■ 書籍情報

東日本の部落史 第1巻 関東編   【東日本の部落史 第1巻 関東編】(#2809)

  東日本部落解放研究所 (編集)
  価格: ¥4,104 (税込)
  現代書館(2017/12/5)

 本書は、「東日本部落解放研究所のこれまでの活動をベースにしつつ、会員以外の人々にも参加・協力をいただいて、東日本におけるこれまでの研究活動の成果を集約して出版したい、部落史はもとより、部落問題に関心を持つ多くの人々に報告し、批判を受け、また活用・学習を求め、今後の研究活動などに生かしたい」との目的で出版されたものの一冊です。
 関東地方は、「近世になると、関東の長吏・かわたは、一部を除いて弾左衛門支配のもとにほぼ統合された。その支配は個別藩領域をはるかに超えて広域に及び、かつ強力なものとなったことは、広く知られてきた。しかしその内実は多様な様相を示した」と述べられています。
 「神奈川」では、「鎌倉・極楽寺村の長吏は、近世初頭から幕末にかけ一貫して鶴岡八幡宮の例大祭(放生会)において神幸の行列の先導役を務め、また、境内不浄物の取り片付けを担ってきた」として、「鶴岡八幡宮の境内で血を流すことが最大の禁忌であり、馬の血が流された場合、(馬に対する瀉血治療の施術と考えられる)、その馬を犬神人に没収させる」とした1395年の『鶴岡事書日記』の記事について、「この八幡宮の犬神仁を極楽寺村の長吏につながる存在」とする考察を紹介しています。
 そして、「近世被差別身分とされた人々は『身分外の身分』などと言われることもあるが、地域社会の中で固有の役割を担っており、百姓・町人身分の人々と交流する様々な回路が存在した」として、
(1)経済活動を媒介にした関係
(2)村の警備・治安の維持を媒介にした関係
の2点を挙げています。
 特論1「近世後期伊豆の犯罪防止策と番非人」では、「海と山と温泉に恵まれ、幕領・旗本領が入り組んでいた伊東地域には、18世紀後半以降、一般の商人・湯治客・巡礼客・遊山客などに混じって、『悪しき道々の者』(『世事見聞録』)も数多く潜伏していたものとみられる」と述べています。
 「千葉」では、「『藩政一覧』によると、千葉地域の人口は188万5118人で、そのうち長吏が4846人、『非人』が3584人であった」と述べています。
 また、被差別部落の地域的集中の理由として、下総国の場合、「江戸川・利根川沿いに被差別部落が多い」理由として、戦国時代に激戦地であったことから、「皮革の需要を高めたはずで、皮作りも増加していったはず」であることや、「水上交通・街道の結節点であった」ことを挙げ、「市原・木更津・君津などには長吏小頭が多い」理由として、北条氏と里見氏の前線基地があり、皮作りの需要も高かった」こと、「富津にはなぜ長吏小頭が3人もいる」のかについては、「北条氏・真里谷武田氏と里見氏の激戦地であった」ことや、「陸・海の交通の要衝」であることを挙げ、「江戸時代に、佐貫城の近くに3人の長吏小頭がいたことは、戦国武将たちが皮革を大量に必要としていたことと無関係ではあるまい」と述べています。
 さらに、「千葉県の被差別部落には白山神社を祀っているところが多い。しかし、白山神社には、被差別部落と関係のあるものと関係のないものがある。千葉県において、90ほどある白山神社(合祀されたものも含む)のうち、被差別部落と直接関係のある白山神社は、判明しているもので25ほどである」と述べています。
 「茨城」では、「常光寺による、部落の人々の宗門改めに対する『極楽』印形という行為は、部落民に対する特別のはからいであることは疑い」なく、「他の宗門が位牌と墓石に『差別戒名』を刻むこととは正反対のふるまいである」が、「『極楽』の印形を押す行為も部落の差別化のための慣行と解釈すれば、両極端ともみえる『差別戒名』と『極楽』印形は、いずれも『慈悲』が有する位階化による排除と包摂の範囲の中に位置づけられる」と述べています。
 「栃木」では、「下野国の日光東照宮神領内と喜連川藩領内、そして常陸の国の水戸藩領内の長吏・『非人』には、弾左衛門の支配が及ばなかった」理由として、「弾左衛門を支配したのは江戸町奉行であり、日光領を支配したのは日光奉行であることから、この地域の長吏は日光奉行の支配下にあったためと考えられる」と述べています。
 そして、「長吏は土地を所有しな、所有したとしても零細だというイメージがあるが、実は土地を多く所有していた事例は少なくない」と述べています。
 また、「1925年(大正14)年11月8日、佐野にほど近い群馬県の世良田では、自警団が被差別部落を襲撃する事件が起こった」として、「不当な差別に対する被差別部落の人々の立ち上がりに対して、地域社会全体は、自警団の露骨な暴力によって封じ込めようとした」ことで、「以後、栃木県では水平社運動は停滞することになった」と述べています。
 さらに、「栃木県・茨城県・千葉県では、水平運動は一部の人達に担われただけで、十分に発展しなかった。それは、被差別部落のなかで水平運動に対する消極的な考えがあったためだけでなく、融和運動が積極的に行われたためであった。一方、埼玉県や群馬県では小作運動と水平運動が重なり、運動が盛り上がった。栃木県・茨城県・千葉県では、政府・県が、埼玉県や群馬県のように小作運動と水平運動が結びつくことを警戒し、融和事業を推進したようである」と述べています。
 「群馬」では、1839年(天保10)年の暮に起きた「七分の一の命事件」について、「長吏の命(価値)は、平人の7分の1しかないとする差別観念が流布していたことを実証するものである」と述べています。
 「埼玉」では、「戦国末期の北武蔵の在地社会では、人見の長吏太郎左衛門、末野の長吏惣衛門などの長吏集団のリーダーたちが割拠し、戦国大名と関わって、勢力争いを展開していたものと思われる。また、長吏集団とは別に、末野の鉦打集団のように、戦国大名と関わって、飛脚役(軍事的な通信)などを担う集団も存在していた」と述べています。
 また、「弾左衛門配下の長吏たちは、弾左衛門からの廻状を村々小頭へ回覧するネットワークをもっていた。こうした情報ネットワークを通じて、関八州の長吏たちは闘いの経験や、闘いの論理の共有化を図っていたものと思われる」と述べています。
 「東京 概説」では、「長吏集落を町の外部に置こうとする動向は、戦国末期から近世初期の、城と城下町の形成の際に、ほぼ共通して見られる」として、「こうした動向は、城下町だけでなく、宿場町においてもほぼ普遍的であった」と述べています。
 「東京 練馬・板橋」では、「近世の練馬部落史について多くの情報を提供する文献が存在する」として、1940年に発表された夏山茂「練馬部落異聞」を挙げ、「夏山茂(筆名)は重右衛門の孫で、1869年生まれ、幼い頃から祖母、すなわち重右衛門の妻より練馬部落の歴史を繰り返し聞かされて育ち、それに基づいて自らも積極的に地域の調査を行い、『異聞』ではそうした成果もふまえて、近世における練馬部落の実像やエピソードが豊富に紹介されている」と述べています。
 「東京 近現代」では、「『解放令』によって、関東一円の『穢多・非人』を支配していた弾左衛門態勢は崩壊した」が、「明治に入り、これまで被差別身分に属する権利(職分)でもあった斃牛馬処理・取得その他の権利が否定され、他産業への就職、進出が差別によって拒まれると、部落の人々の生活は急速に貧困化していった」と述べています。
 そして、「明治に入り、東京の部落の人々の部落産業とも言うべき生業は、主に皮革、食肉、履物、幕末の織物業の発展とともに需要の高まった筬(織機の部品)等に集中するようになった」と述べています。
 特論4「近世の部落史における弾左衛門体制」では、弾左衛門体制の特徴として、
(1)支配領域がきわめて広範であった。
(2)幕府(特に江戸町奉行)の直轄下にあった。
(3)支配システムがきわめて整備されていた。
(4)非人身分を支配下に置いていた。
の4点を挙げています。
 本書は、関東地方における近世を中心とした被差別部落を分析した一冊です。


■ 個人的な視点から

 関西に比べると被差別部落問題の話題が出にくいと言われる関東ですが、当然ながら近世に制度として運用されており、関東地方の特徴として「弾左衛門体制」が敷かれていたことが各地の資料からよく分かる一冊です。


■ どんな人にオススメ?

・近世の社会を理解したい人。