じ始めるだろう。
[2]
さて、日常の他者意識に関することは今まで述べた通りだが、では非日常ではどうであろうか。元の命題に戻ってみよう。
そもそもブログは日記である。ブログとただ単純に眺めるとネットに載せるか載せないかに論点が置かれそうになるが、もう少し大きな目で見ればそもそも日記には他者意識が存在しないのかというところに初めに論点を置くべきだろう。日記は「書くという行為」と「内容」の二つの要素がある。「内容」に関して言えば日記の内容が他者意識をしてるかどうかは書き手次第であるのだからポイントではなく、「書く行為」が一体何なのかに重点が置かれる、と言いたいところだが実際はそんなに甘い論述は出来なさそうである。
日記を書くということは、日常経験とそれに付随する自分の変化を書き留めるということだ。自分の変化とは、要するに経験に対する経験を受けた後の自分の感想や思索である。経験を記さない随想だって、そもそも考えや思いはこれまでの自分の経験からフィードバックされたものなのであるから、経験に付随する自分の変化とまとめて問題はないだろう。では経験と変化を書き留めることに他者意識はないのか。
「内容」がなければ「書く行為」はありえない。二つの要素は一体である。ゆえに、「書く行為」だけを切り離して考え、例えばただ一人の独白には他者意識が存在しないから日記には他者意識性がないとまとめることは出来ない。「内容」ありきである。
「内容」を考えたとき、それがたとえどんな内容であったとしても、他者意識は存在すると考えられないだろうか。「内容」は経験であり、ゆえに他者の存在は避けることができない。幅を広げて考えれば、独善だってとどのつまり他者意識の副次的産物、もしくは賜物ではないだろうか。人は初めから独善ではありえない。生まれたときから他者に囲まれているから、思考は他者意識から始まると考えられる。色々な他者意識の経験の結果、他者意識を廃絶する独善が生まれるのだから、独善だって他者意識とは一つのネットワークを持っているといえる。つまり「内容」は他者意識性を含まぬ何ものでもない。だから「書く行為」だって他者意識とは繋がりがある。日記は他者意識を元々含むのである。
次に、ブログについて考えてみよう。先ほど述べたとおり、ブログは日記なのだから他者意識を含む。日記との違いはオンラインで他者が見られる状態にするか否かである。他者に見せるということは自己主張性があるということだろう。ではこれは日常でいう肩書きやレッテルといったものに類するものなのだろうか。
ひとまとめに他者意識という言葉を容易く用いて述べてきたが、意味はひとくくりにはできない。例えば肩書きやレッテルといった意味のあまりに日常的な”他者意識”という言葉もあれば、独善にはそもそも他者意識から生まれたものだとする”他者意識”という言葉もあり、これら色々な「他者意識」を混同してはいけない。前者は実用的な固執という意味合いがあり、後者は他者意識といいながら”他者意識性”という意味で使われている。
他者意識そのものを間違った下らなく醜いものだとする主張は根本から論理破綻していることになる。つまり他者意識は必然的に絶対的に存在しているので、批判すべきは社会風潮で培われた実用的な固執、肩書きやレッテルといった類の他者意識である。他者意識そのものを批判することは不可能で、それは日記や独善の存在も批判することになるのだ。
話は戻って、ブログに潜む自己主張性が批判されるべきかどうかということになる。批判というよりも、「他人に極めて厳しく自分に甘く」の他者100%無視の性格に不一致しているのではないかという指摘である。それにはまず、自分の日記を読む他者の存在から考えていかねばなるまい。
人には他者から認められたいという他者意識がある。この他者意識は肩書きやレッテルの他者意識とは異なるものの性質はとても似ている。他者から認められたいという願望は簡単に肩書きやレッテルに転化するからだ。他人にわかってもらいたい、理解してもらいたいという気持ちは、他者意識と自己主張の相乗に近い。他者に囲まれて生きてきて、それなのに自分は一人なのではないかという不安がそれを強くする。そうして、例えば家族のみならず友達というものを他者意識と自己主張の矛先として扱ってしまう人もいるのだ。
しかし、例外を多様に含むのだが、友達とは実際は気休めと享楽である。それが納得出来ない多数の人間は、友達を自己証明のための何かとしてしまう。他者意識が強いがために、自分は一人だという考えを頭から抹消するのである。これは、社会の全体性や均一性といった生活習慣が、人が成長していく過程で助長させてきたと考えられる。皆一緒、普通がよいという通念である。先にも述べたように、ここから脱するには独善を貫く他ない。実際友情をはじめとする愛は美しい。だがそれとは別に自己証明などの全ては自分の自己決定であるという認識を持たねばならないのだ。
では日記を他人が見られる状態にするブログは、他者から認められたいという他者意識の非日常の形式なのだろうか。しかし、ひとえにブログの自己主張性を単なる自己主張と判断するのは早計だ。非日常の場合、日常に比べて経験のフィードバックというものが少ない。直に他者と経験に接していない。つまりそこでの自己主張は日常、すなわち実際に生活している場でのそれとは全く異なっている。例えば実生活で誰からも認められない人がいて、その人のブログでの自己主張は行き場のない憤りといった性質を持った他者意識性かもしれない。また、単純に匿名の他者に対して自分の内に潜めた心情を吐露することで露出的な快感を得ているものも多いのではないだろうか。そこでの他者を、享楽とするかそれとも自己証明の何かにはき違えるかはやはりその人次第である。享楽からの娯楽的自己主張性か、それとも固執的な他者意識による自己主張かはその人次第なのである。
初めの論点に戻るが、固執的な他者意識は他者100%無視のスタンスに当然反するが、たとえブログの自己主張性が吐露を楽しむ享楽からの自己主張性だったとしても、他者意識を多分に含んでいるのだから他者100%無視のスタンスに反していると言われるかもしれない。だが、このスタンスは別段享楽を排除するスタンスでは決してない。もしそうであるならば独善のスタンスを取った者は友達が完全にいなくなるのだ。友達は気休めと享楽なのだから。しかし友達を全く持たない過去の独善者は一人もいないだろう。何故なら、享楽は享楽であり、「他者に極めて厳しく自分に甘く」とはねじれの関係性に近いからだ。他者からの情報を遮断したところで、享楽はなくならないのである。全てを自分で考え経験したとして、だから友達がいないということにはならないのだ。明らかに友情をはじめとする享楽は生きていくうえで不可欠なものだといわざるを得ないだろう。前にも述べたように、独善とは孤立ではない。そこには他者への愛があり道徳もある。享楽とは、他者の完全無視、独善を持ったからこその他者へのつながりといえる。以前には、自己証明の何かや重大な何かにはき違えていた、理解してもらいたくて仕方がなかった他者の存在が、独善に目覚めることによって享楽へと昇華されたのである。ゆえにブログを書くという行為自体は「他者に極めて厳しく自分に甘く」のスタンスに反することはない。過去の独善たるものたちが様々な著書を残してきたことは、何も本を他人に読んでもらうことで理解を求めているわけでは当然全くないのである。
なお、僕が使用する「独善」や「享楽」といった言葉には読み手との間に語弊が生じうることを書いておく。「独善」は独りよがりの意味ではなく、「享楽」は単なる快楽ではない。「独善」は「他者に極めて厳しく自分に甘く」の五味太郎師の言葉に近い意味であり、「享楽」は生活を営む上で美学的に趣があるということである。
2008年3月7日
新生活は金がかかる
机
掃除機
電子レンジ
オーブン
フライパン
その他雑貨
ライト
とかで10万はいかないけど、匹敵するのは仕方ない?
それともやっぱ僕は贅沢してる…んだよな?
掃除機
電子レンジ
オーブン
フライパン
その他雑貨
ライト
とかで10万はいかないけど、匹敵するのは仕方ない?
それともやっぱ僕は贅沢してる…んだよな?
うわああああ
テレビ、パソコン、洗濯機、ベッド除いて普通に10万超したーーーー
もうだめだああああああ
誰か殴ってくれ
正気に戻れと。
貴様は金の亡者かと。
サーティワンのポスターを1200円で購入!
机はグロステーブルっつーののgreenを購入!!もう廃版で全国で二点しか残ってなかった!!
大体部屋の構想はたててきてる。
ベッドは白だけどシーツ類はオレンジが主な彩色なんだ。
んで机はお気にのgreenだろー
クッションは緑二種。
イスは白がいいんだけどお金やばいよな
掃除機はオレンジ、ライトもオレンジ一つ買う
洋風なすだれは白にしようか緑にしようか…
うわあああこんな豪華な部屋まじありえねえよ!びっくりどんきっきだよ!オシャレすぎるよ!
大金をむさぼる僕は死ねばいいと思います先生。
あえて言おうクズであると。
もうだめだああああああ
誰か殴ってくれ
正気に戻れと。
貴様は金の亡者かと。
サーティワンのポスターを1200円で購入!
机はグロステーブルっつーののgreenを購入!!もう廃版で全国で二点しか残ってなかった!!
大体部屋の構想はたててきてる。
ベッドは白だけどシーツ類はオレンジが主な彩色なんだ。
んで机はお気にのgreenだろー
クッションは緑二種。
イスは白がいいんだけどお金やばいよな
掃除機はオレンジ、ライトもオレンジ一つ買う
洋風なすだれは白にしようか緑にしようか…
うわあああこんな豪華な部屋まじありえねえよ!びっくりどんきっきだよ!オシャレすぎるよ!
大金をむさぼる僕は死ねばいいと思います先生。
あえて言おうクズであると。
大学生活計画
演劇→大変
映画→普通
ううむ・・・
兼部は難しいのかな。
っていうか演劇とかセリフ噛みまくりで即死しそうだし
呂律がまわらないだろうな
呂律がまわらない人の役をやるからいいもん
サークル→忙しい
講義→忙しい
自習→忙しい
バイト→ほどほどに
遊び&飲み→予測不可
その他(免許、計画etc)→忙しい
挑戦→忙しい
読書→たくさんしたい。
映画→たくさんみたい。
うわあああああ時間が川の如く流れていってしまいそうじゃないか!!
コレ絶対いつの間にか1年間が終わってるよ。
大学生の友達を遊びに誘っても「来月いっぱい予定がつまってる」とかよく即答された理由がわかる。
でもやりたいこと全部やれれば「時間に流される」んじゃなくて「時間を有意義に使ってる」んだよね。
うわ・・・かなり俗世間的な発言してしまった。
なんか簡単に納得されそうなこといってしまった。
うーん、新しい生活にむけて気持ちが浮ついてる感があるな。
しかし思い切り生活を楽しむ心構えは出来ている。
自分の生き方ははっきりしてきているから。
キルケゴールは自分が無力だと真に気付くまで3段階の過程を経て、その段階ごとに絶望が訪れるといったけど、僕は個人間のつながりの件さえ除けば3段階目に既に至ってしまった気がする。すなわち、宗教的実存。社会人で頑張りまくってる人の大半が2段階目の倫理的実存で誠実に生きようとしている。これはまさに僕の高校3年間と浪人の始め、つまり半年間の絶望睡眠生活以前の状態と全く同じだった。以前は向上心も社会適合意欲も他者より圧倒的に高かったと自負していた。そこから長いどん底生活を送り、永遠に続くかと思われたそれはついに宗教的実存に目覚めた。永遠に理性と道徳とに服従したいという、あたかもプラトンのイデアのような精神的愛に目覚めたのである。っていうかキルケゴールのこの考え方(3段階の実存と絶望)を2月14日に知ったときは僕の今までの人生の足跡が予言されていたような気がして震えた。もともとニーチェやハイデガーの実存主義的考え方は知っていたが知識としての認識じゃ全然足りない。絶望は避けられず、むしろ本当に絶望しないと人は成長しない。先日ニュースで鬱病と闘病してる人の特集があって、とある人が「鬱は最大のプレゼントでした。ほんと・・・感謝しています。」といっていたが、この発言を聞いたとき、この人は絶望生活を昇華し終わった人なんだなあとよく判った。まさに僕も同じ感想を持ったことがあるからだ。この人はもともと仕事熱心で、仕事場では誰よりも頑張る誠実な人だった。そこから鬱病になり絶望生活が始まったらしいが、つまり倫理的実存から絶望に突き落とされ、自殺や崩壊を免れて宗教的実存に至ったのである。この人の今の職場の個人デスクにはいたるところに「ありがとう」の文字があった。これを見たとき、おそらく無知な人間は少し気色が悪いと思ったり何がありがとうだと思うのかもしれないが、僕が思うにこれこそこの人の中に芽生えた美学であり救いであり、すなわちありがとうという宗教なのである。素晴らしい。
話が脱線したね。
僕はもう時間には縛られない。
これからの生活を有意義に過ごす内的な前提条件は確立してある。
とびっきり"面白く"、そして"充実した"大学生活を、まずは営んでやんよ。
映画→普通
ううむ・・・
兼部は難しいのかな。
っていうか演劇とかセリフ噛みまくりで即死しそうだし
呂律がまわらないだろうな
呂律がまわらない人の役をやるからいいもん
サークル→忙しい
講義→忙しい
自習→忙しい
バイト→ほどほどに
遊び&飲み→予測不可
その他(免許、計画etc)→忙しい
挑戦→忙しい
読書→たくさんしたい。
映画→たくさんみたい。
うわあああああ時間が川の如く流れていってしまいそうじゃないか!!
コレ絶対いつの間にか1年間が終わってるよ。
大学生の友達を遊びに誘っても「来月いっぱい予定がつまってる」とかよく即答された理由がわかる。
でもやりたいこと全部やれれば「時間に流される」んじゃなくて「時間を有意義に使ってる」んだよね。
うわ・・・かなり俗世間的な発言してしまった。
なんか簡単に納得されそうなこといってしまった。
うーん、新しい生活にむけて気持ちが浮ついてる感があるな。
しかし思い切り生活を楽しむ心構えは出来ている。
自分の生き方ははっきりしてきているから。
キルケゴールは自分が無力だと真に気付くまで3段階の過程を経て、その段階ごとに絶望が訪れるといったけど、僕は個人間のつながりの件さえ除けば3段階目に既に至ってしまった気がする。すなわち、宗教的実存。社会人で頑張りまくってる人の大半が2段階目の倫理的実存で誠実に生きようとしている。これはまさに僕の高校3年間と浪人の始め、つまり半年間の絶望睡眠生活以前の状態と全く同じだった。以前は向上心も社会適合意欲も他者より圧倒的に高かったと自負していた。そこから長いどん底生活を送り、永遠に続くかと思われたそれはついに宗教的実存に目覚めた。永遠に理性と道徳とに服従したいという、あたかもプラトンのイデアのような精神的愛に目覚めたのである。っていうかキルケゴールのこの考え方(3段階の実存と絶望)を2月14日に知ったときは僕の今までの人生の足跡が予言されていたような気がして震えた。もともとニーチェやハイデガーの実存主義的考え方は知っていたが知識としての認識じゃ全然足りない。絶望は避けられず、むしろ本当に絶望しないと人は成長しない。先日ニュースで鬱病と闘病してる人の特集があって、とある人が「鬱は最大のプレゼントでした。ほんと・・・感謝しています。」といっていたが、この発言を聞いたとき、この人は絶望生活を昇華し終わった人なんだなあとよく判った。まさに僕も同じ感想を持ったことがあるからだ。この人はもともと仕事熱心で、仕事場では誰よりも頑張る誠実な人だった。そこから鬱病になり絶望生活が始まったらしいが、つまり倫理的実存から絶望に突き落とされ、自殺や崩壊を免れて宗教的実存に至ったのである。この人の今の職場の個人デスクにはいたるところに「ありがとう」の文字があった。これを見たとき、おそらく無知な人間は少し気色が悪いと思ったり何がありがとうだと思うのかもしれないが、僕が思うにこれこそこの人の中に芽生えた美学であり救いであり、すなわちありがとうという宗教なのである。素晴らしい。
話が脱線したね。
僕はもう時間には縛られない。
これからの生活を有意義に過ごす内的な前提条件は確立してある。
とびっきり"面白く"、そして"充実した"大学生活を、まずは営んでやんよ。
テツリン
同志社用語集に僕が入る学科が載ってる!
しかも学科が単独で載ってるの哲学だけだぞ!
哲倫【テツリン】
種別 機関・部署
説明
哲学及び倫理学専攻の略。美芸と並び、変わり者が多いと言われている。(多いといっても所属人数自体が少ないのでその殆どが変わり者ということか。)2005年度より哲学科。[法学部のテツ]
追加日 2004/08/19
私が在籍していたころ、意外と美男美女が多かった。[卒業生](2005/10/30 02:00:28)
とにかく授業に来ない生徒が多い。それ以上に大切なものを見つけてしまったのか、単位に関しては非常に無頓着なため、留年率は工学部についで高いという。[在学生](2007/07/04 17:03:34)
知りあった人には、いままで哲学の人にあったことはないといわれる。そんな科があったのかという感じでイワレマセンか[3哲](2007/12/24 10:05:34)
1. 文 2002/09/27(金) 06:25:21
文学部の留年率はどのくらいなのですか?
6. 哲倫が 2002/10/18(金) 18:37:57
留年率40%ってほんと?
物凄くユカイなところに入学できるらしい!!
楽しみだ!!!!!!!!!!
しかも学科が単独で載ってるの哲学だけだぞ!
哲倫【テツリン】
種別 機関・部署
説明
哲学及び倫理学専攻の略。美芸と並び、変わり者が多いと言われている。(多いといっても所属人数自体が少ないのでその殆どが変わり者ということか。)2005年度より哲学科。[法学部のテツ]
追加日 2004/08/19
私が在籍していたころ、意外と美男美女が多かった。[卒業生](2005/10/30 02:00:28)
とにかく授業に来ない生徒が多い。それ以上に大切なものを見つけてしまったのか、単位に関しては非常に無頓着なため、留年率は工学部についで高いという。[在学生](2007/07/04 17:03:34)
知りあった人には、いままで哲学の人にあったことはないといわれる。そんな科があったのかという感じでイワレマセンか[3哲](2007/12/24 10:05:34)
1. 文 2002/09/27(金) 06:25:21
文学部の留年率はどのくらいなのですか?
6. 哲倫が 2002/10/18(金) 18:37:57
留年率40%ってほんと?
物凄くユカイなところに入学できるらしい!!
楽しみだ!!!!!!!!!!
March 01, 2008
February 28, 2008
February 14, 2008
朗報
同志社文学部立命館文学部、合格。
結局10日勉強しただけで第一志望含め筆記試験は合格。
あとは第一志望の論文試験だけ。
理文系の力見せ付けてやんよおおお!
結局10日勉強しただけで第一志望含め筆記試験は合格。
あとは第一志望の論文試験だけ。
理文系の力見せ付けてやんよおおお!
February 09, 2008
((ミ゚o゚ミ))
ぼくドラえもん
せん太くん、今まですぐに返信してきてたのに、一人暮らししてからどう?って聞いたら返信がこないこの長い間は、同棲してることを打ち明けようか黙っておこうか悩んでいる間だと思うよ
せん太くん、もしかしたら君が勘繰ってるのにむこうは気付いてるかもしれないよ
せんせん太くん、ときには諦めと潔さは大切だよ
せん太「グエエエエエエエエエエ!!!!!!それ以上言うな青いタヌキがああああああ」
せん太くん、今まですぐに返信してきてたのに、一人暮らししてからどう?って聞いたら返信がこないこの長い間は、同棲してることを打ち明けようか黙っておこうか悩んでいる間だと思うよ
せん太くん、もしかしたら君が勘繰ってるのにむこうは気付いてるかもしれないよ
せんせん太くん、ときには諦めと潔さは大切だよ
せん太「グエエエエエエエエエエ!!!!!!それ以上言うな青いタヌキがああああああ」
February 08, 2008
はっ。
だりぃなったく…
唯我独在が聞いて呆れる。
半月思考停止させてただけでこうも自分の揺れとブレが大きくなって自身を見失うとはね。
だから受験脳は嫌なんだよ。どう注意深くしてても変容は起きちまう。自分の身体から理性の精神がはみ出し始める逸脱、すなわち変容がな。
ええっとぉ、半月前の僕はそれまでのフィードバックをどう感じどう扱っていたか。
ほれ、忘れている。知識と思考回路の忘却の話じゃなくて感覚の不感症化という意味での忘却だ。
受験脳、教育、等々社会的日常は気付かないうちに僕の内側を裏側から溶かし始める。
さて、再び非日常、独善へと僕は回帰しよう。
唯我独在が聞いて呆れる。
半月思考停止させてただけでこうも自分の揺れとブレが大きくなって自身を見失うとはね。
だから受験脳は嫌なんだよ。どう注意深くしてても変容は起きちまう。自分の身体から理性の精神がはみ出し始める逸脱、すなわち変容がな。
ええっとぉ、半月前の僕はそれまでのフィードバックをどう感じどう扱っていたか。
ほれ、忘れている。知識と思考回路の忘却の話じゃなくて感覚の不感症化という意味での忘却だ。
受験脳、教育、等々社会的日常は気付かないうちに僕の内側を裏側から溶かし始める。
さて、再び非日常、独善へと僕は回帰しよう。