いまさら、読書感想文。
大学生の頃(30年前)、買った本を読む。
今回はフィリップ・ディジャン『ベティ・ブルー』。
あの頃、友人の影響で様々な映画を観始めたぼくは、なにもわからず、ベネックスの『ベティ・ブルー』はすごい映画だと思い込んだ。頬を赤くして、ベアトリス・ダルのことを友人と語ったりしていた。なんとも青臭い日々のことだ。そこから、カラックスの作品で異次元の衝撃を受け、ゴダールなどを知っていくうちに「あれ、ベネックスのベティ・ブルーって、あまり好きって言わない方がいいのかな」と思うようになったのだった。
そういうことって、多々ある。
だけど、時間が経ち、逆にいろいろなことを考えると、あの頃出会ったものを「好き」と思った自分に会いたくなってきた。
そこで探してみると、すべて「まだ」ある。
映画のDVD。パンフレット。サントラのCD。
そして、原作の小説。
その中で一番なじみが薄いのが小説だ。
映画は何度も観たし、サントラも聴いた。
ただ原作はちゃんと読んだ記憶がない。
いや、もちろん、読んではいるのだろう。
だけど、恐らくは一度だけで、ほとんど覚えていない。
今回、約30年振りに読んでみると、かつて考えていたことをいろいろ思い出す。
と同時に、かつてわかっていなかったことにいろいろと気づく。
どうしても、映画の印象が強く、読んでいると映画の場面が浮かんでくる。
「ぼく」はどうしてもジャン=ユーグ・アングラ―ドだし、ベティは絶対にベアトリス・ダルだ。
だけど、読み進めていくうちに、文体にハマっていく。
訳者のあとがきに書いてあるように、フィリップ・ディジャンはケルアックの影響を受けていて、さらにセリーヌを敬愛していたようだ。実際にラストのところでもケルアックの言葉が出てくる。
あっ、あとブローディガンも。
物語が始まる前の引用もブローディガンだ。
これが、いい。
そのため私は物思いにふけったが、
あまり長いあいだではなかった、
すぐにバビロン行の船に乗ったからだ。
青臭い日々とさっき書いたが、それはぼくや当時ハマったみんなだけではなく、ディジャンもそうだったのではないか。「ぼく」の物語としての『ベティ・ブルー』はディジャンの物語だったのだと思う。映画のイメージが強いので、恋愛ものとして有名になってしまい、サブタイトルも「愛と激情の日々」となっている。で、実際にそうした話であるのは間違いないのだが、文体が「ぼく」語りで進んでいくためか、単なる恋愛ものだけではなく、もうちょっと俯瞰していろいろなことを見ていることがわかる。そうした箇所をいま読むと、この本を書かずにはいられなかったディジャンの思いを感じて、感動する。そして、それがわからなかった、あの頃の自分になにか伝えたくなってくる。
人々が街に出ている時刻で、仕事が終わって帰宅するのだ。そのときくだらないネオンがまたたきはじめ、目をしばたき肩を丸めて光の滝のなかを渡らねばならなかった。ぼくはそれらを心から憎んでいたが、隣にいるベティの存在が全体を奇妙に我慢できるものにしてくれ、そうしたくだらないものにうんざりすることもなかった。それでも大多数の人たちはぞっとするような顔をしており、事情が変わっていないことがわかった。
この本に、この映画に、またふれることがあるのだろうか。
もしかしたら、また10年、20年後にそんな時があるのかもしれない。
原題もいい。
『朝、37度2分』。
大学生の頃(30年前)、買った本を読む。
今回はフィリップ・ディジャン『ベティ・ブルー』。
あの頃、友人の影響で様々な映画を観始めたぼくは、なにもわからず、ベネックスの『ベティ・ブルー』はすごい映画だと思い込んだ。頬を赤くして、ベアトリス・ダルのことを友人と語ったりしていた。なんとも青臭い日々のことだ。そこから、カラックスの作品で異次元の衝撃を受け、ゴダールなどを知っていくうちに「あれ、ベネックスのベティ・ブルーって、あまり好きって言わない方がいいのかな」と思うようになったのだった。
そういうことって、多々ある。
だけど、時間が経ち、逆にいろいろなことを考えると、あの頃出会ったものを「好き」と思った自分に会いたくなってきた。
そこで探してみると、すべて「まだ」ある。
映画のDVD。パンフレット。サントラのCD。
そして、原作の小説。
その中で一番なじみが薄いのが小説だ。
映画は何度も観たし、サントラも聴いた。
ただ原作はちゃんと読んだ記憶がない。
いや、もちろん、読んではいるのだろう。
だけど、恐らくは一度だけで、ほとんど覚えていない。
今回、約30年振りに読んでみると、かつて考えていたことをいろいろ思い出す。
と同時に、かつてわかっていなかったことにいろいろと気づく。
どうしても、映画の印象が強く、読んでいると映画の場面が浮かんでくる。
「ぼく」はどうしてもジャン=ユーグ・アングラ―ドだし、ベティは絶対にベアトリス・ダルだ。
だけど、読み進めていくうちに、文体にハマっていく。
訳者のあとがきに書いてあるように、フィリップ・ディジャンはケルアックの影響を受けていて、さらにセリーヌを敬愛していたようだ。実際にラストのところでもケルアックの言葉が出てくる。
あっ、あとブローディガンも。
物語が始まる前の引用もブローディガンだ。
これが、いい。
そのため私は物思いにふけったが、
あまり長いあいだではなかった、
すぐにバビロン行の船に乗ったからだ。
青臭い日々とさっき書いたが、それはぼくや当時ハマったみんなだけではなく、ディジャンもそうだったのではないか。「ぼく」の物語としての『ベティ・ブルー』はディジャンの物語だったのだと思う。映画のイメージが強いので、恋愛ものとして有名になってしまい、サブタイトルも「愛と激情の日々」となっている。で、実際にそうした話であるのは間違いないのだが、文体が「ぼく」語りで進んでいくためか、単なる恋愛ものだけではなく、もうちょっと俯瞰していろいろなことを見ていることがわかる。そうした箇所をいま読むと、この本を書かずにはいられなかったディジャンの思いを感じて、感動する。そして、それがわからなかった、あの頃の自分になにか伝えたくなってくる。
人々が街に出ている時刻で、仕事が終わって帰宅するのだ。そのときくだらないネオンがまたたきはじめ、目をしばたき肩を丸めて光の滝のなかを渡らねばならなかった。ぼくはそれらを心から憎んでいたが、隣にいるベティの存在が全体を奇妙に我慢できるものにしてくれ、そうしたくだらないものにうんざりすることもなかった。それでも大多数の人たちはぞっとするような顔をしており、事情が変わっていないことがわかった。
この本に、この映画に、またふれることがあるのだろうか。
もしかしたら、また10年、20年後にそんな時があるのかもしれない。
原題もいい。
『朝、37度2分』。