2004年12月31日

正月の思い出

 新しい年を迎えてブログによるリレートークも正式にスタートした。2005年はどんな年になるのだろうか。世界に平和が訪れることを心から願ってやまない。そこでそんなに豊かではなかったが、まだ平和だった私の小学生時代の正月を思い出してみたい。(写真は3年生ぐらいの頃)

  小学生のころ

 除夜の鐘が鳴り終わって年が明けても母たちは忙しかったが、私は4時頃起こされて父と明治神宮に初詣でに行った。眠いし、寒いし子ども心には余り楽しい行事ではなかった。

 

 帰宅するとキチンとした服装で一家揃って正月の膳につく。わが家ではまず父親が威儀を正して新年の心がけを訓示、それからご馳走を食べる。雑煮は関東風で、小学生でも四角に切った餅を年の数以上は食べた。

 

 そこそこにして霜柱を踏んで学校へ。その頃はまだ体育館や講堂はほとんどなかったので、私の通っていた学校では、3つの教室の開閉仕切りを開けて、そこに生徒が集まった。人員の関係で、たしか3年生以上だったと思うが、それでも七、八百人になるので、各クラスが前から1列、立ったままだった。

 

年賀の式はなかなか厳粛で、君が代と「年のはじめ」を斉唱、続いて教育勅語の奉読だが、三宝に乗せた巻物を教頭が白手袋で恭しく捧げ持って校長に渡した風景が忘れられない。校長は間違えると大変なので緊張し、内容はよくわからないなりにも生徒たちにその気持が伝わった。校長の話が終わって紅白の饅頭か、干菓子を貰って解散した。  

 

こういう式は当時年に4回あったが、子供心にも年のあらたまる思いがした。しかし帰り道には緊張がほぐれたのか、「松竹ひっくりかえして大騒ぎ、芋を食うこそ楽しけれ」などと「年のはじめ」の替え歌を歌ったりして帰宅した。

 

正月3ガ日は店も休みなので、昨日まで慌ただしかった町なかも、ひっそりと静まりかえっていて、通るのは年賀や初もうでの人たちがチラホラ。大人たちは家で来客の接待をしたり、年賀挨拶に出かけているので、子どもたちは外で凧揚げや羽根突きをしたり、家や友人の所でカルタ、双六その他の遊技などをして遊んだ。

 

 年賀状は正月に書いたような気がする。また書き初めも正月行事で、うまく書けないと結構時間がかかった。親戚の人などが来るとお年玉を貰うのは楽しみだったが、私は割に内向的なところがあったのか、座敷で客の相手をするのは苦手だった。

 

それでも松の内は正月気分で、両親の故郷から送って貰ったかき餅やミカンを随分食べた。父に連れられて代々木の練兵場に観兵式を見に行ったこともある。はじめてのことだったので珍しかった。また常陸太田にある母の実家に行ったこともあるが、水郡線の列車にはストーブがあったり、「あんこう」を初めて食べたのも想い出である。

 

 6年生の時は中学受験を控えていたので落ち着かなかったが、中学生になると式のための登校はなかった。しかし剣道や柔道の寒稽古があり、終わった後の汁粉が何ともいえなかった。そして中学3年生になると中国との戦争が始まり、次第に平和な正月とは縁遠くなっていったのである。

 

 

 

 



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この記事へのコメント
さすがぉ! 熊谷さん やりましたね!
凄い。カラフル。写真付きだし。言うこと無し。
後を付いて行きますよ。ただし、時間かなりかかりそうですが。
思い出しました。年末の風景・「四方拝」即ち元旦の学校の「式」白赤の菊の干菓子 貰ったこと 熊谷さんの記事で昔にBack。
年末・年始の昔のこと。子供や子孫に残したいものです。
この意味で blog リレートーク 良いことです。
斉藤さん 中西さん 藤田さん いろいろと ご苦労様です。と、同時に 熊谷さんの 実践的な解説も大変役に立ちました。まだまだの市川ですが 教えてください。

お正月にあたり (何時もと違って在宅なので)整理と読書。セネカの本4冊(中野孝次の本3つ。岩波文庫ひとつ)を順に読み、考えさせられました。
大阪の後輩の友達に 手紙作ったので その一部を 「リ・ト」の正式の私の第一号として、斉藤さんに送りました。
今年がおだやかで 災害 にくしみ のない 世の中に なって欲しいと 願っています。
Posted by 市川孝二 at 2005年01月01日 15:29