12月22日

気がつけば今年も終わりに近づいている。
一年が過ぎていくのが早い。
今年はずっと体調が悪く、「どこも痛くない」「具合が良い」という日がほとんどなかった。

そうなってくると、実現したかったこともできなくて、かなり落ち込んだ。
具合が良くないと、こんなにダメになってしまうんだ、と今更ながら思うことが多かった。

それで・・・
良くなる時を待っていても不安になるばかりなので、良くても悪くてもやっていけるようにしたいといまは思っている。
というか、来年からはそうしたいと思っている。


今年、唯一、続けてきたのはnoteの連載だ。
と言っても、いままで書いてきたものを中心に定期的に更新して、できれば、いろいろな方に読んでもらいたいというもので、いままでの作品を整理し、これからどうやっていくのが良いのか、考えながら続けた。




じつは・・・
ホームページもなく、SNSも続かず、なにもしていなかったのだ。
自費出版でつくってきた本もなくなり、ライブもほとんどなく、ラジオもやめてしまった自分はほんとうにどうしたら良いのか、悩んでしまっていて・・・というか、ずっとそんなことを考えてきて、「いよいよヤバいね」ということになり、今年はnoteをはじめた。

で、これは「続けていく」というのが目標で、改めて自分のことを考え、残していこうと思ったのだ。なので、続けられるように、自分ではなく、スタッフに管理・更新をしてもらうことにして、そのうえで、少しずつ周りの人に「noteやっているんです」と伝えていくのが今年なんとかやってきたことだった。

「続けていく」。そして、できれば見てもらえるようにする、となると、新しく書いて、しかも、ちょっとおもしろいものを、ということになるので、そこもちょっとはがんばってみたのだけれど、やはり、かなり慎重になってしまうし、やっていくと「これって、なんか、意味あるのかな」とか考えてしまって、どうしても迷子になってしまう。

なので、このブログはnoteに向けたリハビリというか、シンプルに、呆気なく、メモを見つけたら、すぐにUPしていくものとして、8月末から続けてきた。(noteは時間をかけてつくっている)


あえて、丁寧にではなく、投げやりな感じでできるか、自分で試してみたかったのだ。




内容もメモのような、言葉の断片を仕上げてしまわないで、UPしていき、読書感想文なども、なつかしいもの・・・だけど「今年」の大掃除で再見したものを書いてきた。

で、結果はどうだろう?
たしかに、noteよりも、自分が出ているような気がするし、こうした方が面白いような気もする。

でも、やっぱり、こうやっていると続かないんだよね・・・。

なので、今日でブログは終わりにします。


さっき、ホームページもSNSも続かない、と書いてきたけれど、それだけじゃない。ほとんどなにも続かなかった。だけど、ずっと残っていたのが、このブログだったのだ。

いったい、いつから、このブログは存在したのだろう。





自分がこの活動を始めてから、今年で28年になる。その頃はメディアは限られていて、仙台のタウン誌や新聞に取り上げれるだけで、すごいことだった。知り合いや近所の人に「見たよ!」と言われて、うれしかった。

だけど、結局、それも飽きられてくるし、イベントなどの集客に結びつくか、と言えば、そんなこともなく。また、なにかやる度に必ず紹介してもらえるわけでもないので、このブログのように自分で発信できることは、ほんとうに驚きだったし、すごいことだと思った。


だけど、だけど、なんだよね・・・



じつは、ツイッターもインスタも限定的にやったことがある。(フェイスブックはない)
それも、やっぱり「はじまり」は「すごい!」となる。

でも、自分はいまいち、そうしたものに乗り切れなくて、というか、信用していなくて、もっとはっきり言えば、嫌いなので、すぐにやめてしまった。


でも、このブログだけは残った。
といっても、ほとんど更新していなかったので、これも「やっている」ということではなかったのだけれど、残しておいた。

一時期はそれなりの人が見てくれていたけれど、いまはほとんど誰も見ていない。

それでも良いと思っていたけれど、やっぱり、ちょっと、ちゃんとやらなきゃいけない時が来てしまった。

なので、来年はnoteを続けながら、ライブもして、たとえ具合が最悪でも、最高のものができるようにしなくては、と思っている。


というわけで、ここで、このブログは終わりにしたいと思います。

いままで、ありがとう。
(これは見てくれている人に言っているのではなく、このブログに言っている)





☆★☆★☆★☆★・‥…━━━☆・‥…━━━☆゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆





はっきり、いつから始めたかがわからないのだけれど・・・

上の文章を書いて、下書きに保存してから、調べてみたら、たぶん2005年に開始したのではないか・・・と思う。

なので、来年で20年になるのかな。


来年になったら、このブログは消滅します。





12月18日



いまさら読書感想文。
今年、また読んだ本。

『とかげ』吉本ばなな。
『対岸の彼女』角田光代。


好きな本。好きだった本。
まだ好きかもしれない本。


『とかげ』の中では「キムチの夢」が好きだ。
キムチも好きで、風邪をひいてしまうのもちょっと好きで、だけど、風邪をひいている時に見る夢は怖い夢が多いので、子どもの頃から苦手だ。

そして、あんな風に電話が鳴って、気まずさとともに、なにかを悟ったような瞬間も好きだ。

というわけで「キムチの夢」は最高だ。
いま、読むと、またイイのだ。


特別おもしろくもないTVを見ながら、2人で何となく話していた。どうやっても気分が冴えなくて、話も冴えなかった。最近、調子悪そうだね、と彼は言い、そうでもない、と私は言った。少し疲れ気味かな、とは思うけれど、と。その時だった。

その変化が自分のなかであまりにもはっきりしていたから、思わず時計を見てしまった。
10時15分。





『対岸の彼女』はマスターピースだ。
あの時のこと。あの時のことを書いていること。

ずっと痛みを持ったまま、年を重ねることを教えてくれる。


葵の「いま」と葵の「あの時」がつながっていく時に、ぼくにも対岸の様子が浮かんでくる。
学校、あの時の親、友だち。働くことの意味、そして、そこからの親、子ども、周りにいる誰か。


自分がときおり、何もかもうまくいかないと悲観的に思いこんで、外に出ていくことがとことんいやになってしまうのは、岩淵さんみたいな女性が原因なのだ。


そして。
魚子にはもう会えない。
会ってはいけないということなのかな。
そんな誰かが、ぼくにもいる。


なんであたしたちはなんにも選ぶことができないんだろう。
なにかを選んだつもりになっても、ただ空をつかんでいるだけ。自分の思う方向に、自分の足を踏み出すこともできない。
もしどこかでナナコがひどく傷ついて泣いていたら、あたしには何ができる?
なんのためにあたしたちは大人になるの?
大人になれば自分で何かを選べるようになるの?大切だと思う人を失うことなく、いきたいと思う方向に、まっすぐ足を踏み出せるの?



あの時にしか書けない手紙がある。

ハローアオちん。



12月11日


いまさら読書感想文。

というか、いま読んで思うこと。

『こころ』夏目漱石。
『三島由紀夫のレター教室』三島由紀夫。
『痴人の愛』谷崎潤一郎。

どの作品も学生の頃、夢中になって読んでいた。
感想を友人に熱く語ってもいた。
それぞれの作家、他の作品も読んでいたが、この3作品が好きだったと記憶している。

近年も何度か、読もうと思って、パラパラとページをめくるのだが、なぜかピンとこない。
あの頃、どこに、どのように夢中になっていたのかを考えるようになった。
そして、今年思い立って、読んでみた。

夢中になれたのかな。。。
あっという間に読めたと言えば、読めたのだけれど。。。


この3作品に対して、じつは同じような感想を持ってしまった。
なんていうか・・・・・・告白をされている感じがあって、まあ実際にそういう内容だから、文体もそうなっているのだけれど、その告白がいまのぼくにはあまりハマらない。

『こころ』はまさに手紙による告白で、その長さに圧倒されてしまうのだけれど、この手紙を書くまでに至った理由がどうしても、いまの自分が考えていることからズレてしまうような気がしてくるのだ。

それはなにか、というと「ここまで考えてしまうことを言葉にしても良いのか」ということ。恐らく、学生の頃・・・・・・というか、単純に若い時の自分はこのテンションに圧倒されて、こんなに繊細に、詳細に、考えてしまう彼の心にふれて、感動してしまったのだと思う。もちろん、いまの自分にもそのようなところはある。だけど、やっぱり、ここまで思いつめて、それを言葉にしてしまう「すごさ」にどこか冷めてしまう自分がいる。


ところが、である。東浩紀氏の『ゆるく考える』の「少数派として生きること」を読んで、「なるほど」と思った。この文章は、二十年ぶりに『こころ』を読み返した、ということで始まり、以下のような箇所が出てくる。

 先生が自殺したのは、Kへの罪悪感(倫理的問題)ゆえでもなければ人間存在への絶望(存在論的問題)ゆえでもなく、ましてや明治天皇の死(政治的問題)ゆえでもなく、単に、「私」に出会うことで彼が性的な真実に気づいてしまったから(性的問題)、妻帯者だというのにいまさら自分が同性愛者であることを自覚してしまったがゆえではないかと、筆者は思う。 <略> 「先生の遺書」は、ずっと自分を異性愛者と信じ、妻帯者として生きてきた中年の同性愛者が、若い同性愛者に向けて記した長い長いラブレターなのだ。だからこそ、先生は遺書で「妻には何も知らせたくない」といくども念を押すのである。


そうだとすれば、あの「長さ」、あの「言葉たち」は納得がいく。むしろ、そうでなければ、いけないのかもしれない。愛は、言葉をつかう。



ぼくは手紙というものが、とても大切なものだと思い込んで生きてきた。それは自分の気持ちを綴るもので、自分の思ったことを整理し、伝えるもので、時には告白のような決意を記すものでもあった。(と思っていた)実際、ぼくの詩は手紙を書くように綴ってきたし、「てがみ」というタイトルの詩もある。これは震災後、最初に書いた詩だ。その詩を大切にして、「手紙」というラジオ番組を続けてきたし、「手紙」という連載も書いてきた。だけど、いまのぼくは「手紙を書くこと」を疑っているのだ。


それは、手紙を書くこと、手紙を届けること、手紙を受け取ること、手紙を読むことの状況が突然わからなくなり、むしろ「手紙なんて書いていてはダメなのではないか」と思うようになったのだ。これはヤバいことで、深い問題でもある。(ぼくにとって)


ちなみに、最近はあまり仕事をしていないので、メールをする機会も減ってきたのだが、メールでも同じようなことを思うことがある。なんていうか・・・・・・考えを整理し、伝えることが、変に理屈っぽく思えてしまうのだ。その理屈が共有されていれば良いのかもしれないが、なんか、一方通行な気がしてしまうのだ。



今回『こころ』と『レター教室』を読んでいても、どうしても、それぞれの理屈っぽい語りに入っていけず、なんとも取り残されてしまうような気がした。そして、それはいろいろな詩を読む度に思ってきたことでもある。そんなことでは、ダメだと思いながらも、詩を読んでいると、「そう言われてもなぁ」と変に距離を感じてしまうのだ。これは「わからないからツライ」ということではない。ぼくは作品にふれることはわからない、理解できないことでも良いと思っているし、むしろ、そうでなくてはいけないと思ってもいる。あっ、いま書いていて、思ったのだけれど、むしろ「わかってしまう」のが嫌だったのかもしれない。なにを書こうとしているのか、書いてしまっているのかがわかってしまうことがツライのかもしれない。


逆に言えば、それで良いのだとも思う。思っていること、書きたいこと、表現したいことをその人が勝手に書けばいい。それを時に強引に、時にはっきりと伝えることは、作品の素晴らしさでもある。そのことはもちろん、わかっている。だけど、やっぱり、最近はそのことを考えてしまうのだ。



『痴人の愛』もいま読むと、ナオミのしてきたことを告白する文体が以前読んだ時とちがう印象で届いてしまう。かつてはナオミのことばかりが浮かんできたのだと思う。ナオミの厄介さ、そして、それが魅力になってしまうことの複雑さが、歪な愛の形として響き、いつか、自分もそんな作品を書いてみたいと思った。だけど、いま読むと、そんなナオミのしでかしたことも可愛いものに思えてきて、厄介な愛と厄介な情の問題を改めて考えてしまった。

心と体の問題は自分ではコントロールできないのだろう。だけど、言葉はどうだろうか。それを伝えてしまう時、伝えたいと思ってしまう時、言葉はその人の理屈、考え、思いに沿って、より多く費やされるのではないだろうか。そして、そこにはこちら側の入っていける余白はあるのだろうか。


もちろん、余白があったから、良いというのでもない。さっき書いたように、逆に言えば、それが文学の魅力なのだから。繰り返すが、それはわかったうえで、いまのぼくはなにを望んで言葉をさがしているのかを考えたのだ。そして、手紙を書く、ということは、これから、どのようになっていくのだろうか、とも思った。




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