2020年5月30日

 このところ、観た映画について。MCU関連は変わらず、いつもなにかしら観ているけれど、今回もそこにはふれずに、その他の映画について。比較的新しいものといえば『フォードVSフェラーリ』。これは今、観なきゃいけない映画。クリスチャン・ベイルもマット・デイモンもたまらなくイイし、ジェームス・マンゴールドも『LOGAN/ローガン』に続いて最高。さて、この映画はなにを描いているのだろう。もちろん、それはいろいろなんだろうけど、ぼくには個と企業の対比(仕事をするとはどういうことか)が今さらながら響いた。そして、太陽とスピードの中で、ほんとうの個になるラスト。自分への問いかけがどうしても泣けてしまう。前作『LOGAN/ローガン』も最高だったけど、これってマーベルの中ではどう位置付けになるのかな、ってぼくはよくわかっていなくて・・・だけど、そうしたことも踏まえて、撮ったということだったのだろう。はじかれたものの物語。大事なものを抱えていれば、そうなる。それでいい。


 車ものの映画といえば、『ラッシュ/プライドと友情』。これも超名作。主演は我がソー、クリス・ヘムズワース。なにげに、彼はソー以外でも当たり役が多い。同じ、ロン・ハワードの『白鯨との闘い』も素晴らしいし、あまり話題にならなかったけれど、マイケル・マン『ブラックハット』も最高だった。『ラッシュ/プライドと友情』も実話ベースの映画で、これ以降は、実話ベースの、対決もの、が増えた(と思う)。『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』『ボルグ/マッケンロー』とか優れた作品が多く、ちょっとちがうかもしれないけれど、『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』もかなり好き。『ラッシュ/プライドと友情』の主演はクリス・ヘムズワースだけではないですね・・・ラウダ役としてダニエル・ブリュール。ラウダは昨年の5月20日にお別れがあり、改めて、映画を観直した人も多いと思う。


 車といえば、ワイスピ。じつはかなり好き。というと「えー」と言われることが多いけれど、ワイスピ、最高っス。新作の公開は延期になっているけれど、今後はあの、世界各地を走り回るロケはどうなるのだろうと心配。それとさ、ワイスピのサントラって、まさに「今」の曲が満載で、それもまたチャラい感じで最高なんスよね。


 サントラ・・・つまり、映画のスコアの話もすると、最近ラジオでトークの後ろにかけているのは、『ムーンライト』のニコラス・ブリテルのスコア。『ムーンライト』もついつい何度も観てしまうけれど、それはフランク・オーシャンだからで・・・。さらに、スコアがイイというのもある。監督バリー・ジェンキンスの次の作品『ビール・ストリートの恋人たち』もやっぱり良くて、スコアも同じくニコラス・ブリテルで、音としては、こっちの方が好きで良く聴いている。やはり、「名作には名コンビが」ということになるのだろう。『ムーンライト』はA24の制作で、この話もラジオでしたけれど、名コンビとA24の制作ということでいえば、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』。これまたかなり好きな作品で、いろんな名コンビ(ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ)がいるわけだけど、なんといっても、監督デヴィッド・ロウリーとダニエル・ハート。で、この作品のスコアも最高だけど『さらば愛しきアウトロー』はとんでもない。これもラジオでかけている。いつも聴いている。もしかしたら、これが昨年の一番好きな映画かも。音かも。とくに冒頭から、お互いが出会い、会話が見えてきてのタイトルコールの時点で、この作品が自分にとって、特別なものだということがわかってしまう。そこまでの音の入っていく流れと合わせて、なんど観ても涙が出る。そして、昨年の好きな映画・・・といえば『荒野にて』(イギリスは2018年公開)。これもA24制作。なんども観たなぁ。監督アンドリュー・ヘイの前作『さざさみ』は思ったよりも入ってこなくて、というか入っていけなくて、そっちも改めて観たりしたけど、やっぱり『荒野にて』は特別な作品だった。クロエ・セヴィ二―とスティーヴ・ブシュミ。それはアンドリュー・ヘイの憧れの2人ということだったらしく・・・それってイイ話だなぁと思って。その2人の存在の大きさって、自分が学生の頃を思い出すとよくわかるというか・・・アンドリュー・ヘイって47歳で、イギリスで、ということも合わせて、そうなるよなぁと思って、熱くなった。


2020年5月27日


 ラジオではMCUの話をしました。どこかのタイミングで書きたい、と思っていたのですが、これは書くより、話した方がいいのではないかと思って、そして、28分曲をかけずに話すことができるか、しかも、編集なしでいけるかという妙なハードルを自分に課して収録したのです。まぁ、これはちょっと先のことを意識してのことでもあるのですが(それは形になったら報告します)・・・。とはいえ、まったく台本がないのはさすがに不安なので、ざっくりしたものは書いていきました。


 聴いてくれた方の感想では、「MCUではない、ほかの映画の話も」というのがあって、そういえば、映画についてなにか書いたものがあったはず、と思って探してみると、以前、書いて、だけど、これまた企画がお蔵入りしたものがあったので、載せてみようかなと。そこで、読み返してみて、やはり直したくなったので、加筆修正はしたのですが、なんとなく話すように書けたらと思っていたようで・・・いろいろ話題がつながっていって、移っていって、という感じですね。それは前回までのブログでもやったのですが、今回もそんな感じです。この企画用に書いたものは未完のものも入れるとまあまの数があったので、ちょこちょこ出していけたらと思います。


*


 近年の映画について考える時、どのように観ているか、というのを考えることが多い。それは劇場か、DVDなどのソフトか、または配信か、という「どこで」「なにで」観ているのかというのと、監督(作家)で観ていくのとは別の「シリーズもの」として観ていくというものについてである。もちろん、シリーズものといえば、スターウォーズを筆頭に以前からもあったし、007のように主役や監督も変わっていくスタイルの歴史が長いものもあるわけだけど、近年の映画自体の在り方はそうしたものから大きく変わっていったといえるだろう。そのもっともなのが「マーベル・シネマティック・ユニバース」通称MCUである。それぞれ単体の作品の面白さもさることながら、主人公(ヒーロー)が一堂に集う『アベンジャーズ』は作品のクオリティ、面白さ・・・メインのプロットの秀逸さと伏線の回収の巧みさが絶妙で・・・今までできそうできなかったことを見事にやってのけ、新たなスタイルとして、世界中のファンを虜にしてきた。その、新たなスタイルとは、まさに「どこで」「なにで」観ても面白く、あらかじめ何度も見直すことが前提の・・・見るたびに発見や気づきがあって・・・むしろ先に進むよりも以前に遡りたくなるようなつくりになっているところである。また、その都度時代の変化や世界が向き合わなきゃいけないテーマを取り入れ、ゆえに多少ストーリーの展開に無理が出ても、それを逆に強みとしてつくり、観客に問いかけていくというものである。もちろん、そうしたスタイルの弊害も出てくるし、そのこともまた今の時代を象徴しているものにつながる・・・ファンたち(みんな)の作品になってしまう・・・という問題があるわけだが、やはり、自分のような何度も繰り返して観てしまう輩は、その都度盛り上がり、感動してしまうわけで、まさにMCUの「宇宙」にハマったといえるだろう。これはやはり、ケビン・ファギの功績ということになるのだろうか。(もちろん、そう。エンドゲームの完成披露の時も、ファギに対しての拍手はすごかったとなにかの記事で読んだ)


 でも、今回はMCUのことではなく、いろいろ、つらつらと書いていこうと思う。シリーズものといえば、2001年からの『ハリー・ポッター』と、『ロード・オブ・ザ・リング』があり、それは人気もあったわけだけど、ぼくとしてはハマれなかった。テクノロジーの発展と共に、再現できる映像が増えるわけで、そうなると原作からのファンの視点が大事になり、映画が物語重視になっていくことは避けられないものだったのだろう。そうした流れは2012年の『ハンガー・ゲーム』につながっていくのだと思うのだけれど、これまたハマれず・・・。思い返してみれば、「ジェイソン・ボーン」や「イーサン・ハント」、「杉下右京」のようなシリーズものは、なんだかんだとずっと観てきたものもあったわけだけど・・・そんな中でかなり好きなのが、『ジャック・リーチャー』(1作目はアウトロー)と『イコライザー』である。『ジャック・リーチャー』は原作のシリーズがアメリカではとても人気で、「トム・クルーズ、なかなか良いシリーズものに当たったなぁ」と思ったし、『イコライザー』もデンゼル・ワシントンとアントワーン・フークアのコンビは『トレーニング・ディ』(大好き)以来ということで「間違いない」と思っていて、実際に観ると、どちらも最高で、続編はどちらも評判はあまりよくなかったけれど、これまたぼくはかなり好き。できれば、今後も続けてほしいなぁと思っている。この時代に「正義とはなにか」を問いかけることをあえてせずに、ある意味わかりやすく、弱者の見方をしているところにも惹かれるし、ブルース・ウェインやトニー・スタークのように財産に恵まれているわけでもない、だけど、なぜかやっていけているところも、いいなぁと思う。というか、そこもあえて突っ込んでいないところがいい。どっちの作品も「ここで、その演出なんだ!」という驚きがあって、そうした変な引っかかりが残るのが好きで、ついついそうしたシーンばかり繰り返して観てしまう。トム・クルーズもデンゼル・ワシントンもどちらも制作にも関わっているということなので、なんとか、続編もお願いします。


 先日ふと観直したくなって『マイレージ、マイライフ』を観た。これも好きな作品で気づくと、1年に一度は観直しているような気がする。このジョージ・クルーニーはほんとうにイイ。そして、ヴェラ・ファーミガがとにかく最高で、「彼女を観たくて」というのが繰り返し観てしまう理由でもある。そして、今作はアナ・ケンドリックも出ていて、アナ・ケンドリックといえば、『ピッチ・パーフェクト』というシリーズものになるわけだけど、やっぱり最初の『ピッチ・パーフェクト』は楽しいし、アナ・ケンドリックもまさにハマったわけで、やっぱりかわいい。だけど『マイレージ、マイライフ』のアナ・ケンドリックはそれとはちがう「かわいい」を見事に演じている。そういう意味ではジェイソン・ライトマンはうまいなぁと思う。この監督、『JUNO/ジュノ』もイイんだよなぁ。で、『タリ―と私の秘密の時間』も良かったんだけど、ちょっと画が語りすぎているように思えて、イマイチ入っていけなかったので、なんとなく悔しい。


 このジョージ・クルーニーの良さに匹敵するのは、『ファミリー・ツリー』だけど、アレキサンダー・ペインは『ネブラスカ』も合わせて、家族を考えさせる、ということにおいて、とんでもない作品を撮ったなぁと思う。この2つの作品も、繰り返して観てしまうし、観ていると「これって、『北の国から』じゃん」って思ってしまって、そうなると、自分のシリーズものの究極は『北の国から』ということになるのではないか、と思ったりもする。



2020年5月24日

チャーハン考

 チャーハンという食べ物がある。誰もが食べたことがあるだろう。好きな食べ物だという人も多いと思う。ぼくもよく食べる。自分でも作るし、作ってあげたこともあるし、作ってもらったこともある。もちろん、お店に入って注文して、食べたこともある。というか、とても、ある。だけど、考えてみると、チャーハンだけを食べるということがぼくはほとんどない。家でつくる時も、外で食べる時も、チャーハンは常になにかと一緒だ。そして、そのほとんどがラーメンだ。中華のお店に入り、チャーハンがあると、そして、半チャーハンがあると、さらに、そのラーメンがクラシックなもの・・・味が醤油であれば・・・ほぼ間違いなく、半チャーハンを注文する。そして、昼時、ラーメン屋や中華料理屋に入れば、ぼくのような人がたくさんいることがわかる。今日のランチということで「ラーメン・半チャンセット」という表記もかなり見かける。なので、これは人気のある、魅力的なセットメニューということになるのだろう。


 だけど、食べていて、よく考えることがある。「ラーメンとチャーハンの組み合わせってほんとうにベストなのだろうか」と。人類がつくった、もっとも偉大な食べ物がラーメンなのは疑いがない。ぼくは常にラーメンのことを考えている。いろんな人とラーメンの話もする。どんな状況でもラーメンを欲する。「今日はちがうだろう」「この体調でラーメンはないだろう」と思っていても、気がつくと、ラーメンを食べていることがある。「この店の、このラーメンのような作品をつくりたい」と思ったこともある。「この店の、この感じでイベントをやれたら」とか考えたりもする。また、それだけの想いがあるからこそ「なんで」「どうして」と思ってしまうラーメンもあるし、お店もある。人気がある、人が並んでいる、そうしたことで判断してはいけない。「まずは、自分で食べなくては」と思わせてくれるのも、ラーメンである。そして「結局、それぞれの好みだから、ね」という話にもなるのだが、それで片付けてはいけないものがあると思ってしまうのも、ラーメンである。


 それだけ、好きな、常に食べているラーメンに、なぜか食べるにあたって、ひと呼吸置きたくなるというか、ワンクッション置きたくなるというのがある。基本的にお昼時や、混雑時を避けて食べるようにはしているが、たまに正午の昼休みの混雑時に食べる時は、ラーメンに没頭する人たちに遭遇する。その食べ方に憧れるのだけれど、ぼくはなんというか、ひと呼吸とってしまいたくなるのだ。そして、その間(ま)、ワンクッションの受け皿として、半チャーハンの存在がある。ラーメンとの間を取るというか、ひと呼吸おいて、しっかりラーメンに向き合うために、ちょっとラーメンから離れるということがあるのだ。その時に、半チャーハンの存在はとても大切なものになるのだ。つまり、ぼくにとっての半チャーハンは「ラーメンだけでは足りないから、半チャーハンも」という量のことではなく、ラーメンとの距離というか、間の取り方としての存在が半チャーハンなのだ。ただ、味という意味では、ラーメンとチャーハンというのはぶつかってしまうなぁと思うこともあって、食べ始めの時は、間が取れていても、食べ進めているうちに、間が詰まってきてしまうというか、どう食べていけばいいかわからなくなることがある。そういう意味では、白いごはんの方がラーメンの味を受け止めてくれるし、「ラーメン&ライス」という方がベストだと思う人もいるからか、お店によっては、その組み合わせを押してくるところもある。もちろん、ぼくもそのコンビで食べることもある。だけど、これはなにかが違うのだ。ラーメンを注文する際に、最初からごはんを頼むことはない。それなら「ラーメンだけでいいかな」と思ってしまう。ただ、食べているうちに、やっぱりあった方がいいかなと思って、追加で頼む、というのが流れだ。これはどういうことだろう?ラーメンの味によって、チャーハンで、白いごはんで、というのがわかりやすい正解なのだとは思うけれど、ぼくにはもっと違う「なにか」、それぞれの存在というか、キャラクターというか、そうしたことが関わっているのだと思う。


 きっと、ラーメンからの、チャーハンという考えではなく、チャーハンをまずちゃんと考えていくことで、なにかが見えてくるのだと思う。だけど、先にも書いたように、なぜかチャーハンだけを頼むということがないのだ。そして、チャーハンだけを作って食べるというのもない。コンビニには冷凍食品のチャーハンが100円くらいで販売されていて、それはチャーハンという存在をよくわかっている、的確な量、値段、味だと思っている。それよりも多く、高く、濃い、冷凍食品のチャーハンもあるが・・・それはその都度、量を決めて食べればいい話なんだけど・・・ぼくにはなにかが違うのだ。ほんと、チャーハンとは一体、なんなのだろう。


 みなさんはチャーハンについて考えたりするのだろうか。ラーメンほどではないけれど、チャーハンもそれぞれの語りたい要素があるのではないだろうか。パラパラがいいとか、しっとりがいいとか、そういうことだ。で、考え始めると、立ち止まることはないだろうか。「あれ、自分の好きなチャーハンってなんだ?」「いや、そもそもチャーハンってなんだ?」と。


 最近こんなことがあった。たまに食事に行く、お酒もちょっと飲んで・・・というお店でのチャーハンのこと。そこでは所謂〆にチャーハンを頼んでしまうことが多い。これはなかなか、理解されなくて、一緒に行った人たちも、「ここでチャーハン?」となって、あまり食べてもらえない。でも、なぜか、始めの方に頼まないで、最後の方で頼んでしまうのだ。ぼくもまた、なぜなのか、わからない。でも、ぼくにとってのチャーハンという存在を表しているようには思う。なかなか、そのお店に行くことができないでいたので、久しぶりに行くと、なんと、メニューからチャーハンが消えていた。やはり、頼むのがぼくしかいなかったからだろうか。お店の人に確認すると、なんでも料理担当の方が辞めるそうで、そうなるとメニューも変更しなくてはいけないということらしい。そこで、チャーハンは見直さなきゃいけないメニューとしてカウントされてしまったのだ。なぜだろう。とても悲しい。「いいじゃないか、他で食べれば」と思っても、なにかが違うのだ。ここで、あの、チャーハンを、最後に、頼めなくなるのが悲しいのだ。いや、「とても」悲しいのだ。これはぼくがチャーハンという存在をちゃんと考えてこなかったからだろうか。もうメニューにはないけれど、辞める前にこっそり作ってもらうべきか、そんなことをいま、考えている。




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